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三宅国秀の船団

2009年07月03日 00:08

876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/02(木) 03:13:06 ID:38aE4AcM
備中連島の住人、三宅国秀と言う人がいた。

永正十三年(1516)、琉球への渡航のため、薩摩国、坊津に備中より出航した
十二艘の船舶を率いて停泊中、島津忠隆の襲撃を受けて、一行もろとも皆殺しにされた。

江戸期に編纂された島津氏の記録によると、国秀は無法にも琉球征服を企んだため、
島津氏が室町幕府の許可を取り、彼を攻め滅ぼしたのだ、と言う。
島津氏は、琉球を守った恩人であったわけだ。


が、ここに天文二年(1533)頃、伊予の今岡通詮が島津氏に事態の説明を求めた記録がある。

通詮の記録によれば、三宅国秀の船団は、幕府の命を受けたものであった。
無法どころか、室町幕府の正規の船団であったのだ。

この問い合わせに島津氏は、このように返答している。

「三宅国秀の船団は、琉球からの襲撃を受け、そのため国秀は殺された。」

しかしそれはありえない。実はこの三宅の船団の襲撃があった時期、薩摩には
琉球王国の使者の僧が滞在しており、この僧によって琉球に、「島津の戦勝」が
伝えられているからだ。

どうも国秀の船団は、琉球征服どころか、幕府から、琉球に正規の交易を求めるための
ものであったらしい。
琉球交易を独占したい島津氏はこれを妨害するため襲撃、その上でその責任を琉球に
なすりつけ、さらに琉球に対しては、あれは琉球征服の船団であったと恩を売った、
と言うのが真相のようなのだ。


大永元年(1521)四月、三宅国秀一行が殺された坊津に突如、備中からの兵船が現われ
港を焼き払ったのだと言う。国秀関係者の復讐であったのだろうか。

実際に何が起こったのか。それは歴史の深い闇の中に、今も眠っている。





881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/02(木) 11:03:37 ID:epEmCbah
>>876
これやったの絶対島津だろ・・・
汚いなさすが島津きたない

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/02(木) 12:32:21 ID:s8GIT7s8
1466年に琉球使節は足利義教に謁見している。
室町幕府は足利義尚の時代、1480年に島津武久(忠昌)を通じて
琉球に入貢の督促。以後も度々島津氏に書状を発してたり。
堺商人の琉球往来の統制も求めていたらしい。

>>876
戦国期の島津氏は源為朝琉球王朝始祖説(トンデモ伝説)や
嘉吉付庸説(義教の弟、大覚寺義昭を討ち取った褒賞として琉球下賜)を
持ち出し、他勢力が琉球や奄美に干渉するのを阻止しようとしている。
権益確保に形振り構ってられなかったんだろうな。

恐らく中央は中央で応仁の乱があり幕府の中でも色々とあって、
またこの頃は島津家が一族内訌真っ盛りの時代だから
色んな勢力と思惑が交錯してたんだろーな、と想像するとニヤニヤ出来て楽しい。

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/02(木) 13:11:42 ID:TyMYR7p+
>>881
「ズルい」、「汚い」は、ある意味 褒め言葉だな
そこには勝者への嫉みが見え隠れ(某半島の方がよく使う言葉だし)


887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/02(木) 13:43:10 ID:W+4PfGeK
「汚いは、褒め言葉だ…!」

888 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/02(木) 14:25:57 ID:r6eQ48EA
犬とも言え、畜生(ry


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