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美作ハ親以来之忠節存不忘

2019年12月27日 16:25

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/27(金) 01:21:38.89 ID:djal1Yy+
関ヶ原の合戦の後、宗瑞公(毛利輝元)は大阪木津に居られ、私を含めた五三人(十五人)に御暇を下され、
「早々に国元に罷り下り、妻子等を(広島より)引き退かせるように。」との御意を示された。
そして「今回、諸所にて辛労をして貰ったことに対し、感状を遣わしたいが、時分柄如何かとも思うので、
追ってこの事は申し出よう。」
との御意により、三村孫兵衛、村上八郎佐衛門、私(清水景治)の三人が国元に罷り下っていた所、備中水島の
あたりで西国への飛脚船に出会った。これによると
「毛利殿の御身体について、色々悪しく取り沙汰されている。」
と承り、いかにも心もとなく思ったため、そのまま大阪へ取って返し、飛脚船に聞いた話を申し上げると、
重臣の福原越後(広俊)、堅田大和(元慶)が御広間まで迎えに来て、御前へと召し出され、
「有間敷志である」と御意になり、兼光の御腰物をお手ずから拝領した。

「美作(清水景治)が親以来の忠節を忘れず、今回の心がけについても感じ入った。追って知行などを
下すであろう。」と御意になった。
(美作ハ親以来之忠節存不忘、今度ノ心掛ノ段感ニ被思召候、追テ御知行等可被下トノ御意)

それから、井伊兵部(直政)殿の元に初めて御成に成る時、その御供まで仰せ付けられた。
その後、「妻子の落ち着く所を見つけるように。」と、御暇を下された。

(淸水長左衛門尉平宗治由來覺書)



457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/27(金) 07:51:27.93 ID:0I996+LY
>>453
それだけで腰の刀くれるもんなのか

464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/28(土) 09:54:13.19 ID:VYx0cm20
>>457
気分次第じゃね?
政宗みたいに盗って逃げても許されてる奴もいるし
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筋目の事ですので

2019年12月24日 18:14

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/24(火) 17:25:07.07 ID:5KvSs45W
筑前中納言秀秋が小早川隆景公の御養子となられ、その節に私(清水景治)も中納言殿に仕えた。
当時、知行三千石であったのだが、山口玄蕃宗永(秀吉より秀秋に付けられた家老)の申す所によれば、
「清水の事について太閤様が度々仰せになられていると承っている。そのような人物に三千石では
隆景公が不足に思われるだろう」という事で、五千石を下された。

その後、筑前中納言殿は越前へ御国替えとなったが、この時私はお暇を頂くことを申し上げ、
「筋目の事ですので、宗瑞公(毛利輝元)に御奉公したいのです。」
と申した所、石田治部少輔(三成)より、安国寺恵瓊が使いとして参り
「宗瑞公に仕える事は断念し、中納言殿の元に参るように。そのようにすれば当面三百人扶持の上、
七千石が与えられるだろう。」
そう申して来たのだが、これを断り、御家(毛利家)に罷り帰った。

(淸水長左衛門尉平宗治由來覺書)

石高増やしてもらっても金吾の所は嫌だったらしい清水さん



685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/24(火) 18:56:03.58 ID:/YRjfqII
>>684
ただの忠義者ではなく見る目もあったなw

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/24(火) 20:16:09.32 ID:ZCiNnBz+
>>685
無嗣断絶は置いといても、転封が多すぎてやってられなかったろうなぁ…。

丹波亀山 10万石→筑前名島 30万石→越前 北ノ庄 15万石に減封→また筑前でなぜか50数万石に加増→備前岡山55万石。

たったの数年で何回転封してるんだよ…

687 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/12/25(水) 10:20:38.11 ID:wAqUySn3
七光だけで出世したって言ったら金吾殿に失礼かも知れないが、若くしてあまり苦労や現場経験少なくして大名となった人だから、隆景さんの譜代からしたら不満は多かったろうとは思う。
秀吉系からの家臣ですら諫言した者がムッコロされたりしてるし…

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/25(水) 13:21:37.21 ID:PEKeR4Zy
養子ともなれば派遣元からぞろぞろ上層部に入ってきて元々いたのが締め出されるからね
早目に退去するのが正解なんじゃない?それに毛利に帰属すれば地元に戻れるわけだし

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/25(水) 13:53:53.99 ID:fTTdlNyz
>>686
現代で言うところの社長のバカ息子(三男)って感じだな…

清水景治と朝鮮の役

2019年12月22日 17:18

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/22(日) 03:32:34.06 ID:KhFbavMu
高麗御陣の時、私(清水景治)は小早川隆景隊に属し辛労を仕っていた所に、高麗の都に至り、
蔚山の城が小西摂津守(行長)に仰せ付けられた。所がここに大明勢数万騎が押し寄せ、これを
攻め破ろうとした。これに備前中納言(宇喜多秀家)が先手をすると仰せになり攻めかかったが、
散々に仕損じたため、代わって小早川隆景に先手が仰せ付けられ、立花飛騨守(宗茂)殿もその
一手として仰せ付けられ、同じ場所で合戦に及んだ。

その時私は、鉄砲百挺を御預けされ、井上五郎兵衛の一手として、一番備にて働いた。二番備は
粟屋四郎兵衛に佐世與三左衛門が鉄砲百挺で在った。

大明勢は大敵であり、味方は一度は踏み留まったものの、中々の強敵であったため叶わず、味方は
崩れ足になった所を、清水五郎左衛門(景治)が踏み留まり鉄砲を撃ち立てたため明軍も引き足となった。
ここで一番備、ニ番備が明軍ともみ合いになり、終に勝利を得た。この時、日本の諸侍は多く討ち死にし、
当家(小早川家)の歴々も討ち死にした。

その日の働きについて、清水五郎左衛門は「自身が踏み留まった為に勝利を得た」と申し上げた。
井上五郎兵衛は「某が踏み留まった故に、相組の諸勢も踏みこたえたのだ。」と言上した。
粟屋四郎兵衛は「一番備が崩れたにもかかわらず、ニ番備が堅固に控えていたからこそ、一番備も
大崩れすることが無かったのだ」と申し上げた。

これについては、互いの詮議、上よりの御下知も済まないまま日本への帰陣となり、名護屋に於いて
詮議を成すこととなった。

ここで、右の三人は、同じだけの働きがあったと御詮議相済み、
井上五郎兵衛粟屋四郎兵衛、其方(清水景治)は、同意の働きであり神妙に思し召す』との御感状が
下された。残りの二人(立花宗茂、佐世與三左衛門)にも、同じ御文体にて御感状が遣わされた。
並びに、同日に印二つの御感状下され、一日に両度の御判物を頂戴仕り置いたのである。

(淸水長左衛門尉平宗治由來覺書)

清水景治の朝鮮役での活躍と、戦功の認定が意外とめんどくさいことに成ってたらしいというお話



親の長左衛門はその一命を毛利家の用に立てました

2019年12月21日 19:46

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/21(土) 11:20:34.49 ID:1c6R1sst
備中高松城の戦いより二、三ヶ年の後、小早川隆景、吉川元家は御上洛され、太閤様(豊臣秀吉)より様々に
饗された。その上で「陸地の仕置」(境目の確定)を頼むとの御意にて、黒田官兵衛殿を差し添えその作業を
成していた頃、清水宗治の遺児である清水源三郎(景治)は、この境目が未だ確定していない状況の中、
所属の決まらない、備中の河辺牢人のような体でそこに在った。

この時、小早川隆景公、黒田官兵衛殿は源三郎の私邸に立ち寄られるとこのように申した
「この度、太閤様の御意に、清水宗治については比類なき者であり、その子供が有るなら御自分の元に差し上げ
るように、知行などを遣わす。との仰せである。」

これに対し源三郎は答えた
「御意の段、千萬忝き儀であります。しかし親の長左衛門(宗治)はその一命を毛利家の用に立てました。
である以上、私も輝元家中に在って奉公仕りたいと考えています。」

これに隆景公、官兵衛殿は
「尤もの申し様であり、比類のないものである。仰せに成ったこと、太閤様に能々申し上げよう。」
と仰せになった。

(淸水長左衛門尉平宗治由來覺書)



430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/21(土) 20:02:04.90 ID:HFnBUg40
>>428
ボロはきてても心は錦!

清水宗治の子、清水源三郎景治、秀吉に勧誘されて

2009年07月06日 00:11

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/05(日) 19:26:05 ID:55Q4tNCj
じゃあ景治に関する話

清水源三郎景治は、備中高松城の名将、清水宗治を父に持つ武将である。
宗治は一度は秀吉に降伏・帰順を勧められながら、

「一度毛利氏に忠義を誓った身、いまさら心変わりなど言語道断」

と一言の下に断った忠義の士である。
しかし宗治の奮戦もむなしく、高松城は落城する。
形式上「和睦」という形であったため、高松城落城後は、景治をはじめ一家は城から
立ち退くこととなる。

しかしその後、天下は急転し、織田家の軍団長に過ぎなかった昨日までの敵、
秀吉が中央で覇権を握っていた。
毛利家はその同盟者としての地位を確固たるものとし、こんにちでいう
「勝ち組」として家を保っていくことになった。

さて、高松城から立ち退いた景治は、その後川辺の地をあてがわれ毛利家に仕えることになる。

一方そのことを耳にした秀吉、

「あの立派な侍大将の息子が、片田舎の城主をしているとは勿体無い、
ぜひ、1,2万石でわしの元に迎えたい」

と、当時の毛利家重鎮、小早川隆景に掛け合う。
秀吉にとっては、高松城受け渡しの際の、あの颯爽とした立ち居振る舞いや
潔い戦いぶりなどが、心に焼き付いていたのだろう。
しかも、地方の領主に過ぎない景治が、一挙に秀吉直参の大名に取り立てられるのである。
立身出世としてこれほどいい話はない。
隆景のほうも、これは悪くない話と思って景治に勧めた。

すると景治
「父のこともあり、お気持ちは大変嬉しく思っております。

しかし私は毛利家に知行をいただく身分なれば、このままの身分でようございます」

と断ったのだそうな。

その後、小早川家は秀秋を養子に迎える。秀吉の一門の若者であった。
家臣として景治らの武将がつけられたが、これに景治は猛反発。

「わたしは毛利家の家臣です!どこの馬の骨とも知れないような輩の家臣ではありません!

そのような人に使える義理はございません!どうしてもと言うなら出奔いたします!」

それをなんとかなだめた隆景であったが、結局景治は最後まで毛利家に義理を立て、
関が原でも石田三成から誘われても

「わたしは毛利家の家来ですから」

と言下に断ったと言う。

そんな宗治、景治親子の、二代にわたって義理堅いお話。


余談ですが、このあと清水家は萩毛利家で2600石と言う、破格の待遇を得ています。
そして益田元祥とともに、毛利家の財政再建に当たったといいます。
毛利家からも、その忠義を強く認められていたのでしょう。





117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/05(日) 19:45:39 ID:5Pr0laan
>>116
毛利は結局明治維新まで、清水家をものすごく大切にしたし、清水氏一族もその厚恩に
よく答えていたんだよね。清水清太郎とか、峻烈だ。

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/05(日) 20:47:26 ID:s1+eaJ06
ググったら写真家ばっかヒットするんだけど、どんなことしたの?

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/05(日) 20:54:39 ID:5Pr0laan
>>118
「清水家は2度にわたって主家を救った」と言われた。
こんな人
http://minkara.carview.co.jp/userid/157690/spot/212447/

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/05(日) 21:32:05 ID:8T1RVMkf
>>117
いい話だね。
一番大好きだ。

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/06(月) 16:55:54 ID:IEV5KF/Z
すごく良い話なんだけど、秀吉がやると裏を勘ぐってしまう
配下の大名の家臣を直で取り立てて煽るのはお得意のパターンw

125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/06(月) 17:34:02 ID:aDfi3VVk
それを勘違いした大河は現代の悪い話

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/06(月) 18:06:31 ID:VijMogBY
>>123
菊門の変と読んでしまった俺はどうすればいいだろうか?

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/06(月) 18:18:46 ID:OSrmxskt
>>126
信玄公にそなたの菊門を(ry

128 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/07/06(月) 21:11:51 ID:vhXDJc3p
>>126
信長公にそなたのry