猩々瓶

2017年02月12日 09:26

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/11(土) 22:23:11.24 ID:6M6UdOVU
松平上総之助忠輝卿は大神君の九男であり、越後高田六十万石の領主である。
あるとき忠輝卿は自領の名生村へ出かけ、漁を見物することにした。
集められた千人の漁師たちは「殿様が見てるなら」と秘術を尽くして網を引いたため、
魚が浜を埋め尽くすほどの大漁。
忠輝卿もおおいに機嫌が良くなり、魚を料理させた上で家臣と漁師に酒をぞんぶんにふるまった。

おかげで一同、大騒ぎした上で酔い潰れてしまったのだが、
村の住人である庄左衛門、異名を“今猩々”という男だけが素面である。
これを見て奉行、「お前は下戸なのか、なぜ飲まないのだ」と問うと、
男「酒は大好きなのですが、いくら飲んでも酔わないのです。
今日もせっかくの心遣い、存分に飲もうと思って何杯かいただいたのですが(酔えず)、
酒が尽きたのか持ってくる人もいなくなってしまいました」という答。
これを聞いて奉行、せっかくみんな楽しんでいるのにこの男だけ酔えないとは気の毒だと思い、
残りの酒を三、四斗ほどをかき集めて飲ませた。
奉行「満足しましたか…(小声
男「もうちょっと飲めば酔えたんですけどね」
奉行「えぇ…」
しかし酒も尽き、忠輝卿も帰城することになったので、話はここまでとなった。

後日この話が評判となり、聞きつけた忠輝卿が
「さてさて不思議なことだ、こやつがどれだけ飲めるのか調べてみよ」と仰せになったので、
男を城へ呼び寄せて饗応することになった。
次の間に通された男、次々に運ばれてくる酒を飲むわ飲むわ、
六斗まで飲み干したところで「ありがたき幸せ、私は生まれてこのかた酔ったことはありませんでしたが、
お殿様のおかげで今日こそは満足しましたぞ」と言い、遂に酔った様子を見せる。
役人が「そりゃ良かった、では少し酔いをさまして帰りなさい」と伝えると、
小唄などうたってご機嫌の男、「かしこまった」などと言い、床の間の縁を枕にグーグー寝てしまった。
これを障子の隙間から見ていた忠輝卿、
「あのような小男がいくら酒を飲んでも酔わないとは不審なことだ。気の毒だが殺せ」
「えっ」
「殺して腹を割き、酒があるか確認せよ」
お殿様の言うことなので誰も逆らえず、哀れ男は殺されてしまった。

家臣たちは男の腹を割き、ついでに手足もバラバラにしてみたが、酒の痕跡は一滴もない。
これはおかしいとよく調べると、男の両脇の下に一寸ばかりの瓶が見つかり、そこから酒の匂いがただよってくる。
忠輝卿、これを打ち砕いてみよと命じるも鉄石のごとき固さで歯が立たず、そのうち口から酒がこぼれてきた。
その酒をあけてみると、一瓶につき三斗、併せて六斗が入っており、
逆に出てきた六斗ぶんの酒を瓶に戻すこともできた。
これを見た忠輝卿、この世にふたつとない宝を得たといって喜び、猩々瓶と名付け、
その後は身から離さず持っていたという。

~掃聚雑談

捨て童子さんのちょっと悪い話



599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 09:13:54.62 ID:9kYINmyX
>>594
寝てるならそのまま身ぐるみはげばいいだけじゃん
殺すこたぁないだろw

600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 14:06:35.43 ID:doLJSv2v
>>594
御伽噺の世界だw

601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 14:51:03.57 ID:b1Rp+1Iz
>>599
胃の中を見たいからね、しかたないね
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しかしながら、忠輝卿は

2017年01月22日 17:11

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/22(日) 02:28:04.25 ID:lYSVfIwg
またある時、紀伊頼宣卿(徳川頼宣)が忠輝卿(松平忠輝)を御招きになり、
饗応があった折、いかなる故にか忠輝卿はとにかく機嫌がよろしからず、

頼宣卿は心配なさって自ら盃を進めるなどしなさったが、忠輝卿は酒も飲み
なさらなかった。ところが、頼宣卿が用事あって、正木小源太という小姓を

呼び寄せなさると、忠輝卿はその小姓・小源太を御覧になられて、頼宣卿に
所望なさった。これに早速、頼宣卿の御承知があったので、それより

忠輝卿は大いに機嫌がよろしくなりなさり、興に乗じて、側に有り合わせた
大砂鉢を取り寄せ、酒をなみなみと注がせて、2度まで飲みなさったという。

この小源太は後年に忠輝卿が将軍家(徳川秀忠)の御不審を蒙り、条々の
御咎めがあった時に、忠輝卿に切腹を勧め奉ったのだが、

忠輝卿は仰せになり「命さえあれば身はいかようになり行くとも、また面白き
こともあるだろう」として、切腹仕りなさらなかった。

しかし、小源太は強く切腹を勧めて、「私が御先を供に仕らん!」と言って、
忠輝卿の眼前で切腹して相果てた。しかしながら、忠輝卿は切腹仕りなさら
なかったので、小源太は犬死になった。

――『明良洪範』



536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/22(日) 05:52:52.32 ID:cyXxn47K
ひでぇw

537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/22(日) 10:15:10.59 ID:CwRxEV7E
オチがあるとはw

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/22(日) 16:53:29.04 ID:x1e3RZKr
犬死にww

忠輝卿幽閉

2017年01月18日 10:07

530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/18(水) 04:39:20.20 ID:3YTafbkP
越前少将忠輝卿(松平忠輝)は性質剛強にして武芸に達し、猛勇の大将であるが
思慮は浅く、大坂夏の陣の時に大和口の総大将に命ぜられながら、

軍場へも御出にならず、その他条々の御不審を蒙り、飛騨国へ配流されたのだが、
その後に信濃諏訪の高島城の南の丸へ移された。

この城は三方に湖水、一方には大沼があった。その中に縄手があって、左右には
柳があったため、“柳縄手”という。南の丸は本丸の下で、一方口であり湖水の端
である。館の外には塀があって塀の上には忍び返しを付け、その外に二重の柵を

付けて、柵の間は30間に1ヶ所ずつ番所を立て、昼夜番士を置きなさり、半時毎
に見回った。その厳重なことは、いかなる故にかと不審に思う人もいたという。

忠輝卿へは1ヶ年に金3百両、米3百人扶持が将軍家から御合力された。城主の
因幡守(諏訪頼水)からは、薪千駄ずつが差し上げられた。また参勤帰城や年頭
の礼として1ヶ年に2度、因幡守は南の丸に至って、御目通りがあった。

忠輝卿も1ヶ年に1度は、因幡守の館へ御出になったということである。忠輝卿は
御存生中、大坂の陣の御話しは1度もなさらなかったということである。

御預けの期間は50年余りになるから、御子も多く御出生したが、1人も柵から外
へ出さず、皆柵の内で相応に婚姻なさったということだ。忠輝卿は、御背丈は高く
もなかったが、眼は大きく御顔色は恐ろしく見え給うた。

――『明良洪範』



門は、上総主が。家は松平筑前守が

2017年01月16日 10:19

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/16(月) 04:07:34.97 ID:6MquBIxB
この一両年中(慶長19年)、諸大名は江戸の屋敷という屋敷の
家屋に美を尽くした。

門は、上総主(松平忠輝)が江戸一番であった。家は、加賀国の
松平筑前守(前田利常)が一番であった。

――『当代記』



515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/16(月) 09:48:29.75 ID:kO1E1O1y
忠輝は見栄っ張りだったか

松平忠輝と怪異

2015年02月20日 18:42

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/20(金) 04:18:30.92 ID:wXnmAeab
松平忠輝卿が在国されていた頃、領内に人の入れないという山があった。
忠輝は「我が領内に人の入れない山が有るというのは、私の国政の行き届かない故である。
私が行って、その山を実際に見てこよう。」そう言って家臣のうちから選んだ10人ばかりを
供として、その山に登った。
道なき山であったので、木の根、岩角に取りつきながらしばらく登っているとやがて頂上へと着いた。
頂上には少し平地になっていて、そこに大木が、根が朽ちて倒れているものがあった。

忠輝はその木に腰を掛け、水筒に入れていた酒を飲みながら遠近の風景を眺めつつ、ふと大木に手をかけると、
その表面松皮のようであったが、皮の重なっている間から、針金のように強い毛が生えていた。
忠輝は奇妙に思い、小柄を抜き小刀で皮を削り、剥がしてみると、その下は鈍く光っていた。

忠輝は驚き、供の者達を呼び「これは稀な木である。皆で削ってみよ!」と仰せになったため、
おのおの削る中、一人脇差しを抜いて深く刃を入れると、不思議なことにその大木、大地震のように
揺れ動き、やがれ山中鳴動した。

こんな中でも忠輝は少しも騒がず、山頂の真ん中に立って八方を見てみると、傍の嶽の上に、
風呂敷のような頭に鑑のような両眼を見開き、巨大な口を開いて火炎のような舌を動かし、
今にも忠輝を呑もうとしている怪物の姿があった。

この時、供の中に加島某という大力無双の士があった。彼はとっさに忠輝を抱きかかえ一目散に走り
山際までくると、そこから二十間(約36メートル)ばかり下まで飛び降りた。
そこは山の中腹で岩角、木の根の険しい場所であったが、抱えていた忠輝には少しも怪我を
させなかった。加島自身は、肩や肘など三ヶ所を負傷した。

この怪物は、蛟龍と呼べるような大蛇であり、忠輝が腰を掛けた大木に見えた部分は、をの蛇の体であった
のである。

またある時、忠輝卿が箱根山に遊んだ時、湖水の水底を探り見ようと水中に飛び込んだ。
この時、近習の土屋半蔵という者も続けて飛び込んだ。忠輝は水底において大きな岩穴を見つけ
その中に入ってみたが、特に変わったところもないので出ようとすると、九尺(約3メートル)もあった
入り口がひしと塞がり、出ることが出来なくなってしまった。不思議に思いその辺りを手探りに
探ってみたところ、柔らかい手触りであったので、刀を抜いて所々を突き、それから切り破って
外に出ようと切りつけた所、出口が自然と開いたためそこから外に出た。

この間、土屋半蔵は忠輝の姿が見えないため、あちこち探しまわっていた。そして船中の御供衆は
あまりに長く潜っているので大いに心配し、水上を見つめていかがすべきかと評議していた所、
一人の老臣が「各々の心配は尤もではあるが、みな殿が水練の達者であることは知っている通りである。
その上土屋半蔵もお伴しているのだから、決して心配には及ばない。」

そう言っている所に、忠輝と土屋の二人が水上に顔を出し、皆々船を寄せてこの二人を引き上げた。
その時、水面紅に染まり、皆驚いていると、しばらくして五間(約9メートル)あまりの巨大な亀の死体が
浮き上がってきたと云う。
(明良洪範)

松平忠輝の出会った怪異についての逸話である。



639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/20(金) 08:12:14.69 ID:ulOvk87j
9mの亀の死体は浮くのだろうか?

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/20(金) 08:35:23.15 ID:6vXpoJRg
体液だらけのハリボテだったんじゃね

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/20(金) 11:09:19.37 ID:7SGB3vON
アーケロンか

松平忠輝のご乱行

2014年03月06日 19:10

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/06(木) 00:25:26.40 ID:v/CCyRB7
元和元年(1615)8月5日、上洛を終え関東に戻る途中の大御所・徳川家康は、近江の水口でこのような話を聞いた

「今回、越後少将(松平忠輝)が上洛の時、森山草津あたりにおいて、幕府御家人である
長坂某、伊丹某と不慮に行き会い、理不尽にこれを殺した。」

家康はこれを聞くと、奇怪の事ゆえたちまち不快な表情になり、本多上野介(正純)を呼んで
その仔細を問うた所

「そのような風説はたしかにありますが、詳しいことは私は存じません。」

そこで家康は近江の代官である長野内蔵充、小野宗左衛門、観音寺を呼び出し、

「お前たちは事件のあった近辺にいる。必ずこれについて知っているはずだ。」

と聞くと、彼らは

「少将殿(忠輝)がこちらにお出でになるということを知らず、長坂某と伊丹某は行き会ってしまったのですが、
この時彼らの前駆の者達が、少将殿の御前を乗打するような形になってしまったのです。
そのため『狼藉、曲事である!』と言われ、彼らを殺しました。」

と証言したという。

(駿府記)

いわゆる、松平忠輝のご乱行についての記録である。





「368年後の赦免状」

2010年12月08日 00:01

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/07(火) 00:37:31 ID:T7NEcgLM
戦国時代に端を発するが落ちは昭和なので
スレチだったらすいません。またガイシュツだったら更にすいません。



「368年後の赦免状」


大阪冬の陣における旗本の切捨てや、
大阪夏の陣の遅参を理由に、
松平忠輝は家康から蟄居謹慎を命ぜられた。
忠輝は元和二年(1616年)の家康の臨終にも立ち会えず、
また葬儀参列も許されなかった。

同年七月には伊勢朝熊へ流罪、元和四年(1618年)には飛騨高山へ、
寛永三年(1626年)には信濃諏訪高島城へと移される。
夫人である五郎八姫は元和六年(1620年)に仙台へ帰り、
14年ほどの結婚生活も終わりを告げた。

そんな忠輝は諏訪で57年ほど長生きし、
天和三年(1683年)に逝去、今の長野県諏訪市の貞松院に葬られる。



さて、時は流れ、昭和五十年代に入った頃。
貞松院の山崎和雄住職から、
徳川宗家十八代当主徳川恒孝氏に書状が届けられた。

松平忠輝公が、夜な夜な夢に出てきて、
予を赦免してくれと仰有っておられるので、
ぜひご配慮願いたい」

書状はこれきりではなく、この後も再三にわたって懇願があった。

そこで昭和59年(1984年)、徳川氏は忠輝に「永対面禁止を解く」と
赦免状を出し、368年ぶりに忠輝は自由の身となった。
昭和62年(1987年)10月24日、
忠輝公三百回忌に合わせてご赦免報告会が行われ、
同年11月には五郎八姫との再会の催しが執り行われ、
伊達家の現当主の妹さんが出席したという。


368年たってようやく赦免された忠輝の
ちょっと良かったねという話。




693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/07(火) 08:54:39 ID:t9cbbySN
貞松院の住職は何者なんだすごいな

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/07(火) 09:50:56 ID:35oetDbw
徳川家、伊達家をはじめ旧大名家は現在も
なんだかんだで親交があるのか?


695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/07(火) 10:10:47 ID:v+KEU5Y3
祖父母の代くらいまでなら旧大名家ってか華族間での結婚が寧ろ普通だろ?
親戚付合いの延長みたいのもんだからそんなに驚くことじゃないと思うが・・・

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/07(火) 10:23:54 ID:rLqzIf0E
永対面禁止って、蟄居謹慎のこと?
家康と終生会えないということだと思ってた。

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/08(水) 01:45:40 ID:m9p8F0KX
>>696隆慶センセの「捨て童子」じゃ、勘当ってことで神君との対面禁止みたいな解釈だったね
で、>692エピからすると徳川当主に対面禁止のようで。

火事場泥棒、松平忠輝の場合、掘秀政の場合

2009年07月08日 00:28

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/07(火) 01:08:12 ID:d7Av7dx4
松平忠輝が火事にあった。これは多くの人々が消火に尽力したので
事なきを得たのだが、こういう時には火事場泥棒が現れるもの。
案の定、忠輝の大事な物は一つ残らず盗まれた。

それよりも前の事だが、掘秀政が滞在した宿で火事があった。
この時もたくさんの人が駆け付けたので火は消された。
ここまでは忠輝と同じなのだが、秀政は何一つ盗まれた物はなかったのだ。

この疑問に人々はこう結論を出した。
「秀政様は人格者だ。だから消火に来た者は何も盗まなかったのだろう。
しかし、忠輝様は粗暴ゆえに人々に嫌われていた。
それで火を消しに来た者は消すふりをして、ちゃっかり財産を盗んでいったのだろう。」




95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/07(火) 01:19:35 ID:FwZnTptV
>>94
んん?
堀秀政は天正18年没、松平忠輝は天正20年産まれ。
比較対象としても流石にありえないような。

比較対象としては、同じ越後国主であった、秀政の子の秀治か忠俊ではないだろうか。

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/07(火) 01:24:37 ID:d7Av7dx4
重要なのは火事で盗まれなかった事だから
同時代の人間じゃなくてもいいんじゃないか?

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/07(火) 01:37:08 ID:FwZnTptV
>>96
まあそうなんでしょうけど、ただ、秀政と忠輝は世代で言えばおじいちゃんと孫ほど違うし、
忠輝は、後に堀家が改易された後の越後に入国したって事くらいしか、接点が無いので、
ちょっと不思議な逸話だなと思ったわけでして。

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/07(火) 09:18:59 ID:dUBtBfDg
>94たぶん二代将軍秀忠の頃。
駿府か江戸で火事があった時、堀家の名物家老、堀直寄は真っ先に手勢を連れて消火に赴いた。
しかも火事場装束や火消し道具を藩邸から大量に持ち出し、
辻々に置き捨てて地元民や他藩の者が使うに任せた。

おかげで消火活動は迅速に行われ、被害が拡大せずにすんだという
大御所家康が直寄の豪胆さと日頃からの用意周到さを褒め称えた……て話と混ざってないか?