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三条大納言公治卿亭焼亡

2019年11月21日 17:12

596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/21(木) 05:31:48.34 ID:nixR1LJw
(文明十八年)三月十三日 晴
畠山右衛門佐義就に赦免が有った。東山殿(足利義政)並びに将軍御所(足利義尚)よりの御内書が
河内に下された。また(義就と対立している)畠山政長にも同日御内書が下され、右衛門佐と
和睦し、開陣するようにと仰せになられた。東山殿は色々と相談され、世上の無事のためにこれを
仰せ出になったのだという。ただし管領(畠山政長)はこれに同意せず、上意に応じなかったそうである。
これについて後日様々な噂が立った。畠山義就と政長の和睦については、左衛門督(政長)が上意に
従わなかったため、東山殿は様々にぞの所存を述べたが、細川九郎(政元)も同心せず
「今回のことは三条大納言公治卿および伊勢貞陸の申し沙汰であり、義就にとって有利な内容である、」
と、左金吾(政長)、細川九郎は触れ申しているとか。これも雑説であろうか。

二十日 晴
今日聞いたところによると、畠山右衛門佐(義就)が御免された事につて、世間の雑説では細川京兆家の
領国である丹波、摂津、四国より軍勢が上洛するという。また今回の和睦を主導した三条亞相(公治)、
伊勢兵庫頭(貞陸)の身上について様々に沙汰されている。この二人は細川方にて彼らの疑念するような
事は知らないと弁明しているという。

四月三日 晴
今夜半、三条大納言公治卿の屋敷が焼亡した。夜中に数百人が乱入し放火を行い、亭主の亞相(公治)は
逃げ出し、翌日近江坂本まで下向したという。一体誰がこのような事をしたのかは解らない。
畠山右衛門佐(義就)御免の事が沙汰された事で、義就の敵方がこのような所業に及んだのであろうか。
先月、右衛門佐は東山殿並びに将軍御所に、和睦の御礼として銭三万疋、腹巻一両をそれぞれ進上したと
沙汰されている。

(長興宿禰記)

応仁の乱後も争いを続けていた畠山義就畠山政長の和睦を画策したところ、これを主導した一人である
正親町三条公治の屋敷が焼き討ちにあったというお話。



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右衛門佐 頂くものが二つある

2017年07月17日 18:06

3 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/17(月) 10:20:06.97 ID:PQvx1qrF
朝敵として幕府の討伐を受けていた畠山右衛門佐義就であったが、寛正4年11月に赦免を受けると、寛正6年12月、山名宗全などの援助を受け、
ついに河内より上洛を果たす。一騎当千の士卒五千余期にて千本の地蔵院に着陣した。すると彼はそこから、直に山名宗全入道の許に行き、謝礼を述べた

「今度、私が出仕できたのは、御芳志によるものです。」

宗全も
「佐殿の上洛のこと、ただ一身の大慶なり」と賀し、通夜酒宴の興を催した。

翌朝、義就が宿舎とする地蔵院の門の扉に、何者かが落首をしていた

『右衛門佐 頂くものが二つある 山名の足と御所の盃』

(応仁記)

義就が、畠山家の家督としての復帰を認めるという意味での、御所(将軍)の盃を頂くために、山名宗全の足元にひれ伏した、という意味ですかね


管領家畠山氏の分裂

2009年06月27日 00:01

713 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/06/26(金) 18:05:49 ID:dnNfQY4u
畠山家は能登・越中・河内・紀伊の守護で、管領も務める室町幕府の大物。
よくある話で当主持国には子供がいないので、甥の政長を養子にして跡を継がせるつもりだった。
しかしその後側妾が男子を出産、持国気が変わった。

1448年にその男子、義就が家督を認められてからが騒動のはじまり。
応仁の乱の引き金をひき、諸大名がうんざりしても戦い続け、
山城国人に追い出され、
領国をほぼ全て失うまで、100年以上争ったのだった。

義就流は没落して義昭還俗のころを最後に歴史からこぼれおちる。
政長流は1574年に信長包囲網に参加した昭高が自刃して滅亡。




714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 18:16:06 ID:dMcfxStj
>>713
この「妾」がすごいのよ。畠山持国のほかに、小笠原長将や飛騨の有力国人
江間氏の「妾」にもなって、
それぞれで子を産んでいる。どうも当時の高級娼婦だったようだ。
小笠原家で産んだ子も、しっかり家督争いの元になっていますw

んで、畠山義就の幼少の時の呼び名は、「小者」
ひどい。




715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 18:49:53 ID:ylmha9Ft
まこと傾城の美女ですな。

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 18:51:41 ID:YzrtN8xY
>>714
(T^ω^)<・・・

718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 19:15:37 ID:Lo8bzXOe
>>714
奇妙丸よりインパクトあるわ「小物」

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 19:31:14 ID:yef37KXD
>>716
試合中だ、さっさと帰れw

出産能力があるからって後家が良いってのは神君だっけ?
しかしこの場合はそんなレベルでもないけどw

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 20:03:31 ID:CCsuFq4Y
>>714-715どっかの小少将さんに匹敵するアクージョ様だな。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2181.html

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 22:36:21 ID:ayQTUn1S
>>718
奇妙の弟には大洞、小洞、酌、人、縁とか居るけどな
信長パパはやっぱりおかしい

723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 22:57:18 ID:TrrFgPOI
お前は自分の子供に「人間」と名づけるのか?

724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 23:13:13 ID:yrdg0G1C
>>723
な、なるほど、デーモン小暮閣下理論で言うと信長公は…

725 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/06/26(金) 23:16:15 ID:tEtCezfn
幻の銀侍よかマシ

726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/26(金) 23:46:45 ID:uUR2pr5E
>>722
酌とつけられたのは母親がお鍋という名前だったから。

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 04:11:47 ID:7+DZAWec
天才丸もインパクトがある

729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 08:03:01 ID:LAoA2rbc
>>724
魔王と自称しているくらいだからなw

730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 09:04:06 ID:nDsM6bZX
山の中で生まれたのに幼名が「海賊」という
恥ずかしい人もいましたなそういえば

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 09:19:09 ID:mbZveu05
兵庫第三協栄丸さんかよw


732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 11:03:56 ID:7lq8JICA
>>720
細川真之1538年生
長宗我部右近大夫1575年以降生

真之生んだ時13,4歳だとするとぎりぎり有り得るのかな?

しかし長宗我部元親は1539年生で、おかんみたいな歳、しかも
50を超えてる熟女に挑んで孕ませるとは勇士にも程がある。
姫若子って呼んだ奴出て来いよ!

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 11:08:10 ID:xAhuWoRe
重度のマザコンって事で姫若子で問題なし

750 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/06/27(土) 19:46:05 ID:f/ldyfHP
>>729
そうか、これで謎は全て解けた…
なぜ閣下がリアリティのない年齢を詐称するのか
そして信長の魔王自称
なにより遺体も発見されてない事実
そこから導き出される答えは………




信長公も閣下も相撲好きだよね(´・ω・`)


751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 19:51:10 ID:m2NKC5RR
そういえば閣下も歌うと声が高くなる…

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 20:43:46 ID:kexM5wdj
ナッナンダッテー!



第六天魔王ってシヴァ神のことで、
謙信が毘沙門天名乗ってるって聞いて
マジちょーwウケるwww
あの坊主が毘沙門天なら俺第六天魔王じゃねww
ワロタwwww邪気眼乙www
って感じに言ったジョークだったらしいよね

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 23:21:23 ID:i31hCh32
>>752
謙信じゃなくて信玄だね。信玄が確か不動明王を称していたんですよ。
んで、それを知った信長が謙信に

「信玄が不動明王とか言うのなら、俺は第六天魔王ですよwww」

とかお手紙書いた。


畠山義就の上洛に・悪い話

2009年06月12日 00:05

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/11(木) 22:06:23 ID:vHUDeOqg
応仁の乱、直前の事である。

かねて政長と畠山家の家督を争っていた畠山右衛門佐義就は、文正元年(1466)、
大和、河内の軍勢を率い、ついに上洛を果たした。
五千余騎の軍制にて千本地蔵堂に陣を敷くと、直ちに山名宗全の許に行き

「この度私が上洛を果たせたのは、ひとえにあなたの援助のおかげです。」

と、頭を下げ、宗全も、あなたの上洛は私にとっても大慶ですと、これを賀して
通夜の酒宴を開いた。

その朝、義就が陣を置いた地蔵堂の門の扉に、何者かが落首を残していった

『右衛門佐 いただくものが 二つある
          山名のあしと 御所のさかづき』


京都人はこの当時も、強烈な皮肉が大好きなのだ。




224 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/06/12(金) 00:19:06 ID:mRFVwe3h

>>218
山名のあし、の意味がわからん。

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/12(金) 00:29:48 ID:CWNU5gZ4
>>224
山名の足をいただくってのは、山名の足元に平伏するってことだよ。
「恥も外聞もなく山名にぬかづいたおかげで、将軍と和解できて、名誉と身分が回復してよかったね」
って事ですな。

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/12(金) 00:43:57 ID:mRFVwe3h
>>226
なるほど、そういうことか。