慶長四年の秋、九鬼嘉隆と稲葉道通の間に相論が起こった

2013年10月23日 19:41

559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/23(水) 17:41:40.50 ID:sZuTzTT8
豊臣秀吉の死後、慶長四年の秋、九鬼嘉隆稲葉道通の間に相論が起こった。

これは徳川家康の裁断により、九鬼の訴えが非理と定まった。このために、
道通は喜びに堪えず、嘉隆は無念に思い、やがて子息に家を譲って籠居した。

明くる五年の秋、家康は上杉家を退治するとして下向した。道通もこれに従うが、
家康の仰せを受けて道筋の途中より引き返し、岩出城に留まった。

家康は上方の戦いが起こるであろう事を知っていて道通を返したとのことである。
この時、道通は乗物から下りて供の侍のようにして国に帰った。

すると道中にて、いずことも知れず鉄砲の音がして、かの乗物に銃弾が当たり、
道通はかろうじて免れて帰ったということである。

――『藩翰譜』





560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/23(水) 18:27:46.95 ID:w7p2gJOY
通行料の件か >相論

561 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/23(水) 18:50:46.40 ID:y8LRRHEU
武吉「九鬼家ざまぁ」

562 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/23(水) 19:09:16.35 ID:bO0IuSJY
息子の部下(娘婿でもある)に自害させられるのと、
息子に討ち死にして先立たれるのと、どっちが幸せなんだろうな

563 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/23(水) 19:31:46.75 ID:Mh36CliO
稲葉道通って「みちとお」か「みちみち」じゃないなさすがに

伊勢
よしたかの息子「東軍につこう」
稲葉「東軍につこう」
よしたか「稲葉は嫌いだ。西軍につこう」

八幡城
よしたかの義理の息子「西軍につこう」
稲葉「西軍につこう」
よしたか「稲葉は嫌いだ。東軍につこう」

関ヶ原
よしたかの息子「西軍につこう」
稲葉「西軍につこう」
よしたか「西軍につこう・・・息子のせいで早く終わりやがった」

564 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/23(水) 19:49:48.74 ID:wimPbiCv
嘉隆は三成が口説き落としたって聞いたぞ

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/23(水) 20:00:28.58 ID:w7p2gJOY
>>563
いなばさんとよしたかくんですね

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/23(水) 20:03:28.88 ID:Mh36CliO
数年前のネタなのにもうバレた

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/23(水) 20:20:00.43 ID:w7p2gJOY
というか関ヶ原のよしたかくんの息子もいなばさんもよしたかくん本人も東軍じゃね?w

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/23(水) 20:27:47.06 ID:Mh36CliO
スマン稲葉とよしたかで自分も混乱してた
つまらんネタひっぱるのもなんだからこのへんでやめとく

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九鬼嘉隆「このうえ断れば」

2013年10月08日 19:42

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/08(火) 17:33:45.72 ID:v/+2R+XN
慶長五年、石田三成は好意を手厚くして、九鬼嘉隆の一命を請うて味方に招いたが、嘉隆は
「すでに致仕して頼むべき家臣もいない。それに老年の身で一味しても無益だ」と応じなかった。

その後も三成は再三使いを立てて「無勢ならば紀伊国新宮の城主、堀内氏善が属するであろうから、
かの手の人数を従えて、指図をなさっていただきたい」と、しきりに申し送ってくるので、

嘉隆は「このうえ断れば命を惜しむようなものだ」と、止むを得ず三成に味方し、息子守隆の
鳥羽の城を奪い、氏善とともにこの城に立て籠もった。

――『寛政重修諸家譜』




452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/08(火) 22:45:46.13 ID:1YyzmCjY
まあ、伊勢湾の通行税問題で家康を恨んでたとは書けんわな

日本丸命名の理由は、

2012年09月19日 20:33

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 21:51:04.05 ID:xbGLf+yu
朝鮮の役における『日本丸』と言えば、九鬼水軍の旗艦として有名である。
ところがこの日本丸、元はその名を”鬼宿丸”といった。
その鬼宿丸が日本丸と名を変えたのは、この様なエピソードによる

大陸出兵のため、名護屋には全国の大名の軍船が集結し、豊臣秀吉はそれを観船した。
と、ここに九鬼水軍の鬼宿丸も現れる。これを見た秀吉は叫んだ

「日本の諸大名が軍船で数多く集まったが、これ程カッコイイ船は未だ見たことがない!
この船は日本においては一番カッコイイ船という意味で、日本丸と名付けよ!」
(日本諸大名数多ク参リ候ヘドモ、コレ程恰好ノヨキ船未ダ見ズ、日本ニテハ一番トイフ心ニテ、日本丸ト名ヅケヨ)

こうして鬼宿丸は、『日の本一の日本丸』となった。

日本丸命名の理由は、カッコ良かったから、というお話である。
(九鬼御伝記)




536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 22:34:41.40 ID:ELXhib7U
のちの大和ホテルである

537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 23:13:31.85 ID:N+tsbxf8
江戸っ子はカッコいいものや凄いものを見ると「こいつは日本だ!!」と言ったらしいが…
ひょっとしてこれが由来?

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 23:18:33.64 ID:s8cq1jAA
日本左衛門もそうなのか?

539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/19(水) 00:38:28.52 ID:ddNfTXth
お江戸日本橋からの風景は江戸城と富士山が同じ構図内にあった。

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/19(水) 10:30:02.06 ID:EypCEZv5
権現様だったらどういう名になったんだろ?

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/19(水) 10:54:30.20 ID:0GaEnQMr
「日の本にちなみ『扶桑』と改めよ」

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/19(水) 15:50:36.35 ID:ob/wPDot
鬼武蔵が健在だったら首桶湾とかも出来てたんだろうな

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/19(水) 16:17:21.66 ID:+v06Lauw
血染め浜とかありそうだな

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/19(水) 19:59:23.66 ID:X+QsUgfZ
なにそのBloody Omaha

九鬼嘉隆切腹顛末

2011年05月05日 00:01

10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/04(水) 00:13:03.92 ID:nnu4rXcF
慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原の決戦が終わる。

東軍に属した九鬼守隆は家康に必死に嘆願を行い、西軍として動いたその父、九鬼嘉隆の助命を
ついに認めさせた。が、この報が届く前に、九鬼嘉隆は切腹をして果てた。
これには、このような事情があったとされる。

九鬼守隆は家康に従って上杉征伐へと向かう時、九鬼家の重臣である豊田五郎右衛門をその居城、鳥羽城の
留守居として置いた。
が、関ヶ原戦役が勃発すると九鬼嘉隆は石田三成らに与し、鳥羽城を奪わんとする。
この大殿の行動に、豊田も流石に敵し難く、戦わずに鳥羽城を明け渡した。
ところが、この豊田の行動は九鬼家の同僚たちから嘲笑された。

『おおよそ留守居として兵を持ち城を守るというのは、こういう事態の為ではないか。
いかに主君の御父君とは言え、なんと生ぬるい豊田の振る舞いであろうか!』

彼らは集まるとよってたかってこの話をし、豊田を爪弾きにした。豊田はこれを深く口惜しく思った。

さて関ヶ原が東軍の大勝に終わると、九鬼嘉隆はその身を隠した。
豊田は密かに嘉隆の行方を探り、嘉隆と行動を共にした熊野水軍の将、堀内氏善がその居場所を
知っていると聞くと、彼は早速新宮の堀内のところへ行き、こう語った

「この度のこと、長門守様(九鬼守隆)が内府公に必死の嘆願をされ、この度の軍功に変えて嘉隆様の罪を許す、
と言うことになりました。
わたくしは長門守様の命により、嘉隆様を急ぎ迎え、帰国のお供をするように命ぜられこちらに参ったのです。」

堀内からこれを聞いた九鬼嘉隆はその言葉を信じ、隠れていた答志島より出て豊田と共に帰国の途に付いた。
…と、

途中、志摩の和具と言う場所までくると、豊田は嘉隆に突然言い放った

「堀内殿に言ったこと、あれは全て嘘です。
実際には内府公の嘉隆様への怒りは殊の外深く、当家は既に滅びることに決定いたしました。
…どうか嘉隆様、ご子孫の後の栄を期せるよう御計らい給って下さい。」

嘉隆は豊田の言う事を正確に理解した。

「さらば我が首取りて、徳川殿に参らせよ!」

そして近くの洞仙庵と言う寺で切腹して果てた。

さて豊田は嘉隆の首をとって鳥羽へと帰路を進める。ところが伊勢の明星の茶屋にて、本当の嘉隆御赦免の
御教書を持った使いと行き会った。
まさか本当に許されるとは!豊田は大いに驚いたが、それは表に出さず何も知らぬ体でこの使者に応接した。
そして鳥羽に戻ると守隆の御前に参上し

「私は熊野まで行き、大隅守様(九鬼嘉隆)のお供仕ると申し出ました。
所が大隅守様は、『いかに親子の仲とは言え、一度敵となって再び対面に及ぶなどあり得る事ではない。』と
おっしゃいました。私はそれに、なにも問題の有ることではございませんと様々にお諌め申し上げ、『それならば』と
私と一緒に帰国の途につきました。ところが、ご心中では納得されていなかったのでしょう、私の気づかぬうちに
密かにお腹を召され、その上で私を呼ばれ、ご自身の首を私に与える、と仰せになりました。
そうなった以上もはや力なく、お言葉に従って此の様に…」

そう言って嘉隆の首を差し出した。

これには九鬼守隆も唖然としたが、致し方なく嘉隆の首と共にこの事を徳川家康に報告。家康も「不憫の次第である」と
首を返したという。

このしばらく後、豊田五郎右衛門の所業が発覚。九鬼守隆は激怒し豊田を鋸挽きにしたそうである。

九鬼嘉隆切腹の顛末である。




11 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/04(水) 02:11:15.88 ID:cYrjQdhY
どうしてバレた・・・って人の口に戸は立てられぬもの。
しかし、大殿じゃなくて笑った同輩に復讐すべきだろ、普通は

12 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/04(水) 10:25:16.61 ID:CX5ggUOf
ちょっと悪い話ところか、かなり悪い話だな……。

13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/04(水) 10:49:07.42 ID:hi4U/LRf
これでは鋸挽きにされてもしかたないわな。

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/04(水) 12:09:38.99 ID:kPdA4y9I
こりゃひどい

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/04(水) 12:50:21.49 ID:sgc4N9xr
これってつまり、主君をだまし討ちにしたんだよな
いったい何がしたかったのやら

16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/04(水) 13:01:00.57 ID:fTGb8jWK
家中で嘲笑される原因となった嘉隆への意趣返しじゃねーの

17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/04(水) 14:24:38.60 ID:Owk1gkJk
自分のちょっとした言動が、相手を予想以上に傷つけるんだよな
そして痛いしっぺ返しを喰らう
九鬼親子はとんだ災難だけどさ

豊田は忠臣ぽいのに、まわりは追い込むような真似をしちゃいかんわな
あとでまわりの連中はどう思ったんだろうな

18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/04(水) 14:38:31.09 ID:CX5ggUOf
忠臣……かぁ?

メンタル弱くて保身第一な様にしか思えない。
上手に嘘をついて事態を好転させられる技量があるならともかく、
その技量が無いのに嘘を重ねたせいで、自爆しただけっぽい。

19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/04(水) 15:26:34.40 ID:+M2qyL64
後の成り行きはアレだけど、発端の城明け渡しの件は実際問題として
考えたら判断難しくはあるな。
特に九鬼なんてほとんど嘉隆一代で成り上がったんだし、真田の小松さん
みたいな鬼嫁くらいじゃないとなかなか突っぱねるというわけにもなあ。

20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/04(水) 16:00:59.27 ID:9NeyyLrr
せめて一当て程度でも戦ってれば多少の名分も立つもんだけどね

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/04(水) 16:27:38.76 ID:yV0/qDoC
城の明け渡し自体は仕方ないかもだけど、
結局、嘉隆の為に動いているわけでも守隆の為に動いてるわけでも、
自分に明確な目的(大関、宇喜多系でもいいから)があるわけでもなく、
向ける相手の違う恨みと保身のために動いてるから、人間らしいっちゃらしいんだが、
自業自得で同情できない気がする。

尾張国毛呂崎攻防戦

2009年10月14日 00:03

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/13(火) 19:55:20 ID:YR4zQCpX
九鬼から見た悪い話、ということで一つ。


尾張国毛呂崎(現愛知県知多郡南知多町師崎)には、こんな話がつたわっているそうだ。

関ヶ原の時のこと。尾張の沿岸地帯は、西軍、九鬼嘉隆らの水軍によって焼き討ち、略奪が
頻繁に行われた。奪った物資は大垣城に集められていたという。
まさに海賊と呼ぶにふさわしい、この九鬼の船団が、ついに毛呂崎付近にも現れた。

毛呂崎の住民達は焼き討ちだけは免れようと、九鬼の軍船に毎日酒と肴を差し出し、
これにより攻撃される事だけは免れた。

そんな時に、家康の旗本千賀孫兵衛、駿河より九鬼水軍の監視の隙を突き、
船にてこの毛呂崎まで侵入した。
住民達は大いに喜んだが、いかんせん千賀はあくまで偵察部隊であり、率いる人数も
甚だ少ない。

これに毛呂崎の者ども
「ご人数が集まらないうちは、九鬼の船がこの浦に入ってこないよう、酒肴を届ける事を
続けましょう。」
と進言する。

ところが千賀孫兵衛、
「わしが来たからには、そのような事をする必要は無い!」
と、言い切った。
そして住民に協力させ、沖の船から見える場所で突然、多数の旗や馬印を一斉に立てさせた。

九鬼嘉隆は、洋上よりこれを見て驚いた
「いつの間にあんな多数の軍勢が!?さては我等は計られたか!?」
九鬼側ではこの突然現れた軍勢の実態がつかめず、手を出しかねた。

そうしているうちに毛呂崎には、関東より進軍してきた小笠原安元、信元らが、また
大野常滑の東軍派であった戸田三郎右衛門、清水権之介らも駆けつけ、
もはや九鬼の軍勢では、完全に手を出せない状況となり、嘉隆は何の手出しも出来ないまま、
引き上げて行ったとのことである。

しかし酒と肴を貢がれ一時的におとなしくしているとは、九鬼水軍、まるで昔話の鬼のようである。
そんな、九鬼嘉隆追い返される。の一席。




464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/13(火) 20:29:44 ID:TeatU8dt
九鬼勢は海の上にいてこそ脅威だが、精々4,5百人だったろうから
下手をすると地上で囲まれて全滅。

長々と伸びた家康軍の戦線分断、進軍遅延には、
寡勢で十二分に目的果たせたのでは。

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/13(火) 20:31:41 ID:K0I1Wn2w
おお、元駿河水軍の千賀さんか

466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/13(火) 20:39:42 ID:nUUxJgJB
九鬼っていっても所詮留守番兵主体だろうし。
精鋭は息子とともに東軍に従軍。夜討強盗程度の戦が関の山。

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/13(火) 23:00:38 ID:L5S2/YMC
上陸て少数の留守居に負けちゃった海賊もいるしなぁ
それこそポンジュース県に

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川でも戦った海賊

2009年10月08日 00:10

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/07(水) 21:26:06 ID:40CrtiVF
川でも戦った海賊

織田信長の軍を二度にもわたって撃退し、信長の弟、彦七郎信興、
あまたの重臣らを屠った伊勢長島の一向一揆門徒の戦意は盛んであった。

というのも木曽川をはじめとして三本の河川を生かした自然の要害の地にあり、
浅瀬を渡ろうとする織田軍の兵士らは、地の利を知り尽くし半裸で機敏に活動する
宗徒の兵によって、鎧を着たまま泥の中に引きずり込まれ、
もがくうちに次々と討ち取られていった、いわばゲリラ戦だったからである。

天正2年7月、朝倉、浅井を滅ぼし、意を強くした信長の大軍7万は、この地に襲いかかった。
次々に小城、砦は力攻めで陥落させていった。
しかし主城である長島は容易には落とせず、止む無く包囲しての兵糧攻め、
長期戦の様相を呈してきた。

焦燥を露わにする信長であったが、志摩を領する水軍の将、九鬼嘉隆が案を奏した。
果たして効あるや否や疑心暗鬼ながら九鬼の水軍に信長は先陣の任を与えた。

九鬼嘉隆率いる水軍、小舟を先頭に、関船、安宅船を連ね広くもない川を慎重に遡上し始めた。
浅い泥の河である。座礁を期待して見守る一向宗徒をしり目に、長島城の城壁のすぐ傍までに
船団は達した。そこで安宅船は、ついには浅瀬に乗り上げてしまった。
一向宗徒らが盛んに鉄砲、矢を射かける中、座礁した安宅船を砦とし、次々に織田軍の兵士らは
長島城内に攻め込んでいった。
また安宅船の船上から、九鬼嘉隆自慢の長鉄砲の一斉掃射により、城の城壁は
次々に砕かれ破壊されていった。
ここが正念場と一斉に小舟に分乗した織田の大軍、城内にどっと攻め込み、
次々と一揆軍を討ち取っていった。
こうして精強を誇った伊勢長島の一向一揆は、信長の前に屈したが、この和睦、
すんなりとはいかず、信長の兄弟二人が殺される散々な始末となった。
情け深き信長公であったから、二万人の一向宗徒らを、遂には焼き殺し冥土に
送って差し上げたのであった。

この川戦を予測した九鬼嘉隆、随分と前から志摩の狭く入り組んだ海において、
自らの水軍に艦隊編成、帆の操作、舵操船、漕ぎ手の気合、船上からの射撃、
等の特訓をしてあらかじめ鍛え上げていたのである。





210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/07(水) 21:52:41 ID:6y4S17wS
> 座礁した安宅船を砦とし、次々に織田軍の兵士らは
> 長島城内に攻め込んでいった。

海兵隊みたいな発想だな

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/07(水) 21:53:21 ID:bzIM0QGD
>>209
重箱の隅だが、一向宗なら行き先は冥土ではなく極楽浄土だな。
(浄土真宗=一向宗には死後の世界として冥土という概念はなくあるのは極楽浄土のみ)


九鬼嘉隆の関ヶ原

2009年10月08日 00:08

214 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/06(火) 23:19:23 ID:f4wnjmlk
九鬼嘉隆の関ヶ原

九鬼嘉隆は、海賊の親玉、歴戦の水軍の司令官として有名であるが、
実際の彼は、線の細く物静かなやさおとこであったという。
関ヶ原の折は、隠居の身を押して敢えて西軍に属した。
これには諸説いろいろあるが、若年時からのライバル、遺恨のあった
小浜民部が家康の家臣となり水軍の長となったことも大きかったとか。

九鬼嘉隆起が久方ぶりに率いる数十隻の安宅船、軍船は、伊勢から遠く
尾張までの海を狼のごとく徘徊、沿岸の村々に散々に火をかけ
ゲリラ的に荒らしまわった。
関ヶ原を目指し江戸から西に戻ってきた家康には、背後から突かれる不安で
慄かせた。
この時、怒った家康、小浜民部、或いは加藤嘉明に退治するよう画したが、
とても海上ではこの老将には太刀打ちできないことを小浜民部から知らされた。

ところが九鬼嘉隆の跡継ぎの九鬼守孝は、会津征伐より家康につき従っていた。
これを僥倖とした家康は、守孝に命じ、九鬼嘉隆が奪い取った鳥羽城を
再度奪い返すことに成功した。

さすがの水軍の王、生え抜きの海賊も、本拠地を失い、船をねぐらとして
海上を当てもなく彷徨う死軍となった。
最後には、補給を失い、行き場を失った九鬼嘉隆、
息子の助命があったにもかかわらず腹を切る羽目になってしまった。




215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/06(火) 23:33:36 ID:Ruq+gpKQ
確かに無念だったろうが、
歴戦の水上の勇者(しかもイケメン)という人物像や
彷徨える海賊というロマンあふれるイメージで、
悪い話のはずなのに妙に格好良く感じてしまうなw


216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/06(火) 23:44:50 ID:YCQ7ef3c
小牧長久手のときは、徳川水軍が九鬼水軍をボコボコにしてたんだがな。


217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/06(火) 23:48:04 ID:adg7Fi4W
>実際の彼は、線の細く物静かなやさおとこであったという。

そのうち戦国無双キャラになりそう

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/07(水) 00:00:15 ID:DC+t3fnt
>>214
確か、守隆の重臣が勝手に切腹するよう沙汰したんだよな。
で、そのことを知った守隆は激怒してその重臣を鋸引きの斬首という武士への死罪としては
かなり異例の方法をとったって話をどこかで読んだ。

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/07(水) 00:30:01 ID:DouelOyp
>>216
蟹江ときは九鬼はん陸に上がって干上がってたし

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/07(水) 00:43:15 ID:6y4S17wS
>>219
あれはそれ以前に、制海権を全く握れず、蟹江に上陸せざるを得なくなったって事だよ。

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/07(水) 00:52:08 ID:XgC9RHgW
九鬼が強いエピソードはないの?
なんかかわいそうになってきたよ・・・

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小牧長久手、九鬼嘉隆の蟹江港制圧

2009年07月08日 00:23

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/07(火) 20:40:54 ID:FwZnTptV
小牧長久手の時の事である。

九鬼嘉隆は、最初織田信雄に属していた。が、秀吉の勧誘により密かに寝返えり、
蟹江港へと船を廻した。
ところが蟹江は既に、徳川水軍の間宮酒ノ丞が、その船清洲丸にて港口を押さえていた。

この時点では九鬼の寝返りは知れていない。嘉隆はいかにも友軍という振りをしつつ、清洲丸に
近づき、「舳先を相手の船に軽くぶつけろ。」と、命じた。ぶつかった。

双方の船が少々破損した。そこで九鬼家の家臣村田七太夫が

「うっかり操船を間違えてしまい、大変申し訳ないことをしました!そちらは大丈夫でしょうか!?」

と、謝罪のため小船に乗り清洲丸に向かった。清洲丸では村田を出迎えるため、船頭の
間宮が船側に出てきた、

「今だ」

九鬼の船より鉄砲が一斉に放たれた。田宮たち船側にいたものは皆撃ち殺される。
そしてこの混乱を利用し、九鬼水軍は蟹江港を制圧した。

このとき九鬼側の死者は、相手の船に乗り込んだために討たれた、村田一人であったと言う。

水軍と言うより、まさに「海賊」と呼ぶにふさわしい、そんな九鬼嘉隆の戦術のお話。




119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/07(火) 20:55:19 ID:MEq9puhQ
村田さんは戦術を理解した上だったのかそれとも・・・

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/08(水) 00:28:30 ID:CHaLpk/9
>>118
上手いな…
こういう機転は武将としては貴重だろうな
海賊だけど

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/08(水) 00:50:01 ID:Nt1Q5TMN
>>118
何やら清川八郎殺しを思い出させる