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館林城と決定命婦荒御前

2019年11月27日 16:07

385 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/11/27(水) 13:07:06.45 ID:pmzO3enF
豊臣秀吉による小田原の役の折

東上野の館林城主は北条美濃守氏規であったが、彼は豆州韮山に立て籠もっていたため、
この城は南条因幡守が城代として在り、板倉の真下越前守、飯野の淵名上野介、大島の片見因幡守、
小泉の富岡六郎、藤岡の富田又十郎、以下五、六千人がこれを守っていた。

この館林城攻めの軍勢として、石田治部少輔三成、長束大蔵少輔正家、大谷刑部少輔吉継、
早見甲斐守守久、野々村伊予守雅春、伊東丹後守長実、中江式部少輔直澄、松浦安太夫清長(宗清)、
鈴木孫三郎、並びに佐竹義重、宇都宮国綱が東国の先方衆の陣代としてこの軍勢に列し、五月二十二日、
館林城へ押し寄せた。

この城の盗難は躑躅ヶ崎といって渺々とした深い湖沼であり、人馬が通行するのは不可能であれば、
攻め手は味方を三手に分けて、三方より攻め掛かった。西の大手は石田、速水、中江、並びに
佐竹宇都宮勢七千余騎、佐川田の渡を越えて佐野口より押し詰め、大谷原の松林に陣を取った。

東方は下外張口の搦手より長束、野々村、伊東ら六千八百余騎が、東北の加保志口は大谷、松浦、鈴木ら
五千六百余騎、都合一万九千四百余騎にて三方より囲み鬨の声を上げた。

一方、館林城中は多年激しい戦に慣れている勇士達であり、手ぐすねを引いて集まった者達が、
殊更に屈強の要害に籠もっているのだから、ここに支えかの所を防ぎと頑強に防衛し、簡単に
落ちそうに無く、寄せ手は遠攻めをして三、四日が過ぎた。
この時、石田三成が諸将に対してこのように提案した

「この城の東南に大沼があり城方にとって手明きとなっている。このため彼らは残りの三方に
集中して防戦し、故に屈強に抵抗している。そこで、人数を分けて大袋山に入って大木巨木を
切り倒してあの沼に投げ込ませ、また周辺の家を破却し、これらを用いて道を付けて攻め寄せれば、
敵兵は持ち口が分散され味方が攻めるのに有利と成ると考えるが、如何であろうか。」

これを聞くと諸将は皆然るべきであるとして、近くの郷村に触れを回し、料足(賃金)を与えると
呼びかけると、人夫二、三百がたちまち集まり、近辺の山林より大木を刈り出し昼夜を分かたず
大沼へ投げ込むと、二、三日の間に八、九間ばかりの二筋の道を付けることが出来た。
その間三方の寄せ手は意図を汲んで隙を与えず攻め立てたため、城兵はこの防御に手一杯となり、
大沼の方面へ人を出すことが出来ず、攻め手は難なく道を付けることが出来たのである。

さて、明日は四方より押し詰め総攻めにすべしと、手分け手配も定め、夜が明けるのを今や遅しと
待ち受けていた所、その夜、松明が二、三千ばかり灯され、続けて夥しい人の声がどよめき響き、
また普請している音も聞こえた。寄せ手は「城中に多数の者達が居るとも見えないのに、堀切、柵などを
付けているのだろうか。」と訝しみ囁きあいながらこれを聞いた。

一方で城中の方は敵勢を見て「何と夥しい敵兵であろうか。今はもはや四面このような状況であり、
我等はもはや牢の中の獣、籠の中の鳥の如くであるから、城から落ちることすら出来ない。
明日は潔く一戦をして討ち死にしよう。今生の暇乞いに、今宵は快く最期の酒盛りをすべし。」
と一献を催し、夜明けを待った。

386 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/11/27(水) 13:07:52.31 ID:pmzO3enF
夜が明け日が既に曉天に至った頃、石田治部少輔、佐竹、宇都宮ら四千余騎にてかの大沼に押し寄せ、
持ち盾械楯を先に立てて、それぞれに馬を乗り放って進み、近づいて見てみた所、二筋まで付けた
道の材木が尽く泥中に沈み込んでおり、どうにも渡れる状況ではなかった。
これに寄せ手は大いに驚き「さては前夜の人夫の音はこれであったか!」と言い合ったが、猶も
不審は晴れないまま、他の三方の攻め口にこの事を伝えた。

丁度その頃、山中城が落城し、そこを守っていた北条左衛門太夫氏勝は降伏、豊臣軍の案内として
こちらに着陣していたのであるが、これを聞いてはたと思い出した
「これは全く城兵の仕業ではない。かつて赤井但馬守がこの城を築き始めた時、野狐の変化が
地形の指南をしたという。その野狐は今以て城中にて祀られ鎮守の神として崇められていると聞く。
尾引曲輪がそれである。かつて永禄九年の秋、南方(北条)の軍勢が当所に押し寄せた時も、
このような神変があって囲みを解いた事がある。決定命婦荒御前というのがその野狐の名であるが、
これが成したことであろう。」

このように申し、また諸将も手をこまねいて奇異の思いをなしており、このような所に長陣は
無益であり、ここは和議をなして片時も早く忍城へ向かうべきだと考えていたため、この氏勝より
城内の南城、真下、富岡等へ矢文を射込み扱いを入れると、城方もこれに同意し、同月晦日に
城兵は退散した。これによって石田大谷が城を請け取り、数百ほどの番兵を置いて忍城へと向かった。

(関八州古戦録)

館林城の狐については、まとめentry-144.の『赤井照光と狐と館林築城・いい話』を参照


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豆州韮山城攻め

2019年11月03日 17:15

308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/03(日) 10:54:29.02 ID:5cUHPvts
豊臣秀吉による小田原征伐、豆州韮山城攻めでの事

この韮山城主である北条美濃守氏規は知勇兼ね備わり、信義仁徳に厚い武将であったため、
配下の者もよく美濃守に懐き、この度の戦いでは尽くが、主人とともに城を枕にと互いに誓い合った。

そして美濃守は平時より弓を良くし、その配下にも二人張り、三人張りの弓を引き、百発百中という
者が多かった。そのようであったので、箙(えびら)、胡祿(やなぐい)、尻籠(しりこ)、空穂(うつぼ)
といった矢入れも上等のものをあつらえ、そこから手早く取り出し射る矢は、刺矢も遠矢も威力があり、
雨あられと降る矢に仇矢は一本もなかったのである。

さらに加えて、鉄砲の名人が櫓の上や塀の狭間より眼下の敵を撃つのである。寄せ手は見る見るうちに
撃ち殺され、死人の山となった。

この時、寄せ手の蒲生氏郷勢の先鋒である蒲生左門(郷可か)は、采配を振るいよく下知していたが、
城中よりの鉄砲が左門の従卒に持たせていた槍の柄を真っ二つにした。さらにその弾丸は弾み、左門の
左目に当たった。しかし左門は血が滝のように流れ出ている左目に指を突っ込み弾丸を取り出すと、
そのまま尚も先頭に立って進んだ。この姿を見た味方も城方の兵も一様に感嘆し、

「彼は鎌倉源五郎景政(後三年の役で右目を射られながらも奮闘したという逸話が有る)の再来か」

と語り合ったという。

(関八州古戦録)

小田原役における韮山城攻めの様子



309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/03(日) 19:06:57.66 ID:tZVaJSMw
目ん玉取り出して食べた話かと思った

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/04(月) 02:43:07.67 ID:lxC86Rew
有能だったんだねえ

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/04(月) 06:13:54.90 ID:Op4v5g6D
目に弓矢ささる逸話は世界各国ありそうだ

「助五郎よ」「竹千代よ」

2019年10月21日 17:20

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/21(月) 14:26:08.65 ID:1elt2ogG
天正十年七月十九日、徳川家康は遠州引間郡浜松城を発進して、同月二十四日に甲州へついた。
柏原の傍らの勝山に旗を立て、そこに服部半蔵正成を残すと、自らは古府中の一条右衛門太夫信龍の
旧宅へと入った。そして若神子口へ大須賀五郎左衛門康高、榊原小平太康政、本多豊後守康秀の
三人を遣わしこれを守らせた。これは敵を古府中へ近づけないためである。

同月二十九日、北条氏直と対陣したが、所々方々で徳川方が切り勝ち北条方は不利となり、
十一月にはこれ以上持ちこたえられないと、北条氏政、氏直父子の命を受け、伊豆韮山城主である
北条美濃守氏規が両家和議のために働き、幸い上手くいって氏直が退陣することと成った。
しかし氏直は退くに当たって旭山に砦を築きそこに番兵を置いたが、これが家康の気分を害した

「氏直のやり方には表裏がある。この上は是非に及ばず、一戦を交えん。そもそも今度の和議を
受け入れたのは、中にはいった北条美濃守が今川義元の全盛の頃、その人質として私も共に
幼少を過ごしたよしみによるもので、本来和睦をしたくはなかったのだ。残念ではあるが
今は運を天に任せて一戦あるべし。」

そして徳川方は物見を出すと、若神子より長浜へかけて陣を固め、その上で家康の意を込めた
書状を朝比奈弥太郎泰勝に持たせ北条方へ遣わした。弥太郎はただ一騎で北条方の陣に向かうと、
平沢あたりに入り乱れて陣を敷いている所に駆け込み、まず大道寺駿河守直繁の陣へ行き、
徳川家康よりの使いの者である。北条美濃守の陣所は何処なりや」と叫んだ。

駿河守はこれを聞いて案内を付け、朝比奈弥太郎を美濃守の陣所へ差し向けた。氏規はさっそく
その書状を読むと氏直に会い、和議の件が相違ないことを確認すると、その証拠として大道寺駿河守の
嫡子である新四郎を人質とし、彼を連れて朝比奈弥太郎とともに家康の陣へ同道した。

新府城に在った家康に、榊原康政が奏者としてその趣を言上すると、家康は承知し美濃守と対面した。
二人は共に幼少の頃より長く今川に人質に取られていた仲間であり、「助五郎よ」「竹千代よ」と、
その頃の話を懐かしく語り合い、飽くことなかった。

やがて美濃守は人質の大道寺新四郎を鳥居彦右衛門元忠に預け陣所を去った。後刻、美濃守は改めて
新府城を訪れ和議が整った。その折に家康が鵜殿長門守(長忠)の娘に産ませた姫(督姫)を、氏直へ
輿入れさせる約束も出来た。かくして北条の軍勢は甲信の陣を払い十一月下旬に小田原へ帰陣した。
それから間もなく、家康は大道寺新四郎を小田原へと送り戻した。

(関八州古戦録)

天正壬午の乱の和睦についてのお話。



285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/21(月) 15:12:38.61 ID:nRo1POF0
>>277
一益さんの進退も見事だけど
>>284
家康さんもさすが動き速いね

士は終わる所に強い意地が

2016年12月26日 16:02

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/26(月) 13:14:43.95 ID:1WIkHi0K
 小田原陣の仲立ちとして、北条新九郎氏直から伊豆韮山の城主北条美濃守氏規へ自筆の書状を送った。
そこには『しかたがないが城を渡すべし』との事が書いてあった。
「しかしながらただ今まで、城に向かって矢玉を打ってきた人へはっきりとした理由無く
城を渡すのは本意ではない。家康公の家人を遣わされましたら渡しましょう。」
との趣旨を申された。
秀吉もその志が強く意地が爽やかなのを感じて、家康公から内藤三左衛門(信成)を遣わされて韮山の城を受取られた。
 とにかく士は終わる所に強い意地がありたいことである。
(武士としては)

北条氏規上洛の次第

2012年09月01日 20:57

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 04:00:10.54 ID:HwyrRaLG
北条氏規上洛の次第

天正十六年(1588)八月、北条氏規は上洛の途につき、十日には三河岡崎へ到着した。
案内役を榊原康政と成瀬藤八が務めた。
同十七日、京都へ参着。相国寺に宿所を構えた。


毛利輝元の家臣、平佐就言の日記『輝元公上洛日記』には以降の氏規上洛の次第について、次のようにある。

「八月二十一日、晴れ
(前略)
……この日(輝元)は紫野へ御参りされていたが、御留守の中、民部卿法印前田玄以より
『明日の午の刻(午後十二時)、北条美濃守(氏規)に(秀吉が)御対面されるので、御相伴に参られるように』
との由、御触があった。
御注文の衆は
尾張内大臣(織田信雄)、駿河大納言(徳川家康)、大和大納言(豊臣秀長)、備前宰相(宇喜多秀家)、越後宰相(上杉景勝)、
安芸宰相(毛利輝元)、
豊後侍従(大友吉統)、
薩摩侍従(島津義弘)、
筑前侍従(小早川隆景)、
新庄侍従(吉川広家)で、
『以上の方々は(秀吉が)北条に御対面するので、御相伴に明日の巳の刻(午前十時)に参られよ』との旨であった」

「八月二十二日、晴れ
辰の刻に宿を立ち、大谷刑部少輔殿(の所?)まで御出なされた。ここより殿様(輝元)は御冠に黒い御装束である。
巳の刻に聚楽へ参られた。隆景様、広家様、黒田官兵衛殿、大谷刑部少輔殿が冠装束して御供をした。
穂井田越前守、福原上総守、口羽伯耆守、渡邊飛騨守、松山兵庫頭、堅田兵部少輔、林肥前守が冠に赤装束で御供をした。
赤川主水佐、国司隼人佐、粟屋右近大夫が風折の立烏帽子に狩衣にて御供をした。
…関白様へ北条新九郎氏直より進物。
金覆輪の御太刀一腰。
馬十疋。
御鷹十一居。このうち一居は白鷺。
漆塗の桶十杯。
(方広寺)大仏御合力の詞書。
…北条美濃守氏規自身進物。
金覆輪の御太刀一腰。
御馬五疋。
綿二折を二千把。」
…午の刻(午後十二時)に御対面。取り次ぎは前野但馬守。冠装束である。
御通い衆、諸大夫は冠に赤装束。
御膳を冠装束の尼子宮内少輔が御配りした」

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 04:05:43.93 ID:HwyrRaLG
対面の席次は以下の通りである

一段高くなっている高間には秀吉と聖護院道澄、
秀吉から見て右方、上手には公家衆
右大臣菊亭晴季、
大納言勧修寺晴豊、
同中山親綱、
同日野輝資、
頭宰相(不明)ら。

庭のある縁側の下手には尾張内大臣織田信雄、
駿河大納言徳川家康、
大和大納言豊臣秀長、
備前宰相宇喜多秀家、
越後宰相上杉景勝、
安芸宰相毛利輝元
更に上手の後には
津少将上野介(織田信包)、
丹後侍従長岡越中守(細川忠興)
南寸野侍従藤五郎(長谷川秀一)、
岩倉侍従毛利河内守(毛利長秀か)、
伊賀侍従(筒井定次)、
豊後侍従(大友吉統)、
薩摩侍従(島津義弘)、
筑前侍従(小早川隆景)、
新庄侍従(吉川広家)など錚々たる面々が居並ぶ中、氏規は敦賀侍従(蜂屋頼隆)に次いで下手の末席を与えられた。

氏規と秀吉らが対面した広間は同年七月に輝元が聚楽第で初めて秀吉と対面した広間と同じもので、この広間の長さは(縦にだろう)十八間とあるから、威勢を示そうとする秀吉の意図が垣間見れる。

「…御三献があり、(秀吉は)氏規に御腰物一つ、脇差一つを差し遣わされた。
関白様が奥へ御立ちなされて、(諸大名らとの)御食事が有り、(氏規は)申の刻(午後四時)に帰られた。
殿様も御宿である妙願寺へ戻られた」

「八月二十四日、曇り
巳の刻(午前十時)に氏規を大和大納言殿が御請待された。
殿様も招待されたが、(氏規の)御腹中気(腹痛)に付き、殿様も御出なされなかった」

……ところで氏規の上洛に際して、北条氏は家中の知行にあわせて金銭を納入するよう定めているが、その費用は二万貫というとてつもない巨額であった。

『輝元公上洛日記』には輝元が行く先々で太刀や馬、織物などを献上している記述が散見されるが、このようにとかく上洛には莫大な経費が必要だったのだ。

この頃北条氏は、もう一方では上方勢との戦を想定し、「御国」論を持ち出して国人や民衆を動員し城の普請などをさせていたが、その上でこの降って湧いたような金銭納入の命である。
彼らの負担はいかばかりであっただろう。


同月二十九日、上洛の目的を果たした氏規は帰路につく。
氏規が初めて目にした上方は、どう映ったのだろうか。




242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 06:18:32.83 ID:Qio4EGrC
>>241
二十四日って、輝元の腹痛じゃなかったっけ?

243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 07:25:02.88 ID:Q21KM4zv
利家は呼ばれなかったの?

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 13:41:33.02 ID:ITo08+S8
蜂屋頼隆の扱いの悪さが泣ける、織田家でそれなりに偉かったのに長谷川より格下に

245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 15:06:14.15 ID:QKHJWgYH
蜂屋頼隆って織田家中では明智羽柴田丹羽滝川に次ぐナンバー6ぐらいだっけ?

246 名前:名無しさん@お腹いっぱい[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 16:35:42.04 ID:Rj3NcUa6
>>245
ナンバー6は池田
ナンバー7が森
あと蜂屋・河尻・蒲生・堀といった感じだと個人的には思うんだが

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 16:39:43.40 ID:z/JtvVRv
稲葉はナンバー10には入りませぬか?

248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 16:42:52.24 ID:ynPbw/cB
木綿藤吉 米五郎左 懸かれ柴田に 退き佐久間
佐久間さんも折檻状以前は

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 17:34:22.03 ID:HwyrRaLG
>>242
指摘ありがとう
今確認したらそうだった
>>243
利家は呼ばれてない

蜂屋頼隆は秀吉に反抗的だったからだ、と見てる。
確証はないけど出羽の検地に反対した逸話も残ってるし

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 17:57:10.36 ID:i3ZGQ34M
蜂屋頼隆は馬揃えで丹羽に次ぐ2番手だったりでそれなりに良い地位だったよ
ミニ丹羽という感じで信長の手元に置かれてて一軍を率いるとか無かったけど

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 18:07:50.40 ID:+XZS9WnT
毛利長秀って誰かと思ったが鬼武蔵にやたら喧嘩売られてた毛利秀頼か。

彼と長谷川は意外と秀吉政権じゃ席次高いな。

252 名前:名無しさん@お腹いっぱい[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 18:20:15.90 ID:Rj3NcUa6
>>247
そうそう稲葉が居たね。指摘サンクス。

>>250
調べたら蜂屋がナンバー6で実質の摂津国主だったらしい。てっきり池田や森の下と思ってた。
となると本能寺前の織田家臣団の序列は明智柴田丹羽滝川羽柴蜂屋と来て
後は異論あるだろうけど直臣限定なら池田・森・河尻・稲葉・蒲生・斯波毛利・堀あたりが来るかな。
ちなみに蜂屋は小田原開城の前年に死去。養子の直政(丹羽長秀四男)は夭折しており無嗣断絶。
ちなみに後任の敦賀城主は大谷刑部が継いだんだよな。

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 19:35:31.61 ID:cUj0XLMV
毛利長秀って羽柴姓、豊臣姓を許されてるんだ
で、息子が毛利秀秋だから
羽柴長秀、豊臣秀頼の息子が豊臣秀秋ってことになるのか
大和大納言も木下長秀だった時期があるからなんかややこしい

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 20:02:49.04 ID:HwyrRaLG
>>253
しかも彼の名は秀頼とも伝わるから更にややこしい

256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 20:39:11.13 ID:k1WPtt6k
>>241
北条はあまりにとんでもない額を集めようとしたせいで上洛するのが遅れたとかあるのかね…

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 20:50:55.73 ID:F8ldVIZh
蜂屋は馬回り出身だっけ?
本能寺がなければどこまで栄達したことか

259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 20:58:30.94 ID:ynPbw/cB
もし金吾が毛利家の養子に無理やりくいこんでたら
毛利秀秋となってさらにややこしく

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 21:18:29.13 ID:dVdmqx/a
>>252
本能寺直前だと丹羽って一段落ちないか?
どこかを任される訳でもなく援軍とか副将とかだし

261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 21:30:24.74 ID:cf7vLbfH
支店長と本社本部長のどっちが偉いか的な
副将してる時の大将も信長の信孝とかだったりするし

270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 09:50:28.45 ID:XviNB1E7
>>241
そこから4ヶ月程前の天正十六年(1588)四月、聚楽第行幸時の序列
ttp://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10129/3072/1/HirodaiKokushi_90_1.pdf

細川、長谷川、筒井、大友など侍従の席次が微妙に違う

271 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 09:52:47.72 ID:eJXCas/2
>>270
その4ヶ月の間に席次を巡ってグチャグチャした政治的暗闘があったんだろうなw

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 10:44:42.73 ID:Hi8tI4T3
>>270
左>右だからこの時に秀吉に随身した諸大夫では増田長盛が最上位か
てか、徳川を出奔した石川数正の位置に哀愁しか覚えない

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 10:58:45.87 ID:H7zQZ2qF
>>272
かつては徳川家臣二巨頭だったのにねえ

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 11:05:00.82 ID:+VjcDlhZ
>>272-273
むしろ大名扱いで高評価じゃないか。

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 11:16:24.46 ID:Hi8tI4T3
>>274
諸大名の行列に列しているわけじゃないし随身だぞ
家康など他の大名の随身と立場は変わらないんだぞ

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 11:22:37.64 ID:+VjcDlhZ
>>275
すげー勘違いしてるみたいだけど、あの「諸大名欄」は侍従成してる連中が
載ってるだけで、あそこ以外が大名扱いされてない訳じゃないぞ

277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 11:28:50.72 ID:XviNB1E7
よく読めばわかるけど
秀吉に供奉している中にも「大名格」は含まれていると言われている
でもそれは注釈10にあるように脇坂、九鬼、溝口、市橋などね

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 11:42:09.42 ID:XviNB1E7
天皇と対面(昇殿)出来たのが侍従の公家成までだから
そういう面でも諸大名行列と分けてあるのだろうが
[ 続きを読む ]

氏規は必ず

2012年08月30日 20:50

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/30(木) 18:53:22.53 ID:sXHTnsJi

豊臣秀吉は既に織田氏に代わって政治を畿内になしていた。
小田原の北条氏にはたびたび秀吉の使者が訪れ、上京を促した。

北条氏規は氏政の弟として報使に選ばれ上京した。この時、
秀吉は慇懃に氏政父子の上京を勧めた。氏規は秀吉に向かい、

「承りました詳細は氏政父子に申し聞かせます。御慇懃の仰せには
感謝してもしきれないほどです。しかしながら、万が一氏政父子が
上京することなく、無事が破れて関東へ御進発なさる時には、
いかなる仰せがあろうとも、親族兄弟を離れて御内通するなど
ということはありえません。氏規は必ず先鋒となり、
あなたに錆矢を奉りましょう」と言った。

これを聞いた秀吉は「どうして無事が破れるだろうか。
それこそ貴殿の働き次第ではないか。よきに計らって兎も角上京を
勧められよ」と慇懃を尽くして氏規を帰したという。

――『名将言行録』




北条氏規と徳川家康の友情

2011年05月03日 00:01

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 22:56:57.59 ID:tRqwkLIG
では真田にとってははた迷惑な友情の話

信長の横死後、北条と徳川は所々で戦ったが、徐々に北条は利を失っていった
そこで北条家当主氏直は北条氏規に命じて徳川と講和した

しかし、北条方が砦を築き番兵を置いたという噂が流れ、家康は不審に思った
「もともとこの和平は人質時代の氏規との好で結んだもの。破れても構わぬ。一戦に及んで運を天に任そう」
そう言って使いを氏規の陣に使いを出すと、北条方は大道寺新四郎を人質と渡すことを伝えた

氏規は徳川の使者・朝比奈泰勝と新四郎に同道し、家康に対面した
家康と氏規は駿府時代の昔話で盛り上がり、家康も上機嫌のうちに話し合いは終わった
結局家康の娘を氏直に嫁がせることで話はまとまり、大道寺新四郎も後に還された

昔の付き合いが大大名同士の和平を結んだ話


ちなみに、この逸話は『関東古戦録』出典なので信憑性は不明だが、
この時人質となった大道寺新四郎は後に前田家→尾張徳川と仕え、
代々家老職を輩出した尾張大道寺家の祖、大道寺直重と思われる

他にも大道寺家の面々は徳川に庇護され、旗本となるかどこかの大名の重臣となっている





北条氏規、田舎武士の悲しさよ

2010年01月30日 00:04

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/29(金) 02:47:34 ID:HDRP39yT
天正16年8月、北条氏政の弟・氏規は、兄と甥の代理として上洛、聚楽第で秀吉に謁見した
聚楽第は秀吉にとって天皇や公家と謁見する場所であり、本来衣冠・束帯をしつらえ参じなければならないが
いまだ秀吉に臣従していない北条家の人間である氏規は官位を持たず、よってそれらをしつらえることは適わなかった
結果彼は公家衆や毛利・橘川・島津・大友といった大名たちが束帯姿で居並ぶ場に
場違いにも肩衣・袴姿で参じざるを得ず、その姿は多くの人々から失笑を買った
特に毛利輝元は氏規をあからさまに田舎者と嘲笑し
「腹が痛いので失礼します」といって食事を共にすることさえ断った

この会合を終えた氏規は
「さてさて無念の至りなり、田舎武士の悲しさよ
 かくのごとし格式をしらずして上京し、面目なき体
 この様体では氏政上りたれども、何の益か有るべし」
と嘆いたという。




113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/29(金) 03:12:51 ID:mq1eVB48
それだけバカにされたらそりゃ小田原に篭って徹底抗戦するよね

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/29(金) 03:39:49 ID:NddVhr7o
つか、そこは恥入らずに

「ケッ、だーれが首輪のごとき官位なんているかよ、バーカ、この猿の飼い犬め」
「せいぜいご立派な首輪ひけらかせてろ、おめでてぇな」

くらいの気概を見せてくれても
東国の荒侍なら

125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/29(金) 07:09:07 ID:QEkacnvt
>>112
しかし北条は伊勢氏なんで毛利あたりが田舎モンとか礼儀知らずとか
馬鹿に出来る筋でもないと思うんだがなあ

伊勢氏だからこそ恥じたというのはあるかもしれんが

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/29(金) 07:33:38 ID:V9IbjP4R
>>112
これ毛利輝元上洛日記に書いてあったけど、
嘲笑する意思とかまったく書かれてなかったぞ
あるのは秀長に氏規との食事の場に誘われたけど腹痛だから断ったっていう事実だけ
この上洛日記を訳した人はまだ秀吉に従っていない北条に近づくのを
警戒したっていう考察をしていた

まあ秀長の誘いを断ったあと普通に隆景・広家と食事をしていた記録も残っているみたいだから
仮病だったのには間違いないが

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/29(金) 09:53:38 ID:A1X3eIKM
秀長の仲介で秀長も立ち会う場でならそんな警戒要らん気もするがなぁ。
その後個別に会いたいって言われたら仮病はありだけど

130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/29(金) 10:09:59 ID:0KB58BH9
位を見せ付けて従属させようとしたんだろうけど、それなら失敗だったなあ。

やるなら鞭だけじゃなく、ちゃんと飴も見せておかないと。

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/29(金) 10:39:37 ID:YDaLejfH
逆に考えるんだ
氏規と会うのに緊張しておなかが痛くなったんだと
身内なら一瞬にご飯食べても緊張しないから安心だね!

133 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/01/29(金) 11:41:37 ID:/VkQEDUL
>>131
秀長「TERU!敵だか味方だか微妙なやつの接待させられる俺を目の前にして人見知りしてんじゃねえ!」

北条氏規の小田原役・いい話

2009年06月20日 00:04

577 名前:北条氏規・韮山城の戦い(1/2)[sage] 投稿日:2009/06/19(金) 15:14:11 ID:U/XT74Wl
小田原合戦の話である。
北条氏康の四男、北条氏規が守る韮山城総勢三千六百は、
織田信雄等豊臣側の軍勢四万四千による攻撃を受けていた。
韮山城には五つの門があり、豊臣方はその五つの門の何れかを落とさんと
正面から挑みかかっていたが、
門に近づくと城内から弓矢鉄砲を撃ちかけられ、
門前に死体の山が築かれる事態となった。
豊臣側の福島正則隊は西側の十八町門を攻めていたが、
死傷者が増えるばかりで一向に埒があかないため、
三人の豪傑が門へと突撃、突破をすることになった。
三人は矢弾丸の雨の中をものともせず進んだが、
三人の内二人は矢狭間から襲いくる北条の槍長刀に討ち取られてしまった。
残った一人はカッとなり槍を突きだしたが、
滅茶苦茶に振ったためその槍先も折れてしまう。
流石のこの勇士もこれは無念、死んだなと思ったが、
すぐに落ち着くと討ち取られた二人の首を小脇にかかえ、
悠々と引き上げだした。
その様を見て北条方は一斉に男へ銃の標準を合わせたが、
それを氏規が制止した。

「あれほどの武勇の武士を、情けもなく討ってしまうのは軍神に対しての名折れじゃ」

兵達は勇士から標準を外し、再び他所に攻撃を始めた。

幼少時を武田や今川で人質として行き来して過ごし、
また氏政・氏直に代わり上方との折衝を務めた氏規には、
すでに北条の未来が見えていたのだろう。
しかし一方で北条のため戦いぬく覚悟は確かにあり、合戦に先駆け兄達に
「それがし一命あらんほどは、韮山の城を敵の馬蹄にかけまじく候」
と誓っている。
三月下旬に始まった韮山城の戦闘は、
六月二十四日まで続く小田原合戦最大の激戦地となった。
三カ月の間韮山は孤立無援の中士気を高く保ち「敵ながらあっぱれ」と評される戦いぶりを示す。
しかし勇戦すれども城外の戦況は悪化の一途を辿り、
小田原城は完全包囲され、支城も忍城と韮山を残すのみという状況に及んで、
ついに氏規は家康からの降伏勧告を受け入れ城を開くのであった。


578 名前:北条氏規・韮山城の戦い(2/2)[sage] 投稿日:2009/06/19(金) 15:15:09 ID:U/XT74Wl
氏規は戦後、兄氏政・氏照の介錯役を務めている。
そして役目を終えた後その太刀を自らの腹に突き立てようとしたが、
その可能性を危惧した家康により派遣されていた
榊原康正、井伊直政等が駆け寄り取り押さえ、
説得して思い留まらせた。

その後氏規は甥の氏直と共に高野山に追放されたが、
小田原合戦の翌年氏直と共に許され、
その氏直死後は彼の一万一千石を引き継ぎ、
一族唯一の大名として家名を明治まで残している。




余談だが豊臣側の生還した勇士は
笹の指物を付けていたということである。





579 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/19(金) 15:20:11 ID:3SpQh0t9
語り口上手い!

580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/19(金) 15:27:01 ID:091hnnAE
家康がそこまで気にかけたのは、やっぱり幼友達だったからなのだろうか?

581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/19(金) 15:29:40 ID:44qFKqHg
>>577-578
最後のオチまで含めてめちゃめちゃいい話だわー。

> その可能性を危惧した家康により派遣されていた
> 榊原康正、井伊直政等が駆け寄り取り押さえ、

幼馴染でかなり仲が良かったんだよね、家康と氏規。

582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/19(金) 16:13:14 ID:3qAa+dxd
笹の才蔵さんもいいね。