南蛮宗御禁制前、於御当地彼仏像画きの事

2016年12月06日 17:45

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/06(火) 11:07:39.63 ID:ouiN0FpI
南蛮宗御禁制前、於御当地彼仏像画きの事


 いつの頃か、未だ南蛮宗御制禁より前のことであるが、
御当地に画工山田恵茂作と称する者がいて、南蛮宗の本尊を画くのみを職としていたという。
よって御制禁のとき呼び出されて吟味があったが、
その答えに「これを画くのみで他に業は無い」という。
官裁には、「ならば今後他の画をすべし。この像を画くべからず。」
というまでで御構いなかったという。
昔の有様はおおまかなるものである。

傍に仕えている人が、この恵茂作は二代続いて、ともに画を業としていると言った。
どちらの御代のことであろうか。
(甲子夜話続編)


ゆるゆるジャッジ




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地獄に行った霊魂

2015年04月16日 17:54

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/15(水) 21:37:44.94 ID:gZSskMfO
 有馬の町に長門という男が住んでいた。彼は優れた書記として殿から認められる人物であり、
三十年前に受洗してキリシタンとなったものの、宣教師が説く霊魂の存在や天国と地獄の話などを
信じる気になれなかった。彼の息子や親戚は善良なキリシタンばかりであったが、長門本人は
キリシタンであるにも関わらず、めったに教会に行かなかった。
 長門が73歳の時、病気にかかって亡くなると、キリシタンとして埋葬されたが、その15日後、
彼の息子の妻で洗礼名マルタという嫁が不意に頭が混乱しておかしくなり、何を思ったか
自分の娘、つまり亡くなった長門老人の孫娘を蹴りつける事件が起きた。そして、そばで
横になっていた夫(長門老人の息子)にも同じように蹴って「起きろ」と叫んだ。
 夫は突然の出来事に腹を立てると、嫁は「俺はお前の父親なのにどうしてわからないのか」と答えた。
「俺はお前の父親の長門だ。今の状態をお前らに伝えるためにこの嫁に取り付いてこの世に戻ってきたのだ」
と嫁は言い出して、夫に対して「マリナとイネス(長門の娘たちの洗礼名)、そして、マダレイナ
(長門の妻の洗礼名)を呼べ」と命じた。
 知らせを聞いて長門の妻と娘たちは仰天してすぐさま駆けつけた。嫁に憑依した長門はマダレイナに
しがみついて自分が死んだ時にそばにいなかったと文句を言い、そして、娘のイネスもいなかったと
言ってイネスを拳骨で殴った。彼女らが臨終に立ち会えなかったのは長門が病で倒れてから亡くなるのが
早すぎたためである。
「地獄のことなど絵空事と思っていたが、それは間違いだった。俺は死ぬとすぐに悪魔たちに地獄の炎で
焼かれ苦しめられている」
 長門老人は憑依中の嫁を通して自分の不信心ゆえに地獄へ落ちて苦しんでいることを詳細に伝え、息子に
対して、善良なキリシタンになって救済をおろそかにせず、また酒を飲みすぎたりしないよう忠告した。
長門は3~4時間ほど嫁の身体に憑り付いていたが、出ていく時が来た。長門は両手を広げて
自分を呼んでいる何者かに「もうちょっと待ってくれ」と懇願して嫌がったが、ついには出て行った。
 嫁のマルタは眠りから覚めたかのような様子であったが、ひどく衰弱しており、自分の身に
起きたことは何ひとつ覚えていなかった。
 この不思議な出来事に居合わせた人々は、嫁に長門の霊魂が憑り付いたことは疑わなかった。
憑依された嫁は生前の長門と同じ四肢の動きをして、話しぶりも女には真似のできない
長門老人独特の口調だったからである。
 この不思議な出来事は周囲の人々の信仰をより確かなものとした。そして、憑依された嫁は
もともと善良なキリシタンであったが、このことがあってからいっそう善良になった。

 あの世の死者の霊魂がこの世に戻ることは尋常ではないし、まして地獄にいる霊魂が
この世に戻ってくるのは極めてまれな出来事である。(1605年イエズス会日本年報)




836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/16(木) 00:08:50.16 ID:DrjHjDRY
>>832
死後に地獄で苦しんでいるから子供に善行に勤めろとか日本の昔話なんかではよくある話だけどね
これでまた憑依して天国にいけたと言ってきたら完璧だったのにw

837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/16(木) 07:44:08.05 ID:qWGFDxy6
仏教なら盆踊りで地獄に落ちた親も極楽に行けるのにキリスト教ときたら

838 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/16(木) 11:22:29.00 ID:i92h/ZqH
そうだよな
家族もキリスト教を棄てて爺の所に行ってあげるべきだよな

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/16(木) 11:32:11.47 ID:8UK1ZQs8
直江さんが紹介状書いてくれるってさ!

840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/16(木) 14:40:37.12 ID:Lv3GgzPS
前田利家「先に行った家臣たちを集めて地獄を攻め取るだろ」

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/16(木) 14:50:40.51 ID:k7fJJ03a
やっぱり地獄行きか
http://sirmurai.cocolog-nifty.com/chible/images/2011/10/23/b226.jpg
b226[1]

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/16(木) 15:31:47.06 ID:0zpTEDQE
>>840
まつ「ドケチ過ぎて家臣が足らんやろ!いい加減にしろ!」

ルソンの日本人町開設の経緯

2012年11月24日 19:51

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/23(金) 20:08:30.95 ID:38qBCV/1
ルソンの日本人町開設の経緯


戦国時代後期、ルソン(ルソン島、現フィリピン)に日本人町があったという事は割と有名であるが
その開設の経緯というのは決して穏やかなものではなかった。

天正18年(1591年)9月、豊臣秀吉は原田孫七郎を使者にしてルソンのスペイン総督府に対して入貢を要求した。
スペインからすれば何とも屈辱的な出来事であったが当時のスペインはアマルダの海戦で無敵艦隊が敗れるなど
既に衰退期に入り始めていたため、報復などの行動は取らずこれをスルーした。

しかし、翌年に秀吉が朝鮮出兵を実行に移したことで秀吉のルソン侵攻も無いとは言い切れない情勢になると、
スペイン総督府は現地にいる日本人たちが有事の際に日本側に付くことを警戒して、
当時ルソンに住んでいた日本人をマニラのディオラ地区にまとめて強制移住させた。

これがマニラの日本人町の始まりであったと言われている。




482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/23(金) 20:13:30.58 ID:a2c6DmNE
なにかあるとすぐに刀振り回して暴れるからなあ

483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/23(金) 20:19:19.58 ID:LnXJOezq
ルソン行く場合は、やっぱ中国沿岸に沿って向かうのかな。
直線で行くのは遠そうだよなー

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/23(金) 20:21:51.57 ID:YGa+HmrI
隔離地区だったのか・・・

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/23(金) 21:45:06.68 ID:fY8xBBsI
雇い主のスペイン人に殴られてムシャクシャしたので
八つ当たりで全然関係ない他のスペイン人の家を刀振り回して襲撃する
とか普通にやる蛮族どもなので隔離は妥当

例の4人の運命

2012年02月25日 21:51

163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/25(土) 03:54:00.98 ID:zhWlN7Cz
これは悪い話…

> 327 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2012/02/24(金) 19:43:54.75 0
> > 150 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2012/02/23(木) 05:53:23.61 0
> > 1583年、クンコリムの反乱
> > http://en.wikipedia.org/wiki/Cuncolim_Revolt
> >
> > 現地のクシャトリアが初めてポルトガル支配にあらがい実力行使をおこなった。
> > 度重なるヒンズー教寺院の破壊と信者弾圧に抗し、イエズス会宣教師や信者を殺害
> > したのだ。
> > 首謀者たちは裁判を経ずにゴア当局により処刑された。
> > 殺害された宣教師は即座に殉教者と認定された(処刑されたクシャトリアたちを、
> > ヒンズー教徒が殉教者として同等に顕彰できるようになったのは、やっと21世紀に
> > なってからだった)。
> >
> > 同じ年の12月、極東の島国から4人の少年を連れた使節がこの「虐殺の町」を訪れ、
> > 世界の至る所で民族の違いを超えてイエスキリストの御名の栄光が輝いていることに
> > 歓喜の涙を流した。


> 328 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2012/02/24(金) 21:48:56.78 0
> 例の4人の運命
> 伊東マンショ: 細川忠興により追放、中津・長崎と転々とした後病死
> 原マルチノ:  マカオに追放
> 千々石ミゲル: イエズス会を退会し転宗するが、大村喜前・有馬晴信とは不仲
>           しまいに晴信の家臣から暴行まで受け不遇のまま死去
> 中浦ジュリアン:キリシタン追放令後捕縛、穴吊りの刑に処され
>          「私はローマに赴いた中浦ジュリアンである」と言い残し惨死
>
> 人間って・・・ねえ




「かうすめ治左衛門」証言

2011年12月06日 22:07

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/05(月) 22:07:52.19 ID:CuKtnATT
元和6年(1620)、島原半島は島原町の牢人で医師であったキリシタン、「かうすめ治左衛門」が
ドミニコ会の調査に答えた証言である

『私は、イエズス会の宣教師であるゾーラ休庵殿から呼ばれ、こう言われました。

「御身は知恵のある人であると私は見ている。何も知らぬ百姓たちに、真実の道(本の道)を勧めさせるために、
あえてあなたを呼んだのだ。
あなたの力で、百姓たちをドミニコ会の「ろざりよの組」から脱退するよう働きかけてほしい。」

これに対して私は

「どの派の組であっても、大切なのは信仰そのものではないでしょうか?
私達にとってでうすも御一体であり、ひいです(信仰)も、どの国であっても一つであり、
でうすの御法も一つです。
ですから、皆もでうすの(ドミニコ会の)御名代を信じているのです。」

と、答えました。』

元和6年といえばその前年、今日においてキリシタン52人が磔された. 「元和キリシタン殉教事件」が起こるなど、
キリシタン弾圧が激化していた時期である。そんな中キリシタンの側では、先行のイエズス会と後発の
ドミニコ会・フランシスコ会との間で信者を巡る対立が起こっていた。

そんな状況を示す、ひとつの証言である。





281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/05(月) 22:32:37.83 ID:hzbUjkLp
休庵という名前が二人続けて出たけど、
ゾーラ休庵の方は大友休庵宗麟にあやかってつけた、とか?

ドミニコ会宣教師コリャード編纂『懺悔録』より

2010年09月07日 00:00

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/05(日) 23:12:30 ID:8PYj9kDD
ドミニコ会宣教師コリャード編纂による『懺悔録』より、慶長末~元和初期頃の九州であったこと


信徒
「この間、将軍様のご法度に従って、奉行が都から下ってこられ、是が非でもこのあたりの
キリシタンを改宗させようと、皆に

『改宗したものは判を押して確認を取る、キリシタンの教義をとりあえず止めよ。
心で信じている分には構わないから、表向きだけでも改宗してくれ!』

と、しきりにお薦めになられたので、我々の女房、子供の命を守るためもあって、
口先だけですが改宗に同意しました。」


するとこの懺悔を聞いた宣教師は

「たとえ表向きだけであろうとも、改宗すると宣言した者をキリシタンと認めるわけには行かぬ!
お前は直ぐに、改宗確認の書類を持っている奉行、そしてお前の改宗の事を知っている
者たちに対して、直ぐに複信を宣言せねばいけない!
さもなくばお前はもうキリスト教徒ではない!」

宣教師のこの方針により、一旦改宗を認めたものの、複信を宣言するものが続出。
幕府は当然、これを大いに問題視。キリシタン取締は一層厳しく、過酷になっていくことに成る。
この偽装改宗の禁止は、日本から外国人宣教師があらかた居なくなるまで、
多くの犠牲者を生み出し続け続いた。


「信仰」の立場からは正しいのかもしれないが、指導者の、信徒の命を顧みない方針により
徒に幕府を刺激し「殉教者」を増やしたとしか思えない、「起こらなくても良かった」悲劇についての
話である。



789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/05(日) 23:41:39 ID:lJcZLcQN
「嘘も方便」の日本人とドグマ的な西洋人の対比だね

790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/05(日) 23:45:14 ID:/jQ2LRfU
十兵衛「武士の嘘は武略」

『戦争状態』の帰国

2010年07月31日 00:00

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/30(金) 16:18:25 ID:/Ld5lZi+
慶長の役が終わった後、日本各地にいた被虜朝鮮人たちは帰国を試み始めた。

広島にいた姜士俊は毛利家水軍の右衛門なる者から船を賃借し
同じく帰国を望む80人ほどの朝鮮人とともに母国を目指して出航した。

途中博多に到着した時のことである。
突然船に見知らぬ集団が乗り込んできたのである。
『その地の水軍の将兵』だという彼らは皆武装しており
姜士俊たちも武器をとって抵抗したが、夜までに皆捕まってしまった。

翌朝姜士俊たちは領主黒田長政の家来たちに
賃船してここまで来た経緯や、船を賃借した証文を所持している事を繰り返し訴えた。
この件の報告を受けた黒田長政は「もし訴えの通りなら留めるわけにはいかぬ。皆船に乗せよ。」と
朝鮮人たちの数を調べて解放した。


この話は1601年の話なんだが
李朝による捕虜帰国事業が始まるのは、日朝間で正式な講和が成立したのが1607年
それ以前は法的に『戦争状態』だった朝鮮人たちの帰国はかなりの困難が伴うものだったらしい。
朝鮮人たちの苦難の話ということで。




朝鮮捕虜話の冷遇

2010年07月31日 00:00

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/30(金) 17:25:43 ID:/Ld5lZi+
もう一つ朝鮮捕虜話

朝鮮役後の日朝間和平交渉の嚆矢となったのは
1604年に朝鮮が僧侶惟政を「探賊使」として日本へ送ったことである。
この探賊使という名は「早く講和したいがこっちから使節を送るのは体面的に…」という事情から
「あくまで日本の情勢を探る使節です。」ということで採用された名である。

さてこの使節の来朝に合わせて
徳川家康は宗義智に財政的援助をして各地の朝鮮人たちの回収を行わせた。
結果惟政の帰国までに1391人の朝鮮人たちが集まり、惟政は彼らを朝鮮水軍に委ねた。

で、この1391人の朝鮮人たちのその後なのだが…
彼らの多くは朝鮮水軍の将兵によって奴婢にされてしまった。
身元がはっきりしない若者(文禄の役からは10年以上過ぎているわけで)が優先して狙われ
その者が美女であれば夫を海に投げ捨てて妾にしたという。

さすがにここまで酷いのはこの時だけで、以後は多少マシになる。
と、いっても帰国後は釜山に放置なんて事例が続発し
「自分で捕虜になったわけではないのになぜ冷遇するのか。」と使節が捕虜に問い詰められるケースもある。

ちなみに「自力で帰還してきた者たちの賦役・雑役を免除した」事例が4件あり
朝鮮側の捕虜観が垣間見える。




日本兵の捕虜の中に

2010年07月20日 00:00

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/19(月) 19:44:28 ID:9U8JdPix
1593年1月
小西行長の占領下にあった平壌は明軍の攻撃で落城した。

主将小西行長以下は撤退したものの
日本兵で明軍の捕虜となったものもいた。
そのなかで明の李如松に跪いて許しを乞うある一団がいた。

彼らは他の日本兵とは大きく違った。
なにせ流暢な中国語を喋ったのだから。

彼らは明人だったのである。

同胞に命を乞うた彼らであったが
敵国に利した者として全員斬首になったという。

倭寇の残党か、あるいは倭寇に連れ去られて奴隷として日本に売られたものか。
来歴は不明だけどこういう明人たちがいたということで。





参考
巡り巡って母国で
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4420.html

巡り巡って母国で

2010年07月18日 00:00

928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/17(土) 14:23:27 ID:EzEnIzKW
1599年4月20日、北京の西市で61人の日本人捕虜が処刑された。
彼らは1599年11月の露梁海戦とその前後の戦いにおける捕虜だったそうなのだが…

この処刑を目撃した明朝の文人張大復は「観東征獻俘」にこんな話を記している。
「見物人の話によると、捕虜に明人がいたらしい。
 紹興の某という奴で、兄を殺して日本に逃げたとか。
 罪から逃れようとしても、今西市で首を切られようとしている。これが天道でないだろうか。」

日本への逃亡後巡り巡って母国で死んだ男の話





松永と三好三人衆の間にクリスマス停戦が成った時のこと

2010年04月11日 00:11

256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/10(土) 03:27:42 ID:4N+coktv
ここにあるように松永と三好三人衆の間にクリスマス停戦が成った時のこと
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-812.html

この時停船中に宴を催した一団があった。
両軍のキリシタン武士たちである。
寄り集まった彼らは敵も味方もなく笑いあい、酒を酌み交わした。
そして夜もすがら遊び、翌日にはまた敵も味方に分かれて戦ったという。

この様子をルイス・フロイスはこう記している。
「両軍に属する武士約七十名は、忠誠、愛情、平和、一致の美徳を示して
 敵味方一堂の家臣のごとき友愛と礼儀を持って語り合った。」

かつては同じ三好家中で同宗門となれば付き合いもあったのでしょうが
たとえ敵も味方となってもそれを忘れないいい話?




257 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/04/10(土) 07:06:08 ID:YwqSSYxW
>>256
まあ、同じ宗派同士の連帯感…みたいな物かな?
昔の人はやっぱり祭日ってのを、大切にしてたんだろうし。

まあ正月にそれをやって(対陣中とは言え)地元に帰った奴等を皆殺しにした武将もいるけど。

四天王寺の兵火とキリシタン兵

2010年03月24日 00:05

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/23(火) 12:57:16 ID:shYPwXOT

えー、何やら最近、アンチキリスト的な感じでキリスト教の悪い話が目立つような気がしますが……すんません、
半分以上私の投稿です。(-_-;
だってフロイスの『日本史』神保町で買っちゃったんだモン!良い話が載ってないんだモン!(笑)
っつーコトで、キリシタンが仏教に喧嘩をふっかける話以外で、今回はお送りしたいと思いますっ!


大阪天王寺の地名ともなった四天王寺。
聖徳太子の建立とされ、日本最古の寺院ともされる古刹である。

天正四年。織田信長の石山本願寺攻撃の際、四天王寺は兵火に遭い消失。
その際のエピソート。

信長が四天王寺の僧坊に火を放たせた時の事、その地方で最も善良で勇敢、甚だ貧し
かった一人のキリシタン兵士がいた。
彼は寺が火に包まれる前に、脇差を手に祭壇に登り、金箔で覆ってあったという仏像の上に立った。
そして手にした脇差で仏像の頭を割り、この寺の建立当時から伝わる古文書と、仏舎利の入った黄金の小箱を
取り出した。
どうやらこの男、本尊の中にこのテのお宝が隠されているコトを知っていたようである。

男はこれらの品を宣教師の許へ持ち込み、焼き捨てて欲しいと頼み込んだ。
そして宣教師は男の頼み通り、飛鳥時代から伝わると思しきそれら重要文化財を容赦なく火の中に投じたのである。

しかしただ一つ、仏舎利の入っていた黄金の小箱のみは男は宣教師には渡さなかった。
……何故? 仏陀の遺骨が入っていた箱は流石に恐れ多かったから?
いや、違う。
『黄金は金になる』からである。
男はその小箱を売り払って馬やその他、自分が欲しかったモノを購入する資金にしたという。

彼は曰く。
「オレは仏とやらになんの恩義もない。今回のコトだって、ちょっとばかりの金を工面してもらうだけのコトなのに、ワザワザ脇差で頭をかち割るなんて面倒なマネをさせられたんだから」
などとブツクサ文句を言っていたという。


……………………………え~~~っと、信長が仏教に喧嘩をふっかけ、それに乗じて
火事場泥棒をしたキリシタンの話?
あっ、ちょっと待って、石、投げないでっ、マジ、痛いからっ………!!




530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/23(火) 14:14:07 ID:OKz5eevo
こういう話を聞いて怖いと思うのは宗教よりもむしろ戦国時代の気風だな

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/23(火) 14:17:33 ID:UtXb/UHv
橋本聖子・・・

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/23(火) 16:32:00 ID:yvUoGU3f
フロイスがいい話をしていたらむしろ怖い

533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/23(火) 17:11:30 ID:wiKC3QBY
まあ、中南米でスペイン人がやった事を考えると
大人しい方なんだろうけど。

禅宗から、キリスト教への疑問

2010年03月16日 00:04

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/15(月) 00:14:25 ID:v8suGHnw
戦国期、キリスト教の重大な教義、『霊魂の不滅』を真っ向から否定したのが禅宗であった。
禅宗のこのようなの考えは当時の日本に広く受け入れられており、信長も
「若干の点”禅宗の見解に従い”、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないとした」と、
フロイスですら認めていた。
そんな禅宗の僧たちは、こんな疑問をキリスト教宣教師たちに発した

「あなたがた宣教師が言うように、唯一神デウスの存在が真実であるのなら、何故日本人に対し
こんなにも遅れて伝わり、どうしてその善良さなるものが今まで隠されてきたのか?」
人類すべてを救うはずの唯一絶対の神が日本人だけを現在までほおっておいたと言うのは
矛盾に満ちているではないか?

「あなたがた宣教師は人間には不滅の霊魂が有ると言う。しかし人間が死ぬとき、他の動物が死ぬ場合と
何ら違いはない。霊魂の兆しすらどこにも、誰にも見ることが出来ない。
ならばどうしてあなたがたは、霊魂が肉体の外に分離して存在し、それが生きたままでいることを
人々に証明出来るのか?」

「あなた達キリスト教徒は、人間の理解力、自由な意志、記憶力などを、永遠の存在である霊魂に宿る属性であると
言っている。しかしそれらは自然が、生物である人間に、存在と感覚の他に見解、意見を与えて
多少高尚にしたもの以上では無く、これらの資質はどれも不滅の兆候でないばかりか、むしろ肉体と綿密に
関連するもののように見えるが?」
人間の理解力、意思、記憶力などは、肉体が衰えれば同じく衰えるではないか。だとすればこれらは
魂の属性ではなく肉体の属性である。

これらの疑問に宣教師たちがどのように答えたのか、記録には残っていない。
それどころかこの問答は、書簡をまとめヨーロッパに置いて『日本通信』と言う形で出版される際、みな
削除されたのだ。


イエズス会はこのような疑問を発する禅僧たちを、宣教師からの書簡には存在しない

「禅宗の徒、すなわち獣のように生活をしている僧侶」

と言う表現で、『日本通信』の中で悪意を込めて記述した。
おそらく宣教師たちはこのような禅宗側からの疑問に、満足に答えることは出来なかったのであろう。

当時のキリスト教にとって、思想的、教義的に都合の悪い疑問とはなにか、と言う事についての記録でもある。




293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/15(月) 00:26:30 ID:YrkqNX1N
興味深いな
こういう話はどこに載ってるの?


294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/15(月) 00:33:49 ID:kX3w2/ir
単に異国の宗教だから受け入れないってわけじゃないのなこういうのって

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/15(月) 00:44:10 ID:v8suGHnw
>>293
フロイスたち宣教師がイエズス会に送った書簡

私の体は神の加護により

2010年03月06日 00:03

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/05(金) 16:11:38 ID:vZUR1baG
埋め代わりに

寛永14年(1637)、島原の乱の勃発した頃のことである。
既に警戒態勢にあった天草の栖本村に、上津浦より一人の見慣れぬ男が
「この村を通して欲しい」と言ってきた。彼はここを通って牟田村へと行くのだと言う。

立ちあった栖本村の庄屋が、「何のために牟田村に行くのか?」と尋ねると、
男は答えた

「牟田村でキリスト教の布教を行うのだ。」

栖本の者たち、たちまち立ち騒ぐ。当然だ。キリスト教はただでさえ禁止されている上に
今は反乱まで起こし、さらに領主に反抗するのみならず、仏教徒の村には改宗を強制し
それを拒否する者たちへの虐殺すら行っているのだ。その布教を行うなど、聞けることではない。
庄屋は男に向かって鉄砲を構えた

「御禁制のキリスト教を広めるとはとんでもない事である!そのようなつもりであれば
ここでお前を撃ち殺すぞ!」

ところがキリシタンの男、微塵も怯える風も無く村を打ち通ろうとする

「撃ち殺したければやってみるがいい!私の体は神の加護により、鉄砲も矢も当たらないのだ!」


庄屋の放った銃弾は、誤たずこのキリシタンの男の体を貫き、男は即死した。
彼には、神の加護は無かった。

島原の乱の中の、一コマである。




986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/05(金) 16:32:33 ID:qdEdx3N7
コメントに困る逸話だね

987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/05(金) 16:49:26 ID:GNvJAqnF
覚悟の自殺の一種じゃないかな。
キリシタンは自分で自分に手を下せないから。
布教途中の落命なら殉教と言えるし。

988 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/05(金) 17:05:48 ID:vZUR1baG
>>987
いやそれが、島原の乱の参加者には、キリスト教の力で自分達は不死身になったと
本気で信じていた者も多かったらしい。

989 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/05(金) 17:08:06 ID:Dyq62CRC
よし、不死身になったのでとりあえず邪教の勇者Muneshige Tachibanaを討ち取ってくるノシ

990 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/03/05(金) 17:32:33 ID:+ZzmQlYh
神を試すなかれ

991 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/05(金) 17:33:39 ID:VXrJ6cQH
弾が当たるって事は、信心が足らんかったんとちがいます?

992 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/05(金) 18:31:55 ID:qJgS83xZ
人間無骨、出番です!

993 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/05(金) 20:47:17 ID:00S66Icq
中国の義和団でも、神の祈りで鉄砲なんか止められる! と思った奴らがいてだな…

994 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/05(金) 20:48:46 ID:8icBZk53
フランス革命期の農民反乱で「アンタ、一週間経ったよ。」と夫の死体を揺り動かす妻が…

995 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/05(金) 20:52:47 ID:NJwzNmGt
今のローマ法王だと止めそうな気がする

996 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/05(金) 21:09:01 ID:1zvbYChQ
昔の人はキリストも仏教の一部と思ってたんだろうな
霧素戸菩薩とか麻利亜天とか阿吽免と念仏を唱えたり

997 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/05(金) 21:32:38 ID:47cdyZj0
>>996
神を大日如来と同一視して信仰するのが問題になったはず。
禁教以降だけど、マリア菩薩像とかもあるから、かなり混ざった教義理解にはなってるんじゃないかな。

998 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/05(金) 21:59:51 ID:Lv/t7z1l
つか本来キリスト教には死後の世界って概念はないとか

999 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/05(金) 22:16:07 ID:NtYhqg2A
キリスト教も各地の土着信仰を取り込んで拡大してきてるからそう珍しくもない
大地母神信仰→聖母マリアとか冬至のお祭り→クリスマスとか
十字架すら本来イエスのシンボルじゃないからな、あれ

1000 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/03/05(金) 22:29:02 ID:uAKTBEI8
信長「ほほ~、耶蘇を信仰すれば不死となるのか
   では、貴様らを釜茹でにして全員生き残ったのなら
   皆で改宗して耶蘇を信仰しようではないか」

二人の義妓

2009年12月11日 00:09

35 名前:二人の義妓1/2[sage] 投稿日:2009/12/10(木) 21:44:41 ID:5+GyYeBP
二人の義妓

戦争において戦うのはなにも男や兵だけではない
朝鮮出兵時に妓生となりながら日本軍に抵抗した二人の女性の話をしよう

一人目は平壌の桂月香という女性である
当時平壌は防衛線であった大同江を日本軍に越えられてしまい
朝鮮軍に放棄され小西行長が平壌に入っていた
その小西配下の武将が一人の女性に入れ込んでいた
彼女の名は桂月香
桂月香は平壌の守将である金応瑞の愛人であったが
平壌を放棄した金応瑞には付いていかず平壌に残りこの武将の妓生となっていた
武将は毎晩桂月香を求めるが父の喪中であるからと拒み続ける桂月香
その間桂月香は密偵として日本軍の内情を北に逃れた金応瑞に伝え続けていた
ある日桂月香が武将に父の喪が明けた事を告げると武将は舞い上がり
昼間だというのに酒盛りを始めた
桂月香も武将に酒を勧め日が暮れるまで飲ませた
さて、いよいよというところで武将が桂月香に触れようとすると
桂月香は隠し持っていた目つぶしを武将に投げつけた
武将はひるみその隙に討たれて死んだ
潜んでいた金応瑞が首を刎ねたとも桂月香自身が手に掛けたとも言われる
この武将を失った小西の軍勢は混乱、明、朝鮮連合軍が迫り桂月香から情報が漏れていた事もあって
平壌の防衛は困難となりとなり撤退する事となった
しかし桂月香自身は日本軍に討たれ死んだという

36 名前:二人の義妓2/2[sage] 投稿日:2009/12/10(木) 21:47:30 ID:5+GyYeBP
もう一人は晋州の論介というである女性である
晋州城は一度は日本軍2万を撃退し日本軍から"もくそ城"と呼ばれ評価されていたが
二度目の攻撃では9万の日本軍相手に耐えきれず軍民をまきこんで壮絶に落城した
晋州城陥落の後、日本の将達は晋州城の矗石楼で連日連夜の祝宴を開く
宴の中で諸将が争うように妓生を求める中に一際華美な妓生が一人いた
顔は厚化粧で覆い両手はすべての指に指輪をし派手に着飾っている
彼女こそ後世にその名を知らしめる論介である
論介はこの戦で晋州城を守備し戦死した崔慶会の愛妾であったが
夫の死に怒り妓生となって祝勝会に潜り込み
諸将に媚を売りながら復讐の機会を狙っていたのだ
そんな論介の思惑などつゆ知らず酒に酔った毛谷村六助という武将が論介に目を付けた
論介は微笑みを浮かべ毛谷村を矗石楼の東側にある南江の険しい岩の上へと誘い出すと
毛谷村に抱きつき指輪で手がほぐれぬようにしっかりと手を組み合わせて
水面に身を投げ将もろとも溺死し復讐を果たした
論介のこの行動は後に朝鮮王朝に義挙として認められ矗石楼の奥に祠を立て祀られた
今でも晋州城址には論介が飛び込んだとされる岩は義岩と称し保存され
毎年義巌別祭が行われ義妓として韓国で知られているという


韓国側にとっては義の為に命を挺して武将を陥れたいい話
日本側にとっては酒と女で命を落とした武将の悪い話ですが
これは韓国の話なのでこちらに投稿


例によって資料に乏しく史実性は期待出来ない為あちらで広く知られているパターンでいきました
実際は二人が殺した武将どころか二人の素性すらあやふやですが要は民話の類です
二人の肝っ玉に感じ入ると共に酒と女には気をつけようw




37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/10(木) 22:16:48 ID:HGMeGwSS
妙林尼と同じ手に引っかかったのか
全く男って香具師は・・・

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/10(木) 22:21:13 ID:VbFab/X/
ハニートラップとかって、そんな代わり映えしないんじゃないか?
それだけ普遍的に使える手なんだろうけどさw

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/10(木) 22:35:12 ID:5+GyYeBP
ちなみに桂月香の話は芥川が金将軍という短編小説で書いてる
討たれた武将は小西になってるが多分芥川の創作

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/10(木) 22:47:49 ID:vj95kYP0
昔は韓国の歴史学者と朝鮮役の共同研究をすると、この手の根拠の無い民話レベルの話を
民族史観、愛国史観みたいな形で大真面目に主張されて、日本側の研究者たちは
大変困ったそうな。

一応韓国の名誉のために言っておくと、最近の、特に若手の研究者は、自国の歴史を
客観的に見るようになってて、例えば朝鮮役についても、研究者レベルでは
日本の見方とそんなに変わらない感じになっているらしい。
そんな状況に古くからの研究者は、最近の若い者は民族の視点が無いと
お冠なのだそうですがw


41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/10(木) 23:11:50 ID:5+GyYeBP
後者の論介の話も
「なんか一年位前に素性の知れない賤妓が倭将を道連れに溺死したらしいよ」
って話から
「功を認めるのに賤民じゃ格好つかないから格上げ」
となってちゃんとした妓生としての身分になり
「晋州城守ってた将軍の愛人だったんだよ」
って尾鰭が付いて夫に尽くした女性としての価値が見出され、
戦後はその愛国心溢れる行動を強く評価されて民族主義掲揚のタネになった…らしい
ゲタ履かせすぎだろ…
だが韓国が民主主義になってからまだ世代が入れ替わってないからしょうがなくもある

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/10(木) 23:55:49 ID:NJg4Nz4h
プロパガンダからの派生か大陸の説話からの派生ってとこかなあ

[ 続きを読む ]

倭寇達の実態

2009年11月21日 00:21

367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 02:49:57 ID:NTQlLadG
1555年倭寇対策の一環として日本情勢を探索する為に鄭舜功は琉球経由で来日した。
彼の日本についての記録である『日本一鑑』で薩摩高須浦についてこう記されている。

「我が国の民で倭寇に捕まり奴隷になっている者が2、300人いる。」

薩摩の一地方でこれであるから薩摩全体、あるいは九州全体で
倭寇に連れ去られてきたものは膨大な数に上ると思われる。

また鄭舜功は在日明国人を
「朱縞種」、「被虜官袁種」、「逋逃之種」、「被虜人種」の4種に分けている。
朱縞種はttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2726.htmlに出てくる宋素卿の子孫たち
被虜官袁進種もこの事件で日本側の捕虜となって日本に連れ去られた
寧衛府の指揮官袁進の子孫たちである。
彼らは在日明国人のなかでも有力な一党となっていたらしい。

問題は逋逃之種と被虜人種である。
前者は明の追跡を逃れて日本に拠点を移した倭寇達
後者はその倭寇達に連れてこられた者達

鄭舜功の日本についての記録である『日本一鑑』にはこういった倭寇達が
日本を拠点として東シナ海一帯で商船を襲ったり、沿岸を襲撃したりした記録が
数多く載せられている。
明の手が届かない安全な根拠地を手にした倭寇達は大勢力と化し
日明間のおける大問題となった。

「真倭は1、2割」と言われた倭寇であるがその活動範囲に国境はないのだ。





倭寇とモンゴル人

2009年11月21日 00:10

480 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/11/20(金) 13:03:17 ID:HMX+2DTa
李氏朝鮮を建国した武臣李成桂
倭賊が軍船500で朝鮮に上陸して朝鮮内陸部へ深く侵攻し、迎撃にでた
7人の元帥のうち2人を敗死させた。
朝鮮軍を大破させた指導者は16歳の日本人だった。
李成桂は総司令として出陣し倭賊を大破し、王朝を纂奪し李氏朝鮮を建国した。
最近の朝鮮史ではこの倭賊はチェジュ島などに残留した元のモンゴル人主導で
日本賊を率いたとする。
根拠は朝鮮内陸部に深く侵攻した際は軍馬を多数使用しており、
チェジュ島にはモンゴルの馬を飼育する施設があったらしい。
また内陸部への地理が詳しいのもモンゴル人がいたからとする。




あるイギリス貴族の述懐

2009年11月08日 00:10

19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/06(金) 22:15:41 ID:2tvhUJxm
あるイギリス貴族の述懐

17世紀、東アジアにおけるポルトガルの栄光は急速に衰え、代わって我が英国の興隆は
目覚ましいものでした。
西欧で金と同量同等に商われたナツメグ、グローブを巡って、わが英国から
数多くの冒険的航海者が船出したものです。
行く先は、香料諸島、今でいうモルッカ諸島、その中でもバンダ諸島という南アジアの孤島群は、
文字通りの宝島でした。
私は、一応爵位をもつ身です。が、東インド会社と仲違いをし、配下の数隻の小型船を率いて、
海賊稼業に精を出す身でもありました。
不意を突いてお宝を満載した船舶を襲撃、お宝を脅し取ったのです。
獲物となる船の国籍は問いません。
ポルトガルはもちろん、母国英国の船まで襲撃したのです。ぼろい稼業です。

そんな折、ルン島の近海で風変わりな同業者と出会いました。日本人の操るジャンク船です。
彼ら日本人海賊は80人ほどでした。互いに挨拶を交わし、日頃の常勝気分で驕っていた私は、
大胆にも彼らのジャンク船に乗りつけたのです。船の上に上がると、
彼らは無表情ですが実に礼儀正しく、
私をあちこち船内を案内してくれました。
至るところ、お宝の山です。

帰りに、私の船へと招待すると、彼らは非礼に当たらぬようにと、数十人が
私の海賊船に乗り込んできました。
興味深そうに見学していた彼らでしたが、無表情なまま静かに日本刀を抜くや否や、
私たちに襲いかかってきたのです。
あっという間に数十人の仲間が切り殺されました。無我夢中で私たちはマスカット銃で応戦、
長槍での攻撃が功を奏し、
彼らを船底に追い詰めることに成功したのです。

ところが、彼らが立て篭もった狭い船底、そこに降りていくことは自殺行為です。
途方に暮れた私は、思い切って大砲を船底に向けてぶっ放したのでした。
轟音と共に物凄い悲鳴でした。
功を奏し日本人らは皆死んでしまいました。

私の方も、船底が痛みこれ以上の稼業は続けられなくなりました。
日本人、彼らには油断は大敵だと悟った次第です。





20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/06(金) 22:56:56 ID:LpG8ZGTn
>19
何があって日本人見学者が刀抜いたんだろう
日本人奴隷でもいたんだろうか

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/06(金) 23:07:16 ID:3Z/ZyaZZ
海賊をのほほんとお船に招くカモ襲うのに理由が要るのかい?

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/06(金) 23:12:16 ID:08ux/uMQ
「思い切って」って、思い切りすぎだw
>>20
もう最初の接舷から下心見えすいてたのでは
黙ってやられるよりは不意打ちでの逆襲に賭けたとか

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/06(金) 23:33:06 ID:zX7GJ43P
どう見ても堅気の船じゃない、船の大きさ、性能的に逃げられそうもない

そうだ、白兵戦に持ち込んで乗っ取ろう

って事か?
まぁこの話はどっちもどっちな気がするw何にしても双方無茶過ぎるw

24 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/11/06(金) 23:51:51 ID:ovP9n0lv
海賊も脳筋多そうな奴等だな

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/07(土) 00:00:32 ID:g9khruuP
脳筋業界は海外航路まで広がっていたのか

26 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/11/07(土) 00:32:49 ID:efy0Aenf
てゆーか作り話だろこれwww
船底に打ち込める位置まで大砲引っ張ってきて下に傾けて船底に穴あけるとかありえんwww

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/07(土) 00:38:16 ID:rPr+7fWD
>>26
ただ、この時代のイギリス人は、このくらいの事やりかねないのがなあw


28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/07(土) 00:41:27 ID:4dhpskJb
数十人を一瞬で斬り殺す奴が同じ船にいるんだぞ
戦闘体制で監視し続けるのは現実的じゃないだろうしそれなら一か八かの方に賭けたのかもしれん
だいたい穴を開けたとは限らん
大砲の弾じゃなくマスケットの弾や金属片詰め込んで船底にぶっ放したのかも知れん
まぁホントの所は判らんがな

29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/07(土) 00:43:15 ID:FMuq1u8p
>>11
又兵衛「距離を置いてみるとそれなりに楽しい奴なんですが」
黒田「こうも近くにいるとそのワガママさ図々しさにウンザリです」
団「あれれそれってもしかして そう私めなんです」
嘉明「だからこそ余計に腹が立つってありゃしない」

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/07(土) 00:48:05 ID:D/dUvq6L
>>26
この話ではどうだか分からないが
使うときだけ舷側に差し込む、小さい大砲が有るじゃないか
海賊が良く使うので、有りえなくは無いと思う。

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/07(土) 00:54:55 ID:4dhpskJb
ってかこの爵位持ちイギリス海賊は一体誰だ?

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/07(土) 00:59:20 ID:4qJ9em6b
欧州海賊じゃ、鉄棒や弾に鎖巻いてぶっ放したりしたらしいな
すると着弾したところで鎖が暴れまくって…ヒャッハー

33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/07(土) 01:07:46 ID:4dhpskJb
ヨーロッパのデカい船になるとちょっと大砲ぶっ放したぐらいじゃ沈まないからな
喫水より下に当てるのは難しいし
必然的に船を沈めるよりも乗組員を効率よく殺す方向に発展していくという…

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/07(土) 02:21:11 ID:G3d7IlXs
明の外洋船が欧州船より大きかったんだっけ?

銅銭だかがアフリカで出土しているから向こうまで航海していたに違いないってことになってるけど

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/07(土) 07:43:03 ID:O97/PE0g
>>37
キリン積んで明まで帰ってきましたから。

倭寇の報復と朝鮮政府

2009年08月15日 06:47

376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/14(金) 00:44:46 ID:/Er+7Lu1
1554年12月、朝鮮では、鉄砲の技術を学ぶため、教官として一人の日本人が招かれていた。
その名を信長(!)と言ったという。

その信長が、朝鮮の国境警備隊(備辺司)の隊長に、こんなことを言った

「自分の知り合いに、先に朝鮮の取締りを逃れ済州島から命からがら逃げてきた
倭寇の薩摩人がいるのだが、その者が、明春、報復のため大船団を派遣して済州島に
攻め込むと言っている。気をつけられよ。」

これを聞いた朝鮮政府はこう反応した。
「そんなバカなwww」

無論、何の対策も採らなかった。


翌年4月、対馬から朝鮮政府に、信長の言った事とほぼ同じ内容の報告がなされた。

これを聞いた朝鮮政府は、今度はこう反応した。
「無い無いそんな事www」

無論、何の対策も採らなかった。


そして5月11日

倭寇は、来た。
七十隻あまりと言う大船団で。

彼らは全羅道の達梁浦に上陸すると、達梁城を取り囲む。何の対策もしていなかった
達梁城はわずか5日で陥落。さらに全羅道各地の軍事施設を軒並み破壊し尽くし、
朝鮮の防衛体制は完全に麻痺、さらに六月になると済州島を襲い、激戦により
当地に甚大な被害を与えた。

このよう暴れまわった挙句、倭寇は再び去っていった。
この事件は「達梁倭変」と呼ばれ、当時の朝鮮政府に、深刻ななショックを与えたと言う。

当時の朝鮮の、情報への不感症が垣間見られる、そんなお話。




377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/14(金) 06:31:31 ID:2MEciyyI
>>376
あれか
文禄・慶長の役のように来襲の情報も政争の具にしたのか


日本でのキリスト教布教、活動が困難を極めた理由の一つ

2009年06月22日 00:02

489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/21(日) 13:13:35 ID:IsR+UYg7
ザビエルに端を発した日本でのキリスト教布教はトーレスに引き継がれていたが
活動は非常に困難を極めた
問題の一つは…

( ・∀・)「神は私たちを愛してる!神が愛するように我々もみんなを愛そう!人類皆兄弟!」
( ´Д`)「…ハッ」
(#・∀・)「ちょっとちょっと!ボクが珍しく真剣にモラルを説いてるのに鼻で笑うってどういうこと!?」
( ´Д`)「あれ見てみるモナ」
( ・∀・)「あれ?」
(´・ω・`)「…」←商人に買われた日本人奴隷
( ´Д`)「お仲間に布教したほうがいいんじゃないか?」
      「言ってることとやってることが違いすぎてあんたらなんて信用出来ないモナ」
(#・∀・)「彼らは商人、我々は宣教師。彼らと我々は全然違う!」
( ´Д`)「あいつらはキリスト教徒じゃないモナ?」
(;・∀・)「えっ?いや、キリスト教徒のはずだけど…」
(#´Д`)「やっぱりそうなんじゃないか!信用出来るか!」

そう、奴隷貿易である
宣教師が隣人愛を唱える側からポルトガル商人は奴隷貿易に勤しんでいた

これでは説得力が失われてしまう

そう考えた宣教師はポルトガル本国に日本での奴隷貿易を禁止するように何度も求めた
初めの内は半場無視されたようだが
1571年、ついに念願叶って日本人の海外売買禁止の勅令がポルトガル王から出された
こうして公式に日本人奴隷の売買は禁止された


が、この勅令はほとんど効果が無かった
ヨーロッパの西端の国がユーラシアの東端の国での奴隷貿易に付いて
何かを言っても影響力を行使できなかった

日本での宣教師の立場も変わっていった
しつこく奴隷貿易の禁止を求めた布教長のトレースは勅令が出された前年に死去
後任のカブラルは当時のポルトガル人としては標準的な性格で日本人を蔑視していた
彼によってザビエル、トレースが行ってきた日本人の立場を顧みた布教活動は捨て去られた

また日本ではインドと違いポルトガル本国の軍事的、経済的保護が無かった
宣教師が身の安全を確保するためには現地の領主に保護して貰う必要があった
現地の領主、つまり大名が望んだのは貿易である
このような状況から商人が奴隷売買をしていても強く言えない立場になり事実上黙認された

1586年、バテレン追放令が豊臣秀吉によって出された
この法令はほとんど宗教に関する文言だが
何故か商人が行っていた人身売買を禁ずる項目も含まれている

結局、宣教師とポルトガル商人は日本人から見て同じ存在として見られてしまい
改められることはなかった
これを機に日本での布教活動は衰退していくことになる…





490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/21(日) 13:31:25 ID:wNw9+gzd
そりゃ追い出されるわw

491 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/06/21(日) 13:48:38 ID:gWvXzgww
ってか一応禁止だったのか

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/21(日) 14:10:30 ID:cBlBGuKt
奴隷貿易に頭にきたとも言われてるしなぁ

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/21(日) 14:27:36 ID:IsR+UYg7
まぁ今でも宣教師と商人が結託して奴隷貿易やってたと思ってる人が多いから
奴隷貿易に否定な宣教師もいたんですよって話です
要するにカブラルが悪い