357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/23(火) 22:56:21.95 ID:3ItfLnKv
私は昨年の書簡で、豊後の王(大友宗麟)の甥にして婿である土佐の王(一条兼定)が、豊後に於いて
キリシタンと成りしことを報告した。この王は一人の家臣(長宗我部元親)が反乱したためその国を逐われて
豊後に滞在していたが、前の書簡に認めた如くその国に帰り、短期間に国を回復した。
彼は豊後に在った3,4ヶ月間デウスの事を聴き、よく事理を理解する人であったため、多くの質問をなして
キリシタンとなる決心を成すにいたり、しばしば私に洗礼を請うたが、考えることがありこれを延期していた。
そのような中私は下(ximo)の地方巡察に行くこととなり、もし土佐の王が私が帰る前に病に罹り、又は
その国へ帰る事態となれば、府内にとどまるパードレ(ジョアン・バウチスタ)に洗礼を授けるよう
予め定めておいた。
我らの主は、土佐国の大身たちがその国を統治するため、人を遣わして彼を招くに至らしめ給いしが故に、
直に洗礼を授け、彼はその国を悉くキリシタンとする決意を成して出発した。その国に着きて、我等の主の
御加護により短期間に土佐全国を領し、暴君(元親)は多数の兵とともに守っていた主要な一城のみを有した。
王は我等の主が彼に与えた御恵を忘れず、甚だ良き町に立派なるコレジョを建てることを命じ、その町、
およびその他の地において6,7千クルサド(1クルサドは銀40匁に当たる)の収入を得るべき地を寄進し、
又国内の主要なる町々には大なる家を建て宣教師に説教を始めさせた。
かくして土佐の多数の主だった者たちはすでにキリシタンと成らんとせしが、デウスの隠れたる裁断により、
破滅が近づくのを悟った坊主達が努力したため、形成はたちまち一変し、王は一戦において敵に破られ逃げ、
味方の大身の城に入った。王は同所に在って私が臼杵に着いたのを聞き、書簡を託して人を私のもとに
派遣した。書簡の訳文は次のとおりである
『尊師が下より帰られたのを聞き、この家臣を貴地に派遣して私のことを告げ、私のためにデウスに
祈られんことを請はしむ。尊師の出発後、我が臣下の者数人が使いを遣わして私を招き、再び土佐に入国する
途が開けた為、私は尊師の手によって洗礼を受けることを望んでいたが待つこと出来ず、府内のパードレに
洗礼を受けることを請うた。その後私が国に着いて、我等が主デウスの御助により、間もなく
ファタ(Fata・幡多)の城とその町の他は悉く占領した、同所にはトソガミ(tosogami・長宗我部)が
5、6千の兵とともに籠もっていたが、これを守り続ける見込みはなかった。
私は我等が主デウスより受けた御恵を思い、パードレが当国に来るために、直ぐに会堂を建てることとし、
これに大いなる収入を永久に寄進し、国内の他の町々に大いなる家を建て、説教を始めさせる事とした。
臣下の多数は、私がキリシタンと成った後、我等の主より大いに保護を受けたのを見て、キリシタンと成らんと
決心したため、人を遣わして説教を成す者の派遣を請わんとしたが、この時意外にも形成一変し、私は再び
追い出され、今は長島(Nangaxima)の城に在る。
私は今日までデウスに対し不平を述べたことはなかったが、それにもかかわらず、何故にこの不幸が
起こったのか疑惑を持たざるを得ない。我等の主が、もし私が罪人であるため罰し給うたとするなら、
敵は異教徒であり、その主君に謀反を起こした者であり、更に大なる罪人である。この故に、尊師に請う所は
この疑惑を解き、また私一人異教徒の間に居るが故に、デウスの事に関する書籍を送付される事である。
私は一人だが、今日まで日曜日(の礼拝)を忘れた事は無い。当所に、昔山口においてキリシタンと成りたる
トビヤス(Tobias)という盲人が有る。彼と語ることで喜んでいる。
我等の主デウスに、私のために祈り、常に書簡を送り給え。私も又これを成すべし。』
右の書簡に対し返書を送り彼を慰めた。デウスがしばしば、最も愛する者に艱難を与えたもう事を述べたが、
彼はこれにて慰められ、すぐに他の書簡を送り、已に安心し疑惑も懐かず、デウスに祈ることを請うた。
(1576年9月9日(天正4年8月17日)付パードレ・フランシスコ・カブラル書簡)
一条兼定が宣教師に送った、四万十川の戦いでの敗北を受けての書状の内容である。
私は昨年の書簡で、豊後の王(大友宗麟)の甥にして婿である土佐の王(一条兼定)が、豊後に於いて
キリシタンと成りしことを報告した。この王は一人の家臣(長宗我部元親)が反乱したためその国を逐われて
豊後に滞在していたが、前の書簡に認めた如くその国に帰り、短期間に国を回復した。
彼は豊後に在った3,4ヶ月間デウスの事を聴き、よく事理を理解する人であったため、多くの質問をなして
キリシタンとなる決心を成すにいたり、しばしば私に洗礼を請うたが、考えることがありこれを延期していた。
そのような中私は下(ximo)の地方巡察に行くこととなり、もし土佐の王が私が帰る前に病に罹り、又は
その国へ帰る事態となれば、府内にとどまるパードレ(ジョアン・バウチスタ)に洗礼を授けるよう
予め定めておいた。
我らの主は、土佐国の大身たちがその国を統治するため、人を遣わして彼を招くに至らしめ給いしが故に、
直に洗礼を授け、彼はその国を悉くキリシタンとする決意を成して出発した。その国に着きて、我等の主の
御加護により短期間に土佐全国を領し、暴君(元親)は多数の兵とともに守っていた主要な一城のみを有した。
王は我等の主が彼に与えた御恵を忘れず、甚だ良き町に立派なるコレジョを建てることを命じ、その町、
およびその他の地において6,7千クルサド(1クルサドは銀40匁に当たる)の収入を得るべき地を寄進し、
又国内の主要なる町々には大なる家を建て宣教師に説教を始めさせた。
かくして土佐の多数の主だった者たちはすでにキリシタンと成らんとせしが、デウスの隠れたる裁断により、
破滅が近づくのを悟った坊主達が努力したため、形成はたちまち一変し、王は一戦において敵に破られ逃げ、
味方の大身の城に入った。王は同所に在って私が臼杵に着いたのを聞き、書簡を託して人を私のもとに
派遣した。書簡の訳文は次のとおりである
『尊師が下より帰られたのを聞き、この家臣を貴地に派遣して私のことを告げ、私のためにデウスに
祈られんことを請はしむ。尊師の出発後、我が臣下の者数人が使いを遣わして私を招き、再び土佐に入国する
途が開けた為、私は尊師の手によって洗礼を受けることを望んでいたが待つこと出来ず、府内のパードレに
洗礼を受けることを請うた。その後私が国に着いて、我等が主デウスの御助により、間もなく
ファタ(Fata・幡多)の城とその町の他は悉く占領した、同所にはトソガミ(tosogami・長宗我部)が
5、6千の兵とともに籠もっていたが、これを守り続ける見込みはなかった。
私は我等が主デウスより受けた御恵を思い、パードレが当国に来るために、直ぐに会堂を建てることとし、
これに大いなる収入を永久に寄進し、国内の他の町々に大いなる家を建て、説教を始めさせる事とした。
臣下の多数は、私がキリシタンと成った後、我等の主より大いに保護を受けたのを見て、キリシタンと成らんと
決心したため、人を遣わして説教を成す者の派遣を請わんとしたが、この時意外にも形成一変し、私は再び
追い出され、今は長島(Nangaxima)の城に在る。
私は今日までデウスに対し不平を述べたことはなかったが、それにもかかわらず、何故にこの不幸が
起こったのか疑惑を持たざるを得ない。我等の主が、もし私が罪人であるため罰し給うたとするなら、
敵は異教徒であり、その主君に謀反を起こした者であり、更に大なる罪人である。この故に、尊師に請う所は
この疑惑を解き、また私一人異教徒の間に居るが故に、デウスの事に関する書籍を送付される事である。
私は一人だが、今日まで日曜日(の礼拝)を忘れた事は無い。当所に、昔山口においてキリシタンと成りたる
トビヤス(Tobias)という盲人が有る。彼と語ることで喜んでいる。
我等の主デウスに、私のために祈り、常に書簡を送り給え。私も又これを成すべし。』
右の書簡に対し返書を送り彼を慰めた。デウスがしばしば、最も愛する者に艱難を与えたもう事を述べたが、
彼はこれにて慰められ、すぐに他の書簡を送り、已に安心し疑惑も懐かず、デウスに祈ることを請うた。
(1576年9月9日(天正4年8月17日)付パードレ・フランシスコ・カブラル書簡)
一条兼定が宣教師に送った、四万十川の戦いでの敗北を受けての書状の内容である。
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