549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/11(木) 22:09:11 ID:KyAMrvmj
天文17年(1548)、甲斐の武田晴信による信濃支配は、2月14日の村上義清との合戦、上田原の戦いにおいて
大敗を喫したことにより大きな動揺を見せた。
信府(松本)の信濃守護小笠原長時は活動を活発化させ、同年7月10日には諏訪の有力な国人、地侍が
長時の側につき、同地方の武田軍への攻撃を始めた。
晴信はこの報を聞くと直ぐに出陣したが、18日まで本国甲斐から出る様子を見せずグズグズと動かなかった。
そして18日夜、密かに進軍し19日、諏訪上原城に入ると、そのまま信濃塩尻峠に布陣する小笠原長時の軍を
急襲する!世にいう塩尻峠の戦いである。
当然のことながら、武田軍がグズグズしていたのは理由がある。
晴信は回にとどまっている間、長時派の国人に工作をしかけていたのだ。武田軍の攻撃が始まると、
その仕掛けが動く。
小笠原長時軍5千の中にあった信濃の国人三村長親とその配下500が、長時に対し反旗を翻したのだ!
武田からの不意打ちにただでさえ動揺していた長時軍は、この三村の突然に反旗にもはや耐えることが出来ず
壊滅。この勝利により武田は上田原での敗戦の痛手から回復、信濃侵攻の勢いを完全い取り戻す。
すべては三村長親の内応のおかげであった。
…と、戦後武田晴信は三村長親を、論考を行うからと甲府に呼んだ。
なにしろ三村長親は塩尻峠の戦いにおける最大の功労者である。彼は意気揚々と
2百名ほどの一族郎党を引き連れ甲府に入り、今の太田町にあった一蓮寺に宿をとった。
その夜である
武田晴信は言う
「主を裏切るものは、又裏切るであろう」
彼は一蓮寺に兵を向けた。
突然の焼き討ちを仕掛けられ、三村長親を始めとした三村一党は為す術も無く皆殺しにされ、一蓮寺とともに
焼かれた。
信州三村氏は、ここに滅んだ。
長野県塩尻市、妙義山の麓にある釜井庵は、かつて三村長親の屋敷があった場所だとされてているが、
そこに今も、夜泣き石という石がある。
この石は三村一族の妄念により、夜更けになると泣き叫ぶのだ。と、言い伝えられる。
塩尻峠の戦いと三村一族についてのお話である。
550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/12(金) 00:26:22 ID:78KsDCTh
備中も信州も嫡流は同じような時代に滅ぼされてるんだな。
天文17年(1548)、甲斐の武田晴信による信濃支配は、2月14日の村上義清との合戦、上田原の戦いにおいて
大敗を喫したことにより大きな動揺を見せた。
信府(松本)の信濃守護小笠原長時は活動を活発化させ、同年7月10日には諏訪の有力な国人、地侍が
長時の側につき、同地方の武田軍への攻撃を始めた。
晴信はこの報を聞くと直ぐに出陣したが、18日まで本国甲斐から出る様子を見せずグズグズと動かなかった。
そして18日夜、密かに進軍し19日、諏訪上原城に入ると、そのまま信濃塩尻峠に布陣する小笠原長時の軍を
急襲する!世にいう塩尻峠の戦いである。
当然のことながら、武田軍がグズグズしていたのは理由がある。
晴信は回にとどまっている間、長時派の国人に工作をしかけていたのだ。武田軍の攻撃が始まると、
その仕掛けが動く。
小笠原長時軍5千の中にあった信濃の国人三村長親とその配下500が、長時に対し反旗を翻したのだ!
武田からの不意打ちにただでさえ動揺していた長時軍は、この三村の突然に反旗にもはや耐えることが出来ず
壊滅。この勝利により武田は上田原での敗戦の痛手から回復、信濃侵攻の勢いを完全い取り戻す。
すべては三村長親の内応のおかげであった。
…と、戦後武田晴信は三村長親を、論考を行うからと甲府に呼んだ。
なにしろ三村長親は塩尻峠の戦いにおける最大の功労者である。彼は意気揚々と
2百名ほどの一族郎党を引き連れ甲府に入り、今の太田町にあった一蓮寺に宿をとった。
その夜である
武田晴信は言う
「主を裏切るものは、又裏切るであろう」
彼は一蓮寺に兵を向けた。
突然の焼き討ちを仕掛けられ、三村長親を始めとした三村一党は為す術も無く皆殺しにされ、一蓮寺とともに
焼かれた。
信州三村氏は、ここに滅んだ。
長野県塩尻市、妙義山の麓にある釜井庵は、かつて三村長親の屋敷があった場所だとされてているが、
そこに今も、夜泣き石という石がある。
この石は三村一族の妄念により、夜更けになると泣き叫ぶのだ。と、言い伝えられる。
塩尻峠の戦いと三村一族についてのお話である。
550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/12(金) 00:26:22 ID:78KsDCTh
備中も信州も嫡流は同じような時代に滅ぼされてるんだな。
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