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当時の武将間の呼び名について

2022年09月29日 15:52

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/28(水) 19:20:21.19 ID:TRfck96B
大した話ではないし悪い話でもないが>>602の関連で
利家夜話』より
当時の武将間の呼び名について

越中魚津の城を北国の軍勢が柴田修理(勝家)を総大将にして取り巻いたとき、越後の上杉景勝が後詰めの軍勢を出してきた
その日の先手を求めて柴田伊賀、佐久間玄蕃、佐々内蔵介がいさかいを起こしていたので、(前田)利家が争いを納めようとした
そこに柴田がやってきてその話を聞くと、又左(利家)が仲裁に入っているのに「倅(せがれ)供」がなにを言うのかとお叱りになった

少なくとも織田家では寄り親のことを寄り子は「親仁(おやじ)」と呼び、寄り親は寄り子のことを「倅(せがれ)」と呼んでいた様子
いまも職人や渡世人の世界に色濃く残る疑制的親族関係ですが、戦国の時代はより濃厚だったのでしょう
こういう当時の口語的な呼び方が史料に残るのは比較的珍しいので、ご参考までに



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これによって柴田は敗北した。

2020年07月20日 18:31

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/20(月) 14:19:10.63 ID:ZrmSldMr
天正十一年四月二十一日、近江北部において柴田勝家、羽柴秀吉の両陣が相向かい睨み合っていた。
柴田は賤ヶ岳を攻め落とし、籠もっていた人数を討ち果たし、この時に合戦を企てた所、柴田方であった
丹羽五郎左衛門(長秀)、前田又左衛門(利家)が秀吉に属し、柴田の備に手勢を出し、これによって
柴田は敗北した。

秀吉はこれを追い、越前へ討ち入り、柴田居城へ押し掛けた。敗北の士卒が未だ城に戻っていない間に、
柴田の城に火を懸け、同二十四日に柴田が切腹したため、越前は平均となった。

柴田の妻女は城を出ず焼死された。これは織田信長の妹で、浅井備前守(長政)の後室であった。
この腹に浅井の息女が二人(原文ママ)あった。彼女らは乳母の才覚によって無事に城から出られた。
大阪の秀頼の御袋(淀殿)、並びに江戸将軍の御台所(お江の方)がこれである。

当代記

前田利家だけじゃなくて、丹羽長秀も本来柴田方だったという受け取り方も有ったのか…。



209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/20(月) 19:06:38.05 ID:AS+ANcNz
>>208
のちほど腹わたぶちまけた逸話があり、長重もひどい目に遭わされてるからなのかな
利家は優遇されてるけど

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/22(水) 16:29:36.08 ID:vNuSlIAR
長重は酷い目にあったから大成したわけだしあれで良かったのさ。
じゃなかったら利常とのエピは発生してない。

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/22(水) 21:21:32.00 ID:pwPPcnwp
>>210
にしても、賤ヶ岳や小牧長久手にも出陣し、
しかも小牧長久手は長秀の代理での出陣だからその時点で半ば家督継いでいたようなものなのに、
長秀が亡くなって正式に相続した途端に難癖つけられて、123万石→15万石→4万石の大減封はありえん…。
織田信雄が100万石→0になったのよりも減っているって、凄まじい。

213 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/23(木) 00:27:07.78 ID:AxVMh1z5
>>212
柴田も丹羽も、秀吉には邪魔だったんだね
佐久間が追放されてなかったらどうなっていたか
関連で、羽柴姓の由来ももうちょっと、真面目に考察した方がいいと思う

柴田勝家の最期

2020年06月20日 17:47

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/20(土) 11:05:28.43 ID:LeVTVuZE
賤ヶ岳の戦いに敗れた柴田勝家は、北庄の城に馳帰り、籠城の手配をした。
その明日、羽柴秀吉はその城を十重二十重に取り囲み、先ず愛宕山へ登り城中を見渡すと、
種々の紋が描かれた旗、馬印が夥しく押し立てられ、静々と控えていた。
秀吉はこれを見て感歎し

「城中を察するに、柳ヶ瀬の出陣に従わなかった老人、又は女童の、物の役にも立たざる者共に、
敗れ帰りし者共相加わったのであろう。それを巍々しく城を飾りし形勢、流石に武勇を天下に
顕せる柴田程ありけるよ。」

と繰り返してこれを称賛した。
勝家は死に臨み、気象少しも平常に違うこと無く、夫々に功ある者を賞し、やがて腹掻っ切って死した。

名将言行録



柴田勝家の刀狩り

2020年06月19日 18:06

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/19(金) 00:53:50.92 ID:A3E0IVhU
朝倉氏の亡んだ後、越前国では一揆が度々起こり、強敵が蟠り居りけるを、柴田勝家が数年かかって
攻め伏せ、漸く一国平均した。
そうして勝家は村里へこのように触れを出した

『よろず掟を正しくして撫育を致すにつき、自今以後、一揆を起こすべき覚悟が無いという事を
汝らが相断った事、尤も神妙の至である。この事は信長公にたしかに申し上げた。
であれば、汝らの持っている武具は、もはや所持していても益のない物なのだから、少しも残らず
上へ差し上げるべきである。その代わりとして、我等は農具を拵え、各々の望みに任せて、何程も
下し賜るべし。もし兵具の類を隠し置き、なんのかんのと違背するような輩は、心底に悪事を
挟んでいるのではないだろうか。』

そう言い渡した。郷民等に承り届くと、遅参に及べばどうなるかわからないと、弓銃は勿論、太刀、鞍、
鎧等まで己が村中を穿鑿し、我劣らじと持ち参った。
集まった兵具は幾千万とその数を知れず、山のごとくに積み上がった。勝家は鍛冶を召し寄せ、農具に
打ち換えて与えると、国中いよいよ静謐にして、一揆の沙汰は無くなった。

名将言行録

柴田勝家の刀狩りについての逸話ですね。



彼は当地において信長のよう

2019年06月19日 15:10

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/19(水) 01:30:36.02 ID:dilkD3xh
柴田殿(勝家)は去る5月22日(天正9年4月20日)月曜日に我等を招待した。彼は越前国の半分以上、
及び征服した加賀全土の王の如き人で、領土及びその兵たちに対しては、当地において信長のようであった。
諸人は彼を上様 Vyesama 、その子(養子の勝豊、もしくは勝政か)を殿様 Tonsama と称していた。

饗宴は立派なもので、我等、すなわちダリヨとイルマン・コスメ、および私は各々食卓3つを与えられ、
私一人、食卓の頭(上座か)に置かれ、我等に対し多くの親愛が表せられたため、縁側に居る武士たちは
驚いた。また高槻から我等と共に来たキリシタンたちを別の食卓に招いた。

彼(勝家)はヨーロッパ並びにインドのこと、および尊師(イエズス会指導者)について色々尋ねたが、
ここに記すには長すぎる。また3,4回繰り返して、当所に聖堂が有ったならばキリシタンの数は増加するだろう、
もしパードレ又はイルマンが当地に居らねば、キリシタンと成った者たちは直ぐに失われるであろう、と言い、
ダリヨを招いて、私に市内を見せて良き敷地と認めた所を彼に通知したならばこれを与え、聖堂が出来たなら
恩恵を加えるであろう、と言った、彼の子もこれより先に同じ事を言い、この事について父に話す必要なく、
彼自ら我等の満足する地所を与えるであろうと言った。

(1581年5月29日(天正9年4月27日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)

北ノ庄で柴田勝家に対面したフロイスの記録。勝家、領地で上様って呼ばれていたのですな。
そりゃ信長も国掟で勝家を縛ろうとするわ。



23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/19(水) 14:17:43.21 ID:M0+GVcV7
>>22
もう少し読み込んでみるといい

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/20(木) 09:37:30.92 ID:3qib0QTB
>>22
国掟が出されても上様と呼ばれていたのかな?w
縛りになってないな

柴田勝家自害

2019年02月13日 17:48

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/13(水) 00:14:41.65 ID:WTqP41ZB
柴田勝家自害の時)

勝家の家城である北ノ庄に前田又左衛門殿(利家)は真っ先に着かれた。城と寄り口との間に川一つあり。
その川に橋があって“北ノ庄の石橋”と申すはこれなり。

10間ほどの桁行短い淀みの橋があったが、これを渡らずに西の地に“愛宕山”という山があって、又左衛
門殿はその山に陣を取りなされた。そこに御旗本の先手の御人数が早くも到着した。

又左衛門殿の下知により、川端に又左衛門殿の手勢の人数が立てられた。橋口を又左衛門殿は心掛けられ
て一番に渡ろうと思われたのか、先手の御人数さえも橋口を渡らずに、主の手回りだけの人数で橋口を固
められて、又左衛門殿自身はまた愛宕山へ登って待ちなさった。

そこへ秀吉が早くも愛宕山に登りなされた。秀吉の仰せには「軍兵どもは腰兵糧を使え」とのことで、御
使番衆を所々に差し遣されて又左衛門殿へ仰せになり、「城を持ち固める前に攻め入ろう」と御談合なさ
れたところで、北ノ庄城は天守から焼け上がった。

後に城から出た者が申し上げたことによれば、勝家はとても叶わないと思われたということなのか、前述
に申し上げたように、天守へ鉄砲の薬を上げさせて二重に詰め置かれ、御前方(お市の方)やその他の片
を付けて勝家も自害なされたのだ。

勝家は燠掻きに火を入れて前述の時に上げ置きなさったのだが、腹を切ってその火を掛けなされたことよ
と見えて、二重の鉄砲の薬によって爆発すれば、天守の部材は四方八面に跳ね散らし、秀吉御陣取りの愛
宕山へは城から10町ほどもある所にまで、瓦などが虚空を跳ねて来たのである。

(おきかきに火を入右に被上置しか腹を切り其火をかけられたるよと見え二重の鉄炮の薬にてはね候へは
天しゆの引物とも四方八面にはねちらし秀吉御陣取の愛宕山へは城より十町程も御座候はん所にかはらな
とこくうにはねて来り候)

――『川角太閤記』


同道し引き取れば良かったのではないか

2019年02月10日 17:41

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/10(日) 07:29:58.83 ID:4nGBoZpj
織田備後殿(信秀)からの、息子信長への遺誡のうちに、「大利を得た場合、其の勢いをよく養えば
敵国は自然に滅びるものである。」というものがあった。
この事を柴田勝家はよく知っていた故に、賤ヶ岳の戦いの際、中川清秀の砦の急襲に成功した
玄蕃允(佐久間盛政)に急ぎ引き取れと、使者数度に及んだが、玄蕃はそれを用いず自分の戦果を誇る
様子が見えた。

或いは曰く、このように玄蕃允が下知を用いないのであれば、勝家が早々に進み来て、玄蕃を引き立て
同道し引き取れば良かったのではないか。秀吉ならばそうしただろうと、心ある人は悔やんだという。

(甫庵太閤記)


前田利家うらきりしたる故

2019年01月17日 19:05

654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/16(水) 21:13:33.90 ID:QYRGmbyD
柴田勝家は賤ヶ岳の砦に居たが、前田利家の裏切りのため敗北し、彼はここにて討ち死にしようと
決心していた。しかし勝家家臣の徳山五兵衛と言う者が
「ここで討ち死にしても意味がありません。越前北ノ庄に退かれ、御城にて心静かに御腹を召すべきです。」
と諌めた。勝家もそれに同意し、越前へと撤退した。この時五兵衛は
「天下に隠れなき、勝家様の金の御幣の馬印をお預け下さい。勝家様の御命に代わり、私が
討死いたします。」と申し、言葉通り死を遂げた。

(原文)
柴田しつがたけの取出に居たりけるか、前田利家うらきりしたる故、柴田爰にて討死せんとありし時、
柴田か家臣徳山五兵衛と云もの申けるは、是にて討死し玉はんこと詮なし、越前北の庄へのかせ玉ひ、
御城にて心しつかに御腹召候へかしと諫めけれは、けにもとやおもばれけん、越前さして退玉ふ。
五兵衛申けるは、天下にかくせなき、きんの五弊あつけたまへ、御命にかはり討死仕らんと申て死をとげたり。

(祖父物語)

賤ヶ岳の敗因を、はっきり「前田利家の裏切りのため」と書いているのはホント珍しい。


清州会議

2018年10月07日 16:05

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/07(日) 15:22:44.89 ID:KeNTnhbo
その日、秀吉は勢を分けて丹波亀山城をも攻め取り光秀の長子・十兵衛光慶をも誅殺し、信長公御父子を始め
本能寺・二条御所で忠死した人々を厚く改葬し、それより岐阜へ赴いて、

信長公の長子・三法師丸(信忠嫡子・秀信)に拝謁した。この時、柴田勝家も北国より馳せ上り信雄・信孝も
来会せられ、丹羽・池田などの輩も皆来会したところ、秀吉の計らいで三法師丸は今年わずか2歳ではあるが、

織田家の正統なので主君と定めて信雄・信孝両人を後見とし、信忠卿の御遺命であるからと前田徳善院玄以・
長谷川藤五郎(秀一)を保傅の役とし、三法師丸を安土に移した。また三法師丸が15歳になられるまでは、

信長公の所領の国々を諸将が配分して守護すると評定し、尾張は信雄、美濃は信孝、近江長浜に旧領を添えて
柴田、播磨と光秀が領した丹波を秀吉が預かり、丹波は以前養子と定めた信長公の末男・次丸秀勝(羽柴秀勝)
に授けるとのことだったという。これにつけても「秀吉の計らいは私無し」と言って人々は感服した。

若狭は丹羽、摂津尼崎は池田父子、伊勢長島は滝川に授けて5万石を渡し、3万石は蜂屋(頼隆)に授けた。
その他、近江30万石は三法師丸の賄料と定めた。何事も秀吉一人の沙汰としてなされ、信雄・信孝も一言も

加えること及ばなかった。丹羽長秀らはまったく秀吉の指示のままであえて異論を申す者もいない。柴田勝家
は大いに憤りを含んで秀吉の威権を嫉み、今日の評定の席上でも勝家は一人縁側へ出て投げ足をし、または

衣をかかげて尻を叩くなどして傲慢不礼の有様であった。このため丹羽は秀吉に囁き「ただいま四海は大いに
乱れている。貴殿に大望があるなら早く勝家を討ち果たしなされ」と言った。秀吉は大いに笑って、

「勝家は当家の元老宿将である。傲慢不礼も咎めるべきにあらず」と、少しも心頭にかけない様子に見えた。
さて諸将は三法師丸に拝謝して各々帰国に赴いた時、勝家は秀吉の帰路に伏勢を設けて秀吉を討たんとして

いるとの由が聞こえたので、秀吉は道を変えて早く美濃長松から近江長浜へと帰城した。勝家はこれを聞いて
自身は越前に帰るとして近江長浜を通行するという時に、「秀吉はどんな計略を設けているだろう」と大いに

気を遣い、美濃垂井の道で躊躇して大いに狼狽した。これを聞いて秀吉は大いに笑い、「私が何の遺恨あって
勝家を害するだろうか。心置きなく通行せられよ」と言って養子の次丸を人質に遣わすと、

勝家はようやく安心して木本辺りまで次丸を同道し国境より帰した。この時に人々は皆、秀吉と勝家の優劣を
察した。賤ヶ岳の戦いより前に、早くも勝敗雌雄は現れていた。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・武家閑談・武徳編年集成)』



281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/07(日) 15:34:22.16 ID:Pi4MhT5K
>>280
>勝家は一人縁側へ出て投げ足をし、または衣をかかげて尻を叩くなどして
えぇ…w

日本国に大いなるうつけたる者三人あり

2018年10月04日 21:35

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/04(木) 09:12:34.05 ID:mCJF7Uvf
上杉家の侍が織田家の城下に来た。これは直江方(景綱か)より、織田方へ謀の使いとして
派遣された者であった。しかしこの使者は柴田勝家によって捕らえられ、拷問にかけられた。

しかし使者は拷問の中、高らかに笑った。目付けの者これを見て「何故笑うのか」と問うた。

「日本国に大いなるうつけたる者三人あり、よってこれを笑うのだ。」

「うつけたる者とは誰だ。」

「うつけた知音(友人)を知らずして、このような大事を申し通ずるうつけが一人、
またそんな事も辨えず、使いに頼まれたうつけ者が一人、
また味方になるものを敵にするうつけ者一人。
この三人の大馬鹿者が寄り合い、その中で私一人が目壺に入ったのは、おおいなる仕合せと存じ、
これを笑うのだ。」

勝家はこの報告を受けると信長に申し上げた上で、この使いの者を免し様々に馳走し、褒美を取らせ
彼を援助した。

(名将言行録)

上杉からの使者が怪しいので拷問にかけてみたが、「友好国の使者にこういうことするの?上杉を敵に
回す気!?」という内容を言われて待遇を変えた、という所でしょうか。


羽柴秀吉と柴田勝家の戦いは

2018年04月30日 17:49

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/29(日) 22:05:21.88 ID:u2Lcbudr
羽柴秀吉と柴田勝家の戦いは、その権勢の争いともいい、また信長公の御妹であるお市御料人が
その言われであるとも申す。

彼女は淀殿の御母であり、近江国浅井(長政)の妻であり、浅井と死別し、その母と
一所におられたのだが、天下一の美人の聞こえ有り、秀吉は彼女へ御臨みをかけられたのだが、
柴田勝家が岐阜に参り、三七殿(織田信孝)と心を合わせ、お市御料人を迎え取り己の
妻とした。

秀吉はこのことを聞くと激怒し、柴田を越前には帰さないと近江国長浜へ出陣した。
しかしここに丹羽長秀、池田勝入が扱いに入り、柴田勝家はお市御料人を同道して
越前への道を通った。

翌年三月、柴田方より近江柳瀬に出陣した。秀吉は大阪より出て近江長浜に砦を築き、
互いに足軽の合戦をしていた。

ここで佐久間玄蕃(盛政)が「かように日を暮らしていては意味がありません。」と柴田に進言し、
賤ヶ岳の下の湖畔を通り高山右近の出城を攻め落とし、玄蕃が直にその城に籠もった。

柴田は玄蕃に「深入りである。早く引き取れ」と伝えたが、玄蕃は「弱きことを言われるものだ、
旗下にて出城の一つも二つも攻め落とすべきなのに、急いで引けとは何事か。」
と引かなかった。

この時の事について、後にこう言われた
『玄蕃は柴田の指図のように引いておけば良かったのである。そこから5日のうちに、
秀吉方に謀反人が出て、柴田方の利運に成るはずであったのに、玄蕃が要らざる強味を出して
しまった』と。

実は筒井順慶が柴田と心を合わせ、秀吉を裏切るよう定めていたのだ。
順慶は其の頃大和伊賀両国を領する大名であり、返す返すも残念なことであった。

(祖父物語)

祖父物語の時点でもう、お市に「天下一の美人の聞こえ」があったなんて書かれていたんですね。
あと賤ヶ岳の時筒井順慶が秀吉裏切ろうとしていた、なんて話は珍しい。



698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/29(日) 22:08:58.58 ID:dJFLIRdd
賤ヶ岳で洞ヶ峠を決め込んだのか

「軍兵どもはかがむな!当たらぬものぞ!」

2016年06月16日 12:26

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 04:22:34.61 ID:qyrPuhLC
大納言様(前田利家)も折々御話になり、戸田武蔵殿(勝成)や猪子内匠殿(一時)
なども御話になったことである。

信長公の御時代、柴田修理殿(勝家)、森三左衛門殿(可成)、坂井右近殿(政尚)は
各々が意気盛んな言葉を申した武辺者であった。

鉄砲の玉が撃たれ来る時、柴田は立ちながらおられて、「軍兵どもはかがむな!
当たらぬものぞ!」と、御申しになった。

一方では、三左衛門殿と右近殿などは、「柴田じゃというても絶対に当たらないなんて
ことはない。武者というものはかがむ時はかがんで、鉄砲や弓矢に当たらぬようにし、
攻め掛かる時は押し開き、何にも構わず掛かるものである」と、申された。

これに大納言様は、三左衛門殿や右近殿などの言い分は功者であると仰せられた。

――『亜相公御夜話』



851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 06:55:04.08 ID:t3AlYHdJ
>>850
柴田は脳筋だから付き合いきれなかった、というお話しですね

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 07:01:00.39 ID:t8BHoxnC
勝頼は脳筋じゃねえだろ

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 07:01:32.26 ID:t8BHoxnC
あ、勝家だった。富田さんのところいってくる。

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 08:11:20.86 ID:FrL4idmq
狂犬の話かと思った

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 15:00:01.08 ID:krlDiNlY
戸田勝成に猪子一時って織田家の古株なんだな
知らなんだ

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 21:35:19.91 ID:H0UyalCR
>>850
鬼武蔵は親父の言葉どおりしゃがんでたのかな
それで撃たれて死んだならかなり恥ずかしいな

死せるエムベロルの妻の弟なる柴田殿

2016年02月18日 18:02

174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/18(木) 16:53:07.51 ID:gfgaEMBE
死せるエムベロル(織田信長)の妻の弟なる柴田殿(Xibatodono)は、信長の遺族中、最も近い
親類であったが、羽柴藤吉郎の行為を快からず思い、力を極めて彼に抵抗した。ここにおいて、
藤吉郎は柴田殿を滅ぼさんとその居城を囲んだ。

柴田殿は突然攻撃を受け、免れる事ができないのを知り、将士を尽く集めて言った
「卿等は予の窮境をしらん。予は残虐なる暴王に屈せんよりは、むしろ自殺せんとす。
予の願う所は、予が死したる後は卿等が予を火葬するにあたり、不人情なる叛乱者をして
誇らしめるべき何者をも残さざるように成してほしいという事である。
卿等は生命を保たんがために如何なる談合を成すも可なり。」

しかし万座の者達は、柴田殿の決心を賞賛し、みな柴田殿の例に倣わんと決心した。

柴田殿は彼らの忠義に感じ、この世の別れとして宴をおこない、食卓上には様々な肴を具え、
ある限りの楽器を鳴らし、彼らの好む茶、および酒を飲み交わし、かくて饗応も静まるころ、
彼らは起きて各種の燃焼物を部屋に満たし、これに火を放つと、焔煙は屋を貫いた。

ここにおいて、残酷なる饗宴が始まり、柴田殿は先ず妻子、僕婢を刺殺し、あるいは重傷を負わせると、
彼の諸将もこれに倣って同様に親族従者を殺した。次に彼らはこれらの死骸を火中に投じ、その上に立ちながら
切腹して果てた。

時に藤吉郎は、城中に火災が起こったのを見て、偶然の失火だと思い好機を逸してはならないと
総攻撃を命じたが、門といい城壁といい何らの戦備も抵抗もなく、ただ未だ焼け終わらない
数個の死骸を見たのみであった。

藤吉郎は柴田殿の城を陥れて都に帰るや、最初の名の藤吉郎のみならず羽柴の名も改めて、
関白殿、すなわち日本の最上卿と称し、1594年以降は太閤様と名乗った。すなわち大エムベロルの事である。

(モンタヌス日本誌)

モンタヌス日本史より、柴田勝家の最期についての記述である。



フロイス書簡から、柴田勝家の最期

2015年01月20日 18:43

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/20(火) 15:42:47.78 ID:0TlXsLFW
もうすぐセンゴクの勝家が死にそうなのでフロイス書簡から勝家の最期

六月三日、羽柴は勝利を保ちつつ全軍をもって越前国に侵入し、
柴田がわずかな手勢と共に逃げ込んだ北庄の城を包囲するに至った。

彼はすでに六十歳になるが、はなはだ勇猛な武将であり、また一生を軍事に費やした人である故、
広間に現れると彼に侍していた武士たちに向かって、
「予がここに入るまで逃れてきたのは武運によるものであって、予が臆病なためではないが、もし予の首が敵に斬られ、
 予と汝らの妻子や親戚が侮辱を受けるならば、我が柴田の名と家を永久に汚すことになる故、
 予はただちに切腹し、この身は敵に発見されぬよう焼かせるであろう。
 もし汝らに敵の赦しを得る術があるならば、その生命を永らえさせることを予は喜ぶであろう」
と簡明に語った。

一同、
「武士のみならず、その妻子までがことごとく必ずや彼に倣い、来世まで随従するであろう」
と答え、柴田はこれに対し、
「汝らが速やかに決心し、予と同じ意志であることを大いに喜ぶが、
 ただ心苦しく思うのは汝ら一同の予に対する愛情に報いる術がもはや今生においては得られぬことである」
と言った。

そして彼は数多くの馳走を運ばせて彼らに振る舞い、酒を飲んでは楽器を奏して歌い、
大いに笑い楽しむ様はあたかも戦勝祝いか、夜を徹しての宴のようであった。
城の各部屋と広間にはすでにたくさんの藁を積み、戸も窓もことごとく堅く閉じ、
城を包囲する敵に向けて城内から銃を一発も撃たなかった。
城外の兵士らは内からまったく武器の音がせず、陽気な歌声が盛んに聞こえてくることに驚いた。
事ここに至って柴田は藁に火薬を撒き、家屋が燃え始めると誰よりも早く、信長の姉妹で数ヵ月前にめとった妻と
その他一族の婦人たちを殺し、続いて短刀で己の腹を十字に切り、その場で息絶えた。
他の武士および彼と共に内にいた残る人々も皆、同様にまず己の愛する妻子を殺した。
すぐさま前述の歌に代わって、はなはだ大きな悲鳴と鳴き声が聞こえ、燃え広がる炎が生ずる音よりも高く恐ろしげであった。
彼らは幼い子供たちの年齢や涙を少しも顧みず、全員を殺した後、ある者は自らの手で、またある者は互いに差し違えた。
そして、この痕跡を消すべくただちに火の手が回り、同署にあった憐れむべき亡骸を焼き尽くした。
羽柴やその他の敵に城内で起こったことを完全に知らせるため、柴田は死ぬ前に諸人から意見を徴した上で、
話術に長けた身分ある老女を選び、右の出来事の一切を目撃させた後、城の裏門から出して敵に事の次第を詳しく語らせた。
こうして、信長の時代の日本でもっとも勇猛な武将であり果敢な人がこの地で滅び灰に帰した。




柴田勝家の肖像画

2014年01月25日 18:39

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/25(土) 06:29:53.95 ID:iQ6lVeQj
柴田勝家の肖像画

賎ヶ岳の戦いに敗れた柴田勝家は北ノ庄に落ちると、城下の僧を呼び寄せ敗残の将の姿を描かせ城を枕に自害を果たした

現在、柴田勝次郎氏の所有する柴田勝家の画像は有名だが保存状態が悪く、あちこち欠損しているために胴や袖の細部が判らない部分が多かった

しかし同じ絵の写本とされるものが江戸時代に纏められた『本朝名将百図』に残されている

図版の「柴田勝家図」はちぢれ毛(天パ調?)に破れ袖、膝の脇には前立付きの兜も描かれている他に
腕や臑、足は剛毛で被われ
注釈には「面赤メ」等といった書き入れも見受けられる

写しのために原本と景色が幾分変わるかも知れないが
当時の人名の判る武将像を伝える貴重な史料と思える

※絵の兜の前立は有名な連鳥の家紋に脇立の着いた物ではなく、三つ柏葉?の様なもの

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/25(土) 06:35:36.13 ID:iQ6lVeQj
『本朝名将百図』の肖像画は「柴田勝家」で画像検索をすると
陣羽織無し・龍の絵の描かれた鎧の像として出てきます





柴田殿の分別類いなし

2013年04月07日 19:03

941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 20:23:19.27 ID:uiONzrgf
柴田修理亮勝家が越前を領した年の事である。

その城下に、美々しいなりをした60ばかりの老婆が、人を数多召し連れ宿を取った。
この老婆は城下の者達に

「人の妻女を押し取って都に登らせる、その邪魔をする者あれば処罰いたす!」

と言い、実際に5,6人のものがこの老婆のもとに拉致された。これは下々の者では解決できないこであると、
領主である勝家に訴えが上がり、勝家は

「なんという奇妙な事件だ。急ぎこの者たちを連れて寄越せ!」

直ぐに家臣たちが老婆の元に行き「殿よりの仰せである!すぐに来るのだ!」と言ったが、老婆は

「修理殿は慮外なことを言うものかな。我に来いなどと言うのはおこがましいが、行ってこそ
知ることもあるだろう。」

そう言って乗り物で城へと向かった。
勝家は老婆と対面すると

「お前は私の町中に入って、人の妻女を理不尽に取って行くと言うのは、一体どういう理由からか?」

老婆が申すことに
「御身は事の様をご存じない。私は信長公に召し置かれたものである!
信長公の御意に入りそうな女房があれば、この国に限らず、どこの国であっても見立て次第に
連れてまいれ、との仰せによって私はここに来ているのだ。
これを偽りであるとお考えになるなら、人をやって信長公に訴えなされ!」

勝家はこれを聞くと暫く考えた
『この老婆の言うことはきっと真実なのだ。であるが、信長公はなんと前代未聞の無道を
なされることか。尋常のことではないが、ここで何とかせねば。』

そして

「老婆よ!お前は何と恣に振舞っているのか!?そもそも信長公は世の政法を正しくされ、
無道の輩を罰されるのが常である。
人の妻女を拐かすのは、その咎至極であること、前代よりの定法である!

信長公ほどの賢君を無道の犯罪者の如く語ったこと、その罪軽からず!」

そうして老婆とその配下十余人を召し捕ると縛り付けて船に載せ、大海に漕ぎ出し、
そこで穴を開けて沈めた。
その後、勝家はこの事を包み隠さず信長に報告した。

信長は勝家からの報告を見てたちまち興を覚まし、何も語らず、

『柴田の忠節の仕置、神妙である。今後そういった者があれば、私の方に知らせるように。』

と返事を返した。
これ以後、信長はこのような行為を思いとどまり、人々は、柴田殿の分別類いなしと喜ぶこと限りなかった。
日頃”鬼柴田”と武勇と呼ばれているが、それだけの事はあると、褒めぬ人は居なかったという。
(義殘後覺)


参考
柴田勝家と信長の女狩り・いい話


942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 22:06:48.08 ID:s8JE6rh5
織田が無道…すまん

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 22:28:36.59 ID:3fiOjRyy
何で人妻…

944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 22:44:08.38 ID:DOwNY/e1
何で婆さんに頼む…

945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 23:34:30.74 ID:I4IGnLHk
穴を開けて沈めたって船に穴開けたってこと?

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 23:39:19.05 ID:Ccjgq9sW
太平洋でやれば補陀落渡海できたのに

947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 00:07:06.68 ID:aXA4HYNI
>この老婆の言うことはきっと真実なのだ。

勝家の中でのノブ酷いな

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 00:27:09.55 ID:RglCw+fd
ソマリア沖で海賊をボート1艘に押し込めて漂流の刑にした某ロシアを思い出した。

>>947
信長に取り立てられて恩義を感じる奴は多いだろうけど、
信長の人柄に心服している人間なんていなかったんじゃない?w

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 01:01:47.91 ID:vtfZ77yE
>>947
まあ信長の蛮行に呆れて敵対してた時期ありますしwww

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 02:10:18.91 ID:27qIEd/T
わざわざ船に押し込めて沈めるて、フランス革命のヴァンデ反乱みたいだな

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 04:57:16.95 ID:5cbBzom4
この話は既出だね。

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 09:55:54.39 ID:3z5WgOEd
信長の有力家臣でずっと忠誠していたのは丹羽と池田ぐらいじゃないの。

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 10:10:30.94 ID:lWQzATh/
佐久間信盛「…」

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 12:42:37.53 ID:oUb71fmX
既出の話にしては記憶になかったから調べたら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-42.html
なるほど、随分前の話だったか

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 13:36:37.25 ID:MAND/M52
>>952
池田が有力なら川尻も有力でいいんじゃね

956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 15:17:15.47 ID:27qIEd/T
安心と信頼の森家

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 15:40:09.72 ID:56uDSA8a
池田が有力家臣とか(笑)

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 18:34:07.20 ID:aeCUbO6X
有力じゃないの?

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 19:18:41.81 ID:nlHdZ48x
有力ってのがどの程度のレベル指すか次第じゃない?
池田家は姉川の恩賞で2万石の城持ちになってるから有力幹部であることは間違いない
でもこのレベルの幹部は織田家中に数十人居るわけで幹部中の幹部の丹羽と並べて語るほどではない

天正十年十月、堀秀政宛、柴田勝家書状

2012年03月07日 21:50

270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 05:04:23.05 ID:L0jQzyS1
天正十年十月、堀秀政宛、柴田勝家書状

『覚

一・羽柴筑前守(秀吉)、約定違反のこと

一・清須において誓い、それぞれに印も押した置目について、秀吉は全く守っていない。
  政治の形が今までと全く変わったことに、庶人は不信を申し立てている。諸国の下々がそのように言っているのは
  当然のことである。政治が分明に、決まった通りに行われていればどうしてこんな事になるだろうか?

  羽柴筑前とこの勝家の間は、、元々は疎遠でなかったはずなのに、この頃では人々も不和だといっている。
  天下の織田家御分国を静謐にするという評定は当然のものなのに、清洲会議以来の秀吉の裁許は、言葉にもならない
  有様である。諸人がこれを不審に思うのも尤もである。
  
一・この勝家自身のことを言わせてもらえば、私は長浜を分配していただいた以外、米一粒、一銭足りとも私していない。
  申次の諸侍から、この事に対して私に嘆いてくるものが聊かあるが、そういった者たちにもその理由を申し使わして、
  道理のあるところをよくよく説明しているので、私の方では知行にも諸侍にも手心を加える事は一切無いのだ。

一・若子様(三法師)の事だが、惟住五郎左(丹羽長秀)より、岐阜に申し上げるべきだとの意見により、各一同の
  兼ねてからの約束通りに、岐阜から安土への御動座をされるようにと、岐阜へも、五郎左へも返事をした。
  その墨付は双方に存在している。

一・今度の上様(信長)のご不慮によって、天下は混乱し治め難き様相となった。未だ四方に敵があるのだから、
  内輪は対立を自重し、上様の行いを引き継ぎ四方に馳せ走る。上様がおられなくてもそのようにするのが
  本来で有るべきなのに、全くそのようになっていない。

  一方で家康の行動を見てみろ。彼は度々の上様の御動座によって、武田一類を尽く討ち果たし、その後の平定を
  仰せつかった。ところが北条が、彼らは上様御在世中は上様の御意に従っていたというのに、状況が変わると
  その態度を一変させ織田の軍を攻め家康と対陣に及んだ。事ここに極まって、天が味方もしてくれたのだろう、
  徳川家の者共は皆で一致してこれに立ち向かい、即座に追い崩し討ち果たした。誠に上様の時より続く軍忠、
  これは上様へのお弔いにもなるもので、かつ天下の誉れ、これに過ぎるものはないではないか!

  しかるにそんな事を考えもせず、御分国の内に私的に新城(山崎城)を建設するなど、様々な我意を通している
  秀吉は一体、誰を敵としているのか!?
  政治を担当するものがそのような事をするのは許されないものである。私と彼との関係が悪いといっても、
  今は心をあわせて、上様のご苦労によって治められた織田家御分国をあい治め、御分国の政治を、たとえ
  上様には及ばなくても、相守るべきなのである。
  このままでは結局共食いをして双方果て、織田家の領国も他人の国になってしまうだろう。
  これは我々一同の本位ではないだけではなく、天道にも背いた行いであろう。
  しかし今、情勢はそのような方向に向かっていることが、無念至極なのである。


                   柴修 勝家(花押)
天正十年十月六日
  堀久太郎殿』
  

清洲会議の約束を守らず独自行動を拡大する秀吉に対する、柴田勝家の危機感が溢れる書状である。
(南行雑録)







272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 06:59:47.53 ID:1pP/TvnR
>>270
平山優が「天正壬午の乱」で一部を紹介してた手紙だね。

秀吉と勝家が争い始めたせいで、予定されてた織田政権
からの援軍が貰えなくなったとあった。

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 07:43:57.22 ID:9YCq36jo
>>270
火事場泥棒的に甲斐、信濃掠め取ってる家康褒めてるwww
そこも織田領だから

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 07:50:37.32 ID:1pP/TvnR
>>273
それは事実誤認。
家康は、ちゃんと織田政権の許可を貰って侵攻してる。


275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 07:56:52.37 ID:4UlnHobY
「援軍を送れないのは~だからだよ」という勝家の書状か、なるほど

>>274
織田政権っていったい誰?

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 08:15:35.47 ID:1pP/TvnR
>>275
具体的に侵攻を認める書状を出したのは秀吉。

勝家の手紙でも判るように信長亡き後の織田家は、清須会議の
結果を受けて重臣の合議制で進めることになってた。
だから、織田政権扱いにしてる。

277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 08:23:26.73 ID:2yGOlGLa
あと織田信雄からも織田信孝からも、家康に対して充分な援助ができないことを詫びる書状が出てたりするね。
織田家中では争っていても、対北条に関しては意識が統一されていた。
家康の甲斐信濃侵攻は、織田家の完全な支持のもとの行動だったわけだ。

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 08:28:48.98 ID:VeIse7g4
うーん、時代に置いていかれた感が漂う文面

279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 08:43:37.32 ID:bmHT1+x3
>>273から漂う家康アンチの臭い

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 09:45:53.50 ID:iaQ7qK/H
ていうか、上杉や北条が攻めてきてるのに切り取られるがままにしておく方が問題だろ。
「織田から許可取ってないから黙って見てました」じゃ済まん。

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 10:22:28.35 ID:O9eygUz0
>>277
織田の援軍が、信雄からの三千で終わっちゃったからね。
北条との和睦の時には、ちゃんと信雄、信孝が仲介したけど。


282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 10:41:32.15 ID:N92JjHc1
埋められたり北条にボコられて逃げたりしたからしょうがない

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 12:16:21.79 ID:iCWn/gbD
肝心の織田家が内部で争いを始めていたから、家康がおいしくいただいてももしょうがない

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 12:27:57.43 ID:a20rsPRR
鬼武蔵さんが無責任に帰っちゃったのがいかんかったよね、河尻さん滝川さんが惨いめにあったの

285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 13:12:49.90 ID:ouTTO3FR
滝川一益はともかく、
川尻も鬼武蔵も在地武士たちから恨み買いまくりだったからな…
逃げるか殺されるか二つに一つだったと思うよ

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 13:16:29.11 ID:Wc6mNpzP
鬼武蔵さんならそこは返り討ちにして欲しいところだが、足場が固まってない・
多勢に無勢・自陣は浮き足立ってるってのじゃ逃げるしかないわな。

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 13:18:32.88 ID:cXUR8w+6
いや、でも家康の甲斐・信濃獲りは、火事場泥棒とかおいしく頂いたとか、そんな
生易しいもんじゃなかったと思うぜ。確かにあの時しかチャンスはなかったとは
いえ、中身を見ると、けっこうムチャしてるから。ここぞとばかりに甲・信に大兵
力を送り込む余力があったわけでもないし。家康にとっても大きな賭けだったんじ
ゃないかと。
失敗して逆に徳川がぶっ潰れてた可能性も十分あったと思う。北条が出てきた後
なんか特にね。完全に数的不利の状況でぶつかったわけで。
当時の徳川にとってある意味、身の丈以上の冒険。

家康って、後に天下とっちゃったからイメージ的にちょっと大物感あるかもしれ
ないけど、独立後は対今川でも対武田でも対北条でも、基本的に相手の方が兵力的
にずっと有利な状況で、辛抱強く戦ってきた立場だったんだから。


288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 13:34:23.20 ID:ouTTO3FR
家康が秀吉に臣従するまでに戦った格下って真田くらいだよな・・・

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 14:41:17.84 ID:O9eygUz0
>>288
木曾義昌とかもいるよ。

本人が出馬してるケースだと、三河や遠江辺りの
国衆を相手にしてる時くらいかな。

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 19:55:30.71 ID:2TvwxyNL
その国衆だって今川や武田のついていたような連中だしなあ

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 20:19:43.49 ID:TTvOZGf5
三河一向一揆

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 20:20:27.93 ID:TTvOZGf5
真田だって当時は上杉配下だ

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/08(木) 09:15:48.51 ID:yyCUGesD
>>287
まぁそれだけのことができるからこそ織田も同盟という関係を続けわけだわね。

使えないならどこより先に信長が潰して自分の手駒置いてただろしうな。

わしは何者が出頭したとしても恐ろしくないぞ!

2011年04月15日 00:00

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/14(木) 21:33:12.17 ID:I0Q0kNCW
柴田勝家が織田信長より越前を与えられた頃のこと。
勝家はある夜、その配下の武将を集めて振る舞いをした。この時勝家、酒も入って大変に機嫌よく、
前田利家にこう話しかける

「又左殿(利家)聞き候え、最近はあの表裏者である菅屋(長頼)や明智(光秀)が信長公のお側で出頭しておる。
又左殿!指を折って考えてみよ!今まで26回、この柴田の手柄故に勝利を得た!
そして信長公直々のお礼も承った。わしは何者が出頭したとしても恐ろしくないぞ!
さあ又左殿も指を折って数えるのだ!」

これに利家

「おやじ(勝家)は人持ちでもあるから、先陣をされて度々手柄もし、また槍を入れることも半鐘を鳴らすように
度々であって、その武勇は今の世には並びなき人です!
では私も言わせていただきましょう!」

と、指を折りつつ利家がこれまで、所々でなした18度の手柄について語った。
これに柴田勝家は一層機嫌良くなり、

「細々としたことを期限に間に合わせ、どうということもない内容を格式張って話す、そんなことをいくら
嗜んだとしても、合戦での働きがなければまるで意味のないことだ!
今の時代は武勇を仕ろうとするなら、いくらでも機会がある世の中である!
又左やこの柴田は、信長公へも傍輩衆へも、その前に出て恥ずかしくないぞ!」

と言い、大いに笑ったそうである。
(利家夜話)

ただ逆に見ればここまで意識している以上、この時期菅谷や明智といった人々が、信長の傍で
一種の文官的権能により権力を拡大させている事に、内心何らかの驚異や圧迫を感じていたと
見るべきで、そんな状況を勝家も酒の席でこのように、憂さを晴らしていたのだろう。

そんなことを想像させる、柴田勝家の越前での酒宴のお話。




665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/14(木) 21:55:26.12 ID:ULTcU9KJ
特に菅屋の存在は面白くなかっただろうな。北陸方面軍にとっちゃ目の上のたんこぶ。

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/14(木) 23:40:57.36 ID:AjXCYMNe
悪い話と言うか、色々切ない話だな・・・

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/15(金) 01:21:26.48 ID:D7KaAIKS
しかし光秀だって結構戦場で手柄立ててる気がするけどな

668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/15(金) 02:25:33.81 ID:vWJu+lLU
奉行衆のエリートで片手で数えれるくらいしか実戦に出てない菅屋と一括りにされるのはちょっとなw

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/15(金) 02:53:53.64 ID:aE+5u85H
>>667
つか光秀といえば戦上手で有名やん。

670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/15(金) 02:55:09.46 ID:gppu6zFr
>>668
菅屋の武功ってそこまで少なかったっけ?

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/15(金) 06:38:16.51 ID:iqyJ7Ytf
ノブヤボに出てこない武将はわからない

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/15(金) 06:45:24.11 ID:LrOYMMgE
戦働きしかできない古いタイプの武将が抱える鬱憤みたいなもんか

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/15(金) 07:32:55.32 ID:vY6f+QCc
越前の織田神社が、利家や成政、光冶に信長の朱印状を握りつぶされて荒れ放題だった時、
実情を知った信長の意を汲んで、
「ちゃんと仕事しろよ。下手な弁解したらどうなるかわかんねえからな」
と書状を送ったのが菅屋なんだよね

でもさ、菅屋くらいの世代になると堀秀政みたいな例外を除いて近習ってほとんど前線に立たなくなるよね
やっぱり信長自身が前線に出ることが少なくなったからなんだろうね

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/15(金) 09:07:06.68 ID:OieZABso
例えば万見重元なんかは有岡城攻めに軍監として参加したのだけど、
血気にはやったのか総攻撃に参加して戦死している

記録はないけれど、もしかしたら信長から「参加するな」という厳命が出たのかもね

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/15(金) 09:31:15.64 ID:c1ulH4TY
軍監が我先にってのは役目が違うだろうからなぁ・・・

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/15(金) 09:31:19.06 ID:vY6f+QCc
万見が戦死した時の有岡攻めは信長自身が出向いてるよね
桶狭間や朝倉追撃戦みたいに、こういうときは馬廻りや小姓連中が手勢を率いて相手に向かったりしたそうだよ
ちなみにこのときは菅屋・堀・万見の3人が鉄砲隊を指揮していたそうな
で、城内の内応者の合図で突撃したら最愛の万見があっけなく討ち死にしちゃったと


677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/15(金) 09:35:20.60 ID:/fOP8BgW
最愛はお蘭でねーの

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/15(金) 10:18:11.91 ID:SGA9LXth
万見と長谷川には及ばない

679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/15(金) 12:06:05.43 ID:h2rv/tG2
万見が死んだから蘭丸に移行したんじゃね?

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/15(金) 18:37:21.72 ID:vWJu+lLU
>>670
ほぼない。

行政関係では抜群だが。

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/15(金) 21:30:37.62 ID:Z1dZtoP9
菅屋は野望に出たら政治90とかそんな感じかしら

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/15(金) 21:34:42.59 ID:cheFDZ1M
蘭丸は大して活躍してないのに、なんで兄が信濃に移った後の兼山5万石をもらえたんだろうか?
堀秀政の長浜2万5千石より多いじゃないか。

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/15(金) 21:51:06.57 ID:67xD98a9
わかってるくせにw

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/15(金) 22:29:10.75 ID:5uJs87VM
でも森家は死亡フラグ立ってるしな

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/15(金) 23:27:21.44 ID:J8zIrcwP
菅屋さんの先代は森可成みたいな立場だったんかねえ>信長直属軍部隊長みたいなの

690 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/04/16(土) 07:28:20.36 ID:LElC96TQ
>>686
親父さんなら、小豆坂で活躍したひとかどの武将だっはず

小姓・馬廻りという意味でなら、利家や成政たちのあとの連中かな
古株の信長近習にいびられて、耐えかね切り捨てて出奔
徳川からの誘いをけって織田家への帰参を願っていたけど、三方原のときに佐久間隊に属し討ち死にしてる

詳細がわかればひとつの逸話にできるんだけどなあ

若武者と手植えの松『死なば墓場のしるしとやせん』

2011年01月08日 00:00

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/06(木) 23:37:14 ID:iq9DhIn8
何年か前に地元紙に載ってた話。うろ覚えなので色々おかしいかもです。

時は天文の頃。尾張の国に初陣を迎えようとしている若武者がいた。
戦支度で忙しい中、城主の息子である若武者の姿が見当たらない。
はてどこへ行ったかと家中の者が探したところ、城の裏手で見つかった。
初々しい具足姿で泥だらけの両手を合わせ、一心に何かを祈っている様子だった。

「若、何をしておられるのです」
「ああお前か。すまぬな、すぐ行く」

若武者はその場を離れ、声をかけた家中の者と連れ立った。
その者は不思議に思い若武者のいた場所を振り返って見たが、
それこそ木立ちがあるばかりだ。

「何をあのように祈っておられたのです?」
「いや、大したことではない。気にするな」

このとき若武者は、城の裏手に一本の松を植えた。そして次の歌を詠んだ。

 『初陣に松一本を手植えして死なば墓場のしるしとやせん』

残念ながら、この戦については資料が残っていない。
相手は誰だったのか、規模はどのくらいだったのか、勝算は高かったのか低かったのか。
それらは推測するしかないが、彼の根城はそれほど大きなものではなく、
あるいは城を枕に討ち死にすることを考えていたのだろうか。

結果的に彼はこの戦では死なず、その後も幾度もの戦を潜り抜け手柄を上げ、
長じては天下布武を掲げる男の下、織田家の筆頭家老にまでなった。
主君を失った後、かつての同僚に敗れ越前は北ノ庄城で自害、その生涯を終えた。

松を植えた故郷から遠く離れてはいるが、やはり自らの居城が墓場となったのである。
彼の戦に臨む覚悟は、その初陣の頃から変わらなかった、と言えるかもしれない。


柴田権六勝家の生誕地、明徳寺に伝わる逸話でした。




丹羽長秀宛・柴田勝家書状より、濃美国境問題

2010年11月10日 00:02

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/08(月) 21:45:53 ID:A4Tw86r4
天正10年、本能寺の後秀吉によって明智光秀が討たれ、清洲会議によって
当面の体制が決まった。その頃出された、丹羽長秀宛、柴田勝家書状より


『尾張と美濃の国境のことですが、私の方にも御兄弟様(織田信孝・信雄兄弟)双方より
同時に言ってこられています。

この両国が御兄弟様に渡された以上、国境を決めて分けるのは当然のことではありますが、
三七郎殿(美濃を領有した信孝)は

「大河(大川)を国境にしないのなら、自分の家臣たちからは勿論、百姓たちからまでも
不満の声が出るのは間違いなく、領主としてそういうことは出来ない。」

とおっしゃっています。

三七郎様は前々から大河を国境とするよう主張されていますが、これを国境とすれば東部において
尾張の三郡が美濃に編入する事になり、これを目論んでそう言っておられるのでしょう。

三介殿(尾張を領有した信雄)は旧来の古木曽川(足近川)による国境線を主張し、
当然ですがご同心ありません。』


この、濃美国境線問題における対立は羽柴秀吉が漬け込む絶好の隙となり、
間もなく賤ヶ岳を引き起こし、織田体制を完全崩壊させることとなるのである。


織田家体制崩壊の端緒となった、信孝と信雄の国境問題についてのお話。




474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/08(月) 23:34:31 ID:7t9ra+0k
これは信孝が悪いのかな?

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/08(月) 23:41:20 ID:A4Tw86r4
>>474
おそらくこの頃川の流れが変わって、古木曽川が衰退しこの大河というのが現在の木曽川の
流れを形成し、尾張三郡が岐阜側から見て川の内側に入ってきたと考えられるわけです。

なので信孝の立場から言えば、行政の一体化から言っても川を国境とする慣習から言っても
国境の変更が正しく、信雄からすれば当然受け入れられない、という対立ですな。

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/09(火) 00:09:39 ID:oqSRgyQZ
>>475

詳しくありがとう。
これは勝家も困っただろうね。

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/09(火) 00:13:43 ID:y7kThAtc
江戸時代初期にも利根川の付け替え工事で
武蔵=下総の国境が大きく変わってるからなぁ

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/09(火) 00:14:29 ID:usvRIPA2
>>476
ついでに言うと信長・信忠が濃尾両国を支配していたときはどうも、その尾張の三郡は
美濃側の行政区域の中に入ってたっぽいのね。

なので信孝としても現地の領民としても、当然それが踏襲されるべきだと考えていて、
それに対して信雄が旧来の国境線を主張した、という感じみたい。