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利根にて利発にて、しかも利口なる人

2023年03月15日 19:29

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/14(火) 21:11:06.83 ID:r3YEvImd
土屋右衛門尉(昌続)が、山県三郎兵衛(昌景)に聞いた

「いつぞや、穴山(信君)殿が、馬場美濃(信春)殿に問われた、遠州浜松の徳川家康についての噂について、
馬場美濃殿は、『藝能はやく請取る人を利根者、座配良き人を利発者、武辺の勝れて仕る人を利口者』と、
美濃殿は教えられたと聞き及んでます。さて、では(武田家中の)諸侍の中に、利根にて利発にて、しかも
利口なる人は有るでしょうか?」

山県曰く
「信玄公の御家には、侍大将としては内藤修理正(昌豊)、足軽大将としては横田十郎兵衛(康景)と、
この二人が居ります。この他侍大将の中で、若手では小山田弥三郎(信茂ヵ)なども居ります。
そういった人物の中でも、川中島合戦の時討死なされた故典厩(武田信繁)様などは、物事相整った、
まさしく副将軍と言うべき人物でした。」

山県三郎兵衛はそのように申された。

https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1630338432/702
このお話の続きですね

甲陽軍鑑



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これほど迷惑なる事は終に無かった

2022年09月28日 18:44

606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/27(火) 20:45:31.56 ID:ExuB64pl
山県三郎兵衛(昌景)の同心に、北地と申す伊勢牢人が在り、身上は十六貫を取っていた。
しかし彼は「知行悪しき所なり」と山県三郎兵衛に種々訴訟をしたのだが、大場民部左衛門という
山県の取次が、「北地は他国者である。」と侮り、山県へ取り次がなかった。

そのような中、北地は仲の良い傍輩たちに申し聞かせ、置文をして腹を切ろうとした。
何故かと言えば、「他国より武田信玄公の御家を望んで来る者はあっても、出る者は一人も無し。
この御家を出るほどならば、何ぞ武道に悪しき事があるかと、余所の不審を受けるのも口惜しい。」
と考えての自害であった。

しかしこの事を知った傍輩たちは自害の直前で彼を取り押さえた。
これに北地は「腹を切るなどと言う事を侍が申出して、二度止まる事無し!」と言って
更に自害を試みたが、人々が彼に取りすがって腹を切ることが出来なかった。
そこで北地は膝の上の、『犬ほへず』という所を散々に十二、三度も切りつけ、それから三日目に死んだ。

北地の死に山県は大いに驚き、目付横目から信玄公に報告が上る前に、早々にこの事を言上した。
信玄公は殊の他に御立腹され是非に及ばず、山県三郎兵衛は困惑し、もはや改易されるかという
事態になったが、山県は原隼人佐、三枝勘解由左衛門、曽根与市助に宛てて、熊野の牛王の裏に
誓紙を仕り、「北地五郎左衛門訴訟の旨を存じない。」という内容を申し上げた。
その後、信玄公が彼らを召して話を聞き、

「ならば、その頼まれた山県の内の者、大場民部左衛門を呼べ」

と有り、先の三人、原、曽根、三枝を以て尋問させたが、さらに長坂長閑、跡部大炊に
目付衆二人、横目衆二人まで添えられて詳しく尋ねられ、その上にてもうろんに思われ、
岩間大蔵左衛門を召して「物陰でこれを聞け」と仰せ付けられ、この件を詮索された。

すると山県が申し上げた如く、何れの者からも大場が取次を成さなかったため山県へ
北地の訴訟のことが伝わらなかったとの報告を受け、これによって大場は一類尽く
御成敗された。

山県三郎兵衛が御奉公申し上げた内で、これほど迷惑なる事は終に無かったという。

甲陽軍鑑



607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/27(火) 23:10:54.84 ID:I5jfR5vI
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4237.html
北地五郎左衛門の死と山県三郎兵衛昌景


こちらもおそらくは甲陽軍鑑を元にしたんだろうけど、>>606の方が詳しいな

“奥の源四郎”

2019年06月09日 09:29

9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/09(日) 01:26:21.11 ID:cxXeu6pY
山県三郎兵衛(昌景)は元来“奥の源四郎”と申した御方なり。

源四郎と申す時、信濃猿ヶ馬場という所で越後の謙信衆と互いに物見に出て、しかも采配を
手にかけた武者と馬上から組み落ち、その敵の武者を討って高名故、信玄公の御証文1つ。

また飛騨国において、山道の狭い所故に自分の同心被官も通り過ぎることができず、山県は
1人で、敵は2人で槍を合わせた。この時に信玄公の御証文1つが下された。

合わせて2つの御感を取って持つ。その他の首数5つは並みのしるしなり。

兄の飯富兵部(虎昌)は逆心の侍故、弟は名字を変えさせなさり“山県三郎兵衛”になさった。
同心は板垣衆を付け下された。この三郎兵衛は人数の扱いを良く仕る武者なり。

――『甲陽軍鑑』



山県さんによると、鉄砲は

2018年11月05日 16:44

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 09:10:20.96 ID:oem912mZ
武田家臣の山県(昌景)の言葉に

「武芸の四門とは、弓、鉄砲、兵法、馬の事である。大身小身によらず、この四つを習い
自余の事を稽古すれば、物を読み、物をよく書き習い、その後乱舞など習うのも尤もである。

而してこの四つの内、先馬、ニ兵法、三弓、四鉄砲とする。
馬は代わりを立てて人を頼むことは出来ない。
剣術、斬り合いも代わりの立てられぬ技である。

弓は古来より武士の家に備わっているもので、系図侍(代々の由緒ある武士)の如く、
出仕の侍(新規召し抱えの武士)は鉄砲である。

ただし鉄砲は、甚だしくわざありと雖も、魔がその焔を恐れおののくことは少ない。
弓は鉄砲に比べて激しくはないが、狐に憑かれた者、一切の不審ある事に、鳴弦などという事があり、
武士の奥意は弓の腕前が噂になることだ。」

と云ったという。

(士談)

山県さんによると、鉄砲は弓に比べて退魔などのマジックアイテムとしていまいち。



472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 10:26:43.04 ID:qKLJ14SM
畿内と違って運用方法を見出せなかった山侍の性

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 12:39:05.35 ID:g89IJWyC
性といえば宣教師驚愕の運用をしていた熊さん

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 15:09:59.19 ID:o4eMMqdY
くまモンさいつよ

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 15:13:18.61 ID:tFQzX33S
乱舞を習うのか…

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 15:54:44.04 ID:ozHexokv
>>471
面白い視点だ

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 17:32:54.51 ID:24fLrZPo
単純に弾と火薬が手に入らなくて滅多なことじゃ使えないってだけだろ

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 17:59:08.81 ID:5qavs+R5
米倉さんと比べて古い頭よのぉ

480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 19:44:18.41 ID:pvjqcEwo
島津流弓霊術「つるがね」

あれこそ山県である

2018年10月26日 17:22

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/26(金) 13:28:58.92 ID:gqs82Hyy
(長篠の戦いの時)

大久保兄弟(忠世・忠佐)はこの輩(成瀬正一ら)と一同に柵より外に進み出て、武田の先手・侍大将の
山県三郎兵衛昌景の備に向かい鉄砲を撃ち掛ける。山県も始めの頃は軽卒を出し足軽迫り合いをしていた

が、次第に欺き引かれて堪えかね「あの柵を尽く押し破って進め!」と3千の赤備が一同に押し掛かった。
大久保兄弟は命じて思うままに山県勢を引き寄せ、3百余挺の鉄砲を隙間なく撃たせれば、先頭に進んだ

山県勢は散々に撃ち立てられた。その時、大久保兄弟・渡辺半十郎政綱・同弥之助・光池水之助らは山県
の属兵の広瀬郷右衛門昌房・小菅五郎兵衛元成・三科伝右衛門形幸といった名を知られた者どもと挑み

戦う。広瀬・小菅・三科も言葉を掛けて姓名を名乗り、馬上で突き戦8,9度に及び手負いて引き退けば
半十郎や水之助らは高名をなした。山県はそれには目もくれず3千余騎を手に付けて筋違いに織田勢・

佐久間右衛門信盛の柵を駆け破らんと押し掛かる。そこで信長卿は命じられて柵中より鉄砲を激しく撃ち
立てれば、山県勢はここに人塚を作る程に撃ち殺されたので、山県も堪えかねて引き退いた。

(中略。武田勢は鉄砲に苦戦するも、馬場信房・内藤昌豊が佐久間信盛・滝川一益を柵内に追い、信長は
柴田勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉に命じて横から武田勢を攻撃させ、内藤がこれを迎撃する)

この時、山県は小山田・甘利らとともに撃ち残された勢を立て直して、柴田・丹羽・木下の勢を横合から
まっしぐらに打って掛かれば、柴田・丹羽・木下の人数は散々に突き立てられて敗走した。山県はこれを

追い打ちするかと見えたが、そうはせずにたちまち備を立て直して、徳川家の御本陣に打って掛かった。
御陣からは鉄砲を激しく撃ち立てれば、山県勢はまた撃ち殺される者若干なり。山県は白糸威の具足に

金の大鍬形を打った兜を身に着け、味方が討たれるのをものともせず、なおなお馬を進めたところ、本多
平八郎(忠勝)が「あれこそ山県である!」と命ずれば、筒先は山県に向かって放たれた。その弾が

飛んで来て山県の緩い糸の間から当たったため、山県は持っている采配を口に咥えて両手で鞍の前輪を
抑えてしばらく堪えていたのだが、ついにたまらず馬から真っ逆様に落ちた。味方がその首を取らんと
駆け集まるのを山県の従兵・志村又右衛門が敵に首を渡すまじと駆け寄り、その首を切って引き返した。

(原注:山県を撃ったのは大坂新助という者であると『勇士一言集』に見える)

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・東遷基業・武徳大成記・家忠日記・甲陽軍鑑・武家閑談)』



368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/26(金) 20:06:25.04 ID:8I+DB0d/
>>365
敵に首を渡したくないから切腹した後に…ってのは解るが、戦場で戦闘の真っ最中にもやるのか(困惑

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/27(土) 00:18:52.69 ID:5EgtKHTm
>>368
討ち死にした大将の首を敵に渡せば敵の手柄となり、士気を挙げる材料とされる。
+ 首だけでも持って帰って供養しなければならない。

戦国時代どころか、戊辰戦争までやってた、当然のこと。

「孕石の一番槍を見たぞ!」

2017年02月10日 14:08

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/10(金) 02:48:01.57 ID:2I4GYOmF
○ 浜松にて、鳥居金次郎成瀬藤蔵は口論し、果たし合いをしようと約束した。

ところが、成瀬が「いや、明日の合戦で先を争って死ぬことこそしかるべきだ!」
と言い、三方ヶ原で両人は討死した。

この金次郎の子も金次郎といい、長久手で討死した。

○ 山県三郎兵衛(昌景)の与力・孕石源右衛門は小瘡<ほりめがさとも云>
を煩い、行歩は不自由で、殊のほか痛んだ。

三方ヶ原合戦の時、孕石は馬から下りることができず、下人に負われ槍場まで
参り、ひたと這い出て人より先へ行き、一番槍を合わせて、名乗りをあげた。

三郎兵衛はこれを見て乗り来ると、「孕石の一番槍を見たぞ!」と、言った。

その相手は小栗某と取り沙汰し仕ったが、成瀬藤蔵鳥居金次郎の両人の内、
どちらかであるという。

――『武功雑記』



ある時浜松城の城下町を

2013年06月23日 19:04

918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/23(日) 14:11:58.73 ID:7L91LwNe
武田家全盛の時代、ある時浜松城の城下町を、
武田家に仕える雑役夫が九人で通りがかった。
発見した徳川家の騎馬武者が三騎でこれを追い払おうとした。
騎馬武者一騎で歩兵数人分の戦力と言われるものだが、
なんとこの雑役夫九人はこれに対して反撃にでて、
騎馬武者一人を生け捕りすることに成功した。
これに甲斐国の者たちは大いに沸き立った。
「三河武士は強いと聞くが、我ら甲斐の者に比べたら」
「あの者たちでは甲斐には勝てぬ。
過去の数々の戦がそれを証明している」
武士も町人もこのように話していた。
だがなかにはこの事件を聞き現状を心配する者たちもいた。
山県昌景は、
「雑役夫が騎馬武者を迎え討つなど前代未聞である。
武田家も危うい時期に来ているのではないか」
と語り、
武田信繁は、
「敵方の悪口を言う者がいるならば戒めるようにせよ。
敵方に刺激を与えることは、
敵方を奮起させていると同じことである」
と諭したという。
後、名将二人の心配は的中することとなる。
設楽原以降、甲斐の者が三河武士の旗印に逃げ出すこととなる

甲陽軍鑑、信玄家法より




919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/23(日) 14:37:08.03 ID:4IQsvjP+
武田信繁が生きてるだと!?

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/23(日) 15:33:53.82 ID:3dBL0xsn
>>919
子供の間違いじゃねーの?

921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/23(日) 16:32:49.05 ID:pamV8bUW
しかし信豊がこんな立派なことを言うだろうか、という疑問が
やっぱり化けて出てきたんだろう

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/23(日) 18:15:43.58 ID:n2sMvsj7
普通に信繁生前の話なんじゃないだろうか

926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/23(日) 18:50:38.74 ID:beg97CVR
よくある話に名前を借りただけなんだろうな

但島守勝雄のもてなしに

2013年05月24日 19:52

697 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/05/24(金) 15:39:19.57 ID:01zyoqe4
弘治二年(1556年)、信玄の命により信濃へ攻め寄せた山県昌景は、
周囲の城を攻め落としながら現在の白馬村近辺に兵を進めていた。
塩島城主の但島守勝雄は以前から武田家に従っていたがその様子を見て、
「我が城が間違っても攻められることはないと思うが・・・」と、少々不安になっていた。
そこで、昌景に敵意がないことを表すため盛大にもてなすことを考えた。
ただ、露骨にもてなすのでは面白みに欠けるとして、
昌景に気づかれないよう内密に準備をすることにした。

そうこうする内に塩島城に昌景の使いが訪れる。
但島守は使いの者たちに知られては意味がないと、
もてなしの準備を平静を装って隠したが、
使いの者たちはその態度や城内の慌ただしさを
「上杉方に寝返って戦の準備をしているのだ」と早合点。
但島守に「主が早急に出向くようにとのおおせです」と伝えた。

使いの者たちは先に陣に戻り、昌景へ
「大量の食糧が城内に運びこまれ、城内はものものしく戦でも始めそうな気配でした。
殿に万が一のことがあってはならぬと、城主に出向くように伝えてきました」と報告した。
昌景はその言葉を信じ、「裏切り者は討たねばならぬ」と準備をはじめた。

そんな状況になっていることを知らない但島守が昌景の陣にやってくる。
昌景は笑顔で迎え、和やかな雰囲気のもと酒宴となった。酒盛りが続き夜も更けた頃、
「今夜はわが陣にお泊りくださるがいい。風呂でも浴びてからゆっくりとお休みくだされ」
と、昌景は風呂をすすめた。
但島守は、昌景の心からのもてなしに礼を言い、案内された湯船に気持ちよく浸かった。
しかし湯船でゆったりくつろいでいだのも束の間、
覆面の武士が音もなく湯殿の戸を開けて入り込み、背後から槍を一突・・・。
但島守は「うっっ」と一声あげ、血潮に染まった湯舟の中で息絶えたのだった。


この話は「白馬ハイランドホテル」サイト掲載の昔話を短くまとめたものです。
出典や真偽等についてはちょとわかりかねますが、面白い話だったので是非。




698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 20:35:01.49 ID:o3OeRfo3
戦国時代はサプライズパーティーも命がけやでぇ・・・

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 21:15:43.06 ID:UZrhSbeD
いやまぁ、それとなく伝えて内密に同意得ておかないと
事故ってしまうのは時代を選ばない気もするが

国単位でそれやらかした所もあったりするし

700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 22:25:25.22 ID:+qovmhjL
敵意がないことを示すための接待なんだから、
始めから家中全体大歓迎ムード発揮してやるべきだよな

修羅の国たる甲斐の裁判

2012年10月04日 20:29

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/03(水) 23:29:36.38 ID:SFQprfYR
変な流れにしちゃったんで、責任とって逸話を一つ

武田家家臣に多田新蔵という剛勇で知られた若者がいた。
彼はあるとき喧嘩沙汰を起こしたが、新蔵の父は武勇忠節名高い多田淡路であったためその際は許された。

にもかかわらず、その後、新蔵は甘利同心の福田という者との間で再び喧嘩沙汰を起こしてしまった。
その仔細はこうである。

福田は、酒に酔っ払った様子で自身の下女を町中に立たせ、往来の者に触らせ、
人の女に手を付けたといって打ち伏せて、刀脇差を奪い取ろうとした。
日暮れ時で、よく見えなかったたため、福田はその相手が新蔵だと気付かないまま、
逃がしてたまるかと、刀を抜いて新蔵を追いかけた。
新蔵はいろいろと言って釈明しようとしたが、福田はこれを許さず新蔵に切り付けた。
そこで新蔵は、刀を抜き、一刀にて福田の頸を打ち落とした。

この件は当然問題となり、山県三郎兵衛(昌景)を奉行として詮議が行われた。
新蔵は、「喧嘩の始終を、目撃していた町人を召し寄せて、拷問して聞いてみてください。」と言う。
呼ばれた町人は、拷問を受けるまでもなく見たままを話したので、
新蔵は赦免され、福田は切られ損となった。
それどころか福田の行いは強盗であるとされ、福田の女房まで磔に処せられた。

山県は、普段は新蔵のことを嫌っていたが、少しも私心を交えることなく判断なさったため、
このような結論となったのだった。

以上、修羅の国たる甲斐らしい突っ込みどころが多すぎる話を「甲陽軍鑑」からニュアンス訳で。


ちなみに書によって、本来別の人物である
新蔵、久蔵、三八が混同されて記録されているため混乱が生じていますが
既出の「多田満頼、久蔵、天下に名をはせた勇者の物語・いい話」
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-382.html
に出てくる久蔵と上記の新蔵は、おそらく同じ人物です。




701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 01:56:44.56 ID:DyCMgkKm
証人を拷問w

702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 06:29:50.11 ID:FJiAJpCG
甲陽軍鑑とかのおかげで高坂さんとか真田さんとかは急に知名度大上昇だよなぁ。
逆に原さんとか小幡さんとか四名臣だけど内藤さんは評価低いね。徳川で言う大久保ポジションというか。

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 10:10:52.12 ID:Z89BwmrG
甲陽軍鑑って裁判の話多くていいよな 
武士道を知ることができる 

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 10:27:07.04 ID:FTj2+X6D
尋問とかいうのならともかく、
目撃者を拷問するなとw


705 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/10/04(木) 10:30:31.08 ID:+upK+BFu
ていうか女房気の毒だな
下女は無事だったようだが

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 10:31:49.86 ID:K+7a1/nL
>福田の女房まで磔に処せられた。


なんで女房まで磔になるんですかー!やだー!

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 11:17:51.17 ID:Fcg6TPfa
下女にやらせたってことは女房も認識していたはずだから共犯扱いってことなのかな?

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 12:08:32.97 ID:EabxPmNO
まぁ下女の管理は女房の仕事だから共犯もしくは当然責任があるという考えだったんだろう

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 12:17:16.53 ID:DyCMgkKm
女房がキリシタンになったら下女の所為なんです

710 名前:699[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 12:34:39.98 ID:GqDbShNe
>>707,708
共犯ってよりも、主人の罪に妻子が連座したってことだと思う(この場合は子がいなかったみたいだけど)
甲州法度にも、罪人の妻子に刑罰が当然に連座することを前提にした規定があるし

>>701,704
甲陽軍鑑には他の逸話にも、証人として呼ばれた町人に対して、
拷問してでも話を聞けとする信玄の意向が示されるシーンがあるんで、
本当に拷問するかどうかは別として、
証人に拷問すると脅してでも証言させる、っていう発想は当時としてはそれほど突飛なものではないみたい

怖い世界ですなw


711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 12:52:46.60 ID:466WC98E
まあ、被害者が拷問されたみたいな話もあるから、目撃者が拷問されることもある

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 13:38:37.38 ID:Fcg6TPfa
うわ、この例で単純な連座だとすると、甲州法度って本当にアレなんだなぁ…

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 14:44:05.02 ID:EabxPmNO
喧嘩両成敗の項だろ。そりゃ甲州法度では喧嘩は重罪だからな。
何でもかんでも連座という法は無い

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 15:50:00.46 ID:J3MY6+oy
「ねんがんの じけんげんばを もくげきしたぞ!」

ニア ごうもんしてでも といただす

「なにをする きさまらー!!」

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 16:34:41.73 ID:AeP+oVK6
曲渕とかいう狂犬もいるから本当訴訟は奉行もハラハラだぜw

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 17:56:06.88 ID:H5EgBvVS
>712、修羅の国、甲斐の法だしw

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 19:33:02.84 ID:kO5vp65O
今川の真似だったと思うけど

718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 20:46:54.73 ID:+r+WOQwx
真似であって、自国流にアレンジはあるよ当然

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 21:59:42.51 ID:FTj2+X6D
>>715
「甲斐の狂犬」と書くと、
ヤンキーか何かに見えてくるなw

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/04(木) 23:57:54.42 ID:EY7LAARa
富田さんが血走った目で見ている

山県三郎兵衛という男は、

2012年08月14日 20:50

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/14(火) 16:44:22.90 ID:PfYvBoVL
『「柳川の合戦において、私ははじめて必死の場で槍働きをした。
もう二十間は突き進んだろうと思い見渡すと、もとの場にいる。
十間は進んだだろうと思っていると、二、三間も後退していた。
山県三郎兵衛という男は、家康公と合戦するときには、
いつも五、六間さきまで突き進んだと九州までも伝わっているが、
山県の槍が天下無双だということがその時に、
実感として始めてわかった」
と安芸殿(鍋島茂賢)の言葉である。
家康公が信玄と戦うときにはいつも山県が立ち向かったが、
一度も槍合わせにひけを取ったことがなく、
槍合わせのたびに、五、六間さきまで突き進んだものである。
山県は欠唇だったので、家康公は、
家中の者に欠唇の子が生まれたとお聞きになると、
その子は山県の再来だから大事に育てるようにと、
お喜びになられたとのことである』

葉隠





山県昌景「我らはこれより討死いたします。」

2012年02月04日 21:54

955 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/04(土) 02:25:09.55 ID:zNe63Or/
1575年、武田軍と織田・徳川連合軍との対決である長篠の戦いを前にして、山県昌景は他の重臣達と共に
信玄の死後に後を継いだ武田勝頼に対して自軍の不利を説いていた。しかし、それは聞き入れらないまま
決戦当日を迎えてしまった。
それでも昌景はもう一度だけ諌めようと勝頼のもとに向かったところ、

「くどいぞ昌景!お前ほどの者でも命が惜しいか!」

と侮辱するかのような返事を受けた。これに怒った昌景は

「我らはこれより討死いたします。勝頼様も討死遊ばされよ。」

と吐き捨てると、大声で

「犬に説教する様なものだったわ。皆、討死だ!」

と怒鳴りながら出陣していったという。 




966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 12:35:44.71 ID:IBGNsZq6
>>955
信繁が生きていたら何か変わっていたかも知れないのになとつくづく思う

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 12:50:43.13 ID:EFN4a98/
勝頼と昌景が対立って筋書きは昔からあるけど個人的には疑わしく
思っているんだよね
各方面の責任者の中では勝頼の方針で最も恩恵を受けているはずだし、
重用されてるのも明らか

969 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/04(土) 13:44:34.29 ID:MVdk/Rxx
>>968
気持ちは判るけど、真贋判定は逸話スレの守備範囲外って事で。

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 14:01:37.21 ID:jd0/x7zK
>>968
その件の一次史料が残って無い以上真実など分かりっこなく
軍鑑の記述を信じるか信じないかだけの話

973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 14:22:25.48 ID:gTIdjLt4
>>955
昌景かっこいい

979 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/04(土) 17:54:55.97 ID:DjqDH+tA
昌景って猫口だったんだろ?
「我らはこれより討死いたします。勝頼様も討死遊ばされよ。(`・ω・´)シャキーン」
「犬に説教する様なものだったわ。皆、討死だ!(`・ω・´)クワッ!」
なんかほのぼのしちゃうな

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 19:34:59.58 ID:EFN4a98/
真偽を追求するのは本意ではないので申し訳ない

勝頼って同情心が沸いてくる人物で、明らさまにsageな話を見ると
敗軍の将だからある程度は仕方が無いけどいくらなんでもあんまりだ、
という感情が沸いてくるんだな

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 19:57:17.68 ID:gTIdjLt4
まあそれはそうと
討ち死に宣言して本当に壮絶に討ち死にしていく昌景はかっこいい
激怒した武田軍に決死の特攻される織田徳川のひきつった顔を想像するのは楽しい

984 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/04(土) 20:06:32.99 ID:xEbrWwuJ
家康の山県好きは異常すぎ
家臣に山県と同じ兎口の子供が生まれた時に本多山県と名付けるくらいだから
天目山の後、旧武田家家臣(特に山県の家臣)を積極的に採用してるし

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 20:19:25.47 ID:yylTmwW/
>>982
江戸期に武田賛美が盛んになる
→しかし武田家は滅亡した→勝頼が悪かった
て感じの論調になったんじゃないかな

山県三郎兵衛、さりげなくリクルート

2011年11月04日 22:06

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/04(金) 00:51:43.26 ID:KZz15sJD
山県三郎兵衛、さりげなくリクルート

あるとき総州から甲州に使者が訪れ、宴席が開かれた。
使者たちは並み居る猛者へ、武功の話などを順繰りに聞いていた。

順番は、そろそろ場に似合わぬ貧相な武者にかかろうとしていた。
この武者、髭で隠しているがよく見れば、上唇が鼻まで裂けている「三ツ口」である。
どなたかと聞いた使者は、仰天した。
その武者こそ、武田一の大将か二の大将か、と言われる山県三郎兵衛だったのである。

順番なので、使者は恐る恐る山県に武功の話題を振った。すると山県、
「ご覧の通り私は四尺四寸(135cm前後)、この通り体格も貧相です。
馬場美濃のように単騎で戦場を駆けたなどという武勇もなく、皆様にも劣ります。
しかし私はもとは他国者ですので、他国からの流れ者、退転してきた者などの世話を
自然と承ることが多くなり、その者たちが良く奮戦するので武功も付いてきました。
戦場で思い上がることがなく、部下達を可愛がれば私のような男でも武勲を立てられ
ますし、他国者が活躍をしていると聞けばさらに人が集まります。それだけです」

と、実に淡々と語った。
使者達は一様に感心し、「甲斐一番の大将は山県だ」と語り合ったという。



山県は唇に先天的な障害があったことを思えば、発音も明瞭では無かっただろうが、
彼が立ち上がって下知する声は、耳元に雷が落ちたような凄まじさだったという。

もしかして有名な赤備えも、身一つのよそ者が部下に多かったからできたのかも。

しかし微妙に「他国者さんいらっしゃい」的な宣伝が混じっているのは気のせい?




384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/04(金) 11:18:13.79 ID:658M+vxX
山県さんて他国者?

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/04(金) 11:19:57.63 ID:44YwsUk3
安芸の出という説がある

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/04(金) 19:02:02.81 ID:ZXhq/3cl
少なくとも父は長門または安芸出身

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/04(金) 19:49:25.57 ID:HfO80c1F
島左近も山県配下にいたことがあるっていう伝説あるらしい
ゲームとかで武田軍に島左近がいるって知ってなんか不思議な感じがした

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/04(金) 21:01:01.05 ID:639ivSNz
>>385
>>386
あれって
江戸時代に自称・子孫&親戚が当時流行ってた(?)信玄関連にあやかって
自分の先祖は山県って事にしたんじゃなかったっけ?

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/04(金) 22:12:35.17 ID:Pv1wyuGW
何百年も前に分かれた本家・分家で意外に連絡取り合ってたのかな

オレ長野県出身で信濃島津氏の末裔(自称だが)知ってるけど
その人の知人で山田さん・平田さん・川上さん・鎌田さん・町田さんがいたわ

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/05(土) 00:01:45.15 ID:wpXEQx9w
んん、歴史ロマンを感じるねぇ。身近にあの大名の子孫が!?みたいな

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/05(土) 00:04:32.25 ID:YGvWIM8j
誰々の子孫とか言う奴は大抵胡散臭い

【中国】曹操の70代目子孫と称する男性…DNA鑑定の結果は「肯定的」
http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1320410648/

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/05(土) 00:26:14.73 ID:j/P6Jcn1
人間みんな「誰か」の子孫なのは間違いないからねぇ、血筋だけでは何とも
やっぱり、どっかの元首相の家みたいに受け継いできたものが無いと意味が薄い

・・・だからこそのロマンだったりもするが

393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/05(土) 02:38:54.18 ID:Wtmm/DS+
>>388
その指摘もあるんだが、飯富虎昌と山県昌景を兄弟と書いてあるのはもとは甲陽軍艦の記述のみらしい。
で、萩藩閥閲録、萩藩諸家系譜には、二人は直接の血のつながっていない伯父と甥(虎昌の姉が昌景の母)で、
さらに昌景の姉か妹が甲斐に嫁いでいた縁があって甲斐に流れ着いたというんだよな。

年齢や家紋の違い、山県が山陽方面の取り次ぎをしていたあたりから、そっちの方が信憑性がありそう、
ということらしい。

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/05(土) 02:40:41.61 ID:PSJfb0CK
70代目とはすごいな。
これはY染色体だっけ?それを受け継いできてるってこと?
それとも配列が似てるってだけとか。

395 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/11/05(土) 05:15:58.78 ID:qgXNcgwh
>>393
甲斐に流れ着いた時期が昌景11歳のときということになるのがなあ…

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/05(土) 12:21:15.06 ID:rZ2TAljI
>>395
親父と一緒とか?郎党と一緒?
参考にならないけど、まとめみたら山県さんの逸話に、
他国者の扱いにミスるとかあるからそうなのかも。

ところで武田四名臣ってみんな他国者じゃなかったでしたっけ?

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/05(土) 12:45:19.22 ID:aXzh3ZKV
継母と仲が悪くて出奔したんじゃなかったっけ

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/05(土) 13:37:34.49 ID:TNucbSjZ
>>399
んなことは無いが?

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/05(土) 13:48:41.53 ID:aXzh3ZKV
四名臣じゃなくて甲陽の五名臣は他国者じゃなかったっけ(小幡以外)

山県昌景の秘訣

2010年12月25日 00:01

961 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/12/24(金) 19:46:12 ID:ucXBffq2
毎度初陣

有名な話だが、まだ出ていないと思うので。

戦国有数の勇将・山県昌景にあやかりたいと思う人物は数多く、武田信玄の弟・一条信龍は彼に活躍の秘訣を問う。

昌景応えて曰く、「訓練も大事だが、心がけもまた大事。常に初陣のつもりで戦いの臨み、慎重に策を練ります」と。

彼ほどの歴戦の猛者でも、おごることもなく常に緊張感を持ち続けることができたということ自体がすごい。
また、信龍も同じく常に武備を怠らないなど、平時に乱を忘れないという姿勢だったそうで通じるものがあるようで。
新田次郎の「武田勝頼」だと、信龍はただの偏屈なおじさんだったので意外だった。


ただ、相手が勝頼だったら話がかみ合わなかったかも。




966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/24(金) 23:04:32 ID:AESOfYUg
家康「そうだ!本多山県と名づけよう」
本多某「・・・」

北地五郎左衛門の死と山県三郎兵衛昌景

2010年06月02日 00:00

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/01(火) 19:19:25 ID:+c49EMy3
伊勢出身の牢人、北地五郎左衛門は武田家に仕官して山県三郎兵衛につけられた。
この男の知行地は痩せ地であったため、北地は山県の家宰、大場民部左衛門を通して替え地を願っていた。
しかし、大場は北地を余所者と馬鹿にして願いを握り潰していた。

北地は屈辱を覚えて武田家を離れようとも思ったが、この頃の武田家を辞めていく者などいないので
何か悪い事をしたのだと言われてしまう。切羽詰った北地はついに腹を切ろうとする。
北地の友人たちは彼を止めようと押さえつけたが、北地は膝の上を12、3回突き、その3日後に死んだ。

山県は慌てた。信玄が牢人出身の家来たちの待遇に神経質だったからである。
山県は厳罰を恐れて事を穏便に済まそうと思い、わからぬさきに届け出たが、それでも騒ぎを抑えられなかった。
事件を知った信玄は牢人出身の家来の事を考えて、たとえ寵臣の山県でも取り潰そうとした。

焦った山県は原隼人佐、三枝勘解由左衛門、曽根与市之助の名を借りて
「自分はこの件をまったく知りませんでした」と誓書を差し出した。そこで信玄は長坂長閑、跡部大炊らに
命じて大掛かりな調査を行った。

その結果、大場は成敗となり、山県は何も知らなかったとして改易を免れたのである。
ただし、信玄は「葬式はお前がやれ」と山県に命じたのであった。




124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/01(火) 19:37:40 ID:c5e7FaN5
イメージと違って武田家って他国者だらけなんだよね。有名な武田五名臣は
全員他国者の中途採用。そういう意味で武田家は実力主義の、風通しのいい家風ではあったらしい。

125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/01(火) 20:43:23 ID:Zc1KHUrd
信虎さんの遺産だよね。
その家風のおかげで武田家直臣と国人衆の対立も生まれ、
勝頼の代には武田家滅亡の原因の主因ともなる。

歴史は面白いなぁ。

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/01(火) 21:54:55 ID:l+zhO2Mi
成瀬正成の親父とかも信玄に仕えたことあるよね

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/01(火) 22:44:27 ID:PNX/cvJg
信虎さんの代に国内統一するまで内ゲバ状態だったね
武田家って信玄が隣国に攻め込んだってイメージ持たれるけど
それ以前の歴史を知ると歴代の当主も壮絶だ
その中でも信虎さんは群を抜いてるけどね
北条氏綱破ったり今川の大軍を破ったり石和の館から甲府へ移転したり
息子に追放された後も息子の駿河進行を手伝ったり近畿地方で弾けてたり
素敵親父すぐる

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/01(火) 22:55:08 ID:joYYf+pO
孫の前で刀振り回したり、素敵過ぎる

「ややっ、あの男…」

2010年01月20日 00:12

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/18(月) 22:08:29 ID:yOiTxWZl
長篠の戦いの時。

「ややっ、あの男…」
山県昌景は敵軍の中に一人の男を認めた。男は柵の取り付けかたを
教えていた。
「あの侍はただ者ではないぞ…。討ち取れ!殺すのだ!」

昌景がそう指示した直後、彼は徳川の銃弾に倒れてしまった。
昌景は馬に乗って采配を口に加えたまま往生した。その姿を見て
誰もが偉大な勇者だと昌景を讃えた。

さて昌景が最後に殺そうとした男。彼こそのちの太閤秀吉であった
という。




159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/19(火) 08:54:13 ID:tepgfi3C
>>151
そもそも長篠での羽柴隊って後方だよな

163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/19(火) 11:09:52 ID:mfrdRwr5
>>147 >>159
武田から見て秀吉隊は右から2番目、
山県隊は最左翼、お互いの距離は900m。

ありえない、けどいいよ。俺その話、なんかの漫画(劇画)で見たような気がする。

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/19(火) 12:46:15 ID:uG5r2Es7
話の真偽がどうこうってな話をするよりは
なんでそんな話になったんだみたいなのを語る方がこのスレっぽいしなあ。

とりあえず有名人だしとけみたいなオハナシも少なからずあるんだろうけどさ。

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/19(火) 12:56:18 ID:zgmwIXkH
>>163
川中島の一騎討ちは
謙信が単騎で突進した事と武田本陣に突っ込んできた騎馬武者いた事の融合という話があったけれど
同じように長篠で山県隊の正面にいた徳川軍の内の誰かを見て本当に>>147と言ったのが
時とともに秀吉の話になっていったのかも、なんて。

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/19(火) 15:10:40 ID:zLL1cSs0
逸話が主なスレなんだから夢があったほうがいいじゃないか
[ 続きを読む ]

大内氏の家臣、山県重秋の次男

2009年07月26日 00:06

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/25(土) 12:53:40 ID:VGBg7LRJ
大内氏の家臣に、山県重秋と言う者が居た。彼には重房と源四郎という息子があった。

この重秋、妻に先立たれ後妻を娶ったのだが、この後妻と、当時十一歳の次男源四郎との
折り合いが大変悪く、重秋も困り果て、この源四郎を東国にある、亡妻の弟に預ける事にした。

この叔父の名は飯富虎昌。源四郎は叔父の住む甲斐に行き、名も飯富源四郎と改め、
叔父とともに甲斐国主、武田晴信に使えた。

そう、この源四郎こそ、後の武田四天王、山県昌景なのである。


萩藩閥閲録(毛利家の一級史料)に記録されている、山県昌景の意外な履歴。




807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/25(土) 13:06:29 ID:yEJzR9u6
>>806
お約束の継母だが・・・

 山県三郎兵衛さん、少年時代にそんな経験をしていたのか

809 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/07/25(土) 15:45:57 ID:0wTPtEta
>>807
その世話になった叔父を裏切って、密告に走った…
下衆の所業だw

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/25(土) 15:56:13 ID:+60wjQAA
>>809
見方を変えれば信玄に忠をつくした

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/25(土) 16:08:13 ID:M/qID5h2
>>806
飯富虎昌の姉ってことは甲斐生まれだよね?
いったいどういった縁で嫁いだんだろう。

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/25(土) 16:13:19 ID:6+sf4Fv0
>>809
あれって「言うなよ!絶対言うなよ!」みたいなもんじゃなかったっけか。

814 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/07/25(土) 16:37:43 ID:/j5eYzk9
虎昌が義信への忠義を尽くすから、昌景が信玄への忠義を尽くす。
という綺麗な物語だと思ってる。

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/25(土) 16:39:22 ID:oj4O/gSw
情に厚い義信が武田家継いだほうが家は安泰だったかもなぁ

816 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/07/25(土) 16:44:53 ID:xNif6f68
でも家臣が付いて来ないだろう > 義信

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/25(土) 18:43:58 ID:iNMuy0d0
義信が継いだら継いだで駿河地域も信濃地域も収まりそうにないわなあ……
義理だけでやってける情勢でもあるまい

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/25(土) 18:47:44 ID:d+zMlbTW
というか地勢的情勢的にもう半分詰んでる
だれがなってもだめじゃね感が

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/25(土) 19:18:48 ID:/O0Ki674
>>811
甲斐と安芸には同族になる源姓山県氏がいたから
甲斐山県氏の仲介で嫁をもらったんだろうかね
全国宇都宮ネットワークみたいな

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/25(土) 20:05:09 ID:XVdfDDYN
山県有朋あたりの捏造じゃね?
板垣退助みたいに。

825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/25(土) 20:23:14 ID:M/qID5h2
>>821
ああ、なるほど。
戦国時代の同族達って結構繋がりがあったのかもね。

827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/25(土) 20:31:15 ID:TG7LtUyg
武田に滅ぼされた小笠原は同族の三好を頼って落ちていったりしてるしな