大森氏頼の諌言状

2009年07月13日 00:01

336 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/07/12(日) 17:05:02 ID:M0xd78OD
大森氏頼の諌言状


扇谷上杉当主上杉定正は古河公方足利成氏と盟約を結んだ。
しかし定正は古河公方を軽んじた振る舞いをしたため盟約は崩壊してしまった。
この事を知った重臣達は古河や山内上杉へ寝返えった。
この事を憂いた重臣の大森氏頼は「大森教訓状」と言う諌言状を定正に送った。
しかし定正はこの諌言状を無視して両者との対立を続けたのであった。





337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/12(日) 19:56:27 ID:1ncb5WAo
>>336

大森教訓状の概要を転載

> 1 .「大森教訓状」の概要
> (1).山内家は上杉の棟梁として(鎌倉)公方様の時代から関東諸将の尊敬比類なく、
> 配下の軍勢は20万騎である。
> 一方、扇谷家は100騎だけど、たまたま天運と道灌の器量によって天下に名を揚げ、
> 関八州に誉れを振い、
> (関東の)諸将が扇谷家に心を寄せるようになった。
> その道灌を自らの手で失ったのは、月日が地に落ちたに等しい。
>
> (2).こんな諌言をするのは、氏頼が代々の家風(家臣)で、心底から別儀(二心)があるわけでなく、
> (闘病中で、もうじき死んでしまう)今こそ、思う所を述べさせてもらいます。
>
> (3).先年(長享元~三年・1486~1488年)の山内と扇谷の対立の時は、
> 山内側は味方が無く、扇谷は公方政氏様を引き立て、長尾伊玄を従えて、
> 高見・須賀谷において、敵と戦い勝利するも、(顕定の本拠地の)鉢形は未だに滅亡していない。
> (氏頼もこれらの戦いに参加している。『相州兵乱記』)
>
> (4).それはお屋形(定正)様が勝利に慢心して公方様を見捨てたからではないでしょうか?
> どうか一番大事なことは何か?よくよく考えて下さい。
> 関東の平和は万民の悲願です。これはお屋形様一人の判断にかかっています。
> (つまり山内と和睦して下さい!!)


非常に熱い書状だ。

しかしこの大森氏頼の死後、後を継いだ孫の定頼は扇谷家を離脱し山内家と結び、
このため扇谷の要請を受けた伊勢宗瑞(北條早雲)により、その居城小田原城は攻め取られる。


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