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津村正恭の譚海より、戦国時代の連歌

2023年03月20日 19:49

723 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/03/19(日) 18:40:00.58 ID:3oOcadZo
津村正恭譚海に戦国時代に連歌が流行っていた話が二つ載ってたので

その1 松永弾正

松永弾正がある人のところで連歌をしていた。「薄にまじる蘆のひとむら」という句に上手くつけられずに悩んでいると、松永の宿舎から使いが来てこっそり何事かささやくが、弾正は相変わらず上手い句をつけようと悩んでいる。そんなことが二度三度あって、やっと「古池の浅きかたより野となりて」とつけると、すぐに「火急の用ができましたので失礼します」と帰ろうとする。隣の人が「何事ですか」と聞くと、松永答えて、「先ほどより宿所のほうに野武士が蜂起して押し寄せて来たとのことで、急ぎ参って追い散らしてきます」

724 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/03/19(日) 18:42:16.04 ID:3oOcadZo
その2 政宗と小十郎と紹巴

里村紹巴が松島見物に仙台に旅した時のこと。政宗卿が城内で片倉小十郎と四方山話をしている時に、「この頃紹巴が京都より下ってきて連歌を盛んにしているそうだ。一つ、紹巴を読んで俺もやってみよう」と仰って紹巴を呼んだ。すぐに紹巴はやってきて連歌が始まった。ホトトギスが鳴いていたので、政宗卿が「鳴け聞こう身が領分のホトトギス」と発句されると、小十郎横で胡坐をかいたまま、脇を付けましょうと言うと「鳴かずば黙って行けホトトギス」とつけた。紹巴おかしく思ったのか、「どうなりと御意に従えホトトギス」と第三句をつけた。

そこまで悪い話じゃないですが。

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/19(日) 19:36:12.35 ID:Ur/zFVEA
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13262.html
「古池の浅き方より野となりて」

こっちだと安宅冬康の短歌

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6643.html
「鳴け聞こうわが領分のほととぎす」

こっちだと藤堂高虎となっているが、普通は加藤清正として知られる



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信長公、松永久秀を励まされし事

2022年03月22日 16:51

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/22(火) 12:38:23.11 ID:713ehzU1
翁草」巻二十九から「信長公、松永久秀を励まされし事」

松永弾正久秀は三好長慶に仕えて右筆たり、経上りて長臣となる。
信長、久秀と善し。ある時信長久秀に対して
信長「御辺は智勇の士なり。恨まらくば一つの疵あり」と。
久秀そのところを問う。信長いわず。
久秀しきりに問う。さらば無人所にていわんとて、潜なるところに呼びよせて
信長「御辺、大身になる道にくらし」となり。
ここより久秀異心を生じてついに三好家を滅せしという。



410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/22(火) 13:10:30.51 ID:szCojPnS
この頃にはもう奸臣松永久秀像が出来上がっていたと

運命の不足は何を貪って取りなさる

2021年10月04日 16:57

82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/04(月) 01:23:04.87 ID:LjREf0ve
(前略。東大寺大仏殿の戦いで松永久秀が東大寺に火を放つ)

三好家の兵威ここにおいて挫け、松永もまた孤軍となって天下の人望に違えた。

君臣の道を失って己が利をほしいままにする時は、天命に逆らって久しからず
して滅びる。道によって身を滅ぼす者は佳名を後世に伝える。利によって身を
滅ぼす者は汚名を後世に流す。

人生50年といえども明日の滅びを知らず。名は永久にして天地とともに存在
する。どうして人がこれを思わないだろうか、時の人は後世に言い伝えて曰く、
「永禄の十の十月十日の夜奈良の大仏焼ける。亥の時」という。

松永弾正(久秀)は西京の城(多聞山城)を築き四壁を惣楼にして狭間を明け、
門戸もその楼の下を通したので人力をもって攻め入るのは難しい様子になした。
溝は深く塁は高く、険要の構え城である。

兵糧は3年分あり、長き謀には稲穂を積み干飯を庫に入れ、芋莖、干菜、焼塩、
塩噌、干魚、荒布、和布、海藻、薬種など、薪は土居に築いて炭は地中に埋め、
秣、糠、藁、馬食を足らせ、木実を集めて油を調え、鉄、銅、鉛は踏石として、
掻楯、輪木、車菱、車松明、雨松明、石火砲石、飛礫石、水用の積まで細密に
詮議して欠けることのないようにした。

そして一行の札を立て曰く「この城において不足の物あらば添札をもって申し
出すように」。

ある時、添札が立ててありこれを見ると「財物で足りないものは民を貪りこれ
を取る故に不足なし。しかし、運命の不足は何を貪って取りなさるのだろうか。
これが1つの不足であろう。惣百姓中」と立てていたという。

――『南海通記



松永久秀滅亡の時

2021年10月02日 16:00

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/02(土) 11:49:32.35 ID:0dQIK6u5
松永久秀滅亡の時)

松永は偽兵を知らずに門を開きこれを城に入れ、後より信忠大いに進みこれを攻める。
偽兵は内より応じて鬨をあげこれに応じ、城中の兵は大いに騒動して死亡する者多し。

松永も殿守に入って相待つ。信忠より人遣わし曰く「松永降参すべし。罪を許さん」。
松永曰く、「骨になっても信長には従わぬ」として降らず。ここに平蜘蛛という釜は
天下の名物である。ことごとく打ち砕いて箱に入れ、糠詰めにして封をなし、信忠の
陣に送った。

松永曰く「これは我の所持する平蜘蛛という釜だ。日頃信長の望みあるままに送ろう
と思っていたが、先延ばししていた。これは天下の名物である。今ここで失われるの
は惜しい。よってこれを贈る」と言った。

その箱の封を切る時にあたって城中より声をそろえて一斉に鬨をあげ、城外より鉄砲
を撃って攻め寄せた。

松永久秀の女子はその年20歳。打掛して久秀の前に来て曰く「事の急ならざる内に
我が身の暇を賜りください。先立って父を待ちます」と言った。久秀の曰く「まこと
に事の忙しさに汝のことを忘れていた。20歳も70歳も同じことだ。人は必ず一度
は死ぬ。汝は先立つべし。跡の仕舞いをして今我も行くなり」と言って、それそれ某
太刀取りせよと居所に入らせた。

この女子は太刀取りに言って曰く「女の死骸は醜くからんと思い、その支度をした」
と紅の下袴を着て上に打掛をし「首はこの内に落とすべし」と言って打掛を前に敷き
太刀を受けた。

その打ち落とした後に自ら打掛の端を被ったという。(其打落シタル跡ニ自ラ打チカ
ケノ端ヲ被リヌト云リ)哀れなる世の中なり。

久秀はこれより事終わって猿楽の囃子を始めた。諷は野宮である。「きりに成り火宅
の門をや出ぬらん。火宅の門」と言い終わると等しく、天守に火を放って屍も見えず
焼失した。

まことに討つ者も討たれる者も一時である。天正5年には松永滅亡す。天正10年に
は信長害に遇い給う。ただ5年の先後なり。

――『南海通記



しかし松永の運が強かったのか

2021年08月31日 16:33

2 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/31(火) 01:23:01.55 ID:ik3gw1m9
細川記に曰く、永禄元年六月九日、松永弾正久秀は五千の軍勢にて将軍地蔵山に陣取り、
近江の六角義賢の勢に向かって合戦を始めた。互いに新手を入れ替え、終日戦し暮にかかった頃、
近江勢は討ち負け、五十三人が討ち死にした。

松永は勝ちに乗じて撤退する六角勢を追いかけ、「松永弾正久秀なり!」と名乗った所、
近江衆に竹林坊という、名を得た弓の上手が有り、松永を狙って丁と射た。

しかし松永の運が強かったのか、竹林坊が射た時、胸板に弦が擦れたために狙いが外れ、
その矢は松永が乗っている馬に当たった。馬はそのまま倒れたが、松永はとっさに弓手に
飛び降りて危うき命を助かったという。

武芸小伝

久秀の強運なのか、弓の名手も失敗したというお話



3 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/31(火) 16:43:33.83 ID:zZ4WraQL
松竹ウマでめでたい

支配に弾正が威を振るったので

2021年06月13日 16:27

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/13(日) 12:58:26.15 ID:eUZaO4BL
天文19年、万松院(足利義晴)御逝去の時、光厳院公(足利義輝)御年5才ま
で守り立て、公方14代相続奉るように三好殿へ仰せあり。

三好細川修理大夫の家人で和泉境の牢人・松永弾正は平跡良くして、阿波の三好
家へ奉公に出て、後に和州南都東大寺の北の山城、多門造城を持つ。

三好修理殿は以後左京殿(三好義継か)の御乳母を松永の嫁とし、内縁故に都の
支配に弾正が威を振るったので、長臣衆と不和になる。

――『三河東泉記



806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/13(日) 13:06:16.29 ID:Sgq1CfgC
15歳じゃないのか
14代については義稙を2回数えるとして

松永弾正は、世智に悪しき、賢き者

2021年04月28日 18:52

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/28(水) 16:44:31.88 ID:zJjq0Haf
松永弾正(久秀)は、世智に悪しき、賢き者であった。
彼は鍛冶屋、紺屋を見て、「三年の間、この両職を勤めるという気持ちで奉公すれば、
立身致すだろう。」と言ったという。
夏に鍛冶屋を仕って暑さを堪忍し、冬は又、紺屋での水使いを堪忍する、という事である。

また串柿の竹を三尺に極める法を定め、「一間の半分の所の塀の小舞(屋根や壁の下地で、
竹や貫を縦・横に組んだもの)に使うのに良い」、と申したのだという。

烈公間話



その名を惜しむ勇士は

2021年03月03日 18:50

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/02(火) 20:16:03.65 ID:+rSW6QQp
ある老人が、「年老いて身の養もいらぬもの也」と言っているのを、ある人が諌めて

「一夜の宿であっても、雨露が漏るのは良からぬものである。
昔、松永久秀が信長公に戦負けて自害に及ばんとした時に、百会(ひゃくえ・頭頂部にあるツボ)に
灸をして言った

「これを見る人は、何のための養生だろうかと、たいへんおかしく思うだろうが、私は常に
中風を憂いている。死に臨む時、もし突然中風が発して、五体心に任せなくなれば、
人から『臆したのだ』と笑われてしまうだろう。そうなれば私の今までの武勇も、尽く徒のものと
なってしまう。
百会は中風の神灸であるから、当分その病を防いで、快く自害すべきためである。」

と、灸をすませて切腹したという。
その名を惜しむ勇士は、このようにあるべきなのだ。」

と言った

備前老人物語



いわんや、人間も日用の養により

2021年03月01日 19:06

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/01(月) 16:55:48.22 ID:pSmDjqkp
松永弾正(久秀)が鈴虫を飼うのに、様々に工夫して養うと、三年まで生きた。
これを見て「いわんや、人間も日用の養により、長命すること疑いない。」
と言われた。

備前老人物語



さらに心の許されぬ男である

2021年02月28日 17:04

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/28(日) 14:44:02.56 ID:uwKv/9gu
ある人の言ったことによると、信長公が明智に滅ぼされたのも、尤もな事であった。
その故は、この殿は心猛くして、智浅くあられた故に、後難を顧みず、人の悪行をてきめんに
宣われたこと度々であった。

ある時、家康公が信長にまみえられた時、松永弾正(久秀)がその座に有った。
家康公は松永に対し、礼譲を厚くされていたのを、信長は見られて

「いやいや、あの弾正は左様にあしらわれる者ではない。元来弾正はわずかなる小身の身であったのを、
三好が取り立て大身に成した。しかるに聊かの恨みを含み、旧恩を忘却して、たちまち謀反反逆を企て、
三好を滅ぼした。そうして天道に背きし故に、戦に利を失い、流浪の身と成って、今、我を頼んで
ここに来ている。されど、さらに心の許されぬ男である。」

そう、苦々しく宣われたため、松永は面目を失い顔を赤らめてそこに在った。
その恨みを思ったのか、公方(足利)義昭に御謀反を勧め、信長に敵対したが、微運によって
望みを遂げずして滅んだ。
明智も信長公に遺恨が有ったのだという。

これに聞きどころ有り、心を付くべきものなりと言う人がある。ただ人は、恨みを受けぬように
ありたきものであると言った。

備前老人物語



日本の諸宗教の中で最も傲慢、自尊にして放恣なのは

2020年10月30日 16:39

433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/30(金) 00:12:55.21 ID:S2VucTA+
私は、我等が主デウスが現世に於いても、その裁判によって悪人に悪事の報いを與え給う大いなる摂理を
賛美すべき他の一事を尊師に告ぐべし。

日本の諸宗教の中で最も傲慢、自尊にして放恣なのは、釈迦を尊信する法華宗と称するもので、その坊主は
福音の教え(キリスト教)の最大の敵にして、排斥者である。
その寺院の中に、ロチオ(六条本圀寺)と称し、甚だ富み、恐るべき罪を犯す者達が有る。

この寺院は尊師も既にご存知のように、弾正殿(松永久秀)が公方様(足利義輝)を殺した時、これに
千五百クルサドを贈り、ガスパル・ビレラ、及び私を殺すよう命ずることを請うたという多くの証拠がある。
しかし我等の所持していた免許状により、この事は不可能だったので、せめて我等を都より追放し、会堂を
奪うことを求め、これを実行した。我等が都を出る時、同寺の坊主は悉く来て、我等の追放を喜び、おおいに嘲笑した。
その後、寺院の側に、ギナイ(寺内)を造った。即ち美麗なる別荘にして、自由にその悪事を行い、
またこの世の富を増加する為である。

我等の主デウスがキリシタンの敵であることにより、ソータイ(霜台:弾正の唐名、松永久秀)に與え給いし
第一の罰は、約二年半、彼を敵の攻囲中に置いたことであり、第二は公方様(足利義昭)の赦免を得、
尾張の王(信長)の寵を受ける為に、一万クルザド余の最も良き品物を贈ったことである。
第三は、その世俗の権力を、十の内八を失い、今彼を重んずる者は居なくなるに至った事である。

ロチオの寺院の坊主たちは、尾張の王がこの公方様(義昭)を、その兄弟の位に復せん事を知り、遥か以前より
越前及び尾張の国に至り、公方様、及び上総殿より特許状(禁制)を得、軍隊が都に入る時、その寺院は何ら
害を被らず、またこれを宿舎としないよう計った。このために一万クルザドを消費した。
彼等は大いに安堵して喜び、その寺院に帰ったが、公方様(義輝)と共に、その母を殺した時、彼女の家が
甚だ佳い為、坊主たちは弾正殿の寵により、これを破壊して持ち出した事を聞いたと見え、
公方様(義昭)は都に入った時、その報いとして、部下を同寺に宿泊せしめた。
彼等はこのような大いなる圧迫を加えられないよう願ったが、彼(義昭)はこれを嘲笑した。

カンニシュ(三人衆)等が、公方様の滞在した寺院を囲もうとした時、第一に行ったのは、彼等の造った
新しいギナイを焼き、一軒も残さなかった事である。然れども、未だ坊主には、このような不幸によって
気づくものが無かった故に、彼等の艱難と不安はこれによって終わると考えていたが、その後、信長は
(二条城の)石材工事は既に終わったが、もし公方様の宮殿を新たに建設する時は、非常に遅延し、
公方様がまた、速やかに城に入ることが出来ないと思い、何ら躊躇すること無く、同寺の美麗なる座敷、
その他の部屋を破壊し、悉く屏風(画いた布の折り畳むもの)及び、甚だ良き絵画を出させ、直ぐにこれを
公方様の城を飾る為に用いた。

坊主等一同は弾正殿の元に赴いて、彼等のために信長に取りなすことを請うたが、王の一度定めたことを
変更する事は出来ない故に、これを為すことは能わざると答えた。
市の法華宗徒約千五百人が会合し、「殿下の望みに任せ、金銀如何程にても出し、日本全国に有名たる
かの寺院に対し、このような屈辱を加えることを中止するよう信長に請願してほしい」として、
内裏、及び公方様の元に赴いたが、何等の功無くして、悉く破壊され、坊主たちは涕泣した。

先に伝えたキリシタンは、公方様の家臣である故に、上記の座敷の甚だ良い道具を、我等も滞在する
当家に持ち来た。
傲慢なる悪魔の堂は、このような不幸に遭遇したが、我等の主がその霊魂に幸福を与え給わん事を。
(一五六九年六月一日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰)



弾正殿と称する暴君(残酷なるはネロ第二世)

2020年10月15日 18:22

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/15(木) 18:14:31.78 ID:aTZAbvYw
弾正殿(松永久秀)と称する暴君(残酷なるはネロ第二世)は、不法にも日本全国の君なる公方様(足利義輝)を
その母、妻子、兄弟、親戚その他と共に殺した後、その残酷なる心はこれに満足せず、都に於いて多数の家屋を
破壊し、殺される者、追放される者を出した。

彼は上に立つ者無く、又悪魔に従っているが故に、このように残忍の行為を為し、また悪行を完備するために
都に在って我等が主デウスの教えを説くパードレ等を重刑に処すべき者と認め、或いは殺し、又は他の刑罰に
処し、都より公に追放し、デウスの教えが日本全国に於いて憎悪され、知らない者であってもこれを嫌忌するに
至らしめると云い、実行したことは、尊師もこの事を詳報したパードレ・ルイス・フロイスの書簡によって
見られているでしょう。

翌日、彼が都を出た後、都中に公布して、『テンジクジン(天竺人)』即ち我々が都に於いてデウスの教えを
説いた事によって追放し、会堂は没収した。また我等は永久に追放すべき者であり、何人も決し庇護すべからず
と告げ、また堺に於いても我等を追放することを命じた。これに関連して様々なことが起こったが、
長くなり書簡に認めることが出来ない、
尊師が当地方からの通信によって、喜ぶこと無く、不満と悲哀を感じて一層の功徳を積まれんため、
我等の主デウスがこのような事態を許し給わっているのだと思われる。神の御慈悲は賛美すべきかな。

私はヨブが「神より福祉を受けるならば、災禍をも又受けざるを得んや」(旧約聖書ヨブ記第二章十節)
と云えるのを思い起こした。何事も主が命じ給い、又は許し給う事なのだから、一切御手に任せ、
探知すべきではない主の秘密を批判すべきに非ず。

『 一五六五年八月二日附、パードレ・ガスパル・ビレラ書翰』

都よりのキリシタン追放について。基本的には久秀と息子久通を混同して認識している感じですかね



415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/15(木) 18:58:39.37 ID:bhxO4EPI
親子で方針食い違いしてるとか中々外からじゃ気づきにくそうだよね
久秀研究は進んでるけど久秀とちょくちょく意見を異にしてるっぽい久通も今後どんどん研究進むんかねー

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/15(木) 19:11:44.77 ID:AfKFZNgh
松永のキリシタン政策は内裏の意向だったはずだし、所領が奈良で寺社勢力との関係からキリシタンにいい顔しなくなったのは仕方のないこと
全ては弟が討死した事が大きい

弾正殿は我等が有する最良の友にして

2020年10月12日 17:25

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/12(月) 15:19:10.79 ID:pymLXmiy
(正月の将軍・足利義輝への)訪問を終えて、翌日パードレ・ガスパル・ピレラは、公方様に次ぐ
第二の人である三好殿(長慶)を訪問するため、都から八レグワの距離にある、飯盛と称する城に向けて
出発した。同所には三好殿の家来にして、キリシタンである武士、及び兵士約二百人が在る。
パードレはまた、彼らの懺悔を聴く必要があった。
彼らは、当地に在るキリシタンの中で最も立派な者達で、皆熱心にデウスの事を聴きこれを悟ることを
希望していた。

イルマン・ルイス・ダルメイダは堺から同所に来てパードレに会し、両人共に三好殿を訪問した。
同所に於いて起こったこと、并びに彼の地のキリシタンの大身達の善行は、イルマンがこれを詳報する
だろう。

パードレは彼らの懺悔を聴いた後、奈良と称する弾正殿(松永久秀)の居城に赴き、これを訪問するため
出発した。弾正殿は我等が有する最良の友にして、また当諸国中最も勢力の在る領主である。
彼の家臣である武士の中にもキリシタンがあり、その中に昨年通知した二人があり、その僕、および
家族とともにパードレに懺悔をなすのだ。

パードレは同所より更に他の地を見舞う予定で、四旬節の中頃には、当地に来て都のキリシタンたちの
懺悔を聴き、聖餐を授けるだろう。

『一五六五年三月六日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰』(日本耶蘇会通信

宣教師の三好長慶訪問について。後にキリシタンの敵として強く非難する松永久秀も、この頃は
「最良の友」だったのですね。



松永久秀の信貴山城について

2020年09月29日 18:30

596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/29(火) 17:32:16.41 ID:nz7SxZNj
少し長きに失するが、弾正殿(松永久秀)の領せるこの町(信貴山城)に於いて私が見た所について語る。
貴兄ら最も愛する兄弟が日本の教化のためデウスに祈るべき材料を得るためである。

前に述べたように、この領主は財力及び所領多く、多数の人が服従しているのを見て、国風により
この町に築城するに決し、一つの山を選定し、石が甚だ柔らかいためこれを切って数個の塔を作り、
その中央にゴア市の範囲の三分の一に等しい野を残した。

ここに多数の井戸を掘ったが、三ブラザにして水が多く出た。彼は最も信任している家臣と、
最も富んでいる大身たちを招き、囲いの中に敷地を分与し、家を造らしめた。着手以来五ヶ年となるが、
皆競って他よりも良く、高価な家を造った。

家は数階にして、我が国風の良き窓格子があった。またこれらの家は堀、及び塔と共に、今日まで
キリスト教国においても見たことがない、甚だ白く光沢の有る壁を塗っていた。壁がこのように白いのは
石灰に砂を混ぜず、甚だ白い特製の紙を混ぜる故である。

家及び塔は、私が見た中で最も良い瓦で、様々な形があった。また指二本分の厚さで、真っ黒なものを以て
覆っていた。このような瓦は、一度葺けば四、五百年も更新する必要はない。私は六、七百年を経た寺院の
多数に於いてこれを見た。

この地に入りて街路を歩行すれば、その清潔にして白きこと、あたかも今日完成したばかりの物のようであり、
天国に入ったような感がある。外からこの城を見れば、甚だ心地よく、世界の大部分にこのような美麗なる
物があるとは思われない。

入ってその宮殿を見るに、人の造ったものとは思えず、これについて記述するには紙二帖が必要である。
宮殿は尽く杉で造り。その匂いは中に入る人を喜ばせ、また幅一ブラサの縁はみな一枚板である。
壁は尽く昔の歴史について描かれ、絵を除いた地は尽く金である。

柱は上下一パルモを真鍮にて巻き、また尽く金を塗り、彫刻を施して金のように見える。
柱の中央には甚だ美麗なる大薔薇があり、部屋の内面は一枚板のごとく見え、甚だ接近しても、継ぎ目を
認めることは出来なかった。また他に多くの技巧を用いていたが、私にはそれらを説明することが
出来ない。

この宮殿の多くの建物の中に、他に比べても更に精巧なる室が有った。
奥行きおよび幅四ブラサ半にして、黄色の木材を用いていた。甚だ美麗にして心地よき波紋(木目)が有った。
この木材は加工甚だ良く、鏡のようであった。然れどもこれは木材の光沢ではなく、一種の漆であると思われる。
庭園及び宮庭の樹木は、甚だ美麗であると言うより他ない。

私は都において美麗なるものを多く見たが、その殆どはこれと比べるべくもない。世界中でも、この城のように
善、かつ美なるものは非ざるなりと考える。故に日本全国よりただこれを見るために来る者が多い。

『一五六五年十月二十五日附、イルマン・ルイス・ダルメイダ書翰』

松永久秀の信貴山城についての記録



597 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/29(火) 17:54:51.25 ID:90ZDbwIW
>>596
多聞山城の方だね

600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/29(火) 19:53:59.12 ID:nz7SxZNj
>>597
原文を確認しましたが、やはり信貴山城のこととして書かれていますね。

603 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/30(水) 01:00:43.05 ID:yM8mzulb
>>600
横からだが、
耶蘇会士日本通信』の註だと信貴山城のこととしてるけど、
時期的には久秀の本拠は多聞山城っぽいんだよなぁ
また、信貴山城は山城で結構な山の中
「町」とか「中央にゴア市の範囲の三分の一に等しい野」ってのは想定しづらいってのもある
一方、多聞山城は東大寺から北に1キロほどの現奈良市街の平山城だったりする

松永久秀に詳しい人に解説お願いしたい

604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/30(水) 05:16:42.93 ID:1Ol7i0vl
>>603
多聞がハレの城
信貴がケの城

観光誘致するなら多聞だよね
奈良を望む政治の城

松永星

2020年07月06日 16:21

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/05(日) 21:53:20.38 ID:IfAny+F9
天正五年、松永久秀が亡んだ後、彼の居城であった多聞山城の家屋を毀ち、信長はその建物を
京都二条に造作し、親王(誠仁親王)に奉った。

この秋、客星(彗星)が未申(西南)に表れた。時の人々はこれを「松永星」と呼んだ。

当代記



万事、汝が計るべし

2020年06月22日 17:00

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/21(日) 19:24:35.03 ID:+C2Ng3sl
その時分より三好一家衆は身構えして、三好殿居城の河内飯盛城は殊の外騒ぐ。その由を伺って
河内国の故主・畠山高政はその頃浪人していたのだが、譜代の士の紀伊国湯川(直光)という者、
根来衆の土橋などという者が兵を催し、飯盛城へ押し寄せ向かう城を攻め取った。

三好物外軒実休はこれを聞き、飯盛の後詰として阿波国の軍勢、斎藤、福良などを引き連れ、馳
せ向かって合戦を始めたところ、根来衆の中に屈強の鉄砲の名人がおり、三好実休を狙って撃ち
落とした。これにより阿波衆は皆敗北する。

松永弾正は修理太輔(三好長慶)に申し「物外軒豊前守殿が御討死なされた上は、謀を巡らせて
士卒に力を付け申すべきです」との由を申す。三好は聞いて「万事、汝が計るべし」となかなか
出張する様子が無いため、松永は「この分では三好殿は出られまい」と、松永が城を出て方々の
一揆などを招き寄せ後詰の合戦を始めた。

松永は武勇第一の剛者で高政を攻め破り、追い討ちして良き者を討ち取った。高政は堺へ引き揚
げ、湯川は河内の誉田を落とした。これを松永衆は追い詰めて討ち取り、根来衆の大将・岩本坊
は大和信貴城のもとで討たれた。畠山は6千余騎を討たれ、三好は運を開きける。

――『松平記



300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/22(月) 02:49:50.34 ID:c5KoNoYa
筒井には散々な目に遭ってるのに、ここでは強いな
長慶生存中だから?

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/22(月) 12:25:43.36 ID:ZI+dnZf4
松永弾正の弟が生きてる間は強かった

天正五年十月、和州信貴山城攻め顛末

2020年04月16日 17:15

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/16(木) 00:12:26.93 ID:FJJW3kJb
天正五年十月、和州信貴山城攻めがあった。
この城主である松永弾正少弼久秀は、大阪の附城を守っていたのだが、信長公に恨みを含み、本願寺門跡、
雑賀の兵を語らい、大阪を退き信貴山城に立て籠もった。それにはこのような理由があった。

家康公御登城の時、久秀も参会したのだが、信長公が家康公に向かってこのように言った

「この翁は松永久秀である。彼については天下に及び難い事が多い。彼は公方足利義輝を弑し奉り、
主君三好義長(義興)を毒殺し、三好一家(三人衆)と戦い東大寺を焼いて大仏を滅ぼした。
また三好長慶次男義継(実際には養子)を欺いて永禄八年より同十一年まで天下を守り大いに奢り、
終に義継を離れこれを殺した。」

久秀は赤面し、額に汗し、頭より烟を立て、その憤りを以て謀反を企んだ。これによって十月、
城介(織田)信忠は大軍を率い和州に御発進され、佐久間信盛、明智光秀、筒井順慶らも大阪の
対城を出て河州より向かい、その通り道であり、久秀の従党である片岡城を攻め落とし、城主・森、海老名を
討ち捕らえ、十月五日に信忠と合流し信貴山城の久秀久通父子を攻めた。

しかし松永父子は激しく防戦し、味方が不利と成った時、佐久間信盛筒井順慶と相談し、雑賀の兵であると
謀って、信盛の兵を交えて城中に入れたいと告げた。そして雑賀の兵に扮した信盛の兵が、順慶の兵と
追いつ返しつつ挑み戦った所に、久秀は予てより雑賀の者と謀り合っていたので、城門を開いて彼らを
引き入れた。

十月十日、信盛、順慶は、先に入れた兵の手引きにより城に入ると火を放った。久秀は天守に上り、
「たとえ骨と成っても信長の最後を見届けようぞ!(タトヘ骨トナリテモ信長ヲ見ハテン物ヲ)」と
言って自殺した。右衛門佐久通は生け捕りと成って斬られた。久秀の悪逆積り、東大寺を焼き
大仏を滅ぼしたのも十月十日であり、その日に滅亡した事も、世に不思議を成すと云われた。

佐久間軍記



980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/16(木) 11:49:48.22 ID:O4ZY5yYd
義継を攻め滅ぼしたのは誰だったからしらw

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/16(木) 21:34:47.03 ID:SRx78Wxe
ノブさんの脳内ではそうなってるのかもしれん…

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/16(木) 22:01:43.47 ID:nEUH2pgM
ダンジョー多過ぎ問題

983 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/04/18(土) 17:35:20.90 ID:25IT3XhX
佐久間軍記だから当然かも知れんけど、信盛さんの活躍が記されてるね

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/18(土) 23:30:44.65 ID:tlLr7j1U
石田軍記には三成の活躍が?

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/19(日) 15:49:05.80 ID:/eXYOJJ0
ある意味「活躍」は描いているな

【ニュース】 発見!松永弾正の肖像画

2020年03月05日 17:59

887 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/03/05(木) 16:43:30.49 ID:vZLgY6tp
発見!松永弾正の肖像画

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200304-00000627-san-cul


画像
20200304-00000627-san-000-2-view.jpg



888 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/05(木) 17:16:21.04 ID:Ws5BJgAn
>>887
すごいな、これ。平蜘蛛かつくもなすまで描いてあるとは…。本当に好きだったんだね。中身、爆薬じゃないよね。

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/05(木) 23:48:40.85 ID:zFSGFA/Q
>>887
頭が良さそうな雰囲気あるね

890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/06(金) 00:00:05.23 ID:gUAe5Rwe
なんで茶器の中身を描かないのか

891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/06(金) 00:18:40.15 ID:fRaitGr9
さすがに今から切腹しますって恰好でもそんな縁起でもない状況を描くわけもなく

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/06(金) 10:48:00.99 ID:0RBe7trE
袋の形状からなんとなく平蜘蛛ではなく九十九茄子の雰囲気

松永久秀が楠正虎に送った書状

2020年02月09日 21:30

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 12:00:46.21 ID:BWjBwiP7
松永久秀の取りなしで書家で有名な楠正虎が河内守に任じられた際、松永久秀が楠正虎に送った書状
「楠氏は正成以来十代に渡り朝敵となり無礼を働いていましたが、勅許により河内守に任じられたこと、喜ばしいですね、云々」

自称、楠正成の子孫だったのが正親町天皇の綸旨により正式に楠氏と認められたようだけど
戦前の人が見たら激怒しそうな内容

ところで三好氏関連の研究を読んでたら三好長慶の部下で摂津渡辺党の渡辺稙という人物が出てきたけど、
「稙」が偏諱だとしたら、一字名の嵯峨源氏の場合は偏諱がそのまま名前になるということだろうか



847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/10(月) 20:43:43.20 ID:cqjS9g5V
>>844
偏諱をもらえるような身分じゃなくね?世代も違うし
仮に偏諱なら肥前松浦党の弘定、興信、隆信、鎮信のように2文字にしてるんじゃないかな

850 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/02/12(水) 17:01:33.36 ID:ilfBcm73
>>844
>>847
波多親は元服したとき大友義鎮の偏諱を受け鎮と名乗っている
その後龍造寺に降り隆信の偏諱を受け信時と名乗った

1文字の名はある

その憤りによって謀叛を企て

2019年02月03日 21:24

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/03(日) 18:29:38.39 ID:Jzo4Auel
天正5年(1577)丁丑10月、和泉信貫山城を攻めた。松永弾正少弼久秀は大坂の付城を
守っていたが、信長公に恨みを含んで本願寺門跡の雑賀の兵と語らい、大坂を退いて信貫山城
に立て籠もった。

その故は、家康公が御登城の時に久秀は参会し奉ったのだが、信長公は家康公に向かって曰く、

「この翁は松永久秀である。この翁は、天下に及び難き事を多く行った。公方義輝を戮し奉り、
主君の三好義長(義興)を毒殺して三好一家と戦った。東大寺を焼いて大仏を滅し、三好長慶
の二男である左京大夫義継の間に入り、永禄8年(1565)から同11年まで天下を守って
大いに奢り、ついには義継を離れて殺害したのだ」

久秀は赤面して額に汗をかき、頭からは煙が立った(久秀赤面シ額ニ汗シ頭ヨリ烟ヲ立)。そ
の憤りによって謀叛を企てこの次第となった。

10月、城介信忠は大軍を引率して和泉を御進発され、佐久間信盛・明智光秀・筒井順慶など
は大坂の対城を出て河内より向かい、その途上で久秀の従党である片岡城を攻落し、城主の森
(正友)・海老名(友清)を討ち取った。

10月5日、信忠は信貫山城で会戦して久秀とその子の久通を攻めるが、父子は防戦して味方
に利せず。時に信盛は順慶と相談し、雑賀の兵を謀って信盛の兵を紛れさせ、城中に入ろうと
告げ、順慶の兵と追い掛けたり返したりして挑み戦った。

そのようなところで、久秀は予め雑賀の者と申し合わせていたので、城門を開いてこれを引き
入れ、信盛の兵も紛れて城中に入った。10月10日、その手引きで信盛と順慶は城へ入って
火を放った。

久秀は天守に登り「たとえ骨になろうとも信長の最期を見届けてやる!(タトヘ骨トナリテモ
信長ヲ見ハテン物ヲ)」と言って、自殺した。右衛門佐久通は生け捕りとなって切られた。

久秀の悪逆は積り、東大寺を焼いて大仏を滅したのも10月10日である。その日に至り滅亡
したことは「世にも不思議なことをなした」と言われたという。同年10月、播磨を羽柴秀吉
が賜った。

――『佐久間軍記』



720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/04(月) 08:29:26.29 ID:ab2WtWuB
だれが義継を殺したんだったか
と思ったら佐久間軍記か

721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/04(月) 16:32:09.53 ID:xX5vEmhQ
久秀に誘われて信長包囲網に加わったのに久秀だけ先に降伏したから久秀に殺されたともいえる