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三村一族の滅亡

2010年11月13日 00:00

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/11(木) 22:09:11 ID:KyAMrvmj
天文17年(1548)、甲斐の武田晴信による信濃支配は、2月14日の村上義清との合戦、上田原の戦いにおいて
大敗を喫したことにより大きな動揺を見せた。
信府(松本)の信濃守護小笠原長時は活動を活発化させ、同年7月10日には諏訪の有力な国人、地侍が
長時の側につき、同地方の武田軍への攻撃を始めた。

晴信はこの報を聞くと直ぐに出陣したが、18日まで本国甲斐から出る様子を見せずグズグズと動かなかった。
そして18日夜、密かに進軍し19日、諏訪上原城に入ると、そのまま信濃塩尻峠に布陣する小笠原長時の軍を
急襲する!世にいう塩尻峠の戦いである。


当然のことながら、武田軍がグズグズしていたのは理由がある。
晴信は回にとどまっている間、長時派の国人に工作をしかけていたのだ。武田軍の攻撃が始まると、
その仕掛けが動く。
小笠原長時軍5千の中にあった信濃の国人三村長親とその配下500が、長時に対し反旗を翻したのだ!

武田からの不意打ちにただでさえ動揺していた長時軍は、この三村の突然に反旗にもはや耐えることが出来ず
壊滅。この勝利により武田は上田原での敗戦の痛手から回復、信濃侵攻の勢いを完全い取り戻す。
すべては三村長親の内応のおかげであった。


…と、戦後武田晴信は三村長親を、論考を行うからと甲府に呼んだ。


なにしろ三村長親は塩尻峠の戦いにおける最大の功労者である。彼は意気揚々と
2百名ほどの一族郎党を引き連れ甲府に入り、今の太田町にあった一蓮寺に宿をとった。
その夜である


武田晴信は言う

「主を裏切るものは、又裏切るであろう」

彼は一蓮寺に兵を向けた。
突然の焼き討ちを仕掛けられ、三村長親を始めとした三村一党は為す術も無く皆殺しにされ、一蓮寺とともに
焼かれた。
信州三村氏は、ここに滅んだ。


長野県塩尻市、妙義山の麓にある釜井庵は、かつて三村長親の屋敷があった場所だとされてているが、
そこに今も、夜泣き石という石がある。

この石は三村一族の妄念により、夜更けになると泣き叫ぶのだ。と、言い伝えられる。


塩尻峠の戦いと三村一族についてのお話である。





550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/12(金) 00:26:22 ID:78KsDCTh
備中も信州も嫡流は同じような時代に滅ぼされてるんだな。
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三村一族、夜泣石伝説

2009年06月26日 00:17

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/25(木) 00:08:47 ID:JR4sURwd
夜泣石伝説

信濃の有力者である三村一族は小笠原陣営だったが、寝返って武田信玄に
ついていた。ある時、信玄は恩賞を与えるとして三村長親を呼び出した。
長親は家来二百人程度を連れて揚々と現れ、甲府一蓮寺に滞在した。

しかしこれは罠だった。信玄は裏切り者はまた裏切る、信用できないと考え、兵をさし向けて
寺に火をつけて三村一族を皆殺しにしてしまう。ここに三村一族は滅びた

塩尻市の釜井庵には長親の館があったといわれる。
そこにある石は三村一族が謀殺されてから夜ごとに啜り泣くようになった。
それは三村一族の妄念が泣くのだと今日まで伝わっている。