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別所長治、織田との手切れを決断する

2015年03月10日 18:32

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/10(火) 10:31:09.37 ID:VvPq4sS2
天正6年、織田信長は西国征伐のため、羽柴秀吉を播磨へと派遣した。
信長と同盟した三木上の別所長治からは重臣の別所山城守(吉親)、三宅治忠の両人が派遣されたが、
ある時の軍評定で秀吉の屋形に行くと、秀吉はこのように問うた
「別所長治は西国の案内者となるべき人である。私は信長公のために、代官としてこちらに下向してきた。
各々には、軍立ての次第、不日に敵を滅ぼす謀などはあるだろうか?」

三宅はこれに申し上げた
「西国発向の先手は、我が別所家に仰せ付けられました。その我々が認識しているのは、今度の合戦は
一国一城の小競り合いとは格別に異なるということです。
毛利輝元は大身であり、万死一生の戦いを、五度も十度もしなければ、治まらないでしょう。
非常に手間取ることになると思います。」

その上で、別所家の考える様々な軍略を申し述べた。秀吉はこれを聞くと

「そのように延々とした手立ては、同等の軍勢があるのなら可能であろうが、敵は大勢、此の方は小勢である。
賢人の前に小人が久しく居ては恥が顕れると云う。
こういう軍はな、不意に攻めかかって五度も三度も強き働きをして敵に臆病神を付けさせねば、
早々に勝つことが難しくなるのだ。」

三宅治忠は重ねて申し上げた
「強き働きばかりでは最終的な勝利は成り難いものです。例えて言えば、歯は強く舌は柔らかいものです。
しかしその強い歯は欠け落ちますが、柔らかな舌が落ちることはありません。
和というものこそ、強きを砕く利となるのです。大敵に逢っては、柔剛弱強の4つの物をよく用いるものが
名将であると云います。」

秀吉はしかし
「各々は先手役であるのだから、その働きのことについて随分と精を入れられよ!
勝利を得るための下知は大将役の此の方より指図する!」そう憎体に言い放った。

これに山城守、治忠の両名は閉口し帰城すると、別所の一族・家老の面々参会して、これを評議した。
そこで山城守は申し上げた

「今回、秀吉が当国に下向して、近国他国にまで威を振るい、別所の家臣に対し、無遠慮に我意を
言いつけるだけでなく、剰え自分の下人のように扱い、地元の国人たちに頭を上げさせぬようにすること、
その心底を察するに、すべて信長の謀計であると考えます。
何故かといえば、近年の東国の沙汰を聞くに、関東に四大将があります。それは北条氏康、武田信玄、
織田信長、上杉輝虎の四人です。その中で織田信長の武勇の方向性は、表裏第一です。

表裏には善悪の二種類があります。勇将が敵を討つために謀略をするのは余程のことですが、信長は
騙すことを専らにやっているため、その家風は下々まで軽薄な者が多いのです。

只今、私が思案するに、秀吉を当国に下向させた内実は、先に我ら別所に中国攻めの先手をさせ、西国が
静謐に成った暁には、最初の約束を変じて別所を退治し、播磨は秀吉に与えるという事でしょう。
そういう信長の心底、鏡に映すようです。

敵の表裏を知りながらその謀に乗るというのは、武士たる者にとって思慮が無いというべきです。
我々は、これを判断して立場を鮮明にすべきです。」

別所長治はこれに
「さればこそ、最前より信長からは『兄弟のように思っている』などとしきりに伝えてきたので、
一味同心して大将をひとり給わりますようにと返事をした。私はきっと信長の子息の内、
信忠か信雄が派遣されると思っていたのに、秀吉が差し下された。これは信長の浅智の故である。

おおよそ大将を立てる時は、その人を選ぶことが第一である。氏も無き人を大将にしては諸人軽んずるものである。
しかるに信長はどうか?ようやく侍の真似をする秀吉を大将にして、この長治が彼の先陣で合戦をすれば、天下の物笑いとなるだろう。
この上は最初の約束を変じて、今後信長と手切れするとしよう。それを見せつけるためにも、
先ず秀吉と合戦をしよう。」と仰せになった。
(別所長治記)

有名な話ですが、別所長治が織田との手切れを決断するお話。




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城内の兵はその時、生魚を差し出して

2011年09月10日 22:26

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/09(金) 23:35:40.40 ID:6wSFu4cE
秀吉が三木城を攻めたとき、前後三年に及んで落城しなかったのは城が堅固である上に、
間道からの兵糧が多く運び込まれていたからだとか。
ある時、秀吉軍が塀際まで攻め寄ると、城内城外の兵が互いに悪口雑言を吐きあう口合戦となった。
城内の兵はその時、生魚を差し出して広言したのだが、それを見た秀吉軍は
「おいっ!なんで城内に生魚があるんだ!?さては・・・」
と、抜け道の存在を悟り、周辺を厳しく探索して抜け穴を発見した。
この道を止められ、遂に三木城は落城したという。
(播州太平記)




824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/09(金) 23:51:14.83 ID:/yAKlicF
お池やお堀で魚は取れないの?

825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/10(土) 00:19:00.87 ID:nB0XvDKG
>>824
「生魚」といってもさすがにコイやフナじゃなさそうな。
これの読み下し文が載っていた本によると、三木城には、城壁から生きた鯛を寄せ手に見せ、
食糧に困っていないことを示したという伝承があるそうです。

826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/10(土) 00:21:25.19 ID:Nvs96m2B
この失敗に学んでがっちり包囲した結果が飢え殺しか、ままならんな

三木城攻略に関する間抜けな話

2010年07月25日 00:00

131 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/07/24(土) 16:15:56 ID:izwUjmBs
三木城攻略に関する間抜けな話

この城の攻撃は「三木の干殺し」と呼ばれる凄惨なものだったが、
食料を手に入れる機会が篭城軍にまったくなかったわけではない。
天正七年九月九日、毛利軍が兵糧を三木城へ運び入れるべく、
数百艘の軍船で本隊と別働隊に分かれてやってきたのである。
別働隊が秀吉軍の目をひいている隙に、本隊が秀吉軍の防備の薄いところを襲撃し、
不意討ちに成功して敵将谷大膳を討ったのである。秀吉は毛利軍を迎撃し、
別所勢もこれに呼応して戦い、激戦となったが間抜けな話、毛利・別所両軍ともに
兵糧運搬を忘れて戦ったために秀吉軍に兵糧を奪われてしまった。
またその後、秀吉側が警護を厳しくしたためもう二度と兵糧を搬入する機会を失ってしまった。
そして、四ヵ月後に別所長治が羽柴秀吉に降伏し、後はご存知のとおり。




132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/24(土) 19:37:26 ID:RGldDoYY
荷駄隊を任せてもちゃんとやってくれる武将がいなかったんでしょうな

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/24(土) 21:34:49 ID:ylzKFhWj
補給って難しいよな。一番難しいのは補給を正しく評価する事だけど。
137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/24(土) 23:11:59 ID:FelqaoLn
兵糧運び入れるより首取る方に熱心になっちゃったのか
裏方仕事なんて誰もやりたくないもんね

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/24(土) 23:46:40 ID:Eg9OjyFj
補給困難になるからこれ以上戦線広げないでねの命令無視して
どんどん北上する清正みたいなのがいるしなw

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 00:05:40 ID:BCE2tTnY
>>137
「荷駄は経験豊富な者が担当した」みたいな話を聞いたんだけど
その辺の自制心も期待しての人事なのかな。「

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 00:10:22 ID:tuVoJZ+f
>>140
そなたには大高城への兵糧運び入れを命じる

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 00:57:10 ID:53kBOt9P
裏方をおろそかにする奴なんてしょせんその程度の器って気がする

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 06:56:32 ID:AFwYu3mT
>>142
言いたい事はよく分かるんだけど、総指揮官はともかく、第一線の武将で「前線で
命がけで戦っているオレと、安全な後方に居るあいつとが同じ扱いだと!」みたいに
考える人間はやっぱりたくさん居ると思う。

そういえば権現様のところで、これで揉めて浜松と岡崎でギクシャクした悪い話があったよね?

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 07:18:24 ID:r+K51u+j
江戸時代の序盤を見るに、内政面で有能な人は石高低めの役職高め、戦闘が得意な人は
石高高めの兵役負担高めでバランスをとったのかしら
老中とかになれる大名って、基本的に小藩の藩主みたいだし

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 09:50:51 ID:h9mQDY6d
それは有能無能ではなく、普代外様の区別ではないのか?

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 12:49:34 ID:7Y9+ZJMf
>>143
権現様のところより太閤はんのところ・・・。

三木城開城後、切腹の際の

2010年07月23日 00:01

268 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/07/22(木) 19:00:04 ID:7kF5WbUx
じゃ、三木城開城後の切腹の際の切ない話を

三木城主別所長治はじめ一族がみな自刃したのだが、そのうち長治の弟の友之の妻お尚が切腹する段になっての話。
彼女は刃を握ったとき、悲しくなって泣いた為に手が震え、刀を取り落とした。そこで、長治の妻が年長者らしく優しく諌め、
「武門に生れ、武士に嫁いだ身に在りながら、この期に及んで左様な振る舞いはするものではありません。
皆永遠に一緒なのです。どうして悲しむことなどありましょうや」と諭され、気をとり直したお尚は、
ためらいつつも気丈に襟を寛げ、己の胸を貫いた。儚い生涯だった。

『頼もしやのちの世までも翼をばならぶるほどの契りなりけり』これがお尚の辞世である。

悪いほうかもしれんが、ホロリとくる?気丈な長治の妻の話。




269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/22(木) 19:21:58 ID:9vkBrfOM
悪い話の方で皆殺し云々だったな、三木城のその後は。
>皆永遠に一緒なのです。どうして悲しむことなどありましょうや

この言葉も実に感慨深い。

270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/22(木) 19:25:35 ID:A+x2LT3N
一首出来ました

あの世へも みんなで逝けば 怖くない



271 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/22(木) 19:38:32 ID:jNzk7DZG
次は閻魔を相手に籠城戦だなw

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/22(木) 19:49:37 ID:7sG2P8wh
地獄行き決定なのかよ・・・

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/22(木) 20:17:33 ID:OVvkcq5X
>>272
いや、閻魔は地獄行きか極楽行きかを決める人(?)だから地獄行きと決まったわけではないw

稚児ヶ墓山、花折山。

2009年07月14日 00:02

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/13(月) 19:37:40 ID:wXVKAN6E
“稚児ヶ墓山”(ちごがはかやま)
1579年、信長に敵対した三木の別所氏に味方したこの地域の豪族や、
丹生山明要寺などは、秀吉の軍団の激しい攻撃にさらされた。
戦闘で明要寺から北東の尾根づたいに帝釈山の東まで逃げてきた大勢の稚児達が、
この山で秀吉方の武士に切り殺されたためこのように呼ばれるようになった。

“花折山” (はなおれやま)
村人が墓に供える花を手折った稚児ヶ墓山の東の峰が花折山と呼ばれるようになった。