雑談・楠葉西忍について

2017年04月21日 10:16

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/21(金) 00:14:41.31 ID:TiEVwH//
教科書的には日本にキリスト教が伝わったのは1549年という事になってるけど、景教として遣隋使か遣唐使が持ち込んでるんだっけ

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/21(金) 00:37:40.76 ID:t9KytjzS
イスラムは入ってこなかったんかねえ
宋か明くらいには入ってきてるはずだけど日本には来なかったんだろうか

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/21(金) 00:50:33.39 ID:uFvNYzkl
>>741
室町時代の商人・楠葉西忍(幼名ムスル)の父である「天竺人ヒジリ」がイスラム教徒だったという説が在る

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/21(金) 01:33:19.92 ID:pNPhOchv
朝松健の一休伝奇ものに西忍が出ていたのを思い出す
後は「聚楽第 太閤の錬金窟」でギヨーム・ポステルが日本に来たことにしている
宇月原 晴明の「黎明に叛くもの」て小説でも大乗院寺社奇事記のムスルの話を引用してた。
(果心(カシム)居士や松永久秀や斎藤道三がアサシン教団員だったという話)

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/21(金) 02:10:55.19 ID:pNPhOchv
訂正
史実の西忍についての話が載ってるのは「大乗院寺社雑事記」で
上の小説で引用していた「大乗院寺社奇事記」はそれをもとにしたフィクションだった。

本当の「大乗院寺社雑事記」の西忍記事は文明18年2月15日の死亡についての記事が一番まとまってるので
国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1155249
の217コマ目を参照してほしい。
(93歳で死んだとか、父親が天竺人だとか、幼名がムスルとか書かれている)

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/21(金) 07:15:42.95 ID:5HHheB3O
パルクールを駆使して稲葉山城に潜入する道三なんて想像してオラわくわくすっぞ

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/21(金) 17:19:32.99 ID:dooTgSY+
こんなの見つけた

京都の西本願寺といえば、親鸞<1172~1262>が開いた浄土真宗の本山です。
その宝物中には親鸞もよんでいたという<世尊布施論>があります。
これはじつは仏教の経典ではありません。
中国で7世紀に景教徒によって漢語に訳された景教の経典なのです。
それが日本にも持ち込まれていたのです。
この<世尊>は釈迦ではなく、イエスなのです。
内容も、イエスの<山の上の垂訓>(マタイの福音書5~7章)に始まり、
イエスの生涯、教え、基督教の救いなどについて述べています。

http://www.asobine.com/article_blog.php?shopid=409&blogmode=new&story=BL0000003355

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/21(金) 19:26:09.88 ID:T+yycnAH
空海は新訳聖書を、最澄は旧訳聖書を持ち帰っているとどっかに書いてあったなあ
眉唾なのだと聖徳太子の傍には景教徒がいたってのもある

ここでも馴染みのある松浦静山は群馬の多胡碑にJNRIと刻まれた石槨と十字架が見つかったと甲子夜話に記しているらしいね
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器量の謀り

2016年04月19日 17:17

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 14:04:39.99 ID:l9K9toaz
泉州堺は大阪に近隣する繁華の湊であり、関東より柴山小兵衛が政所に置かれていた。

大阪の豊臣勢が片桐且元の茨木城を攻め、幕府と豊臣家との対立が決定的になると、
堺においては『大阪城中では評議が在って、ここに関東の軍勢が滞在できないよう放火すべきであると
決定し、軍勢を差し向けるそうだ。』との風聞が流れ、言葉にも出来ないほどの大混乱と成った。
ある者は財貨雑具を船に積んで四国南海へ逃れようとし、ある者は山林に身を隠し、親を忘れ
子を逆さまに背負った。

このように前代未聞の騒動の中、幕府の代官たる柴山小兵衛は当時眼病を患い、起居すら自由にならない
有様で、豊臣の軍勢を防ぐ事など考えもできなかった。

このような時、ここに阿賀屋正斎という古今不敵の町人が在った。彼は自身で街中を駆けまわり説いた
「女、童、足弱(老人)たちはどこかに避難させ、15歳以上60歳未満の男は一人も散乱してはならない。
今度のことは、私の計らいに任せて頂きたい。

その計らいの内容だが、若年の者と老人とは、当分の間交わりを絶って、敵味方のように振る舞って欲しい。
また、大阪には焔硝千斤を献上し、『堺の町人は残らず大阪の御味方です。』と伝え、放火狼藉を免れるべし。

また京都へ宿老の内二人を上らせ、所司代の板倉殿にこう申し上げよ『大阪より堺を放火して略奪するという
風聞が有り、この凶から免れるため、このように計らいましたが、これは全く御敵対をしようという決断では
ありません。』

こうしておけば後の祟も無いだろう。

また、若者たち二百人ばかりは政所に馳せ参じて、『備えの軍勢ではなかなか防ぐことも出来ないでしょうから、
早々岸和田に御退きあれ。』と提案せよ。今政所の柴山様は眼病でもあるから、必ずこの意見に従うだろう。
また、宿院の荒男(柴山小兵衛の弟である五助の事。この時代官として宿院に在った)が、我らが大阪に
焔硝を献じたことを咎めてきたら、『その事は老人たちの采配であり、我々にはどうにも出来ませんでした。』
と、若者たちはその難を逃れよ。また、大阪から政所の者たちが岸和田に退いたことを咎められた時は、
『若者たちが是非を存ぜずあのようにしてしまいました。そのため私達は、彼らを義絶致しました。』
と言い訳して時間を稼ぐのだ。

そして、天下一統の時は宜しき方に従う迄である。絶対に騒動してはならない。」

堺の人々はこの提案を受け入れ、尽く鎮まった。
豊臣家が滅び天下一統の後、大御所徳川家康はこの話を聞くと、
「器量の謀りである。あの時の状況に適した智謀であった。」そう賞賛し、阿賀屋に褒美を与えた。

(慶元記)



住友の業祖

2015年01月25日 17:07

598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/25(日) 15:45:08.71 ID:zlkBH2Wz
住友の業祖

今も日本経済を牽引する住友財閥には、二人の祖がいると言われている。
一人は「家祖」住友政友、もう一人は「業祖」曽我理右衛門である。

江戸時代に銅産業によって基盤を築いた住友家であるが、その由来は曽我理右衛門が戦国時代に開いた「泉屋」に求められる。
すなわち、住友家と曽我家は縁組みしており、理右衛門の子である友以が住友の家督と理右衛門の事業を引き継ぎ、現在に至っているということである。

その理右衛門が事業を成功させた話。
当時日本の銅を製錬する技術はまだ遅れており、粗銅の中には銀が含まれているらしいのだが、その銀を効率的に分離することができず、先進技術を持っているポルトガル人やスペイン人が粗銅を大量に購入し、銀を効率よく分離し大もうけをしていた。

理右衛門はこれに目をつけ、独自に研究を進めるが、当のポルトガル人やスペイン人は当然情報を教えないため悪戦苦闘していた。
そんな中、なぜかハックスレーという南蛮商人がヒントをくれ、最終的に銀を分離する技術を会得することができた。

そしてこの技術で理右衛門は大もうけすることができるのだが、この技術を独占せず、同業者に公開したそうである。
現在でも時々あるが、技術や規格を公開することで競争を促し、業界を発展させるという意図があったらしい。

ちなみに、泉屋という屋号は、理右衛門が「白水」と号していたハックスレーに感謝し、白水の字を上下に合わせた泉という字を使っているとの説もある。

また、理右衛門は豊臣家にも多額の献金をしていたらしく、方広寺の梵鐘を献納したのも泉屋である。


ということで、事業で成功しながら、その研究成果を業界のために公開した理右衛門のいい話でした。

(河合敦著「豪商列伝 なぜ彼らは一代で成り上がれたのか」)




石田治部少輔の乱の年、津田長門守という人が

2014年06月08日 18:50

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/07(土) 19:46:37.01 ID:iAM47n3W
石田治部少輔の乱の年、津田長門守という人が鞍馬寺詣の帰路に、加茂にて女の乗った輿を開けて
中を見た。この女は後藤長乗の妻であった。ここには光乗という老人がついていたが、これは長乗の
伯父であった。

長門守の所業に光乗は憤り「ここにあるのは後藤長乗の妻です!長門守殿も見知っているはずです。
なんと卑怯なことをなされるのか!」と辱めた。

長乗は徳川家康と懇意の者だったので長門守の身上危うしと、みな言っていた。その秋に、彼は
改易された。徳川家康が、この乱が終わって上洛するとき、後藤は桑名まで迎え出て、直にこの事を
言上したそうである。
(老人雑話)

この「津田長門守」が津田信成の事だとすれば、彼の改易は慶長12年(1607)なのでこの話とは異なりますね。
まあ津田信成も改易の理由が友達の大名たちと京の祇園でどんちゃん騒ぎした挙句、茶屋の女房を始め
美女78名にセクハラパワハラの乱暴狼藉をした責任をとって、というどうしようもない理由ですがw




469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/07(土) 19:56:43.88 ID:fkt/5Baj
津田ってことは織田氏?
まったく織田信成は

しかし、ググったらこの信成の兄が洛外千人斬りの犯人、てあったけど
大谷吉継の冤罪のやつって犯人見つかったっけ
それとは別?

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/08(日) 08:55:44.92 ID:ou/nq0ob
勝手に織田にするな

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/08(日) 09:09:36.03 ID:qN4U7z78
平姓津田氏は織田氏系だが、なぜ怒る?

阿賀屋正斎・器量の謀り

2013年02月18日 19:51

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/18(月) 12:17:08.08 ID:c0AXQ9Pk
大阪冬の陣が勃発した時の事

泉州堺は大阪の近隣で、繁華な港であり、幕府からは柴山小兵衛が代官として置かれていた。
この頃大阪城の評議として、幕府軍の駐留を妨害するため、堺を放火すべしと決定され、
そのための軍勢が派遣された、との旨が聞こえてきた。

これに堺は大恐慌をきたし、あるいは私財雑具を船に積んで四国南海へと向かおうとし、
あるいは山林に身を隠し、親を連れて行くのを忘れる、子を逆さまに背負うなど、前代未聞の騒動となった。
こんな時に代官の柴山小兵衛は眼病を患い、起居すら自由に成らぬ有様で、この混乱を防ぐ術もなかった。

ここに、阿賀屋の正斎といって、古今不敵の町人があった。
彼は自身で堺の街中を走り触れて回った!

「女子供、足弱の老人たちは、どこかに避難させるべきである!
そして15歳以上60歳未満の男は一人も逃げ出してはならない!今度のことは私の謀らいに任せて頂きたい!」

この、正斎の謀らいとはこのようなものであった

「年若の者達と老人とは、当分は交わりを絶って、敵味方のように振る舞っていただく。
また大阪へは硝石千斤(約600キロ)を献上して、堺の町人は残らず大阪の御味方なりと言って放火狼藉を免れるべし。
また京都にも、町衆宿老のうち複数名を上らせて所司代板倉殿にこう伝えるのだ

『大阪より堺を放火して略奪を行うという情報が聞こえてきたため、この災いから
免れるためこのような計らいをいたしましたが、これは全く、幕府に対して御敵対すると
意図したことではありません』

これを言っておけば、後の祟も無いだろう。

また、若き者どもは200人ばかりで代官所へ馳せ参じ

『僅かの軍勢にては中々大阪方を御防ぎすることは叶わないでしょう。早々に岸和田にお退きなさいませ。』

と申し上げるのだ。代官此の頃眼病を患っており、必ずこの言葉に従うであろう。
この時代官所の荒男(吏僚)が大阪に硝石を献上したことを咎めるならば、

『その事は老人たちが差配したことであるので、我々ではどうすることもできません。』

と申し上げ、若者たちはその難から逃れよ。

また、大阪から代官を岸和田に避難させたことを咎めてくれば、年寄衆が

『若き者どもが是非を存ぜずにあのような事をしてしまいました。それ故に、私どもは彼らとは義絶したしました。』

と申し上げ、大阪方の実力行使を引き延ばすのだ。
そして現在の事態が収拾すれば、その時宜しき方に従うまでである。

とにかく、必ず騒動し混乱してはならない!」
そう人々を制した。

この後暫くして大阪の陣も鎮まり天下一統に復したのち、大御所(家康)がこの阿賀屋の正斎の事を聞き

「器量の謀りである。その時の事態に応じた智謀である。」
(器量ノ訛方ナリ、時ニ取テノ智謀)

と高く評価し、彼に褒美を下されたとのことである。
(慶元記)

大阪の陣勃発のおり、活躍した町人についての逸話である




448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/18(月) 12:54:44.88 ID:bpPmMlrL
結局焼き払われてるがな(´・ω・`)

456 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 08:23:22.97 ID:UCrLU+aF
>>448
それ夏の陣

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 10:47:56.19 ID:OEF++wXY
実際大阪の陣が始まる直前に、城方が堺を襲撃してるんだよね
で、片桐且元や今井宗薫が奮戦して且元の重鎮・多羅夫左衛門とかが戦死してる
だから堺における動揺と混乱ってのは非常に激しいものがあったんだと思う

(「本光国師日記」「大阪市立博物館所蔵、今井宗薫・宗呑宛片桐且元直筆書状」)


国友村、鉄砲尾栓異聞

2010年07月09日 00:01

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/08(木) 16:05:16 ID:RTmRRkE2
鉄砲伝来に関する逸話といえば有名なのが、種子島時堯から鉄砲の製造を命じられた
刀鍛冶、八板金兵衛が銃尾をネジで塞ぐ方法がどうしてもわからず、ポルトガル人に娘を与え、
それでようやく尾栓のノウハウを得ることが出来た、と言うもの。

が、この尾栓に関して、畿内の鉄砲の大生産地であった国友村では
全く違う逸話が残っている。

室町幕府より鉄砲の製造を命じられた国友村の刀鍛冶達。が、やはり尾栓の構造が
わからず、皆、困り果てた。

そんな時、刀鍛冶の一人、次郎助という男が大根を向こうとした。
ところが近くにあったのは、刃のボロボロにかけた脇差だけ。

「まあ大根だし、これでも構わないだろう」

と、その脇差で大根を繰り抜いた。…と、ふとその切り口を見ると

「…これは!?」

ギザギザの刃でくりぬいたその断面には、見事な螺旋が刻まれていた

「これだ!この仕組みだ!」

次郎助はこれを元に工夫し、見事ネジの原理を解明、鉄砲の生産に成功したと言う。


国友村に伝わる、ネジの秘密解明のおはなし。




107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/08(木) 17:10:08 ID:wkFukNvu
くりぬいてどういう風に調理するつもりなんだろ

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/08(木) 17:22:33 ID:VDEOtN/0
”す”が入ってたんじゃね?

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/08(木) 17:27:39 ID:QWQIhkLv
穴の中にある”す”って・・・
どうして、オトコの人って下ネタに走るのかしら。。。

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/08(木) 17:36:53 ID:OYDH+XFy
薹が立ったから皮を分厚く剥こうとしたんだろう

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/08(木) 19:38:27 ID:NbjVbkSM
忍たま乱太郎で刀で大根かつらむきしてた気がする

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/08(木) 20:06:03 ID:23bzzgHb
一応マジレスすると
「す」は「鬆」と書く。骨粗鬆症の鬆と同じで
すっかすかのスポンジ状になる現象。
大根のほかにも水分が抜けて空洞が出来た野菜や、
調理不良の茶碗蒸しや豆腐にも
スポンジ状に穴があいたら「す」が入る、と言う。
大変食感がよろしくない。

落語・左甚五郎三部作

2010年06月21日 00:00

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/20(日) 07:05:07 ID:rT0hJg2U

落語・左甚五郎三部作

竹の水仙
http://www.nicovideo.jp/watch/sm5419000

ねずみ
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6590763

三井の大黒
http://www.nicovideo.jp/watch/sm5591368

左甚五郎その1:命名秘話

2010年06月20日 00:02

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/19(土) 17:56:53 ID:fASr5E8P

足利将軍家の家臣に伊丹左近尉という者がいた。
しかし時は乱世。まだ幼い息子と妻を残して左近尉は死んでしまう。

母子は親戚の縁を頼って金森長近の家臣、河合忠左衛門の元に身を寄せる。

やがて成長した息子は上京して禁裏大工に弟子入り、大工として身を立てる。
大工としての腕は良かったようで、江戸幕府成立後、江戸城の改築にも参加。
しかし、西の丸から城外に通じる秘密地下道の建設に携わってしまった為、機密保
持として命を狙われるようになってしまう。

しかし、彼に対しては幕府トップも同情していたようで、老中土井利勝の手引きで
利勝の娘婿でもある讃岐高松藩主、生駒高俊に匿われたという。

彼は若い頃、大工の腕を妬んだ同僚によって右手を斬られ、それ以来左利きとなっ
たとも言う。
「左手一本の名工」という事で、彼は左甚五郎と言う名で後世に知られるコトにな
る。

「実在しない伝説上の人物」「何人もの職人が左甚五郎を名乗った」等、様々な説
があるが、とりあえず高松藩の分限帳には「大工頭 甚五郎」なる名前が残ってい
るらしい。

……アンタなら自分で義手を作れば動くんじゃねぇか?右手。


連投になってしまいますが、左甚五郎作の彫刻が地元にもあると知って調べてみた
ら、出てくる出てくる逸話の山ですな、この人。
全体的に「動く彫刻が人々に迷惑をかける」話が多いので、一括で悪い話に投下さ
せていただきます。
「連投ウザい」という方はスルーしてくだされば助かります。




左甚五郎その2:薬師堂建立

2010年06月20日 00:02

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/19(土) 17:57:57 ID:fASr5E8P
現在の埼玉県越谷市。歴史はあるがすっかり荒廃した薬師堂があった。
ある時、日光東照宮の修理に向かう大工がこの薬師堂の近くを通りかかった際、夕
立に降られてしまった。

大工は薬師堂で雨宿りをしたのだが、荒廃していた堂は隙間風が吹き込み、雨漏り
も酷い。
この有様を見た彼は、

「もう夕方だし、今夜はこのままこのお堂に泊めていただこう。その代わり、一泊
の礼として私に出来る限りの修理をさせていただこう。きっと薬師如来にも喜んで
いただけるに違いない」

翌朝、大工が日光に向けて旅立った後、村人達は薬師堂を見て仰天した。

「あ、新しくなってる……!!」
「いつのまに立て直したんだ!?」

そう、大工は一晩にして「修理」どころか新しいお堂を「建立」してしまったので
ある。

その大工の名を左甚五郎と言う。




左甚五郎その3:甚五郎と龍神

2010年06月20日 00:02

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/19(土) 17:59:08 ID:fASr5E8P

現在の埼玉県さいたま市。見沼と呼ばれる大きな沼があった。
その沼には龍神が棲んでおり、大雨の度に龍神は沼で大暴れをして付近の住民を困
らせていたという。

そんな時に見沼を通りかかったのが日光帰りの左甚五郎。
近くの国昌寺に宿を取っていた甚五郎は話を聞くと、「任せとけ!」と言って一体
の龍を彫り始める。

やがて、見事な出来栄えの木彫りの龍が一体、村人達の前に引き出された。

「コレは見沼の龍神を彫り上げた物だ。真に見事な彫刻には魂が宿ると言う。つま
り、この彫刻には見沼の龍神の魂が宿っているってコトだっ!」

そう言うと甚五郎は龍の頭に釘を打ち、国昌寺の山門に据え付けた。
半信半疑の住人達だったが、それ以来見沼の龍が一帯を荒らすコトはなくなったと
言う。

しかしコレには後日譚がある。
ある時国昌寺の檀家が亡くなり、葬儀が執り行われた。
棺を担いで例の山門を潜った所、突然棺が軽くなってしまったのだ。

担ぎ手を務めていた遺族は不審に思い、棺の中を改めると、もぬけの殻。
つい先刻まで確かに遺体はあったし、担いでいた棺は重かったのに……

甚五郎によって封じ込められた龍神に取って喰われてしまったのだ、と言われ、そ
れ以来国昌寺の山門は誰も通れないよう、開かれなくなったという。

現在でもこの山門は特定の日以外には開かれないと言う。




左甚五郎その5:「つなぎの龍」

2010年06月20日 00:01

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/19(土) 18:01:14 ID:fASr5E8P
現在の埼玉県秩父市に奈倉という地域がある。
ここに大層立派な龍の彫刻があった。

徳川家康によって秩父神社が再建された際、奈倉地区の住人達はお祝いとしてその
龍の彫刻を秩父神社に奉納。神社でも立派な贈り物を喜び、本殿に飾るコトにした。

が、この龍の彫刻が神社に飾られるようになってから、秩父の街に異変が起こる。
秩父神社近くの沼で、夜な夜な龍神が暴れ回り、沼の付近では畑や家畜に大きな被
害が出ていたのだ。
そして龍神が暴れた翌朝、神社の掃除をしていると、必ず例の龍の彫刻の下に大き
な水溜りが出来ていたという。

「この彫刻は明らかにおかしいぞ」
秩父神社では遅まきながらもこの彫刻の由緒について調べ始めた。

すると、超有名な名工が手掛けた傑作だと言うコトが判明する。
だが、同時にその「超有名な名工」、別の意味で有名な「とある問題」がある人物
であった。
そう、彫った龍神が動く確率、限りなく100%に近い男、左甚五郎である。

実は奈倉の村でも同じように田畑を荒らされ、ほとほと困っていた為に秩父神社に
押し付けた、というのが真相だったのだ。

「や、やられた……!」

秩父の住人は頭を抱えるが、奉納され、本殿に安置された彫刻を「やっぱり要らな
い、返す」と言う訳には行かない。
本殿を飾るには見栄えが悪くなってしまうが、背に腹は返られない。宮司は鉄の鎖
で龍の彫刻をグルグル巻きにしてしまった。

それ以来、龍の被害はなくなったという。
現在でも龍は秩父神社に「つなぎの龍」として存在している。


同様に夜な夜な寺を抜け出して付近を荒らす左甚五郎作の龍は滋賀県の三井寺(園
城寺)にも存在している。
コチラは甚五郎本人が処置をした為か、秩父神社よりも容赦がない。
そう、龍の目に釘を打ち込んで動けないようにしてしまったのである。
こちらの龍も三井寺に現存している。




左甚五郎その6:「蝉錠」

2010年06月20日 00:01

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/19(土) 18:02:12 ID:fASr5E8P
現在の京都府綾部市に厄除け八幡宮と呼ばれる神社がある。

そこには左甚五郎作の鍵(錠前)があり、蝉のような形をしていたコトから「蝉錠」
と呼ばれていた。
その蝉錠、鍵ではあるのだが、甚五郎作である以上、動く……いや、鳴く。

蝉の季節でもないのに八幡宮には蝉の鳴き声が響く。
どこにいるのかと探してみると、蝉錠が鳴いていたという訳だ。

関ヶ原の合戦の際、田辺城の細川幽斎を攻撃した小野木軍が、この綾部にも襲来し
た。
小野木軍は八幡宮にも落ち延びた兵が隠れてないかとやってきた。

神殿を護るようにしっかりとかけられた蝉錠を見て、兵士は怪しいと思ったのか、
刀で何度も何度も錠を突き、壊そうとした。

蝉錠は傷を残すも破壊は免れた。しかし、それ以来一度も鳴き声は上げなくなった
と言う。

……しかしまぁ、錠前まで作ってたんかい、甚五郎www




左甚五郎その7:「竜ヶ渕」

2010年06月20日 00:00

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/19(土) 18:02:57 ID:fASr5E8P
現在の京都府宮津市。
その昔、この辺りが旱魃に見舞われた頃の話。
あまりに雨が降らず、困った住人達は成相寺の和尚に雨乞いの祈祷を頼んだ。

和尚は一晩お経を読み上げ、祈祷をしたのだが、雨は降る事無く、代わりに仏のお
告げをいただいたと言う。

「この近くに名人と呼ばれる彫刻家が滞在しているらしい。その彫刻家に龍の御姿
を彫ってもらい、この寺に安置すればいい。名人の彫った作品には魂が宿るという
から、きっと雨が降り出すだろう」

和尚の言葉を聞いた住人達が探し出したのが、若き日の左甚五郎。彫った龍神が動
き出す確率、限りなく100%に近いあの男である。

しかしこの頃の甚五郎、まだ一回も龍を彫った経験がなかった。
しかも、今まで他人の彫った彫刻や、他人の描いた絵画で龍を見たコトはあっても、
実物を見たコトはない。
実物を見ずに魂が宿るホドの傑作は作れない、と辞去する甚五郎。

「そこを何とか!仏様のお告げでもありますし!」

熱心に頼み込む住人達に押し切られるように、龍神の彫刻を引き受けることになっ
た。
引き受けはしたものの、まったく出来る気のしない甚五郎は、和尚にお告げをした
という仏に縋ってみるコトにした。
すると、

「この寺の北に深い淵がある。そこでなら龍の姿が見れるだろう」

と仏様に告げられる夢を見た。
これぞ霊夢。甚五郎は一人、告げられた淵に出かけ、幾日も龍神に祈り続けた。

幾日過ぎた頃だろうか、突然周囲が暗くなり、甚五郎の周囲のみが猛烈な風と雨と
に包まれると共に、淵の底から大きな龍が姿を現したのである。
甚五郎は逃げもせず、心ゆくまでじっくりと龍神を眺めた後、成相寺に帰り、彫刻
に取り掛かった。

完成した龍の彫刻は素晴らしい出来で、それを掲げて雨乞いの祈祷をすると、忽ち
の内に雨が降り始めたという。
甚五郎が龍を見た淵を「竜ヶ渕」と呼ぶようになり、龍の彫刻は今でも成相寺で大
事にされているという。




左甚五郎その8:円教寺の力士像

2010年06月20日 00:00

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/19(土) 18:04:32 ID:fASr5E8P
現在の兵庫県姫路市。名刹として名高い書写山円教寺がある。

その昔は弁慶もここで修行したと言われるこの寺。開山の性空上人を本尊として祀
るお堂を作ることになった。
そのお堂は開山堂と呼ばれ、中に本人の遺骨が入った、快慶作と伝わる性空上人像
が本尊として安置された。

そしてこの開山堂を建立する際、呼ばれたのが左甚五郎。
建物の軒下に、屋根を支える力士像を彫ったのが甚五郎であった。

しかし、甚五郎の彫った力士像。素直に大人しく屋根を支えてなどいる筈がない。
…………逃げた。wwww

山形県の専称寺の力士像はサボッて遊んでいる所を最上義光に鉄砲で脅されて持ち
場に帰ったようだが、ここはあいにく姫路である。義光はいない。

四方を支える力士の内、一体がまんまと逃げおおせ、行方は誰も知らないという。
現在も開山堂の屋根は北西隅の一人を欠いた三人の力士で支えている。


……以上、連投終了です。
お付き合いいただきありがとうございました。




柴山勘兵衛の災難

2010年06月10日 00:02

679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/09(水) 00:47:35 ID:roabuxQU
堺の柴山両賀・勘兵衛親子は、何艘かの船と土蔵を所有する「プチ小西家」的存在だったが、行長の影響を受けたか
「武士として良き大将に仕えて死にたい」と考えるようになり、豊後岡領主・中川秀成への仕官に成功した。
秀成は新参の柴山親子を厚遇し、知行として別府湾に浮かぶ瓜生島一千石を与えてくれた。

文禄になると、両賀は秀成に従い朝鮮へ従軍。身重の妻を持つ勘兵衛は留守を守ることになり、文禄5年(1596)7月、
妻は無事に一児を出産した。

異変が起きたのは、7月12日午後のことである。
突如、激震が走ると海水が見る見るうちに干上がって行き、島は別府湾と地続きになるほど異様な引き潮が発生。
それが止まると、今度はどんどん水位が上がって行った。

驚いた勘兵衛は、妻に赤子を抱かせると、自分は手槍と両刀、家系図等を納めた箱を持って天井裏に登った。
だが、天井裏もたちまち水浸しとなったため、脇差で茅葺きの屋根を斬り破り、屋根の上へ逃れた。
水位はさらに上がっていったが、幸いにも建造中の船板が流れて来たので、そちらに乗り移って助かった。

しかし、船板も引き潮に巻き込まれ、勘兵衛一家は沖へ流されるばかり。一家は何度も波に呑まれそうになった。
ようやく波風も落ち着いてきたころ、勘兵衛に気づいて船を寄せてくれる者が表れ、一家は今都留に上陸した。
しばらくすると、無事だった柴山家の家臣たちも合流し、勘兵衛夫妻は助かったが、生まれたばかりの子は
環境の変化に耐えられなかったか、息を引き取った。

主君・秀成は留守番に降りかかった不幸を思ってか、柴山家は新たに今都留の浜を領地として授かり、
勘兵衛自身は、中川家の船奉行に任命され、災難を払拭したという。


いい話ではないかもしれんが、一応スレの流れ上こちらに。




680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/09(水) 08:20:54 ID:uUpySfdc
7万石そこそこの中川家で町人にいきなり千石くれるんならすごいな…と思ってたら、
柴山さんって旧幕臣だし金もあるしでタダ者じゃなかったんだな

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/09(水) 09:26:04 ID:sr2jTNxq
まぁ、土地が痩せてたり気候が厳しいとことかは、兵隊さんも強かったりするしね・・・

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/09(水) 18:42:27 ID:daQXPwh2
>>679
瓜生島伝説って島だった説と岬だった説があるけどどっちなんだろうね?
この話の限りでは島で間違いなさそうだけど。

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/09(水) 18:50:28 ID:j325ok+n
まんが日本昔ばなし「瓜生島とえびすさま」

http://www.youtube.com/watch?v=TM8_FVrUc74

日比屋了慶娘モニカ、母を

2010年05月23日 00:00

938 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/22(土) 14:04:53 ID:OJgWvEQR

堺の商人、日比屋了慶。彼はキリシタンとして洗礼を受け、ディオゴという洗礼名を持っていた。
彼の子供達も皆、洗礼を受けていたのだが、ただ彼の妻一人が、実家の親族と共に
一向宗の信仰を護り、キリシタンにはならずに居た。

ディオゴの娘、モニカが二人目の子供を出産した時のコト。
産後の体調が思わしくなく、床に付いたままの状態が長く続いた。

ディオゴもその妻も大層心配し、特に妻(モニカにとっては母)は家が近いコトも
あって毎日のように娘の見舞いに行っていた。

母「病気の時だからこそ、ちゃんと食事は取らないとダメよ。そんなんじゃいつま  で経っても良くならないわ」

食欲がない娘に、無理矢理にでも栄養を取らせようとする母。

娘「お母様、私はもういいの。死ぬのは覚悟しているわ……でも、たった一つ、お  母様のコトだけが心配なの」
母「何を言ってるの!ちゃんと食べればちゃんと良くなります!それに、皆に心配
  をかけてるのはアナタじゃないの!」

気弱なコトを言うモニカ。そしてそれを叱りとばし、生まれたばかりの子供の為にも元気になりなさい、と諭す母。

娘「だって、私がこのまま食事を取らずに死んだら、皆、何て言うかしら……」
母「……どういうコト?」
娘「きっと皆、お母様が私を殺したって言うわ」
母「な、なんてコトを言い出すのこの娘は!私がアナタを殺したりするハズないじ  ゃないの!」
娘「私、お母様が改宗したら、嬉しくって嬉しくって、きっと元気が出ると思うわ。
  でも、お母様は何度言っても、改宗して下さらないのだもの」
母「そ、ソレとコレとは……」
娘「キリシタンは嘘をついちゃいけないの。だから堺中のキリシタンがこう言うわ。
  『日比屋の奥さんは娘を見殺しにした』『娘の命よりも悪魔の教えを取った』
  って」

母「……………………」

娘「あぁっ!お母様が改宗してくだされば、私も食欲が湧くに違いないのにっ!!」
母「わかった、わかりましたっ、改宗します!洗礼受けます!キリシタンになりま  す!コレでいいのっ!?」
娘「まぁ!流石お母様!モニカ嬉しいっ!!」

と、まぁ病床での脅迫で母親を見事コロばせた日比屋モニカ。
母親はイネスという洗礼名を受けたが、それから間もなく、モニカは天に召された
そうである。

冗談抜きで死ぬか生きるかの瀬戸際で、自らを人質に取って母親を脅迫した娘さん。
しかも人質は結局助かりませんでした。というお話。


……こーゆー話を「いい話」として扱うんじゃないと何度言えば判るんだ、フロイス!!




939 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/22(土) 14:08:39 ID:n84DLREN
なんか創価の体験談に出てきそうな内容w

940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/22(土) 15:43:44 ID:1roHVILt
>>939
創価に限らず怪しい健康食品とかでありそうだしなw

荒木宗太郎とアニオーさん

2010年05月20日 00:01

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/19(水) 11:06:02 ID:VGufp1NZ
時代としてはギリな感じだが、まとめになかったので試しに投げ。

荒木宗太郎とアニオーさん

幕府が軌道に乗ると海外渡航などが禁止される鎖国制度で、貿易は出島のみで行われてたのは周知の事。
でも実は鎖国が取られるまでの約40年間、朱印船という幕府公認商船が東南アジアまでぶいぶい交易に出ていた。
そんな朱印船を預かる豪商の一人に荒木宗太郎という人がいる。
この人生年など詳しい事は不明だが、元は肥後熊本の武士で豪胆な性格の人だったらしい。
普通は朱印状を受けても資金だけ出して自ら行かないものだが、この人の場合は乗船し船長まで勤めて渡海した。
まさに海の男である。
そんな性格が幸いしたのか広南国(今の中部ベトナム)王・阮福源にかなり気に入られてた。

阮福源「俺の娘にいい子いんだけど、太郎ちゃんとマブになりてーし良かったら貰ってくんね?」
王加久「・・・・・・」
宗太郎「ドギャ━━(#゚Д゚#)━━━ン!!も、もちろん頂きます!!!(゚∀゚*)」

その上よほど王加久さんが気に入ったのか、長崎に連れ帰って正妻としておき生涯添い遂げた。
当時は現地妻として現地におくのが普通だったらしい。
さすが海の男、荒木宗太郎は型にハマらない。
そんな王加久さん、長崎の人にはアニオーさんとして親しまれた。
夫婦仲も良かったと思われ、多忙を極めたであろう宗太郎との間に一女をもうけ、長崎でその生涯を終えた。
仲の良い夫婦をしのんで、今も長崎くんちではアニオーさんの輿入れ行列が催される。
そんな国際結婚のちょっといいお話。




106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/19(水) 11:26:44 ID:aOSv7DgU
>>105
ロマンですなぁ

108 名前:人間七七四年[sage ] 投稿日:2010/05/19(水) 11:32:53 ID:eW/NirDN
>>105
珍しいよね、当時の国際結婚で日本に奥さん来るとか。
言葉とかやっぱり懸命に覚えたんだろうか…異文化の
国の生活って大変だろうに。
良い話だなぁ

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/19(水) 11:42:25 ID:dVCNzmNL
伊達家の人も国際結婚してたよね
鄭成功も確か日本人とのハーフだ
言葉の壁とかあんまり気にしないのかな?

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/19(水) 12:25:32 ID:9cG5AjAy
>>111
東南アジアはいろんな国の商人が集まってるから、あんがい珍しくないんじゃないのかな

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/19(水) 14:07:41 ID:hMZ8jUIy
鄭成功も子供の頃、母(日本人)と一緒に平戸で暮らしてたよな。

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/19(水) 21:04:30 ID:avKxI/lV
>>111
荒木宗太郎に関しては、オーナーで船長なら現地の商談交渉もある程度自分でやってたろう。
日常会話程度なら夫婦間の意思疎通はハナから問題なかったんじゃないかな。
それでも一国の王女が国を出るのはかなりの勇気がいったと思う。
宗太郎もその辺分かってたのか王加久以外に妻を迎えてないし、かなり大事にしてたんじゃないかな。

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/19(水) 23:42:02 ID:dVCNzmNL
>>117
でも海の男ってことは旦那が家を空ける事も多かっただろうに
その間他人との意思疎通が辛そうだぞ
覚えたのかもしれないけど

雑兵物語より、馬取、藤六の証言

2010年04月06日 00:00

878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/05(月) 06:09:28 ID:Odk9P7+b
雑兵物語より、馬取、藤六の証言

「わしの曾祖父さんが言っていたのだが、昔戦の時陣中でハツカネズミを捕まえて
首に紐をくくりつけつないでおいた。

ところがそのネズミが逃げ出した。そっちに逃げたこっちに来たと2,3人で騒いでいるうちは
良かったのだが、その陣が先備(先頭部隊)だったので、その騒ぎを聞いた後方の部隊は
敵が攻めてきたので騒ぎが起きたと勘違いし、次々と後ろの部隊が逃げ出した。

もっと後方の陣では踏みとどまって守りを固めようとはしたのだが、
前の陣の崩れに巻き込まれてどんどん崩れて行く。

先頭の部隊は少人数で、部隊全体から言えば小人のようなものだ。
それに対して大人数の後方の部隊は大仏様のようだが、前のほうがおじけづいて
逃げてくると、後ろの部隊もその恐怖が伝染して悲鳴を上げて逃げ出す。

その時は5,6万もいた大軍が10日がかりで攻め込んだ道のりを逃げ帰ってしまったのだと、
曾祖父さんの彦惣は言っていた。
ハツカネズミが1匹逃げ出しただけでも大軍が10日分の道のりを逃げ戻ってしまったのだから
ネズミの4、500倍も大きい馬が逃げ出したら大変だぞ。5,6万の大軍千日分の道のりを
逃げ帰らないといけない。西国の端から蝦夷間で逃げても道のりが足りないわい。

そういう事だから、馬の管理は特に念入りにしないといけないわけだ。」

水鳥の羽音で軍が崩れたといえば平家物語富士川の戦いだが、戦国時代には
ハツカネズミ1匹で大軍が崩れたことがあったらしい。




879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/05(月) 06:15:07 ID:6qh26/Ss
5、6万の大軍が動員された合戦なんて関が原とか、大阪の陣くらいだろ、沖田畷は人数嘘っぽいし


しかしハツカネズミを捕まえて何がしたかったんだ?

880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/05(月) 08:55:49 ID:iGrWwVwX
ゴンベさんもあの逃走っぷりはタヌキでも逃がしたのかもね。

881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/05(月) 11:10:43 ID:XVsTA12p
>>879
後期の信長、北条、秀吉とかが5万くらい動員してない?
秀吉は小田原とか九州とか10万単位だけど

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/05(月) 11:46:54 ID:snN+1S+V
史料の数字でよければ、元亀の頃に信長は七万とか九万の軍勢を動員している
伊勢北畠攻めで史料により七万から十万。
江北浅井攻め&信忠初陣で五万。
長島攻撃でも五万から七万。
槇嶋で将軍義昭追放戦で七万。
話半分としても四万~は動かしていることになるね。あくまで史料の数字は。

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/05(月) 12:12:32 ID:kQ3RJYcx
動員可能人数よりも買い付け可能な兵糧の量に左右される感じかね>最大動員数
小田原の陣の豊臣方でも「飯足りねー。疫病大量発生」とか誰かの日記に残ってた記憶が。


884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/05(月) 12:15:42 ID:SbUlZqYp
頼朝の奥州征伐とか

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/05(月) 13:01:11 ID:DdSYBUiC
太平記の動員兵数は基本信用できないが30万とか普通w

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/05(月) 17:32:11 ID:XVsTA12p
鎌倉方28万騎vs奥州藤原17万騎

まあ、幾ら全国動員としても時代的に実際は10分の1位かねえ
従者とか含めればもうちょっと行くかもしれんけど

雑兵物語より、我慢をする話。

2010年04月06日 00:00

887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/05(月) 18:31:43 ID:Odk9P7+b
雑兵物語より、我慢をする話。

昨日、よその部隊の挟箱持ちが挟箱を運んでいると、柄の長い箱だったので
人ごみに引っかかったとき、柄が人に当たってその場でぐるぐる廻っていた挙句、
箱を投げ飛ばしてしまい、箱の中の品物や道具をぶちまけてしまった。
そのため中の物はみんなに拾われ盗まれてしまい、その上慌てたものだから
滑って転んで、集まった連中に踏みつけられ蜘蛛のようにぺちゃんこになってしまった。

その男、しばらくしてようやく気を取り直したが、腹がたってしょうがない。

「酷い事をしやがって!こうなったら誰でもいいから一匹喧嘩相手を選んで、
そいつをぶち殺して気を晴らしてやる!」

そんなふうに思ったものの、その部隊では味方同士の喧嘩や争いは固く禁ずるという
命令が出ていたことを思い出し、仕方なく平気な顔をして我慢したのだそうだ。


この部隊に限らず、どこでも戦の時の喧嘩はもちろん禁止されているが、
戦場だけでなく、行軍している時や宿営する時も、仲間同士の喧嘩や言い争いすら
固く禁止されているんだ。

ところで、そうしてそんなに厳しく止められていると思う?

お前がもし、敵にも出会わず死ぬことも無く、戦が終わって生きて国に帰れたら、
帰ってから、思いっきり仕返しをしてぶち殺してもかまわないんだってよ!
『それまで待て』って言うことなのさ!HAHAHAHAHA!!!


雑兵はこうやって喧嘩を我慢したのだ。





「仏もまた塵」

2010年03月27日 00:06

49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/26(金) 20:28:40 ID:sRc8Lis8

最近切支丹ネタが多かったので便乗して小ネタを一つ
昔読んだ本に載っていたものでうろ覚えだけど割と好きな話なので失礼しますよ。

宣教師が歩いていると、道にある小さな仏像に手を合わせ、熱心に祈っている男がいた。
宣教師は早速この男を教え諭してやらねばと思い「そこに神はいない」と教えてやった。
すると男はびっくりした顔で「勿論いない」と言った。
その答えに宣教師は驚いて「では何故祈るのか?」と聞くと、
男はしばらく考えた後「仏もまた塵」と呟き、そのまま立ち去ってしまった。

宣教師がその答えに対してどう思ったのかは謎。




55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/26(金) 22:51:26 ID:TEOUVpLd
>>49
祈ってる男の答えが良く判らないなぁ
仏典にこういう説話があったりするのか?

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/26(金) 22:58:32 ID:m2hqz2yi

>>55

華厳経ですなググッテみるヨロシ

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/26(金) 23:19:06 ID:TEOUVpLd
>>56
世の中の全ては塵一つでさえ奈良の大仏さんの一部なんだから
俺の拝んでる仏像だって仏の一部
全ては仏の一部なんだから拝む対象が何とか仏がどこにいるかとかこまけぇ事はいいんだよ
ってことかな?