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これは昔から今に至るまで、武士の作法である

2023年04月15日 18:26

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/15(土) 14:51:50.33 ID:oiuiA72G
放し囚人(めしうど)を討ち取る時、家の内、或いは外であっても、これを討つ者たち各々がかかった所で、
誰であっても最初にかかって切り結び、かかりつつ引きつつ、乱れて勝負をする時、脇や後ろから別人が
寄ってきて、刀、又は長道具、弓などでその科人を殺した場合、定めてこの殺した者が、放し囚人を仕留めたのだ、
とされるのは大きな非議である。

何故かと言えば、討つ相手に対して打ち手の者たちが寄りかねる所を。抜き出てかかる心というものは
優れており、その上切り合ってるところであれば、横からでも後ろからでもかかるのはやりやすいものである。
であるので、始めに先ず切り合った人の手柄を一番とする。二番目は殺した者だが、これは始めに勝負いたした
者に続いての手柄である。

このことについて、人がかからぬ時に一人勝負を始める意地は、人に優れてやさしく、こういった人物は
合戦、競り合いの時でも、放し討ちでこのようである以上、定めて一番鑓をするであろう。
さて又、人に戦わせておいて自分はやりやすい場所に参るような者は、先の人物から、はるばると間のある
意識である。故にこれを「ほそ心ばせ」と呼んでいる。

これは昔から今に至るまで、武士の作法である。

そのように馬場美濃守馬場美濃守(信春)が申し定めた。

甲陽軍鑑



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武士が武士を褒める作法

2023年03月01日 19:45

702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/28(火) 22:50:36.52 ID:gOxpirZ4
穴山伊豆守(信君)殿が又、馬場美濃守(信春)に尋ねられた
「では、三河の徳川家康は人に優れて利根なる仁か」

馬場美濃守
「穴山殿は信玄公の御従弟であり、しかも惣領聟であられますが、失礼ながらそのような御言葉を他国の
家中の者に聞かれては、笑われてしまうでしょう。武士が武士を褒める場合、作法が定まっております。

第一に、謡、舞、或いは物を読んで受け取りの早い人を、利根と云います。また、所作の様子、又は品の良い
人を器用と申し、さらに性発とも才知とも名付けられます。

第二に、座配良く大身小身と打ち合わせや取りなしに困りあぐねる事も無く、軽薄でも無く、術でもなく、
いかにも見事に仕合せする者を、利発人、公界者と申します。

第三に、芸つきも無く、器用に座配をすることも出来ないが、武辺の方にかしこい場合は、利口者と申します。
またこの者を、心懸者、すね者、仕さう成者と名付けて呼びます。

大身、小身共に斯くの如くであり、このように分けてそれぞれに名付けて言わなければ、報告を受けた
国持大将が合点出来ません。

(中略)

このように、三河一国を持ち遠州まで手をかけた家康の事を利根と呼ぶのは愚かです。利口と褒めるのも、
その術を知らぬ仰せられようです。家康については、『日本に若手の甚だしき弓取り』と申すべきでしょう。
必ず穴山殿、御心得なされよ。」

そのように馬場美濃守が申すと、穴山伊豆守は謝り「卒爾に問うてしまった。宥し給え馬場美濃殿」と言うと、
その後どっと笑って、互いに座敷を立たれた。

甲陽軍鑑



これが馬場美濃の小山田弥三郎への返事である。

2019年06月21日 16:29

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/21(金) 14:36:04.55 ID:f5pcw5Wk
ある時、馬場美濃守(信春)のところへ振る舞いに内藤修理(昌豊)・山県三郎兵衛(昌景)・土屋右衛門尉
(昌続)・小山田弥三郎・高坂弾正・真田源太左衛門(信綱)・小幡上総、この衆が参られ、よろずの雑談の
中で小山田弥三郎が申すには、

「各々聞き給え。世間で物の分かりを言って人に教えることが学問者の業である。しかれば学問者の中に物知
りは多い。智者は少ないものであろうが、一文字を引けない人にも智者はいよう。山本勘介などは智者という
者であると信玄公は仰せであったから、さて物知らずであってもまた智者と言って別なのである」

と言えば、そこで馬場美濃が申される。

「小山田殿が宣う如く、松木桂琳は学問をして物を良く読むので、唐の諸葛孔明のことを某が尋ねたところ、

諸葛は百姓なれども大将(劉備)がこれを抱えなさりたいがために、いかにも慇懃な出で立ちで諸葛の宿へ大
将自身がいらっしゃった。けれども2度は留守として押し返し、3度目にかの諸葛は竹を耡っているところへ
大将が行き当たり、何程も慇懃になされたのでここでは諸葛は鍬を投げ捨て、今の大将を守護して軍法を仕り、
戦にその大将が勝ちなさった。

その事を本に向かって申している時は『松木桂琳は物知りかな』と存じた。その時に甘利の同心・春原惣左衛
門が私めの方へ見舞いした。かの惣左衛門は真田殿の家中で武辺・智恵・才覚・弁舌すべてが備わった武士で、
信州村上殿へ武略として真田一徳斎(幸隆)が差し遣し、村上頼平公(義清。頼平は父)を信玄公が押し倒し
て勝利を得なさった。

それは春原が賢き智計の武士なる故で、某は大剛の誉れを感じ、互いの冥加のために春原を一入慇懃にもてな
した。それを松木桂琳が見て、春原が座を立ち帰った後に私めに申すには、『人の同心足軽で殊更小身な者に、
どうして馬場殿ほどの人が殊の外慇懃になされる』と不審がった。

それ故、そこにおいて私めが存じたのは、諸葛は賤しき百姓なれども大きな大将が慇懃になされた談義を言い
ながら、これを不思議と疑うのは、松木桂琳の口と心は合わぬと存じた。そういうわけで、物の本に向かって
談義するのは物知り、本に向かって読む術を知らずとも、心の至っている人を智者とこそ申すのであろう」

これが馬場美濃の小山田弥三郎への返事である。

――『甲陽軍鑑(品第四十下 石水寺物語)』



183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/21(金) 14:43:58.60 ID:QGNI5dtj
>>182
まさに頭でっかち…

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/21(金) 20:51:41.49 ID:M9YcI+sb
>>183
でも現代でもありがちなことだわ

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/21(金) 20:52:28.59 ID:M9YcI+sb
と言うか小山田さんと馬場さんの良い話のような

不死美濃鬼美濃

2019年06月08日 10:17

990 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/08(土) 03:41:29.58 ID:/WthnPTS
馬場美濃守(信春)は信虎公の御代に18歳より初陣仕り、25歳から信玄公に召し使われた。
信虎公・信玄公・勝頼公まで三代に召し使われ、一昨年の長篠合戦にて62歳で討死仕られる。

信虎公・信玄公二代の間に武辺数度の走り回りを致す中で、自分の一備で優れた事が21度。
よって御父子の御証文21を取って持つ。その内で、しかも諸軍よりも優れたという事が9つ
あり。これ程の手柄をあらわし申されたが、62歳まで手傷を1ヵ所も受けなかった御方なり。

30歳余りから信玄公が取り立てなさり、人数を下されて“馬場”になさった。

――『甲陽軍鑑』



991 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/08(土) 07:08:59.51 ID:tW2qfkw5
不死美濃鬼美濃

私は武田家の古老、馬場美濃なるぞ

2018年10月28日 17:56

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/28(日) 02:59:35.21 ID:jQCsznEq
(長篠の戦いの時)

山県昌景の先頭に続き武田勢は攻め掛かるが、鉄砲の激しさに堪えかね引き退く。武田右備の先手・
馬場美濃守信房の一隊は魚鱗に備えて金鼓を鳴らし、寒防山の麓より信長卿の本陣に押し寄せ、

喚き叫んで柵二重まで破らんとした。織田方は少しも取り合わず佐々内蔵助(成政)・前田又左衛門
(利家)・福富平左衛門(秀勝)・野々村三十郎(正成)らが命じ3千挺の鉄砲で段々に撃ち立て、
寄手の走り寄る者は撃ち倒され撃ち落とされ、ここでも人塚を築いた。

(中略。武田勢苦戦。土屋昌続討死、武田信廉・跡部勝資勢裏崩れして敗走)

この勢いに乗じて織田方の滝川左近将監(一益)と佐久間右衛門(信盛)は柵外に出張した。神君は
これを御覧になって「かねがねの軍令の如く早々に柵内へ引き入るべし!」と御使者を遣わされたが、
両人はこれを用いず、信長卿からも使者を立てられてこれを制し給う。その間に馬場は敗れた手勢を
立て直し、佐久間勢を追い崩して40余人の首を切り、佐久間勢を柵内へ追い入れた。

(中略。織田・徳川勢の総攻撃により武田勢総敗軍。内藤昌豊ら諸将討死)

ここにおいて小幡上総信貞・小幡備前貞員・河窪備前・小山田十郎兵衛国次らは、皆勝頼を落ち延ば
さんがため踏み止まり踏み止まり、勇猛の働きをして死んだ。穴山梅雪の一隊は後をも見ず寒防ヶ嶺

を目指して逃げ行くと、一条(信龍)の一隊も散々に打ちなされて敗走した。三河・遠江の勢は勝頼
を討ち止めて高名にせんと喚き叫んで追っ掛ける。馬場美濃は討ち残された手勢20騎ほどをまとめ、

勝頼本陣の大文字の小旗の影が見えなくなったので馬を引き直して、長篠の城際まで取って返した。
馬場のその日の出で立ちは卯花威の具足に錆色の星兜に鍬形を打ったものを着なし、

朱に染まった(血まみれになった)月毛の馬には白覆輪の黒鞍が置かれていた。これに乗って白旄を
胸板の鐶に差し、槍は馬の平首に持ち添え敵に向かって「私は武田家の古老、馬場美濃なるぞ!

各々は私を討ち取って高名にせよ!」と大声で呼ばわり、槍を振るって敵4,5騎を突き落とした。
その後は刀に手もかけずに、塙九郎左衛門直政(原田直政)の郎等・川井三十郎のために自身の首を
授けた。時に62歳。馬場が勝頼に今回の合戦御無用なりと諫めた時、跡部・長坂の両人に向かって

「合戦を勧められる方々は逃げられようとも、諫める某は討死する」と申した言葉を守って、退けば
退けたものをこのように踏み止まって討死せるこそ哀れなれと惜しまぬ者はいなかった。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・東遷基業・武徳大成記・家忠日記・甲陽軍鑑・武家閑談)』



家康は利根か

2017年09月22日 19:09

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/22(金) 15:43:53.29 ID:SmL/qRqe
ある時、穴山梅雪が馬場美濃(信春)の向かって聞いた

徳川家康というのは、人に優れて利根な人物か?」

これに馬場美濃
「なんという不案内なお尋ねか。

謡、舞、或いは物を読んでその理解が早いことを利根といい、
その所作がらが良いのを器用とも利発とも言います。

座配や時宜についての仕様が良く、大身とも小身とも、付き合って一つも軽薄な所がないのを
利発者、あるいは公界者と言います。

芸の理解が良くなく、座配なども良くないが、武義について勝れた者、放し打ちの一度も二度も
致したような者を利口者、
槍脇を勤め首尾の良きこと2,3度有れば甲斐甲斐しき者と言います。
そしてそのような働きが重なれば兵者(つわもの)とも、覚えの者とも言い、
その覚えが重なると、大剛の者、
その人物に、さらに分別工夫が有ればそれを名人と言います。

徳川家康は三河一国から遠江まで手をかけ、日本の弓矢取りの中でも若手の代表格と言えるでしょう。
そういった人物に対し、利根かどうかと尋ねるのは、いかがなものでしょうか?」

この話の内容から考えるに、利根、利発、利口、覚えの者、大剛の者などという区別であるが、
馬場の言っている理屈も正しいとは言い難い。これはその当時の、世俗における理屈を伝えている
だけなのだろう。

ただし、何事でもその道々に定まった言葉というものがあり、その弁えなく使ってしまっては、
その言葉の持つ意味が消えてしまう。
そういった意味で、例えば同じ学問僧を指す言葉であるが、教家においては所化と呼び、
洞下においては江湖と呼び、開山派では衆寮と呼ぶように、その品によってその言が変わるのだと
心に付けて、言葉に気をつけてその説を詳しく説明すれば、みだりな言葉の出ることは無い。

そういった中、「武辺者」という言葉を定まったものとして使う向きがあるが、この意味合いも
東西都鄙によって別であり、家によっても変化する。その文字の字義、理えお正し、言葉をみだりに
致さないこと、これも君子の戒めの一つである。

(士談)

言葉を使う時はその意味や定義をきちんと押さえておかないといかんよ、というお話



248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/22(金) 16:45:29.09 ID:j6deZQvo
いちいち呼び変えるのって大ふへんだなぁ

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/22(金) 17:38:47.63 ID:OQHDg4wR
なるほど、儒者の書きそうな書物だ

「武田の弓矢は今、頂上に登った」

2017年05月15日 12:09

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/15(月) 09:52:56.00 ID:LUvPc2Sq
武田信玄が北条と、駿河国薩タ山で対陣した。
正月18日より4月20日までの、93日間の対陣であり、その間日夜競り合いがあった。

武田軍は一番より十番まで、一手切りに足軽を配備していたが、跡部大炊介(勝資)がこの番に
当たっていた日、北条軍の松田の兵に押し立てられ、二町ばかり敗北し、さらにその場に押し留まった。

このため武田信玄は馬場美濃(信春)に対処を命じた。
しかしこの時、馬場の兵は僅かに百騎あまりであり、跡部の三百ばかりの救援には如何かとあって、
彼はこの役割を内藤修理亮(昌豊)に譲ろうとした。しかし内藤は
「あのように気負った敵に対するのは、馬場ならではである」
そう言って辞退したため、結局馬場がこれを請けて現場へと向かった。

現場に向かうに先立って、馬場は「大炊介は早々に引き取るように命じてください」と望み、
信玄は百足の指物の衆を出して、その通りに申し渡した。

馬場は己の兵を3つに分けると、一手は敵に向かい、足早に撤退する跡部の軍に付いてくる敵軍を、
跡部と交代して引き受けた。
一手は脇より横筋から弓鉄砲にて懸った。これにて松田の軍2500は悉く崩れた。
最後の一手は後備えにて、この場所の武田の備えを回復し、さらに敵の二の木戸まで押し込み、
引き上げた。馬場一大の深入りであった。

「面白さに我を忘れてしまったよ。」
これは合戦の後、馬場が内藤に語った言葉である。
信玄は馬場の戦いを、「武田の弓矢は今、頂上に登った」と評した。

(士談)



903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/15(月) 10:14:54.19 ID:wjrkMz9Q
頂上に達したら下るだけ、と突っ込みたくなった

馬場美濃守が言うには

2015年02月27日 18:37

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/27(金) 08:51:26.56 ID:83Rm2EW+
信長・家康が勢いに乗って後を追ってきたら、信濃の中まで入れて一合戦しましょう。
そこでは敵は大軍といえども、勝頼公の勝ちは必定でありましょう。」
と申すと、長坂長閑殿は、
「新羅三郎公より武田始まって信玄公までの二十七代の間、敵を見て軍勢を引き込むことは無かったので、
二十八代勝頼公の御大に軍勢をひくのはいかがかと思う。」
と言い、勝頼公はその意見に賛成し軍勢を引き入れなさらなかった。

 次に馬場美濃守が言うには
「それでは長篠の城を力攻めしてはどうか、味方の死傷者は千人出るであろう。
すると、この長篠の城には多くて鉄砲五百丁あるであろう。
ならば、一時攻め寄せるなら、始めの鉄砲で五百人討ち死にし、二番目は慌てて撃つのであろう。
これは手負いが五百人、合わせて死傷者が千人は出るであろうが、そのうち死傷者が少しは少ないかもしれない。
それを機会に軍勢を引くことがもっともである。」
また長坂長閑が言うには、
「『味方の一騎が討たれたら、敵の千騎が勢いを得る』と言われているように、この大軍を引受けて、味方千人を失うのはいかがか。」
これも勝頼公は長閑殿の意見をもっともであると思われた。

 また馬場美濃守が言うには、
「そうであるなら、城を攻め落とし、敵を追い出して、城に御屋形様を置いて、
逍遥軒公を始め御親類衆を尽く後ろに陣を敷いて、総勢を御旗本の先鋒とし、
山県と内藤と拙者の三人が、川を越えて、時々の競り合いをして長期戦に持ち込めば、
味方は信州から人夫の運送が近くてよいが、敵は河内・和泉の軍勢もあるので、長く陣を張れず、
最後には信長は引き上げるでしょう。」
長坂長閑が申すには、
「馬場美濃の判断は悪い。信長程の大将がただ引くであろうか。押しかけて戦をする時はどうするのだ。」
馬場美濃が言うには、
「そうなれば合戦をなされないのは叶わぬことであろう。」
長閑が言うには、
「むこうから仕掛けられて合戦するのも、こちらから進むのも同じであろう。」
長閑の意見に勝頼は大きくうなずいて、
「御旗・楯無よ、明日の合戦は延ばさぬ」
と御誓文を立てられた、御旗は八幡太郎義家公の御旗である。楯無とは新羅三郎公の御具足である。
(甲陽軍鑑)




479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/27(金) 09:57:03.08 ID:bOUTJH8i
馬場さんは一体何を言ってるんだ

480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/27(金) 09:58:31.70 ID:Zm7NHSqI
長閑は批判するだけで代案は出さんのじゃの


馬場さんはどうにかして撤兵したかったんでしょ

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/27(金) 10:32:29.86 ID:zNeTheTz
武田の軍勢で死傷者一千も出したらその後がガタガタになりそうな

482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/27(金) 13:09:32.43 ID:/it2LZ40
死傷一千でガタガタなら信玄時代にとっくに崩壊
してる様にも思うけど

483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/27(金) 14:17:20.82 ID:zcdkFO7v
長閑の言うことは尤もなのに
おかしく聞こえるのは軍鑑だからか

鉄砲が五百あるからって最初の一撃で五百死ぬってどうなのよ

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/27(金) 14:20:35.76 ID:VjeZRkmf
>>480
勝頼は主戦じゃからの
代案ださんのは主君の意向に従ってるのよ

町人という奴らは

2014年11月24日 19:42

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/24(月) 00:44:25.78 ID:y+GediFy
ある時小山田弥三郎がこう申した
「馬場殿(信春)、内藤殿(昌豊)、山縣殿(昌景)、高坂殿(弾正)聞いてください。
町人という奴らは武辺のことも、力の強い者ばかり手柄をすると思っているようで、
普広院殿(足利義教)を討った赤松右京太夫(満祐)を贔屓の町人が、これを褒めて書いた書物に、
赤松の力を三百人力なんて書いてありましたよ。」

そう言って笑った所に、馬場美濃申した

「ならば我々侍衆が商いの雑談をするときは、そのような不案内なことが多い。であるから
町人は侍のことをおかしく思い笑うのだ。
その道々によって、家業ではないものを取り沙汰すると、可笑しくなるものなのだよ。」

(甲陽軍鑑)




239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/24(月) 01:21:48.16 ID:1NJ9pL/0
あるある系だな

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/24(月) 02:37:36.19 ID:np/t14KB
>>238
兄貴の弥三郎信有だね

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/24(月) 03:23:08.45 ID:wYDw5PAS
親父も信有(出羽守)でややこしい

243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/24(月) 05:45:46.78 ID:aquGLh07
至極普通の雑談も載っているんだな

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/24(月) 10:57:52.13 ID:VtyZGG8U
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4590.html?sp&sp
出典はないけど一応前に出てるな

245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/24(月) 12:40:20.44 ID:1NJ9pL/0
>>242
じいちゃんも信有(越中守)

246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/24(月) 12:58:55.64 ID:W6FwY664
朝倉、河野、福原、小山田家は累代諱かぶり四天王

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/24(月) 15:43:36.06 ID:aquGLh07
力が何人力とか 身長が何尺とか 鬼のような形相とか
きっとみんな商人が広めたデマなんだろうなw

家康の運命について

2014年11月03日 18:06

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/03(月) 00:19:27.88 ID:kjKdqvYr
ある時、長遠寺での振る舞いに、武田信玄の重臣である馬場美濃守、内藤修理正、高坂弾正、山縣三郎兵衛、
原隼人佐、小山田弥三郎などの大身衆が寄り集まり、一日雑談したことがあった。
ここで

「山縣三郎兵衛殿は駿河江尻の城代であるので、遠州浜松の徳川家康の噂をよく聞いておられます。
また内藤殿には関東の安房、佐竹、会津のことを語っていただきたい。
小山田殿は小田原の近くなので北条家のことを語っていただきた。
高坂殿、馬場美濃守殿は越後、越中までのことを語っていただきたい。」

そう促され、山縣が先ず家康のことを語った。
「徳川家康は今川義元公が討ち死にされてより以降、ここ10年ほどで国持と成った者ですが、駿河の
全盛期の作法を幼いころから見聞きしたためでしょうか、信玄公が奉行衆を使って公事(裁判)を
裁く様子に、少し似てきているようです。彼の公事の裁きは、どのような訴訟であっても珍しき事は
聞きませんが、それは家康が最近になって国持に成ったためでしょう。我々が感心するような裁きは、
あと十年過ぎても無いでしょうね。

ところであの若い家康が申し付けた三人の奉行ですが、それぞれ三様の性格の者に言いつけたようで、
仏高力・鬼作左・どちへんなしの天野三兵などと、浜松にて落書が立ったそうです。
昔、私が未だ三十ばかりの時、信州更科の奉行に、まだ若き武藤殿、櫻井殿、今井殿だけは
宿老でしたが、今福浄閑は中老でした。この四人、歳も性格もそれぞれ違った人達を、信玄公が
奉行に申し付けた事に、この頃の家康が少しずつ似ているのは不思議なことです。」

これに馬場美濃、内藤、高坂らは「家康は只者では有りませんね。」と言い合い、
中に馬場美濃が語ったことは

「家康の今後の身の上について、私は思うところがある。この美濃の生命をあと20年ほど生かしてもらい、
この考えが当たるかどうか試したく思うが、20年生きれば80歳に今少しとなる。金の鎖でつないでも
叶わぬことを願ってしまったな。」

そう言って笑った。これに高坂弾正が「家康の今後の身の上を、馬場殿はどのようにお考えなのですか?」
と尋ねた。すると馬場美濃守
「おやおや、弾正殿は私よりも先に、それについて考えがあるのでしょう?」と言った。

ここで小山田弥三郎が手を合わせて
「御両所の考えを、願わくばお聞かせいただけないでしょうか?」としきりに所望した。

そこで高坂弾正
「美濃殿の考えを承りたいので、先ず私が下座から申しましょう。
家康は今、織田信長と二世までの入魂と言っていい関係で、双方が加勢を助け合い、それ故に二人の関係は
堅固です。ですが信長は今や、敵は上方十四ヶ国の間に、信長に国を取られていなくても、あえて
信長の分国に攻め込もうと考える武士は一人も有りません。それ故に、次第に現在のような大身となりました。

一方、家康はいつまでも三河一国、遠州の3分の1だけならば、終には家康は信長の被官のようになり、
信長はそれを喜ぶでしょうが、仮に明日にでも信玄公が亡くなられた場合、信長は安堵し、
今でこそ家康を、嫡子の城介殿(信忠)と同様に思っていると、献上された3つの大桃のうち一つを
贈る程ですが、強敵・大敵である信玄公が居なくなれば、信長は家康を殺すでしょう。
もしそうならないのなら、家康の果報というのは少し考えがたいほどです。」

これを聞いて馬場美濃は大誓文を立てて「私もそう思う。」と言った。
内藤修理も同じ意見であると誓文を立てた。

(甲陽軍鑑)

家康の運命についての、武田家家中の予測である。




683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/03(月) 09:08:11.50 ID:JaF+NvrO
無知ですまんのだが「馬場美濃は大誓文を~」とあるが
この(大)誓文って起請文って理解で合ってる?
ただの雑談中の意見交換でなんで起請文を出すの?

軍法というもの

2014年10月15日 18:50

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/14(火) 21:00:58.05 ID:qBeoyuNj
ある時穴山殿(信君)が馬場美濃(信春)に問われたことがあった

織田信長は今や天下を意見するほどの人です。ところが聞き及ぶ限りでは、彼の軍法で
人の手本に出来るほどのものはひとつも有りません。これはどういう事でしょうか?」

馬場美濃はこれに答えた
「信長の敵は、美濃衆に7年ほど手間取ったばかりで、残りは皆信長に怯えた人々ばかりでした。
なので軍法も必要としなかったのです。
それに信玄公は上杉輝虎との間で、おおかた世間にあるほどの手立て、はかりごとは行いましたので、
他国の弓矢の事は御当家において、さほど面白く感じないのです。

織田信長は今年38歳。天下も三好殿を押しのけ、都のことで本当に自分の意見を通せるようになったのは
去年7月からのことです。

軍法というものは大敵、強敵に逢っての手立てですから、信長は国を隔てているため、信玄輝虎とは
終に武辺の参会が無く、なかんずく只今は信長の嫡子城之介殿(信忠)を信玄公の御聟にとある
縁辺であります。であるに付き信長が手立てを考えねばならない敵はさほども有りません。

12年以前の今川義元との合戦の時、信長は27歳で無類の手柄を立てました。そのころ信長は小身であり
若かったので、大敵には様々なはかりごとを使って勝利を得ました。

はかりごと・手立ての軍法がない弓矢は、例えば下手が集まって行う能を見物するようなものです。
失敗するんじゃないかと思い、見ながら危なく思います。

信長の弓矢は、美濃国と7年の間取り合いをして武功の分別が定まりました。
信玄公の弓矢は、村上殿(義清)との取り合いで武功の分別を定められました。
村上殿は信州の内四郡、越後一郡の、合わせて五郡の領主でしたが、広い国であるため
彼の支配地は甲斐一国の一倍半ほどもあり、その上強敵でした。

現在我々と対立している徳川家康は、今の日本国において北条氏康、武田信玄、上杉謙信、織田信長
四大将に続く存在で、名のある大将十三人を選べば、おおかた家康はその一人に入るでしょう。
我々は今年か来年の間には、その家康と必ず一戦せねばなりません。
でありますから、織田信長も後のことを考え、今でこそ当家と縁辺の無事を保っていますが、
家康に信長が加勢すれば、我らは両家を相手にしなければならなくなります。

信玄公が合戦を遂げられ、京都までその誉れを輝かせるためにも、ここでは猶以って軍法が必要となります。」

そう申し聞かせたのである。

(甲陽軍鑑)




馬場信春「ここには自分勝手に来たので」

2013年11月04日 19:04

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/03(日) 20:15:13.20 ID:mwjttES5
1569年の武田による小田原包囲から4日後
信玄は宿城を焼き払うよう命じ、内藤昌豊は商家、民家まで片っ端から火をかけていた。
その時、信玄の陣にいた馬場信春が信玄に「松田尾張守の家は城下より、離れたところにありますが、やはり焼いた方がいいですか?」と聞いた
(城の近くを焼くのは兵法であるため)
信玄「ん~どうしようか?焼いたら後で詰るかな?」と悩んだ。
それもそのはず、この松田尾張守は赤具足で暴れまくる事で有名だったのである
さすがの信玄もそれで悩んでいたのだ

それに対し馬場信春「それではこうしましょう、私は元々牧島の留守を命ぜられた者、ここには自分勝手に来たので、勝手に振る舞いましょう」と
松田さん家を全焼させてしまった

と一旦ここで終わり皆引き上げて行ったのだが、小田原の外れで家を全焼された松田尾張守の一族の1人、境川蔵人が追撃し馬上から
「勝負!勝負!」と叫ぶも、武田軍は総ガン無視、帰還したとさ

松田尾張守(とその一族)の悪い話
関八州古戦録から




645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/03(日) 21:23:27.35 ID:NhPVn3Ot
馬場さんは燃やすのが好きやのうw

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/03(日) 23:21:30.64 ID:sChgrsKX
赤鬼さんは追わなかったのか

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/04(月) 10:58:04.03 ID:n8N2BR16
赤鬼さんは甥っ子だからなあ
一族とはいえ憲秀の家とは別にちゃんと活躍してる家だしな

敵と向き合う心がけ

2013年03月24日 19:04

827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/23(土) 20:00:33.26 ID:90sbCDzh
甲陽軍鑑に書かれている話だ。
ある者が、
「敵と向き合うと、わたしは暗闇に入ったような心地になる。
そのせいなのか、合戦ではよく手傷をおう。
あなたは幾度も手柄をあげておられるが、
手傷をおうということがない。
なにか心がけしていることがおありか」
と尋ねた。尋ねられた者は、
「わたしも敵と向かったときは暗闇に入った心地になる。
その時、ふっと少し心を沈めると、朧月夜くらいになってくる。
それを待ってから斬り込んでいくから、
手傷をおわないのではないかと思う」
と答えた。

いざというときにその者の会得した極意があらわれる。
この返答をした者は、馬場美濃守だとのこと。
詳しい話は『古老物語』に書いてある 【葉隠】

828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/23(土) 20:04:44.00 ID:90sbCDzh
余談だが、
『武士道』という言葉が歴史上最初に表記されたのは甲陽軍鑑だとのこと






馬場信春の信長公記での活躍について、そしてその考察

2012年10月03日 20:27

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/03(水) 04:23:11.74 ID:703xjnuS
馬場信春の信長公記での活躍について

馬場信春は実際の活躍が極めて不明な中、信長公記にだけは「中にも馬場美濃守手前の働き比類なし」と活躍が記録されている。
では信長公記における「比類なし」と称えられた働きとはどのようなものだろうか。
織田家以外の武将で同様に称えられた武将を見てみよう。


林弥七郎

林弥七郎と申す者隠れなき弓達者の仁体なり。弓を持ち罷り退き侯ところへ橋本一巴鉄炮の名仁渡し合ひ(中略、過去スレ弓vs鉄砲参照)
林弥七郎弓と太刀との働き比類なき仕立なり。

美濃屋小四郎

(三好勢により将軍義輝殺害、さらにその弟の足利周暠も殺害、美濃屋は周暠に特に目をかけられていた家臣)
美濃屋小四郎未だ若年十五、六にして討手の大将平田和泉を切り殺し御相伴仕り、高名比類なし。

三好左京大夫義継

御女房衆御息達みなさし殺し、切つて出で余多の者に手を負はせ、
其の後左京大夫殿腹十文字に切り、比類なき御働き哀れなる有様なり。

高橋甚三郎景業

(朝倉)義景に腹をきらせ、鳥井与七高橋甚三郎介錯を致し両人の者も追腹仕り侯。中にも高橋甚三郎が働き比類なきの由に侯。

諏訪勝右衛門女房

諏訪勝右衛門女房刀を披き切つて廻し、比類なき働き前代未聞の次第なり。

土屋右衛門尉昌恒

武田四郎勝頼若衆土屋右衛門尉、弓を取りてさしつめ引きつめ散貼に矢数射尽し能き武者余多射倒し追腹仕り、高名比類なき働きなり。

武田麟岳

りんがく長老、中にも比類なき働きなり。(麟岳は如意山宝珠寺の住職で勝頼の従弟であり、敵を9人斬って死んだという。)


このように概ね個人的武勇を示して討死した者を「比類なし」と称える場合がほとんどである。
また三好義継を除いては一軍を率いるほどの大将はおらず、
出家した僧や女性までも含まれている。

馬場信春も同様だとしたら、彼の姿も見えてくるのではなかろうか。




684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/03(水) 07:34:38.20 ID:SFQprfYR
多分、前と同じ方だと思うけど一応
他の方々、度々の長文のややスレ違い、ご容赦下さい

まず、信長公記の長篠の合戦の項目に
武田勝頼の部下が攻め寄せる様が記載されているけど
それによれば一番手が「山県三郎兵衛」(昌景)、2番手が「正用軒」(武田信廉)
3番手が「西上野小幡一党」、4番手が「典厩」(武田信豊)と挙げられていって、
5番手に「馬場美濃守」が「推太鼓にてかかり来り、人数を備へ、右同前に勢衆討たれ引き退く」とあるから
この記載からも「馬場美濃守」が大勢の部下を持ち、
武田方において山県昌景、武田信廉、武田信豊ら
有力武将と並べられる格をもった部将であったことが分かります
信長公記の記述から、馬場信春が一武者に過ぎなかったって解釈するのは無理があるでしょう

まとめると一次資料と信頼性の高いといわれる信長公記の記載だけからも、
(>>623にもあるけど)馬場美濃守が牧之島城代を務めていたのはほぼ間違いなく
(ちなみに>>619では甲陽軍鑑の記載上で馬場美濃守は城代経験がないとおっしゃられているけど
甲陽軍艦にも品33に「信玄公馬場美濃守をめし、信州まきの島城代に被仰付候」(原文ママ)とあって
城代であったことが明記されてます)
武田御一門衆の重鎮武田信廉、武田信豊、宿老中の宿老山県昌景、上野の有力先方衆小幡一党と
並べられる武将であったことが分かりますので、
馬場信春に関する一次資料が少ないとしても、こうした武将がただの平武将だと理解するのは困難です

あと一次資料が少ないことに関して、多くの方に誤解があるようなので付言しますと
武田の直臣関係の史料は、武田家が滅亡したこともあり残りが悪く、
かつ従来学会において、(武田家に限らず)大名自身に比べ、その家臣団に対する関心が薄かったため、
家臣クラスが出した文書の集積分析が現状発展途上であり、むしろ一次資料が少ないことの方が普通です

だから家臣クラスの実態に関して、
一次資料が少ない→ほかの逸話は全て創作だ、とするよりは
一次資料からここまでは分かる→他の詳しいことは不明ながら、今後の研究の発展を待ちましょう、
とするのが今のところは穏当なのではないでしょうか

このスレはまとめサイトを通じて比較的影響力が強いため、偏向した認識が広まるのを恐れて
ややスレ違いながら長文書き込みいたしました
お目汚し失礼いたしました



参考
雑談・甲陽軍感について
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6842.html


685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/03(水) 08:02:50.09 ID:pNp2QEwi
逸話を楽しむことと、知識の偏向は違うから >>684 さんの姿勢は
良いことだと思いますよ。

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/03(水) 09:15:26.49 ID:yBCynJqv
将軍家からもらった感状の姓が違ってたけど、そっちに改姓しちゃった人もあるからな~
上の間違いへの対応は、今も昔も難しいよね~

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/03(水) 09:40:03.89 ID:qrUiVBrA
>>684
乙です。勉強になります。

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/03(水) 10:46:44.91 ID:DFAL9Sec
評価が極端に振れるのはよくある事だな、「戦国最強武田軍団!!」と、「戦国最強(笑)武田軍団(笑)」なんて。
まあ、だいたいそんな両極端なのは淘汰されて>>684みたいに落ち着くよね。

「不死身の鬼美濃」馬場信春

2012年09月30日 20:12

619 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/09/30(日) 15:55:03.14 ID:T6lieRIp
甲陽軍鑑といえば間違いが多く、その記述内容は極めて信憑性が低いと言われる。
とりわけ山本勘助の活躍はその実在すら疑われるほど怪しいものなのは周知の通り。
しかし甲陽軍鑑の怪しさはこれだけにとどまらない。
その活躍が怪しい人物がもう一人いるのだ。

その人物とは、「不死身の鬼美濃」で知られる馬場信春

武田四名臣の一人とされ、甲陽軍鑑の中でもさかんに信玄に助言するさまが描かれる。
しかし実際の活躍の記録は信長公記での長篠の合戦の記録にとどまる。
三方原の合戦の後、信春が800の手勢で信長軍1万を退けたという話もあるが、これも明白に誤りである。
なぜならこの戦いで美濃岩村城を信春が落としたことになっているからだ。
実際の岩村城は三方原以前に武田方に降っており、三方原後秋山虎繁が入城しており、馬場の記録はない。
さらに馬場発給の竜朱印状はなく、政治的に高い地位にいた記録はない。

実は甲陽軍鑑の中でもよく読めば馬場の地位の低さが見えてくる。
他の四名臣や秋山、原昌胤などは20代で150騎ほどを与えられているが、馬場は32歳でようやく50騎である。
また他の将がいずれも城主、城代経験があるのに対し、馬場はない。
さらには築城術を山本勘助から教わったなどという怪しい話が残るばかりである。




620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/30(日) 16:00:35.30 ID:5uAaIze5
まあ講談でお馴染みの武将ってそういうの多いからなあ

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/30(日) 16:05:12.89 ID:XjEq5PrD
深志城代じゃなかったの?

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/30(日) 18:26:43.69 ID:q0viYpZX
無名の人ほど尾鰭ついたエピソード作りやすかったのかなぁ

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/30(日) 20:45:05.61 ID:/SVpEYRs
んーどこから突っ込んだものやら…
以下、ややスレ違いかつ長文の為、適当に読み飛ばしてください

まず甲陽軍鑑は、近年の研究によれば、国語学的には、その語彙は江戸期ではなく戦国期の語彙が多くを占めており
書誌学的研究からは、編者とされる小幡景憲がかなり原資料に充実に書写を行っていたことが、明らかになっていて
少なくとも(関係者の多くが生存していた)元和年間の認識が反映された、
武田時代の史料や関係者からの聞き取りを踏まえた記述を含む史料である(丸島和洋氏)といった感じに、
かつての通説が言うほどいい加減なものではなく、
一定の配慮・留保はしつつも以前よりはやや肯定的に評価するのが最近の学会の風潮になっている

で、馬場については、
>>他の四名臣や秋山、原昌胤などは20代で150騎ほどを与えられているが、馬場は32歳でようやく50騎である。
馬場は、他の4名臣や秋山、原昌胤と比べると15歳くらい年上だから
馬場が25くらいの時期、ようやく晴信がクーデターを起こして甲斐一国をまとめ挙げた段階
他の武将は、20代の頃、信濃への侵攻を重ねて武田家の所領が急速に拡大している時期にあたり
若くても出世しやすかった
実際、この時期に馬場も120騎持ちに加増されたと甲陽軍鑑にも記してあったはず
異なる時期・状況での麾下兵力を比べるのは誤解を招くのではなかろうか

あと信春が少なくとも牧之島城代だったことは間違いないはず
武田勝頼の代に牧之島城代を信春の息子とされる「馬場民部少輔」が務めているけど
(勝頼が馬場民部少輔の同心衆に軍記粛正を指示する文書が残っている)
父の後を継いだ以外に考えられないし

馬場信春がその知名度に比べてえらく一次資料が少ない謎な人物であることは確かだけど
だからといって、「怪しい話」で一括りにしてしまうのはいかがなものか

ややスレ違いな長文失礼しました

635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/30(日) 23:12:03.26 ID:KqbV6UIN
そういや馬場美濃守って、諱は確定したんだっけ?

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/30(日) 23:35:46.45 ID:eh+JOYTU
>>632
日向なのか大和なのか・・・


637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/01(月) 01:03:58.13 ID:keNEq6Ue
日向(ひなた)氏、だろ

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/01(月) 07:14:07.26 ID:PA4vPWOX
内藤さんは感状スルーされるわ、馬場さんはそんな偉くなかった可能性あるわ、

武田四名臣は五人で龍造寺四天王の逆バージョンだな
二人はプリキュ…武田四名臣!

ご存知ですか。町人どもは将軍義教を殺した赤松満祐を

2010年09月03日 00:01

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/01(水) 23:54:14 ID:6/ABmZ/y
小山田信茂が馬場信房にこう言った。
「ご存知ですか。町人どもは将軍義教を殺した赤松満祐
三百人力なんて言ってもてはやしたそうです。
アホですよね、手柄を立てる奴は怪力だと思ってるんですよ。」

これに馬場は答えた。
「逆もまたしかりではないだろうか。
町人どもは侍が商売についてあれこれ言うのを馬鹿にしていることだろう。
自分がよく知らないことをどうこう言えば、誰とてそうなる。」




833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/01(水) 23:58:49 ID:qbf46KH+
小人で有名だった赤松さんね

教来石景政は頻繁に諏訪の諏訪大社へと参拝した

2009年10月25日 00:05

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/24(土) 18:15:51 ID:g2PqHbIZ
武田家の猛将として知られる馬場信春が、まだ教来石景政と名乗っていた若い頃の話である。

景政は頻繁に諏訪の諏訪大社へと参拝した。余りにたびたびなので、
大社の神職の一人と親しく言葉を交わすようになった。

神職がある時
「あなたはお若いのにずいぶんと信心深いのですね。何か願い事でもあって
参拝されているのでしょうか?」
と、問うと、景政、

「実は私、甲斐の軽卒なのですが、…まことにお恥ずかしい話ですが、戦が怖くて
仕方が無いのです。

ところがわが国の武田晴信様は野心家で、毎年あちらにこちらにと出陣いたします。
その度に引っ張り出されるのがまことに辛く、何とか戦に出ないですむよう、
神頼みをしていると、そう言う次第なのです…。」

神職は大いに同情し甲州の事など聞いてみると、何の警戒もせずに、すらすらと
細かい事まで答える。

『これは良い鴨が来た。』

神職は、もっと甲斐の情報を聞き出そうと、彼を引きとめ酒を出して饗応をする。
酒の入った景政はさらに口が軽くなり、武田家の弱点などもどんどん話してしまう。
そのうちに景政、酔った挙句にひっくり返っていびきをかき始めた。

その隙に神職が、景政の刀を抜いてみると、これが一面赤錆だらけの代物。

「こいつは確かに臆病者の軽卒だ。籠絡して武田家の情報を取るのに利用しよう。」

翌朝、景政が目を覚ますと、神職は彼にこう提案した
「そんなに戦が嫌いなら、諏訪に移住して諏訪大社の氏子になってはいかがですか?
そうすれば従軍の災難から逃れられるでしょう。」

これに喜んだ景政。早速家財を甲州より運び込んで諏訪に住み着いた。
そしてまことしやかに、武田家の内部情報を土産話にする。
当然、その情報は神職から、領主諏訪頼重に元に届いた。
逆に景政は神職に諏訪の内情を尋ねたが、神職は、自分が景政を利用していると
信じているので、彼を侮って、諏訪領内の事、委細話して聞かせた。

このようにして景政は3年の間諏訪に滞在し、その内情にすっかり精通すると、やがて
甲斐へと戻っていった。

天文十一年(1542)、武田晴信は諏訪侵略を開始。その先鋒に、教来石景政の姿があったこと、
言うまでも無い。




729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/24(土) 18:36:33 ID:r8EpUcLd
さすが鬼美濃!
信玄の指示なら彼もさすがだね

730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/24(土) 19:07:58 ID:fU5DASJe
時期的に言えば、信玄でなく信虎の指示になるんじゃね?

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/24(土) 19:27:21 ID:s91k213C
>そのうちに景政、酔った挙句にひっくり返っていびきをかき始めた。
>その隙に神職が、景政の刀を抜いてみると、これが一面赤錆だらけの代物。


似た話は仮名手本忠臣蔵でもあったけど
これも一種のテンプレなのかな?

732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/24(土) 19:45:49 ID:8ylG7iEY
「錆びた刀」だけで武事に疎いと表せるという事かな。
そっから可児才蔵の槍のような話も出てくるんだろうけど。

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/24(土) 20:00:18 ID:yKJVPJ4q
>>728
これ悪い話か。戦国時代らしい格好いい話だと思った。
錆びた刀の辺りの凝り方とか。テンプレなのかもしれないけど。
諏訪側に悪い話ってことなのかな。

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/24(土) 22:07:58 ID:9SA26Z5E
武士の嘘は武略、ってのの見本だね>>728
当の諏訪頼重もいろいろ悲惨な顛末だったなあ。しかも巡り巡って、
甥っ子の諏訪四郎が武田宗家を継いでとばっちりを一身一代で受けるハメに……



他だと宇喜多直家さんの仕込みも芸術的なくらいで、
逸話を読んでて、あきれる通り越して不覚にも感動してしまったw

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/24(土) 22:13:22 ID:h7cIQ739
要らんとこ凝ってばれる馬鹿と仕込み凝りまくって鮮やかに成功させる人の違いってなんだろうな

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/24(土) 22:23:53 ID:R3D0uwQy
>>731
テンプレというよりは単なる変装の定石なんじゃ
刀見られてめっちゃ手入れよかったらばれるなーくらいは誰でも思いつきそうだし

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/24(土) 22:24:01 ID:u/9HBJon
かといって「いい話」にするのも少し違う気がw
スパイの話だからなあ、スパイはいつの時代でも低く見られてしまう

738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/24(土) 22:27:23 ID:0GaZZqYj
>>735
単純に物事を客観的に見る事が出来るかどうかじゃない?
仕事を休む程度の嘘でも、あれやこれや不自然なくらい細かく
説明してバレちゃう人とかも居るし。

馬場信春、合戦を語る・いい話

2009年01月29日 00:15

906 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/01/28(水) 03:47:16 ID:MihyWage
馬場信春、合戦を語る

馬場 美濃守 信春。
十八歳で初陣を果たし、数々の合戦で活躍、62歳の時長篠の合戦で討ち死にするまで、
その身に薄手の傷すら負わなかったという、戦国最強を謳われた甲斐武田軍団を象徴する
武将である。

ある時、小山田弥三郎という者が、信春にこう聞いてきた

「あなたは若年より何度も合戦で手柄を立て、弓矢の冥加もきわまるような活躍を
していますね。
特にその戦いの中でかすり傷一つ負わなかったと言うのは、軍神、摩利支天のご加護でしょうか?
そのような手立てがもし、学べるものであれば、是非教えていただけないでしょうか?」

それに対して信春は

「怪我をしないようにする方法…って言っても、教えるような事はないなあ。
戦場は千変万化し、臨機応変が求められるだろ?それで戦って物は、最初の取り決めとは
違ってくる部分が出てくるわけだ。そうなったら取り決めにこだわらず、手筈の違う部分は無理に
修正しようとせず、その流れの中で勝利するよう奮戦する、これが肝要だな。

最初の取り決めのままに戦しようとすれば必ず、その違いに当惑してうろたえ、かえって傷が広がり
大敗北する事にもなり、酷い首尾に終わるものさ。
戦の間中、小賢しく目を見開いて全体の流れを把握するのが重要だな。
良くいくさする者は戦わない、良く戦う者は死なない、って言うだろ?

臆病心が起こると尻込みをし、視野狭窄に陥って間違いを起こす、そう俺は見ている。
まあ、こんな事言うと、『勇猛な奴でも怪我する事あるだろ』なんて言われちゃうな。
俺はそう言う人たちに勝っているわけじゃない。こんな事言うのもおこがましいんだぜ?
まあ、ただ運が良かったんだよ。


昔、小幡虎盛殿と話をした時、こう言われた事がある。
『競り合いの時は敵よりもまず、味方のほうをしっかり見ろ。その上で命を捨てるつもりで
かかっていけば、犬死にする事はない。見殺しになる事はないと信じられれば、手柄も
立てられるものさ。』
俺はこの言葉を一生懸命覚えたなあ。今でもこれは真実だと思ってる。


戦ってものにもな、”色”があるんだ。
例えば、味方が敵国奥深くに入ったときは、無理に手柄を立てようなんて考えるな。
敵の動性を知る事を心がけろ。そうすれば陣を引く時に、しんがりを担当できるし、
それが手柄になる。
逆に敵が国境を侵して領内深くに攻め入ってきた時には、敵の兜の吹き返しか、
敵の指物のゆるぎ様をよーく観察しろ。そこに敵の勢いが見えてくる。
そうして、敵の勢いが盛んな時は手を出さず、勢いが衰えたと見たら、すぐさま打ちかかれ。

でもまあ、これはあくまで一騎がけのときの話だぞ。大軍を任されたときは別の話だ。
え?大軍を任されたときはどうするか、だって?
そりゃ当然、『戦わずして敵に勝つにはどうするか』を、一生懸命考えるのさ。」




907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/28(水) 09:15:35 ID:WVgclX9Y
馬場さん「不死身の馬場美濃」「不死身の鬼美濃」
原虎胤さん「鬼美濃」

初心者にはこんがらがるんですが…

908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/28(水) 09:24:39 ID:opnvpq8i
鬼といえば鬼玄蕃

910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/28(水) 09:38:49 ID:0gFDBy0Y
>>906
対決!剣豪・塚原卜伝VS鬼の馬場美濃


「どうやって相手を川の中洲に置き去りにできるか考えています」

「そりゃ、戦わずして勝てるのがいっちゃんイイよな!」

~二人は意気投合しますた~

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/28(水) 17:10:19 ID:oE7+V2nJ
>>906
長いけど真剣に読んじゃったわ。
当然のことばかりのようで、妙な説得力があるな。

921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/28(水) 17:12:46 ID:ANw/nlpy
>>906
小山田弥三郎って小山田信茂の兄ちゃんだな。

939 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/28(水) 19:48:10 ID:5Xj7SCh8
>>907
虎胤さんが最初の「鬼美濃」。
虎胤さん死後に信玄が「鬼美濃の武名にあやかれ」と言って、馬場に美濃守を名乗らせた。


940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/28(水) 20:30:28 ID:SB0kzU+z
俺、息子が生まれたら鬼武蔵って名前にするんだ

941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/28(水) 20:37:37 ID:I4jJwALA
生まれる前に死ぬのか生まれてから死ぬのか

馬場美濃と駿河の財宝・いい話

2009年01月20日 00:05

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/19(月) 19:22:03 ID:6hMdmXo8
いい土地の話・・・ってのは無理矢理過ぎるかw

有名どころで悪いが、馬場美濃の話

武田信玄は甥・今川氏真を攻め、これを遠江へと追った
その際、信玄は駿府城を焼くが
「今川の貯め込んだ財宝を焼くなんて勿体ない! 運び出して武田の物にすべし」と命じた
しかし兵士が財宝を運び出している現場に出くわした馬場は
「合戦後の混乱に乗じて敵の財宝を奪うなど、貪欲な武将と後世の笑い者になります。それくらい考えなさい」
と言わんばかりに折角運び出した財宝を再び火中に投げ込ませた
後に信玄はこれを聞き「言われてみればその通りだ。流石は七歳も年上な事はある」と言ったそうな

武将としての名を惜しんだいい老将の話




460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/19(月) 19:28:20 ID:bcRzJHXu
>>459
この話を見るたびに違和感を感じるんだよなあ…
この駿府攻めの以前も以後も武田(武田に限らないが)は略奪をやってるのに
この時だけ馬場がこんな態度をしたのに違和感を感じる。

消失した今川家家宝は国宝級のものも多々あっただろうから尚更残念だ…

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/19(月) 19:34:59 ID:6hMdmXo8
それは凄くわかる。が、まぁ一応美談でしょう
あるいは歴史ある名門だから気を遣ったとか

小笠原と諏訪はどうなんだと言われると・・・

462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/19(月) 21:36:40 ID:LfIpD9jI
今川も明智秀満を見習って財宝を武田に譲渡すればよかったのにね
立場は違えど同じ名将だね 馬場と明智

463 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/01/19(月) 21:56:37 ID:GSjaxhHu
>>460
多分、家康の忠臣に気を遣ったんじゃないかな?
鳥居元忠の正妻は馬場美濃の娘だからね。彼も
戦のドサクサで、家康に嘘をついて娘をGETしてるからね。

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/19(月) 22:16:21 ID:VqaBMraT
>>447
実入りというより実が出(ry