FC2ブログ

私が切腹に及ばない事の方を憂い

2019年03月23日 18:43

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/23(土) 12:03:33.17 ID:R2H6RQcv
織田信長の次男である信雄は、本能寺に於いて信長が弑されたことを知る前に、鬼頭内蔵助を信長の
様子をうかがわせるため京都に遣わした。

鬼頭が山科に至った時、伊藤安仲に出会った、伊藤は信長の笛役であった。
伊藤は鬼頭を見て「ここは何処だろうか。」と尋ねた。逆に鬼頭は「貴殿はどうしてここに
居るのか」と聞いた。伊藤は涙を流し

「貴殿は未だ知らないのか。信長公が今朝、明智の謀反により弑され給われた。私のような者共は
途方に暮れて行先も解らず迷い逃げたのだ。」

それは朝日が山端に差し昇る頃であった。鬼頭は且つ驚き且つ疑った。しかし伊藤は
「偽りも事による。もし今信長公が恙無く、私がこのように大事の偽りを言えば、一体どうして
日本の地に身を置く所があるだろうか。」

「然らばここより立ち返り、貴殿の言葉を信雄様へ申し上げよう。」

「尤もである。証拠として、これは信雄様が御覧じ覚えたるものである」と、小刀を渡した。

鬼頭は急ぎ信雄の居城伊勢長島へと乗り戻り、その日の太陽が傾く頃に、三十余里を馳せ到着した。
然れども馬は疲れを見せず、まさしく稀代の駿足であった。

さて、鬼頭はこの趣を申し上げたが、信雄は信じようとしなかった。そこで証拠としてかの伊藤の
小刀を出すも、猶信じず、却って鬼頭が狂気したと思うような顔色であった。
致し方なく鬼頭は「やがて注進が参るでしょう。」と言って自宅へ帰った。
信雄は御伽衆の梅心という者に命じ、鬼頭を訪れてその様子を伺わせた。

鬼頭は浴衣を着ながら梅心の前に出て対面し、
「私が狂気したのかと思われたによって、その方に伺わせたのだろう。
もしあの情報が虚説と成って私が切腹させられれば、むしろ大いなる幸いであり、まことに望む所である。
虚説ではなく、私が切腹に及ばない事の方を憂いている。」
そう言って外に出て、繋いでいる馬の湯洗いをすると、馬はいなないて前掻きをした。鬼頭は馬の健盛なる
事を梅心に自慢した。梅心は帰ってこれを信雄に報告した。

その日の日暮れより諸方の早飛脚が、本能寺での事を告げた。
信雄は信長の弔い合戦について、今日よ明日よと言いつつ、出陣を十余日も引き延ばした。
その間に秀吉が備中高松より上がって、信長の仇を討った。これは信雄が無勇の故である。
これによって、後年、信雄は秀吉のために領地を没収された。しかし秀吉は信雄の制しやすいことを知って、
害はないと判断したため、大和に於いて五万石を与えた。

(武将感状記)

関連
鬼頭内蔵助の報告と織田信雄、+おまけ


811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/23(土) 12:23:06.52 ID:1Z0ElKd4
信雄「大坂城捨てよっと」

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/27(水) 13:05:37.15 ID:BAFAiwld
>>810
史実は伊勢長島じゃなくて伊勢松ヶ島だろう
スポンサーサイト



彼を「ノブヲ」と云うのは誤りである。

2019年02月01日 18:09

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/31(木) 20:45:58.89 ID:VSKpX2dp
織田信雄について、今の人が彼を「ノブヲ」と云うのは誤りである。本来は「ノブヨシ」である。
永禄の御湯殿上日記に、「今日織田ののぶよし参内」とあるのは、信雄の事であると、村井敬義が
語っている。

伊勢貞丈曰く、「私の同僚に、昔の土方勘兵衛(雄久)の嫡家の人が有るが、昔勘兵衛はこの信雄から
一字を賜ったとして、代々雄の字を通り字としている。今の亥之助は、実名を雄忠と号している。
先祖より代々雄の字をヨシと唱えている。」

(安斉随筆)

マジすか伊勢貞丈先生。つか江戸中期はノブヲ呼びが一般的だったのか信雄。



711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/31(木) 21:24:51.97 ID:hUh1KEi1
>>710
そんな近い時代でさえ読み方論争があったのかw

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/31(木) 21:43:06.46 ID:jlsrvXNy
土方雄久って、雄を貰った時は雄良を名乗ったんでしょ?
"よしよし"だったのか?

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/31(木) 21:43:24.47 ID:bXFoRI6t
ノブカツの読み方はいったいw

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/01(金) 08:56:27.56 ID:d8IU6Pkh
信雄の読みについての考察は別の逸話でもあったな

常真を攻めなさろうと思し召し

2019年01月29日 21:41

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/29(火) 17:46:00.29 ID:Wr+hP5vY
(賤ヶ岳の戦い勝利後)

その年も暮れていけば、秀吉は大坂の城に御入りとなられた。年が明ければ尾張へ取り掛かって、
常真(織田信雄)を攻めなさろうと思し召し、

「私は水攻めで2つも3つも城を落とし遂せたのである。尾張の国は水攻めになる国だぞ。その
故は、ことのほか大河があって、少しの水でも国中へ暴れるからだ」

と秀吉は仰せになり、

「皆々皆々よ、さてさて御気を付けなさるのですぞ! 熱田辺りを丈夫に御塞き止めなされば、
国中は水に落ち込むことであろう。その用意をせよ!」

と御分国の鍛冶に鍬・鎌・斧などを仰せ付けられ、ならびに明俵をおびただしく御用意なさった
と聞こえ申し候。また、伊勢・近江・美濃の山々で枠の木などを仰せ付けられた。

(中略)

その年申の4月9日に、家康卿と秀吉との長久手の御合戦の次第は書き付け申し上げるに及ばず。

秀吉は大坂に御馬を入れられ、家康卿を何とぞ御引き付けなさりたいと思し召された。前述の水
攻めの御謀を仰々しくなされたので、東の常真方では恐れ慄く心をも抱き、

「秀吉が多勢を引率して当国に向かわれることは必定なり。当国は水が国中へ落ち込む国なれば、
ただ秀吉に御従いになられることが御もっともです」

と常真に申し上げれば、常真は悪心得で「さては家中は筑前守に内応でも入れたのか」と前疑い
なさったと聞いている。この事が秀吉に伝わり聞こし召され、秀吉はそれならばと思し召して家
中を御手繰りなさった。

常真の御家中の津川玄番(義冬)・岡田助三郎(重孝)・滝川(雄利)・浅井(長時)・丹宮の
5人に御状を送り付けられて、様々に御手繰りになられた。

この事を常真は聞こし召されたのか、岡田助三郎のことを土方彦三郎(雄久)に仰せ付けられて、
かの彦三郎が天守で助三郎を抱いたところを常真が手討ちになさったのだと、聞こえ申し候事。

――『川角太閤記』


この王子、他の信長の子息達よりも、その父に似ている故

2018年11月09日 09:36

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 00:02:05.85 ID:of0Wpt0o
この王子(織田信雄)をもしキリスト教に帰依することが出来れば、大いなる収穫を得ること疑いない。
彼は意思甚だ強く、他の信長の子息達よりも、その父に似ている故である。

彼は諸人に対して甚だ親切なのだが、もし命令に背くものが有れば直ぐにこれを罰する。故にその家臣の
行儀正しく丁寧なることは驚くほどである。

先ごろ、彼は兵士たちに与える物がなく、一方で、一人の殿が余るほどの収入を有するのを見て、彼はその殿から
六千俵を奪ってこれを兵士に与えた。

この事件の後、信長は信雄を招き、何故そんな事をしたのかと尋ねると、

「私は父上の子の中で最も貧しく、兵士たちに与える物を持っていません。そのためあの殿より、有り余るものを
少し取ったのです。」と答えた。

信長は彼を責め、「奪ったものを返すように。」と言ったが、信雄はそれを理解した様子を見せなかったので。
信長は怒って小さな枕を彼に投げつけ、その殿の財産に対する彼の侵害を責めたのだが、それ以上は何も
出来なかったため、この殿に対し
「この上は武力を以て奪うべし。」
と言い、実際に対陣させた。

この殿は1万人、又は一万五千の軍勢を集め、一方の信雄は七百人ばかりであった。しかし信雄は
「何人も動くべからず」と命じ、一人で馬を馳せてその殿の陣中に乗り込み、諸方に乗り廻して混乱させたが、
殿の陣中では、彼が信長の子であるため誰一人これに触ることも出来ず、殿は隠れ、これを聞いた信雄は
「これを捜すのは時間を損ずるに過ぎない」と、闘いを中止した。

(一五七八年一月十四日(天正五年十二月七日)附、都發、パードレ・ジヨアン・フランシスコ書翰)

正直ひでえ話だな。



420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 02:09:06.89 ID:4LmF8tH6
相手は四十万石くらいの人だったのかな

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 07:39:04.23 ID:JEmsZ9R9
再評価せねばならぬ武勇伝だね

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 09:28:31.32 ID:ow9Yza7j
三介殿のなさる事だからしょうがない

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 09:54:57.62 ID:tNMLWG7s
>>421
斜め上に

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 18:43:03.92 ID:DZoKZpxX
>>419
何でそうなるんだ…としか思えない行動回路だ

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 20:18:27.35 ID:Py2/VUOM
確かに事実とは思いがたい

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 21:08:40.86 ID:xhuQeHXe
>>419
頭鳩山かな?

429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 22:13:01.97 ID:0+fdcXJE
本多正純「一人の殿とは一体誰のことなんです?」

430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 11:07:22.55 ID:DMxEB0Op
神君だろ

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 16:39:27.63 ID:9TutT64G
>>429
それは正純じゃなくても気になる

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 20:14:27.23 ID:Rb9DE5g9
収益のために頑張ったら主君のドラ息子に理不尽に収奪されるわ
気難しい主君がせっかく説教してくれたのに息子の物分りが悪いせいで
匙を投げられて合戦もどきまでさせられた挙句
アホでも主の息子だから手を挙げられないで居たら散々暴れられるとか
この殿にしてみれば降って湧いた災難すぎる…

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/13(火) 15:18:40.73 ID:2rFScKgH
>>419
もしこのドラ息子の話が本当ならそんな役回りは光秀か村重かな
1年後に村重は謀反を起こしているし

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/13(火) 17:16:11.36 ID:6IaFLY1o
本願寺に横流しする手筈だった兵糧を・・・
ぐぬぬ

なにやってんねん織田家

2018年06月29日 18:16

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/28(木) 19:52:50.59 ID:uDHlqSWM
大阪の陣が終わった後、京都ではもっぱら女能が流行した。

その頃、吉野という傾城の太夫が四条河原にて能を興行していたが、これを織田上心(常真・信雄)が
お忍びで見物をしていたところに、織田宇楽(有楽)も見物に来ており、ここで常真の衆と有楽の衆が
喧嘩と成った。
これにより双方多くの侍が死亡し、また能舞台も完全に破壊されるという、殊の外大きな騒動と成った。

この事件があったため、女能は固く禁止と成った。

(長澤聞書)

アイドルのライブで乱闘騒ぎ起こしたようなものか。なにやってんねん織田家



890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/28(木) 20:36:11.72 ID:z4iy15Aq
>>889
>能舞台も完全に破壊される
とばっちりにもほどがあるw

891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/28(木) 21:02:27.51 ID:7FJJQwwj
喧嘩という名の局地戦。

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/28(木) 22:20:16.12 ID:/ZvrGPKO
女能って言えばその芸女は遊女も兼ねてたから、きっとアフター権利を巡って争ったんだろうな

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/29(金) 12:59:47.65 ID:aCJ1kYtX
阿国歌舞伎もレズビアンショーみたいなものだったしな

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/29(金) 13:27:21.37 ID:5kUak/hA
あら^~

895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/29(金) 19:45:30.05 ID:Fy+Q12xR
どこからそうなるんえ?

この茶筅御曹司は

2018年04月22日 21:18

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/21(土) 20:37:34.77 ID:O7Cf+qsQ
本能寺の変が起こった頃、蒲生飛騨守(氏郷)は近江の日野の谷に居たが、即座に安土へ参り、
土山に在った茶筅御曹司へ使いを立てて

「私の人数は三千あまり有り、また信長公馬廻りの士は五千もおわします。
この五千は明智の十万にも勝るでしょう。
必ず明智は安土に参ります。これと合戦すべきです!」

そう申し上げたが、茶筅御曹司はどう思ったのか蒲生に同意せず、終に合戦は無かった。
この茶筅御曹司は、後に尾張常真(織田信雄)と申した人である。

蒲生も一人の力ではどうにも出来ず、空しく日野谷へ帰った。
その後明智は坂本より船にて襲来し、安土の城を焼き払い、金銀を取り集め坂本へと帰った。

(祖父物語)


浅利のハイタカ

2017年09月09日 10:14

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/08(金) 23:39:00.53 ID:XzrI/Uma
尾張内府(織田信雄)の元に、「鷹の上手である」と、浅利牛乱という者が目通りした。
彼は「ハイタカに雁を取らす」との言い立てをした。信雄は「これは珍妙である」と、彼を召し抱えた。

浅利はこの雁取りの鷹を据えて御前に出たが、この鷹、殊の外羽を羽ばたかせて鳥を取ろうとする
様子であったが、その日は狩りをさせずに置いた。脇から見れば、まぎれもなく雁を取るような体であった。

しかしその翌日、浅利は信雄の前に出ると「あの鷹はイタチに食われてしまいました」と、涙を落として
説名した。

実は、先に鷹が羽ばたいていたのは、一方に餌を持って見せたため、鷹が興奮していたということで、
つまりは偽りであったという。すなわち、信雄を騙したということである。

(士談)



101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/09(土) 08:31:06.55 ID:4xz0EMTm
>>100
つまり、人を騙した浅利に罰があたった、ってこと?

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/09(土) 18:19:41.24 ID:pozdrvhm
イタチにヤられたことだって本当かどうか

【ニュース】[織田信雄、秀吉の顔色うかがう 清洲会議3日前に書状]

2016年07月08日 16:27

814 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/07/08(金) 09:41:10.15 ID:lO69aRU1
[織田信雄、秀吉の顔色うかがう 清洲会議3日前に書状]
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160708-00000021-asahi-soci


本能寺の変(1582年)で織田信長が倒れた後、後継をめざした次男・信雄(のぶかつ、1558~1630)
が羽柴(豊臣)秀吉に宛てた書状を、中京大の村岡幹生教授らが入手し、7日発表した。日付は信長の後継者を決
めた清洲会議の3日前。秀吉に指示を仰ぐ内容で、慌てた様子もうかがえるという。
書状は、縦29・4センチ、横40・1センチ。古書市場に出品されていた。日付は6月24日。年は書かれてい
ないものの、共同で分析した播磨良紀教授が、時代で変遷した信雄の花押(サイン)の形を分析して特定した。
「そちらの様子でよきように決め、連絡して下さい。近くへ陣を寄せます」といった内容が書かれていた。本能寺
の変が6月2日。13日には秀吉が山崎の戦いで明智光秀を破っており、信雄が秀吉軍に加わろうとしたとみられる。

・・・古書市場で出品って誰が?



815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/08(金) 13:32:55.55 ID:eVs+Krws
所有者

816 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/07/08(金) 14:09:34.84 ID:uhV5wMs+
だいたい価値の分からない遺族が一括して業者に渡すので
業者が市場に売りに出す

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/08(金) 16:10:51.53 ID:EZmvQCNr
>>814
こういうのいいなぁ、もっとでてきて欲しい。

常真入道はどう思い返したのか

2015年12月19日 07:54

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/18(金) 18:40:34.20 ID:5rhQtNsR
慶長19年の秋、江戸の幕府と豊臣家の対立が深まる中、大御所徳川家康は片桐且元を駿河に召し、
且元は家康の仰せを伺い、大阪に帰って今後の方針を述べた。
しかしこの且元の意見は秀頼の心にかなわず、彼が下がった後、且元を斬って軍を起こるべきか否か、
という事が、織田常真入道(信雄)も召されて議論された。
ここで常真入道は言った

「今、天下の大名を数えるに、故太閤の御恩を蒙らなかった者など誰もおりません。
軍勢を起こした場合、どうして從い参る者がいないということがありましょうか?
またお手元にも軍勢の1,2万があります。この入道も若き頃は、1,2万の軍勢を
形のごとくに使い慣れたものです。老後の思い出に一方の大将を承り、由々しき振る舞いをして
見参に入れましょう!」

この発言に、淀殿初め一座の人々は喜ぶこと限りなかった。
「万事、入道の計らいに任せよう。」
こうしてこの議論は、軍勢を起こすことに決したのである。

が、常真入道はどう思い返したのか、且元に元に密かに使者を送り、有った事共をすべて告げ、
自身は夜に入って風雨に紛れ、大阪を落ち失せ都の方に隠れ、大御所徳川家康が上洛したと聞くと、
やがて二条城に参上した。

明けて元和元年5月、大坂の陣が終わった後、7月23日、大和国宇陀郡を与えられた。

(藩翰譜)



783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/18(金) 19:57:51.83 ID:gPCxe1d2
これはちょっとどころか、悪すぎる話しだな

784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/18(金) 20:06:43.71 ID:kclQvIKE
じつに信雄

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/18(金) 20:35:59.12 ID:GZRph2YS
これには有楽斎も苦笑い

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/18(金) 23:40:22.19 ID:8E/nOHFQ
>この入道も若き頃は、1,2万の軍勢を形のごとくに使い慣れたものです

伊賀では少数の国人に返り討ちにあってた糞の役にも立たない従妹
有楽叔父さんもアホだし、唯一まともな老犬斎叔父さんはいきなり変死するし

ただ何となく所領していた地を失った

2015年12月16日 06:34

761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/15(火) 20:50:51.17 ID:CQuOImBi
関ヶ原の役が勃発すると、石田三成は織田常真入道(信雄)に使者を立て、秀頼の仰せとして伝えた
『急ぎ元の家臣たちを召し集め、軍勢を催し内府(家康)を討つべし!先ずは物の具の料として
黄金千枚を参らせ、また尾張の国は元の本領であるかた、領すること相違あるべからず。』

これを聞いた常真は喜ぶこと限りなく、やがて味方に参るべき旨を了承した。そして
「先ずは昔の家人たちを集め、物の具を揃え、馬を求めさせたい。
さらばその料に黄金を賜らん」
そうその使いに言い、奉行たちに乞わせた所、送られてきたのはただ銀一千枚であった。

「こんな事では、尾張の国を賜るというのもどうなることか…」
常真も流石に不安になりこの件を持て余していた所、子息の宰相(織田秀雄)が、越前大野の城で
父のこの所業を聞いて大いに驚き、急ぎ使いを出して言った

「如何なる事があっても、当家の人々が徳川殿に向かって弓を引き矢を放つなどと言うことが
ありましょうか?このような浅ましい約束はすべきではありません!」

そう教訓すると、常真も「それもそうだなあ…(是れも又謂れあり)、しかしこの上は
どうするべきか…。」

そのように悩んでいる間に、関が原の合戦が終わった。
子息の宰相は前田利長とともに大津の陣に参ったものの、父ため動きを取れず、
特に何もしていなかったので、ただ何となく所領していた地を失った。
常真はその後、淀殿の所縁につき大阪に下ってそこに住んだ。

(藩翰譜)




762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/15(火) 21:04:20.83 ID:3JvDVqcG
ラスボスがのぶおとか秀秋にした仕打ちを治部は忘れたのかな
西軍が圧倒的に有利じゃなけらば、絶対に味方しないわ

丹羽長重がすんなり西軍になったのが奇跡

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/15(火) 21:52:48.26 ID:PYoQdxLi
前田利長との確執だろ

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/16(水) 01:43:00.15 ID:a9IDo31l
丹羽長重は前田に城明け渡せとか無茶言われて前田と対立した訳で、すんなり西軍てなんのことだか

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/16(水) 02:41:57.09 ID:pfM5X15r
関係ないけど以前から丹羽長重と丹羽長秀の名前を見る度
ビワハヤヒデの名前が頭をよぎる…
馬なんて興味

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/16(水) 02:42:22.82 ID:pfM5X15r
ないのにな

織田信雄を「のぶかつ」と唱する事は

2014年07月20日 19:01

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 07:49:57.79 ID:NMYLKHiG
流れをブッた切る為に投下

------

織田信雄を「のぶかつ」と唱する事は正しいが「のぶを」と呼ぶのも間違いではない。
公家であれば上にあれば「かつ」と読み、下にあれば「を」と読む。

初めは「のぶかつ」と呼ばれていたが公卿となってからは「のぶを」と改めたと言うのが
花山院前大納言定成卿の説である。

真田左衛門佐を諸記録によれば幸村と記すが続武者物語だけは信繁と記す。
西山公(水戸光圀)は御吟味の上、幸村ではなく信仍が正しいと書き残された。
仍の字を「しげ」と訓じるのかどうかは追考が必要だ。

(翁草)

江戸時代後半には読みが分からなくなっていたと言う信雄さんの悲劇




726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 08:41:36.99 ID:y2g7qIgZ
雄って"かつ"と"たけ"とどちらに読ませるほうが多いんだろうか
某所で暇潰しに野球中継を見るようになるまでは信雄の"かつ"しか知らなんだわ

727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 08:47:54.09 ID:F8uJjcWj
俺は最初“のぶお”って読むもんだと思ってた
しかし雄が“お”じゃなくて“を”だったとは…

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 09:07:21.90 ID:V7o401sM
ほんと読みはふりがなでも振ってあったのかよて思う位難しいやつあるよな
古代中世の天皇の名前とかなぜこう読める?ての多い

729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 10:39:22.94 ID:lkmgnqtr
かなで濁点無いのって難しすぎ

730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 12:20:02.81 ID:v712/DjF
北信愛「せやな」
穴山信君「せやな」
後水尾天皇「俺の名前とか初見殺しにも程があるだろ」

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 12:44:41.01 ID:z7uOFCxN
滝川雄利おとしさん説

732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 12:54:45.57 ID:aKRY19yj
今度からノブヲって呼ぶわ

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 17:03:22.48 ID:6Ie3+g8v
のぶをなの!なんだかオシャレ

738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 18:19:00.32 ID:nQgL6tOU
諱なんてそう呼ばないんだから細かいことはええんじゃよ
主君と親ぐらいだろ?

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 18:40:33.10 ID:8QItkxBx
正宗「いやんちゃんと諱で、呼・ん・で。」

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 18:54:19.55 ID:0fmCEGi0
政宗「誰てめえ」

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 20:11:39.35 ID:EmYnAjsn
政宗「おっと、穴の開けどころが悪かったな」

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 20:53:44.13 ID:PMMLnWz5
>>739
五郎入道が何故このようなところに

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 21:30:02.65 ID:y2g7qIgZ
放浪していて迷いこんだんだろ
昔話なんかじゃあ、野垂れ死にしそうになってたこともあった気もするし

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/22(火) 08:15:42.21 ID:qCB1OruT
陶晴賢って読みにくいよね

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/22(火) 08:26:48.74 ID:uwvZy/Mi
トウセイケン、と読むと大陸の人っぽいよね

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/22(火) 09:42:24.83 ID:I32fJXcL
陶謙か

「心にかかるものは一人、織田常真である。」

2013年10月29日 19:00

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/28(月) 21:35:46.05 ID:TUlAiWxa
慶長十九年、豊臣秀頼に異心ありとの聞こえがあり、徳川家康はたびたび津田秀政を呼んで、
大坂の事について相談した。この時、家康は「心にかかるものは一人、織田常真である。
お前はなんとかして彼が大坂の城に籠らないようにはからえ」と言ったということである。

秀政は答えて「以前、常真の心底をうけたまわりましたところ、長久手の役の御恩恵は
いつも忘れていないとの旨を申しておりました。ですから、御言葉の趣旨を伝えれば、
必ず御味方に参ることは疑いありません」と申し上げた。

家康はこれを聞いて「お前の申すように必ず味方に属すのであろうな?」と重ねて尋ねた。
秀政は承って「もしこの御使いを仕損じた時には、それがしの白髪首を速やかに
お刎ねになってください」と、言った。

これに家康はとても上機嫌になって、それならば少しも常真を疎んじる気持ちはない
との旨を言いつけた。秀政はこの事をもって常真と通じ、味方させた。

――『寛政重修諸家譜』




445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/29(火) 13:00:50.43 ID:BCLP5R4h
織田常真ってそこまでの人物かな?仮に大坂の陣の時采配ふるったとしても対して影響無いような。
家康が関東転封の時に家康旧領へ転封蹴って改易になったくらい時流が読めない方だし

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/29(火) 13:51:26.13 ID:SUzHFdTK
本人の能力は置いといて織田信雄は何度も大軍を指揮した経験がある稀有な武将であり、
織田家の長者でもあり、淀殿の親族の長老でありと、名目的に旗頭になるには十分な境遇あり
信雄を名目的な中心として烏合の衆がまとまる可能性があった訳さ
んで、その後の信雄無き大坂方はみんなの知っての通り3派4派に分かれて派閥争いでグダグダ

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/29(火) 15:11:02.99 ID:M+pvybLe
同じオダでも天庵様は実際何度か軍隊を率いて上杉謙信や佐竹義重とかと
戦っているんだけどね...(´Д` )

まぁ、率いりゃ良いってもんじゃないけどね。
ふと思ったけど相手が毘沙門天や鬼とかの渾名付きで天庵様運が悪かったのかもね。

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/29(火) 17:46:59.35 ID:oLTHvw/c
そんなの相手に生き長らえている天庵様、きっと天が味方を

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/29(火) 17:54:38.06 ID:tiBiOe3n
生きてるだけで身ぐるみ剥がされてるような

織田信雄の遺作

2013年07月10日 19:59

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/10(水) 04:39:31.35 ID:wcR6MlGy
少し前に我らが常真様の話が出てたので、その後の常真様について

織田信雄の遺作

大阪城を退去した織田信雄とその郎党を、家康・秀忠は厚遇した。
上州甘楽などに5万石を与えるだけでなく、国主格まで与えたのだ。

「そういえば…北畠氏館にも見事な庭園があったな」
60近くなっていた信雄は、かつて自分が継いでいた名族の館にあった細川高国作の庭園を思い出していた。
そして実質的な藩運営は息子の信良に任せながら自身は陣屋内の作庭に没頭した。
「論語によれば智者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむという。なら私は山を楽しもう」
とこの庭園を楽山園と名づけた。
その名の通り近隣の山々を借景とし、庭園内部にも山を思わせる立体的な空間を作ったその造りは見事で、
織田家が領地替えになった後も代々受け継がれ、初期大名庭園の傑作として群馬県での国指定名勝第一号となっている。

昨年発掘調査と復元工事も終わって一般公開されているので、一度是非。
城下の雰囲気もかなり残っていて、結構楽しめる場所ですよ。




652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/10(水) 09:23:52.32 ID:yUQUoM1X
常真様、智者でない自覚はあったのか・・・。

653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/10(水) 12:33:23.71 ID:UTGj2i6t
>>652
でもあの激動の時代を生き抜いて家を残してるところは並の人ではないな。氏真公にも言えるが
親父様は天下人だしそういうプライドが邪魔して普通は家つぶしてるよ
秀頼公も信雄公のように柔軟に生きられたら豊臣も残ってただろうにな

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/10(水) 16:38:15.83 ID:0LWdkB0+

>>652
でも智者より仁者のほうが格上っぽいw

織田上心は

2013年05月24日 19:52

695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 07:53:37.69 ID:BhoaUw4r
織田上心は大坂天満で秀頼公から数年間、御扶持米をお受け取りになられていたが
乱世の頃から家康様へ御一味されていたので北野へ引かれあそぱしました。

宇多にて五万石を遣わされ、夏の陣には出陣され大坂備前島へ攻め寄せられました。

(長澤聞書)

信雄さんのちょっと当て字が多すぎ・・・いやちょっと薄情なお話。




696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 10:44:28.65 ID:hgPphfC3
上申さんでもいいかもなぁ。

織田信雄、三老臣を成敗する

2012年12月27日 19:50

899 名前:1/2[sage] 投稿日:2012/12/26(水) 21:06:18.43 ID:1lrPS9Ok
織田信雄、三老臣を成敗する


天正12年(1584)、羽柴秀吉と織田信雄の仲が険悪となると、秀吉と通じたとして
信雄が三老臣(岡田重善津川義冬浅井多宮丸)を誅殺するのではないかという
風聞が流れていた。

3月3日、上巳の祝いのために鷹狩で獲った雁を与えると
三老臣へ使いがあったので、皆出仕した。
各々が饗膳の席に着いたころ、信雄は南蛮張の大筒を出して、
これは父祖より譲られたものであると言ったので、岡田・津川は謹んでそれを拝見した。

信雄はさらに岡田に対し、その大筒を持ってみよと言い、
岡田が畏まって大筒を取り手に持った所、土方雄久が飛び掛って抱きつき、
片手に短刀を持ち岡田を突いた。岡田は突かれながらも土方を引っ立て脇差を抜いた。
信雄は大左文字の刀を抜き、岡田を斬ってくれようと、
「雄久放せ!」と命じたが、
土方は、
「大事の役目なので放すわけにはいきませぬ、早く某もろとも斬りなされ!」と答えた。

902 名前:2/2[sage] 投稿日:2012/12/26(水) 21:14:31.99 ID:1lrPS9Ok
しかし、信雄がしつこく放せと命じるので、短刀でもう二突きした上で放した。
すると信雄はすぐさま岡田を斬り、止めを刺した。

この有様を見た津川、
「そ、某をも誅されるおつもりか?」

信雄答えて、
「汝もどうして赦せようか?」

津川はこれに対して、
「なんと薄情な! 某の心底がお分かりにならないのか!?」

と言ったが、その時かねて討手と決められていた飯田半兵衛らが襲い掛って一太刀斬りつけ、
そこに信雄また続いて津川を仕留めた。

残りの一人、浅井多宮丸は未だ17歳にもならぬ若者だったので、
森勘解由が承って難なく斬り伏せた。
こうして三老臣を誅殺したので、残党を掃討するため岡田の星崎、津川の松ヶ島、浅井の刈安賀と、
三人の居城へそれぞれ討手を差し向けたのであった。

(伊勢国司記略)




903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/26(水) 22:26:21.74 ID:3tvf34An
この話を読む限り、津川は岡田が斬られるのを抵抗もせず見ていたんだよな
仮に翻意があればさっさと刀抜いてそうなものだが

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/26(水) 23:13:09.40 ID:Jb6y8Dqs
うむ。

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/27(木) 01:34:46.48 ID:uwGaSoc4
17才にもならぬ老臣…

906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/27(木) 01:38:58.51 ID:+pVjqYKa
若年寄?

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/27(木) 05:52:58.78 ID:7TE8nu7A
信長の野望とかでよくあったね、三歳髭面とか

908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/27(木) 10:35:43.04 ID:MdLaw1F3
老臣やら大人とかは、老中とか若年寄とかと同じ役職みたいな感じで使われることが多いよね

909 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/27(木) 11:02:50.04 ID:bu3fi/5y
元老院も老人の集まりだと思われがちだが、20代の若者もいる

910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/27(木) 12:47:09.31 ID:7VcFyRgh
世襲議員だな、小泉進次郎みたいな奴

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/27(木) 13:32:55.98 ID:LruDLFiG
身の程をわきまえてる奴なら別にいいんじゃね?
問題は口先だけで実行しない鳩山小沢の類で

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/27(木) 15:13:02.10 ID:6jii2X/e
オクタウィアヌスが20歳だったか
叔父のカエサルも30代だよな

信雄の奮戦

2012年10月21日 19:29

19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/20(土) 22:21:38.38 ID:EFQoOfEl
信雄の奮戦

小牧・長久手終盤、天正十二年六月
桑名で伊勢戦線を督戦する織田信雄に急報がもたらされた

『蟹江城の前田長定、滝川一益によってご謀反』
清洲城のわずか三里南に存在する蟹江城を謀略により征圧したのは、滝川一益九鬼嘉隆の水軍
桑名(信雄)と清洲(家康)の連携を遮断するのがその目的だった

「こうしてはおれん。叔父上(有楽)、船団に触れを!」
報に接した信雄は蟹江城と九鬼水軍の連携を遮断すべく奮戦
『大船ニノリカケ敵船ヲ取リ人数討捕候』
と陣頭指揮をとって大いに活躍し、嘉隆らを撃退
一益の蟹江城を孤立させて戦いの勝利に大きく貢献した


家忠日記より、信雄さんの珍しく良い話お話でした




20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/21(日) 09:18:40.19 ID:2lJiCCqK
ちょくちょくやらかすせいで無能扱いの信雄さんだけど実際は無能ってほどでもないよなあ

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/21(日) 09:37:44.12 ID:k3bJAbMk
対抗馬の信孝さんの方がよっぽど
外面は良かったみたいだから無能扱いはされてないが

織田信雄と、波多瀬三郎

2012年04月30日 21:03

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/30(月) 09:14:42.73 ID:bNijGbCe
天正4年(1576)11月25日、伊勢では織田信長・信雄親子による北畠具教ら、北畠一族への粛清事件が起こる。
これに翌天正5年、奈良興福寺にあった具教の弟、北畠具親は伊勢に帰国し、織田に対して反乱を起こす。
しかし間もなく制圧され、具親は逃亡。与党の者たちも多くが捕らえられた。

さて、そんな反乱者に対する処分が続く中、織田信雄の元に3人の捕縛者が引き立てられた。
六呂木某、山福某という者、そして波多瀬三郎という15歳の少年だった。

三人は処刑される事となっていた。だが信雄は波多瀬少年を見るなり気が変わった。それは波多瀬が
『無双の若衆(美少年)』だったからである。信雄は即座に、少年の助命を命じた。

が、波多瀬三郎はこれに

「私達三人は同罪です!三人ともお助けくださると言うのなら、忝いと感謝いたしますが、
私だけが助かっては面目がたちません!ですからどうぞ、殺して下さい!」

これを聞いた六呂木某、山福某は、逆に波多瀬を説得した

「我らは既に老体であり、命は惜しくない。しかしお前はそのような若年ではないか!
構うことはない!お前は御意に従うが良い!」

「嫌です!そんなことは出来ません!」

波多瀬三郎は頑として、助命を受け入れなかった。
そこで信雄も致し方なく、三人を磔とした。

これによって波多瀬三郎は、死後、見事な若者であると大いに名を上げた、とのことである。


信雄、これと似たような話を、、以前にもやっていたのですね。しかもこっちは拒絶されていた
織田信雄、高野聖の処刑にて http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6357.html


織田信雄の助命を拒絶した、波多瀬三郎少年についてのお話である
(勢州軍記)





織田信雄、高野聖の処刑にて

2012年04月27日 21:18

840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/26(木) 22:25:10.74 ID:9j97hhVT
荒木村重の織田信長への謀反が起こる。
その謀反に味方したものの中に高野聖があり、それが高野山に逃げ込んだ。
信長はその者たちを差し出せと使者を送ったが、高野山では僧徒がこの使者の態度に怒り、これを殺してしまった。
この事態に信長は激怒、『諸国の高野聖を捕えて殺せ!』との命令を発した。

そこで伊勢でも数百人の高野聖やその関係者が捕らえられ、松ヶ島で処刑される事となった。
この処刑を、織田信雄・信孝兄弟が検分した。

処刑は次々と行われ、最後に15歳くらいの少年が引き出された。
この少年が顔を上げる。…と、

「…!!まて!その処刑、待て!!」

織田信雄が突然これを止めた。少年はその容貌、非常に美しく、信雄は彼を見初めてしまったのだ。

「この者は、私の名において助命いたす!」

信雄はそう宣言し、少年の身柄を引き取った。

この様子を見ていた織田信孝は、白子杢右衛門尉というものを呼び出すと、いきなり呟いた

「尻ゆえにこそ命たすかれ」

これに白子はすぐさま

「蜘蛛(ささがに)の 糸あはれにも引き出して」

と、上の句を付けたという。信雄への強い皮肉である。
信雄はこの少年に「道也」と名をつけ寵愛し、彼は信雄のもとで大いに「出頭」したという。

この軍記を書いた作者は、当時の世相をこの様に書いている
『今、諸家では男色に溺れ、佞者を愛し、そういう者に大きな知行を与えて国を乱すものが多数いる。』

傾国の美女ならぬ、傾国の美少年が数多いた時代の記録である
(勢州戦記)




842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/26(木) 23:00:44.06 ID:1+sm0Z9E
のぶおタン…

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/26(木) 23:03:56.24 ID:iCm/wXfL
高虎が側近達の衆道狂いに悩まされて禁止するためにあの手この手を考えるちょっと悪い話もあったな

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/26(木) 23:07:57.43 ID:O15v/WLk
修道ネタが多いほど資料としての価値の低さを無視して引用されるのが困ったもの

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/26(木) 23:20:20.14 ID:bsD0EtDT
尻一つで!!

846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/26(木) 23:26:24.04 ID:fSlqgVWm
まあここは逸話スレだし

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/27(金) 00:30:06.30 ID:cqEC5bYf
>>840
久々に笑ったw

大坂の陣と織田信雄

2011年03月21日 00:00

大坂の陣と織田信雄

織田信雄 豊臣秀頼 淀殿


309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/20(日) 01:08:48.59 ID:FiDCeB1I
慶長19年(1614)、徳川幕府と関係悪化をしていた豊臣家、駿河より片桐且元の持ち帰った
和平案を豊臣秀頼は拒絶する。

そして織田常真入道(信雄)を呼び、

「この上は且元を斬り、挙兵せんと思う。その際は入道に総大将を任せたい」

と言った。これに常心入道

「ははっ。今天下の大名を数えるに、一体誰が故太閤の御恩を受けていない者でしょうか?
一旦挙兵すれば、これに参加するため豊臣家の元にに参らぬものなどおりはしません!

さらにお手元の軍勢も、1,2万もございます。
この入道も若い頃は、1,2万の軍勢であれば型が出来ているかのように使い慣れたものですよ。
老後の思い出に一方の大将を承り、素晴らしい活躍をお目にかけましょうぞ!」

これに淀殿、秀頼をはじめ豊臣家の人々大いに喜び、
「萬事、入道の計らいに任せる」
と、挙兵することに決まった。

ところがである。常真入道、片桐且元の元に密かに使者を立て、この日あったことを全て
詳細に伝えた。そして自身は夜に入って吹き荒れた風雨にまぎれ、大阪を落ち京に隠れ、
徳川家康が京に上ったことを知ると、二条城へと入った、という。

大坂の陣が始まる瞬間の、織田信雄の行動である。




310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/20(日) 01:30:34.41 ID:5KcQmPYs
むしろ、なぜ信雄さんは総大将を任されるほど、評価が高かったのか?
失態に失態を重ねているのに。現代を生きる我々には信じられない。

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/20(日) 02:08:32.79 ID:jpEEnOlF
>>310
格とか位の問題があるんじゃね?
一応数万の兵を指揮したことがあるし秀頼の親戚だし

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/20(日) 09:09:46.77 ID:Gz9sJK3s
信雄よりかは信頼できそうな信包と長益は数万の兵を率いたことは無さのそうだしな

313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/20(日) 10:09:28.13 ID:cyZSIvEB
信雄が率いるぐらいなら、ぶっつけ本番で秀頼が率いたほうがましなレベル

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/20(日) 10:48:43.10 ID:e1ctvNHX
戦場の空気を知らない秀頼よりかはそれを知る信雄の方がマシってことか

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/20(日) 12:27:39.76 ID:PI3YbuSF
初陣の若者にいきなり大軍を与えて高度な作戦させようとした結果が
あの小牧・長久手の戦いだからな

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/20(日) 13:12:28.36 ID:NBck8DH9
>入道も若い頃は、1,2万の軍勢であれば型が出来ているかのように使い慣れたものですよ。


若い頃勝手に一万くらいで伊賀に攻め込んで大失敗したやんかと

318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/20(日) 17:13:21.44 ID:x1eyZms2
いつも思うが伊賀戦や小牧、長久手のころからの信雄を思うと成長っぷりが半端ないな

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/20(日) 17:49:51.67 ID:YJ4WxN8G
決断力はあるから欲出さなければ割と出来る子なのよね信雄
関ヶ原で、自分の判断力のあれさに流石に気づいたのか

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/20(日) 22:17:52.00 ID:5KcQmPYs
>>319
kwsk

武将の呼び名について

2010年11月10日 00:00

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/09(火) 19:17:26 ID:NY6iCV/F
武将の呼び名について

寛政重修諸家譜(江戸古本)を見たら

織田信雄 おだ のぶを」と書いてあった。

「のぶかつ」だと思っていたんだが、読みがわかってちょっと残念とも思える話。
江戸中期以降の編纂でも、今よりはまだ史料も揃っていただろうからある程度信頼は置けると思う。

そうすると「壬生義雄」も「みぶ よしを」か・・・

「明石全登(あかし てるレ登)」さんの読みに期待。




510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/09(火) 19:28:48 ID:rIxvgpeI
>>506
資料は揃ってるのかもしれないが、ルビが振ってるある資料はないからなwww

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/09(火) 20:51:54 ID:HmH2MFLB
>>506
端的に言うと織田信雄の場合、武家読みだと「のぶかつ」なのだが、
彼は内大臣にまでなった公家でもあるので、公家読みでは「のぶお」と呼ばれる場合もある。

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/09(火) 21:52:18 ID:JTobI9La
のぶおが織田家の三男坊に生まれたようです

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/09(火) 22:15:39 ID:njBPSRkv
しんおにはならないの?

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/09(火) 22:20:32 ID:y7kThAtc
それいうなら
しんゆう