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新納旅庵、拷問にかけられても

2009年07月22日 00:10

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/21(火) 22:28:23 ID:5YL2EcOK
派手な武功は無いけど、旅庵さんの話でも。

新納旅庵は新納忠元と同じく新納氏の一員である。
旅庵と忠元の祖父同士が兄弟、尚且つ二人の曾祖父が常盤夫人の弟(つまり日新斎の伯父)
ということで、島津家に仕えるのも必然であった。

だが忠元が12歳のときに義久(当時6歳)に仕えたのとは対照的に
旅庵が義久に仕えたのは30を過ぎてからであった。
出仕前に出家していたこともあってか、調停や外交など交渉ごとで活躍する事が多く
庄内の乱に置いても徳川の家臣、山口直友とともに調停に奔走している。

関ヶ原では義弘の供をして上京し、伏見の鳥居への使者を務めてもいるが、
周知の通り島津勢は伏見城へ入場できずそのまま西軍に参加することになる。
関ヶ原からの退却中、彼は義弘とは別のルートを通り、京都の鞍馬寺に潜伏していたが
運悪く捕らえられ水攻め火責めの拷問に掛けられてしまう。

拷問といっても事実を引き出す事が目的ではない。
要は徳川方に都合の言い証言を引き出せれば良いのだが、旅庵は徹頭徹尾
『義弘公は伏見入場申し入れの当初から徳川に対し二心なきこと、
 また郷国の義久、忠恒二公も西軍に加担せざりしこと』
との主張を曲げずに訴え続けた。

連日の拷問に耐える旅庵に光明が指したのは、
かつて庄内の乱で、供に奔走した山口直友が落人詮議役としてやってきた時である。

山口は旅庵の主張が事実であることを承知していたが、それ以上に警戒したのが
決して拷問に屈しなかった旅庵の態度である。
家康は山口の報告から、もとより島津の家臣団の団結力を改めて思い知らされ
征伐も已む無し、の態度を変えるに至ったといわれる。

山口のとりなしで開放された旅庵は帰国後も島津家の本領安堵のために奔走するが、
苛烈な拷問がたたったか
1602年の10月に急死してしまう。
忠恒が家康に会見し、本領安堵が約束される実に二ヶ月前のことであった。






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