644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/27(土) 15:34:52.41 ID:YYglUKru
(小田原の陣の後)秀吉公は江戸表より岩築と押し通り、野州の地に打ち出て、宇都宮に暫く逗留された。
この時、北畠内大臣(織田)信雄は、この度の一挙にさしたる軍功もなく、韮山の一城さえ攻め落とすことが
出来ず、剰え小田原の城中と内通の仔細があるという話が、殿下(秀吉)の元にも聞こえ、これらによって
『武の器に堪えず、柔弱である。』と、尾張国及び北伊勢五郡の所領を除かれ、これを近江中納言秀次へ
賜り、信雄へは鳥山城へ押し籠め、剃髪するように命じられた。信雄は力及ばず、入道して徳源院常真と称した。
その後、羽州仙乏領秋田に遠流に処せられた。
翌年八月、秀吉公の子、棄君(豊臣鶴松)の誕生が有り、その大赦に遇って勢州朝熊山に来て寓居されて
いたのを、また豫州へと遷されたが、文禄元年、三韓征伐として殿下が肥前国名護屋に動座の時、付き従うよう
言われ、その砌に息男の宰相秀雄に、越前国において五万石を宛行われた。
(関八州古戦録)
織田信雄の改易とその後の顛末について
645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/28(日) 11:49:07.61 ID:cF/gG/Ss
鳥山城ではなく烏山城では
(小田原の陣の後)秀吉公は江戸表より岩築と押し通り、野州の地に打ち出て、宇都宮に暫く逗留された。
この時、北畠内大臣(織田)信雄は、この度の一挙にさしたる軍功もなく、韮山の一城さえ攻め落とすことが
出来ず、剰え小田原の城中と内通の仔細があるという話が、殿下(秀吉)の元にも聞こえ、これらによって
『武の器に堪えず、柔弱である。』と、尾張国及び北伊勢五郡の所領を除かれ、これを近江中納言秀次へ
賜り、信雄へは鳥山城へ押し籠め、剃髪するように命じられた。信雄は力及ばず、入道して徳源院常真と称した。
その後、羽州仙乏領秋田に遠流に処せられた。
翌年八月、秀吉公の子、棄君(豊臣鶴松)の誕生が有り、その大赦に遇って勢州朝熊山に来て寓居されて
いたのを、また豫州へと遷されたが、文禄元年、三韓征伐として殿下が肥前国名護屋に動座の時、付き従うよう
言われ、その砌に息男の宰相秀雄に、越前国において五万石を宛行われた。
(関八州古戦録)
織田信雄の改易とその後の顛末について
645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/28(日) 11:49:07.61 ID:cF/gG/Ss
鳥山城ではなく烏山城では
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