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今、その第十の計りを用いる

2020年03月16日 18:45

918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/16(月) 17:32:14.14 ID:vH5vpMMx
元亀二年の頃に成ると、尼子再興軍は毛利相手によく戦ったものの、兵糧は既に尽き、今は天下の扶助がなければ
どうやって大敵に打ち勝つことが出来るのかと、諸城を開け退き、或いは再び降人となって毛利方に出頭した。
このため、今や尼子勢は五千余騎に過ぎぬ有様であった。

山中鹿介の籠もる末石城内も飢饉に及び、士卒は軍務を尽くさず、夜々に落ち散る者多かった。
このような状況の中、鹿介幸盛は軍士を呼び集めると、このように申し渡した

「私は若年の初めより、勝利十法をよく学び得て、敵に当たるたびにこれを用い、勝たぬという事はなかった。
今、その第十の計りを用いる。

この幸盛、敵を偽り、降人となって衆命を助け、粮を求め、重ねて蘇兵を挙げる期を得ようと思う。
であるので面々は皆、故郷に忍び、時を待ち給え。」

そう命ずると、十月二十五日の朝、城門を推発すると、鹿の角の前立を指し挙げ「矢留である!」と呼びかけ、
ただ一人打ち出る。甲をうちかけ鑓を杖し、吉川元春の陣門にかき入り、仁王立ちし、大音にて言った

山中鹿介幸盛、弓折れ矢盡きて、今は衆命を助けるため、降人となって出て候!
願わくば、元春、元長の御慈悲を以て、鹿介の一命を助け、後扶助を預かれば、今後は大忠を尽くすと、大将へ申せ!」

そう高声に呼びかけると、陣門の警護、宿直の武士たちは大いに驚き、陣中の騒動は千車の轟に異ならず、幸盛を
討って大賞を得んと、我も我もと進み出て、彼をその真中に取り囲んだ。
しかし幸盛の勇気は項羽の武威を越えるもので、とうと青眼をむけ大きな怒りを含み

「我武運盡き、軍門に降る上は、汝等が心に任せよ!」
と、鑓を投げ捨て太刀を抜き、
「これぞ今、降人の現れである。早く大将に告げよ!」
と呼ばわると、その声は獅子の吼えるが如くであった。

しばらく有って「大将見参すべし、これは御入り候へ」と、勇士三十余人が、鹿介の左右の腕袂に取り付き、
陣屋の中に入れようとしたが、鹿はまた怒って、両手を振りほどくと左右の手に取り付いていた勇士たち
三十人は将棋倒しに倒れ、躓き伏せ、赤面して立った。

鹿介は吉川元春を前に跪き、頓首平伏した。この時駿河守(元春)は幸盛のその姿を見て
「昨日まで雨を施す龍王も、雲を得ずしては死した蛇にも劣る。御辺は日本第一の豪傑と雖も、兵粮が尽き、
兵が分散した故に降人として出てきたか。痛ましいことだ。

私は正兵を守り奇を用いない。降る敵を捨てず、一人を助け万人を喜ばせるための賞としよう。」

そう真心を以て語りかけ、鹿助に伯耆国尾高庄、周防国徳地ノ庄、併せて二千貫を宛行った。
こうして山陰道は再び元の如く、大江(毛利)の幕下となった。

鹿介は喜び無く、まもなく尾高庄に入部し、蟠龍が来復の気を呑んで、時を窺っていた。
そのような中、尼子孫四郎勝久が隠岐国に渡り、軍の用意を怠らなかったが、これが敵方へ聞こえ、
「早く討手を差し向け、芽のうちにこれを断つべし」と評定で決した。

鹿介はこの事を聞くと、急ぎ隠岐国へ飛脚を遣わし、勝久にかくかくと告げようとした。
所が彼の飛脚は割符を持っていなかったので、諸所の関所を通らず向かったが、伯州境にて彼の国の関守、
杉原播磨守盛重の廻国の警護の者たちに、怪しい奴とこれを通さず、搦め捕り拷問にかけた所、この飛脚は
白状し、笠の緒の中から、鹿助より勝久への密書が一つ出てきた。

「これは疑う所なし、あの鹿助を誅殺しなくては、またどのような世の変転が起こるかわからない」と、
急ぎ追手を向けたが、その時鹿介は既にこの事を伝え聞き、またかねてより妻子を、婿である亀井武蔵守(茲矩)の居る
京都へ上らせ置いており、直ぐに尾高を忍び出て、但馬国へ赴き、隠岐へ使いを立てて尼子勝久兄弟を招き寄せ、
濃州岐阜へと落ちていった。

雲州軍話首

第一次尼子再興運動の失敗と、山中鹿介の偽りの降伏についてのお話



919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/17(火) 11:52:39.52 ID:nKpdqadR
因幡では鹿介ら山賊となり村々を略奪しては女を凌辱又は奴隷市で売り軍資金を稼いでいたそうな
今でもこの地域には埋蔵金伝説がある
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尼子再興軍による月山富田城攻略失敗

2020年03月15日 16:14

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/15(日) 00:54:43.96 ID:BEc4Klcp
永禄十二年、尼子再興軍により山陰道は悉く翻り、山中鹿介は石州に働き入り、黒岩、戸屋ノ尾の二城を築くと、
その軍勢は四万余騎となって、既に雲州の月山富田城を囲んだ。
米原平内左衛門尉広綱は、今度、毛利の立花の戦線より馳せ帰って尼子方に帰伏し、その勢三千余騎にて高瀬の城に
立て籠もった。

しかし、毛利方で月山富田城の守将、天野中務大輔隆重は頑強に防衛し、またこの時、殊更に大雪が降り、
数丈の高さに降り積もって陣屋を埋めたため、空しく月を移り日を暮らした。

年が明けて永禄十三年、東風は潤い谷の氷を解かし、春雨は満峯の雪を潰した。
「今は時を得たり、急ぎ城を攻めよ!」
尼子の軍営ではそのような声が高くなった。

ところが、正月七日暮天、備後国より早馬が来て告げた

『大友左衛門入道宗麟、立花の軍で利を失い、継いで耳川にて島津義久に討ち負けた。(筆者注:ここでは永禄十二年(1569)
の多々良浜の戦いと、天正六年(1578)の耳川の戦いを混同している)
また防州においては、舎弟の太郎左衛門尉輝弘が討ち負け(大内輝弘の乱)、その死後は九州も悉く翻えって
大江羽林(毛利元就)に与力し、備後国の一揆も、軍に利無く終に討ち負け、一人も残らず滅し、見方は一騎も
無くなった。敵の軍勢は馳せ集まり、程なく八万余騎となり、近日、雲州に向けて発向すると聞こえる。
内々御用意有るべし。』

尼子勢はこれを聞くと、「なんと事々しい注進であろうか、敵が立花城を落としたその足で、防陽の軍勢が如何
蘇長したとしても、そのように俄に大軍を催せるものだろうか。」と疑義していた。

そんな中、同月十二日、毛利方の吉川、小早川は八万九千騎を率いて雲州津賀庄に侵攻し、多久和の城へ押し寄せ、
四方八方から騒動した。
多久和の守将は秋宅庵介、尤道理介であったが、僅かな小勢で城に立て籠もっても、大軍に囲まれては、ただ
追われた鼠が穴に入って蹲っているのと異ならず、そのような状況下で、どうして城を出て合戦をすることが
出来るだろうかと議して、同日の深夜、城に火を掛けて落ち去った。

この時、何者かが書いた落書が立った

 『秋やけて 落は尤道理介 如何に庵を春やけにする』

多久和城の者たちは、富田の陣営をへと落ちていった。この自体に尼子勢は
「当家三軍中より選び出した庵介、道理介の両介が一支えも出来ず敗北した上は、大敵が襲来し、その鋭鋒を防ぐのは
難しい」と群士は固唾をのみ、衆議喧々となった。

この状況に山中鹿介幸盛は「萬衆一和ならぬ合戦をして、古今勝利を得たる例無し。」と、富部の城に引き退き、
月山富田城の囲みを解いた。

雲州軍話首

尼子再興軍による月山富田城攻略失敗についてのお話。秋宅庵介、尤道理介は、いわゆる尼子十勇士の一員ともされる
人ですね。



915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/15(日) 09:59:35.09 ID:yh2KYrWm
まとめの5419
「雲陽軍実記」より、尼子十勇士っていったい

にはほかに2パターンの狂歌が
「城を明落ち葉の頃は道理なりいかに伊織を春焼にする」
「城を明け落葉尤(もっとも)道理なり いかに庵を春焼にする」

916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/15(日) 10:18:10.96 ID:rOhCHn6o
キワモノ揃いの十勇士w

917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/16(月) 15:14:16.06 ID:Wk0EwnES
秋宅庵ノ介、尤道理ノ介といえば
滝沢馬琴「燕石雑志」の「苗字」の項に

「正親町院の永禄のころより諸国の武士にて奇異なる名おほかり。
山中鹿ノ介幸盛、秋宅庵ノ介、寺本生死ノ介、尤道理ノ介、藪中荊ノ介、小倉鼠ノ介、山上狼右衛門(以上尼子の家臣)
この餘、朝倉家の十八村党、河野家の十八森党、大内家の十本杉党、吉見家の八谷党、尼子家の九牛士、里見家の八犬士
枚挙にいとまあらず。
こはみな軍陣に臨みて名告るとき敵にわが名をおぼえさせんため為るとぞ。
戦世には武備あまりありて文備なし、その名の野なる心ざまの猛きさへ推しはからる。」

名前だけでもおぼえてもらうためにそういう名前にした、と書かれていた。
しかし尼子九牛士というのも十勇士の他にいたということになるが、
馬琴先生、「雲州尼子九牛伝」ではかっこ悪いと思って「南総里見八犬伝」を書いたのだろうか

山中鹿介、品川狼介、勝負の事

2020年03月13日 16:37

746 名前:1/2[sage] 投稿日:2020/03/12(木) 20:22:59.54 ID:72oODjjo
ここに石見国住人、品川半平という者があった。彼は吉川元春の陣に進み出てこのように言った
「この頃、関東には勇士があると言いますが、西国には鹿(山中鹿介)を討つ人もいない。私が一勝負仕り、
軍の睡りを醒しましょう!」
そう声高に訴えた。

彼の形相を見ると、身長は七尺(約212センチ)を越え、両眼は鬢(耳ぎわ)まで裂上がり、
手足は熊、目、口は虎に異ならなず、鉄をくり抜き。鐘の如くなる鎧を着、六尺(約180センチ)あまりの太刀を帯び、
彼が大将である吉川の陣に望んだその姿は、そのまま仁王の荒作り、又は当八毘沙門が貴見城の門に立って修羅を
攻め給う姿もかくやと怪しまれ、軍使悉く身を跪いて恐れをなした。

この時、吉川駿河守元春の長男・治部少輔元長は、その頃世に隠れ無き形相の人物であり、人は皆「鬼吉川」と
呼ぶほどの血気にて、仁義も勇も逞しき勇将であったので、彼は半平を一目見て
「さても汝の形相は、いかなる天魔鬼神も挫き、孟賁(秦の武王に仕えた勇士)の骨を砕くべき血気なれば、鹿介を
討たん事容易いであろう。先ずは受領を進むべし。」と、即時に『狼介勝盛』(鹿を狩る狼、また山中鹿介幸盛に勝つ、
という意味であろう)と名を与え、「早速敵陣に赴き、勝負を決すべし」と下知された。

狼介は喜び勇み、勇者の面目、且つ鹿を取ると名が明らかなのは自明の理であり有り難しと打ち笑い、
鋒より長い鑓を取って、大場谷の坂に望み、囲いを抜いて三度「誰人にても一人これに出給え!」と、
大音にて呼んだ。その声は余りに高く、谷峰を震わし山彦が響いて聞こえぬ所無かった。

城中では驚き、「これは如何なり、獅子象王の呻声か、事々しき音声である。早く出て事の仔細を聞くべし。」
と下知をした。そこで今川鮎介が飛ぶように走って見てみると、そこには閻魔大王に些かも劣らない大男が、
三間ばかりの鉾を携えて立っていた。

今川は驚き、「汝何者ぞ、化生か鬼か、名乗れ!」と言うと、狼はこれを聞くとあざ笑い
「我は鬼神にも非ず、石州益田住人、品川狼介勝盛という者である。御辺は誰か、名乗れ。」
鮎介はそう言われるとカラカラと笑った

「世の中に名前というものは多いが、その中で狼と名乗るのは片腹痛い。御辺は定めて鹿介と勝負を決するために
名字を変えて来たのだろう。しかしその身が獅子介、虎介と名乗ろうとも、鹿は現在、日本国に於いて万人が
指し示す大勇であり、殊に勝負の十方を研磨し、当たる敵に勝たぬという事はない。
今日、そんな鹿介に勝負を望むということ、嗚呼、御辺の運の尽き、滅亡を招かれたその謀、無惨である。
暫くここで待ち給え、鹿にこの事を伝えてこよう。」

そういって鮎介は山中に駆け入り、山中鹿介幸盛に、かくかくと告げた。
鹿介は目を閉じ黙然とし、上帯に太刀をおさめ、十文字の鑓を取って提げ、已に出向こうとした。
これに鮎助は走り寄り、鎧の組紐に取り付いて
「不覚なり。御辺は大将の身として、一騎の勝負は避けられるべきだ。」と鑓を取って控えさせると、
鹿はあざ笑って

「敵も我も同じ人である。例え本当に鬼だったとしても、どうしてそれを見て逃げるだろうか。
況や同じ人間であれば、私の鑓に先に懸って、いわゆる夏の虫と成るだろう。凡そ勝負には、勝つも負けるも
ここにあり。」

そう言って胸をホトホトと叩いた。これに鮎助は打ち笑って「もはや勝ったな、鹿殿」と誉め称え馬に乗せた。

747 名前:2/2[sage] 投稿日:2020/03/12(木) 20:23:19.18 ID:72oODjjo
鹿介は急ぎ谷口に表れ出て
「いかに狼殿、鹿は大将の身であるから一騎の勝負は不覚で有るのだが、末世まで勇士の名を立てるために
ここまで出てきた!さあ、一鑓仕らん!」

そういうと狼聞いて

「さても、勝負を決するのであれば太刀打ちの勝負をしよう!」

と、鑓を投げ捨て太刀を真っ向にかざし躍り出た。その形相はただ、閻魔大王が呵責の鬼を怒るのもこの時かと
訝しむほどの形相であった。
上の山には寄手大将吉川小早川、左右の峰には伊予河野、備中の三村、大旗小旗を靡かせ「狼、鹿取れ!」と
声援し、その声はまた、大地を震わし大山が裂けると錯覚するほどであった、

鹿も馬より下りて太刀討ち合いを暫く戦った。その間狼は、右の小鬢に痛手を負い流血、その血が目に入った。
このため「今は叶わじ」と思ったのか、太刀をカラリと捨て、無手となって組み付き、鹿を取って引き敷いた。
幸盛は元来気早なる勇者であったので、下より二刀差し通し跳ね返すと、狼はまた下になって鹿の向こう脛を突き、
双方手負いとなって別々にわかれた。しかし狼は深手であり、終に空しくなった。

さても世は定めなき習いであるので、鹿を取るべき狼が鹿に取られること無惨なりと、敵の毛利勢は眉をひそめて
音も無かった。

その後、何者が書いたのか、大場谷に落書が立った

『狼が 鹿に取らるる世となれば 負色見ゆる勝久の陣』
(狼が鹿に命を取られるような、世の常の道理が逆に成った世であるのだから、道理に従えば本来は勝つはずの
尼子勝久の陣営に敗色が見える、という意味であろう。)

雲州軍話首

山中鹿介品川狼介の勝負について。プロレスか格闘技の試合みたいですね。

前話
生後一月を越えると歩き、二月過ぎて食し、八歳にして敵を討った



748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/12(木) 22:11:21.08 ID:+eHnhGXZ
「世の中に名前というものは多いが、その中で狼と名乗るのは片腹痛い。御辺は定めて鹿介と勝負を決するために
名字を変えて来たのだろう。しかしその身が獅子介、虎介と名乗ろうとも、鹿は現在、日本国に於いて万人が
指し示す大勇であり、殊に勝負の十方を研磨し、当たる敵に勝たぬという事はない。
今日、そんな鹿介に勝負を望むということ、嗚呼、御辺の運の尽き、滅亡を招かれたその謀、無惨である。
暫くここで待ち給え、鹿にこの事を伝えてこよう。」

突然こんな芝居かかった長いセリフを思いついてスラスラ言えるのだろうか

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/12(木) 22:12:23.93 ID:hC0ZPjal
このまま漫画化できそうw

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/12(木) 23:01:06.96 ID:7eHWEYO2
身長デカ過ぎ、台詞男臭過ぎ、原哲夫の漫画かよ

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/12(木) 23:38:07.91 ID:pCfeW8zQ
まとめの4357
尼子さんの家の記録による、鹿之助vs狼ノ介
と同じ話?

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/12(木) 23:53:04.58 ID:72oODjjo
>>751
すいません書き忘れました。こちらは
>>737
の続きです

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/13(金) 00:17:54.35 ID:k7HRjE5w
鹿介と狼介に混ざって出てくる鮎介さん
なぜに鮎

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/13(金) 01:26:39.69 ID:gX2mf2Gn
身長7尺の紹介の段階でかませキャラ感がある

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/13(金) 12:23:29.38 ID:VmC0GDNg
この異様に敵の凄さを強調する登場シーンに既視感あると思ったら
モブの反応まで含めてワンピースとかキングダムの世界

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/13(金) 12:46:53.84 ID:/E+YrFqV
講談の手法が漫画に取り入れられたのでは

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/13(金) 16:55:40.94 ID:OASpozdO
>>755
?「鶏を裂くのに牛刀なんかいらんよw」

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/13(金) 21:05:57.09 ID:jPTP3wxG
>>756
だね
何か普遍のものがあるんだろうね

生後一月を越えると歩き、二月過ぎて食し、八歳にして敵を討った

2020年03月11日 16:42

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/11(水) 00:13:04.83 ID:vaIWdH6B
今年(永禄十二年)の、尼子再興軍による山陰道の動乱は、山中鹿介幸盛の仕業であると、吉川元春小早川隆景
忿怒し安からず、
「誰か、毛利八万余騎の軍中、力抜群なる勇者は無きか、あの鹿毛を討ち取れば、懸賞はその望みに任せる。」と
触れ流したが、然し乍ら山中鹿介は日本無双の勇者にて、肢体の逞しき事、その長弓は尺を越え、矢束十八束を引き、
力は十人力を過ぎるほどであった。

天文十四年八月十五日、山中鹿介は雲州鰐淵山の麓、武蔵坊弁慶の育った屋敷にて生まれた。
生後一月を越えると歩き、二月過ぎて食し、八歳にして敵を討った。時の人は彼を『今弁慶』と呼んで恐れた。

今年、彼は漸く二十六歳で、五十六度の鑓を合わせ、謀は子房(張良)を呑み、武威は項王を欺く程の勇者であった。
そのため、前の尼子右衛門督晴久は、その四万余騎の群下の中より大勇十騎を選び出し、その第一の
定め初めは、当時山中甚次郎と名乗っていた彼であった。彼は兄甚太郎の鹿の前立の兜を譲られ、それ以降
武功はさらに世に響き名は高く、人呼んで『鹿介』と号した。

これほど名高く鬼神に勝る幸盛を誰が討ち取れるだろうかと、皆舌を震わせて嘯いた。

雲州軍話首

なんか凄いことに成ってる山中鹿介さん

続き
山中鹿介、品川狼介、勝負の事


738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/11(水) 07:10:57.09 ID:Jz+ipb+7
>>737
盛りすぎだろw

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/11(水) 10:25:09.19 ID:ODpSNoxO
忠義者だし范蠡にも喩えよう
息子は范蠡並の大富豪だし

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/11(水) 18:53:32.32 ID:aMeG75UG
>>737
勇猛な毛利緒将がガクブルとは
どんだけ強いんだ
良く覚えてないが信長からも傑物と認められてたような

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/11(水) 22:00:17.58 ID:DItAZV0j
>>739
三菱UFJの源流の一つだよな
三菱なんかよりよっぽど歴史が長い

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/11(水) 22:02:09.13 ID:GSVXddVj
戦闘民族扱いw

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/11(水) 22:31:38.40 ID:dCQfvbaT
評判が評判を呼びすぎて花の慶次が武力100になったようなもんだな

はたして後日、言葉の通りに成った

2019年08月30日 17:30

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/30(金) 11:10:23.81 ID:E1FdUgeV
山中鹿之助は往古、武辺場数類ない武勇の武士であった。ある日、合戦が済んでその日初陣の若武者二人が
鹿之介の前に来て、先ず一人が尋ねた

「私は今回の初陣で敵と鑓合わせをした時、兼ねて思っていた事とは違い、敵に向かっては先ず震えを
生じ、目指す敵をしっかりと見ることも成り難く、仕合せに踏み込み、鑓を付けて首を上げたものの、
その鎧の縅毛(小札を結び合わせる糸や革)の色も覚えていません、初陣というものはこういうものなので
しょうか?」

鹿之助はこれを聞くと
「今後も随分と努力し給え。あっぱれ武辺の人と成るだろう。」と答えた。

もう一人はこう申した。「私はそのようには思いませんでした。」目指す敵と名乗りあい、敵は
何縅の鎧で、何毛の馬に乗っていた事、鑓付けした場所、その他鮮やかに語った。
これにも鹿之介は同じように答えた。

この両人が席を立った後、傍に居た人がこの論を鹿之介に尋ねた所、
「最初に尋ねてきた若侍は、何れ武辺の士と成るだろう。しかし後に尋ねてきた者は甚だ心もとない。
もしかして彼が取ったのは拾い首では無いだろうか。それでもないのであれば、重ねての戦では討たれてしまう
だろう。」

そう言ったが、はたして後日、言葉の通りに成った。

鹿之助の申すには
「私などは初陣、或いは二,三度目の鑓合わせは、最初の若侍が言っていたように、震えを生じ、目を開いて
向こうを見られるようなものではなく、ただ一身に向かって突き伏せようとと思い、幸いにも首を取ったのだ。
度々場数を踏んでこそ、戦場の様子も知られるように成るものなのだ、」と語った。

(耳嚢)



349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/30(金) 11:12:40.31 ID:J8zxYW+w
清正にも似たようなのあったな
新兵にはお決まりの症状だったんだろうな

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/30(金) 12:15:23.34 ID:hFSa9L6j
氏郷最強か

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/30(金) 15:12:04.98 ID:o37TWyNP
鬼武蔵は後者のほうだろうなあ

【web記事】古墳の石棺から出てきた山中鹿介の首なし遺骨

2018年05月16日 21:35

755 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/16(水) 17:18:18.01 ID:u9u3Mv61
山中鹿之介の最期と埋葬地について記事があったのだが、どうやら未出の様なので貼っておく
記事はかなり長いので各自読んで見られたし

古墳の石棺から出てきた山中鹿介の首なし遺骨
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/4952




760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/16(水) 22:12:53.29 ID:7w2utxgu
>>755
荼毘に付したとされているのに、原型をとどめた遺骨がでてきてるのおかしくね。
実は、弥生時代の人骨なんじゃ?

761 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/16(水) 22:35:56.88 ID:riG18fly
>>760
現代だと密閉した火葬炉が有って重油などの燃料を使った火葬が一般的だけど、戦国当時は野焼きの方が一般的だったみたいだから遺体の焼き上がり方や炭化の度合にも差が出たとか?

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/17(木) 12:51:36.94 ID:Hj+5d5xo
あの時代に火葬なんてしたの?

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/17(木) 13:16:12.68 ID:ck0GM2gO
>>762
平安時代以降、貴族ですら普通に火葬してる。
貴族の場合、火葬した場所に火葬塚作る。

764 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/17(木) 13:17:34.43 ID:vJ5I+qQ+
>>762
鎌倉室町で火葬が一般に普及して明治の廃仏毀釈の際、一時的に土葬になったらしい

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/17(木) 13:22:47.97 ID:C9wJF8gd
後の時代からすれば土葬が色々細かいことが分かって助かるんだけどねえ
疫病と土地の関係で生きてる人間の都合からすれば火葬一択なんだけど

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/17(木) 13:52:18.28 ID:Hj+5d5xo
>>763-764
ありがと~、時代劇なんかだと桶に遺体入れてたから土葬のイメージだったわ。

767 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/17(木) 14:20:48.56 ID:h59oOBe5
>>765
そう言えば秀忠は土葬だったから戦傷とかで、実は前線での戦闘経験もある武人肌の大将だと分かったんだっけ

山中鹿之助、最後の手紙と鉄錆十二間筋兜

2014年04月15日 18:40

970 名前:山口きらめーる2013年12月13日号 vol.263より[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 21:58:40.19 ID:2gIipmt1
山中鹿之助、最後の手紙と鉄錆十二間筋兜

1578年7月、3月に渡る吉川元春の包囲の前に上月城に籠る尼子再興軍は降伏。
総大将、尼子勝久の自刃を条件に将兵は助命を許される。
10年間、尼子再興軍の実質的指導者であった山中鹿之助も命は助かり、降伏の際
吉川元春に周防に3000石を持って迎えられる事を約束された(三卿伝(さんきょうでん)史料「御答書」による)
ものの、備後の国鞆に在陣中の毛利輝元の前に移送されることが決まる。

この際、鹿之助は先を予見したのか尼子再興を諦めた故かは解らぬが、共に戦った仲間に最後の手紙を残していた。

「永年の苦労と忠義は少しも忘れはしない。だからもうどこへでも奉公してよい」
(続く)

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 22:03:42.18 ID:2gIipmt1
(>>970続き)
しかし、その直後、鞆への移送の際に尼子再興を諦めぬ鹿之助の執念を恐れた元春によってか、
降伏の条件を知らぬ毛利家の手によってか、いずれにせよ鹿之助は護送のさ中に
備中国合(阿井)の渡(現在の岡山県高梁市)で殺害され、その生涯を終える。

先の三卿伝によれば吉川が助命した条件を毛利が知らず、その為に毛利の手により
鹿之助は殺害されたとされ、その死を知った吉川は好敵手の死を哀れみ、その形見と
なった鉄錆十二間筋兜と鹿之助最後の書状を家宝として秘蔵し、今に伝える(吉川資料館蔵)こととなる。

好敵手を讃え遺品を家宝として残す良い話だけど、吉川家と毛利家の報連相が悪いお話。





秋上伊織助、山中鹿介の対面

2013年10月28日 19:48

603 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/27(日) 22:38:39.15 ID:fwUAutZf
じゃあいおりんの話でも。

出雲の国の大宮司、秋上家は無二の尼子方だったが、
勝久が「もし本意を遂げて出雲に入れたら秋上・山中を執事とする」と約束していたにもかかわらず、
次第に山中鹿介の方針ばかりを重んじるようになって、
伊織助の父、三郎左衛門尉は不満を抱いていた。
そこに吉川元春から「うちなら優遇するよ」と揺さぶりがかかった。
三郎左衛門尉は渡りに船と喜び、毛利家に味方する決断を下した。
勝久は慌てふためいたという。

さて、嫡子の伊織助は、たった一人で鹿介の宿所に赴き、面会を申し入れた。
何の警戒もせずにすぐに出てきた鹿介に対し、伊織助は
「こんなことになってしまってから会いに来るなど、面目もない。
 しかしあなたとは少年のころから仲良くしていて、死ぬならともにと約束した仲だ。
 それなのに、愚父は毛利家に属すと決めてしまった。
 明日からは敵になる。こうして会って話をすることもできなくなる。
 あなたとは朋友としていつまでもともにいたかったのに、残念でしかたない。
 これまで仲良くしてくれてありがとう。お別れを言いたくてここまで来たのだ」
と言った。

鹿介は答えた。
「侍は渡りものだ。あなたの父の決断は無理もない。
 あなたは少年のころから私の話し相手だった。今でも断金の友だと思っている。
 あなたが親とともに行動するのを、どうして恨みに思うものか。
 今日ある命も明日には知れないのが武家の習いだ。
 さあ、別れの盃を重ねよう。
 私は明日から、伊織殿を討つための謀略を練る。
 あなたもまた、私を殺す算段をするといい」

二人は盃を出して取り交わし、さしつさされつたっぷりと飲みおさめた。
「ではこれまでだ。明日は戦場の塵となるとも、互いに旧交は忘れまい」
互いに手に手を取り、涙にむせんで立ち別れた。

伊織が森山の城に帰った後、鹿介らは秋上の所領に夜討ちをかけた。

604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/27(日) 22:46:53.13 ID:fwUAutZf
スマヌ、いおりんはミスタイプでした……orz
あと既出チェックしてなかった。
重複だったら切腹で許して。




606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/27(日) 22:52:50.52 ID:dbBhaRGm
>>603
イイハナシダナー

山中幸盛、光秀の風呂の誘いを断る

2012年10月29日 19:56

136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/29(月) 17:19:53.02 ID:wxR127tI

明智光秀の家臣・野々口丹波山中幸盛の旅館に来て「陪臣の身で
申すのは恐れ入りますが、貴方が私のあばら屋に御来訪して下されば、
どれほど幸せなことでしょう」と言った。

幸盛は「私には分に過ぎたことです。参りますとも」と約束した。
このようなところに光秀が「今日は風呂を用意しているから来られよ」と
言ってきたので、

幸盛は「後家来の野々口と先約いたしまして」と打ち笑った。
光秀も共に笑って「これで山中をもてなせ」と野々口に雁一羽と鮭一尾を
与えた。

――『名将言行録』




伝・山中鹿之助奉納

2011年08月22日 22:59

174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/22(月) 13:33:50.18 ID:Nl0TbRdq
瀬戸内水軍の本拠地大三島には日本総鎮守こと大山祇神社があって、戦国時代の有名人もたくさんの武具を奉納している。
毛利家はもちろん大内家、河野家、秀吉など、瀬戸内で戦った一族は一通り。
さて、そんな中に一振りだけ、どう考えても不自然というか、お前はなぜここに来たと言いたくなる人物がいる。

伝・山中鹿之助奉納

大山祇神社の宝物館に行くと、こんな刀が展示されている。
何かにつけて神仏に祈ってるイメージの鹿之助だが、もろに毛利の影響下にある
当時の大三島まで行って尼子再興を祈ったのかと思うと感慨深い。
さすがは全三島大社の総本山、日本総鎮守……と言いたいけど、時の支配者の
敵対勢力の残党から武運長久を祈られる側はいい迷惑だったろうな。




175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/22(月) 19:04:03.85 ID:javTJQiQ
まあ、大三島支配してた能島村上氏も
厳島の戦いからずっと毛利家一筋ってわけじゃなくて
元就死去前後に大友や三好と通じて、その死後に毛利へ反抗したりしてるから
その頃に鹿之助が渡ってた可能性もあるな

山中鹿介「勝つも負けるも戦の習いです」

2011年08月03日 23:01

965 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/08/03(水) 02:01:02.22 ID:mYcU0O1W
山中鹿介は一旦は尼子勝久に組しながら、反旗を翻した隠岐の豪族、隠岐為清の討伐に立原久綱と向かったが、
逆に散々に打ち負かされたが、松田誠保と横道正光のお陰でどうにか勝利を拾う事が出来た。
しかし勝久は鹿介と久綱に気を使い、誠保と正光に両名の戦功を認める感状を出さなかった。これを聞いた鹿介は

「賞罰を明らかにしなければ兵が力を発揮しなくなります。また、我々は敗れて逃げましたが
 全く恥にはなりません。勝つも負けるも戦の習いです。」

と勝久に説いた。そして鹿介自らの手で誠保と正光に感状を手渡した。これを聞いた者は皆、鹿介を賞賛したという。
山中鹿介、25歳頃の逸話である。




966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/03(水) 11:25:05.24 ID:sMv+uxZq
戦国鍋のキャバクラに来ていた人だな

山中鹿助・三日月信仰由来

2011年07月21日 23:28

671 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/07/21(木) 00:45:43.94 ID:KViVScmK
山中鹿介が病弱な兄・幸高に代わって家督を相続し、三日月の前立と鹿角の脇立がついた先祖伝来の
兜を譲り受けた。この時鹿介は

「今日から30日以内に武功が立てられます様に。」

と夜空の三日月に祈った。程なく、主家の尼子家と山名家との間で行われた尾高城の戦いに出陣した
鹿介は、豪傑として名高い菊池音八を見事に討ち取った。一説には鹿介の名はこの兜に由来しているとも言われ、
これをきっかけに生涯にわたる三日月を信仰するようになったのだという。




672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/21(木) 00:49:59.44 ID:HfZ0zXNX
相変わらずドリーミーな奴だ

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/21(木) 01:03:05.63 ID:A8XjPBnF
ドMな願い事以外も願っていたんだ

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/21(木) 01:20:56.99 ID:KViVScmK
「我に七難八苦を」ってやつ?あれって一説には毛利を呪ってるんだと云う話があったな。

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/21(木) 01:48:51.56 ID:hOAzNE6H
願わずにはいられなかったのさ、奴は。

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/21(木) 08:00:28.16 ID:B7oixXvV
なに酔ってんだよ
市松t

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/21(木) 11:35:18.51 ID:M0vyK/X8
おお>>676、お手討ちになるとは情けない

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/21(木) 17:56:32.35 ID:8ZhpGiK4
山中鹿介は戦国のオーディンだと思ってる

和歌で旧友の心を

2011年04月18日 00:04

21 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/04/17(日) 00:34:05.59 ID:HWUGbquR
尼子一族の一人である尼子勝久を擁立した山中鹿介は、当時毛利家に仕えていた尼子の元家臣で、真っ先に
合流するはずと考えていた神西元通から何の連絡もないことを不審に思い、叔父の立原久綱と相談して
本心を探る為に使者として僧を派遣した。
僧が扇を差し出しながら

「山中殿と立原殿は、神西殿と盟友でしたが、今は敵味方に分かれ会う事も難しい。お二人は、ここは
一筆頂いて本人と 対面しているかの様な気持ちでそれを眺めようとおっしゃっていました。」

と述べると、元通は

「古柄小野の本柏」(ふるかわおののもとかしわ)と書いて与えた。

これを受け取った鹿介と久綱は、扇の文句は

「石の上 古柄小野 本柏 もとの心は 忘れなくに」

という古歌の一節で、元通は旧交を忘れていないのだと判断。再び僧を派遣したところ、元通は尼子再興軍に
参加する事を表明したのだった。 以上、和歌で旧友の心を知るお話。




山中鹿介、ただ一人で立ちむかう

2011年03月31日 00:02

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 21:13:44.47 ID:+Y7rM1H9
>>551にも山中鹿介の話が出てるけど、名将言行録が出典の話では、冒頭部に出てくる
毛利の騎馬武者の一団を相手に、鹿介がただ一人で立ちむかう話が好き。

永禄五年(1562年)七月、毛利勢、出雲に来襲。
しかし、決戦を挑む尼子義久に対して毛利勢はまともに取り合わず、稲や麦を刈り取る破壊
工作を行うばかり。

毛利勢の死体の山を築いてくれる、と意気込む鹿介は民家に一人ひそんで好機を待つ。
そこに現れた毛利の騎馬武者3,40騎。

当時、山中鹿介17歳。
若いが、8歳の時には既に人を殺した経験があるというこの男は動じない。

鹿介が騎馬武者の一人目を切り捨てた後、馬から降りて向かってきた二人目に一撃をくれると、
相手は木っ端微塵になって谷底に落ちていったという。
(真っ二つとかじゃなくて「微塵になる」と記されていて、この表現が素敵)

その後、縦横に切り結んで16,17騎ほど倒すと、さすがに生き残りは退散。

それを見届けた鹿介は、近くの民家でご飯を奢って貰って悠々と月山富田城に戻っていったという。

こういうエピソードがあるんだから、無双やBASARAみたいなゲームでもっと注目されても
おかしくないと思うんだけどね。




諸国視察の山中鹿介

2011年03月28日 00:00

551 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/03/27(日) 02:35:49.51 ID:Jt1yn6el
毛利家に没落させられた尼子家の再興を目指し、諸国の有力大名を視察する旅に出た山中鹿介
近江国番場(現在の滋賀県米原市)に訪れた際、

「自分は出雲の浪人である」

とだけ告げてさる老僧の世話になっていた。ある日、10数人の無頼漢達が

「何か食べ物を寄こせ!」

と庵に立ち入ってくると、鹿介は

「邪魔だ、さっさと出て行け!」と一喝。

その上で、彼らが強盗で、再びこの庵を襲撃してくるだろうと考え、罠を仕掛けておいた。
その夜、案の定、強盗達が押し入って来た為、罠を駆使して全員を生け捕りにしたものの、
仏前での殺生をためらい、老僧と相談して逃がしてやる事に決めた。すると、強盗の頭目が

「貴方様は、只者ではないでしょう。何か大望を思い立たれた時に馳せ参じたいので、名前を教えて頂きたい。」

と願い出ると、鹿介は

「何を言ってる。庵の食客が何を思い立つというのだ。」

とはぐらかしたが、この一件が噂になるにつれ、自分の正体が明らかになると面倒だと考え、
鹿介は庵を立ち去ったという。




555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/27(日) 11:52:20.73 ID:LgQ7s0pL
>>551
そうやって仲間を増やそうとしないから何度も負けるんだよ!

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/27(日) 11:55:52.08 ID:xLHeGSGW
>>555
漫画の見すぎw

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/27(日) 12:09:04.82 ID:e64FFxsb
盗賊集団に名と尼子家再興の志を打ち明けても、
盗賊集団「山中さまと立つより、毛利に売ったほうが得だな」
となる可能性もあったからじゃないか?

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/27(日) 12:10:39.83 ID:xLHeGSGW
>>557
八つ墓村思い出すのでやめてくれ・・・

559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/27(日) 12:12:15.26 ID:ajbCM5qm
一人で十数人の賊を生け捕るとかすごすぎるだろ ハリウッド映画化決定

山中鹿之介「母の教えと愛」

2010年08月16日 00:01

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/15(日) 02:18:01 ID:lkGOq4ev
「母の教えと愛」

山中鹿之介が、まだ子供だったころのこと。
鹿之介が仲間たちと戦ごっこをしていると、それを見ていた鹿之介の母は激しく怒った。
「戦ごっこをするのはよろしい。でも仲間達を尼子方と敵方に分けたのは、何故ですか!」
「お前は、尼子方でいい気持ちかもしれないが、敵方となった人たちは、どんな思いでいるとおもいます?」
母は、鹿之介をそう叱るだけでなく布子(木綿の綿入れ)をせっせと作り、鹿之介の仲間たちのうち、
みすぼらしいなりをしている子を見つけると、新しい布子に着替えさせた。
お腹がすいているようだと、食事をふるまった。

当時、尼子氏は毛利元就に圧迫されており生活は楽ではなかった。
それでも必死になって鹿之介の仲間の面倒を見た。
そして幾星霜
この間、尼子家は毛利家に敗れ家臣たちはちりぢりとなった。
これを見て山中鹿之介が、尼子家再興を期して立ち上がったのだが、そんなとき、山の向こう、林の奥、
木の陰から次々と布子を着た昔の仲間が集まってきた。
あ、あれは秋宅庵助、今川鮎助、横道兵庫助、植田早苗助ではないか。戦ごっこをした幼なじみのあの顔この顔。
鹿之介は空を仰ぎ、母を思い浮かべていた。
そんな鹿之介のいい母親の話




672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/15(日) 06:12:53 ID:EWC0p5z4
カーチャン…

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/15(日) 08:37:50 ID:xeyTBaBy
戦ごっこはしてもいいが尼子側と敵側に分けてはいけない
しかし尼子を使う限り敵側は生れてしまう…
チーム名を紅白とかにすればよかったんだな

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/15(日) 08:45:16 ID:budxKFjf
本家と新宮党にすればどっちも尼子

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/15(日) 08:48:51 ID:xeyTBaBy
>>675
それこそ洒落にならんw

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/15(日) 08:57:56 ID:mVsPWhzr
尼子VS山中にすれば問題無い

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/15(日) 09:38:21 ID:2UIbZ9Yf
つんつるてんの子供服を着て皆が集まってきたのだろうかw
カワイイw

682 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/08/15(日) 13:38:52 ID:qnuJpNoo

>>671
みすぼらしい武家の子弟だったのかよw


683 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/08/15(日) 14:39:03 ID:rnwxOjuX
秋の庵とか川の鮎とか田の苗とか山の中の鹿とか…
楽しいネーミングだよね。尼子の人は。

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/15(日) 14:52:35 ID:NtJmmlfx
>>682
こんな事言うと水差してしまうが山中家は名家だよ
鹿介が子供の頃というのがどの年代かは微妙だけど
1557年あたりまでは毛利は大内家に手いっぱいで
尼子を圧迫する余裕なんてなかった

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/15(日) 15:12:36 ID:U3h3WZ4U
>>683
       |
   \  __  /
   _ (m) _ピコーン
      |ミ|
   /  .`´  \
     ∧_∧  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    (・∀・∩< そうだ!シカを倒すならオオカミになればいいんだ!
    (つ  丿 \_________
    ⊂_ ノ
      (_)

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/15(日) 19:32:38 ID:k5AoFmwk
信忠「ほんと、楽しいネーミングだよ・・・」

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/15(日) 19:40:20 ID:lkGOq4ev
信長の場合は、楽しいというよりいい加減過ぎる幼名つけるの

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/15(日) 19:44:36 ID:PsF1/DUg
奇抜だけどいい加減てことはないんじゃないの?
信長のキャラクタからしてDQNネームみたいなもんでしょ。
間違った方向で一生懸命考えたというか。

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/15(日) 19:51:16 ID:EvxE9+KN
でも「人」はどうかと思うの

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/15(日) 19:52:46 ID:7hOxxyqH
>>683
秋の庵と山の中の鹿は実在するってのがすごい。

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/15(日) 19:55:54 ID:lkGOq4ev
>>688
信孝の三七辺りからいい加減というか手抜きにしか見えない

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/15(日) 20:36:03 ID:KO+ruH6q
適当に目に止まった名前つけてたんじゃないだろうな

地下人共得たり賢しと

2010年07月11日 00:00

802 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう[sage] 投稿日:2010/07/10(土) 15:59:21 ID:Mu2xAhpC
天正五年十月三十日のところに
山中鹿介が三保が関の夜襲を試みた時の事として
「地下人共得たり賢しと濫妨し、頓に徳人と成って楽しみあへりぬ」とある。

つまりは「地元の住民が夜襲に乗じて略奪をし、急に金持ちとなって楽しく暮らした。」
というわけである。

戦国ではよくある話ではあるのだろうけど
結果までストレートに書かれたのはそうないんじゃないだろうか。




尼子さんの家の記録による、鹿之助vs狼ノ介

2010年06月29日 00:00

603 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/27(日) 22:13:46 ID:UjdQP+By
永禄8年(1565)9月、毛利氏は家運傾く尼子氏にトドメを刺さんと月山富田城に攻め寄せた。山中鹿之助幸盛は
これを迎え撃つべく秋上伊織介らを率い、毛利氏の先鋒・益田藤兼隊と広瀬川を挟んで対峙した。

「そこに見えるは尼子の勇士、山中鹿之助と見た!我が名はタラ(木或)木狼ノ介勝盛!いざ尋常に勝負!」
「…?益田さん家の品川大膳さんですよね?馬鹿力で有名な……」
「ち、違う!わしの名は狼ノ介だ!」
「あぁ!春先、鹿がタラの芽食べると角が取れるって話があるから改名したのか。」
「え?じゃあ、“鹿”之助を取って食うから“狼”ノ介?幸盛に“勝つ”盛?なんてベタな……」

「う、うるさい!一騎討ちを所望する!」仕方なく鹿之助が川に馬を乗り入れると、品g…狼ノ介が矢を放ってきた。
「!一騎討ちは槍合わせか太刀打ちで勝負、と相場が決まっておる。卑怯だぞ!」
秋上伊織介の非難を無視し、勝てば良いのだ、とばかりに狼ノ介が二の矢をつがえた瞬間、狼ノ介の弓弦が切れた。

「……え?」伊織介の放った矢が、狼ノ介の弓弦に見事に当たり、断ち切ったのだ。
「阿呆が、鹿之助が片腕・秋上伊織介は『養由(中国の伝説的射手)の再来』とまで呼ばれる弓の達人よ!
そんな事も知らんと、鹿之助と立ち会おうってか!」尼子方が、どっと囃したてた。

「ふ、ふん!ならば、そちらの要求通り、槍にて勝負じゃ!」
狼ノ介は、なおも虚勢を張り鹿之助と槍を合わせたが、猛将として名高い鹿之助の槍の妙技に、防戦一方になった。
「待った!これでは勝負がつかん。馬を降り、組打ちにて勝負じゃ!」(自慢の大力でねじ伏せようってか…ならば)

二人が馬を降りるや否や、狼ノ介は鹿之助に飛びつき、力任せに投げつけ上になった。「ふはは、鹿之助、覚悟!」
「お前がな。」「……え?」
下になるが早いか、鹿之助は隠し持っていた脇差を抜き、狼ノ介の腿を貫いた。狼ノ介がひるんだスキに、
鹿之助は体勢を入れ替え、さっさと狼ノ介の首を獲ってしまった。

後続の毛利本隊も、この話を聞いて「我ら援軍も待たずに無様な一騎討ちを仕出かしおって。士気が下がるわ!」
と、進軍をいったん留めてしまい、あわれ益田隊は、この日の戦に大敗したそうな。


※あくまでも、尼子さん家の記録に基づくものです。毛利さん家の記録では
「品g…もとい狼ノ介は一人で果敢に挑戦したよ!伊織介に邪魔されたんで、鹿之助に勝てなかったよ!」
と、なっております。ご了承ください。




山中鹿介大脱出

2009年08月30日 00:39

836 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/08/29(土) 13:23:23 ID:gtROUOkM
出雲つながりで鹿介の話を一つ

不浄口の脱出で定評のある山中鹿介ですが
逸話によってはちょっと面白い会話をしているのは既出でしょうか?



末石城で吉川元春に降った山中鹿介
天敵・杉原の城に軟禁されていた

鹿介はある夜、不浄口より抜け出でて、高さ八尺ばかりで
二重に作られた柵を飛び越し城外へ逃れた。
しかし
警固頭・木次左衛門尉に追いつかれ、上に下にの取っ組み合いとなった、
そこに、木次源五郎が追いつき
「上と下のどちらが木次だ?」
と問うたところ、鹿介は
「上も下も木次だ」
と答えた。
源五郎が躊躇っていると、鹿介は足を伸ばし、源五郎を蹴り倒した
しかし、鹿介は左衛門尉と起き上がってきた源五郎により
再び、捕らわれてしまった。


四五日後、鹿介は白昼に高さ一丈、二重に構えられた柵を飛び越え
大山原を東へ逃げた、馬により追手もかかったが、
終に鹿介を捕えることは出来なかった。



いい話とも悪い話とも言い難いのですが、
(トンチと運動神経の)いい話ということで。


ついでにソースは「芸侯三家誌」巻五です。

所で、山中鹿介って一般に身体の大きいイメージがあるようですが、
鹿介の見た目に関し言及している、多分一番古い資料の雲陽軍実記では
「骨柄五尺余り」となっているそうです。
ここの板では、鹿介は大きかったと見る方と小さかったと見る方
どっちが多いのでしょう?
ちなみに友人に聞いたら、誰それ?と言われてしまいましたwww




837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/29(土) 13:32:54 ID:dRqFptAZ
>>836
> 鹿介は白昼に高さ一丈、二重に構えられた柵を飛び越え

なぜか鹿介が走り高跳で柵を飛び越えるところをイメージしてしまった。
一丈 = 3.03030303 メートルだから、もし走り高跳ならぶっちぎりの世界記録だがw


838 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/08/29(土) 14:23:53 ID:aUpsPxsd
映画の大脱走は実は鹿介がモデルらしい

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/29(土) 17:23:16 ID:3+KI9ViF
>>838
へぇそうなんだ

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/29(土) 17:26:07 ID:kJsP6Csu
本気にするなよ…

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/29(土) 17:58:44 ID:1Y+DRxE8
>>841
嘘に決まってんだろw


山中鹿介幸盛「最初からできる人なんていない」・いい話

2009年06月12日 00:12

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/11(木) 19:18:57 ID:GVVwokCp
まとめサイトみたら、七難八苦の人が出てないようなので書いておく。

尼子家中で勇士と名高かった山中鹿介幸盛は、尼子家を復興させ、
織田家と同盟して毛利家と対立した。
その鹿ノ介に明智家臣野々口丹波が相談した。

「いくさ場にでるとなにがなにやらわからなくなります。
しかし朋輩はそうではなく、冷静に動けるらしいのです。
拙者は生まれついての臆病者なのでしょうか」

鹿之介「そこもとは正直な方ですなw。
槍をどうふるったの、立ち回ったのと吹聴しているのは
ほとんどウソッパチです。
この鹿之介も初陣からしばらくは無我夢中で動きまわって、
気がついたら武勲を挙げていたというのが実のところ。
十ほど首を上げてからですな。周りが見えるようになったのは」

最初からできる人なんていない、経験と努力が大事という話。
まあそう自覚してなきゃ「七難八苦を与えたまえ」なんていわないか。




389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/11(木) 20:08:18 ID:uo2hz/oM
七難八苦は元々は憎き毛利に七難八苦を与えたまえっていうのが
いつの間にか意図をすり替えられたとか何とかかんとか

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/11(木) 20:50:51 ID:xjsTqQgL
>>388
いいなこれ
山中鹿之助ってとこがいい

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/11(木) 20:51:53 ID:xjsTqQgL
精神科のHPにあるQ&A集みたいな

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/11(木) 21:37:25 ID:6wYNhGNL
何が何やらわからんまま十も首を上げるのかい