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大阪夏の陣直前、大野治長襲撃事件と牢人間の分裂

2020年09月28日 18:09

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/28(月) 18:01:53.65 ID:J1AvwdnW
慶長二十年

四月十二日
京都の板倉伊賀守(勝重)より飛脚到来。これの申す所によると、去る九日の夜、
大阪の本城よし大野修理太夫(治長)が宿舎に帰る所、何者とも知れぬ人物がその跡をつけ、
脇差で修理の左の脇から肩先に突き抜いたという。この者は突き捨てて一町ほど逃亡したが、
そこで修理の郎党達が追いつき切り留めた。
この者は修理太夫の弟である主馬(治房)の家来であったという。

この事件によって城中の緒牢人は、互いに疑いあい騒動と成ったという。

十三日
今日、大阪より織田有楽、同息・武蔵守(尚長)が大御所の元に参り御前に出た。
大阪の情勢は現在、諸牢人が三つに分かれているという。

七組の頭、大野修理太夫(治長)、後藤又兵衛(基次)の一組、
木村長門守(重成)、渡辺内蔵助(糺)、真田左衛門佐(信繁)、明石掃部助(全登)の一組、
大野主馬(治房)、長宗我部宮内省輔(盛親)、毛利豊前守(毛利勝永)、仙石豊前守(秀範)の一組

この三つに分裂しているのだという。

『駿府記』

大阪夏の陣直前の、大野治長襲撃事件と牢人間の分裂について。



370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/28(月) 23:43:19.12 ID:CFvMgXPO
取次の退去で冬の陣になりーの
自分で出した分も含めて和睦条件がこなせないままこれまた取次の治長が家中問題で襲われ―の

もうまるで統制も取れてないな

大野治長は片桐退去までの行動は最悪だけどその後の行動はかなり現実的よね、まぁ周りからすりゃ原因のお前がなに止める側に回ってるねん感もありそうだけども

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/29(火) 00:11:07.87 ID:0Z7Z+w/e
片桐退去の時点でもう滅亡するまでやり合しかなくなってしまったのに、
その主犯だった大野がなんとか外交的に豊臣が残るだろうなんて甘い考えにすがるのは、今さら感がものすごい。

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/29(火) 00:50:50.34 ID:143NSg4c
講和時点でちゃんと和睦条件こなせるだけの器量が秀頼にあればあんな無様な事にはならなかったろうけど
そもそもそこで和睦条件こなせるだけの器量あったら最初から揉めないというなんとも言えない状況が
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大野修理襲撃事件のこと

2018年06月30日 21:12

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/29(金) 22:51:44.49 ID:d3bXhUj1
大阪冬の陣の講和の後、大野修理が御城より帰り、内御門の脇にて小便をして居た。
ここに30ばかりの、撫で付けにした小紋の袷を着て、一尺三寸ばかりの脇差を持った男が、
大野の60人ばかりの供の者に紛れていた。

その時は夜の五つ時分(午後八時頃)であっただろうか、男は大野に飛びかかった。
脇差が大野の身に刺さったまま、男は駆け逃げた。
闇夜であったので大野の供の者たちは方々を探したが男は見つからなかった。
しかし大野の小姓が、焼き崩された片桐且元の屋敷跡の、石垣の際にて男に追いつき、肩先から
一太刀で討ち留めた。
この小姓は後で豊臣秀頼より、過分のご褒美を下されたという。

そして、かの討ち取られた男についてだが、大阪城より、金子五十枚を賞金としてかの男の
身元を知る者は訴えるよう属託したところ、翌日には二人のものが訴え出て金子を受け取った。
すると本町に住む牢人が、家に火をかけ自害するということが置きた。

後に下々の者は、この事件は片桐且元が起こした事だと申していた。

(長澤聞書)

大野治長襲撃事件のお話。一般には治長の弟の大野治房などによる襲撃と言われますが、大阪では
片桐且元の仕業」という噂が流れていたのですね。



897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/29(金) 23:29:33.60 ID:UkJDX4f0
へうげものに出た大野兄襲撃エピソードって元ネタがあったんだな

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/30(土) 11:53:43.89 ID:FfwUYCBs
死人に口なしってのが、暗殺事件の基本だわな。

終始の勝敗は、終始の政による

2017年06月21日 20:02

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 19:41:24.04 ID:D+B63afb
大阪夏の陣、5月7日に、大野修理は茶臼山の近くまで進出していたが、秀頼の出馬あるよう申し上げるとして
城中に引き返したが、その時大纏を持たせて城中に急ぎ退くのを、他の味方から見ると敗北して城に
逃げ帰るように見え、七手組の人数その他城外に出て戦っていた秀頼方は、悉く気後れし敗北の機が出来、
共に城に入る者も多かった。
寄せ手はこれに気を得て、いよいよ勢い強くなり、これによって豊臣勢は総敗軍となりたちまちに城中周章し、
程なく落城に及んだ。そう語る人がいる。

しかし、大阪の落城の原因はこれではない。ただ秀頼の謀の不足、群臣の異議不全によるものである。
さらに推して言えば、太閤秀吉は一旦の勢いに乗じて天下を従え、道の道たる理由を知らず、
己の私智に任せた事の余映に寄ることである。
また、この時についても、大野が不功者にて事理を糾明し得なかったため、こういうことも起きたのである。

その日、速やかに破れたのはその日の謀により、終始の勝敗はまた、終始の政によるべき事である。

(士談)

大河の真田丸なんかでも豊臣敗北の原因とされた大野の行動ですが、それは真の敗因じゃないよと
山鹿素行がすでに批判していたというお話。


900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 21:16:56.75 ID:i1njUqXZ
夏の陣は仕方ない

能役者喜多が祖の事

2016年08月23日 18:11

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/23(火) 03:51:17.17 ID:JLm47JcP
能役者喜多が祖の事

能役者喜多七太夫の祖は、右京と称して太閤秀吉の近習士であった。
七太夫の家に伝わっている話に

大坂落城のとき右京も城内に居たが、大野修理が「早く傘を櫓から出して振れ」と言ってきた。
右京はその言葉に従って天守に上り、狭間から日傘を出して振れば、
雲霞の如く集まっていた寄せ手が、見るうちに段々減ったというものがある。

また城中の婦女雑人の類は、皆々落出る体となったので、右京も故郷筑前に落ち帰ったそうだ。

ただしこれは表向きに言うことで、
実は落城の時関東の御内旨で
秀頼が薩摩に落ちられるのを右京が従っていったという話だ。

この櫓から日傘を出したことを矢留の傘とかいって、故実あることだという。
しかしいかなる訳かそのことは不詳である。
これは七太夫の父、湖遊が語ったことと聞く。
(甲子夜話)




115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/25(木) 13:34:37.63 ID:+0+aEUCX
>>101
>実は落城の時関東の御内旨で
>秀頼が薩摩に落ちられるのを右京が従っていったという話だ。

関東の御内旨ってことは秀頼が生きて薩摩に逃れたのは家康、秀忠も了承してるってこと?

籤で持ち口

2016年05月01日 17:13

579 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/30(土) 21:19:12.93 ID:SZUuzKNG
大阪冬の陣が始まろうとする時、大阪城中では関東の出馬を聞いて、諸方の砦、その他外構え等の
普請に傭役を増やしてこれを急いだ。そして豊臣秀頼は、譜代新参の諸大将を召して評定を開いた。
その内容はこうである

「先に命じた各々の持ち口(担当部署)には善悪が有り、それに対して不満も出ている。
そのためもう一度、籤によって持ち口を定めたい。」

これを聞いた各持ち口の頭分の者達は
「最前既に仰せ付けられた持ち口ですから、それに善悪があろうとも今また変更すべきではありません。
また、兵家が籤を用いる時は、故実に従うべきです。
ともかく、そのままに差し置くべきです。」

そう、この件に反対した、

この時、大野治長渡辺糺は籤奉行であったのだが、大野治長がこう発言した
「黒門口は平野口に近く大手の内の要害ですから、かの口三十間は治長がこれを堅めます。」

これを聞くや渡辺糺が怒鳴った
「治長殿のやり方は理解できない!いま、持ち口に善悪があるからと籤を用いようとしているのに、
黒門口は治長自ら堅めると言われる。ならば籤はしないのと同じではないか!?

総じて修理亮殿は万事ほしいままにして諸将を蔑ろにしている事、甚だ奇怪である!今後、慎まれる
べきである!」

しかし治長は少しも屈せず
「黒門口は内側が広ければ小勢を以っては担当できない。それ故にこの治長が、籤を執る前に
これを堅めたいと申したのであって、全く我意を挟んだものではない!
そもそもそのようにいう和殿こそ、却って秀頼公の思し召し良きをいいことに、常に諸士に対して
無礼であるため、人々もこれを悪んでいると聞くぞ!
この治長に意見する前に、先ず自身が謹しまれよ!」

そう荒らかに言い放つと、糺も激怒し
「普段のことはともかく、今度の黒門口は籤の上であれば、特別に治長に堅めさせるようなことはしない!
強いてというなら、余人には渡さぬ。この糺自ら請い取るべし!尚も言いたいことが有れば申してみよ!」

目を怒らし居丈高に成り、肘を貼って叫ぶ渡辺糺に、大野治長も立ち上がった所を、座中の人々が
慌てて両人の間に入り
「御両人はこの城の棟梁の臣なのですから、このような諍論は似合いません。殊に大事を控えながら
朋輩同士が口論するのは然るべからざる事です。第一君の御為になりません!」

そう制したことで渡辺は鎮まり、治長も「私も誤っていた」と謝罪し、各々はその座に帰った。
この諍論に時間を取られたため、籤の沙汰は無くなった。

籤が中止に成ったことを真田幸村は聞くと「さもあらん」と嘲笑った。
そして後藤基次は
「両人の喧嘩は大阪の幸いであったのに、どんな馬鹿者がそれを止めたのか。
この両姦人さえ討ち果たせば、城中の評議は思う様に整って、天晴花ある軍となっただろうに。惜しいことだ」
と、大いに腹を立てたという。

(慶元記)



580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/30(土) 23:16:14.42 ID:q6uhGX3x
いつ見ても城内ばらばらやな

581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/30(土) 23:49:28.24 ID:1l8pvDLb
目立った働きのなかった譜代が目立とうとして必死なんよ

582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 00:06:04.93 ID:x4B2WdUx
突出して凄いのが出てくればよかったんだろうけどねー

583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 00:33:08.56 ID:98MthrCf
そりゃまあそれほど戦慣れしてない譜代は浮足立ちもしそうなもんだ

このように、大阪方の手立て、仕置は

2015年10月27日 14:57

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 13:52:38.37 ID:DVPqIe60
かつて大和大納言(豊臣秀長)に仕えていた国島道喜は、左手が手首から切り落とされ、
右手ばかりであった。彼は大和豊臣家の滅亡後牢人していたが、大阪の陣の勃発に
大野修理(治長)によって呼び出され、鉄砲隊を預けられた。
大阪落城のあと、武士を辞めていたのだが、松平下総(忠明)殿に呼び出され、御伽衆のように仕えた。

この道喜が語ったことに、大阪夏の陣の5月4日、豊臣方では、幕府方蜂須賀の軍勢を、毛利豊前(勝永)の軍勢
一手にて打つべしとの事であったのに、作戦は相違し失敗した。

また5月6日の明け方七つ(午前4時頃)に大野修理が毛利豊前と共に国府まで出兵する約束であったのに、
支障があるとして六つ(午前6時頃)まで引き延べ、さらにまた五つ(午前8時)にすべしと、
3度も変更してようやく出馬した。この陣のなかに道喜も居た。

さらに平野のあたりで、大野修理は「豊前と相談することがあるので今一度言って話をする。人数を下げよ!」
そういって手廻り5,6騎にて引き返した。大野が率いていた豊臣方の諸軍勢は、疑いながらも引き上げた。
その道すがら、立派な騎兵4万ばかりと行き合った。これは大阪城の七手組の軍勢であった。

この時、大野修理が出馬のため鹿毛三寸ばかりの馬に乗ろうとした所、どうしたわけか馬が修理を乗せようとせず、
何度もやりなおして漸く騎乗したという。

このように、大阪方の手立て、仕置は、相違することばかりであった。

(武功雑記)



544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 17:38:01.69 ID:Z6+pZqxx
>鹿毛三寸ばかりの馬

何のサイズが三寸なんだろう?
まさか体高じゃないよね・・・

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 17:44:09.82 ID:DVPqIe60
>>544
原文のままなのですが、多分三尺の間違いじゃないかなとは思います。

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 17:44:51.21 ID:awa9htJ4
尺が抜けてそうだよな
つか既出や

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 17:54:32.38 ID:XVncGBb9
三寸は体高四尺三寸って意味だよ。
馬は4尺あって当たり前なので、そこは略して単に○寸と表現する。

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 21:12:54.74 ID:Z6+pZqxx
>>547
>三寸は体高四尺三寸って意味だよ。
>馬は4尺あって当たり前なので、そこは略して単に○寸と表現する。

そういうことなんだね。
どうもありがとう。
しかし、いつも思うんだけど、みんな物識りだね~

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 22:23:19.75 ID:X5C7r9E2
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6508.html
これでもその話題があったな
後はこの四尺以下は農民に払い下げた話とか
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3526.html

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/28(水) 00:02:58.75 ID:h+07QPAW
しかし東国大名はむしろ体高が低めの馬を使うようにと推奨してるけどな
四尺一寸~三寸あたりの

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/28(水) 10:46:38.21 ID:P96eNA4e
だいたい乗り手の肩の高さ=馬の体高くらいが基準だよな

大野治長襲撃事件

2015年02月16日 18:35

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/16(月) 00:07:41.67 ID:y4ziA/OB
大和の吉川主馬之助の猶子に、吉川権右衛門、同新蔵という兄弟があった。
彼らは大和国で武辺覚えある者にて、大野主馬(治房)が良く存しており、大阪の陣の勃発に当たり、
主馬によって豊臣秀頼のもとに召しだされ、大野主馬の組下と成った。
この時故あって、平山治太夫、平山清兵衛と改名した。

さて、大阪夏の陣が始まろうという時、関東より軍勢が発向したとの報を受け、大阪城内では
様々に評議が行われた。この時、大野修理(治長)は
「大阪方は少数であるから、籠城すべきだ」と主張した。
これに対して主馬は
「京都に進出して宇治・勢多の橋を引き落とし、京都において戦うべきです!
天下分け目の合戦で最初から一城に引きこもるなどというのは、後難を考えても口惜しきことです。
とにかく進出すべきです!」
そう主張し、その他様々に提言したものの、修理は同意しないことも多く、埒の開かない
有り様と成った。これに主馬は強く立腹し

『いくら兄と言っても、なんと無分別な人であろうか!あのような者は突き殺さねばならない!』

そう考え平山治太夫を呼び密かに談合した。
これを聞いた治太夫は「それは一大事のことです。思い留まれますように。」と一応は申し上げたが、
その答えに主馬が以ての外に怒りだしたため、治太夫もついには同心した。

そこで大野修理を刺殺する者について検討した所、元、布施の忍の者に今倉孫次と言う者があり、
治太夫がこれを呼び寄せ密かに語った
「その方は足速き者にてなかなか人に追いつかれるようなことはあるまい。
どうにか首尾を見て大野修理殿を突き殺し、逃げ去るのだ。
大野主馬殿は、それが成功すればそなたに大和において十万石を与えると仰せに成られた。」

そのように念入りに密談すると、今倉孫次はこれを了承し、「畏まり、存じます。」と申した。
その後大野主馬より脇差しが与えられ、今倉はこれを三度押し頂き退出した。

そのような中、大野修理は登城していたが、日没の時分に乗物で退出の途中、
大手桜の御門にて乗物より出て小便をしていた所、かの今倉孫次が「御免候え」と言いながら
修理の供の間を通り抜けると、刀で修理を二度突き、そのまま逃げ去った。

供の衆はこれを追いかける。今倉孫次は、普段は早馬にも劣らない、早駆けの達者の者であったのだが、
この時はどうしたことか、水道の溝につまづき転倒した所を、数人が追いつき斬り殺された。
大野修理は2ヶ所負傷したものの、いずれも薄手で程なく平癒した。

事件の直後、大野修理から主馬が呼び出された。主馬は「もし、なにか様子の変わったことが有れば
心得ておくように」と、次の間に平山治太夫を控えさせた。

主馬に大野修理は「不埒者があって、このような有り様となった。お主も犯人の詮索をするように。」
と語った。主馬は内心『仕損じたか!』と思いながら、さらぬ体で対応し、そのまま帰った。

翌日、今倉孫次の遺骸は傷を縫われ柱に縛り付けて立たせ、この者の情報を提供したものに
黄金五十枚を与えるとの触れが出された。これに大野主馬は心もとなく思い、平山治太夫を呼んで
相談した
「あの今倉孫次は、成田勘兵衛の同心であった。急ぎ処置せねばならない!」
そう言って治太夫に、成田勘兵衛の屋敷へ数百人を遣わせ、是非を言わせず斬り殺させた。
そしてこれより平山治太夫は大阪城より落ち去った。
(大和記)

大野治長襲撃事件についての記事である。



419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/16(月) 09:55:47.64 ID:imqZp9DM
豊臣と北条って滅び方が似てね?

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/16(月) 11:40:20.61 ID:S8lXVHWw
大野主馬の評価が上がったね

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/16(月) 20:39:51.86 ID:xCeeu4M7
そもそも浪人を召し放たなかったのは主馬さんだからね
やる気満々

429 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/02/18(水) 09:46:11.96 ID:tLdIKNKA
>>418
弟の治純のwiki見たら
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%87%8E%E6%B2%BB%E7%B4%94
>大阪夏の陣が始まる前日に家康の命を受けて、闇討ちにあい負傷した兄・治長を見舞った。
>その際に大阪へ向かう前に家康から「真田信繁・長宗我部盛親らが内通している」という偽書を見せられ、
>その内容を兄・治長に伝えた結果、豊臣側では士気を高めるべく戦に備えていた豊臣秀頼の出馬が、
>淀殿の意向によって急遽取り止めになり、秀頼は淀殿と共に大坂城で籠城し続ける事になったとされている。

この事件、家康の離間策に利用されちゃってたwww


籤で持ち口を

2013年02月23日 19:56

700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/22(金) 23:51:03.10 ID:3T3cUQBH
大阪冬の陣が始まらんとしていた時の事である。
大阪城中では関東勢(幕府軍)が軍勢を発進させた、との報を受け、諸方の砦。そのほか外構え等の
軍事施設の普請を急いでいた。

この時に豊臣秀頼は譜代新参の諸将を集めて評定を行ったが、そこで秀頼は

『先に達って申し付けた各々の持ち口(担当場所)であるが、その配置に善悪が有り不満が出ている。
よって改めて、籤によって持ち口を決め直す。』

と仰せになった。これを聞いた各持ち口の頭分の者たちは

「最前、既に仰せ出された持ち口であるのだから、それに善悪があるといっても今になって又
変えるべきではない。それに武士が籤を用いる時は、その故実に従うべきものであるので、
ともかくもそのままに差し置かれるべきだ。」

と思い、敢えてその沙汰に同調する雰囲気は無かった。

この時、大野治長渡辺糺は籤奉行であり、両人は座の中央に居たのだが、治長が進み出て
申し上げることには

「黒門口は平野口に近く、これも又大手の要害ですので、かの口の30間は、私治長が
これを固めます!」

渡辺糺はこれを聞くやいなや怒鳴った

「治長のやり方は全く理解できない!今、持ち口の善悪があるからと籤を用いようとしているのだ!
そんな所に黒門口は治長自らがこれを固めると言い出す。
然らばこの籤は無いのと同じではないか!

そもそも修理亮はいつもそうだ!何でも己のほしいままに行い、諸将を軽んずる。
甚だ奇怪なことである!今後そのような態度は謹むべきだ!」

治長もこれに怒鳴り返した

「黒門口は内側が広く、そのため小勢ではここを守るのは難しい。それ故配下の多いこの私が、
籤を引く前にここを固めると申したので、これは全く我意を挟んだものではない!
だいたいそのように言う貴殿こそ、秀頼公の思し召しが良いのをいいことに、諸士に対して
無礼に振るまい、人々もこれを憎んでおるぞ!
この治長の事を言う前に、先ず自分の身を謹まれよ!」

糺はこれに激怒し

「日々の事はともかく、黒門口の担当も籤で決めるべきで、特別に治長に任せるような事は
出来ない!それでも強いて要求するのなら、余人には渡さぬ、この糺が自らここを請け負う事とする!
未だ言いたい事があるなら、申されよ!」

渡辺糺は目を怒らし居丈高となり肘を張って言葉を投げつけた。
これに治長も膝を立て、今にも斬りかかろうとしたのを、座中の人々が慌てて両人の中にはいり

「御両人はこの大阪城をまとめる老臣ではありませんか!それがこのような論争をするのは
ただでさえ似合わぬことであり、しかも今のような大事を控えた状況で、朋輩同士の
口論などしている場合ですか!
第一これは、君のためになりません!」

そう言って二人を制した。ここでようやく渡辺糺が鎮まり、治長も「ついカッとして言い過ぎた」
と謝罪し、各々その座に戻った。

しかしこの騒ぎのために、籤の件は沙汰止みとなったそうである。
(慶元記)





702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/23(土) 07:28:04.71 ID:7nKpJU6+
>>700
諸将が不満に思う籤をやめさせるために二人で芝居した……ってことはないだろうな

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/23(土) 09:02:31.22 ID:R+0y1Ibw
どっちなんだろうなw
先に籤は間違いであることが述べられて、最後に結果として
籤は取りやめとなかったとあると解釈に悩んじゃうなw


「大野治長は首ひとつで」

2012年05月19日 21:00

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/19(土) 01:33:04.39 ID:t3vmqEb3
↓と関連するエピソード。
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5103.html

徳川家康暗殺疑惑によって配流された大野治長であったが、
関ヶ原の戦いでは許しを得て東軍として従軍した。

戦が始まり、治長は先陣に馳せて首級をあげたところ、
徳川家康は「匠作これへ」と言って、その武功を慰労し、

「もはや先手に進むに及ばず」と、板部岡江雪斎とともに
治長を本陣に留めた。

この時、首の主が誰なのか誰も知らなかったのだが、
後になって実は宇喜多家の高知七郎左衛門という者だと
いうことがわかった。

その事を知った家康は「それほど名のある者であったなら、
あの時、しかと見ておくべきであった」と言ったので、

「治長は首ひとつで二度も御賞詞を賜った」と人々は
みな羨んだという。




207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/19(土) 02:08:05.83 ID:opiH/Kk6
>>206
河内七郎右衛門と高知七郎左衛門って微妙に名前が変わってるんだな

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/19(土) 10:02:16.06 ID:JVYz1Rh4
>>207

河内と高知は同じ「こうち」と読めるけど
右衛門と左衛門では全く逆になってるねw

大野治長が関東に流された理由

2011年04月15日 00:01

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/14(木) 09:48:00.83 ID:yEyey1wz
徳川家康を大阪において暗殺しようと企があり、土方勘兵衛と大野修理がそれぞれ
打ち手、抱き手を申しつかった、という話は実際には誤りであり、少しもそういった事実はなかった。

後にこの二人が関東に流されたのは、淀殿と悪き事があるようだ、との噂によってであった。

その頃小唄に「やりたや大野修理」(やっちゃったなあ大野修理)という物が流行ったそうである。
(武功雑記)





大野治長、 命がけの復権

2011年02月07日 00:00

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/06(日) 18:49:57 ID:CTv09xKa
命がけの復権

1599年、徳川家康暗殺疑惑により大野治長は失領し下野に流され結城氏預かりとなっていた。
この事件、事実関係を洗うとどう考えても冤罪であったのだがとにかく治長は失脚したのだ。
しかし翌年、そんな治長にも転機が訪れる。「関ヶ原の戦い」である。

結城晴朝の斡旋で蟄居は解かれていた治長。なんとかしてこの天下が動く戦いで自身の立場を変えたかった。
しかしながら急な事であった上に領無しなので金も用意できない。やむなく浅野幸長に頼み込んで護衛の兵を
十人程度借りている。
ほぼ一兵卒のような立場だがこれでやるしかない。治長は浅野隊の中に加えてもらい戦地へと赴いた。
それで時は流れて関ヶ原本戦・・・なのだが、幸長隊の配置は前線からかなり遠かった。そこで治長は

治長「俺を最前線に立たせてくれ!頼む!」

どうしても功を挙げようと必死であった。幸長も意を汲み取り、治長は本戦直前におそらく真っ先に敵に
接触するであろう福島正則隊に入れてもらう事になった。
そして戦端が開くと治長はわずかな人数の護衛と共に目の前の宇喜多秀家の部隊に飛び込んでいく。
最前線も最前線でがむしゃらに奮闘する治長はついに宇喜多家の鉄砲頭、河内七郎右衛門を一騎討ちの末に
討ち果たすという武功を挙げたのだった。

戦後、この話は家康の耳にも届いたようで、大野治長は1万石を与えてられている。
更に、治長は片桐且元と共に徳川家と豊臣家の調整に尽力し5000石を加えられ1万5000石の領主として
復権を果たしたのであった。




683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/06(日) 18:52:35 ID:CTv09xKa
これだけならいい話っぽいんだが家康暗殺疑惑で冤罪をおっかぶせたのが家康なことを考えるとマッチポンプ感が
否めないのでこっちに。

ついでに同じく失脚してた土方雄久もひっそり復権してるので功を挙げなくても復活してたかもしれない。

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/06(日) 18:58:03 ID:s0gTutn0
キャリア官僚然としたイメージあるんだが治長も武士だったんだなぁ。

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/06(日) 18:59:02 ID:4p8p5ikx
浅野幸長の父、長政も暗殺疑惑に巻き込まれた一人ってのも重要なポイントだね

686 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/02/07(月) 00:31:25 ID:bkhC9RCC
なんで家康は治長に冤罪をでっちあげたんだろうな。家康にとって治長はそれ程までに厄介かつ
邪魔な男だったのか?

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/07(月) 00:36:12 ID:0c1F5dkv
>>686
そもそも家康のでっち上げだったって部分に疑問を持ったほうがいい。

家康暗殺の話は家康のあずかり知らぬところで出来たもので、具体的な名前の上がった
噂が出た以上、時の執権者として家康は何らかの処分を行わざるをえない。

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/07(月) 00:38:01 ID:c4EXQvxV
片桐買収が、とっくに済んでたから、片桐の政敵の治長を消そうとした説を唱えてみる

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/07(月) 00:43:31 ID:vt8kLmCf
>>688
十年以上後の大坂の陣の政治状況と一緒にしちゃいかん。
はっきり言えばこの当時、事実は関係なくこういう不穏な噂に名前が出た事自体が
問題があり、これを処分しなかった場合、未だ絶対的な権力を確立していない
家康では、その権威に疑問符を持たれる。

いい悪いじゃなくて、そうせざるを得ない状況であり、あたかも後の展開のための
布石だったように考えるのは、ちょっと小説的すぎる話だわ。

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/07(月) 01:11:12 ID:mRS2tjXJ
あれは家康の陰謀だったとしても本命は前田であって治長はついでに過ぎないかと

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/07(月) 01:49:55 ID:znbdUFah
そういや姜の「看羊録」には
前田利長が上杉景勝・伊達政宗・佐竹義宣・加藤清正・細川忠興と同盟して家康を狙い
それを知った石田三成が家康に通報、家康の命で近江の要害に籠った、なんて話が載っている。

あと家康が淀殿を室に迎えようとしたがすでに大野治長の子を孕んでいたので断られ
怒った家康が治長を流刑にしたなんて話も。


692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/07(月) 02:15:36 ID:0c1F5dkv
>>690
前田に関しては家康どころか豊臣家の許可も取らずに無断帰国なんてしてるから、
謀反の話が出てもしょうがない、と言うかむしろ出て当然の話だな。

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/07(月) 04:05:54 ID:jegn2kvv
宇喜多に突っ込んだ時の治長の護衛は浅野から借りた人達なのか市松が新たに
付けてあげたのかどっちなんだろ…w

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/07(月) 17:07:40 ID:3cxDHPP7
悪い話じゃないな。治長が頑張ったいい話じゃん。

大野修理治長の草履取り米村権右衛門「太閤の金?それは・・・」

2009年08月02日 00:40

978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/01(土) 19:24:29 ID:dd0yOtmG
「太閤の金?それは・・・」

米村権右衛門は大野修理治長の草履取りだったが、治長に士分に取り立てられ、大野家の
家老にまで出世した。
大阪落城の際、千姫の護衛として落ち延びた権右衛門は治長の遺言により、彼の娘を
かくまい養育していたが、ある日突然、囚われて江戸に送られた。

江戸城中に引き立てられた権右衛門は、奉行に問い詰められた。
「お主は、秀頼第一の近臣たる大野治長の家老。ならば、治長が差配して隠した
『太閤の隠し金』のありかを知っていよう。有り体に申せ!」
権右衛門は答えた。
「・・・知らぬ。(良かった、お嬢様の事では無いようだ・・・)」
「そんなはずはあるまい!知らぬと申さば、拷問にかけても糾明いたすぞ!」

「これは、奉行衆の言葉とも思えぬ。わが主人治長、大阪にあっては軍陣の差配を司り、
城の存亡をひたすらに図れども、金銀財宝の事など心に在らず。
その家臣たる我らもまた、敵を討ち良き首を獲る事のみを心がけ、他の事など考える
ヒマはありませぬわ。」

権右衛門はキッと顔を上げ、なお答えた。
「さらに理屈を言えば、負けた時は金どころか自分の首さえ保てるか分からぬのに、
たとえ千万の財貨を隠したとて何になりましょう?
勝った時は、大御所・将軍家の持ち物だとて我らの物になっており、求めずして財貨を
稼げるのに、何で金を蓄える必要がありましょう?
この通り、士とは申すべき儀あらば即座に申し上げる。申すべき儀が無ければ、たとえ
口を裂かれ、舌を抜かれても何も申さぬ。それを、「拷問にかけて糾明」とは何事じゃ!!」

となりの一室で襖を隔て聞いていた家康は、
「無類の剛の者である。このような男を、義直・頼宣の側に附けたいものだ。」
と言い、やがて権右衛門は釈放された。

権右衛門はのちに浅野長治(広島藩分家)に仕えたが、衣食住は浪人の頃のままで
武具のみ立派な物を揃え、収入の大部分を京にかくまった旧主・治長の娘のもとへ
送り続けたという。




979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/01(土) 19:52:01 ID:nCy2WQ6K
家康が気に入りそうないい士だな
籠城中に分裂してもいいような二回の大坂の陣を行った大野治長は
弟とこの人も含めて再評価されてもいい気がする

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/01(土) 20:11:19 ID:yAU5AWCJ
実は関ヶ原は東軍で参加してるんだよな>大野治長

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/01(土) 20:14:00 ID:wX+1uBPz
それも福島正則隊だな

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/01(土) 20:34:48 ID:TYyXbnAF
石田三成にしてもそうだけど、
一方の旗頭としてとりあえず陣営をまとめ、
戦まで持っていくのは相当の技量と覚悟は必要だろうしね
ただ、戦略面というか、外交を含めた大局観って所は、
意地や覚悟じゃどうにもならないところなのだろうな

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/01(土) 20:43:29 ID:nCy2WQ6K
あくまで片桐且元の代理として抜擢されたんだとは思うけどね

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/01(土) 20:47:53 ID:4mfAg9lG
長治に仕えたのも治長の回文だからか?
と思ってみたり。

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/02(日) 00:12:13 ID:qDQFnUHg
>>978米村の名は知ってたけど、誠実な上に硬骨漢で、見事な人物だね。

米村を低い身分から引き上げた大野修理亮治長も、きっとドラマなんかである
淀殿に侍ってるだけのダメ家老とは違ったんだろうな