三村五郎兵衛の弔い合戦・悪い話?

2009年06月11日 00:03

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/10(水) 12:59:17 ID:BjrBxrYA
宇喜多直家による三村家親の暗殺。この、日本で初めての銃による暗殺事件の、その後の
話である。

家親の葬儀もすんだ後、三村家の重臣達が集まり、今後の方針を協議した。
この時。三村五郎兵衛が進み出て、弔い合戦を主張した。

「宇喜多の為に先君の命を奪われた事!その無念、憤り、骨髄を貫くほどです。
当家の恥辱である事は、言うに及ばず!一日も早く軍を出し、先君の敵宇喜多を討って、
その頸を手向けになさるべきです!」

これに、故家親の弟、三村親成は

「確かに五郎兵衛の言う事は一理ある。が、今怒りに任せて戦えば、味方も多く損じ、
戦の勝利もおぼつかないであろう。再び負けては、もはや我らに後は無い。
しばらく時を待ち、家親様のご子息である元親、実親の両君を我らで守り育て、成長の上
これを大将として一戦を遂げることこそ忠義である。」

集まった一族郎党の多くは、この親成の意見に同意し、その方針を採ることに決定した。

が、五郎兵衛は同意できなかった。

「皆様が親成殿の、遠い思慮に同意し、家中皆生き延びて若君を守り立て忠義を成せば、
この先、危ういことは無いでしょう。

しかし、この五郎兵衛は愚昧であります。命永らえても、主君を助けるような才を身に着けては
おりません。ですから、

私は、一人でも敵に向かい、弔い合戦をし、討ち死にをして君恩に命を奉ります。
それより他に、やりようがないのです。」

そう言って座を立った。すると一族、若党のうち50人あまりが続々と立ち上がり、
五郎兵衛に続いた。さらに家親に厚恩を受けた士数人もそれに合流し、都合70人あまり、
彼らは禅寺に集まり、それぞれ自分の法名を過去帳に記し、焼香して出陣をした。
皆、一途に討ち死にを決めていた。

永禄九年四月、この事、宇喜多直家の耳にも入る。三村より、100にも満たない弔い合戦の勢が、
二手に分かれて、一手は五郎兵衛が大将となり釣の渡りより南へ、もう一手は
矢津越より直家の本拠沼城に、それぞれ向かってくるとの事。
直家は弟忠家、戸川、岡、長船、小原らに、3000余りの兵を与えこれに備えた。

三村五郎兵衛勢、宇喜多の備えを見ると先ず、弓鉄砲を放射、そして一斉に突撃した。

死を決めた兵たちである、その勢いは凄まじく、一段の長岡の構えはたちまち崩され、
二段目の、岡の構えも今にも崩れるかに見えた。ここに宇喜多忠家の勢が横から槍をいれ突き崩すが、
三村勢は一歩も引かず、そのまま乱戦となり、大将、五郎兵衛が宇喜多の多くの兵たちを道連れに
討ち死にすると、ようやくその勢いを止めた。

もう一方の矢津越の部隊も、備えの戸川勢を打ち破るなど奮戦したが、やはり数に押され、全滅。

三村勢70余人、ことごとく討ち死にして果てた。

一方宇喜多勢は47人が討ち死に、負傷者は百人を越えたと言う。

しかし五郎兵衛をはじめとしたこの七十余人は、命を君恩に報じた者たちであると、
後々まで称えられた、とのことである。


悪い話とも言い切れないが、だからと言っていい話でも無いので、こっちに投稿して見る。





184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/10(水) 13:30:06 ID:ZP/HW8Ke
>>183
その後の三村家の顛末を見るとここで五郎兵衛にのっかった方が良かったような・・・。

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/10(水) 23:15:18 ID:vmIhYouE
>184這いつくばって家を残すのも、
意地を通して(死してなお)名を残すのも
武士の考え方としては一理あんだよね。

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/10(水) 23:19:42 ID:UEY6vqEh
一方、宇喜多さんちの忠家さんは兄にいつか殺されるのではと不安のあまり普段から鎧を着て歩いていた

194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/10(水) 23:54:04 ID:SARvkVb4
>>193
鎧じゃない。鎖帷子。

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/11(木) 00:16:22 ID:RlhovSPt
>>193
前門の暗殺、後門の毒殺ですね


スポンサーサイト