浅利のハイタカ

2017年09月09日 10:14

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/08(金) 23:39:00.53 ID:XzrI/Uma
尾張内府(織田信雄)の元に、「鷹の上手である」と、浅利牛乱という者が目通りした。
彼は「ハイタカに雁を取らす」との言い立てをした。信雄は「これは珍妙である」と、彼を召し抱えた。

浅利はこの雁取りの鷹を据えて御前に出たが、この鷹、殊の外羽を羽ばたかせて鳥を取ろうとする
様子であったが、その日は狩りをさせずに置いた。脇から見れば、まぎれもなく雁を取るような体であった。

しかしその翌日、浅利は信雄の前に出ると「あの鷹はイタチに食われてしまいました」と、涙を落として
説名した。

実は、先に鷹が羽ばたいていたのは、一方に餌を持って見せたため、鷹が興奮していたということで、
つまりは偽りであったという。すなわち、信雄を騙したということである。

(士談)



101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/09(土) 08:31:06.55 ID:4xz0EMTm
>>100
つまり、人を騙した浅利に罰があたった、ってこと?

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/09(土) 18:19:41.24 ID:pozdrvhm
イタチにヤられたことだって本当かどうか
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【ニュース】[織田信雄、秀吉の顔色うかがう 清洲会議3日前に書状]

2016年07月08日 16:27

814 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/07/08(金) 09:41:10.15 ID:lO69aRU1
[織田信雄、秀吉の顔色うかがう 清洲会議3日前に書状]
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160708-00000021-asahi-soci


本能寺の変(1582年)で織田信長が倒れた後、後継をめざした次男・信雄(のぶかつ、1558~1630)
が羽柴(豊臣)秀吉に宛てた書状を、中京大の村岡幹生教授らが入手し、7日発表した。日付は信長の後継者を決
めた清洲会議の3日前。秀吉に指示を仰ぐ内容で、慌てた様子もうかがえるという。
書状は、縦29・4センチ、横40・1センチ。古書市場に出品されていた。日付は6月24日。年は書かれてい
ないものの、共同で分析した播磨良紀教授が、時代で変遷した信雄の花押(サイン)の形を分析して特定した。
「そちらの様子でよきように決め、連絡して下さい。近くへ陣を寄せます」といった内容が書かれていた。本能寺
の変が6月2日。13日には秀吉が山崎の戦いで明智光秀を破っており、信雄が秀吉軍に加わろうとしたとみられる。

・・・古書市場で出品って誰が?



815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/08(金) 13:32:55.55 ID:eVs+Krws
所有者

816 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/07/08(金) 14:09:34.84 ID:uhV5wMs+
だいたい価値の分からない遺族が一括して業者に渡すので
業者が市場に売りに出す

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/08(金) 16:10:51.53 ID:EZmvQCNr
>>814
こういうのいいなぁ、もっとでてきて欲しい。

常真入道はどう思い返したのか

2015年12月19日 07:54

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/18(金) 18:40:34.20 ID:5rhQtNsR
慶長19年の秋、江戸の幕府と豊臣家の対立が深まる中、大御所徳川家康は片桐且元を駿河に召し、
且元は家康の仰せを伺い、大阪に帰って今後の方針を述べた。
しかしこの且元の意見は秀頼の心にかなわず、彼が下がった後、且元を斬って軍を起こるべきか否か、
という事が、織田常真入道(信雄)も召されて議論された。
ここで常真入道は言った

「今、天下の大名を数えるに、故太閤の御恩を蒙らなかった者など誰もおりません。
軍勢を起こした場合、どうして從い参る者がいないということがありましょうか?
またお手元にも軍勢の1,2万があります。この入道も若き頃は、1,2万の軍勢を
形のごとくに使い慣れたものです。老後の思い出に一方の大将を承り、由々しき振る舞いをして
見参に入れましょう!」

この発言に、淀殿初め一座の人々は喜ぶこと限りなかった。
「万事、入道の計らいに任せよう。」
こうしてこの議論は、軍勢を起こすことに決したのである。

が、常真入道はどう思い返したのか、且元に元に密かに使者を送り、有った事共をすべて告げ、
自身は夜に入って風雨に紛れ、大阪を落ち失せ都の方に隠れ、大御所徳川家康が上洛したと聞くと、
やがて二条城に参上した。

明けて元和元年5月、大坂の陣が終わった後、7月23日、大和国宇陀郡を与えられた。

(藩翰譜)



783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/18(金) 19:57:51.83 ID:gPCxe1d2
これはちょっとどころか、悪すぎる話しだな

784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/18(金) 20:06:43.71 ID:kclQvIKE
じつに信雄

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/18(金) 20:35:59.12 ID:GZRph2YS
これには有楽斎も苦笑い

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/18(金) 23:40:22.19 ID:8E/nOHFQ
>この入道も若き頃は、1,2万の軍勢を形のごとくに使い慣れたものです

伊賀では少数の国人に返り討ちにあってた糞の役にも立たない従妹
有楽叔父さんもアホだし、唯一まともな老犬斎叔父さんはいきなり変死するし

ただ何となく所領していた地を失った

2015年12月16日 06:34

761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/15(火) 20:50:51.17 ID:CQuOImBi
関ヶ原の役が勃発すると、石田三成は織田常真入道(信雄)に使者を立て、秀頼の仰せとして伝えた
『急ぎ元の家臣たちを召し集め、軍勢を催し内府(家康)を討つべし!先ずは物の具の料として
黄金千枚を参らせ、また尾張の国は元の本領であるかた、領すること相違あるべからず。』

これを聞いた常真は喜ぶこと限りなく、やがて味方に参るべき旨を了承した。そして
「先ずは昔の家人たちを集め、物の具を揃え、馬を求めさせたい。
さらばその料に黄金を賜らん」
そうその使いに言い、奉行たちに乞わせた所、送られてきたのはただ銀一千枚であった。

「こんな事では、尾張の国を賜るというのもどうなることか…」
常真も流石に不安になりこの件を持て余していた所、子息の宰相(織田秀雄)が、越前大野の城で
父のこの所業を聞いて大いに驚き、急ぎ使いを出して言った

「如何なる事があっても、当家の人々が徳川殿に向かって弓を引き矢を放つなどと言うことが
ありましょうか?このような浅ましい約束はすべきではありません!」

そう教訓すると、常真も「それもそうだなあ…(是れも又謂れあり)、しかしこの上は
どうするべきか…。」

そのように悩んでいる間に、関が原の合戦が終わった。
子息の宰相は前田利長とともに大津の陣に参ったものの、父ため動きを取れず、
特に何もしていなかったので、ただ何となく所領していた地を失った。
常真はその後、淀殿の所縁につき大阪に下ってそこに住んだ。

(藩翰譜)




762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/15(火) 21:04:20.83 ID:3JvDVqcG
ラスボスがのぶおとか秀秋にした仕打ちを治部は忘れたのかな
西軍が圧倒的に有利じゃなけらば、絶対に味方しないわ

丹羽長重がすんなり西軍になったのが奇跡

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/15(火) 21:52:48.26 ID:PYoQdxLi
前田利長との確執だろ

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/16(水) 01:43:00.15 ID:a9IDo31l
丹羽長重は前田に城明け渡せとか無茶言われて前田と対立した訳で、すんなり西軍てなんのことだか

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/16(水) 02:41:57.09 ID:pfM5X15r
関係ないけど以前から丹羽長重と丹羽長秀の名前を見る度
ビワハヤヒデの名前が頭をよぎる…
馬なんて興味

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/16(水) 02:42:22.82 ID:pfM5X15r
ないのにな

織田信雄を「のぶかつ」と唱する事は

2014年07月20日 19:01

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 07:49:57.79 ID:NMYLKHiG
流れをブッた切る為に投下

------

織田信雄を「のぶかつ」と唱する事は正しいが「のぶを」と呼ぶのも間違いではない。
公家であれば上にあれば「かつ」と読み、下にあれば「を」と読む。

初めは「のぶかつ」と呼ばれていたが公卿となってからは「のぶを」と改めたと言うのが
花山院前大納言定成卿の説である。

真田左衛門佐を諸記録によれば幸村と記すが続武者物語だけは信繁と記す。
西山公(水戸光圀)は御吟味の上、幸村ではなく信仍が正しいと書き残された。
仍の字を「しげ」と訓じるのかどうかは追考が必要だ。

(翁草)

江戸時代後半には読みが分からなくなっていたと言う信雄さんの悲劇




726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 08:41:36.99 ID:y2g7qIgZ
雄って"かつ"と"たけ"とどちらに読ませるほうが多いんだろうか
某所で暇潰しに野球中継を見るようになるまでは信雄の"かつ"しか知らなんだわ

727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 08:47:54.09 ID:F8uJjcWj
俺は最初“のぶお”って読むもんだと思ってた
しかし雄が“お”じゃなくて“を”だったとは…

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 09:07:21.90 ID:V7o401sM
ほんと読みはふりがなでも振ってあったのかよて思う位難しいやつあるよな
古代中世の天皇の名前とかなぜこう読める?ての多い

729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 10:39:22.94 ID:lkmgnqtr
かなで濁点無いのって難しすぎ

730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 12:20:02.81 ID:v712/DjF
北信愛「せやな」
穴山信君「せやな」
後水尾天皇「俺の名前とか初見殺しにも程があるだろ」

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 12:44:41.01 ID:z7uOFCxN
滝川雄利おとしさん説

732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 12:54:45.57 ID:aKRY19yj
今度からノブヲって呼ぶわ

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 17:03:22.48 ID:6Ie3+g8v
のぶをなの!なんだかオシャレ

738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 18:19:00.32 ID:nQgL6tOU
諱なんてそう呼ばないんだから細かいことはええんじゃよ
主君と親ぐらいだろ?

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 18:40:33.10 ID:8QItkxBx
正宗「いやんちゃんと諱で、呼・ん・で。」

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 18:54:19.55 ID:0fmCEGi0
政宗「誰てめえ」

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 20:11:39.35 ID:EmYnAjsn
政宗「おっと、穴の開けどころが悪かったな」

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 20:53:44.13 ID:PMMLnWz5
>>739
五郎入道が何故このようなところに

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 21:30:02.65 ID:y2g7qIgZ
放浪していて迷いこんだんだろ
昔話なんかじゃあ、野垂れ死にしそうになってたこともあった気もするし

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/22(火) 08:15:42.21 ID:qCB1OruT
陶晴賢って読みにくいよね

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/22(火) 08:26:48.74 ID:uwvZy/Mi
トウセイケン、と読むと大陸の人っぽいよね

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/22(火) 09:42:24.83 ID:I32fJXcL
陶謙か

「心にかかるものは一人、織田常真である。」

2013年10月29日 19:00

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/28(月) 21:35:46.05 ID:TUlAiWxa
慶長十九年、豊臣秀頼に異心ありとの聞こえがあり、徳川家康はたびたび津田秀政を呼んで、
大坂の事について相談した。この時、家康は「心にかかるものは一人、織田常真である。
お前はなんとかして彼が大坂の城に籠らないようにはからえ」と言ったということである。

秀政は答えて「以前、常真の心底をうけたまわりましたところ、長久手の役の御恩恵は
いつも忘れていないとの旨を申しておりました。ですから、御言葉の趣旨を伝えれば、
必ず御味方に参ることは疑いありません」と申し上げた。

家康はこれを聞いて「お前の申すように必ず味方に属すのであろうな?」と重ねて尋ねた。
秀政は承って「もしこの御使いを仕損じた時には、それがしの白髪首を速やかに
お刎ねになってください」と、言った。

これに家康はとても上機嫌になって、それならば少しも常真を疎んじる気持ちはない
との旨を言いつけた。秀政はこの事をもって常真と通じ、味方させた。

――『寛政重修諸家譜』




445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/29(火) 13:00:50.43 ID:BCLP5R4h
織田常真ってそこまでの人物かな?仮に大坂の陣の時采配ふるったとしても対して影響無いような。
家康が関東転封の時に家康旧領へ転封蹴って改易になったくらい時流が読めない方だし

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/29(火) 13:51:26.13 ID:SUzHFdTK
本人の能力は置いといて織田信雄は何度も大軍を指揮した経験がある稀有な武将であり、
織田家の長者でもあり、淀殿の親族の長老でありと、名目的に旗頭になるには十分な境遇あり
信雄を名目的な中心として烏合の衆がまとまる可能性があった訳さ
んで、その後の信雄無き大坂方はみんなの知っての通り3派4派に分かれて派閥争いでグダグダ

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/29(火) 15:11:02.99 ID:M+pvybLe
同じオダでも天庵様は実際何度か軍隊を率いて上杉謙信や佐竹義重とかと
戦っているんだけどね...(´Д` )

まぁ、率いりゃ良いってもんじゃないけどね。
ふと思ったけど相手が毘沙門天や鬼とかの渾名付きで天庵様運が悪かったのかもね。

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/29(火) 17:46:59.35 ID:oLTHvw/c
そんなの相手に生き長らえている天庵様、きっと天が味方を

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/29(火) 17:54:38.06 ID:tiBiOe3n
生きてるだけで身ぐるみ剥がされてるような

織田信雄の遺作

2013年07月10日 19:59

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/10(水) 04:39:31.35 ID:wcR6MlGy
少し前に我らが常真様の話が出てたので、その後の常真様について

織田信雄の遺作

大阪城を退去した織田信雄とその郎党を、家康・秀忠は厚遇した。
上州甘楽などに5万石を与えるだけでなく、国主格まで与えたのだ。

「そういえば…北畠氏館にも見事な庭園があったな」
60近くなっていた信雄は、かつて自分が継いでいた名族の館にあった細川高国作の庭園を思い出していた。
そして実質的な藩運営は息子の信良に任せながら自身は陣屋内の作庭に没頭した。
「論語によれば智者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむという。なら私は山を楽しもう」
とこの庭園を楽山園と名づけた。
その名の通り近隣の山々を借景とし、庭園内部にも山を思わせる立体的な空間を作ったその造りは見事で、
織田家が領地替えになった後も代々受け継がれ、初期大名庭園の傑作として群馬県での国指定名勝第一号となっている。

昨年発掘調査と復元工事も終わって一般公開されているので、一度是非。
城下の雰囲気もかなり残っていて、結構楽しめる場所ですよ。




652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/10(水) 09:23:52.32 ID:yUQUoM1X
常真様、智者でない自覚はあったのか・・・。

653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/10(水) 12:33:23.71 ID:UTGj2i6t
>>652
でもあの激動の時代を生き抜いて家を残してるところは並の人ではないな。氏真公にも言えるが
親父様は天下人だしそういうプライドが邪魔して普通は家つぶしてるよ
秀頼公も信雄公のように柔軟に生きられたら豊臣も残ってただろうにな

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/10(水) 16:38:15.83 ID:0LWdkB0+

>>652
でも智者より仁者のほうが格上っぽいw

織田上心は

2013年05月24日 19:52

695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 07:53:37.69 ID:BhoaUw4r
織田上心は大坂天満で秀頼公から数年間、御扶持米をお受け取りになられていたが
乱世の頃から家康様へ御一味されていたので北野へ引かれあそぱしました。

宇多にて五万石を遣わされ、夏の陣には出陣され大坂備前島へ攻め寄せられました。

(長澤聞書)

信雄さんのちょっと当て字が多すぎ・・・いやちょっと薄情なお話。




696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 10:44:28.65 ID:hgPphfC3
上申さんでもいいかもなぁ。

織田信雄、三老臣を成敗する

2012年12月27日 19:50

899 名前:1/2[sage] 投稿日:2012/12/26(水) 21:06:18.43 ID:1lrPS9Ok
織田信雄、三老臣を成敗する


天正12年(1584)、羽柴秀吉と織田信雄の仲が険悪となると、秀吉と通じたとして
信雄が三老臣(岡田重善津川義冬浅井多宮丸)を誅殺するのではないかという
風聞が流れていた。

3月3日、上巳の祝いのために鷹狩で獲った雁を与えると
三老臣へ使いがあったので、皆出仕した。
各々が饗膳の席に着いたころ、信雄は南蛮張の大筒を出して、
これは父祖より譲られたものであると言ったので、岡田・津川は謹んでそれを拝見した。

信雄はさらに岡田に対し、その大筒を持ってみよと言い、
岡田が畏まって大筒を取り手に持った所、土方雄久が飛び掛って抱きつき、
片手に短刀を持ち岡田を突いた。岡田は突かれながらも土方を引っ立て脇差を抜いた。
信雄は大左文字の刀を抜き、岡田を斬ってくれようと、
「雄久放せ!」と命じたが、
土方は、
「大事の役目なので放すわけにはいきませぬ、早く某もろとも斬りなされ!」と答えた。

902 名前:2/2[sage] 投稿日:2012/12/26(水) 21:14:31.99 ID:1lrPS9Ok
しかし、信雄がしつこく放せと命じるので、短刀でもう二突きした上で放した。
すると信雄はすぐさま岡田を斬り、止めを刺した。

この有様を見た津川、
「そ、某をも誅されるおつもりか?」

信雄答えて、
「汝もどうして赦せようか?」

津川はこれに対して、
「なんと薄情な! 某の心底がお分かりにならないのか!?」

と言ったが、その時かねて討手と決められていた飯田半兵衛らが襲い掛って一太刀斬りつけ、
そこに信雄また続いて津川を仕留めた。

残りの一人、浅井多宮丸は未だ17歳にもならぬ若者だったので、
森勘解由が承って難なく斬り伏せた。
こうして三老臣を誅殺したので、残党を掃討するため岡田の星崎、津川の松ヶ島、浅井の刈安賀と、
三人の居城へそれぞれ討手を差し向けたのであった。

(伊勢国司記略)




903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/26(水) 22:26:21.74 ID:3tvf34An
この話を読む限り、津川は岡田が斬られるのを抵抗もせず見ていたんだよな
仮に翻意があればさっさと刀抜いてそうなものだが

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/26(水) 23:13:09.40 ID:Jb6y8Dqs
うむ。

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/27(木) 01:34:46.48 ID:uwGaSoc4
17才にもならぬ老臣…

906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/27(木) 01:38:58.51 ID:+pVjqYKa
若年寄?

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/27(木) 05:52:58.78 ID:7TE8nu7A
信長の野望とかでよくあったね、三歳髭面とか

908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/27(木) 10:35:43.04 ID:MdLaw1F3
老臣やら大人とかは、老中とか若年寄とかと同じ役職みたいな感じで使われることが多いよね

909 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/27(木) 11:02:50.04 ID:bu3fi/5y
元老院も老人の集まりだと思われがちだが、20代の若者もいる

910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/27(木) 12:47:09.31 ID:7VcFyRgh
世襲議員だな、小泉進次郎みたいな奴

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/27(木) 13:32:55.98 ID:LruDLFiG
身の程をわきまえてる奴なら別にいいんじゃね?
問題は口先だけで実行しない鳩山小沢の類で

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/27(木) 15:13:02.10 ID:6jii2X/e
オクタウィアヌスが20歳だったか
叔父のカエサルも30代だよな

信雄の奮戦

2012年10月21日 19:29

19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/20(土) 22:21:38.38 ID:EFQoOfEl
信雄の奮戦

小牧・長久手終盤、天正十二年六月
桑名で伊勢戦線を督戦する織田信雄に急報がもたらされた

『蟹江城の前田長定、滝川一益によってご謀反』
清洲城のわずか三里南に存在する蟹江城を謀略により征圧したのは、滝川一益九鬼嘉隆の水軍
桑名(信雄)と清洲(家康)の連携を遮断するのがその目的だった

「こうしてはおれん。叔父上(有楽)、船団に触れを!」
報に接した信雄は蟹江城と九鬼水軍の連携を遮断すべく奮戦
『大船ニノリカケ敵船ヲ取リ人数討捕候』
と陣頭指揮をとって大いに活躍し、嘉隆らを撃退
一益の蟹江城を孤立させて戦いの勝利に大きく貢献した


家忠日記より、信雄さんの珍しく良い話お話でした




20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/21(日) 09:18:40.19 ID:2lJiCCqK
ちょくちょくやらかすせいで無能扱いの信雄さんだけど実際は無能ってほどでもないよなあ

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/21(日) 09:37:44.12 ID:k3bJAbMk
対抗馬の信孝さんの方がよっぽど
外面は良かったみたいだから無能扱いはされてないが

織田信雄と、波多瀬三郎

2012年04月30日 21:03

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/30(月) 09:14:42.73 ID:bNijGbCe
天正4年(1576)11月25日、伊勢では織田信長・信雄親子による北畠具教ら、北畠一族への粛清事件が起こる。
これに翌天正5年、奈良興福寺にあった具教の弟、北畠具親は伊勢に帰国し、織田に対して反乱を起こす。
しかし間もなく制圧され、具親は逃亡。与党の者たちも多くが捕らえられた。

さて、そんな反乱者に対する処分が続く中、織田信雄の元に3人の捕縛者が引き立てられた。
六呂木某、山福某という者、そして波多瀬三郎という15歳の少年だった。

三人は処刑される事となっていた。だが信雄は波多瀬少年を見るなり気が変わった。それは波多瀬が
『無双の若衆(美少年)』だったからである。信雄は即座に、少年の助命を命じた。

が、波多瀬三郎はこれに

「私達三人は同罪です!三人ともお助けくださると言うのなら、忝いと感謝いたしますが、
私だけが助かっては面目がたちません!ですからどうぞ、殺して下さい!」

これを聞いた六呂木某、山福某は、逆に波多瀬を説得した

「我らは既に老体であり、命は惜しくない。しかしお前はそのような若年ではないか!
構うことはない!お前は御意に従うが良い!」

「嫌です!そんなことは出来ません!」

波多瀬三郎は頑として、助命を受け入れなかった。
そこで信雄も致し方なく、三人を磔とした。

これによって波多瀬三郎は、死後、見事な若者であると大いに名を上げた、とのことである。


信雄、これと似たような話を、、以前にもやっていたのですね。しかもこっちは拒絶されていた
織田信雄、高野聖の処刑にて http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6357.html


織田信雄の助命を拒絶した、波多瀬三郎少年についてのお話である
(勢州軍記)





織田信雄、高野聖の処刑にて

2012年04月27日 21:18

840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/26(木) 22:25:10.74 ID:9j97hhVT
荒木村重の織田信長への謀反が起こる。
その謀反に味方したものの中に高野聖があり、それが高野山に逃げ込んだ。
信長はその者たちを差し出せと使者を送ったが、高野山では僧徒がこの使者の態度に怒り、これを殺してしまった。
この事態に信長は激怒、『諸国の高野聖を捕えて殺せ!』との命令を発した。

そこで伊勢でも数百人の高野聖やその関係者が捕らえられ、松ヶ島で処刑される事となった。
この処刑を、織田信雄・信孝兄弟が検分した。

処刑は次々と行われ、最後に15歳くらいの少年が引き出された。
この少年が顔を上げる。…と、

「…!!まて!その処刑、待て!!」

織田信雄が突然これを止めた。少年はその容貌、非常に美しく、信雄は彼を見初めてしまったのだ。

「この者は、私の名において助命いたす!」

信雄はそう宣言し、少年の身柄を引き取った。

この様子を見ていた織田信孝は、白子杢右衛門尉というものを呼び出すと、いきなり呟いた

「尻ゆえにこそ命たすかれ」

これに白子はすぐさま

「蜘蛛(ささがに)の 糸あはれにも引き出して」

と、上の句を付けたという。信雄への強い皮肉である。
信雄はこの少年に「道也」と名をつけ寵愛し、彼は信雄のもとで大いに「出頭」したという。

この軍記を書いた作者は、当時の世相をこの様に書いている
『今、諸家では男色に溺れ、佞者を愛し、そういう者に大きな知行を与えて国を乱すものが多数いる。』

傾国の美女ならぬ、傾国の美少年が数多いた時代の記録である
(勢州戦記)




842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/26(木) 23:00:44.06 ID:1+sm0Z9E
のぶおタン…

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/26(木) 23:03:56.24 ID:iCm/wXfL
高虎が側近達の衆道狂いに悩まされて禁止するためにあの手この手を考えるちょっと悪い話もあったな

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/26(木) 23:07:57.43 ID:O15v/WLk
修道ネタが多いほど資料としての価値の低さを無視して引用されるのが困ったもの

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/26(木) 23:20:20.14 ID:bsD0EtDT
尻一つで!!

846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/26(木) 23:26:24.04 ID:fSlqgVWm
まあここは逸話スレだし

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/27(金) 00:30:06.30 ID:cqEC5bYf
>>840
久々に笑ったw

大坂の陣と織田信雄

2011年03月21日 00:00

大坂の陣と織田信雄

織田信雄 豊臣秀頼 淀殿


309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/20(日) 01:08:48.59 ID:FiDCeB1I
慶長19年(1614)、徳川幕府と関係悪化をしていた豊臣家、駿河より片桐且元の持ち帰った
和平案を豊臣秀頼は拒絶する。

そして織田常真入道(信雄)を呼び、

「この上は且元を斬り、挙兵せんと思う。その際は入道に総大将を任せたい」

と言った。これに常心入道

「ははっ。今天下の大名を数えるに、一体誰が故太閤の御恩を受けていない者でしょうか?
一旦挙兵すれば、これに参加するため豊臣家の元にに参らぬものなどおりはしません!

さらにお手元の軍勢も、1,2万もございます。
この入道も若い頃は、1,2万の軍勢であれば型が出来ているかのように使い慣れたものですよ。
老後の思い出に一方の大将を承り、素晴らしい活躍をお目にかけましょうぞ!」

これに淀殿、秀頼をはじめ豊臣家の人々大いに喜び、
「萬事、入道の計らいに任せる」
と、挙兵することに決まった。

ところがである。常真入道、片桐且元の元に密かに使者を立て、この日あったことを全て
詳細に伝えた。そして自身は夜に入って吹き荒れた風雨にまぎれ、大阪を落ち京に隠れ、
徳川家康が京に上ったことを知ると、二条城へと入った、という。

大坂の陣が始まる瞬間の、織田信雄の行動である。




310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/20(日) 01:30:34.41 ID:5KcQmPYs
むしろ、なぜ信雄さんは総大将を任されるほど、評価が高かったのか?
失態に失態を重ねているのに。現代を生きる我々には信じられない。

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/20(日) 02:08:32.79 ID:jpEEnOlF
>>310
格とか位の問題があるんじゃね?
一応数万の兵を指揮したことがあるし秀頼の親戚だし

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/20(日) 09:09:46.77 ID:Gz9sJK3s
信雄よりかは信頼できそうな信包と長益は数万の兵を率いたことは無さのそうだしな

313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/20(日) 10:09:28.13 ID:cyZSIvEB
信雄が率いるぐらいなら、ぶっつけ本番で秀頼が率いたほうがましなレベル

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/20(日) 10:48:43.10 ID:e1ctvNHX
戦場の空気を知らない秀頼よりかはそれを知る信雄の方がマシってことか

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/20(日) 12:27:39.76 ID:PI3YbuSF
初陣の若者にいきなり大軍を与えて高度な作戦させようとした結果が
あの小牧・長久手の戦いだからな

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/20(日) 13:12:28.36 ID:NBck8DH9
>入道も若い頃は、1,2万の軍勢であれば型が出来ているかのように使い慣れたものですよ。


若い頃勝手に一万くらいで伊賀に攻め込んで大失敗したやんかと

318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/20(日) 17:13:21.44 ID:x1eyZms2
いつも思うが伊賀戦や小牧、長久手のころからの信雄を思うと成長っぷりが半端ないな

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/20(日) 17:49:51.67 ID:YJ4WxN8G
決断力はあるから欲出さなければ割と出来る子なのよね信雄
関ヶ原で、自分の判断力のあれさに流石に気づいたのか

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/20(日) 22:17:52.00 ID:5KcQmPYs
>>319
kwsk

武将の呼び名について

2010年11月10日 00:00

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/09(火) 19:17:26 ID:NY6iCV/F
武将の呼び名について

寛政重修諸家譜(江戸古本)を見たら

織田信雄 おだ のぶを」と書いてあった。

「のぶかつ」だと思っていたんだが、読みがわかってちょっと残念とも思える話。
江戸中期以降の編纂でも、今よりはまだ史料も揃っていただろうからある程度信頼は置けると思う。

そうすると「壬生義雄」も「みぶ よしを」か・・・

「明石全登(あかし てるレ登)」さんの読みに期待。




510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/09(火) 19:28:48 ID:rIxvgpeI
>>506
資料は揃ってるのかもしれないが、ルビが振ってるある資料はないからなwww

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/09(火) 20:51:54 ID:HmH2MFLB
>>506
端的に言うと織田信雄の場合、武家読みだと「のぶかつ」なのだが、
彼は内大臣にまでなった公家でもあるので、公家読みでは「のぶお」と呼ばれる場合もある。

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/09(火) 21:52:18 ID:JTobI9La
のぶおが織田家の三男坊に生まれたようです

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/09(火) 22:15:39 ID:njBPSRkv
しんおにはならないの?

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/09(火) 22:20:32 ID:y7kThAtc
それいうなら
しんゆう

大久保彦左衛門が憤慨する人

2010年08月06日 00:00

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/05(木) 18:24:15 ID:Q4AQNEZb
大久保彦左衛門といえば
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4314.html
この逸話で立花宗茂の取立てに関する憤懣を述べているが、彼にはもっと憤懣を向けている
大名があった。それは

「なんなんだよあの、織田信雄って奴は!」

「信雄が秀吉に攻められたとき、信雄は『家康頼む』と言ってきたので、家康様は加勢にご出陣され
戦にお勝ちになったのに、信雄の方は秀吉にたぶらかされて、家康様に何の断りもなく
和議を結び、その上家康様を殺そうと秘密のうちに計画まで立てた!
しかし信雄は家康様をどうしても打ち滅ぼすことは出来ず、時もたって秀吉から

『信雄とは和議を結んだが家康はどうなされるのか?どうせなら同じように和議を結ばれよ。』

と言ってよこし、家康様も

『信雄に頼まれていたからこそ和議を結ばなかったのだが、そういう事なら和議を結ぼう。』

と、停戦なさった。

そのうち信雄は秀吉に国を取られて、越前の片隅に酷い境遇で居たが、
関ヶ原では石田三成の仲間となった。家康様はこの戦に勝っても、信雄をお許しなされて
お慈悲をかけられた。

そして今度の大阪の合戦では…
『手を出さなかった』と言うだけで!何の役にも立たなかったのに!
ごごご五万石をお与えになられた!

これを家康様のお慈悲といわねば、他にどんな言葉があるだろうか!!」


色々憤る対象の多い彦左衛門さんだが、確かに信雄に関してはわからんでもないw
そんな彦左衛門さんの憤懣のおはなし。




326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/05(木) 18:27:23 ID:IMeSUMI0
ノブオ…

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/05(木) 19:10:24 ID:OkiycsXb
いや待て・・・もしかしたらノブオさんも、立花さんに匹敵する力量を有していたからこそ、権現様も厚遇したのでは
氏真と似たような晩年なのに、再評価されないね・・・常真殿は

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/05(木) 20:03:03 ID:uk9ccht2
フロイス「信長の子の御本所(=信雄)はふつうより知恵が劣っていた」

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/05(木) 20:06:40 ID:RaYRWdh+
織田は完全に保護対象だからな、徳川的に考えれば。
血統的に考えても、どうやっても押さえておきたい。
(元盟友の血筋で豊臣にも徳川にも一番近いの常真殿ですから)

330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/05(木) 20:07:19 ID:pvZN4Yxb
フロイスは宗教で人の見方を変えるから信用できない
ノブヲがキリシタンだったら知恵の回る素晴らしい人だって言うだろ

331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/05(木) 20:09:56 ID:RtfQhM4l
>>327
趣味人で生き残る技量が確かだった人としては、同族に有楽殿がいるからなあ。
ファンタジスタ氏真的な評価はあっちに持ってかれてるんじゃないかな?

332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/05(木) 22:26:02 ID:qOJhapVp
流浪の旅でも付き添った奥さんとかの話も聞かないしな。

常眞殿の(´・ω・`)な話。

2010年05月22日 00:04

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/21(金) 20:08:51 ID:JnSJYmQu
常眞殿の(´・ω・`)な話。
天正十八年某月某日の公家日記。
今日は火事があったよ!なんでも尾張内府殿のお家が全焼したらしいね。
なんでも主上の行幸を仰ぐために作った金の間も焼けちゃったんだってね。
翌日の多聞院日記
なんでも京で雷による火事があって内裏が焼けたんだとさ、くわばらくわばら
火事から三日後の多聞院日記
こないだの火事は御所じゃないらしいよ、ヨカッタよかった。

なお、この火事があったときには既に常眞殿は小田原で東海への国替えを拒否して
改易された後だったりする、という常眞殿にとって踏んだり蹴ったりなお話。
(この火事で焼けた家を特定してるのはこの日記のみで他の日記には火事があった、
としか無いので確実に常眞殿の家かどうかの裏付けは取れません)




三介殿名臣伝・土方彦三郎

2010年05月05日 00:07

726 名前:三介殿名臣伝 1/2[sage] 投稿日:2010/05/04(火) 09:34:23 ID:/Lo3VfqZ
天正12年(1584)3月、織田信雄の家老・岡田重孝は主君に呼ばれ謁見の間に向かったが、そこに信雄の姿は無く
近習の土方彦三郎の姿があるのみ。用心して広間の柱に身を寄せ、重孝は彦三郎に声をかけた。

「何やら殿が、わしを成敗されるという噂が流れておる。もし本当なら、討っ手はお主だろうと思っておったわ。」
「そんな事がある訳はござらん。もし本当だとしても、拙者ごとき若輩者には荷が重い役目。
しかし、仰せ付かったとすれば、若輩と言えども仕損じませぬ。…殿は奥の間です。さあ、こちらへ……」

重孝が奥の間に行くと、いきなり信雄から鉄砲を渡された。「新式の鉄砲じゃ。まず家老のお前に見せてやろう。」
「なるほど、これは珍しき道具。彦三郎、お主もこっちへ来て拝見せよ。」

呼ばれた彦三郎は、重孝に近づくと背後から脇差で、突き刺した。「ぐわっ!…き、貴様やはり!」
重孝も脇差で応戦しようとしたが、彦三郎に固く背中から抱きとめられ、うまく斬りつけることが出来ない。
彦三郎も、重孝を抱え込むのが精一杯で、それ以上は攻撃を加えられない。

見かねた信雄が太刀を抜き、「彦三郎、放せ!」と呼びかけたが彦三郎は、
「構いませぬ、拙者ごと斬られよ!!」覚悟を決めた信雄は、重孝に突きかかった。
「お、おのれ!!」重孝が信雄に備えようと構えた次の瞬間、彦三郎は重孝を放して身を翻し、斬り捨てた。

彦三郎の振る舞いは「上意討ち前後の働き、言葉遣い等いかにも行き届いている。」と評判を呼んだ。
その後、土方雄久と名乗った彦三郎は、小田原の役後に信雄が改易された際、独立して大名となり、
秀吉の死後、政争に巻き込まれて一時期流罪になる等、苦労しつつも家を残し、慶長13年(1608)、世を去った。

その死について「当代記」は、「日来(日頃、毎日)たはこを用いける故、喉破相果」と書いている。
恐らく記録に残る、日本初の煙害による死者である。




三介殿名臣伝・二宮千太郎

2010年05月05日 00:06

727 名前:三介殿名臣伝 2/2[sage] 投稿日:2010/05/04(火) 09:35:11 ID:/Lo3VfqZ
織田信雄に仕える若侍、二宮千太郎が褌一丁で主君の前にやって来た。当然、信雄は彼を叱った。
「明日にも戦になろうという時に、お前は何をフザけておるんじゃ!!」

「ううっ…仲間内のバクチで、身ぐるみ剥がされてしまいました…明日に備え、せめて馬・具足は返してくれと
さんざん詫びても許してもらえず、刺し違えて死のうと思いましたが、殿の御役に立つ者を戦の前に殺しては
不忠になります。かくなる上は、この恥さらしに切腹をお許し下されっ…!!」

「…言い訳に一分の理がないわけでもないか。」
そう考えた信雄は、千太郎に馬・具足と金二枚を与え、下がらせた。千太郎もこれに応え、翌日の戦では
組打ちまでして兜首を取り、信雄も彼を賞したという。


慶長5年9月15日正午過ぎ、関ヶ原。松尾山に陣取った小早川秀秋は、不審な鉄砲の音を聞き、使い番を呼んだ。
「今の鉄砲、当方に向けてのものとみた。何処が、何用あっての射撃か、急ぎ確かめて参れ!!」
「承って候。」
さっそく使い番が麓に向かうと、麓からも騎馬武者が登って来て、使い番に話しかけた。

「貴殿は、今の鉄砲についてのお使いであろう。わしは、その事についてお教えするために来た。
あれは朝からの霧で火薬が湿ったため、我らが空砲を撃ったのじゃ。安心されよと、殿に伝えてくれ。」
「いや、拙者は「麓を見て来い」と殿に言われた。伝えたければ、他の者に言ってくれ。
頂上まで行くのが面倒なら、すぐ上にご家老の平岡様(頼勝・東軍派)がおられる。ご家老に申せば良かろう。」

そっけなく騎馬武者と別れた使い番が麓で様子を見聞きすると、騎馬武者の伝言と全く違った事実が浮かび、
急いで戻った使い番は、見聞きした内容を秀秋に伝えた。

秀秋はただちに動き、関ヶ原の戦況は一変した。

大役を果たした使い番の名は、二宮与三右衛門。信雄改易後、小早川家に仕えた千太郎の、成長した姿だった。
バクチにうつつを抜かしていた若者は、信雄によって運命を変えられ、断固たる意思によって歴史を変えた。




729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/04(火) 11:21:35 ID:hAG9N5s0
>>727
麓から上がってきた騎馬武者は東軍なんだろうか西軍なんだろうか
東軍だとすると事実を隠蔽しようとした理由がよくわからん

732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/04(火) 19:25:59 ID:tji1ikTc
>>729
山麓に展開していた小早川の兵

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/04(火) 20:36:40 ID:AjBXtG6R
家中でも西軍にそのままつかせたい連中と東軍に、と思ってる連中といるだろしな

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/04(火) 21:19:09 ID:KuNaqZ16
戦場でのことだし、単なる流言や思い込みで言ったのかもしれない

信雄へ、父より

2010年03月07日 00:01

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/06(土) 20:47:05 ID:0N26YKZI
芸達者ではあるものの、武将としては無能者。
そんな織田信雄さんの逸話でも特に有名な「伊賀攻め大失敗」
彼は家臣らにそそのかされて、信長に断りもなく伊賀へ出兵。
何一つ得る事無く、敗戦。副将柘植三郎左衛門以下、多くの兵を失った。
そんな信雄に信長から送られた手紙。

信長
「上方へ出兵したら伊勢の武士・民百姓の負担になると思って、遠征を免れるために伊賀へ兵を出したのか? 
ぶっちゃけ言って、お前が馬鹿だから軍役を免れようとする国侍どもに乗せられたんだろ?
三郎左衛門まで討死させやがって……お前の覚悟次第では勘当するからな」

戦国史上、最もかっこ悪い父からの手紙。




三井寺の会合

2010年02月19日 00:14

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/18(木) 11:30:59 ID:VTzAUr8f
天正十二年の事。
この年の2月上旬には尾張の織田信雄の元に、徳川家康より酒井与四郎重忠が密かに派遣されるなど、
小牧長久手に向けての動きが活発化していた。

その頃信雄と秀吉は、近江の三井寺において会合を行った。
秀吉は信雄に向かい血相を変えて

「先年、あなたと信孝殿のご兄弟が不和になられましたが、私があなたにお味方仕り、
信孝、勝家を滅ぼし、あなたの憤りを散じたまいました。
これを見ても、あなたを尾張の太守とならしめたのは一重に、私の御奉公の賜物です。
去年あなたが受けた忠節は、尽く私一人の働きにあるのですから、あなたは私に対して
少しのご疎遠も有るべきでは無い。なのに此頃承るに、あなたは私を滅ぼそうとしているとのこと。
近頃このような情けない無体のことはありません!」

そう言い放った。信雄、大いに驚き
「其方が心配しているようなことは全く無い!」
と、即座に否定した。しかし秀吉

「それはご挨拶ですなあ。証拠が有るのですよ。」

「証拠!?」

「昔から私の身の上になにか災難がある時は、必ず夢の中で枕元に神が立ち、それを告げるのですが、
この度も長張装束を着た者が枕元に立ち、この事を告げたのです。
これには相違ござらん!!」

これに信雄は殊の外不快になり、会合の席を立って鐵鎚と言う良馬に乗り、伊勢の長島に
駆け帰った、とのことである。この時あまりに急いだためか、鐵鎚は元より老馬ではあったのだが、
城に到着するやいなや死んでしまった。

時に、信雄の家中には秀吉への内通者が多く有り、この事も信長時代から織田家に仕える
同朋衆の一人が密告したことを、夢の内容として語ったのだそうだ。

秀吉の腹芸とそれに手玉に取られる信雄、という構図がよく分かる話である。




624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/18(木) 12:49:46 ID:08J2PReu
>>623
秀吉は神仏なんて全く信じてなかっただろうから
神のご加護とか持ち出したら、そりゃわざとらしいと言うしかないね。

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/18(木) 13:04:54 ID:HO5IvSqs
その程度の挑発であっさりのるのがさすが三介殿としかいいようがないな

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/18(木) 13:23:38 ID:4rBblq9m
信雄「私は誰の挑戦でもうける!」
義冬「…………」