禄が重くなれば安堵致して、

2017年09月16日 21:53

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 02:09:29.56 ID:whL2ywNF
越後の謙信が一揆を退治しに加賀へ発向した時、たいへんに寒気が強く、
太田村へ人数を入れて、火を焼いてあたって居申した。

そこへ加賀の一揆の大将で、何とかの能登とか申す者が、にわかに攻め
掛かり、謙信はやり様もなく打ち負けて敗軍した。

これを大納言様(前田利家)は聞こし召され及んで、能登を召し出された。
それ以後、度々の合戦に能登は参加したが、1度の高名も無かった。

凡そ奉公人は禄が重くなれば安堵致して、奉公仕らぬものであるとの由、
享保5庚子年6月5日に仰せになった。

――『松雲公御夜話』



109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 06:53:07.43 ID:U6gQ3t67
>禄が重くなれば安堵致して、奉公仕らぬもの
滝川の事か

ノブが生きてたら林、佐久間の次に追放されるのは明智か滝川だったんだろうな

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 07:11:44.64 ID:gyQZQRbc
だから禄重くなくて良いから茶入くれって言ったのに…

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 07:43:44.23 ID:goG3qGCB
>>109
関東にとばしてるから、しばらくは安泰でしょ
狙われるとしたら近江に所領のある光秀や秀吉じゃないの?

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 10:35:41.22 ID:AY+NQw1b
>>111
光秀も滝川一益同様に飛ばされるのが確定していたやん。

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 11:34:35.22 ID:TT1HxNQx
追放と領地替えをごっちゃにするな

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 18:33:26.75 ID:WWUjnWOe
光秀は近江坂本とか丹波亀山とか京都への入り口の一等地をあげちゃってた
から
使えない奴だったら追放のところ
使えるから転封


信長の野望での家宝強奪みたいな事をリアルにやっちゃう信長って
配下の部将を手駒位にしか思って無かったんだろうな...
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その後鶴の汁にあたり申した

2017年02月03日 10:58

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 03:42:19.15 ID:QlvkgnZx
利家様が鶴の汁を召し上がりなさったところ、すぐに御蟲にあたり(腹痛)申した。
それを契機に御物語りになられたことであるが、

信長公が安土山の御城に御成りの折、いずれの人にも御振舞を下され、鶴や色々
の珍物のうえに、信長公は御引出物を、御自身で御引きになられた。

柴田(勝家)の前で仰せになったことには、「貴殿を初めとして度々手柄を致された
ゆえ、このように天下を静めて万事成就し、満足し申しておる」とのことだった。

またその他それぞれに御言葉をかけた。さて7,8人が末座にいて利家様もおられた
のだが、信長公は御引出物をなされ申す時、

利家様は若き時は信長公の御側に御寝伏しなされ、御秘蔵であったと御戯言を
仰せになり、利家様はその頃までは大髭でおられたのだが、その髭を御手で掴み、

(利家様若き時は信長公御傍に御ねふし被成候。御秘蔵にて候と御ざれ言御意候
而、利家様其比までは大ひげにて御座候鬚を御取候而、)

「其の方が稲生合戦の時に16,7歳の頃、武蔵守(織田信勝)家中の宮井勘兵衛
という者の首を取った時、私は21歳になって初めての合戦だった。

私がその首を、『なるほど小倅ではあるが、この手柄を見よ!』と言って、馬上で
采振り致すと味方は気を得て、ただ7,8百ばかりで3,4千人の人数を押し崩した。

その如く各々が手柄を致したゆえ、このように私は天下を静めて万事成就致した」
との旨を仰せになった。「なんとまあ、かたじけなき御言葉!」と存ずるところに、

御近習衆の給仕を仕る衆までも「はてさて、冥加なる又左殿かな!」と、あやかり物
とばひやひ候(肖り物を奪ひ合ひ候?)ように給仕の者が誉めるので、

利家様は得意がりなさり、「かたじけなき御言葉!」とひたすら物を食べ過ぎ、鶴汁
を止む無く飲み過ぎて、その後鶴の汁にあたり申したと仰せになり、御笑いになった。

前述の通りを、太閤様も度々仰せられたとのことを、金森法印(長近)や羽柴下総殿
(滝川雄利)なども、利家様のもとへ御出でになられた折に御申しになられ、それを
承り書き付け申すものである。前述の御合戦の時、柴田殿は武蔵殿の衆でおられた。
色々の物語りがある。

――『亜相公御夜話』




578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 08:07:34.18 ID:iWka4lYR
信長はその話をする度に、「勝家の野郎、そのうち用済みにしたるー」と腹の中で思ってそう

それはさておき、織田家や羽柴家の雰囲気が伝わってくるちょっといい話だね

「又左衛門は、まったく只者にあらず」

2017年01月19日 18:23

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/19(木) 02:50:23.03 ID:G4L3SlP9
蔵人殿(前田利久)の御知行は右の如く、信長公の御意で利家様へ下され、荒子を
御受け取りになった故、御兄弟ではあるが、すぐに御敵対のように御仲は悪くなった。

それにつき、柴田修理殿(勝家)、佐久間右衛門殿(信盛)、森三左衛門殿(可成)、
佐々内蔵助殿(成政)、利家様などが御参会し、色々の御話しのなかで、

「又左殿は御手柄度々のこと故、前田の惣領を御継ぎになったのはもっとものことと
存ずる」とのことで、御続けに御舎兄の蔵人殿のことを、皆々謗り口に御話しした。

その時、利家様は、「まことにかたじけない」と、御挨拶した。そのうえに、「蔵人殿は
武道もぬるい」とのように、とりどりに言葉の端から出ていたので、

利家様は押し跪きなされ、「蔵人は聞こえぬ分別を仕る故、跡目は私に下されました。
かたじけなく拝領仕り、前田の惣領は私が持ち申しております。ただし、蔵人の武道
のことは、私めの前で御申しになることは御免頂きたい」と、けわしく御申しになり、

皆々は、「もっともである」と御申しになって、物申す人はいなかった。これも柴田殿や
森殿だけであれば、御知音なので苦しからぬことであったが、右衛門殿や内蔵助殿、
その他2,3人が御越しであったので、

右の通り仰せになったと、利家様は御物語りになられた。この事はまたひとしお、
「又左衛門は、まったく只者にあらず」と言い習わされ、信長公の御耳にも入り、
信長公は御感心であったとのことである。

その後に、柴田殿と三左衛門殿も利家様へ御謝罪になり、また、大納言様(利家)も
御両人に御謝罪し、ますます御間柄は良くなりなさったと利家様は御物語りなさった。

――『亜相公御夜話』




利家様の仰せによると、

2016年10月09日 12:34

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/09(日) 03:37:36.64 ID:DapAlDQQ
一、利家様(前田利家)の仰せによると、

「若き者は、世間で事のある時に意気盛んな言葉を言わせておくのが良い。『その言葉
を違えまい』と思う心のあるものである。早くも2,3度手柄をあげると、意気盛んなことを
言はぬものだ」とのことである。

一、戸田武蔵守殿(勝成)も坪内平太も物語りに御申しになったことであるが、利家様を
近頃取り沙汰して申すことには、

「又左衛門は、この頃意気盛んなことを言わないが、早くも心を引き締めたのだろうか」

とのことだった。ところが、利家様は大坂合戦の時にまた日本無双の槍をなされたので、

「又左衛門は若き時は意気盛んなことを言っても武辺をなしたが、いま心を引き締めても
このように手柄をあげるならば、あれこれとは推し量れぬ人である」

と、上下の身分ともに申したとのことである。

――『亜相公御夜話』




戦場での頓智

2016年05月01日 17:14

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 02:34:37.83 ID:nbHvxLNh
美濃・尾州を取り合いました時のことです。
日暮れとなり、互いの兵共が槍を持ってにらみ合っていた。

尾州側には佐久間久右衛門という功者武辺者、これは佐久間玄蕃の父で、柴田修理殿の姉婿であった者がおり、
彼は日暮れになると左右に下知して小声で「田を結べ、田を結べ」と言う。

当時は八月の頃で、ちょうどその場にいた兵は何れも流石にその道に心得ている者たちだったので、
槍の柄を持ちながら田を結び静かに退いていきました。
折節中秋の頃なので、草村を過ぎる風の音がしほしほと鳴いていました。
尾州側が六、七間ほどさっと退きました時、敵がどっと槍を入れてきた。
しかしかの武者共は先の結び目に蹴躓いて転び、尾州方は美濃方の兵の首を十五、六個程取れたという。
それゆえ美濃から五十日ほど人数を出せなかったそうです。


以上のことを利家様は物語なされました。
皆々もこのような話などは、ぼんやりと聞くことは無いようにと仰られました。
(利家夜話)

戦場での頓智のいい話



649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 02:39:37.51 ID:4uXgvXJp
農民にはえらい迷惑な話だね

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 02:44:20.67 ID:P+SQIl3F
この頃は泥臭く戦ってそうだもんな

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 02:55:48.07 ID:x4B2WdUx
子どもがやってお百姓さんに怒られそうな罠だ

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 04:42:21.54 ID:gw+TwaKS
>>650
泥じゃなくウンコ投げてたしな

653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 06:11:37.94 ID:tMR6Mg7P
中秋の頃なら、刈り取り終わってね?

654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 07:17:26.06 ID:KedlLjNm
>>653
中秋といいつつ八月とも書いてあるからなぁ

ただ本当に中秋だとしても関ヶ原の直前も刈田がどうこう言ってたし、美濃では普通なのかも

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 07:29:24.50 ID:tMR6Mg7P
>>654
8月は旧暦の八月だと思う

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 08:01:48.76 ID:O6t3KIs2
中秋とは八月のこと。
昔は梅雨(五月雨)の頃に田植して十月に稲刈りが一般的
以上はもちろん、旧暦での話

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 11:59:18.46 ID:gWM6M/E4
何故尾州と書いて濃州と書かない?

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 12:14:24.32 ID:98MthrCf
なるほど、そりゃ「春は(食料も尽きてきて)死の季節」って話にもなるわ

人を呪う事はあってはならない

2016年04月28日 11:07

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/28(木) 02:50:37.10 ID:V0jy1STk
大納言(前田利家)様の御咄に、人を呪う事はあってはならないというものあります。
その理由として以下のお話をされました。

利家様が荒子を信長公の御意で前田蔵人(利久)殿から受け渡されたとき、
蔵人殿の御内様が腹を立てられて、色々呪う事をなされた。
屏風・障子にまでも呪いを封じさせてから退城されましたが、
結局大納言様にはいや増しに吉事があったとのことです。

村井豊後も同じことを語っていました。
(利家夜話)

なんで信長は利家に家督を相続させたんですかね



575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/28(木) 06:09:16.99 ID:lAFOKSFt
そりゃもうアーッよ

576 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/04/29(金) 00:54:22.03 ID:GjfOD1XB
>>574
呪うと呪った相手にいや増しに吉事が訪れるから?

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/29(金) 10:03:32.46 ID:lNQCYFn2
「祝ってやる!」だろ?

利家公はきわめて御憐憫の深い君であったので

2016年01月29日 18:51

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/28(木) 15:06:16.95 ID:et56NdCV
 私達が一年加州へ御用に下向して逗留している時に、御台所の勘定奉行がひどく使い込んでしまったので、
退役閉門、知行の内から毎年返納するよう仰せ付けられたということがあった。
 その人は常々懇意であった人だったので特別に気の毒に思った。

 この背景には利家公はきわめて御憐憫の深い君であったので、御家中で百石から千石の侍衆で身持ちが放埓でない貧しい人々を吟味して、
順番に御台所の勘定奉行に仰せ付けられたことにあります。彼らは捨てられた物を拾い、余った物を売り払い、先ずは横物成の類から着手していって、
一ヶ年毎に勤めさせてもらったので、君のおかげで身の上を取り直してきました。
 
この度の使い込んでしまった人は一粒一銭の私物化もなかったが、吟味が足らず、下に勤めている者らに対し、
様々なものに条件の良い値段をつけたので、御台所の出費がいつもより一ヶ年で三千両ばかり高く必要であると申し上げた。
そのため不足分を負債としてしまいました。
 この人はきわめて篤実な人ですが、器量がなかったのでこのようになってしまった。

 これにつきましては、親にひどく孝行して国家の用に挙げられたが、才が足らなかった人がいることを思い起こします。
 孝行といえばただ一道にして、その孝行には事情や立場あると考えられます。
(本阿弥行状記)




小又兵衛

2015年12月27日 17:37

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/27(日) 04:11:04.50 ID:LWKcLI1N
殿様(前田利家)はたいへん御機嫌の良い時か、または御叱りなさる時に、
勘十郎(村井長明。著者)のことを“小又兵衛”と仰せになった。

その時は、「お前の父の豊後(村井長頼)は俺が名付けた“又兵衛”である。
今は天下も静まって武辺事は無いから、よく奉公仕り年齢20余りになったら
又兵衛になれ。その時は、小又兵衛とは言うまいぞ」と、度々仰せになられ、

もったいなく存じ奉る。斯様の仰せは生生世世ありがたく存じ奉ることである。

――『菅利家卿語話(黒川本利家夜話)』



いやいやそれは僻事である

2015年12月25日 09:19

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/24(木) 19:23:49.59 ID:mS3DRJV8
加藤左馬助殿(嘉明)が家中の者を直ちに成敗致された時、少し手負いなされた
とのことを、いずれの人も利家卿の御前で御話になり謗りなさったが、利家卿は、

「いやいやそれは僻事である。両者身二つであるから、もし仕損じて手負い、
敵を逃した場合こそ落ち度ではないだろうか?

その者を仕遂げたならよくやったと申すべきだ。軽傷を負っても仕遂げたならば
落ち度ではあるまい。信長公の御時はそういう批評だった」

と仰せになり、「御もっともである」と、各々は申された。

――『菅利家卿語話(黒川本利家夜話)』




慶長伏見地震の前田利家

2015年08月30日 13:45

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/30(日) 02:16:34.31 ID:xkkO1eh3
伏見での地震の時、大納言(前田利家)殿のお屋敷と肥前守(前田利長)殿のお屋敷は隣り合っていました。
地震の時は父子共に庭へお出になられ、互いにお言葉を掛け合いなされました。
何れも大丈夫と者どもは涙を流して申されました。

さて大納言殿は、小姓五六人に、
「上様は御城の周囲へお出になられましたか。大納言めを呼んでください。」
と仰せ付けられました。
小姓達はその意を得て、叫んでいると
太閤様がお答えなされました。

「ここにいるぞ。無事に出たから、心配しなくてよい。大納言も無事であるか。」

との上意であった。退出して、其の件を利家様へ申し上げました。


それから大納言殿は御一人で、何の構いもなく城中へお入りになさったとき、太閤様はご機嫌が好く、秀頼公を利家様へお渡して抱かせました。

とのことを帰って話されました。




以上のようには、震災でお取込のときに太閤様の身を案ずる判断は素晴らしいと、利家様を名大将と上下の者どもは申しました。

さてその後に、太閤様は伏見山に御城を拵えて、移りなされました。
(利家夜話)

慶長伏見地震の逸話です。秀頼を抱かせるとは、秀吉も利家をたいそう頼りにしていたのですね。




627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/30(日) 06:12:17.33 ID:g2cHYBCN
「この両腕で秀頼君を抱かせてもらうたわ」
「その時、父上の両足は何をしていたのです?」

628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/30(日) 09:20:26.77 ID:jiqRsAPz
蹴る?両輪の如く駈ける?
正解は?

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/30(日) 11:08:21.50 ID:48J3e4yl
かがんでたんだろ

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/30(日) 11:27:17.53 ID:vE03DJbH
>>626
天正地震で利家は弟を亡くしたからな

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/30(日) 13:06:58.11 ID:lrmaBUfO
あの時代にデカい地震あったら建物ボロボロになっただろうな

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/30(日) 15:29:02.92 ID:DZwRT9CX
内ヶ島の皆さんが何か言いたげです




そのため、大軍の大将は

2015年08月29日 18:49

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/28(金) 23:09:01.83 ID:hwvx/3ga
利家様が度々お話されことに、

立ち合いの合戦の時には、双方が一万と三千の数であったら、大将それぞれの分別で、三千の数の方が度々勝利を得るものである。
それは、少人数ではもはや一か八かと兵共が分かりきっているからだ。
そのため、大軍の大将は油断しないものだ。

というものがありました。

(利家夜話)



620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/28(金) 23:12:27.51 ID:KP8JUIn7
織田軍は少人数でも勝ってきた実績があるから説得力があるな

621 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/08/29(土) 00:35:47.51 ID:4sq+V+h+
>>619
これまさしく天王寺砦の戦いだね
救助された光秀、助けた信長、諸々考えさせられる

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/29(土) 00:40:19.30 ID:ro/xanhY
光秀「石ころ同然の境遇から信長様は私をおとりたててくださったばかりか、御自身で救いに来てくださるとは」
きっと感謝したんだろうね

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/29(土) 01:53:30.36 ID:KvH0oWBI
殺し間にて候

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/29(土) 17:05:15.69 ID:42ZUql1l
光秀「此度の御恩、生涯忘れませぬ。もし、殿の首級頂戴つかまつることがありましても晒すことは致しませぬ」

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/29(土) 19:48:37.00 ID:XI9aKwmb
>>622
光秀って簡単やな!はよ尻だせ

前田利家夫人、および奥村永福夫人のこと

2015年05月25日 18:37

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/24(日) 18:30:13.16 ID:yG6n96NO
天正12年(1584)、佐々成政は、前田利家の重臣・奥村助右衛門永福の守る、能登末森城を囲んだ。
世に言う末森城の戦いである。

成政は旗本を以って前田利家の後巻(救援)を抑え厳しく攻め立て「この城を打ち破れば
能登一国は即座に我々に従う。後巻が来ない内に乗っ取れ!」と下知した。

奥村はわずかに300ばかりの兵でここを守っていたが、あまりに激しく責め立てられたため、
「もはやこれまでである。自害しよう」と言い出した。

ところが、この奥村の妻は、小袖をたすき掛けにし鉢巻をして、刀を横たえ粥を煮て、
手桶に入れて下女に持たせ、城内の人々に手ずから汲んで食させながら、こう言って回った

「昔、楠木という大将は日本国を敵に受けて籠城したと聞き伝えられています。
明日には金沢より後詰めの軍が到着するでしょうから、今宵、ただ一夜だけ防いで下さい!」

奥村はこれを見て「今日の振る舞い男子にも優っている。さりながら女の力によってこの城を
持ちこたえるというのは口惜しいことだ。」とつぶやいた。

一方、佐々成政方は負傷者も増え、敵も容易くは落城しそうもないのを見て、これは火攻めに
すべきだと進言するものもあった。しかし成政は
「この城の大手の門を取って富山の城門とするのだ。また石動山の衆徒も私に心を合わせた。
慌てて火攻めを行う必要はない。」と下知し、既に二、三の丸を攻め取って夜が明けるのを待っていた。

この末森城から前田利家のいる金沢まで九里ばかり。その日の酉の刻(午後6時頃)、末森城より、
夜が明けるまではなんとしても城を守るという注進が入った。

前田利家はこの報告を聞くや金沢城の広間に出て、嫡子利長を呼んで
「汝はこの城の留守をせよ!」と命じた。しかし利長は

「いいえ、私が真っ先に出て佐々を打ち破ります!ここに残り留まるなど思いもよりません!」

これを聞くと利家
「ならば父子で打ち向かおう。敵の不意を打ってこそ利もあるだろう。兵を整える必要はない、
馬に鞍を置き次第一騎がけに打ち出よ!一足でも早く出る事こそ今夜の功だと思え!」
そして富田与五郎に
「おまえは津幡に行って不破彦三に末森の後巻きの先手をするように申せ」と下知した。
富田は直ぐに自宅に戻って馬を引き出し、不破彦三の元へと駆けた。

利家は士卒に「皆汁をかけて飯を食え!」と言いつつ具足を着て庭に自身の黒毛の馬を用意させていた。
この時、前田利家の婦人(芳春院)が三方にのし鮑を入れて入ってくると、利家・利長父子に従う者達に
向かって語りかけた

「おのおの、よく聞いて下さい。私は利長の母です。今日の後巻きは誠に大事の軍です。
それぞれ心を合わせて功名して下さい。

もし、末森城を敵に取られたなら、皆々、討ち死にしなさい。
私も人手にはかかりません!」

そして利長の側近くに進んで我が子に対し「末森が落城したなら、あなたも討ち死にしなさい。」と言った。
利長これに「生死の別れですね。」と答えた。

利家はこれを見て「荒心であることよ。成政を打ち破ること必定である!」と言い放つやいなや、
具足の上帯を締めて、結ぶ端を切り捨てて馬に打ち乗り出撃した。
この時前田父子の兵はわずかに100人余であった。利家は馬上で
「味方が少数である事こそ吉事である!佐々が思いもよらない所に斬りかかって打ち勝つであろう!
奥村を死なせては生きる意味もない!」と叫んだ。
(明良洪範)

末森城の戦いにおける、前田利家出陣までの逸話である。




前田利家の衣川越え

2015年03月28日 17:39

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/27(金) 22:13:02.71 ID:1RCe/o26
 奥州の仕置きに出羽まで、利家卿利長卿御父子が起こしなされた時のことである。
衣川を越える際、先手の人数の半分ほどが対岸に渡り着いた時、にわかに水の量が増し、舟でなくては通り難くなった。
諸勢はみつくろって川のこちら側で立っていたところに、利家卿が京水という名馬に乗替なさって、かの川へ乗り入れなされると、
軍兵の上下は慌て騒いで、我先にと馬を乗り入れ、乗り入れ、渡り始めたので、
川の勢いは川下でせき止められて、一人も残らず向こうの岸に駆け上がった。
 もし、その夜に利家卿が川のこちら側に本陣を拵えなされたら、一揆が起こって、対岸に渡った者達は討ち取られたであろう。
 昔、宇治川を渡った先陣は、家のため、身のために渡ったのであり、
今、利家卿は軍兵を討たせないと、一命を水に溺れることを顧みず渡りなされたのである。
「なかなか古今に稀なる名大将よ」とそのとき見た者は言うに及ばず、伝え聞いた人々も感じない者はいなかった。
(末森記)



793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/28(土) 02:15:03.99 ID:ogsu5fP+
京水「はいはい、ワシのおかげワシのおかげ」

前田利家の甲冑の悪い話

2014年04月15日 18:40

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/15(火) 12:23:33.52 ID:90c4I//7
逸話とは色が異なるのと、知っている人は知っているだろうけれど、知らない方もいると思うので投下

前田利家の甲冑の悪い話

天正年代初頭、織田信長が北陸を平定すると、前田利家は尾張荒子から越前の府中へと領地替えとなった。
この異動の際に焼き打ちにより荒廃していた菩提寺の尾張荒子観音寺を再建。
利家が府中入城の折りに着けていた甲冑を同寺へと寄贈した。
『浄海雑記』

そして時は流れ昭和の50年頃、荒子観音寺の住職日置和尚は寺の倉裏の片付けの最中に、
荷物の山の中に無造作に置かれた埃にまみれた木箱の中から破損の著しい甲冑を発見した。

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/15(火) 12:26:00.57 ID:90c4I//7
「利家公由来の寺だし、価値があったらこのままにしておくのは忍びない」と日置和尚は
博物館に保存について相談をしたが、(当時は大人の事情で)預かって貰えなかった。

甲冑はそのまま寺の倉裏に置かれる事になった。

平成の世になり金沢で古文書を読みあさっていた郷土史研究家の武田茂敬氏が前田利家の甲冑について
触れられている書物を目にし、荒子観音寺に連絡を入れた事から事態が大きく動いた。

日置住職「(おそらくそれに該当する甲冑が)あります」

荒子観音寺の甲冑の箱には「前田利家公着領甲冑」と墨書で記された添え状もついていた。

甲冑は兜鉢が金属疲労で欠け、胴もバラバラであったが、傾奇者の利家のものらしく
金箔や朱の縞模様が残っていた。

結果としては日の目を見たが、歴史遺物が一度は見つかりながらも
野に埋もれたまま忘れかけられていた悪い話。





戸田は壮士だ

2014年01月13日 19:02

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/13(月) 17:20:49.14 ID:8K4fOQQ6
時はへだたり世は遠くなって、今は陪臣の勢いもますます微かになった。

秀吉醍醐の花見の時に諸大名が来会した。刀持は玄関の上にいて、横目職の人が刀持を玄関より
下ろすと、皆が下りた。ところが、前田利家の従者の戸田越後は、その時いまだ二十歳ばかりの
扈従だったが、長く座っていたために足が痺れてすぐには立てなかった。

そんなところを「何者ぞ、不敬なり! もし下りないならば打ち叩け!」と、言われた戸田は大いに怒り、

「士にはもともと高下はない! 眼前にこのような恥辱を受けなければならない道理があるだろうか!
身を裂かれ、頭を砕かれようともここを立ち去らないぞ! 下ろそうとするなら、この刀で勝負だ!」
と、柄を撫でて、目をかっとむき、覚悟した様子であった。

そのため、横目以下は戸田を下ろそうと動き乱れた。そして利家が「何事ぞ!」と言って走り出たので、
秀吉も刀を取って出た。利家は戸田を見て叱り、立ち去らせた。

秀吉が「彼は誰ぞ?」と問うと、利家は「私の扈従です。その由緒はしかじか…」と答えた。
秀吉は座に戻ると「戸田は壮士だ。用に立つであろう者だから寵任せられよ」と言って、
まったく無礼を咎めなかった。

――『武将感状記』




293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/13(月) 17:37:47.52 ID:nxoE+6H/
三河じゃないのにめんどくさいな

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/13(月) 17:42:31.96 ID:U8QKXgZ0
突っかかったやつ馬鹿じゃねえの
正座の苦しみも分からんのか(太閤・談)

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/13(月) 20:03:37.12 ID:cAOx+q5o
この従者は後の戸田流二代目、戸田綱義では?

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/13(月) 20:11:44.26 ID:Rd272H4T
富田勢源と戸田流初代の戸田清玄は同一人物かいなか

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/13(月) 22:15:49.16 ID:yhS80OuN
武士も足が痺れるような座り方するんだな

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/13(月) 22:50:22.56 ID:Mc5Y+bX6
そもそも正座が作法になったのってわりと最近だったような

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/13(月) 22:51:47.50 ID:43eNQUIh
日本人が一般的に正座するようになったのは畳の普及した江戸期以降だね

300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/13(月) 23:10:03.37 ID:iDZdTDoD
俺とかあぐらの状態でも足が痺れることあるよ
椅子に座っていても痺れを感じることもある・・・

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/14(火) 01:08:52.94 ID:rtxerz69
痛風か!

302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/14(火) 03:42:20.90 ID:B88k4LLI
政宗なら痺れた足をつっついたりしたのかなあと、ふと思った。

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/14(火) 08:24:58.91 ID:tuF62Bsg
「あの時はwww実はww足がしびれて立てなかっただけでwww」
とか年取ってから自慢話したのかな?

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/14(火) 12:02:00.78 ID:+GmN7DIv
政宗にとって頑固者はハートフルな交流を交わす人なので馬鹿にするのは違うと思うw(例:お師匠)

それにしても若くして利家に近侍する剣豪の跡取りとか
仮にまだ力不足だったとしても流血沙汰にならず良かった良かった

306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/14(火) 12:39:53.77 ID:t5uftKhP
足が痺れてたのに逆ギレにもほどがあるわ

307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/14(火) 14:39:19.66 ID:AhaQEx0n
坊さんの工夫で足がしびれなくなる秘伝があるって聞いたが、精妙な体重移動って感じだった

308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/14(火) 17:29:06.15 ID:E1e17gad
江戸時代に入るまで女性の座り方も立て膝立ちなんだよな。
有名な淀殿とか北政所の肖像も立て膝立ち。

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/14(火) 18:14:46.30 ID:fVTSufg+
人間の身体の構造が数百年かそこらでそんなに変わるわけないから
昔の人だって長時間正座は堪えただろうね

前田利家、家臣のことについて

2013年10月06日 19:52

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/06(日) 00:28:18.41 ID:zlcutf7n
前田利家の、前田利長宛遺言より、家臣のことについての部分

「長九郎左衛門と高山南坊は、他を見ないで、私に一筋に使えてくれた律義者であるので、
私の死後も少しずつ茶代を遣わすなどして、情けをかけてほしい。

片山伊賀は、大きなことをしたいと考えている人間であるので、もしもの時は謀反を起こすかもしれない。
彼の言葉にも良く気を使って、油断しないように。

徳山五兵衛は色々と他家と繋がって、大名たちとも知り合いになっているようだ。
私が生きている間はおとなしくしていたが、ずっと機会を伺っていたようなので、
私が死ねばきっと謀反を起こすだろう。
きちんと仕置をするように。

山崎長門は良い人物だ。越中での合戦の時も良く働いた。
ただ少々意地が悪く、偏屈な武辺者なので、30人か40人の頭あたりが適当な処遇だ。
それ以上の軍勢の大将にしてはならない。」

前田利家が、自分の家臣をどう見ていたか、という記録である。
前田家も内部で色々在った感じですね






利家白雲の琵琶を種村に與ヘらる々事

2013年09月13日 20:26

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/13(金) 01:16:40.63 ID:IDv+2p7H
利家白雲の琵琶を種村に與ヘらる々事

種村肖稚守は元々柴田家にいて評判が良かった。
後に多くの人から招かれたが仕えなかった。前田利家も懇ろに迎えられたけれども種村は仕えなかった。
利家は種村が琵琶を弾くこと好むと聞いて、白雲という名物の琵琶を種村に贈った。
するとその志に惹かれたのだろうか、利家に仕えて佐々成政と越中朝日山の合戦で、目を驚かす功名を遂げた。
その後、浅野長晟に奉公して、彼の白雲の琵琶は今浅野家にあるという。

(常山紀談)

有名な逸話を一つ。利家公のケチじゃないちょっといい話でした。




104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/13(金) 18:08:07.38 ID:S1BGN2z1
>>96
>肖稚守
これって何て読むの?

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/13(金) 18:20:50.10 ID:IDv+2p7H
>>104
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/778090
ココを見ると、「しょうちのかみ」と読むらしい
詳細は不明

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/13(金) 18:28:05.52 ID:SnJbCcWi
「しょうちのすけ」とか?w

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/13(金) 19:43:01.56 ID:S1BGN2z1
>>105
thx

ググったがわからんかった。
それっぽいのを自作して、自称してたのかな。

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/13(金) 20:27:48.69 ID:QxYbf4H+
正しくは「種村肖椎寺」なんじゃないかなぁ

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/13(金) 20:49:06.27 ID:S1BGN2z1
>>108
ホントだ。こっちだとヒットするな。

守と寺か。原典から写す時に間違えたのかな。

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/13(金) 21:04:08.94 ID:QxYbf4H+
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1018103/175
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/778095/79

常山紀談は近代デジタルライブラリーにも複数あるけど
種村肖稚(推か?)寺となってるものもあった。

底本によって相違があるのかも知れない。

その他でも種村肖稚守、種村肖椎寺、種村肖推寺とか
いろいろあって混乱してる模様

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/13(金) 21:24:57.22 ID:QxYbf4H+
>>109
思いっきり崩して書くと書体が似てるから
原典から起こす時に「寺」→「守」に化けたのかもしれない。

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/13(金) 21:43:33.25 ID:S1BGN2z1
ふーむ、いろんな人が筆写して、その途中でバリエーションができたってことかな。

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/13(金) 21:51:04.10 ID:QqZZYeT/
どうやら肖椎寺みたいだね。
http://www.e-tmm.info/komatu.htm

「椎」かどうかはこの文書だと微妙だけど、他にあるんだろうね。

「守」と「寺」とは、崩し似てるからよく間違われる。
とは言え、意味的には間違われにくいはずだけどね。
東百官にもないし、なんだろうと思ってたから「寺」とわかって納得した。

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/13(金) 23:03:03.56 ID:ouPRcz2z
>>97
持ち物にしっかりと名前書いちゃうとか小学生みたいでカワイイ

徳川家康の家臣である青年は

2013年07月19日 19:50

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/19(金) 16:52:20.55 ID:Eob+racv
 1596年のある夜のことである。徳川家康の家臣である青年は、諸大名の家臣同士の寄り合いで
次のような話を聞いた。前田利家に仕える侍が自分の待遇に不満を持ち、主家を去ろうと
考えていることを口にすると、その場に居合わせた幾人かの人々は、そのようなことはやめた
方がいい、と忠告した。なぜなら前田利家は息子とともに茶の湯の席で太閤秀吉の命を奪うことを
計画しており、これがうまくいったのならば前田利家父子が天下の主になるだろう。そうなれば
前田家に仕える彼も大きな領国を与えられるはずだからだ、と語った。
 これらの話はすべて冗談の作り話であったが、徳川家康の家臣である青年は本当のことと
信じ込んでしまい、思慮を失って政庁にかけこんで訴え出てしまった。
 取り次ぎの者から話を聞いた秀吉は薄笑いをして、ただちにこの青年の身柄を前田利家
引き渡すよう命じた。前田利家は、なぜそのような嘘で太閤殿下の耳をわずらわせたのか、と
尋ねると、徳川家康に仕える青年は正直に寄り合いの席で聞いたと答えた。事情を調べた結果、
単なる作り話とわかると、青年は足枷をつけられ、ついには彼の父親とともに連行され、一緒に
磔になって処刑された。(イエズス会年報集)




70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/19(金) 17:52:28.21 ID:AshYbNeF
まず上司に相談してれば…

私は子孫まで望みがあるから

2012年11月02日 20:00

214 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/02(金) 17:28:11.90 ID:Nbg/F9/H

関白秀次は罪を蒙り、伏見の邸宅は前田利家に賜れた。
利家はその美麗な様を見て曰く、

「関白は大望のある人ではない。謀反は必ず偽りであろう。
私は子孫まで望みがあるから、このように美麗ではならない」

と言って、不要な所は取り払った。

――『名将言行録』




215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/02(金) 17:54:07.01 ID:RfYzohGp
これって下手したら、
今は金を貯めておいて、豊臣の天下が危うくなったら
その金で戦力集めて謀叛する気だ、ととられないか?

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/02(金) 17:57:34.12 ID:+ZFv7sUZ
>>215
いやコレははっきりと、俺は天下に野心があるって言ってるわけで

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/02(金) 19:05:31.57 ID:Gr3+0d0y
逆に堂々と公言してるほうが偏に疑われなくてすむしな

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/02(金) 19:49:32.15 ID:KAsmxqon
マキャベリストを自称する人間はマキャベリストではないという格言があって
マキャベリストなら自分がいかにも純朴で誠実な人間と偽るんだよなぁ

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/02(金) 19:57:07.95 ID:RfYzohGp
そのころには異世界人もいそう

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/02(金) 20:00:55.91 ID:RfYzohGp
間違った
マキャベリがでてきたから戦国スレとは思わなかった

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/02(金) 20:06:39.44 ID:WYMSS6al
クロカン「わたしは小寺にも太閤様にも誠実に仕えていたぞ」

前田利家「だから追わなかったのだ」

2012年10月20日 19:59

5 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/20(土) 12:44:03.97 ID:LeYLfUYG

末森城の戦いの時、前田利家は素早く末森城を後援したために佐々成政は敗軍した。
この戦いで本多正重は武者修行をして利家の備えを借りていたが、利家が士卒を
制して隊列を固めているのを見ると、馬を乗り寄せて声高に、

「恐れながら勝ちに乗るとは今ですぞ! 敵は崩れて一足も返しません!
御下知あるべき所なり!」と言った。しかし、利家は「お前に何が分かる!」と
大いに罵って城に入り兵を収めた。佐々軍が引いて後、利家は子息利長に話すべき
ことがあると、同道して七尾に帰った。

「私が正重の諌めを用いなかったのは思慮があったからだ。およそ武者修行の者は
自分の功を立てるのを目的とし本当の忠がない。あれは自分の一言で敵を追わせて
利を得たのだと他家の誉れにしようとしたのだ。もし私が負けたとしても正重の負け
にはならないし、仮合の徒である正重にとって損にもならない。

その上、道の往来を考えた時に後援の兵が三千から四千程度だと分かるところを、
その推測ができなかったのは成政の失敗だった。一旦は不意にあって敗れ去るとしても、
成政の志なら後援の兵が少ないと知れば、私が追わなくても兵を返してきたことだろう。
ましてや急に追ったなら総返しにされた。そうなれば味方の負けは必定であろう。
だから追わなかったのだ」

――『名将言行録』




6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/20(土) 13:17:21.96 ID:8exgBFE5
金銀をケチって兵力が足りていなかったというオチが無ければ名将なのに

7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/20(土) 13:20:21.23 ID:g2VVUmd0
金銀をケチって譜代を増やしてなかったから
渡り奉公同然に主君を変えていく奴に
軍勢の一翼任せる羽目になってるんだろうな

8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/20(土) 13:40:39.84 ID:yebQoZPm
こ、これは南蛮渡りの「あうとそーしんぐ」と言ぅてだな…