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「徳川家の良き士は数を知らず」

2016年08月04日 14:06

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/04(木) 02:26:47.27 ID:wrZqDUGL
長篠の戦いの時、「徳川家の先陣を下知せよ」と言って、織田信長
の使者が徳川方のもとへ来た。すると、内藤四郎左衛門(正成)は、

「我が主君は、先陣の下知を他人に受ける者にはあらず! 内藤が
承って返答仕ったと申されよ!」

と、荒々しく言って、使者を追い返した。信長はこれを聞いて、

「徳川家の良き士は数を知らず」と、言いなさった。

【注釈:内藤を鳥居(忠広)とするものもあるが、鳥居は三方ヶ原で
討死したので、内藤のことであろう】

――『常山紀談』




39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/04(木) 07:05:19.10 ID:kfD42Jl/
>>36 家康が長篠では先陣をした、というのは事実だ。信長公記にも載ってる。
地元の者が先陣をつとめる、という慣例のとおりだから、織田信長が家康へ先陣の下知をした
というのは不自然なので、常山紀談のまたまた創作だろう。

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/04(木) 07:44:35.17 ID:eCDSoKFe
数を知らずってどういう意味なんだ?
計算の出来ない脳筋は猛勇ってことかい

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/04(木) 08:13:57.52 ID:acCVXDMz
この場合「数知れずいる」ってことだろ
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なにはともあれ、本当は息子を救っていた内藤正成

2016年08月03日 14:17

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/02(火) 20:38:14.89 ID:3enpF6iZ
以前、悪い話スレにて内藤正成が三方ヶ原で息子を助けて棄てた話を紹介したが、
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10094.html
寛永諸家系図伝を読んだところ、実はこの話が違っていたことがわかった
以下、寛永諸家系図伝に記述された話を紹介する

……この時息子の甚一郎正貞は敵陣に深入りし、味方が退いたのを知らなかった。

故に正成が息子の生死を知るため馬を返して敵陣に突入すると、正貞は数人の敵と刃を交えていた。

正成は槍で敵を突き、その敵から馬を奪い、正貞を乗せて撤退した。

正貞はこの戦いで敵の首をとり、彼の配下もまた高名した。


つまり、
寛永諸家系図伝では「正貞を乗てひきしりぞく」(原文)だったものが、
寛政重脩諸家譜では「正貞を棄て引退く」(原文)と誤って書かれてしまったようなのである

調べる限り「乗」と「棄」のくずし字は似た形になる場合もあるようなので、
そのために起きた間違いなのかもしれない

なにはともあれ、本当は息子を救っていた内藤正成のいい話である



31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/02(火) 22:57:22.20 ID:ss4ItaM9
>>30
おぉ~お見事!いくら戦国の世とはいえ惨い…と思ってたから良かったw

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/02(火) 23:11:05.12 ID:3enpF6iZ
一応言っておくと寛永諸家系図伝(1640年代編纂)を再編纂したのが寛政重脩諸家譜(1790年代編纂)です




33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/03(水) 14:58:43.00 ID:w5W1SYVI
百五十年もたてば崩し字の間違いぐらいしてもしょうがないか

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/04(木) 07:02:34.65 ID:kfD42Jl/
>>30 

正「正貞を乗てひきしりぞく」
誤「正貞を棄て引退く」

息子を見捨てて退却した、となっては、ひどい勘違いだな。元が良い話でよかった

息子を助けた上で見捨てるの巻

2016年07月11日 13:12

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/10(日) 22:50:51.40 ID:WoaxVO/c
三方ヶ原合戦の時の事、徳川方は敗北を悟って引き退き始めたが、
内藤正成の息子・正貞は敵陣奥深くにいたため味方の撤退を知らないまま戦っていた

正成は息子の生死を知るために敵陣に突入し、正貞が数人の敵と血戦しているのを見ると
かたわらから槍をふるって敵を突きのかせ、その馬を奪い、正貞を捨てて引き退いた

『寛政重脩諸家譜』より内藤正成、息子を助けた上で見捨てるの巻
途中までは息子を助ける話だと思ってたのに「正貞を棄て引退く」(原文)って……

関連
なにはともあれ、本当は息子を救っていた内藤正成



831 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/07/11(月) 13:52:57.83 ID:y9QtxI0+
息子が助からないのを確認して撤退
こういう冷徹さも戦場では必要

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/11(月) 20:12:49.89 ID:K7vw0omF
>>831
そういう話でもないだろ

834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/11(月) 20:16:11.30 ID:c7/Arcse
>>833
いや、内藤正貞は三方原で戦死してるので、そういう話でいいと思うよ?

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/11(月) 21:56:27.29 ID:jB33rLC1
>>830の後日談

内藤正成が息子・正貞を放置して撤退した後、なんとこの正貞はそのまま敵の首級を得て生還した

しかしこの正貞、天正元年に村越左吉と争論したことが父の逆鱗に触れ、内藤家を放逐されてしまったという

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/11(月) 23:12:55.44 ID:CMj+2j7o
まーた生還したのかよ
鈴木久三郎といい正貞といい
夏目さんみたいに戦死した方が子孫が目をかけてもらえるのに

837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/11(月) 23:32:24.51 ID:nhZQIK5f
夏目さんはむしろ、親譲りの無鉄砲で子供の頃から損ばかりしてそう

「私ほどの者はおりません。」

2015年07月25日 14:04

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/24(金) 23:36:04.90 ID:vSlE0Vs5
内藤四郎左衛門(正成)がある時、徳川家康の御前にて「私ほどの者はおりません。」と言った。

その場には諸朋輩も並んで居たため、彼らから「どうして私ほどの者無しといわれるのか、
理由を聞きたい。」と尋ねられた。この時内藤

武田信玄が生きていた頃、いつも私が武田軍の先手の押さえをしていたが、
一度も後れを取ったことはなかった。
信玄の死後、信玄ほどの敵は居ない。今後とても、我らにとって信玄ほどの敵は出てこず、したがって
私のような者も出来ることはない。」

そう語ったという。

(明良洪範)




445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/25(土) 07:55:54.71 ID:P2LJRRAI
そ、そんなこと言われてもどう反応したらいいんだ・・

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/25(土) 08:24:52.74 ID:LufT3XG1
三方ヶ原は?

この敵兵に向けて正成が矢を放つと

2013年10月03日 19:30

243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/02(水) 18:58:10.97 ID:isTVfQMf
三河牛窪の合戦の時、今川氏真の家臣、牧野右馬允成定は小坂井に出張し、
御油と刧村の間において徳川方の兵を囲んだ。時に内藤正成は後殿となって
追い来る敵を射る。その矢は鞍の前輪より後輪に貫かれ、敵兵は恐怖して退いた。

同年、徳川家康が御油城を攻めた時、城の男女ともに櫓に登って
鬨の声を揚げていた。味方の兵の多くがこれを射たが、間隔が遠く届かなかった。

時に家康は正成を呼んで射るように命じた。正成が直ちに三矢を放つと、
二矢が櫓の中に入り、敵兵は恐れをなして櫓より下った。

その矢には姓名が記されていたので、敵はその矢を徳川方に送り、矢文を添えて、
「今しばらく互いに矢止めしよう。この兵に再び一矢を放たせてくれ」と書いた。

家康はこれを見て「これは敵の謀だ。絶対に射てはならない」と制止した。
しかし、正成は勇敢忍ぶに堪えずして、進み出て矢を放とうとした。

その時、敵兵が楯を持って道のかたわらに伏せており、正成が進むのを待って
彼を突き殺そうとした。この敵兵に向けて正成が矢を放つと、その矢は楯を貫いて
かの兵を射殺した。両軍はともにこれを称賛した。

――『寛政重修諸家譜』





内藤正成の矜持

2011年04月17日 00:11

5 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/16(土) 12:40:56.36 ID:W2diQyFL
徳川家康が関東に入国することが決まると、内々に家臣の知行割の作業が行われた。

ある近習衆が、家中において武勇名高く、後に徳川十六神将にも数えられる
内藤四郎左衛門(正成)にこの事を語った。
内藤、それを聞いて尋ねるに

「最初に誰の知行が決まったのか?」

「はい、最初は貴殿に五千石と決まったようです」

これを聞いて内藤、
「ふむ、過分なることよ」
と、まんざらでもない様子。

「他には誰の知行が決まったのかな?」
「は、同じく五千石で高木主水(清秀)殿、牧野半右衛門(康成)殿、阿部善右衛門(正勝)殿…」

みな徳川家中の錚々たる武功の士である。内藤これを聞いてさらに
「いかにもいかにも、御尤もである」
と喜んだ。

が、この近習の者さらに
「同じく五千石でその次に誰、その次に誰々…」

「ち、ちょっとまて!」
内藤、突然顔色を変え

「高木などと同様の知行を賜るのだから、五千石というのは武功の優れたるものばかりだと思ったのに、
何だその後の連中は!?
さてさて、殿は男数寄をなさることだ!(歪んだ形の茶道具を愛でるように欠陥のある者にも知行を与える、ということか)
ええい、面白くない!」

と、領地である武州羽山に引き籠り、剃髪して善想と名乗った、という。


こうして、家康の知行割に不満で引退した内藤であったが、家康は内藤の行動を許し、
その後も武蔵において鷹狩をするときは、必ず羽山の内藤の屋敷に立ち寄り、
鷹狩の獲物の鳥を手ずから与え、そこで食事をとり、彼の妻にも会い声をかけていたそうである。


領地より誇り、という内藤正成の矜持と、そんな内藤を仕方のない奴だと苦笑いしつつも、
その気質を愛していた家康の姿が見えてくるような、そんな逸話である。




6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/16(土) 13:11:32.01 ID:kiVx0z21
めんどくさい。

7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/16(土) 13:16:30.40 ID:5ltimX1A
家康も手慣れたもんだな、こんなのが複数人いるから大変なんだがw

8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/16(土) 13:24:09.54 ID:+wWC96TZ
部下に大封与えたために滅亡した信長や、政権基盤弱くした秀吉を見て部下の知行を抑えたのかな?
確か親族とか一門除けば家臣には最高でも二十万石程度しか与えなかったよな家康。

9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/16(土) 13:30:34.75 ID:WOeaIDdf
>>8
信長も、部下にそれほどの大封与えてないけどね
ただ、寄騎という形で指揮できる兵力は上げただけで

10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/16(土) 14:00:48.06 ID:AGQDP5pv
さぁ、皆さんご一緒に!

11 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/04/16(土) 14:43:54.90 ID:1FPGDvNz
武士の矜持の話しだから、こんなの葉隠にも似たような話し有るよね。
この時代の武士の、共通普遍の認識なんだろな。

これを三河ものだからって面倒くさいって、バカらしい話しだ。

12 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/16(土) 14:50:39.14 ID:fcy6I+5H
ドヤ顔で何か言って周りを白けさせる人っているよね

13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/16(土) 16:05:02.95 ID:fDoob1n7
ワシに不満があるとなといって殺さないだけいい君主だよな、まぁ。

19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/16(土) 21:06:29.32 ID:RmpdkMpK
>>8
忠勝達ですら、城持ち大名になったのは
関東に行ってからだっけ?

内藤正成の留守番

2010年03月04日 00:07

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/03(水) 19:23:56 ID:gcU1exN2
徳川家康が本多忠勝等と共に二股城を攻めに行った時のこと、
徳川十六神将の一人内藤正成は、足が痛む為に留守番として浜松城を守っていた
ところが城を出た家康等は夜中に激しい風雨に見まわれ、引き返さざるを得なくなった
そのため本多忠勝が使いとして城に先に戻り
「殿が帰城するので速やかに開門するように」と言ったのたのだが
城内の正成に城門を開ける様子は全くない

忠勝が城門をドンドン叩き
「殿が帰ってきます!!早く門開けてください!」と
叫ぶものの内藤はこれを完全に黙殺
やがて内藤は櫓に登ると門前の忠勝にこう怒鳴った
「こんな夜中に殿が帰ってきたなどと嘘をついているのは誰だ、騒がしい。
そこを退かねば撃ち殺すぞ」
そう言って忠勝に銃口を向ける始末
このままじゃ殺られると慌てる忠勝
そこに家康が追いつき、「家康本人だけど、入れてくれ」と言うが
「声は似てるが本当に殿か?」と疑い、中々信じてくれない
結局家康の顔を照らしてしっかり目視で確認し、ようやく城門は開いたのだった

この正成の用心深さを、家康は
「お前のような頑固な人間が留守を守ってくれるなら、
敵がどんな策を使ってきてもやすやすと城には入れないだろうから
安心して外に出られる」
と褒め称えたという




345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/03(水) 19:29:20 ID:gDoCcDWF
>>344
本多忠勝から娘に引き継がれるんだな

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/03(水) 21:50:39 ID:6kaXON6L
>>344
褒め讃えているような皮肉っているようなw

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/03(水) 22:22:53 ID:tQ79DWDb
>>346
三河者にとって最大の皮肉は褒められることだとちょっと思った。

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/03(水) 22:35:49 ID:a9xnsj/R
どっかで読んだと思ったらこれだった

内藤信成、城の留守番・いい話
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1156.html

正成と信成の違いがあるが、伝わるうちに誰かが書き間違えたのだろうか

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/03(水) 22:55:59 ID:Tr740bri
行く全ての城で同じ待遇を受けたに違いない。三河的に考えて

内藤正成『罠は噛み砕くもの』

2009年07月15日 00:14

397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/14(火) 13:52:39 ID:qfj6DuB3
罠は噛み砕くもの

内藤正成は弓の名人として知られ、16歳の時に夜間、城を攻める織田勢に矢を打ち掛け2
00余人を殺傷したとか
高天神城攻め時に1本の矢で2人を殺すとか言われた人物だがこれはその一つ

家康が三河を今川氏真と取り合っていたころの話
御油城を攻めていた徳川勢に、城方の男女は櫓に登り相手を挑発しまくっていた
ちなみに男女だからアレコレではなく普通に鯨波を上げて挑発していた

勿論、馬鹿にされて黙っている三河武士ではなく矢を打ちこむも、遠くて届かない
調子に乗って更に挑発する櫓の者達
そこへ颯爽と登場した正成、弓を引いて三度放つと見事に二本が櫓に入る
慌てて逃げ出す櫓の者達

さて、この頃の矢には自分の名が書いてあり、それが誰が放ったかが解るようになっていた
その後、暫くして城方から矢文が飛んできた
回収してみると、それは先程の正成の矢でありその文面には
「この矢の射ち手は見事な腕の者 翌日にもう一度、その腕を見たい」
というもの

…怪しさ爆発である
これを見た同僚や家康も「これは罠だろうから無視しても良いんじゃない?」と言うも正成は
言われた通り、翌日に再び矢を打ちに行った

さて、見透かされた通りに、城方は盾を持った伏兵を忍ばせて、鑓で突こうとしていた
襲いかかる伏兵、即座に矢を向ける正成に伏兵はにやりと笑い盾を掲げるが、
その笑みは即座に凍りつく
何と、正成の矢は盾ごとその伏兵を射ぬいてしまっていた
どうと倒れる伏兵を後に正成は自陣へと帰るのであった

劇終




398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/14(火) 14:02:47 ID:Prlc8XVo
>>397
「押して駄目ならもっと押せ」、と言う言葉を思い出したw

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/14(火) 14:43:07 ID:SKLqMCDX
毒をくらわば皿までどころか、差し出した相手の腕まで噛みちぎった感じだな

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/14(火) 15:23:55 ID:Uhv7ubwR
人間かこいつw
ところで名前は「まさしげ」でいいのかそれとも「まさなり」だったりする?

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/14(火) 17:48:27 ID:qfj6DuB3
>>400
「まさなり」のようで

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/14(火) 20:55:34 ID:Z1wELgTU
内藤正成の弓は一体何人張りだったんだろうな
鎮西八郎為朝が五人張りだからそれくらいかな?
それとも吉田能安のように鉄兜を射抜く技能の持ち主だったのか