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藤堂新七郎の戦死

2014年06月04日 18:52

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/03(火) 21:02:30.76 ID:JXBiHXr3
元和元年五月六日、八尾若江の戦いの終わった夕方、藤堂高虎はその領地である伊賀伊勢に急使を送り
戦勝を伝え、戦死者の家族へはその次第を通知させ、その遺族の保護に注意せしめ、重臣、家中の侍たちは
勿論、陪臣・軽卒にいたるまでそれぞれに香典を送り届けさせた。
そして翌七日には大阪が落城したため、高虎は九日に兵士を帰国させ、自らは十日に入洛し、その後
八月まで滞京された。

高虎は、五月十五日には南禅寺へ、川瀬治兵衛を使者として、戦死者のための四十九日、および百ヶ日の
追善を崇伝長老に頼み、回向料六百両を供進した。
法事は寺中金地院で、七日続いて執行した。すなわち、六隊将及びその部兵に対しての各一日、
そして組外の侍たちの為に第七日目に総回向、都合七日の法事を、高虎は一里あまりを隔てる
四条の宿所から毎日参詣した。

六月二十五日の最後の法事には、戦死した大身六人の後継者を国元から呼んで焼香させた。
山岡兵部には子弟がなかったので、親類の磯野平三郎が代理を命ぜられた。

高虎も焼香を行い、斎の座についた。そこで、戦没者の、戦死の模様について様々な話が出た。
その中でも藤堂新七郎は、他家にも名の聞こえた名誉の勇者で、高名の場数が十三度、
最後の十四度目に戦死を遂げた。
彼はそれまで、何度も増禄の内意を伝えられていたが、一種の変わり者であったので、
その度にそれを辞退し、今回も出陣の前に、高虎より「二万石をお前に遣わそう」との内意に対し

「めでたく御凱旋の時なら格別ですが、今はお断り仕る!」

と言って出陣したのである。

高虎はこのことを詳しく語り、「今更ながら、これほど残念なことはない。」と、
大変に愁傷し、胸がつかえて食が喉を通らず、ついにはそのまま膳を引かせた。

八月の帰国後、戦死者の跡目相続発令の日、新七郎の子宗徳、玄蕃の子九蔵、勘解由の子小平太、
弥次兵衛の子将監を召して酒膳を供じ、その席上でも高虎は

「新七はあの時、『私にお任せなさい』と言い捨てて乗り出たのだ。その姿が今も眼前にある。」

と言って痛哭された。これに子の宗徳は勿論、一座皆、涙にむせんだ。

(開国遺事)

藤堂高虎、藤堂新七郎の戦死を嘆く、という逸話である。




441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/03(火) 22:26:19.64 ID:32k0+/xu
>>439
石川五右衛門が屋根に登って「絶景かな、絶景から...」と言った南禅寺の山門は
夏の陣で戦死した家臣の霊を弔う為に高虎が寄進した話は有名だね

賞を得るテクニック

2014年06月02日 18:55

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/01(日) 22:03:08.76 ID:fv1WmChP
大阪夏の陣のある日のこと。

前田利常の使者、北川久兵衛という者が藤堂高虎の陣に来訪し、用事を済ませての帰りがけに
合戦が始まった。そこで久兵衛もこの戦闘に参加し、敵一人を斬って、その頸を高虎の見参に入れた。
高虎が「それは前田殿への土産に持ち帰るが良い」と言うと、その言葉通り久兵衛は頸を携え帰って
利常の検分に入れたが、さしたる賞もなかった。

このことを聞いて、高虎は
「老功の士であれば『頸は当手の数に入れられよ』と言って捨て置いて帰るであろう。しかし当方では
そのまま自分たちの討った首級の中に入れるべきではないから、久兵衛の功を記して、頸を添えて
前田の陣へ申し送ることに成る。すると、前田はそれを見た以上、相当の賞をやらねばならない。

であるのに、頸を持ち帰ったために賞に漏れたのは気の毒というものではあるが、それは実は、
当然の事なのである。」
と語った。

(名将言行録)

藤堂高虎の、「賞を得るテクニック」についてのお話。




427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/01(日) 23:44:32.50 ID:fRwr0Bgg
いつの時代も正直者というか素直な人間は損をしますな

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/02(月) 01:12:34.83 ID:6JWOzLiY
我が家の老功の士も度々出先で合戦に加わるのか、
カエルやGなどを討ち取り頸を携え帰って参りますので
検分の後、恩賞としてカリカリを与えております

429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/02(月) 06:04:45.40 ID:smOvyZpp
>>428
よけい首もって帰ってくるじゃないやだー

430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/02(月) 11:30:48.01 ID:E3l0+VMc
>>428
おまえがいつまでたっても手柄たてられないから
見本を見せてあげてるだけだ

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/02(月) 13:37:14.75 ID:fLhUY3fG
わんこ「嫁くれー!」

藤堂高虎、大酒飲みには

2014年05月31日 18:50

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/30(金) 19:51:05.32 ID:JJIbmbW7
藤堂高虎は、自身は酒をあまり嗜まず酒量も浅かったが、人々を呼び集いて、
酒宴を開いて漫談することは、すこぶるこれを好み、暇があると侍臣や古老を呼び集め
酒食を饗じていた。

しかしそれでも量に関しては淡白で、特に大酒、暴酒を大いに嫌い、家中の者たちに対しては
常にこれを戒めていた。

慶長13年の正月、家中に命じた条々の第二項に

『美服と大酒は無用の失費である。酒を過ごせば病気になる。もしそれが原因で死んだ者は、
仮に成年の実子があっても家督相続は許さず、家財没収とする。』

と規定したのである。

(高山公実録)

藤堂高虎、大酒飲みには相続を許さず。というお話。




405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/30(金) 21:11:17.46 ID:XXU+jxZR
任務で酒を飲み過ぎて倒れた岡部正綱さんは藤堂家にいなくてよかったね

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/30(金) 22:02:03.61 ID:Q5ewpGDq
酒自体を禁じるのではなく酒でトラブルを起こしたらアウト、と線引きしたのがうまいな

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/31(土) 09:35:34.27 ID:i34/S51m
酒を飲み過ぎて任務をはたせなかった穴山信友さんは藤堂家にいなくてまじよかったね

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/31(土) 12:31:10.10 ID:Smlxd0tY
市松さんに迷惑かけられたとかw

和泉守は無謀の事をする男である

2014年05月30日 18:52

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 20:03:27.00 ID:LGbb3i91
藤堂高虎が渡辺勘兵衛を2万石で召抱えたことを伝聞した加藤嘉明が、このように言った

「和泉守(高虎)は無謀の事をする男である。それがしならば、2万石で2百石取りの士を
百人抱える。勘兵衛がたとえ鬼神であったとしても、侍百人が立ち向かったならば微塵と
なるだろう。」

高虎はこれを聞くと
「左馬助(嘉明)は知恵のない事を言うではないか。平侍の二百人や三百人が固めている所ならば、
踏み破っても通る敵が、勘兵衛の陣と聞いては、肝を冷やして避けるではないか。」
と言った。

(名将言行録)




392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 20:09:49.45 ID:ea/xCUnd
結果的にこの件に関しては地味加藤の方が正しかったんだよな。

393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 20:48:00.24 ID:31t4RUZ/
知略系の武将だったら相手も警戒するけど、脳筋武将は数に圧倒される

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 20:58:14.79 ID:w8YPQq8w
鬼武蔵に代表されるDQN型武将だと・・・

家康はひと目で怪しい奴と睨み

2014年05月26日 18:57

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/25(日) 20:51:22.66 ID:yhf4XPnz
小牧長久手合戦の前後の頃の話だという。
羽柴秀吉の命を受けて、藤堂高虎は敵地探索のため土工夫に変装し、もっこを担いで浜松城の付近を
徘徊した。

すると偶然、そこを通りかかった徳川家康は、さすがに眼力が明らかであったので、ひと目で
怪しい奴と睨み、近臣を遣わして高虎の身元を尋ねさせた。

しかし高虎は巧みに空とぼけ、いい加減に応答して煙に巻、急いでそこを立ち退いた。

その後、秀吉・家康の講和が成って、家康が上洛し、大納言秀長の屋敷に宿泊した時、
高虎は接待役として初めて家康と謁見した。そこで高虎は

「それがしは、いつぞやの浜松御城下のもっこ担ぎでござる」

と語った。これを聞いた家康は「なるほど」と言って頷き、その後、大いに懇切にしたという。

このような一説が、古くから伝えられている。
(洞津遺聞)

まあ2メートル近い大男が自分の城の周りでもっこ担いでうろついてたら、家康じゃなくても
怪しい奴にしか見えないとは思いますが。




372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/25(日) 21:23:24.65 ID:vSiWtMBV
おまえのようなモッコ担ぎがいるか!

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/25(日) 21:35:57.84 ID:/moa2Zuv
もっこって2人で担ぐものだよな
一方が高虎じゃバランスとれなくね?
それとも1人で担いでたとか?

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/25(日) 21:48:43.05 ID:D7j8AzfQ
前と後ろに吊るして、真ん中を担げば
天秤棒と言った方がいいかもしれないが

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/26(月) 00:02:53.84 ID:5NM/jQFE
浜松城下には小山田もっこ隊崩れのもっこ担ぎ有段者が溢れてたに違いない
みんな高虎の対になるような多聞天張りの図体をムキムキさせてたから、よほどの眼力がなくては見破れないのは確定的に明らか

376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/26(月) 05:24:24.15 ID:XDMgrguE
バランス取れる相手がいなけりゃ右腕と左腕でバランスとるしかねえな

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/26(月) 10:50:11.86 ID:euf0tPZ2
そういえば講談で関口弥太郎(関口流柔術宗家)がやってた一人で駕籠を担ぐ方法
通常より長い棒の一端に駕籠、もう一端にバランスが取れるように
石の地蔵様何体か結びつけて間を持って担ぐ
通常の駕籠かきの4倍の膂力が必要

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/26(月) 11:47:42.91 ID:/caWSDgk
もしかして歩き方や筋肉の付き方がもっこじゃないと見破ったのかね?
周囲の警戒の仕方が間者っぽかったとか

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/26(月) 11:59:57.60 ID:quWFdp62
>>378
ジョジョの奇妙な冒険にヒントが書いてあるから読んでみて

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/26(月) 14:00:10.26 ID:fXVYYiLQ
MOKKOFU(もっこ夫!)

藤堂高虎による、お灸のすすめ

2014年05月24日 20:29

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/24(土) 09:00:57.28 ID:6rgeaHRD
『晩明け、勘解由が帰ってきたのでこのように命じておいた

一、主殿の煩いも、とにかく灸をしなければ根切(完治)は出来ないものである。
  油断なく灸をするように。灸をしても悪化するようなら、それはもう時節が来てしまったものだと
  考えている。

一、仁右衛門なども、油断なく灸をして、養生しているということだ。

一、先にも書いたが、灸をしても症状が悪化するようなら、もはや是非無き状況だ。
  気ままを申し灸をせず、不養生いたすような者は、誰によらず跡継ぎを立てるわけにはいかない。
  これはこの通り伊賀伊勢の家中にも相触れておくように。

右のとおり、何れも申し触れておくように。国元では耕作、米の販売、火の用心に、油断の無いように。
なお、その他は勘解由が申し遣わす。

  卯月八日                 いつみ(和泉)

                             百々太郎兵衛殿
                             馬淵半左衛門殿 』

藤堂高虎による、お灸のすすめである。




16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/24(土) 20:09:20.21 ID:XQ2q3thv
灸でだめならあきらめるって・・・
それって血行よくしてるだけなんだが

藤堂高虎が放浪していた頃

2014年05月22日 18:51

8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/22(木) 06:38:21.32 ID:RWbobTCw
藤堂高虎が放浪していた頃、一時期その身を山科の櫻井林佐の家に寄せていたことがあった。

ある日、高虎は道の途中で無礼を働いた農民を斬ってしまい、それを見た付近の農民たちが群集して
彼を包囲した。流石の高虎も数百の農民を尽く斬ることも出来ず、その場を立ち退いて櫻井家へと
逃げ込んだ。すると群衆は後を追って櫻井家を取り囲み、形成頗る険悪となった。
しかし櫻井林佐はこの地域の名望家であったので、百方なだめすかして群衆を退散せしめ、
高虎の生命を救った。

それから、40年余りの歳月が流れた。
藤堂高虎は伊賀伊勢30万石の国持大名となり、櫻井林佐は、依然山科の土豪であった。
高虎はその旧誼を懐かしみ、「五百石で召し抱えるからこちらに参ってほしい」と伝えた。
しかしこれに、林佐は

「ご好意は、身に余って忝なく存じます。しかし、」と、これを断った。その上で
「ですが、そこまで思召していただけるのなら、今後、私の子孫が零落することが有れば、
その時にお救いして下されたい。」

そう答えた。高虎はこれを快く承知し、林佐の二人の子供、利右衛門、平右衛門の両名を津城も呼び寄せ
面謁し『申出次第、何時でも扶助すべき旨』の黒印書を渡した。

後代、文化年中、藤堂家より櫻井林佐の子孫に、年々白銀5枚づつ下賜すべき旨の辞令を発したことがある。
また文政年中には、櫻井家の親族である津の町の医師、渡辺某が、櫻井家相続を藩庁に出願して
許可された顛末が、町年寄の日記に詳しく記されている。

(伊藤又五郎役用日記)




9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/22(木) 14:12:11.40 ID:ss+K9WNr
(伊藤又五郎役用日記)は「渡した」と「後代」の間に入れるべきじゃないかな

藤堂高虎「いつも言っているように」

2014年05月21日 18:42

3 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/21(水) 11:08:22.51 ID:XYhB37jT
慶長五年頃の、板島普請の総奉行を勤めた藤堂弥二郎(氏勝)宛、藤堂高虎書状

『一、先ごろ申し遣わしたように、作事総奉行のこと、弥二郎には入念に申し付ける。
   いつも言っているように、酒は控えるのだぞ?
   (いつもの如く酒をひかえ可申候事)

 一、久助の負傷は苦しかるまじき事であるから、なお以って養生するように。
   大工屋に居たままでは心も塞いでしまうだろうから、弥治郎の所に行かせて養生させるのが良いだろう。
   だからといって、疵が本復するまで、女を側によせてはならんぞ。
   (乍去疵本復之間はをんなそばへよせ申間敷候)

 一、板島の作事がおおかた終われば、條太郎、五郎を呼び寄せ、万事相談するように。
   仔細は内膳の方に申し遣わしておく。

九月五日                  御判 』

藤堂高虎の、人情味あふれる家臣への書状である。




4 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/21(水) 21:21:50.21 ID:ZMJJzs1O
市松「酒が入ると人が変わる奴っているよね」

5 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/21(水) 22:01:24.25 ID:BuHi2HS2
>>3
その後の氏勝さんは、大坂の陣で討ち死にしてた。可愛がられてたのを恩に思ってたんだな。

藤堂高虎、投網をした犯人を

2014年05月20日 18:55

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/19(月) 19:29:38.47 ID:VEUi/lf+
ある夜、藤堂高虎の伊勢国津城の溜堀でしきりに投網を打ち漁をした者があった。

次の日、目付けの役人たちが色々と調べると、どうも藤堂家中の何者かの仕業であるらしい、
ということになった。しかし犯人を突き止める方法がないので、役人たちの評議の末、家中の
者達が所持する投網を残らず差し出させ、そのうち一番最近に、網に防水のための渋を引いた物を
証拠として、犯人を突き止めよう、ということとなった。

ところが、これを聞いた家中の投網を所有する者達は、出漁したか否かにかかわらず、
尽く皆、渋を引いて網を差し出した。このため取り調べはかえって困難となり、役人たちは
大いに困り果てた。

藤堂高虎はこれを聞いて、内心かえって快く感じられたのか、役人を咎めようとせず、
犯人を早く見つけろなどとは尚更言わず、そのままに捨て置いたそうである。
(洞津遺聞)




969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/19(月) 19:34:30.54 ID:UHRAj7wz
天網恢々疎にして漏れ漏れ

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/19(月) 19:34:50.40 ID:4N12hM7m
漁、するんだ・・・

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/19(月) 20:07:52.49 ID:cMxPPJsr
犯人は高虎

972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/19(月) 20:40:18.90 ID:+ccnCx4a
とっ捕まえたら高虎だったってオチを期待したw

雑談・藤堂高虎、人気じわり

2014年05月20日 18:53

974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/19(月) 22:25:43.71 ID:Lcck0UmS
良かったなオマエラ

【テレビ】戦国武将・藤堂高虎、人気じわり・・・大河ドラマ誘致気運高まる NHK「非常に作りがいがある」「企画のリストの中に入っている」
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1400486334/


977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/20(火) 00:27:24.42 ID:68UWpeW8
>>974
幸村の次に来るのかねえ。

978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/20(火) 00:41:46.39 ID:VByEoAZE
真田は飛ばして藤堂にしようぜ

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/20(火) 00:53:17.41 ID:RQzUvNlV
姉川での初陣から大坂の陣までの戦乱の時代、その後の平和な時代で秀忠、家光のブレーンとして、有名な
出来事の殆どに何かしら関わってるから、信繁よりよっぽど大河向きだし話も作りやすいよな。

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/20(火) 01:09:35.80 ID:JesdULt1
>>987
戦国幕末交替説が正しければ、藤堂高猷が鳥羽伏見を戦い抜くドラマになるな。

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/20(火) 01:13:19.19 ID:MRCXSsdW
世間の一般人は藤堂高虎なんて知らないか知っていても
何度も主人を変えた無節操な奴ぐらいの認識だ。

江戸時代の忠義の理念と企業の終身雇用制の元では日の目を
見ないかった高虎だけど、めまぐるしく変化する国際情勢や終身雇用制
の崩壊などを考えると時代のニーズと高虎は合致している気がする。

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/20(火) 01:38:26.92 ID:vbFNPYwb
そもそも主君が死んじゃったりお家断絶しちゃったりするから変えるのに
それを不忠と言われてもなぁ
勤めている会社が倒産したから再就職しただけなのに
倒産した会社見捨てて他に行きやがったと言われても

仕えている時はちゃんと仕事しているんだから普通に立派だと思うけど

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/20(火) 01:52:28.14 ID:JesdULt1
>>983
倒産した時だけじゃないじゃん?

主君の死に対して出家したあたりは十分忠臣の行動だから、
やっぱり「無節操」って言葉が間違いで、単に忠誠を尽くす相手を
探してただけなんだね。

>>982が言うように現代に合わせられるのも大きいけど、戦国時代は
渡り奉公が普通に認められてたことを啓蒙するチャンスでもあるね。

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/20(火) 02:01:47.58 ID:W29iPA9Q
>>980
かたじけなし

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/20(火) 02:05:11.30 ID:AMyBCs8s
馮道「五朝八姓十一君に仕えねば宰相とはいえぬ」

987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/20(火) 06:10:01.90 ID:XlPWh6pO
>>981
関ヶ原の東西交代ってのもあるという話だから黒田・真田ときたらアリかもしれない

高虎公の体は、隙間もないほど

2014年05月19日 19:12

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/18(日) 20:58:30.33 ID:Wh8Oshgl
寛永七年(1630)十月五日、藤堂高虎は死去した。
この時、森石見が湯灌の任にあたった。後に石見は、この様に証言した

『高虎公の体は、隙間もないほど一面の傷痕で、鉄砲傷も有れば槍傷もあった。
右手の薬指と小指とは尖端が切り取られていて、爪がなかった。
中指は一寸ほど短かった。
右の足の指も、爪の生え際から先がなかった。
右手の指の腹が、節立ったように、豆がいくつとなく出来ていた。このため老後になると、
指の屈伸が頗る不自由になられたということだ。これは戦場で、我知らず鞍壺を叩かれたためであろう。』

(平尾留書)

高虎の死骸を湯灌した家臣による、その証言である。



965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/19(月) 13:03:10.26 ID:RmZv/bAd
歴戦のモノノフ

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/19(月) 15:47:22.45 ID:g9BlCQ8s
平八郎「傷がないからといって武勇がないわけではないぞ」

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/19(月) 15:53:49.78 ID:hRKq4ClM
無傷の猛将も傷だらけの猛将もどっちもカッコいい

よくよく値切り候て

2014年05月18日 19:21

330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/18(日) 17:50:50.67 ID:Wh8Oshgl
元和九年閏八月、江戸幕府による大阪城建設の御手伝い普請の際、藤堂高虎はその材料の
購入に関して、馬淵半左衛門、高橋甚内らに支持した書状

『采女が申した所によると、長さ三間、幅一尺四寸、厚さ七,八寸の板一枚につき、
18匁の値段であると言うことだ。
そういうわけなので、これを一層努力してよくよく値切った上で、200枚購入するように。』
(原文:采女申候長三間、幅一尺四寸、厚七八寸在之板一枚に付拾八匁之由候間
猶此内よくよく値切り候て二百枚買ひ可申事)

(高山公実録)

藤堂高虎の値切り指令である。




331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/18(日) 18:25:57.91 ID:LVDAEJf2
さすがに叩き上げだけあって現場への指示が具体的で細かいなあ

これが権現様とか又左さんだったら同じようなことやってもやっぱケチだなって言われそうだけどw

332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/18(日) 18:29:33.98 ID:hN+O0x20
信長「ねぎり」
家康「ねぎり」
発音は同じなのに違った印象が

333 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/18(日) 19:36:46.83 ID:FKoCYoDR
昌幸「根切緊要とか言って攻めてきたからな。やっぱ家康はカス。鬼。悪魔。うんこたれ」

将軍様であっても、計算の心得は

2014年05月17日 18:56

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/16(金) 19:28:55.91 ID:jJk/7/vh
藤堂高虎は、度々三代将軍(家光)の夜話に参じた。
或夜の話の中で、高虎はこのように言った

「将軍様であっても、計算の心得は必要欠くべからざるものです。何故ならば、日本各国の
知行高、および戦時の出師人員、食糧弾薬の貯蔵高等も、詳細にご承知あらねばなりません。
もしそれを知らず、事実と相違した上意を仰せだされることなどあっては、人々はそれを聞き伝えて、
将軍の無能を謗り笑い、為にご威光を損ずるに至るであろうと存ずるのです。

ですので、将軍がお心得合ってしかるべき諸統計の概要を書き連ねて、差し上げます。」

そうして高虎は家臣の西島八兵衛に制作させた統計を、将軍に進呈したのである。

(木旦子集書)

藤堂高虎、家光に数字の大切さを説く、というお話し。




952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/16(金) 19:46:54.45 ID:3xZPkeM0
「大将は大要を心得ていれば良いのであって詳細は相応の部下にうんぬんかんぬん」
とか言う人が出てきそうな話だね。こういう考え方の違いも面白い。

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/16(金) 19:52:11.73 ID:LfJwtT99
大事成してからの3代目は添え木しないと不味いという考え

背比べの柱の疵は

2014年05月15日 18:47

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/14(水) 19:50:40.53 ID:qKg88vb0
藤堂高虎が羽柴秀長による但馬征伐で戦っていた時、最初に高虎の味方に参じたのは、
養父郡大屋村の梶尾源左衛門という郷士であった。
高虎は2年ばかりの間、この源左衛門の家を本拠として、但馬国内の一揆と戦ったのである。

ところでこの梶尾の家の大黒柱には、深く切り込んだ太刀疵がある。それにはこんな事があった。

ある時、高虎がこの源左衛門と背比べをした。すると源左衛門の方が、少しばかり背が高かったのである。
高虎はこれは無念であると、腰の刀を抜き打ちに柱に切り込んだ。その時の刀疵が、これなのである。

この刀疵の付いた柱は、記念として後代に至るまで同家で大切に保存された。
その頃高虎は、血気盛んな26歳であったそうである。

(洞津遺聞)

しかし2メートルを超える高虎より大きかったとは、源左衛門さんもすごいですね。
背比べの柱の疵は太刀疵だったのである、というお話。




312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/14(水) 21:24:06.92 ID:N4Y0g+5s
>>311
藤堂高虎ってそんなにデカかったのかw

313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/14(水) 21:32:06.47 ID:fsGfxFYl
6尺2寸だっけ。
平均身長的に、現代なら3m近い感覚だったのかね。
そりゃ就活も楽だったろうなあ…と下衆な考えがw

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/14(水) 21:50:22.68 ID:991KRTZo
3mの感覚て、それどこの巨神兵よ

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/14(水) 22:00:26.09 ID:fsGfxFYl
>>314
や、当時の人達の身長を考えるとね
今の190cm~2mとは周囲の感じ方が違うんだろうなあ、と
やっぱり大袈裟かな、ごめんw

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/15(木) 01:24:23.99 ID:glugOWNU
>>313
6尺2寸となると187cmならあり得なくもないから本当なのかな

当時の平均160cm弱だと、平成生まれの女性の平均身長と同じくらいだけど
187cmの女がいたら大女扱いだな

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/15(木) 08:01:35.26 ID:oVfsX05J
日本人のDNAじゃあり得ないから大陸出身なんだろうね

318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/15(木) 09:30:56.42 ID:r5BL7njE
中学生は学校で理科の勉強もっとがんばるべき

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/15(木) 11:43:59.52 ID:SEUPt3eH
鮭様が見てる

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/15(木) 22:57:42.38 ID:Jbk8/6bg
>>316
そんな大女が無双にいたな。

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/15(木) 23:45:44.44 ID:cBxQSNgs
真柄のかあちゃんが戦場に立っていたらどうなったかな?

この間でていた大野の芳我台は容貌怪異の怪力姫様で身長の記述はなかったか

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/16(金) 13:35:31.10 ID:TzQB5c3n
巴御前扱いじゃね?

「酒の肴をしたぞ」

2014年05月14日 18:59

933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/14(水) 01:02:20.95 ID:qKg88vb0
藤堂高虎が伊予の板島城に在城していた、ある年の9月6日のことである。

その夜、高虎は数人の侍臣に酒を振る舞い、賑わしく過ごしていたが、話の半ばに至って
突然黙りこみ、じっと耳を傾けているふうであったが、やがて座を立ちひらりと庭に飛び降りた。

皆は驚いて立ち上がったが、高虎は振り向いて手を振ってこれを制し、そのまま足を進めて
暗い庭を、向こうの堀際まで進んだ、と思う頃、「バサリ」と太刀音が響き渡り、同時に
「燈火を持ってまいれ!」と、高虎の大声が響いた。

侍臣たちは応と答えて手燭を持って駆けつけると、そこには年頃40ばかりの大男が、
袈裟懸けに斬られて倒れていた。

高虎は笑って「酒の肴をしたぞ」と言いながらとどめを刺した。

夜が明けてこの大男の詮議をしたが、結局それがどこの何者なのか解らぬままに終わった。
しかし『曲者が忍び込んだのをただ一人早くも察知し、一刀に斬って捨てられた武運の強さよ』と、
この話を聞く者、高虎の武勇に感じないものはいなかったという。

(西島八郎兵衛留書)




935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/14(水) 21:25:27.86 ID:kZIfLVmn
>>933
謎の男が結局謎のまま終わるモヤっとした感じが何か史実っぽさを感じる

吹貫の攻防

2013年12月07日 18:43

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/06(金) 22:05:55.22 ID:HIJhyBSL
大阪冬の陣の時、藤堂高虎は石火矢を撃ち込もうと、大阪において井楼を組み立て、
石火矢を城内に撃ちこむと、城中に立っていた吹貫を撃ち折り、堀の下へと落とした。

これに高虎は御機嫌と成り、

「あれは日中には回収できないだろう。夜に入ってどうにかして取り戻すだろう」

と言ったが、城中の者達は決死の回収活動をし、日中の内に堀から取り上げたという。

(高山公実録)

吹貫一つに起こった攻防戦である。




982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/06(金) 22:56:56.66 ID:OVSkYP8f
吹貫って何だろうって思ってググったけどよく分かんない
旗みたいに大切な物なの?

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/06(金) 23:09:03.73 ID:+2myElMR
旗の一種で鯉のぼりの上についてる吹流しに似たものだよ

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/06(金) 23:21:47.22 ID:J/SPIBDq
風の強いところの高速道路脇によくあるだろ

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/06(金) 23:31:14.49 ID:+0JsNAQf
高速道路の鯉のぼり亜種と違って、ヒダヒダになってるあれか

家康警護

2013年11月16日 19:16

628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/15(金) 21:24:38.46 ID:iDc7XhX1
慶長4年(1599)、伏見より、前田利家様を御見舞するため、徳川家康公が大阪の藤堂家御屋敷へ
お入りになったのは、夕方の七つ時(午後4時頃)でした。

藤堂高虎様は御門の外一町ばかり先に、お迎えに出られていました。
この時新七郎殿(藤堂良勝)、仁右衛門殿(藤堂高刑)も高虎様のお供をされていました。

高虎様は御腹巻に小手を着け、茜色の木綿の御紋付きの胴服に、革の御立付を召されておりました。

それから屋敷にお入りに成って、ご密談をされている間に、明かりを灯しました。
そのうちに、加藤殿福島殿をはじめとして、追々大名衆が御出になりました。

家康公のお供である重臣の方々を始め、大勢が入られたため、御屋敷の中は混雑で通ることも
出来ないほどでした。
しかし挑燈(ちょうちん)によって御屋敷内は昼のように明るく、大阪城辺りからは、
まるで火事のように見えたということです。

この時、御膳が出されましたが、献立は荒昆布の煮物、鯛の焼き物、イワシの辛子和え、
香の物、というものでした。御汁については失念いたしました。
家康公の重臣の方々や、諸大名にもこの御膳が出されました。
その他の人々には、兵糧食が出されました。

高虎様は夜中も、御屋敷の内外を見回られました。
御屋敷の中は、御出でになった大名衆が増え続けたため、外に溢れ出すほどでした。
藤堂家の御家中は、夜を徹して御門の外、4,5町の間を固めていました。

夜が明けると、家康公は御屋敷を出立されました。

その夜は、大阪の五奉行が家康公に対し夜討を仕掛けるべしとの評議を行ったそうですが、
藤堂家の御屋敷に大勢が詰め、厳しく用心している事が伝わったため、それを中止したのだと、
後日承りました。

高虎様もこの時は
「今夜は最大限の警戒をしなければならない。家中の者達も、必死の覚悟で警護せよ」
と仰せに成りました。

(平尾留書)

石田三成らによる家康襲撃が懸念される中、家康が宿泊した藤堂屋敷の人間が見た
その記録である。





藤堂高虎と歌

2013年11月11日 19:14

560 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/11/10(日) 21:28:17.14 ID:gwduslN5
文禄年中に、大和中納言殿(豊臣秀保)が死去(文禄4年(1595)4月16日)後、
藤堂高虎は発心し、出家して高野山へと登った。

登山の途中、高虎は

『おのが音に つらき別れの有とだに 思ひもしらで 鳥やなくらん』

との古歌を口ずさんだ。また

『旅衣 紀の路の末の哀れさに いたると鳥の音にやなくらん』

と口ずさみ、従う家臣に
「どうだ吉太夫、聞いてくれ。私のごとき身の上には、これまでこの様な歌の教養など
いらぬ事であったのだが、これから芋掘り坊主になってしまえば、このようなものを
口ずさむようになるであろうよ。」

と、戯れに語った。

高野山では高室院に落ち着いたが、院主より、
「ここまで登られてお疲れでしょうから、どうぞ休息されて下さい。
これを食べて、御気晴らしをなさって下さい。」

と、饅頭菓子を5つ持ってきた。高虎は

「さてさて、有難いことです。この新米坊主、随分と御奉公いたしますぞ!」

と笑いながら饅頭を3つ食べ、2つは吉太夫に与えた。
この高野への在山中に高虎の詠んだ歌が

『身の上を 思へばくやし罪科(つみとが)の ひとつふたつにあらぬ悲しさ』

やがて豊臣秀吉の命により高野山を下山することと成ったが、その時に詠んだ歌が

『帰るさの 道に迷わぬ燈し火も 浮世の闇をてらすばかりに』

その後、伊予宇和島において7万国を拝領した。

藤堂高虎は、高野山を下りた後は、その一代のうち、歌を詠むことは勿論、
歌の話すらしなかった。
外でそう言う話が出た時も、「私は至って武骨者ですから」とのみ言っていた。

(平尾留書)

藤堂高虎と歌についての逸話である




563 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/10(日) 23:07:10.20 ID:uZQjUsjH
秋風や 桐も葵も 葉を落とし

同じ歴史好き、仲良くやろうぜ

564 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/10(日) 23:14:46.08 ID:5M+NQJhr
藤も色あせ 咲くは菊のみ

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/10(日) 23:37:55.59 ID:VNBg96W7
>>563-564
見事に歌人だな
それオリジナル?

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/10(日) 23:49:10.70 ID:PImXkmBd
政宗の辞世の歌も、浮世の闇を照らしてたなw

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/11(月) 00:05:34.33 ID:Qevdgqic
闇の歌ふたつどうぞ

曇りなき心の月を先だてて
浮世の闇を照らしてぞゆく
伊達政宗


よわりける心の闇に迷わねば
いで物みせん後の世にこそ
波多野秀治

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/11(月) 00:12:36.15 ID:Ni5hN6dl
光の歌も教えて下さい!

藤堂高虎「それは不可なる事である」

2013年11月10日 18:57

539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/09(土) 22:35:07.53 ID:5yIshaz9
ある日、将軍徳川秀忠の御前で、僧天海がこのような事を申し上げた

「今、諸侯は従順となり、天下には事もありません。
もし皇居を伊勢に遷し、公卿百官には太廟の祭祀を行うことを職とさせれば、
則ち天子は神祇伯(律令官制における神祇官の長官)と変わりません
そうなれば、幕府の尊さは、おのずから今の天朝と等しいものとなるでしょう。」

藤堂高虎はこれを聞くや
「それは不可なる事である!

諸藩、諸将が尽く幕府に屈するのは、それが能く皇室を尊び、名分を重んじ、
それを以って萬姓の心を得ているからです。
もし天子をして神祇伯のようにしてしまえば、諸侯諸将はこれを以って名分とし、
争って兵を起し、以って天朝を侮蔑するの罪を問わんとするでしょう。

これは大乱の基であります!」

徳川秀忠は、この高虎の発言を深く然りとした。

(昭代記)




569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/11(月) 00:43:12.03 ID:63E2R6rc
>>539
天海のいい話
高虎のうつけ話

紹介ありがとう

大阪夏の陣、伊賀蜂起計画

2013年11月07日 19:13

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/07(木) 05:02:59.79 ID:cPxiqBe1
大阪冬の陣の和議の後、慶長20年(1615)春、大阪より手立てが入って、山城国笠置の国人たちと語らい、
もし再合戦に及べば、近国諸大名の留守を狙い、それらの城を焼き討ちに致すべき旨を、16人が連判した。
そして伊賀国で島ヶ原の土民・甚七と申す者その他23人がこれに一味した。

4月5日、豊臣家は大阪からの移封を拒絶し、翌6日、徳川家康は諸大名に、鳥羽伏見への集結を命ずる。
大阪夏の陣の始まりである。

甚七は伊賀国上野郡奉行・岸田荘右衛門の所に参って

「この度の御殿様(藤堂高虎)の、合戦での御勝利を祈念するため、一之宮の神前において
御湯を揚げたいと、近郷の百姓どもが申し談じております。その時は何卒、ご見聞として
近くまでお出で下さりますように。」

と願い上げた。荘右衛門は奇特な事であると、日時を約束した。

甚七は『してやったり』と喜び、拝殿の側に伏兵を置いて、岸田荘右衛門を虜として、事を起こすべしと
密々に準備を行った。

この頃、笠置の無足人(所領を持っていない武士)に、森島新右衛門と言う者があった。
先達て、藤堂高虎が伊賀と京都を往来するようになった頃から、その用を申し付けられていた。
この時、笠置は高虎の支配地ではなかったが、そこの住人である森島新右衛門は信頼の置ける
人物であったため、前年の大阪冬の陣の時、国許の伊賀から淀まで、兵糧武具等の運送を依頼したところ、
たいへん手際よくその仕事を果たしたと言う。

森島新右衛門は夏の陣においても、木津まで往来して藤堂軍の兵糧等の運送の世話をしたのだが、
その仕事をしている内に、この甚七らによる一揆の企てを聞きつけ、早速岸田荘右衛門
知らせた。

岸田荘右衛門は大いに驚き、留守居の奉行、物頭に知らせ、手立てを以って甚七以下尽く召し捕った。
これによって伊賀領内は静謐となった。
夏の陣が終わり帰陣した後、この悪党23人は磔に付された。

後で考えれば、大野主馬は郡山の城を焼き、大和国西部を乱暴した。
この時奥田三郎右衛門殿と松倉豊後守(重政)殿はは南都(奈良)を固め、その内に
水野日向守(勝成)殿が法隆寺に着陣して、大和は静謐になったのだが、これが4月下旬のことであった。
伊賀上野においてかの悪党どもが搦め捕られたのもだいたい同じ頃であり、おそらく大和と示し合わせての
蜂起を考えていたのであろう。

(元和先鋒録)

大阪夏の陣で、伊賀国でも蜂起計画があったらしい、という話である。