山中鹿之助、最後の手紙と鉄錆十二間筋兜

2014年04月15日 18:40

970 名前:山口きらめーる2013年12月13日号 vol.263より[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 21:58:40.19 ID:2gIipmt1
山中鹿之助、最後の手紙と鉄錆十二間筋兜

1578年7月、3月に渡る吉川元春の包囲の前に上月城に籠る尼子再興軍は降伏。
総大将、尼子勝久の自刃を条件に将兵は助命を許される。
10年間、尼子再興軍の実質的指導者であった山中鹿之助も命は助かり、降伏の際
吉川元春に周防に3000石を持って迎えられる事を約束された(三卿伝(さんきょうでん)史料「御答書」による)
ものの、備後の国鞆に在陣中の毛利輝元の前に移送されることが決まる。

この際、鹿之助は先を予見したのか尼子再興を諦めた故かは解らぬが、共に戦った仲間に最後の手紙を残していた。

「永年の苦労と忠義は少しも忘れはしない。だからもうどこへでも奉公してよい」
(続く)

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 22:03:42.18 ID:2gIipmt1
(>>970続き)
しかし、その直後、鞆への移送の際に尼子再興を諦めぬ鹿之助の執念を恐れた元春によってか、
降伏の条件を知らぬ毛利家の手によってか、いずれにせよ鹿之助は護送のさ中に
備中国合(阿井)の渡(現在の岡山県高梁市)で殺害され、その生涯を終える。

先の三卿伝によれば吉川が助命した条件を毛利が知らず、その為に毛利の手により
鹿之助は殺害されたとされ、その死を知った吉川は好敵手の死を哀れみ、その形見と
なった鉄錆十二間筋兜と鹿之助最後の書状を家宝として秘蔵し、今に伝える(吉川資料館蔵)こととなる。

好敵手を讃え遺品を家宝として残す良い話だけど、吉川家と毛利家の報連相が悪いお話。





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秋上伊織助、山中鹿介の対面

2013年10月28日 19:48

603 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/27(日) 22:38:39.15 ID:fwUAutZf
じゃあいおりんの話でも。

出雲の国の大宮司、秋上家は無二の尼子方だったが、
勝久が「もし本意を遂げて出雲に入れたら秋上・山中を執事とする」と約束していたにもかかわらず、
次第に山中鹿介の方針ばかりを重んじるようになって、
伊織助の父、三郎左衛門尉は不満を抱いていた。
そこに吉川元春から「うちなら優遇するよ」と揺さぶりがかかった。
三郎左衛門尉は渡りに船と喜び、毛利家に味方する決断を下した。
勝久は慌てふためいたという。

さて、嫡子の伊織助は、たった一人で鹿介の宿所に赴き、面会を申し入れた。
何の警戒もせずにすぐに出てきた鹿介に対し、伊織助は
「こんなことになってしまってから会いに来るなど、面目もない。
 しかしあなたとは少年のころから仲良くしていて、死ぬならともにと約束した仲だ。
 それなのに、愚父は毛利家に属すと決めてしまった。
 明日からは敵になる。こうして会って話をすることもできなくなる。
 あなたとは朋友としていつまでもともにいたかったのに、残念でしかたない。
 これまで仲良くしてくれてありがとう。お別れを言いたくてここまで来たのだ」
と言った。

鹿介は答えた。
「侍は渡りものだ。あなたの父の決断は無理もない。
 あなたは少年のころから私の話し相手だった。今でも断金の友だと思っている。
 あなたが親とともに行動するのを、どうして恨みに思うものか。
 今日ある命も明日には知れないのが武家の習いだ。
 さあ、別れの盃を重ねよう。
 私は明日から、伊織殿を討つための謀略を練る。
 あなたもまた、私を殺す算段をするといい」

二人は盃を出して取り交わし、さしつさされつたっぷりと飲みおさめた。
「ではこれまでだ。明日は戦場の塵となるとも、互いに旧交は忘れまい」
互いに手に手を取り、涙にむせんで立ち別れた。

伊織が森山の城に帰った後、鹿介らは秋上の所領に夜討ちをかけた。

604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/27(日) 22:46:53.13 ID:fwUAutZf
スマヌ、いおりんはミスタイプでした……orz
あと既出チェックしてなかった。
重複だったら切腹で許して。




606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/27(日) 22:52:50.52 ID:dbBhaRGm
>>603
イイハナシダナー

山中幸盛、光秀の風呂の誘いを断る

2012年10月29日 19:56

136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/29(月) 17:19:53.02 ID:wxR127tI

明智光秀の家臣・野々口丹波山中幸盛の旅館に来て「陪臣の身で
申すのは恐れ入りますが、貴方が私のあばら屋に御来訪して下されば、
どれほど幸せなことでしょう」と言った。

幸盛は「私には分に過ぎたことです。参りますとも」と約束した。
このようなところに光秀が「今日は風呂を用意しているから来られよ」と
言ってきたので、

幸盛は「後家来の野々口と先約いたしまして」と打ち笑った。
光秀も共に笑って「これで山中をもてなせ」と野々口に雁一羽と鮭一尾を
与えた。

――『名将言行録』




伝・山中鹿之助奉納

2011年08月22日 22:59

174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/22(月) 13:33:50.18 ID:Nl0TbRdq
瀬戸内水軍の本拠地大三島には日本総鎮守こと大山祇神社があって、戦国時代の有名人もたくさんの武具を奉納している。
毛利家はもちろん大内家、河野家、秀吉など、瀬戸内で戦った一族は一通り。
さて、そんな中に一振りだけ、どう考えても不自然というか、お前はなぜここに来たと言いたくなる人物がいる。

伝・山中鹿之助奉納

大山祇神社の宝物館に行くと、こんな刀が展示されている。
何かにつけて神仏に祈ってるイメージの鹿之助だが、もろに毛利の影響下にある
当時の大三島まで行って尼子再興を祈ったのかと思うと感慨深い。
さすがは全三島大社の総本山、日本総鎮守……と言いたいけど、時の支配者の
敵対勢力の残党から武運長久を祈られる側はいい迷惑だったろうな。




175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/22(月) 19:04:03.85 ID:javTJQiQ
まあ、大三島支配してた能島村上氏も
厳島の戦いからずっと毛利家一筋ってわけじゃなくて
元就死去前後に大友や三好と通じて、その死後に毛利へ反抗したりしてるから
その頃に鹿之助が渡ってた可能性もあるな

山中鹿介「勝つも負けるも戦の習いです」

2011年08月03日 23:01

965 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/08/03(水) 02:01:02.22 ID:mYcU0O1W
山中鹿介は一旦は尼子勝久に組しながら、反旗を翻した隠岐の豪族、隠岐為清の討伐に立原久綱と向かったが、
逆に散々に打ち負かされたが、松田誠保と横道正光のお陰でどうにか勝利を拾う事が出来た。
しかし勝久は鹿介と久綱に気を使い、誠保と正光に両名の戦功を認める感状を出さなかった。これを聞いた鹿介は

「賞罰を明らかにしなければ兵が力を発揮しなくなります。また、我々は敗れて逃げましたが
 全く恥にはなりません。勝つも負けるも戦の習いです。」

と勝久に説いた。そして鹿介自らの手で誠保と正光に感状を手渡した。これを聞いた者は皆、鹿介を賞賛したという。
山中鹿介、25歳頃の逸話である。




966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/03(水) 11:25:05.24 ID:sMv+uxZq
戦国鍋のキャバクラに来ていた人だな

山中鹿助・三日月信仰由来

2011年07月21日 23:28

671 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/07/21(木) 00:45:43.94 ID:KViVScmK
山中鹿介が病弱な兄・幸高に代わって家督を相続し、三日月の前立と鹿角の脇立がついた先祖伝来の
兜を譲り受けた。この時鹿介は

「今日から30日以内に武功が立てられます様に。」

と夜空の三日月に祈った。程なく、主家の尼子家と山名家との間で行われた尾高城の戦いに出陣した
鹿介は、豪傑として名高い菊池音八を見事に討ち取った。一説には鹿介の名はこの兜に由来しているとも言われ、
これをきっかけに生涯にわたる三日月を信仰するようになったのだという。




672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/21(木) 00:49:59.44 ID:HfZ0zXNX
相変わらずドリーミーな奴だ

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/21(木) 01:03:05.63 ID:A8XjPBnF
ドMな願い事以外も願っていたんだ

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/21(木) 01:20:56.99 ID:KViVScmK
「我に七難八苦を」ってやつ?あれって一説には毛利を呪ってるんだと云う話があったな。

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/21(木) 01:48:51.56 ID:hOAzNE6H
願わずにはいられなかったのさ、奴は。

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/21(木) 08:00:28.16 ID:B7oixXvV
なに酔ってんだよ
市松t

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/21(木) 11:35:18.51 ID:M0vyK/X8
おお>>676、お手討ちになるとは情けない

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/21(木) 17:56:32.35 ID:8ZhpGiK4
山中鹿介は戦国のオーディンだと思ってる

和歌で旧友の心を

2011年04月18日 00:04

21 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/04/17(日) 00:34:05.59 ID:HWUGbquR
尼子一族の一人である尼子勝久を擁立した山中鹿介は、当時毛利家に仕えていた尼子の元家臣で、真っ先に
合流するはずと考えていた神西元通から何の連絡もないことを不審に思い、叔父の立原久綱と相談して
本心を探る為に使者として僧を派遣した。
僧が扇を差し出しながら

「山中殿と立原殿は、神西殿と盟友でしたが、今は敵味方に分かれ会う事も難しい。お二人は、ここは
一筆頂いて本人と 対面しているかの様な気持ちでそれを眺めようとおっしゃっていました。」

と述べると、元通は

「古柄小野の本柏」(ふるかわおののもとかしわ)と書いて与えた。

これを受け取った鹿介と久綱は、扇の文句は

「石の上 古柄小野 本柏 もとの心は 忘れなくに」

という古歌の一節で、元通は旧交を忘れていないのだと判断。再び僧を派遣したところ、元通は尼子再興軍に
参加する事を表明したのだった。 以上、和歌で旧友の心を知るお話。




山中鹿介、ただ一人で立ちむかう

2011年03月31日 00:02

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 21:13:44.47 ID:+Y7rM1H9
>>551にも山中鹿介の話が出てるけど、名将言行録が出典の話では、冒頭部に出てくる
毛利の騎馬武者の一団を相手に、鹿介がただ一人で立ちむかう話が好き。

永禄五年(1562年)七月、毛利勢、出雲に来襲。
しかし、決戦を挑む尼子義久に対して毛利勢はまともに取り合わず、稲や麦を刈り取る破壊
工作を行うばかり。

毛利勢の死体の山を築いてくれる、と意気込む鹿介は民家に一人ひそんで好機を待つ。
そこに現れた毛利の騎馬武者3,40騎。

当時、山中鹿介17歳。
若いが、8歳の時には既に人を殺した経験があるというこの男は動じない。

鹿介が騎馬武者の一人目を切り捨てた後、馬から降りて向かってきた二人目に一撃をくれると、
相手は木っ端微塵になって谷底に落ちていったという。
(真っ二つとかじゃなくて「微塵になる」と記されていて、この表現が素敵)

その後、縦横に切り結んで16,17騎ほど倒すと、さすがに生き残りは退散。

それを見届けた鹿介は、近くの民家でご飯を奢って貰って悠々と月山富田城に戻っていったという。

こういうエピソードがあるんだから、無双やBASARAみたいなゲームでもっと注目されても
おかしくないと思うんだけどね。




諸国視察の山中鹿介

2011年03月28日 00:00

551 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/03/27(日) 02:35:49.51 ID:Jt1yn6el
毛利家に没落させられた尼子家の再興を目指し、諸国の有力大名を視察する旅に出た山中鹿介
近江国番場(現在の滋賀県米原市)に訪れた際、

「自分は出雲の浪人である」

とだけ告げてさる老僧の世話になっていた。ある日、10数人の無頼漢達が

「何か食べ物を寄こせ!」

と庵に立ち入ってくると、鹿介は

「邪魔だ、さっさと出て行け!」と一喝。

その上で、彼らが強盗で、再びこの庵を襲撃してくるだろうと考え、罠を仕掛けておいた。
その夜、案の定、強盗達が押し入って来た為、罠を駆使して全員を生け捕りにしたものの、
仏前での殺生をためらい、老僧と相談して逃がしてやる事に決めた。すると、強盗の頭目が

「貴方様は、只者ではないでしょう。何か大望を思い立たれた時に馳せ参じたいので、名前を教えて頂きたい。」

と願い出ると、鹿介は

「何を言ってる。庵の食客が何を思い立つというのだ。」

とはぐらかしたが、この一件が噂になるにつれ、自分の正体が明らかになると面倒だと考え、
鹿介は庵を立ち去ったという。




555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/27(日) 11:52:20.73 ID:LgQ7s0pL
>>551
そうやって仲間を増やそうとしないから何度も負けるんだよ!

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/27(日) 11:55:52.08 ID:xLHeGSGW
>>555
漫画の見すぎw

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/27(日) 12:09:04.82 ID:e64FFxsb
盗賊集団に名と尼子家再興の志を打ち明けても、
盗賊集団「山中さまと立つより、毛利に売ったほうが得だな」
となる可能性もあったからじゃないか?

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/27(日) 12:10:39.83 ID:xLHeGSGW
>>557
八つ墓村思い出すのでやめてくれ・・・

559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/27(日) 12:12:15.26 ID:ajbCM5qm
一人で十数人の賊を生け捕るとかすごすぎるだろ ハリウッド映画化決定

山中鹿之介「母の教えと愛」

2010年08月16日 00:01

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/15(日) 02:18:01 ID:lkGOq4ev
「母の教えと愛」

山中鹿之介が、まだ子供だったころのこと。
鹿之介が仲間たちと戦ごっこをしていると、それを見ていた鹿之介の母は激しく怒った。
「戦ごっこをするのはよろしい。でも仲間達を尼子方と敵方に分けたのは、何故ですか!」
「お前は、尼子方でいい気持ちかもしれないが、敵方となった人たちは、どんな思いでいるとおもいます?」
母は、鹿之介をそう叱るだけでなく布子(木綿の綿入れ)をせっせと作り、鹿之介の仲間たちのうち、
みすぼらしいなりをしている子を見つけると、新しい布子に着替えさせた。
お腹がすいているようだと、食事をふるまった。

当時、尼子氏は毛利元就に圧迫されており生活は楽ではなかった。
それでも必死になって鹿之介の仲間の面倒を見た。
そして幾星霜
この間、尼子家は毛利家に敗れ家臣たちはちりぢりとなった。
これを見て山中鹿之介が、尼子家再興を期して立ち上がったのだが、そんなとき、山の向こう、林の奥、
木の陰から次々と布子を着た昔の仲間が集まってきた。
あ、あれは秋宅庵助、今川鮎助、横道兵庫助、植田早苗助ではないか。戦ごっこをした幼なじみのあの顔この顔。
鹿之介は空を仰ぎ、母を思い浮かべていた。
そんな鹿之介のいい母親の話




672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/15(日) 06:12:53 ID:EWC0p5z4
カーチャン…

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/15(日) 08:37:50 ID:xeyTBaBy
戦ごっこはしてもいいが尼子側と敵側に分けてはいけない
しかし尼子を使う限り敵側は生れてしまう…
チーム名を紅白とかにすればよかったんだな

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/15(日) 08:45:16 ID:budxKFjf
本家と新宮党にすればどっちも尼子

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/15(日) 08:48:51 ID:xeyTBaBy
>>675
それこそ洒落にならんw

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/15(日) 08:57:56 ID:mVsPWhzr
尼子VS山中にすれば問題無い

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/15(日) 09:38:21 ID:2UIbZ9Yf
つんつるてんの子供服を着て皆が集まってきたのだろうかw
カワイイw

682 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/08/15(日) 13:38:52 ID:qnuJpNoo

>>671
みすぼらしい武家の子弟だったのかよw


683 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/08/15(日) 14:39:03 ID:rnwxOjuX
秋の庵とか川の鮎とか田の苗とか山の中の鹿とか…
楽しいネーミングだよね。尼子の人は。

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/15(日) 14:52:35 ID:NtJmmlfx
>>682
こんな事言うと水差してしまうが山中家は名家だよ
鹿介が子供の頃というのがどの年代かは微妙だけど
1557年あたりまでは毛利は大内家に手いっぱいで
尼子を圧迫する余裕なんてなかった

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/15(日) 15:12:36 ID:U3h3WZ4U
>>683
       |
   \  __  /
   _ (m) _ピコーン
      |ミ|
   /  .`´  \
     ∧_∧  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    (・∀・∩< そうだ!シカを倒すならオオカミになればいいんだ!
    (つ  丿 \_________
    ⊂_ ノ
      (_)

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/15(日) 19:32:38 ID:k5AoFmwk
信忠「ほんと、楽しいネーミングだよ・・・」

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/15(日) 19:40:20 ID:lkGOq4ev
信長の場合は、楽しいというよりいい加減過ぎる幼名つけるの

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/15(日) 19:44:36 ID:PsF1/DUg
奇抜だけどいい加減てことはないんじゃないの?
信長のキャラクタからしてDQNネームみたいなもんでしょ。
間違った方向で一生懸命考えたというか。

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/15(日) 19:51:16 ID:EvxE9+KN
でも「人」はどうかと思うの

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/15(日) 19:52:46 ID:7hOxxyqH
>>683
秋の庵と山の中の鹿は実在するってのがすごい。

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/15(日) 19:55:54 ID:lkGOq4ev
>>688
信孝の三七辺りからいい加減というか手抜きにしか見えない

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/15(日) 20:36:03 ID:KO+ruH6q
適当に目に止まった名前つけてたんじゃないだろうな

地下人共得たり賢しと

2010年07月11日 00:00

802 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう[sage] 投稿日:2010/07/10(土) 15:59:21 ID:Mu2xAhpC
天正五年十月三十日のところに
山中鹿介が三保が関の夜襲を試みた時の事として
「地下人共得たり賢しと濫妨し、頓に徳人と成って楽しみあへりぬ」とある。

つまりは「地元の住民が夜襲に乗じて略奪をし、急に金持ちとなって楽しく暮らした。」
というわけである。

戦国ではよくある話ではあるのだろうけど
結果までストレートに書かれたのはそうないんじゃないだろうか。




尼子さんの家の記録による、鹿之助vs狼ノ介

2010年06月29日 00:00

603 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/27(日) 22:13:46 ID:UjdQP+By
永禄8年(1565)9月、毛利氏は家運傾く尼子氏にトドメを刺さんと月山富田城に攻め寄せた。山中鹿之助幸盛は
これを迎え撃つべく秋上伊織介らを率い、毛利氏の先鋒・益田藤兼隊と広瀬川を挟んで対峙した。

「そこに見えるは尼子の勇士、山中鹿之助と見た!我が名はタラ(木或)木狼ノ介勝盛!いざ尋常に勝負!」
「…?益田さん家の品川大膳さんですよね?馬鹿力で有名な……」
「ち、違う!わしの名は狼ノ介だ!」
「あぁ!春先、鹿がタラの芽食べると角が取れるって話があるから改名したのか。」
「え?じゃあ、“鹿”之助を取って食うから“狼”ノ介?幸盛に“勝つ”盛?なんてベタな……」

「う、うるさい!一騎討ちを所望する!」仕方なく鹿之助が川に馬を乗り入れると、品g…狼ノ介が矢を放ってきた。
「!一騎討ちは槍合わせか太刀打ちで勝負、と相場が決まっておる。卑怯だぞ!」
秋上伊織介の非難を無視し、勝てば良いのだ、とばかりに狼ノ介が二の矢をつがえた瞬間、狼ノ介の弓弦が切れた。

「……え?」伊織介の放った矢が、狼ノ介の弓弦に見事に当たり、断ち切ったのだ。
「阿呆が、鹿之助が片腕・秋上伊織介は『養由(中国の伝説的射手)の再来』とまで呼ばれる弓の達人よ!
そんな事も知らんと、鹿之助と立ち会おうってか!」尼子方が、どっと囃したてた。

「ふ、ふん!ならば、そちらの要求通り、槍にて勝負じゃ!」
狼ノ介は、なおも虚勢を張り鹿之助と槍を合わせたが、猛将として名高い鹿之助の槍の妙技に、防戦一方になった。
「待った!これでは勝負がつかん。馬を降り、組打ちにて勝負じゃ!」(自慢の大力でねじ伏せようってか…ならば)

二人が馬を降りるや否や、狼ノ介は鹿之助に飛びつき、力任せに投げつけ上になった。「ふはは、鹿之助、覚悟!」
「お前がな。」「……え?」
下になるが早いか、鹿之助は隠し持っていた脇差を抜き、狼ノ介の腿を貫いた。狼ノ介がひるんだスキに、
鹿之助は体勢を入れ替え、さっさと狼ノ介の首を獲ってしまった。

後続の毛利本隊も、この話を聞いて「我ら援軍も待たずに無様な一騎討ちを仕出かしおって。士気が下がるわ!」
と、進軍をいったん留めてしまい、あわれ益田隊は、この日の戦に大敗したそうな。


※あくまでも、尼子さん家の記録に基づくものです。毛利さん家の記録では
「品g…もとい狼ノ介は一人で果敢に挑戦したよ!伊織介に邪魔されたんで、鹿之助に勝てなかったよ!」
と、なっております。ご了承ください。




山中鹿介大脱出

2009年08月30日 00:39

836 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/08/29(土) 13:23:23 ID:gtROUOkM
出雲つながりで鹿介の話を一つ

不浄口の脱出で定評のある山中鹿介ですが
逸話によってはちょっと面白い会話をしているのは既出でしょうか?



末石城で吉川元春に降った山中鹿介
天敵・杉原の城に軟禁されていた

鹿介はある夜、不浄口より抜け出でて、高さ八尺ばかりで
二重に作られた柵を飛び越し城外へ逃れた。
しかし
警固頭・木次左衛門尉に追いつかれ、上に下にの取っ組み合いとなった、
そこに、木次源五郎が追いつき
「上と下のどちらが木次だ?」
と問うたところ、鹿介は
「上も下も木次だ」
と答えた。
源五郎が躊躇っていると、鹿介は足を伸ばし、源五郎を蹴り倒した
しかし、鹿介は左衛門尉と起き上がってきた源五郎により
再び、捕らわれてしまった。


四五日後、鹿介は白昼に高さ一丈、二重に構えられた柵を飛び越え
大山原を東へ逃げた、馬により追手もかかったが、
終に鹿介を捕えることは出来なかった。



いい話とも悪い話とも言い難いのですが、
(トンチと運動神経の)いい話ということで。


ついでにソースは「芸侯三家誌」巻五です。

所で、山中鹿介って一般に身体の大きいイメージがあるようですが、
鹿介の見た目に関し言及している、多分一番古い資料の雲陽軍実記では
「骨柄五尺余り」となっているそうです。
ここの板では、鹿介は大きかったと見る方と小さかったと見る方
どっちが多いのでしょう?
ちなみに友人に聞いたら、誰それ?と言われてしまいましたwww




837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/29(土) 13:32:54 ID:dRqFptAZ
>>836
> 鹿介は白昼に高さ一丈、二重に構えられた柵を飛び越え

なぜか鹿介が走り高跳で柵を飛び越えるところをイメージしてしまった。
一丈 = 3.03030303 メートルだから、もし走り高跳ならぶっちぎりの世界記録だがw


838 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/08/29(土) 14:23:53 ID:aUpsPxsd
映画の大脱走は実は鹿介がモデルらしい

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/29(土) 17:23:16 ID:3+KI9ViF
>>838
へぇそうなんだ

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/29(土) 17:26:07 ID:kJsP6Csu
本気にするなよ…

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/29(土) 17:58:44 ID:1Y+DRxE8
>>841
嘘に決まってんだろw


山中鹿介幸盛「最初からできる人なんていない」・いい話

2009年06月12日 00:12

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/11(木) 19:18:57 ID:GVVwokCp
まとめサイトみたら、七難八苦の人が出てないようなので書いておく。

尼子家中で勇士と名高かった山中鹿介幸盛は、尼子家を復興させ、
織田家と同盟して毛利家と対立した。
その鹿ノ介に明智家臣野々口丹波が相談した。

「いくさ場にでるとなにがなにやらわからなくなります。
しかし朋輩はそうではなく、冷静に動けるらしいのです。
拙者は生まれついての臆病者なのでしょうか」

鹿之介「そこもとは正直な方ですなw。
槍をどうふるったの、立ち回ったのと吹聴しているのは
ほとんどウソッパチです。
この鹿之介も初陣からしばらくは無我夢中で動きまわって、
気がついたら武勲を挙げていたというのが実のところ。
十ほど首を上げてからですな。周りが見えるようになったのは」

最初からできる人なんていない、経験と努力が大事という話。
まあそう自覚してなきゃ「七難八苦を与えたまえ」なんていわないか。




389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/11(木) 20:08:18 ID:uo2hz/oM
七難八苦は元々は憎き毛利に七難八苦を与えたまえっていうのが
いつの間にか意図をすり替えられたとか何とかかんとか

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/11(木) 20:50:51 ID:xjsTqQgL
>>388
いいなこれ
山中鹿之助ってとこがいい

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/11(木) 20:51:53 ID:xjsTqQgL
精神科のHPにあるQ&A集みたいな

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/11(木) 21:37:25 ID:6wYNhGNL
何が何やらわからんまま十も首を上げるのかい