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小幡信秀の逃亡・いい話

2009年06月19日 00:08

558 名前:1/2[sage] 投稿日:2009/06/18(木) 17:57:35 ID:M7XWHW+T
小田原の役の時の南上州、この周辺の主城である国峯城の枝城、宮崎城(現群馬県富岡市)は、
双方の城主、小幡信貞が小田原城に籠ったため、いまだ幼少の弟、小幡信秀が
城代としてこれを守っていた。
が、ここにも前田、上杉を中心とした3万5千ともいう大群が押し寄せる。

水の手を切られた宮崎城の者たちは、例の如く米を流して水に見せる、等の奇策で
この大軍をよく防いだ。
しかし彼我の差はいかんともし難く、落城ももはや間近、と言う事態に陥った。

この時小幡氏の重臣、浅鹿民部は、小幡信秀に言う

「敵は大軍であり、もはや防ぎようがありません。信秀様は今すぐ、一先ず何処かへ落ち延びてください。
私はこの城に残り、夜になってから城に火をつけ、ご自害なされたかの態に見せ、
その後、後を追います。どうかお早く!」

信秀は是非も無く、日が暮れると供も連れず城外へと出た。
彼は、「南の方の秋畑は山地なので、敵も来ないだろう」と考え、見つからないよう、
樵夫の通路だと言う草深く曲がりくねった道を行った。
そのうちに峰に上り国峯のほうを見ると、城は焼け、炎が天に登り、まるで昼間のような
明るさであった。国峯城の屋形、櫓が焼け崩れる音、敵の勝ち鬨の声が聞こえてきた。

信秀は心細くなり、民部たちが、そろそろ自分に追いついてくるかと振り返りつつ小柏の峠まで
進んだが、誰も来はしなかった。
こうして一人で歩き続け、鹿島(現群馬県伊勢崎市鹿島)という場所に着いた頃に、空が
白んできた。


559 名前:2/2[sage] 投稿日:2009/06/18(木) 17:58:20 ID:M7XWHW+T
信秀はあせった。「夜が明ければこの地の者たち、私の姿を怪しみ絡め捕り、
敵陣に注進するだろう。そうなったらせっかく落ち延びた意味が無いではないか。どうしたものか…」

ふと見るとその地には、大きな森があり、その中に入っていくと、大きな神社があった。
そう、地名からもわかるように、ここには鹿島大社があったのだ。
「鹿島神は軍神と伝え聞く」、信秀は心細くなり、どうか無事に守り給えと祈り、
こっそり社殿の中に入り隠れて、眠った。

やがて日が暮れると起き出し、暗闇にまぎれて、方角もわからぬものの、谷川の流れを頼りに
歩いた。
谷から峰、峰から又谷と十里余りも歩くと、日野山の北、大沢と言う所に着いた。
先の鹿島からは、街道を通れば僅か3里ほどの場所である。信秀は疲れ果てた。

ふとその先を見ると、堂らしきものがある。近寄るとそれは、不動明王の尊堂であった、
これに信秀は「日野では鹿島明神の下で一夜を明かし、今日は計らずも不動明王を拝すとは、
不思議な因縁だ。」と喜び、明王に無事を祈ると、御堂の柱に寄りかかり、そのまま
眠り込んでしまった。

さて、夜が明け日も高くなった頃。雨引村(現群馬県甘楽町)の向陽寺と言う寺の住職、
伝州と言う僧が。この尊堂を訪れた。不動明王に詣で、読教をしているとき、ふと見ると、
御堂の柱の所に、歳の頃12,3ほどの、清らかな侍が眠っている。
僧はこの侍の服装や武具の立派さに不審を抱き、供の僧を呼んだ、するとその声に
信秀は目を覚ました。

が、信秀は余りの驚きのため、口も利けないようであった。そこで伝州和尚から
「私はここの燐村、雨引村は向陽寺の住職です、毎月28日にはここに参詣をいたすのです。
ところであなたはどういう方でしょうか?」

信秀、ようやく落ち着いて
「どうかこの事は、人には知らせないで下さい。
私は国峯城主、小幡信貞の愚弟です、この度の大戦に打ち負け落城におよび、是非も無く
ここまで落ち延びてきました。」

これを聞いて伝州和尚は驚いた。「これはまさしく不動明王のお引き合わせでしょう!
どうか我が寺にお越しください!」

実はこの伝州和尚、甲斐武田氏の一族であり、かつては武田軍に加わり戦った事もあった。
そして信秀の小幡氏は無論、かつて武田家に仕えた家である。

和尚は、信秀を村童のようにして扱い、隠し通した。
やがて戦争が止み、関東に徳川家康が入ってくると、信秀はこれに名乗り出る。
家康は信秀を取り立て、徳川家の旗本とした。

小田原の陣の、とある少年の逃避行、のお話。




562 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/18(木) 21:20:44 ID:lGg+z5rK
不思議な縁だなあ


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