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今度織田事、依難遁天命、令自滅候

2019年06月16日 17:23

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/16(日) 01:45:44.25 ID:kYm8Gowg
足利義昭島津義久ノ物ヲ贈レルヲ謝シ、近ク京都ニ復帰セントスルヲ以テ、更ニ義久ノ助力ヲ請ウ、

『薩藩旧記雑録』

今度の織田の事は、天命を逃れた難により自滅せしめたものである。それにつき、残る輩が帰洛する
ことを切々と申すので示し合わせ、きっと入洛するものである。この節にとりわけての馳走は喜悦の
ことであろう。よって太刀1腰と黄金10両が到来したことには喜び入る。なお、昭光(注釈:真木
島)と明秀(注釈:一色)が詳細を申すものである。

(今度織田事、依難遁天命、令自滅候、就夫相残輩帰洛儀、切々申条示合、急度可入洛候、此節別而
馳走可悦喜、仍太刀一腰、黄金拾両到来喜入候、猶昭光、明秀可申候也、)

     天正10年(注釈:朱書き)

         11月2日        (花押)(注釈:足利義昭


           嶋津修理大夫とのへ(島津義久

(注釈:義昭が毛利輝元を頼って京都に帰ろうとして果たせず、輝元をもって秀吉に説かせたことは
10月21日の条に見える)

――『大日本史料』



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定直を“乾内蔵允義直”となされ給う

2019年06月03日 18:15

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/03(月) 18:06:07.99 ID:LHCbPT9u
義昭(足利義昭)を都に据え置かれたが、信長と不和になって天正の初めに山城宇治にて合戦あり
(槇島城の戦い)。義昭公はたちまち敗軍して河内若江庄へ落ち行き、左京太夫義誥(三好義継
を頼みなさったけれども、どのように思ったのか城中へも入らなかった。

そのようなところで同じ若江の住人・乾太郎右衛門定直という者は、先年に義冬(足利義維)が都
から阿波へ下向した時に下った者であるが、義冬が周防へ下向した時に子細あって暇を乞い、故郷
若江に帰り義誥の旗下になっていた。定直は義昭公の有様をいたましく思い、自分の館へ招待した。

義昭公は定直の先祖を尋ねなさって、定直を“乾内蔵允義直”となされ給う。義昭公は乾の館で数日
過ごされなさったが、取り立てる人もいなかった。

――『阿州将裔記』



109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 08:55:14.01 ID:yjPfJm9C
義昭さんは信長さんの言うこと聞いとけば良かった

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 14:03:19.65 ID:19lOBpdD
統治機構パクれた時点で用済みではあるからなぁ

義昭公の御果報のほどこそ

2019年04月18日 16:17

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 07:15:51.40 ID:nuv0nMir
足利義昭公は「どうしてもこの信長を滅ぼさねば、公方の家は成り立ち難い」と思し召され、江州の
佐々木(六角)承禎、浅井備前守(長政)などと語らうと、彼らは即時に同心したため、「何時なりとも、
出陣に於いてはあらかじめ内意を聞かせる。」と申し下した。こうして両人は加勢を催し、昼夜暇なく
信長に対する敵対行動を行った。これに拠って義昭公は心強くなられ、いよいよ信長との一戦を決意した。

こうして義昭公は、御領分の人数ならびに京勢を加えて、四千騎ばかりにて都を立たせ給い、山田、
矢橋、志賀、唐崎、比良、小松、和邇、堅田などの漁船を奪い取り、数百艘にうち乗り、これにてすぐに
安土へと発向すると聞こえた。

この情報に信長は驚き、「忠が不忠になるとはこの事ではないか。しかし今日このごろの公方の御身で、
この信長を倒すなどというのは、まさに蟷螂の斧であり身の程を知らない。しかしそうは言っても、
佐々木、浅井が手を合わせるのなら、(比叡山の)山法師たちもこれに加わることにも成るだろう。
万が一公方に多勢が付いては大変である。ならばすぐに打ち立ち追い散らさん。」
そして三万余にて馳せ上り、公方勢を散々に蹴散らし、公方勢が接収した船共も悉く元通りに繋がせ、
義昭公も都へ移し、そこに警護を数多付けられた。

信長は帰陣してつらつら案ずるに「とかくこの君を都に置いていては、私の出世の妨げと成る。」と思われ、
堺に下して或る寺に追い籠め奉り、番を堅く付けて置かれた。義昭公の御果報のほどこそ、おもいやられて
あわれである。

(室町殿物語)



880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 11:25:29.89 ID:hrCSpIgA
>忠が不忠になるとはこの事ではないか

将軍をナチュラルに家臣扱いしててくっそ笑うw

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 11:41:45.66 ID:/+XOGeZR
公方謀反とか主上御謀反とか
謀反とはなんぞや

883 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/18(木) 11:44:02.74 ID:8GdWClx3
>>882
後鳥羽上皇「せやせや」

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 11:57:13.59 ID:LDmTFWvv
>>880
忠誠を尽くしてきたのに、将軍に裏切られたってことだと思うよ

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 12:42:16.48 ID:QnIcR7fO
>>882
既存の秩序体制を乱す行為

日頃思し召していた恩謝を忽ちに翻し

2019年04月17日 17:26

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/17(水) 17:03:58.26 ID:Yukg+d+g
織田信長は尾州より義兵を挙げ、近国を切り広げ、その余威を以て七道へ鉾を振るうに、その利を
得ないということ無く、日往月来、既に15,6ヶ国の太守と成った。されば江州安土と言う所に、
咸陽宮を凌ぐほどの城郭を拵えて、諸国の大名を引きつけて、朝暮にその出仕を請け、取り巻かれ
尊崇されるその様子は、ただ四海の権将に等しいものであった。(このあたり時系列が異なっている)

そのようであったので、この頃は公方を公方とも扱わず、自分の被官の会釈で取りなしており、義昭公も
日頃思し召していた恩謝を忽ちに翻し、怨をむすばん事を思し召しに成った。

ある時、信長は義昭公へ使札を遣わし、その中に
『義昭公は数年浪々ましましけるを、信長の力を以て京都に遷らせ給い、大敵の筑前義長(三好義継の事か)を
一戦の内に追い詰め、先祖代々の家督に備わり給う上は、位官に不足は無いはずです。であるのに、公卿との
交わりや、禁中の御祭り事などを、よくよく執り行われる事なく、どうして諸国の大名、小名を近づけ、
馬具、武具の類を所望され、蓄え置かれる事、更に心得がたい。今後有るまじきことです。』
そう書かれていた。

しかしながらそれから、甲州武田信玄と信長の関係が悪化し、既に甲信の兵が上洛するとの風聞があり、
信長は義昭公へ「両将の間を仲立ちされ、無事をお計りなさいますように」と望んだ。しかし公方も
御腹立ちの折節であったため少しも取り上げず。何と言う返事もしなかった。

(室町殿物語)



「在る甲斐もない身の上かな」

2019年04月16日 17:35

861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/16(火) 05:04:01.24 ID:Am9ByBAt
足利義昭公が上洛に成功し京に遷られ、武将(将軍)の家督を継がれたと言っても、尊氏公より代々
蓄積された和漢の珍器、武具の類は、三好のために一時に炎滅したため(永禄の変)、万事について
調わないことばかりであった。御領分はわずかであり、将軍の体裁にかなうほどの奉行、役人を
抱えられたが、人を抱えれば日々に負担がかかるものであり、また御道具も乏しく、かくして義昭公は
「在る甲斐もない身の上かな」と、よろずに思い乱れ給われた。

ある時、義昭公は旧臣達を集めて御談合の事あり、織田信長へ使者を遣わした。これは
「よろずの道具について、少しづつ援助してもらいたい」旨を、条数をあげて(箇条書きにして)、
杉原を使者として尾張へ下したものであった。

やがて信長にこの書状を差し上げると、彼はこれを詳細に見て「こちらから後で御返事申すであろう。」と
使者に対面せずにこれを帰した。義昭公はその後数ヶ月待ったが、遂に返事すら無く時は過ぎた。
「いかなる所存を差し挟んでいるのか」と、都において怪しくのみ思し召しに成った。

(室町殿物語)



862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/16(火) 07:53:39.76 ID:lmq9B1rw
どんだけ高い要求したのか気になる

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/16(火) 11:20:21.79 ID:6J5IrijJ
そのあと色々用意して対面したんじゃなかったか

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/17(水) 12:18:40.10 ID:PvNFj2NX
センゴクの超人信長ですら、京都関係の出費は辛そうだったな

866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/17(水) 13:12:00.11 ID:78rrwr85
信長? ああ、上京焼き討ちしたやつな。

足利義昭の最後

2019年04月13日 12:46

849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/13(土) 01:16:19.42 ID:rxTT5let
さるほどに足利義昭公は、持病に癪があったのだが、突然大きな発作を起こされて、世の常成らず
苦しまれた。されば御内の人々も、昼夜御前にあって看病した。また毛利より派遣された御伽の僧たちが、
芸州にこの事を報告すると、やがて毛利から名医が派遣された。これが医術を尽くして治療にあたったが、
前世の行いによって定まった寿命に限りがおとずれたのか、日に日に御気色衰えられた。
人々は「これではどうにも成らない」と、今更ながら驚き嘆いた。

このような中義昭公は、鑑首座という禅僧を御枕近くに召して仰せに成った

「私はたまたま武将(将軍)の家門に生を受けたと言っても、戒力薄くしてその徳備わらず、
そのため織田信長に一度救われ、厚恩謝し難く思っていたが、やがて信長自身が時めくために、
忽ち私を捨てた。しかし秀吉がそんな私を情を以て労り、どうにかこうにか光陰を送っていた所、
毛利輝元よりは大分の扶持を加え参らせ、その上種々の懇志、この世成らず、後世までも忘れないだろう。
この旨を心得ていてほしい。」

などと仰せに成ると、首座も涙にむせび、ややあって

「上意の通り、つぶさに畏まりました。さりながら、心細く思し召しに成ってはなりません。
御気色は未だ普段と変わりませんから、程なく御快気なされるでしょう。今回は御持病がたまたま
甚だしい発作を起こしたので、いつもよりも弱らせているのです。」
そう励ました。

その後義昭公は侍女を召して、「御料紙箱に色紙が2枚有る。ここへ持って参れ。」と命じ、
「首座、お主がいつぞやに色紙を望んだことが有ったが、ついとかくにして放置していた。
今はこの世の名残であるから、これを取って、形見にしてほしい。」

そう仰せられて、首座に下された。首座は頂戴し、涙を流しながらそれを見ると、そこに
古歌が書かれていた

 いずくにも こゝろとまらば すみかへよ
         ながらへばまた もとのふるさと

 朝露は きえのこりても ありぬべし
         たれかこの世に のこりはつべき

かくて2,3日あって、いよいよ衰弱されたが、暁の頃に、監物入道(柳沢元政)と侍女を召して、
密かに仰せられること暫く有って、其後は仏号をひたすらに唱えられ、明け方に眠るように臨終した。
紅顔は忽ち変じて青色の肌となって生気を失い、浮世の面影も無くなってしまった。
無常のならいでは有るが、あわれに儚く覚える。
御遺言にまかせて、火葬にされ、御骨を拾い上げ、高野山へと納められた。
御戒名は、入道なされた時の号『霊陽院昌山道休大居士』と申し奉った。

こうして御後のいとなみは、このように執り行われ、そうして御中陰が過ぎると、御局は京へと
送られた。万事、御遺言にまかせて行われた。

(室町殿物語)

足利義昭の最後についての記事。



850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/13(土) 07:56:06.56 ID:g5p7ulF5
>>849
前政権のトップにしては幸せな老後だったといえそう

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/13(土) 11:23:47.15 ID:Pbv+XVB/
確かに
人生全うできたのは大切
本人はまた違ったのかもしれんが

贔屓が強い、ということは

2017年05月05日 10:48

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/05(金) 08:40:12.58 ID:vJCIQxW/
霊陽院(足利)義昭は、贔屓の強いのは頼もしきことであり、武士の本意であるとして、上手を憎み
下手を崇敬し、いつも自分が気に入ったものを良しと定めた。

彼は乱舞を好んだが、観世彦右衛門という小鼓の上手を憎み、また当時の大鼓の上手をも憎み、
下手であっても奈良の者を贔屓した。これは、義昭が初め、奈良一乗院に居たためであったという。

親しいか疎遠かで差別するのは古からの道であり、慣れ親しむ由緒ある輩に対して、これに親しむのは
理である。しかしそのために、理を非にいたし、上手を下手に取りなすことは、すべて物事の理を
理解していない故である。

贔屓が強い、ということは善きことに似ているが、その成り行きを見ると、依怙というものに成ってしまうのである。

(士談)


足利義昭の追放

2015年02月27日 18:39

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/27(金) 00:06:52.74 ID:KNEpf6x+
永禄12年(1569)の、三好三人衆による足利義昭襲撃(本圀寺の変)の後、織田信長は在洛して
勘解由小路に武館(二条城)を構え、ここに義昭が遷移して、治世6、7年に及んだ。

このように義昭と信長は互いに深く重く思い合っていたのだが、土岐一族の明智十兵衛尉光秀の
讒言によって、義昭・信長の間は不快となり、天下の人々は皆嘆いた。
義昭は京から宇治槇島に退くが、この時両者は和解するように思われたものの、
双方に虎口の讒言(人を陥れるための告げ口)が有り和解は成立せず、義昭は河内・紀州を流浪する
体となり、その姿は誰もが愁涙を催すばかりであった。
この両国の国人たちも、信長の武威を恐れて、義昭の御座所に駆けつける者もなかった。
そのため中国は遼遠の境(畿内と遠国との境)であったので、そこに暫く御座所を定めた。

この上は天下は信長一人の政道に、皆帰伏するように成った。然る上は太政大臣にも勅許有るべきとの
叡慮であったが、一天雲なうして雨三日を期ざる所、御思慮があって、高官は子孫に譲ってほしいとの
御内証にて、右大臣さえ辞し申し上げた事は、まさに跼天蹐地(高い天の下でからだを縮め、
厚い大地の上を抜き足で歩く:慎み恐れるの意)と言うべきだろう。これこそ聖人の教えである。

(永禄記)

永禄記の、足利義昭追放についての記事である。
両者不快の原因が光秀の讒言、となっているのが面白い。



477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/27(金) 08:00:04.61 ID:/RtI4YtR
室町将軍の彷徨う感は異常
周りもなれてそう
天皇「まーた将軍さまよいだしちゃったよw」
こんな感じで

その実態はこれら全て

2014年07月13日 18:50

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/12(土) 20:14:14.74 ID:KXc9SQgL
姉川合戦、三方ヶ原合戦、長篠合戦の三大戦は、当家(徳川家)において最も険難危急のものであったが、
その実態はこれら全て、将軍足利義昭の策謀によって起こったものであった。
浅倉、武田といった大名たちを己の奸計を以って、また簒奪の志を成就せんとしたものである。

すべて、等持院将軍(足利尊氏)よりこのかた、室町将軍家は人の力を借りて功をなし、
その功成りてあと、また他人の力を借りてその功臣を除く事を以って、万古不易の良法として
国を建る習いであった。

室町将軍15代の間、この故知を用いらざる者はいなかった。そして終にはこの故知により、
国家を失ったのである。

(徳川実記)

徳川実記より、足利将軍家についての評論である。




674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/12(土) 21:03:49.05 ID:fkiG8AFP
将軍家に対して、「簒奪の志」とかどうなの…

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/12(土) 21:11:12.05 ID:6rOuTHZo
現状のトップが過去の権力者下げはよくあること
言っても徳川実紀編纂はもう幕末ごろだった気がするけど

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/13(日) 00:10:39.38 ID:imnKG5pK
足利将軍木像梟首事件の時は大騒ぎしたのに…

里村紹巴、足利義昭を取り成す

2013年02月20日 19:52

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 19:01:16.37 ID:ozj3vlf9
里村紹巴足利義昭が都にいた頃には懇志な間柄で、詩連句や和歌の御伽をして
一日中傍を離れなかったほどだが、いまは秀吉のもとで和歌の指南を務めていた。

心に義昭のことをどうしたらよいかと折々思ってはいたが、公儀に忙しく疎遠になっていた。
しかし、秀吉の機嫌をうかがって義昭のことを取り成して度々申し上げるので、
秀吉もどうにかしたいものだと思ってはいたが、天下の大将軍にして数代相続の的流なので、
並々の武士に申し付けては恐れ多いと思慮を巡らして、兎角の計らいもなかった。

ある時、秀吉は紹巴を呼んで「義昭公のもてなしを誰に任せようかと案じ続けたのだが、
尋常の大名には差し障りもあろう。毛利輝元ならば、名誉累代にして現在無双の大身だから、
これに預けることにしよう」と言ったので、紹巴は「義昭公は大慶にお思いになることでしょう」
と大いに喜んだ。

かくして義昭は移され、輝元は畏まって請待し様々に饗応した。また備後深津に御館を造り、
五千石の知行を附けた。秀吉はこれを聞いて大いに感心し「これで身上を安心なさることであろう。
だが田舎では物足りなく、退屈で暮らし難いことだろう」ということで秘蔵の御局を義昭のもとへ
参らせた。義昭は秀吉の懇志を来世までも忘れ難く思った。

――『室町殿物語』





465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 20:51:46.97 ID:K0B673KS
>>461
現在無双のTERU△

466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 21:32:27.81 ID:otbWvL4y
>名誉累代にして現在無双の大身

TERU個人の能力には全然触れてない褒め言葉でワロタ

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 22:07:35.09 ID:UCrLU+aF
と、ゆーかTERUの所にいたのを当人の希望で京へ戻したんだよなぁ

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 22:32:10.87 ID:ETjR6Mv2
>毛利輝元ならば、名誉累代にして現在無双の大身だから、

島津や佐竹なら累代の大身ってのも分かるけど、
毛利なんてTERUが実質2代目じゃないかw

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 22:43:38.91 ID:Y9dVhO/Q
まぁ義昭は鞆にいたんだし、輝元起用は出来レースだったんじゃね?

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 22:46:40.06 ID:nPgpkKPp
>>461
秘蔵の御局

絶対に秘蔵されてないだろ(´・ω・`)

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 23:15:15.85 ID:e6ubEhM2
ラスボスは将軍様と穴兄弟になりたかったんだよ。。。

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 23:38:25.79 ID:bdBW1f2C
>>468
「名誉累代」は所領のことじゃなくて、先祖代々の名誉、ってことだから、
大江広元嫡流の毛利家の家名をたたえた言葉だと思うよ?

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/20(水) 01:48:52.29 ID:od810Ey9
では殿下秘蔵の姉上を…

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/20(水) 03:56:06.96 ID:DRwA7j4S
文化の香のなさそうなド田舎に流されてどんな気分だったんだろう

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/20(水) 07:38:34.97 ID:M2m4REjN
体よく厄介者をTERUに押し付けただけのような・・・

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/20(水) 10:18:17.60 ID:7hBVIyPC
>>472
流石に嫡流ではないよ

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/20(水) 10:23:56.04 ID:ZV5H+s/J
>475
でも信長に京都を追い出されてから、ずっと世話になってから適任じゃね?

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/20(水) 12:40:11.22 ID:EsH3EX8N
ラスボスの中古払い下げとか公方様涙目

479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/20(水) 13:19:43.15 ID:79ozRLbH
薄口だと帰って塩分多いんだっけ?
・・・中古品でもタヌキとか伊達のタネ宗あたりなら気にしないかもしれん。
大内の遺産で多少は残ってないかな

480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/20(水) 13:44:49.25 ID:MT/ovAuy
田舎の落ち目に下げ渡されちゃった御局さん気の毒・・・
と思ったが、こーいうのって渡されちゃう人にもメリットあったんだっけ?

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/20(水) 17:10:41.05 ID:8DfXhC16
仮にも前の公方様だから非常に名誉なことではあるんだよね
厄介払いって側面は否定できないけど

そういえば昔戦国大名ってボードゲームで将軍様(義輝or義昭)を引くと
強制雇用&給料馬鹿高いかわりに威信ってステータスが1上がるってあったのを思い出した

482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/20(水) 20:39:11.29 ID:FU/FH/Wt
>>481
公方なんぞ飾り物と申すかッ


義昭帰洛に関する天正11年の輝元宛家康書状

2013年02月20日 19:51

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/20(水) 11:39:42.16 ID:7hBVIyPC
いい話スレで輝元と義昭の話が出てたので、義昭帰洛に関する
天正11年の輝元宛家康書状を紹介
----
公方様の帰洛について書状を受け取りました。
信雄、羽柴、その他家老の衆の請書も添えられており、即座に読みました。
拙者としては各々次第ですのでいささかも問題ありません。
他に東国に御用の際は仰せください、恐々謹言

  二月十四日 三河守家康(花押)
 謹上毛利右馬頭殿
----
足利義昭は本能寺の変の後、都へ帰洛しようと各所へ工作を行っていたが
この書状にも見えるとおり天正11年の初頭には、織田政権の合意を取り付け
帰洛は目前とも言える状況だった。

書状の主である家康は「みんなにお任せ」って感じでスルーっぽい対応。

このまま帰洛が実現すれば良かったんだけど、織田政権内部の抗争が
激化して「賤ヶ岳の戦い」や「小牧・長久手の戦い」が続発した事により、
義昭の帰洛は九州征伐後まで延びてしまったので、ちょっと悪い話だろうか。





足利義昭の最期

2013年01月05日 19:50

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/05(土) 17:51:19.54 ID:LwzvXhLM
ある時、毛利輝元が老臣を召して「公方義昭公は退屈な日々を送っている
ことだろう。かといって武家在家の人などでは安らかに伽することはできまい。
そこで我が領国の禅宗役に三人当たり一年代わりで伽を申し付ける。
この公方は詩連句を詠み秀才であると聞くから、相応の相手でなくてはならぬ」

と、命じた。老臣は承って寺領千から三千石などを寄付して、秀才の僧侶たちに
義昭を慰撫させた。義昭は大層喜び、彼等に慰めさせて一日を過ごすようになった。

それから歳月を経たある年に、鑑首座という禅律僧がいた。彼は天龍寺妙智院で
修行した悟道発明の僧であったので、義昭は仏法を皆首座に聴聞し、少しも側を
離さなかった。春秋に至っては山野の樹木、紅錦の林を飾る風情を観覧する時でも
この首座と同道して一日を過ごしていた。

さて、義昭には持病があった。この持病が殊の外悪くなり尋常ではない苦しみよう
だったので、人々は何かと義昭を労わった。御伽の僧たちが芸州へしかじかと
報せるとただちに名医が遣されて来た。医術を尽くして治療が施されたが、日々
容態は悪くなっていったので、人々は「どうなってしまうのだろう」と今になって
驚いた。そんな時に義昭は首座を枕元近くへ呼びよせた。

「我は武将の家門に生を受けながら戒力は薄く、その徳は備わらなかった。
だから織田信長に一度は救われ厚恩は感謝しきれないほどであったが、己身有世の
為にたちまちに我を排除した。そこを秀吉が情をもっていたわり、輝元が大分の扶持を
参らせ、そのうえに諸々の懇志があったことは後世までも忘れ難い。この旨を心得てくれ」

首座は涙に咽び、少し間を置いて上意を承った。そして「そのように心細く
思われますな。御顔の色はいつも通りですから程なく御快気することでしょう。
きっと御持病の程度がひどいので弱ってしまわれたのですよ」と義昭を慰めた。

その後、義昭は采女を召して「御料紙箱に色紙が二枚あるはずだ。持って参れ」と
命じた。首座は以前に色紙を望んだが今日まで打ち過ぎていた。義昭は「この世を
去ることになるから、これを取って筐に見てくれ」と言った。首座が頂戴して涙ながら
に見ると、そこには古歌があった。

「いづくにも心とまらば住かへよながらへばまたもとの故郷」
「朝露は消え残りてもありぬべし誰かこの世に残りはつべき」

二、三日経って義昭はますます弱っていた。暁方に監物入道と采女を召して
密かに話すことがしばらくあって、その後は仏号を静かに唱えていたが、明方に
眠るようにこの世を去った。遺言通り火葬にされ、遺骨は高野山に納められた。
また、かつて豊臣秀吉が田舎暮らしは退屈だろうと参らせた秘蔵の御局は中陰後に
京へ参らせた。万事遺言の通りに処理されたのであった。

――『室町殿物語』




40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/05(土) 20:32:02.34 ID:LwzvXhLM
>>39
ちなみに持病はさしこみだそうで。

義昭の暗躍

2012年06月22日 21:00

78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/22(金) 16:26:37.14 ID:/ftld+HA
義昭の暗躍


秀吉の九州攻めの最中、司祭ガスパル・コエリョは秀吉を訪問するため、先に博多で待機していた。
そこでコエリョは、同地に足利義昭がいることを知った。
秀吉が備後から連れてきていたのだ。
コエリョは日本の風習通り、贈り物を携えて彼を訪問した。


『公方様は司祭を特に優遇し、きわめて教養ある言葉を用いて彼と語らい、手ずから杯と肴を供し、
日本式の麻衣であるカタビラ(帷子)二着を贈与した。
彼は談話の間、しばしば、かつ長時間にわたって、すでにデウスの教えについては幾ばくかの事を聞いているが、それらはことごとく神聖、
また正当な宗教であり、全く道理に基づいているものと思われる。
よって自分が当初の将軍職に復帰した暁には、当日本66ヵ国の全てにおいて、デウスの教え以外には
いかなる教えも説いてはならぬと厳命するであろう。
下関においては、その地を通過する際に1、2度キリシタンの話を聞きはしたが、なにぶんにも道中のことで
引き続き聴聞できなかったことゆえ、予に説教するため修道士を派遣してくれるよう尊師に願う次第だ、
と語った』



どう見てもこの話とリンクしていると思われたので
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6516.html





足利義昭、九州にて暗躍

2012年06月17日 21:06

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/16(土) 21:29:28.94 ID:MEQFHb/L
この時の公方は足利16代(原文ママ)権大納言源義昭であった。しかれども当時は
京都が荒廃の極みであったので、義昭公はこのころ、毛利右馬頭輝元を御頼りなされて中国に御下向され、
小早川隆景の領地、備前国深津へご住居されていた。

そうではあったが、将軍家の天下の再興の望みがあったので、今年(天正12年・1584)御帰洛したいとの理由で、
去る8月に上使として一色駿河守昭秀、槇島玄蕃充昭元を以って、九州の諸将へ御内書を発した。
この時輝元からも、その二人の上使に自分の使節として柳沢新右衛門を差し添えた。

別けても大友左兵衛督義統、龍造寺民部大輔政家、島津修理太夫義久のもとに上意の趣を伝えたのだが、
この三家はこの頃鼎の如く立ち並び、闘争の最中であったので義昭を援助する余裕はなく、上意に対しての
返答をとにかく引き伸ばし、このため上使たちは何も得るものなく帰っていった。

(北肥戦誌)

ちなみにこの頃の足利義昭による九州諸侯への協力要請は実際にあった話のようで、『寛政重修諸家譜』には
「島津義久、(天正12年)9月4日、義昭また書をたまわりて義久が力を借り帰洛せむことをこわれ、康次の太刀一振、
鞍一口を贈らるる」とある。

東国では小牧長久手により秀吉の拡大が停滞していた中、西国においても足利義昭が色々と暗躍していた、
という記録である。




985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 01:39:06.80 ID:H3WCTj/O
「16代」なのは再任官を代数に数えたからか

天正11年卯月六日・毛利輝元宛足利義昭書状

2012年05月12日 21:02

135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/12(土) 09:16:33.37 ID:DUenkhcI
天正11年(1583)4月、柴田勝家と羽柴秀吉の賤ヶ岳の合戦が進行する中、
備後国は鞆にあった足利義昭が、毛利輝元に対して発した書状


『度々そちらに申し寄越したように、柴田勝家勢が既に北近江まで進出しました。
上方で合戦が起こるのは至急の事だと認識するのが肝要です。
私の方からは小林家孝、今村を上方に遣わしました。
今、この事態に対しもし油断があれば、たちまち後悔する事になるでしょう。

并びに、当家(足利将軍家)の再興はこの時にあります。別して、毛利家が軍勢を上方に出すことを
頼み入ります。

猶、この事については真木島昭光が詳しく話します。

卯月(4月)六日                   義昭(花押)
     毛利右馬頭(輝元)とのへ     』

全く同文のものを吉川元春・元長親子にも送っている。
どうもこれは、柴田勝家を助けるための行動であった模様である。義昭は自身の京都帰還を条件に、
柴田勝家に毛利輝元、徳川家康などを結びつけようとしていたようなのだ。

賤ヶ岳の合戦を前にした、足利義昭の策動の一端である。
(徳山毛利文書)




136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/12(土) 09:20:13.08 ID:4jftyOGG
ずれてやがる・・・義昭

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/12(土) 09:39:05.90 ID:DzEURu8a
輝元「ま~た始まった。さっさと秀吉にこの居候を引き取ってもらおう。」

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/12(土) 09:44:49.12 ID:gcWAO0CT
そういえば、光秀が上杉に宛てた
「上様の御上洛を手伝う約束をしてくれてありがとう」
的な手紙が、最近になって実は本能寺の変の時期に書いた手紙だったって説が有力になったらしい
この点から、光秀煽って信長殺させたのは義昭なんじゃないかって
「その時歴史が動いた」で放送してた

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/12(土) 09:53:35.18 ID:TewGXaFI
歴史が動いたは作家が自分の妄想を披露する番組でしかないような

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/12(土) 10:28:23.82 ID:6fw1/gKu
たぶん小牧・長久手の戦いの時にも同じ内容の手紙を出してるんだろうな

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/12(土) 11:11:50.64 ID:MQWBSPIs
>>138
その時期に書いたもんだったならそもそも上様って信長のことだったりしねえか?

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/12(土) 11:16:57.40 ID:qBbek2Ml
>>135
義昭=ルーピーのイメージ

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/12(土) 11:25:10.71 ID:bJ+qhSHj
義昭の書状って返事も待たずに書き散らかした代物で
後から見た人間が勝手に騒いで遊ぶ玩具以上の物じゃないよなぁ

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/12(土) 11:59:07.41 ID:gcWAO0CT
>>142
天皇か将軍にしか使われない文章ルールが使われてたからどちらかは確定らしい。
で、天皇が上洛って意味不明だから消去法で義昭宛って事を言ってた

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/12(土) 13:35:37.74 ID:WKdDn7Jl
義昭はアフォって言うよりインケツって感じ。
信長包囲網とか、たまたま信玄が死ななければ、成功したんじゃないかな。

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/12(土) 14:19:43.80 ID:pKSFgug4
信玄が死んだ時はすでに瓦解してただろ。

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/12(土) 14:38:01.07 ID:DzEURu8a
朝倉が退いて包囲網の瓦解が確定したから信玄ブチ切れしてたよね

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/12(土) 14:48:08.00 ID:gcWAO0CT
それ以前にも信長死にそうだったじゃん
秀吉光秀のチート家臣コンビのお蔭で助かったけど

150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/12(土) 16:09:35.85 ID:CtL9kiUh
つまり信玄なんていらんかったんや!
ってか信玄が死んだ後に義昭は挙兵する、という全く情報収集を欠いた姿勢で自滅しとるよね。

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/12(土) 16:14:53.12 ID:CtL9kiUh
>>149
志賀の陣のことなら、その二人は決定的働きしてないよ。
朝倉びいきの江戸期の軍談だと信長の土下座外交が決め手。
当時資料だと、帰路が雪に閉ざされる朝倉軍が根を上げて義昭に頼んで和睦。

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/12(土) 16:15:27.51 ID:1gZWadSc
一向宗と畿内の諸大名との間に渡りをつけることができたら織田家を妥当できたかもね
とはいえ、現実には包囲網もずさんで連合の実質的な盟主として活躍していたとは言い難い
情報収集力のみならず調整力の欠如からして、将軍の器ではなかったのだろう

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/12(土) 17:01:31.97 ID:dj0URJpg
そんな器量あれば幽斎様が離反しなかったろう

只今は如何如何に

2012年05月03日 21:03

7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/03(木) 11:45:07.69 ID:4oDYZnOV
秀吉は信長の仇の明智を討ち、また柴田を滅ぼしたので、もはや天下に自分の敵はないと思っていた。
そのためこの軍功の賞として征夷大将軍職が欲しいと願っていた。

その頃、足利尊氏初代将軍から十四代後の将軍足利義昭はいまだ中国地方にいたので秀吉は使者を送り
「私を養子にして下さり征夷大将軍職をお譲り頂ければ、あなた様を敬い奉り富と栄誉を回復させてあげましょう!」
(吾を養子に被成下、征夷大将軍をゆづり給はらば、敬し奉り富貴栄花をひらかせ申さん)
と義昭に訴えた。

が義昭は天然の馬鹿(天性愚生)だったのでこの絶好のチャンスに
「卑しい身分の分際でよくここに来れたな!」(卑姓の身として是推参なり)と怒ってそのまま使者を追い払ってしまった。
秀吉はムカついたがどうしようもなかったので菊亭晴季に相談して、関白に就任し朝廷から豊臣姓を賜った。

その後秀吉は毛利輝元の館に行ったときに義昭が輝元の庭の前に立っているのを見かけたのでこう言った。
「今ちょっといいかな~?かな~?」(只今は如何如何に)

義昭は手をついて腰を折り大いに秀吉を敬っている様子だったとさ。

元禎筆記より




9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/03(木) 16:24:02.56 ID:iUXj9ZBD
こんな感じか 

                       ∩___∩
     __ _,, -ー ,,             / ⌒  ⌒ 丶|     只今は如何如何に?
      (/   "つ`..,:         (●)  (●)  丶        只今は如何如何に?
   :/       :::::i:.        ミ  (_●_ )    |
   :i        ─::!,,     ハッ  ミ 、  |∪|    、彡____
     ヽ.....:::::::::  ::::ij(_::●    ハッ    / ヽノ      ___/
    r "     .r ミノ~.      ハッ   〉 /\    丶
  :|::|    ::::| :::i ゚。            ̄   \    丶
  :|::|    ::::| :::|:                  \   丶
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   :.,'    ::(  :::}:                    } ヘ /
   :i      `.-‐"                    J´ ((

10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/03(木) 16:29:41.30 ID:3gRWC64H
. 0ニニニ)而}ニニニニニ),リリニニ)
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    \\\| 炎炎炎炎炎炎炎炎炎 |
      \\| 二I二二I二二I二二I二 |
       \LI二二I二二I二二I二二」
        0」            0」

11 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/03(木) 17:34:54.24 ID:YDAW1rsX
>「今ちょっといいかな~?かな~?」(只今は如何如何に)
これ、近況聞いてるんだと思うんだが
「おう、お前んとこの景気どうよ?わいの申し出断ったんやからさぞ景気ええんやろうなあ(ニヤニヤ」
みたいな

12 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/03(木) 21:30:44.75 ID:pdWNygIe
「最近調子どう~?(ヘラヘラ」くらいの意味だろうな

13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/04(金) 17:37:48.52 ID:FjlMaFMg
>>9
糞ワロタ

足利義秋への落首

2011年09月09日 22:22

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/08(木) 21:35:22.93 ID:rlYfoPek
有名な落首のお話。既出でしたら御容赦を。


永禄8年(1565年)5月、松永・三好の軍勢により将軍足利義輝は暗殺される。
義輝弟で奈良興福寺一乗院の覚慶も厳重な監視下に置かれたが、幕臣らの働きに
より、7月末、近江国甲賀郡の和田惟政の許へ脱出した。まもなく同国矢島に移った
覚慶は、還俗して名を義秋と改め、諸国大名へ手紙による援助要請を開始する。

上杉輝虎、北条氏康、武田信玄、朝倉義景、六角承禎、畠山義綱、織田信長、斎藤龍興
島津貴久、相良義陽、etc etc

だが、どの大名も動かない。
奈良脱出に尽力した朝倉義景は上洛構想を持ち合わせず、武田信玄は遠方を理由に
拒否、上杉輝虎も武田・北条の動きを懸念し動くに動けない。一旦は講和を了承した
織田信長と斎藤龍興は再び干戈を交える有様である。そのうちにお膝元の六角氏の
様子も怪しくなり、三好軍も攻め込んで来る。やむなく京よりさらに遠方となる
若狭国へと脱出、のち越前へ移ることとなる。


二進も三進もいかなくなったこの頃の義秋を皮肉ってこんな落首が作られたという。


『こよこよと すりあけ物の奈良刀 みのながいとて 頼まれもせず』

こよこよと  →「出兵してちょうだい」という義秋の叫び
         (「うちにおいでよ」というばかりの朝倉義景のことを指すとも)
すりあけ物の →剃髪者、すなわち覚慶=義秋

奈良刀    →奈良で作られた刀、粗悪品が多く鈍刀の代名詞
        すなわち奈良興福寺にいた覚慶=義秋

みのながいとて→刀身が長いからといって  美濃の長井氏(斎藤氏の前姓)だって

頼まれもせず →誰が買うもんか  頼みにならんわ(嘲笑)


辛辣だねえ…やっぱり作者は京の公家あたり?




790 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/09/08(木) 21:39:11.13 ID:3zF9S54S
私です。

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/08(木) 21:41:39.33 ID:rlYfoPek
>>790
名乗られよ

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/08(木) 21:50:39.63 ID:lK534Zs3
>>789
思い違いだったら悪いんだけんども、義昭でねえべか

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/08(木) 21:54:23.90 ID:tJHSZLtm
>>792
義昭は
覚慶→義秋→義昭
と改名してる。「義昭」の改名は永禄11年(1568)4月15日

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/08(木) 22:01:31.70 ID:lK534Zs3
なる。ありがとうです

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/08(木) 23:34:50.44 ID:A4ZoQvuK
仮に島津、相良が動こうとしても九州だし動けないよな。

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/09(金) 01:13:25.26 ID:I8ULHjBE
足利氏は嫌われていたってことか

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/09(金) 01:17:13.74 ID:GQDIxff8
動けなかったんじゃないのかな?
三好や義栄のこともあるし

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/09(金) 01:23:34.55 ID:bG0sHAHA
大友なんかは何かある事に「ホントは都に上って公方様にご奉公したいのに大内(毛利)が邪魔して
できないんですよー(棒)」って言ってきてるなw

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/09(金) 09:29:54.32 ID:L3K9Pxy9
はるばる京都まで行って、その隙に領地を他国に落とされたりしたらそれこそ笑いものだしなあ

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/09(金) 09:56:12.94 ID:OvixDAxa
景虎さんは上洛する事を周知してから、少人数で上洛
したことあるよね

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/09(金) 10:06:20.95 ID:sOte0jDb
>>801
大内義興は上洛したけど畿内に拠点を築けないまま
尼子の活発化で帰国したんだっけ

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/09(金) 12:56:47.64 ID:PCPFy3SN
「すりあけ」は、刀の磨上げの意味もかけてんのかね

足利義昭、京を追放され

2011年06月26日 23:12

770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 01:19:47.23 ID:Jyw2RwsQ
大学の講義で聞いた話


京都を追放された足利義昭は河内の三好氏の下に落ち延びることになった。
その際、信長は羽柴秀吉を護衛として義昭に付けた。戦に負けてろくな戦力のない義昭一行の道中は
危険極まりないからである。

秀吉の護衛のおかげで、義昭は大過なく目的地の若江城まで向かっていた。
「秀吉㌧クス。このまま城まで頼む。」
「悪いけど信長さまにこの辺で帰っていいって言われてんだwwwあと自力で頑張ってwww」
「えっwwwちょwwwおまっwwww」
なんと秀吉の軍勢は三好に義昭を引き渡す前にさっさと帰ってしまった。

あたりには山賊まがいの荒くれ者がうようよしていた時代である。
義昭一行がようやく三好の下にたどり着いた時には身ぐるみはがれてぼろぼろだったとさ。

教授の言うところによれば、秀吉はこの件を気にしていたので天下を取ってから
義昭を悪いように扱わなかったとかなんとか。




771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 06:42:40.74 ID:PCFq7I1k
最後まで面倒みておけば 養子の件もOKだったかも

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 10:16:19.29 ID:I1ieeZ7O
この時だったか信長は義昭を殊更に着飾らせて立派な輿に乗せ
担ぐ者や従者はわざと貧相な者を選んで暗君・暴君ぶりを演出し
見物人の怒りを煽り信長の正当性を認めさせようとしたとか
何かで読んだ覚えがある

割れたハマグリの貝殻九つ

2011年06月26日 23:12

773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 17:23:54.46 ID:tdjm7QRm
昌山公ついでに

永禄12年(1569)4月、新将軍・足利義昭が新御所である二条城に入った。

1月の三好三人衆の本圀寺襲撃を受け、70日あまりで建築された急造品だが、金の瓦が軒を連ね、銘木・巨石が
庭園を飾り、桜並木が馬場に並ぶ豪壮な御所に義昭は満足し、手づから信長に杯と太刀を下賜した。

それから間もなくしての事、御所の門前の石畳の上に、割れたハマグリの貝殻が九つ置かれていた。
「どういう意味だろう」とみな首をひねったが、ただ一人信長のみは、この話を聞いて苦笑いを漏らした。

つまり、
九つの貝が欠ける→くかいかける→公界欠ける(世間の常識に欠ける)

の意味であり、
『 世間知らずのボンボンが新宅もろうたからて、成り上がりの尾張者に良うも騙されるわww 』

という京童一流の皮肉で、落書の様に直接的な批判でないだけに責任者の追及もできず、信長は苦笑したのだ。
(戴恩記より)




774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 18:25:42.26 ID:qa114GoS
おかざりでも反乱起こさず征夷大将軍でいればよかったのにな
もしそのまま世襲して存続してれば江戸幕府もなかったかも
徳川も関白になったかもしれん

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 18:54:46.19 ID:V6rKFqJA
信長も当初は足利将軍家を担ぐつもりだったんだよな
義昭があまりにも面倒な動きをするから足利幕府を潰す形になったけど
ありゃ信長としても不本意な結果らしいから不思議

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 19:06:43.34 ID:oRN2n1N1
畿内を完全に安定させる前に、せっかく担いできた御輿を捨てざるを得なくなった信長さん、
「御輿は軽くてパーがいい」
と思ったかどうか。

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 19:11:10.17 ID:k9duF8mx
>>774-776
そのへんの事情は最近出た「戦国時代の足利将軍」を読むと解りやすいと思う。


778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 19:28:54.56 ID:RJtwKEpJ
あまり知られてないかもしれんが、信長は義昭追放後に息子の足利義尋を推戴している

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/26(日) 20:35:16.98 ID:BohoYIwT
ただ、結局将軍は無視して、直接天皇の権威を利用する方向に移ってるよね。

足利義昭、それから

2009年07月09日 00:08

145 名前:日を召そうとした男の生涯 1/2[sage] 投稿日:2009/07/08(水) 10:27:02 ID:39N90Djn
さて、まとめブログを見ていてふと気づいたこと

足利義昭の話が 一 噺 も 上がっていない?

これは不敬だということで、ここで一つ足利義昭追放後の話でも。

1573年(元亀四年)、足利義昭は槙島城にて織田信長に対し挙兵するが敗北、
追放の憂き目に遭う。足利家の御領所は信長直轄となり、これをもって
室町幕府滅亡とする史書も多いが、実際は毛利家の庇護を受けて
得意のお手紙外交で諸勢力を煽り続けていた。
足利義昭が正式に征夷大将軍を辞職したのは1588年(天正十六年)、なんと
秀吉による九州征伐が済んだあとのこと。それまでは備後鞆の浦でしっかり
幕府は機能していたのである。室町幕府は堺幕府や朽木谷政権など何度か亡命政府化
しているが、この時期までを鞆幕府という史家もある。

さて、この間ずーっと足利義昭と信長は対立を続け、本能寺の変を聞いた時には

義昭>>『ははっワロス、自滅しやがった!!'`,、('∀`)'`,、』

とご満悦であったとされるが、実際はどうも違うらしい。織田信長は備後鞆に
何度も手紙を出し『いい加減変な意地張ってないで洛中に戻って来いよ』と
義昭帰京を促し続けていたという。織田信長はどうやら『足利将軍を追放した』と
いう紛れも無い逆臣の事実を気にしていたようだ。

だが、この申し出に足利義昭、何としても首を振らない。
足利義昭>>『やだやだ、信長側から人質を出さなきゃ余は帰らぬぞ!!』
   〃〃∩  _, ,_
     ⊂⌒( `Д´) < ヤダヤダ!
       `ヽ_つ ⊂ノ 

諦めの悪いことである。また、有名な逸話であるが後に秀吉が
征夷大将軍の位を望み、足利義昭と猶子関係を結びたいと申し出たことが
あったが…代償は国持ち大名という破格の契約ながらも義昭、頑として
首を縦に振らない。

義昭>>『やだやだ、由緒ある源氏の血統を売り渡すだなんて絶対やだ!』
      _, ,_
     (`Д´ ∩ < ヤダヤダ 
     ⊂   (       
       ヽ∩ つ  ジタバタ
         〃〃

結局、足利義昭は槙島に一万石というかろうじて大名格の隠居料を得たが
無駄に幕臣や縁者を雇っていた分、財政事情は火の車であったという。
そこでついた渾名が『貧乏公方』。信長や秀吉の申し出を甘受していれば
貧窮など無縁の存在でいられただろうに。

146 名前:日を召そうとした男の生涯 2/2[sage] 投稿日:2009/07/08(水) 10:28:51 ID:39N90Djn
そして1597年(慶長二年)、義昭は薨去するが…困ったことに葬儀の喪主をする
者が居ない。子は居るが総て出家済みであるし、前征夷大将軍の喪主が出来る
ような家臣も、前将軍の格式に合う葬儀が出来るお金も無かったという。
一応主従関係であった細川幽斎が葬儀の主催を引き受けたが、葬儀費用までは
出してくれなかったらしく、義昭の側近で鞆にも随行した柳澤元政が
費用捻出に奔走した結果、義昭の葬儀は次の通りとなった。

葬儀費用…銀子二貫匁、御龕(棺桶)銀子二百匁、火葬代三百匁
     供養代金…百二十匁。

葬儀を引き受けた寺院の僧侶いわく、
僧侶>>『なにこのシケた葬儀…本当に征夷大将軍だったのかよケチ臭えなオイ。』

早く言えば現代の貨幣価値で五千万円ほど。米一石で約十万円と換算すれば
随分寂しい話である。ちなみに、かつて自身が右腕と頼みにしていた
槙島昭光は収入が無く居候をしており、棺桶を作る職人は当初指定した
金額では集まってもくれなかったというから、幕府の末も悲惨な話である。

そんな足利義昭の、(征夷大将軍まで勤めたのに境遇が)悪い話。
踏ん切りを間違った意味でも、悪い話。





147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/08(水) 10:31:29 ID:SrX84T/Q
>>145ほうー覚慶さんやるじゃない

でも、つまり豊臣幕府成立を阻んだともいえるワケね。
後々考えたら歴史の成り行きに凄まじく影響及ぼしているんだが。


とりあえず鞆の浦再開発はんたーい

150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/08(水) 13:41:26 ID:nXyVMjZo
>『なにこのシケた葬儀…本当に征夷大将軍だったのかよケチ臭えなオイ。』

       |ミミ:::l   r‐‐ァ    r‐‐ゥ   _」  三|
        |ミミゝ'   . ̄       ̄   {,,,、 三|
      i´lミ: !   _,,.-_-       .-_、   :i 三|
      |:|ミ::ノ  .,,ィ'  `ュ    ィ"  ヽ,   | :ニ/i`l
      .!ヽ:l   . `'''''"´~ / ::. 弋''-‐.'`   |. ノi !;ノ
       i 'ゞl:::.      ./ ::   .゙‐-    i::l,,i /
         l ..|:i:::.     ;〃 ::  i,       | |';.ノ
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          /|ヽ:::::: i :^‐‐' .ノ   / /  /  `!_
          .,ィ'フ .i ;;'、:: ゙ー-‐′  / .ノ ./    -〒ヽ

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/08(水) 16:01:28 ID:bnXXmgaB
               l;:;:;:;:;:;:;:;:l;:;:;:;:;:;:;:;:`丶、;:;:;:;l
               ,l;ィ'----┴――--、、;:丶、!
            ,ノ7 '"^   ^`'   ,ィ'三ミ、_〉   格式に見合った葬儀の費用が集まらない
───‐─┬┐  {:/, ニ丶  ,r,=-、 ヾ:::::::ミヾ
  ___,,,...-‐''"| |  〃ィ'。`>ソ { ィ'。`'ァ::..  !::::::ミ:l    ただそれだけのことが義昭にとって
 ̄7     | |   l:! `~´/ ,l、  ̄´   ,. }:::::三<
  i      | |.   ll   (、 っ)     : ,l::::シ久'l   恐怖であり、同時に存在の証明でもあった
 .|   .|   | |    l   ,.,__、     ,:' f::/ン ノ/
 |   |   | |   l 、 f{二ミァ ,)    {,ツ>-‐'′
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