印を見せて

2017年08月06日 16:23

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/06(日) 08:16:22.99 ID:0wSsLWfk
加藤清正が朝鮮の王子を捕虜とした時、王子と随臣たちは数日間食を摂っていなかったので、
清正は王子側に聊かも強く当たること無く、すぐに座を設けて膳を整え、食を薦め饗応した。
酒が三度めぐる頃、清正の近習の兵たちが、肴を用意する為走り回っているのを見て、王子の
臣下たちは驚いた。

「これは清正が王子を欺いて害しようとする謀ではないか!?」

そして半弓を引いて清正の方に向き、彼に矢を放とうとした。

清正はこの誤解を解くため説明するにも、言葉が通じないので聞き入れてもらうことは出来ない。
そこで彼は、印を手にして彼らに見せた。これにて『この印を押した誓約が違わない事』を表したのだ。

これにより従臣たちの心解けて半弓を置いた。この隙に清正側は王子を彼らから離して身柄を確保したため、
従臣たちの興奮も自然に静まったという。

(士談)



127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/06(日) 12:29:26.67 ID:+WlXfnng
半弓もたせてんの!?w

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/06(日) 13:57:42.06 ID:4d+IWi5I
昔から何をしても勘違いするお国柄か

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/06(日) 16:42:24.48 ID:geByxlBJ
捕虜だったらお国柄関係なく殺されるのは警戒するだろそりゃ
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夢のお告げの大石を

2017年07月16日 17:23

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/16(日) 14:47:54.59 ID:+Kef9Q/f
朝鮮征伐の時、高麗において漢南の加勢が、百万の大軍にて押し来たるとの情勢の中、
日本軍の兵士たちは疲れ果てており、気は弱り勢いも遅れていた。

この時、加藤清正は早朝に出てきて兵士たちにこう語りかけた

「昨夜、珍しき瑞夢のお告げがあった。今日、押しゆく所の道に必ず大きな石がある。
これを引いて帰れば、戦は必ず勝利するということを、まさしく私は見た!
夢は信じるに足らぬものだというが、合戦に挑む前表、吉凶必ず著しきものなのだ。」

そう大いに喜んで押し行った所、はたして大石があった。清正はこれを見るや

「その形、昨夜夢で見たものと聊かも違わない!天のお告げであること、明らかである!」

そして自身で石の上に上がり、大声を上げて木遣をして兵士たちに引かせた所、諸軍大いにいさみ、
問題なく引いて帰った。そして軍士たちはこれに気をはげまし、大いに勢いを取り戻したという。

(士談)


加藤の亡魂

2017年06月14日 19:00

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 01:02:25.08 ID:OUrzwPNV
加藤肥後守(忠広)が没落以後は、
熊本の城は細川肥後守(忠利、越中守?)が横領して入城したが、
その後には城内外で家鳴り等がして騒がしかった。
加藤の亡魂が念を残したからだと申し伝わっていたので、
細川公は残念な事であると、菩提寺にある加藤が着ていた具足を乞い受けて、
天守の四重目に納められたら、その後に静かになったとか。


『武士としては』



25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 01:05:07.82 ID:e6F4knWm
横領とは酷い表現だな

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 01:34:30.30 ID:WE0HmbYS
「横領」は明治中期以降に出来た言葉らしいが、原文はどうなんだろう

27 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/06/14(水) 09:53:05.94 ID:xVPK1Uvj
>>22
              :ill||||||||||l:
             :i|||||||||||||||
           /''';:|||||||||||||||||l:、
          /:i  :||||||貞|||||||i `'!
          / :|  :||||||||||||||||||l ノ!
          | ヽ |||||||||||||||||||| :|
          ! !;ヽ:||||||||||||||||||||!; |
      .__|  |/|||||||||||||||||||||; |____
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      | |:::::::::!l.|ノ      / ./:::::=:::::::| |
      | |::::::::::::|:::      ノ }::::::::=::::::| |
      |  ̄ ̄~|:::      川リ ̄ ̄ ̄ ̄ |
      | ̄l ̄ ̄|::::      | ~ ̄ ̄ ̄| ̄|
      |_|:.::.:.:.:|:::::      |:.:.:.:.:.::..:.:.:|_|
      .:.:.:.:.:.:.:.:.:|;;;::::      .|.:.:.:.:.:.:.:.:.:..:.:.:.:

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 10:16:45.54 ID:TDMsc1AT
忠広の生霊か

三ヶ条ほどは珍しいことを

2017年05月24日 19:19

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/24(水) 18:34:43.68 ID:DnRcAem5
加藤清正が高麗より帰国し、ある夜の物語に、森本儀太夫(一久)、飯田覚兵衛(直景)、庄林隼人(一心)といった
者たちに

「高麗在陣数年の間、何事につけても武功に成るべき筋道を見覚えただろうか?」

そう尋ねた。いずれもこう答えた

「別に珍しいと存ずるような事もありません。ただし、三ヶ条ほどは珍しいことを、高麗において心得ました。」

清正これを聞いて
「私も三ヶ条の心得を得た!であれば各々に入り札を書いて、その実否を糺そうではないか!」

清正は自分の心得を書いて他の面々のものと見合わせた所、その内容は皆、一致していたという。
ある事を詳細に究める時は、自然に同じ理屈に至るものなのだと知るべきだろう。

ただしこの時の三ヶ条が一体どういう内容だったのか知られていない。
ある人が言うには、

『2つの山の間の谷間に蘆の茂った所があった。その山に上がって押し通っていると、唐人3人、
向かい側の山上にいて馬をキリキリと輪乗りにいたし、一人づつ段々に乗り回しているのを見て、
「さてはこれは何かの合図だ」と、下の葦の茂みを探索すると、はたして伏兵を発見した。
馬の乗りようにて合図を致すというのは珍しいことである。』

という内容が、三ヶ条のうちの一つだという。その他は知らぬと、その人は語った。



956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/24(水) 18:50:24.34 ID:K4L+UcD/
>>955
肝心なとこ覚えとけよw

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/24(水) 19:08:41.39 ID:utHa4ctx
そういうところは他人に教えないんじゃない?

加藤清正石垣の上手なる事

2017年05月17日 14:06

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/16(火) 23:23:14.96 ID:9GfvhoH8
加藤清正石垣の上手なる事

 加藤清正は石垣の上手であったという。
今肥後熊本城の石垣はもとから高かったが、
その下から走り上ると二・三間は自由に上れるが、
それから上の所では頭の上に
石垣がのぞきかかって、空は見えないという。
伝わるところでは、清正が自ら築いたそうだ。

 これは熊本に住んでいる者の話である。

(甲子夜話)

加藤清正石垣の上手なりしこと

 加藤清正は石垣の上手であった。
ある人が言うに、
「私が肥後に言ったとき、熊本城の石垣を見ると
高いが勾配がなだらかで上れるように見えたので駆け上った。
四・五間は上れたが、石垣の上の方が頭上に覆って空が見えない。
そのためそのまま駆け下った。」
とのことである。

 この頃ある人が語るに
「大阪城西丸大手、御橋内御曲輪の石垣も清正が築いた。
それは御城御建築のとき、清正は石垣の上手なので台命があって、
清正自身の指図で築いたのだ。」
という。
よって今も、北は西丸大手の角から西は三角矢来までを清正石垣または加藤土居と呼ぶ。

 またこの云々は『白石随筆』、『岩淵夜話拾遺』にも出てくると。
予の物が類焼後、身近な書が焚亡したので、引用することはできない。

(甲子夜話三篇)




906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/17(水) 00:04:17.26 ID:dJqOT0G2
石垣がカーブしてるのって建築上の理由もあってのことだからね

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/17(水) 06:03:07.51 ID:2hXqqu9w
ちゃんと設計図ものこってるんだよね。

908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/17(水) 15:55:00.83 ID:OKCN1qvM
この前の地震でも、後年に建てられたり
改修されたとこは壊れて当時のは無事だったらしいな
戦国建築オーパーツ?職人すげー

元来片鎌である

2017年05月16日 16:40

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/16(火) 05:33:47.03 ID:9bONDsWt
清正の片鎌の槍は、木山弾正(正親)を槍付けなさった時に十文字の一方
が折れて片鎌になったという説があるが、そうではない。元来片鎌である。

――『武功雑記』


このせいだろうか、家来に優れた功者は

2017年04月02日 16:46

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/02(日) 13:12:46.49 ID:FFz+Fxy5
加藤肥後守(清正)は物見に出る時も、自身で出て行った。

また、小屋などを掛ける時も自身で奉行を仕りなさった。
その小屋割までも申し付けなさった。万事この如くであった。

このせいだろうか、家来に優れた功者は左程出来なかったという。

――『武功雑記』



714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/02(日) 13:32:31.32 ID:I/jla4Bs
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10561.html
同じように部下がやるようやことも率先してやるのに
三成はdisられるという

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/02(日) 13:50:32.00 ID:n5dsJeVM
部下がやるような仕事を大名がやるのは低能の証拠

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/02(日) 14:39:24.29 ID:kVLlzw6p
部下がやるような仕事まで清正がやってしまうためなのか
家臣がそれほど育たなかったといわれてるんだから清正も褒められてないだろ

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/02(日) 23:44:16.84 ID:tNol9CVa
大将が物見だなんて例をあげればきりがないわ

清正の花押筆画多かりし事

2017年01月31日 15:47

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/30(月) 23:54:08.09 ID:eGddXOW8
清正の花押筆画多かりし事

朝鮮より、諸将が連判の書を太閤秀吉に送るという時、加藤清正の花押が特に画数が多く、
書き上げるまでやや時間がかかったのを、福島正則は苦笑して
「こんな事では、仮に病が重くなって、いざ遺言を書くという場合にも差し障りがあるだろう。」

清正はしかし
「私はそうは思わない。戦場に屍を晒そうとも、汚く逃げてしとねの上に死のうとは考えもしていない。
であれば遺言状など問題ではない。」


これに正則は返す言葉もなかったという。
(常山紀談)

しかし

清正の花押
http://i.imgur.com/E988uIr.jpg
SnapCrab_No-0103.jpg

正則の花押
http://i.imgur.com/zBL2r6X.jpg
SnapCrab_No-0104.jpg

それほど手間に違いがありそうには見えないがw




567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/31(火) 08:39:47.30 ID:NzQiGzf/
>>566
その花押はあからさまに家康に影響されたタイプだから、唐入りの頃とは違うでしょ。

隈本、佐嘉、清正之縄と云伝る事

2017年01月25日 09:22

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/24(火) 23:37:54.21 ID:4iYdPd+f
隈本、佐嘉、清正之縄と云伝る事

 予の臣で佐賀の領の武雄の温泉に行った者がいる。
そこで武雄氏(武雄氏、本氏は後藤。佐賀侯の属臣)の臣の某と会って以下の話を聞いた。

 佐賀侯の先祖が朝鮮に渡って戦をした際、武雄氏の祖先も従軍していた。
そこで加藤清正から特に知遇を得て、
互いに帰国できたら自ら佐賀の地で城の縄張りをしようと清正は約束したとか。
結局、お互い無事に帰れたので言葉通りに清正の指揮でかの城を築いたという。
肥後の熊本は平山城、佐賀は平城。
この両城は、清正が全て縄張りしたといい伝わっているとか。


(甲子夜話続編)



541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/25(水) 00:15:15.04 ID:oMhVRivl
武雄なら家信のことなんだろうけどそれで佐賀城?

朝鮮攻の節、香蘇散の験

2017年01月11日 17:48

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/10(火) 23:22:56.32 ID:XIXVpzdu
朝鮮攻の節、香蘇散の験

 朝鮮攻のとき、渡海のうえ軍人達はかの国の水土に慣れていないためか多くが病を得た。
従軍の医師は正気散を用いたものの治らなかった。
時に清正の医が香蘇散を用いると、その陣は皆験を得た。
よって他の陣もこれを聞いて、その法を用いて治癒できた。
 その清正の医にその理由を問うと、

「軍中では病は鬱気から生じる。なのでこの方法を用いた」

人は皆その意見に服したという。

(甲子夜話続編)



502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/11(水) 09:46:08.98 ID:nl2Kp85n
えっと、香蘇散の効能はというと
・体力があまりなく、胃腸が弱い人の風邪の初期
・胃腸虚弱で神経質な人への風邪の初期
                   なんやらよくわからん.....。

ちょっちゅねが上手い事言って駿馬2頭GETする

2017年01月10日 17:49

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/10(火) 00:45:25.05 ID:vf+7CHFY
ちょっちゅねが上手い事言って駿馬2頭GETする
http://i.imgur.com/SXF4eyC.jpg
http://i.imgur.com/3dDl9OC.jpg
SXF4eyC.jpg

3dDl9OC.jpg


愛宕に武運を

2016年12月23日 21:10

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/22(木) 22:21:14.83 ID:QUkoz0tZ
徳川家康と豊臣秀頼の二条城会見が終わって後日のこと。

家康は近臣と雑談している時、こんな事を言った
「去る三月、加藤清正は秀頼に供奉して上洛したが、彼は退出の時、西天の方に目を注いだ。
これについてお前達は何故だと思うか?」

しかしこの問に、答えられるものは一人も居なかった。

暫くして家康は言った
「秀頼の上洛に供奉するのは非常に大切な役目であった。だから清正は、二条城の西方にある愛宕山に
大願を掛けたのだろう。そして、恙無く帰城に及んだ。故に心の中で、愛宕の方を拝したのであろう。」

後に清正の家臣であった中井氏の著述した爲人妙という書にも、愛宕の勝軍地蔵において、この時清正が当山の
大善院で護摩を執行し、秀頼の武運を祈ったと書かれている。

(慶元記)



加藤清正と人柱1 横手五郎と修験者

2016年12月15日 14:56

413 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/15(木) 05:59:58.19 ID:pzCQt+x1
加藤清正と人柱1 横手五郎と修験者

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-52.html
で既出になるかも知れないけど

その昔、横手五郎と言う15人の人を一度に抱え上げる程の大力の男が居た。ある時、加藤清正公の行列が道を塞いだ牛の為に立往生して居たところに通りかかった五郎は牛を持ち上げどかして行列を通してやりました。

その後、熊本城を築いている最中、五郎の大力を見込んだ清正公は五郎に石垣を築かせたり井戸掘りの仕事を任せ、五郎はその大力を活かして他の誰より早くそれらの仕事をこなしました。

しかし、ある日清正公に五郎はかつて清正公が討った天草の木山弾正の息子であると耳打ちした者が居ました。
それを聞いた清正公は五郎は父親の仇討ちに来たのか、それにあの大力は石垣や抜け穴など城の秘密も知っとるしいつか城を乗っ取られるかも知れん。
と、疑いを抱き五郎を殺す事にしました。

そしてある日、五郎が井戸を掘っている所を狙って上から大石を落とさせ五郎を殺そうとしますが、それを知らない五郎は大石を何度も井戸から投げ返します。

しかし、何度も投げ込まれる石に五郎も遂に自分が殺されようとして居る事に気付き、覚悟を決めて大声で叫びました。

ワシを殺すなら石じゃダメじゃ、砂利ば投げ込め!

そして五郎は井戸に生き埋めにされて死んでしまったそうだ。

その後、城の基礎が出来上がりその後の工事の無事を祈る為に修験者が京より呼ばれ、祈祷をしたのだが、修験者は五郎が生き埋めにされた井戸の秘密を見抜き、
「この地には二つの呪いがかかっております。井戸に生き埋めにされた人足とその父親の呪いが」
と言いました。怒った清正公は
「ならばお前が人柱となり、呪いを解いてみせよ」
と、その場で修験者を手打ちにしました。しかし、修験者は今際の際に
「私を人柱にしても呪いは解けません。加藤様の家は呪いのせいで絶えてしまうでしょう。」
と言い残して亡くなったそうです。

熊本城内にはこの大力の横手五郎が運んだとされる五郎の首掛け石が宇土櫓の側に今も残っており、
また玄海町には太閤秀吉が名護屋城築城の頃に築城奉行だった清正公に従い築城に従事し、当地では無双(みそ)五郎と呼ばれた大力の若者が投げ落とした船繋ぎ石と言われる直径6mの巨石が有浦川に残っています。

414 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/15(木) 06:22:27.82 ID:pzCQt+x1
ちなみにこの修験者に関しては別に、京から呼んだ龍蔵院と言う山伏であり、築城の際に清正公が地鎮祭を行わせ教示を受けたが、
城の完成祝いの宴で城の縄張りの事をうっかり喋ってしまい、清正公の命を受けた家臣に帰途殺害されたと言い、熊本市北区にある山伏塚はその墓(処刑場とも)であると言われ、熊本の心霊スポットでもある。



417 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/15(木) 14:43:37.25 ID:VnJLJLbL
>>414
http://www.chugainippoh.co.jp/rensai/jijitenbyou/20161021-001.html

震災復興の祈願とは言え、殺された坊さんの行った法要や祈りを再現しようと言うのはちょっと理解に苦しむ…


422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/15(木) 23:51:47.04 ID:CukiuDjr
http://i.imgur.com/fTbXTqO.jpg
http://i.imgur.com/flvt7Vs.jpg
fTbXTqO.jpg
flvt7Vs.jpg

加藤清正と人柱2

2016年12月15日 14:55

415 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/15(木) 07:13:08.77 ID:pzCQt+x1
加藤清正と人柱2

加藤清正公は肥後に入国した翌年から菊池川河口に広がる遠浅と島に目をつけ干拓事業に取りかかりました。
この干拓で最も困難だったのが「石塘」の築堤工事であった。
横島-久島山間(400m)は底が深く潮の流れが速くこの瀬戸に渦巻き、遠い昔から「丹倍ヶ淵」の名で舟人等を恐れさせた場所でした。

この築堤には大勢の人員と多くの石材、木竹、土むしろ、更に墓石に至るまで大量の資材を用いましたがことごとく流されました。
もはや堤の完成の為には人力だけでは覚束ない、古例にならって人柱を立てたらとの提案があり人選をして人柱を立てる事になりました。
その人柱になる人物の条件として、

「横布を当てて袴をつくろっている者」

が選ばれる事となり、その条件を満たす者がただ一人だけ見つかり、慶長十年(一六〇五)十一月二十五日、いよいよ潮止めを迎えると、その人は村人たちの見守る中、水中に立ちました。
横島山の頂上では大勢の僧侶たちがその冥福と工事の成功を祈って法華経を読経し、その人は土石の下に姿を消しました。
これにより難工事も見事に成功し石塘が完成しました。この石塘築堤工事により古来海上の一孤島であった横島が玉名の陸地と接続詞広大な新地が完成し、
最初の鍬入れの天正十七年一月から石塘築堤17年の歳月をかけ小田牟田新地干拓が終わりました。
 横島の伝説によると人柱に立ったのは大園村の庄屋伝作であったとされており、別に「藤公遺業記」によると中富手永(郷)千田村(鹿本郡)の者人柱に沈むとなっています。
また、鹿本郡植木町のとあるお宅には先祖が横島で人柱に立ったと言い伝えられています。
いずれが事実かはハッキリしないものの、人柱の歴史は事実であり石塘の人柱が立ったところには
「鎮魂慰霊」と刻んだ小さい祠が建てられ、現在では「人柱之碑」が建てられています。

これらの事から当地には昔から「横布を使うと人柱に立たされる」という言い伝えがあるそうです。
また、一番大掛かりだった石塘の築堤工事に基づき読経した経本を埋めたところを経塚と言い、この築堤工事に当たり多くの犠牲者と人柱に立った人の霊を祀ったのが大園にある本田大明神であり、
深夜にこの場所の近くを通ると、小石が転がってきたり・・カチカチと音が鳴ったりするなどの、怪奇現象の報告例が後をたたないという。

416 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/15(木) 13:04:34.58 ID:qYLg94CZ
>>415追記
同じ熊本県の南部に位置する相良氏が藩主を務めた人吉藩で17世紀後半に現在の熊本県球磨郡多良木町に造られた百太郎溝にて人柱となった、百太郎と言う者も庄屋の夢に出た水神の御告げで
はかまに横縞のツギを当てた男を堰をつくる時の人柱にすればよい。
と言う神託に寄って人柱として選ばれたと言う。



梅北一揆の事

2016年11月15日 21:26

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/14(月) 20:19:39.54 ID:C207vzPJ
高麗の役の時、太閤秀吉は肥前名護屋に御座し。加藤清正は高麗へと派遣された。
この頃、肥後と薩摩の国境に佐布という城があった。清正はそこに、加藤与左衛門という者を
置いていたが、この時は与左衛門も清正に従い高麗へと赴いた。

その後に、薩摩の地より一揆が起こって、この佐布城を乗っ取った。
一揆の大将は梅北宮内左衛門(国兼)、東郷甚右衛門という者達であった(梅北一揆)

しかし佐布城には留守居として、井上弥一郎酒井善左衛門という者が残されていた。
彼らは謀って一揆の大将を討ち取り、城を取り返した。これは天下無双の功名であった。
この一揆が起こったゆえに、秀吉の高麗行きも中止に成った。当時それほどの大事件だったのである。

井上、酒井には殊の外の褒美、感状が下された。
井上弥一郎は肥後にあって知行千石。肥後加藤家改易のあとは、青山大蔵の元で隠居分となり、
その子に三百石が与えられた。最近になって死に、今は孫の代になっているという。

実は太閤秀吉は井上、酒井の功を感じ入り、さらに高い知行を与えようとしたのだが、
これは石田三成が遮って止めたという事である。

(老人雑話)



293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/14(月) 22:28:59.24 ID:+JFwenuX
全方向に敵を作るスタイルの三成www

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/15(火) 10:02:08.52 ID:BlZItxjU
うわあぁ

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/15(火) 11:02:07.77 ID:VCJjAYaY
元々加藤を敵に回してるんだからその手下くらいなんでもないんだろ

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/15(火) 11:46:41.33 ID:746nQs1x
この程度で天下の大事だったら九州で一揆起こし放題だな
三成はたいしたことねーよと言ってこれ以上の内乱をおさめたのさ

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/15(火) 11:52:10.79 ID:VCJjAYaY
乾煎り中の秀吉名護屋在陣のときに九州で大規模な叛乱あったら大事だと思うが…

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/15(火) 14:30:49.92 ID:zN7Iv9r2
戦国時代の武将って結構妖怪と遭遇するよな。
政宗座敷童子、家康肉人とか

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/15(火) 16:08:51.54 ID:8GREXPLx
肥後の北側を清正が、南側を行長が統治してたって認識だったんだけど
薩摩に近い佐布は清正が統治してたの?

300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/15(火) 16:37:19.62 ID:746nQs1x
>>297
その一揆が契機となって大規模な物へと発展することはあっても二人で鎮圧できた一揆なんて大したことないよ
そんなんで褒美与えてたら急所を敵に知らせるようなものです

刀の反りが良い頃合になると、当たりが強くなる。

2016年10月20日 17:46

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/20(木) 15:36:45.82 ID:TbdQOix0
刀の反りが良い頃合になると、当たりが強くなる。

高麗陣にて、加藤清正の軍兵たちが敵を斬りあぐねていた時、清正が
忠告して、「馬上で何人を斬り倒したのだ? 数えてみよ」と言ったところ、

刀がまっすぐであれば当たりが弱く、敵は倒れなかった。反っていれば、
切れないといえども、倒れない者はいなかった。

(刀の直なるにては。あたりよはくて。敵たをれず。そりたるにては
切れずと。いへども倒れぬはなし)

――『武功雑記』



加藤清正一番鑓の話

2016年08月12日 18:57

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/11(木) 23:50:11.54 ID:7V5ebYgV
加藤清正一番鑓の話

加藤清正が子の某〔名は忘れた〕に語ったと聞いた話である。

「我が秀吉公に従って、初めて一番槍をしたとき、
〔何処であったかこれを忘れた。賤ヶ岳であろうか〕
坂を上ると敵がいた。それと行き合って戦が始まった。
その時の胸中は、向こうは暗闇の如くで何か一向に分からない。
そこで目をつぶり念仏を唱えて、その闇の中に飛び込んで槍を入れると、
何か手ごたえがあると覚え、実は敵を突いていた。
それからはようよう敵味方も見分けることができた。
後で聞けば、その時の一番槍であった。」

(甲子夜話)



71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/12(金) 02:36:40.21 ID:DJLU8aR4
念仏なのか
題目じゃないのか

【ニュース】清正の鎧兜、再現される

2016年07月25日 13:47

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 13:02:27.66 ID:uaW899fi
鶴岡市ゆかりの戦国武将加藤清正が身に着けたとみられるよろいが専門家の手で再現され、
24日、同市丸岡地区の天沢寺(庄司良圓住職)で披露された。
清正と嫡男忠広をしのぶ同日の清正公祭(せいしょうこうさい)に合わせて一般公開された。

調査を含め、8年かけて制作した名古屋市在住の甲冑(かっちゅう)師、熱田伸道さん(68)は
「武将としての誇りを感じる高価なよろい。再現できてうれしい」と語った。

基となったよろいは1949(昭和24)の発掘調査で、同寺境内に立つ「清正閣」の下から出土した。
熱田さんは2008年に庄内藩酒井家のよろいの調査と修復で鶴岡を訪れた際、清正のよろいがあると知り、同寺に立ち寄った。
生誕地が名古屋である清正に縁を感じ、再現を申し出た。

原形をとどめていなかったよろいの各部を手掛かりに、類似の甲冑(かっちゅう)を調べて全体像を推定。
試作を重ね、今年6月に完成させた。

鉄製で胴高32センチ、重さ6.5キロ。
熱田さんは「動きやすい作りで、縁の一部を金で塗装していた。量産できるよろいにはない」と話していた。
自費で制作し、足軽のよろい2体と陣羽織10着と共に同寺に奉納した。

清正公祭には関係者ら約170人が出席した。
祈とう後、よろいが披露され、熱田さんが特徴や制作工程などを説明した。
庄司住職は「時間と労力をかけ、立派に作ってもらった。感謝している」と話した。

よろいは同寺に展示し常時公開する。

写真:地元住民らにお披露目されたよろい。再現した熱田伸道さんがよろいの特徴や制作方法などを説明した


以下ソース:山形新聞 2016年07月25日 11:43
http://yamagata-np.jp/news/201607/25/kj_2016072500578.php



978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 13:23:44.59 ID:ubYqWaTL
意外とハイカラなんだなぁ
自費とはまた熱田さんも徳が高いなぁ

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 19:28:14.08 ID:tUJJnSrs
>>977
足軽の南無妙法蓮華経具足も再現したのか

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 19:45:21.33 ID:T9VmpO8Z
>>977
この色良いなぁ。

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 20:30:51.65 ID:2i2W/QBL
現代でも甲冑師っているんだな。
名古屋住まいで熱田さんって、先祖が熱田神宮ゆかりなのかな?

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/26(火) 07:05:59.64 ID:I4E7S5xh
重さ6.5キロでは軽過ぎる。
実戦よりも、装飾性重視の鎧なのだろう。色から見てもな。ブルーかよ。

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/26(火) 07:20:30.43 ID:1WD3eRzi
ブロンズ聖闘士だなw

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/26(火) 09:21:16.85 ID:QYRr2myg
熱田伸道は甲冑師名で本名は小川伸夫さん。
独学で先達に教えを受けながらここまで来た人ですね。
http://www.j-armor.com/
http://ameblo.jp/j-armor1/
復元に3年ほどかかったようだ。


色が青いのは、写真を拡大するとわかるけど、縅(糸)の色が青いだけで
甲冑そのものは漆塗りの黒だよ。

9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/29(金) 16:02:32.98 ID:Dc/KJL3l
前スレの清正の鎧の記事、河北新報(宮城県)の記事ではもう少し詳しく描いてあったので一応
こちらの記事の写真だと、先の記事ほど目立つ青色でなく、よくある甲冑画像の様なおとなしめの色合いに見えるね

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201607/20160725_75007.html

よろいは室町末期の形状で、清正が青年期に身に着けていたと伝えられる。熱田さんは
「武将の誇りを示そうと、あえて高価で伝統のあるよろいを選んだのではないか」と述べ、
天沢寺によろいを寄贈した。
再現したよろいは胴部分の高さが約35センチ、重さ6.5キロ。室町末期以降、鉄砲の
威力に対抗するため作られた当世具足(とうせいぐそく)の一種「最上胴丸」で、複数の胴板を
ちょうつがいで止めてある。
よろいをつなぐ糸の色は判別できなかったため、甲冑の色として当時流行したあさぎ色で再現した。
鶴岡市は清正の死後、長男で2代藩主忠広が配流された地で、忠広が天沢寺で清正の遺骨を葬ったとされる。
オリジナルのよろいは1949年、ばらばらになった状態で掘り起こされ、現在も境内に保管されている。
8年前、知人の紹介で訪ねた天沢寺でよろいの存在を知った熱田さんは約3年かけて再現作業に当たった。
欠損部位を同時代の甲冑などから推測し、2領の試作を経て完成に至った。
熱田さんは「作業を通じて清正が胴長体形だったと思われる証拠などの発見があった。よろいは加藤家に
繁栄をもたらした武具として忠広や清正の妻が埋めたのではないか」と語った。

10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/29(金) 16:41:55.25 ID:eC7NYJ1C
ぜんぜん発色ちがうねw

17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/30(土) 17:11:38.20 ID:7z8Vcp0+
>>9
鎧を埋めるって珍しいような気がする。遺骨と一緒に埋めたんだろうか。

19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/30(土) 21:01:58.56 ID:c+HJ+kvB
>>17
伊達政宗は墓所の発掘調査で副葬品に甲冑が発見されているし(政宗は例の弦月前立て黒漆の甲冑を同形式でいくつか作ってて、そのうちで一番お気に入りと考えられている)
武田信玄も上杉謙信も甲冑をまとって大甕に遺体を納めたとか、よくある話じゃないですか

妖も鬼も三界火宅

2016年06月29日 10:32

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/28(火) 22:42:25.66 ID:HtJd3PKa
鳥羽候[稲垣氏]の邸は麹町八丁目にあった。
伯母光照夫人がここにいましたので、予は中年の頃まではしばしばこの邸を訪れていた。
邸の裏道を隔てて、向こうは彦根侯[井伊氏]の中荘で、高崖の上に大きな屋が見えた。
千畳鋪と人はいう。

この屋は以前加藤清正の邸であった時のもので、
屋瓦の面にはその家紋、円中に桔梗花が出てくるという。
この千畳鋪の天井に乗物[駕籠だという]を釣下げてあり。人が開き見ることを禁じているという。
清正の妻の屍を入れてある、
もしくは、中に妖怪がいて時として内より戸を開いているのを見ると、老婆の形である者が見える、
といった話を幾人かから聞いた。

しかしその後かの荘も火災の為類焼して、千畳鋪も存在しなくなった。
きっと天井の乗物も焚亡したのだろう。
妖も鬼も共に三界火宅であった。
(甲子夜話)




清正の舟奉行を4,5夜眠らせなかった

2016年05月21日 14:52

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/21(土) 04:58:49.89 ID:TcEpCjsE
関ヶ原の乱の時、加藤清正の北の方(清浄院)も大坂にいたのだが、石田三成が人質を取ろうと
しているという話を聞いたため、

清正から付けられていた竹田善兵衛家正と大木土佐恒持(兼能)は謀を廻らし、轉法口にいた
清正の舟奉行・梶原助兵衛(景俊)に梔子の煎汁を飲ませて、4,5夜眠らせなかった。

そうして疲れ衰えた助兵衛が大病人のようになると、彼を駕籠に乗せて綿帽子(防寒具)を
被せ、前後に衾(寝具)を重ねた。そして、門番の前で駕籠の戸を開き、断って屋敷に行く
ことを度々行った。すると、門番は後には見慣れて、いっこうに咎めなくなった。

一方で、川口で百足船を晩ごとに漕ぎ比べさせた。これも番船は見慣れて後には、「どれは速い、
どれは遅い」などと言って、守りを怠っていた。

そんなところへ清正から、「私には石田に与しなければならない用件はない。なんとしても、
北の方を敵に渡さずに逃げ落ちさせるのだぞ」と、告げて来た。それは大木の計画していた
ことであった。

それから、北の方にこの事を告げて、衾の下に彼女を押し隠し、その上に梶原がもたれ掛かって、
いつものように駕籠の戸を開いて門番の前を通った。大木も後から供をして「もし見咎められた
ならば、北の方を刺し殺して切り死にしよう」と思っていたが、事故も無かった。

そして轉法口に行き、やがて北の方を百足船に乗せて漕ぎ出した。番船の前をさっと行き過ぎて
2,3町にもなると、「あれはどういうことだ!」と騒ぎひしめいたが、その間に鳥の飛ぶが如く、
1里余りも漕ぎ延びた。

番船たちは「謀られたぞ!」と言って、碇を上げて追い付こうとしたが、その間に船は行き過ぎて、
ついには肥後へと下り着いたのであった。

大木と竹田は大坂に居残ってこの事を漏れ聞き、「討手が来たならば思うままに戦おう!」と、
待ち受けたが、敵方は関ヶ原の戦いで敗れたために、思いもよらず難を逃れた。

大木はもとは佐々成政に仕えて、後に清正に仕えた。才略と篤実を兼ね備えた者だったので、
清正の寵愛は厚く、今回のことにより、また2千石の禄を増し与えられたということである。

――『常山紀談』