fc2ブログ

この吟味を三四郎に仰せつけられたのは

2019年06月28日 18:52

48 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/06/28(金) 18:19:00.29 ID:dyezkOlD
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8784.html
これの若干異なるバージョン

(酒井)忠勝様から伊達政宗様へ送られた書状を右筆が封じ違えており、他へ送る書状であったため政宗様は添え書きをなされお返しになった。
忠勝様は立腹され、役人を召し「すぐに吟味するように。右筆の糾明は北条三四郎に申し付けるように」とお命じになり、この書状を居間に置かれてご登城になった。
三四郎は筆跡を吟味する体を装いこの書状を焼却した。
ご退出の後忠勝様は吟味の様子をお尋ねになった。
三四郎は「筆跡の吟味をすれば筆者が誰か分かるでしょうが、(右筆のミスは)誤ってのことなので無益の吟味だと思い、書状は焼却しました」と申し上げた。
忠勝様は「軽率なことだ。しかしあの書状がないのなら吟味する手がかりもない」と仰って事が済んだ。
この筆跡の吟味を三四郎に仰せつけられたのはお考えがあってのことに違いないとご家中は感心した。

(仰景録)



スポンサーサイト



古びて見苦しいからと言って、

2017年12月29日 16:42

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/29(金) 14:10:25.04 ID:/1erROHT
大津の代官である小野半之助が、酒井讃岐守忠勝に申し上げた。
「勢多は海道往来の橋であり、殊に古代よりの名橋でありますが、現在では殊の外古く、見苦しく
なっております。ここ2,3年のうちに架け変えられるべきであると考えます。」

忠勝はこれを聞くと
「その橋が破損して、往来の人々が怪我や事故の危険があるのなら、どうして2,3年など待とうか、
早速に架け直すべきである。しかし修復によって持ち怺えられるのならば、修復で済ませるべきだ。

総じて橋というものは、『御代静謐久しく、この橋は何代にわたって伝わっている。』などと
言われるものであってこそ、兵乱の無い、天下静謐の印となる。

古びて見苦しいからと言って、改め造るべきではない。」

(武野燭談)



545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/29(金) 14:28:05.56 ID:/LKuYwzf
>>544
毎年年度末になると大して痛んでもない道路を舗装して予算を消費する現代の政治家に見習って欲しい。

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/29(金) 14:30:41.94 ID:LnqXQjAm
政治家はドカタのバイトでもしてるのか?

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/29(金) 14:43:31.79 ID:QiWPbY9p
>>545
それは舗装が目的じゃなくて水道、ガス、下水などのメンテだ。

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/29(金) 17:58:27.71 ID:hSRdluK6
>>545
電線を埋める工事もやってるぞ

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/29(金) 21:05:12.09 ID:aDvRL7jL
勢多の橋というと織部の擬宝珠の話が思い出される

第一の善政

2017年12月28日 11:09

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/28(木) 09:43:56.19 ID:SVRKQu46
品川・川崎の間を流れる川を六郷といい、その上流は玉川であり、江戸の南第一の大河である。
また江戸と本所との間に流れる川は隅田川の末にして、これも又城東の大河である。
みな要害第一の設と見える。であるが、この両川の往来、渡し船を待つ旅人、行客の
難儀を計り、酒井讃岐守忠勝は推して申し上げ、大橋を架けた。

「御用心向き如何か」
そう言う人があったのを、讃岐守は笑った

「天下の将軍は、人を以って城とし、人を以って垣とする。
その人を難儀させてしまっては、城にも垣にもならず、何の用にも立たない。
そもそも川を以って敵を防ぐような政道に成り下っては、江城は一日も守れないであろう。
ただ諸人が迷惑しないように仰せ付けられるこそ、第一の善政である。」

(武野燭談)



541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/28(木) 11:16:09.20 ID:TGrYJby2
大井川はいいのか?

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/28(木) 16:14:17.67 ID:iZWLj2wC
江戸川も

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/29(金) 00:44:05.29 ID:rMgdWzCk
大井川に架橋って防衛目的もあったろうけど、技術的に大変そう
蓬莱橋なんか平成に入ってからも何度もぶっ壊れてるし

〔若州〕小浜城の旧地、泣珠明神之こと

2017年05月28日 15:59

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/27(土) 21:31:23.71 ID:zH6PkXyL
〔若州〕小浜城の旧地、泣珠明神之こと

 天祥寺の僧によると、今の酒井修理大夫の若狭小浜城は以前は別の所にあり山城であったが、猷廟(徳川家光)の御時になにか訳があって今の地に移された。
今は平城であるという。
ところでその山城の中腹に古墳があり今は神を祀っている。泣珠(ナキタマ)明神と号している。
祠も大きいとおもわれその額は後水尾帝の宸翰であるという。
(小浜の山城は昔は名を白雲城といったそうだ。今の城地はなんというのだろうか。
また古城は白雲というのだからその山はさぞ高いのであろう。
山腹の古墳という言葉と合点がゆく。その地を見たいものだ。)

この神は、昔神功皇后の御時三韓退治の御軍に従った臣であったが、
何か策謀を漏らした罪により韓土からそのまま今の地へ配流され、小浜が墓所となったとか。
〔この神功皇后の韓征の従臣というのはこの神に限らない。
予(松浦静山)の城下(平戸城)で崇拝されている神社に『せ郎権現』と号すものがある。
小さい神社であるが、同じく韓軍従行から帰った臣の葬地であるとか。
きっと、諸所にこの類の遺跡があるのであろう。〕

神を泣珠と号すことは土俗に伝わっている。
往古の干珠満珠と称す軍略があり、これを言い漏らしたため流された事が碑文に見えるそうだ。
〔この碑は、祠の前に在るとか。僧が語ったまま記した。〕

泣珠神は俗体となった後の子孫が十家あり、今も連綿として能入(ヲニフ)村という所に居住している。
しかし言い伝えのみで、系譜等は有らずとか。

 この能入村にもまた泣珠の祠が在って、毎年六月十五日に祭礼がある。神功皇后も祭っている。
神官がかの神前につき、泣珠の神の御許しを申し湯立を行う。
そうして、湯が沸き昇ってほとばしり飛ぶときは神功皇后が御怒であるといい、
神官が御許しがないと唱えるとか。

こういことがあったが、近頃京都所司代となった若狭守〔小浜侯〕(酒井忠進?)が幸い領分のことなので、
この神のことを禁裏へ告げて御赦免を乞い願った。
罪を赦す勅定が下ったので、今は神の怒りのことは止んだとか。
あやしいことどもである。

(甲子夜話三篇)


大人・公子の御身として、幽霊女の真似など

2017年03月14日 17:39

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/14(火) 17:34:44.98 ID:T6KbAzrH
ある年のこと、尾張大納言徳川義直の元に酒井讃岐守忠勝が訪問した時、馳走にと
嫡男五郎太殿(後の徳川光友)による能興行があった。
この時、五郎太の手の舞い、足の踏む所、自らの拍子を、『讃岐守はきっと感賞するであろう』と、
義直は自慢げに見せるのを、忠勝は一切褒めず

「勿体なき大事の御身でございます。どうぞ余人に仰せ付けてください。すでにご器用なのはよく解りました」
(勿体なき大事の御身にて候。只余人に仰せ付けられ候へ。最早御器用の程は見え申したり)

と、しきりに止めようとした。立ち返ってから

「武家は何度も武を賞賛されることこそ本意である。大人・公子の御身として、幽霊女の真似など、
全く益がないではないか。」
故に全く感心できなかったのでやめるよう言ったのだと、成瀬隼人正正成に語ったそうである。

(武野燭談)


666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/14(火) 21:27:44.11 ID:BQ1j7HGy
でも武を見せつけると謀叛の疑いをかけらるんだろ

御当家からの御恩賞

2017年03月04日 18:25

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/03(金) 19:14:23.15 ID:thma4rS3
出雲少将・京極若狭守忠高が死去した時、実子がなければ領国を改易するのがその当時の決まりで
あったため、忠高の領地は召し上げられるという事となったが、かの京極家は数代の名家であったため、
将軍家光も惜しく思われ、忠高の甥である刑部大輔高知にかの家を相続させ、京極家の本領である
大津六万石を所領させるように、との沙汰があった。

これについての評議の場で、幕府重臣たる井伊掃部頭直孝は反対した
「京極家と鳥居家は、双方慶長五年の関ヶ原にて籠城した人々です。その上で一人は城を守って
討ち死にし、一人は城を開いて立ち退きました。

そして、京極家は百年を重ねた名家であるからと、その子孫には出雲・隠岐二十四万石を与えられました。
鳥居家は当家御譜代であり、その節死もあり、それら忠義を思し召し、元和八年羽州最上にて、
二十四万石を与えられました。

ところが、鳥居伊賀守忠恒が早世して子無き故に、去る寛永十三年でしたか、その苗字ばかりを残され、
忠恒の弟である主膳正忠春に三万二千石を下されました。
それなのに、京極刑部に六万石は多すぎるのではありませんか!?」

人々、直孝の理に納得したが、これを聞いた酒井讃岐守忠勝は
「掃部頭の申される通り、大津・伏見の籠城の功、鳥居が討ち死にしたのも、京極が城を開き
渡したのも、その功に勝劣はない。何故ならば、京極が大津城に立て籠もったために、上方勢2万余りが
関ヶ原に向かうことが出来なかった。すなわち二万の敵を京極高次一人が支えていたのだ。

また、それぞれの家について吟味するなら、鳥居は三河侍譜代、京極は御当家同列の大名であった。
我々のような譜代は、子孫が如何様に召し使われ、領地残らず召し上げられ、御扶持米で
召し使われることと成っても、どうして不満を申し上げるであろうか?
そのような異議を申し上げない所が、御譜代の第一の慎みである。

また将軍家も、父祖の功を思し召されたが故に、鳥居彦右衛門(元忠)の本領(下総国矢作領)と
同程度の石高を与えられたのだ。

京極家も一旦御味方申して、終始志を翻さなかった。
これらから考えれば、大津の禄六万石はかの家の本領であり、御当家の御恩ではない。
しかし本領と同程度の石高を以って京極家を存立させるのは、御当家からの御恩賞となる。
御譜代と諸侯との違いを、誰が批判するであろうか。」

これに、人々はまた尤もであると評議一同して、上達の上にて讃岐守が言ったように
京極高知には六万石が与えられ、大津ではなく播州龍野の領主に仰せ付けられた。
その後彼は、萬治年中に讃州丸亀に転封した。

(武野燭談)



690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/03(金) 20:44:08.53 ID:Au4U/eJZ
>>689
名裁き!

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/04(土) 22:00:26.04 ID:x2xTiC3w
>>689
そういえば関ヶ原は近江勢vs尾張勢の戦いとかいう話があるけど
近江守護だった京極氏の京極高次籠る大津城の戦いと、
尾張守護代だった織田氏の織田秀信籠る岐阜城の戦いが
大勢を決した、と言ってもいいかも
問題はそれぞれどっち側で戦ったか、だけど

小浜の八幡祭の人形

2016年12月12日 21:00

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/11(日) 21:20:52.56 ID:xOdljRep
小浜の八幡祭の人形

 若狭の小浜侯〔空印居士(酒井忠勝)か〕が初めて封を賜った年(寛永十一年、1634年)、
城下の大津町に八幡祠では城内外の鎮守として、例年八月十五日に祭礼がある。
 そのときに練り物が多く出る中に、太刀脇にはさんでいる武将の体をした物があった。
侯はその人形は何の将を模しているのか問われた。
地元の者が頼朝卿であると答えると、侯はすぐに桟敷を降りて拝まれたという。
 今では古例として、祭礼にはその侯は必ず旧に従われるという。
〔たいしたことではないが、聞くままこれを記した。〕


(甲子夜話続編)


これは放生祭のことですかね



自分ひとりの潔さに走るべきではない

2015年07月02日 15:40

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/01(水) 23:46:00.43 ID:JLPxzHuv
島原で切支丹の乱が起きたとき、板倉重昌石谷貞清を差し向けられたが、
なかなか落城の報せが来ないので、酒井忠朝が出陣を仰せつけられた。
するとその後すぐ、松平信綱が御前へとまかり出て、

「此度の件、酒井殿に島原への出陣を御命じになられましたが、結果は出ないと思われます。
何故かと言えば、酒井殿はいまだに屋敷で準備し、出発しておりません。
このことが、もはや、将軍さまのお心に叶わぬふるまいでございます。
もし、私に御命じくださるならば、ただちに出発し、即座に一揆ばらを踏み潰してみせましょう。」

と申し上げたので、これを伊豆守(松平信綱)に仰せつけられ、彼は即座に出発した。
同時に酒井忠朝には、島原には行かずともよし、というお達しが届いた。
備後守(酒井忠朝)はこれを聞くやいなや、

「知恵伊豆の仕業に決まっている。討ち手の先を越されては人前に出す顔もない。
こうなれば、追いついて伊豆守を討ち果たすより他にない。
すぐに馬を出せ」

と言いつけ屋敷を飛び出した。(1/2)

281 名前:278続き[] 投稿日:2015/07/02(木) 12:25:51.40 ID:l3ekoU/Z
すると、父の酒井忠勝が、

「待て」

と声を掛け、

「はやまるな。仕損じるぞ。まず落ち着いてよく聞け。
土井利勝が最期、私に向かい、
『伊豆守に気をつけろ』
と遺言された。
伊豆守が小細工をすることはかねてから私も知っている。
追いかけ伊豆守を討ち果たしたなら、お前は本望で、
世間の者たちもお前を剛の者よと称えるだろう。
しかしながら忠節のところは微塵もない。
あの程度の伊豆守だが、あれでひとかどの器量を持った男だ。
幕府のお役に立つことも多い。
その伊豆守を討ち果たせば、まずは幕府に御迷惑をおかけすることになり、
さらには、
『幕府の指図が雑だから、酒井殿が鬱憤を晴らしたのだ』
などと日本中で噂されるようになれば、主君に悪名を着せることになり、
重ね重ねの不忠である。
いま、お前が耐え忍び生きながらえるのはとても苦しく難しいことだろう。
しかし、我が身の難儀や恥までも耐え忍び、
主君を支えていくような者が、誠の忠臣なのだ。
自分ひとりの潔さに走るべきではない。」

と諭したので、忠朝もたちまち納得した。
そのうえで、忠勝は、

「理解したなら、隠居せよ。世の人々が嘲るだろう。」

と忠朝に奉公を退かせた。
家督は二男の忠直が継いだとのこと 【葉隠】(2/2)



282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/02(木) 18:16:07.22 ID:Q3aqugVa
DQN目竜「敵もろとも伊豆守も殺して手柄を奪うが良い」

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/02(木) 18:27:09.63 ID:TWKN05ff
じんぼぅ失っても知らんぞ

酒井忠勝、丸め込む

2015年05月30日 14:15

849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 19:59:52.97 ID:Ltjm8IJj
徳川家光の時代のこと。

ある年の正月、具足餅の祝の時、大久保彦左衛門忠教、今村九兵衛の両人は未明から出仕したが、
山吹の間に用があってそこに出ている間、本席に両人の姿が見えず、このため両人は遅参したと思われた。

既に御祝いの儀式が始まった中、目付け衆は席を見廻り両人を見つけ、「御祝いはもう始まっています。
早々に御着座して下さい。」と言った。

当然彦左衛門は激怒した
「我々は今朝未明よりこちらに詰めていたのに、何の御沙汰もなく御祝いが始まっているとは意味がわからぬ!
神君の御代より、こういう事に御失念は無かったのに、今日忘れられたということが、我々が年老い、
もはや御用に立たずとの思し召しであるなら、もはや退出すべし!」

この大騒ぎで御祝いの進行が止まり、老中始め役人たちは大いに当惑した。それでも
『大久保彦左衛門は神君よりの旧臣にて今日の御祝いでも第一の人だから。』と役人たちが様々に挨拶し
機嫌を直してもらおうとしたが聞き入れず、ついに老中松平伊豆守信綱が出てきて
「完全にこちらの失念であったからこそ、役人たちも言葉を尽くしているのです。早く席について下さい。」
と説得した

しかし彦左衛門
「我々は御旗本頭である!であれば軍礼に、御旗本失念ということが有るだろうか!?
もはや一番座も済んだようだ。我々は洗い膳にて食うようなことはしない!
まったく長生きすれば、珍しきことを聞くものかな。」
そう嘲った。

これには伊豆守もさすがに腹を立て「彦左衛門殿、舌の和らぐまま言いたい放題にも程がありますぞ!
将軍家の御祝いに洗い膳などと言うことはありえない!」

彦左衛門からからと笑い
「伊豆守はずっと畳の上で、戦場は見たことも無い故に軍の言葉を知らぬと見えた。
二番座に出るのを洗い膳と言って、まことの武士は嫌うことなのだ。よく聞いて置かれよ!」

伊豆守、心中さらに怒りが増したが、これ以上言い返す事もせず、周りは伊豆守を甚だ気の毒に見ていた。

この時、酒井忠勝がふらりと出てきて、彦左衛門の手を取ると
「老人のお言葉、尤もです。ですが今日は格別の御祝いの事ですから、あまり時間が過ぎてしまうのは
いかがでしょうか?さあ、席に付きましょう。この忠勝が相伴いたします。」

すると彦左衛門も
「さてさて、讃岐守殿は天下の老中であるのに相伴するとは忝い。ならばいただき申そう。」

コロリと機嫌も直り着座した。こうして御祝いは滞り無く相済んだ。

(明良洪範)

伊達政宗さえ丸め込める酒井忠勝にとっては、大久保彦左衛門もこのとおりなのである。




850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/29(金) 22:33:36.74 ID:Bt6VT78J
>周りは伊豆守を甚だ気の毒に見ていた。
この件で笑った

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 00:53:26.19 ID:W2vUN1nO
これならいい話ではござりませぬか

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 04:20:58.49 ID:3+oxdFGQ
一体両者の対応のどこに差異があったのか

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 04:31:28.55 ID:hAvvsUPh
>>852
知恵伊豆は知恵伊豆ってだけで叩かれる

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 05:37:41.51 ID:2wUbbVLP
三河者相手に真っ向からぶつかるのはよくない

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 10:04:48.21 ID:Hn2rc8Nn
最後の、そして最も面倒くさい人物だな

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 10:44:24.64 ID:JyBUmMSN
>>855
まあ、彦左衛門なんて大した武勲もない、ただ理不尽でうるさいだけのジジイだけどね。
でも、この時期になるとモノホンの武勲のある武功派はほぼいなくなっているからなぁ

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 15:58:22.86 ID:RileblEf
二大DQNがいるじゃないか

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/30(土) 18:00:56.86 ID:1OZzOB6C
>>856
岡部元信を打ち取った武功があるだろ

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/31(日) 19:53:34.38 ID:4LSw/tvs
酒井忠勝がかっこいい話

酒田三十六人衆

2014年08月29日 18:53

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/29(金) 01:23:04.92 ID:tayKb6Jk
酒田三十六人衆

元和8(1622)年最上氏が改易となり、庄内には酒井忠勝が入部した
忠勝は酒田湊を取り締まる有力商人である三十六人衆を城に呼び
「そなたらを酒井家の御家人として召し抱よう」と伝えた
しかし彼らの中から鐙屋の池田惣左衛門や本間・二木某らといった者たちが立て続けに
「二君仕えずと古くからの言葉にございます
一合の米も酒井家から貰う筋合いはございません
また我々は暮らしに困る程飢えている訳ではなく、地所も株も田地も持っております
だからあなた様のお世話になる必要はありません」と答えた」と答えた
『夢宅年代記』

三河武士以上にめんどくさそうな、酒田の自治に誇りを持っていた商人衆たちのお話




638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/29(金) 03:31:03.06 ID:m+Yjh9js
株……?

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/29(金) 04:07:21.43 ID:tayKb6Jk
>>638
職業上・営業上の特権
「相撲の年寄の-」
江戸時代に売買の対象とされた名跡や役職など
「御家人-」
独自の流通網

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/30(土) 09:17:20.16 ID:ojhfRzwC
>>639
へぇ~、そうだったのか

草鬼(草苅)塚の祟り

2014年08月22日 13:47

990 名前:sc→net未反映分のコピー[sage] 投稿日:2014/08/22(金) 07:37:06.53 ID:k/wP8bZN
草鬼(草苅)塚の祟り

口は是禍の門 舌は是禍の根なり とは誠哉
庄内鶴岡酒井御家中衆四五人 加茂浦へ釣に出 其帰り千安河の辺東禅寺右馬頭 草苅虎之助両人討死したる塚の前通る時 一人申しけるは
昔の時 此所千安(十五里ヶ原)合戦の時 草苅虎之助十七歳にて 漢のハンクァイが威を奮い 多くの敵を打ち亡し 其身も討死してカバネは此塚の白骨となれりと 諸人云り
当代ならばかかる冠者は一足も働かせず 則時に可討捕 彼に討れたる越後勢は 定て腰抜け侍たるべし
と大音声に笑ける
言葉の下面色変り狂人と成て 此塚より遥かに馳り通橋の麓に至りどふと伏にける
同道の人々追付見れば 彼人本心失ひ顔色尋常ならず青醒り 漸々介錯して帰りけり
其後大病に煩ひける時語りけるは
我千安川の辺にて草苅虎之助を嘲弄致しける時 カレが塚の中より虎之助と覚しき若侍出現れ
其いかれる顔色すさまじく 紺色威の鎧を着し 鹿毛の馬に乗り 鉄砲提げ 兜の鉢を輝し 我を目掛けて追来る間 怖く思ひ逃しが
後より鉄砲にて打れし時 我伏たりと夢のごとくに覚る
と云り
実にも彼が云ごとく背黒血染みたる鉄砲玉の跡有とかや
虎之助のカバネは土中に埋ると云へ共 亡魂つきず繁念無量功末代に亡威を遺せり
『奥羽軍談』



初陣の時

2013年03月23日 20:05

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/23(土) 16:29:58.22 ID:SMwRnjDV
空印(酒井忠勝)に初陣の時のことを尋ねると、

「初陣は闇夜の如く、一歩の先も見えないようなものだ。
二度目には少し明るく、朧夜の様になった。恥ずかしいことだ。
大勇の者ならば、そうではあるまい。私などは今言った通りであった」

と言った。謙退深き者である。

――『良将言行録』




824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/23(土) 16:39:29.38 ID:11NS3Arn
酒井忠勝の初陣って、13歳くらいで参加した第二次上田合戦だよね?
13歳じゃ無理もないわ

825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/23(土) 19:04:42.57 ID:bDRwxCwO
元親「うわ・・・私の初陣遅すぎ」



830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/23(土) 22:40:50.27 ID:SMwRnjDV
>>823
すいません、忠勝の初陣と題されていたので鵜呑みにしてしまいましたが、
どうも忠勝が家臣の草野文左衛門に尋ねて草野が答えた逸話のようです。いまさら訂正して申し訳ありません。


ある時酒井忠勝が瘧を患った

2011年07月26日 23:05

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/26(火) 11:40:19.65 ID:3gIEtyc1
ある時酒井忠勝が瘧を患った。
それが癒えてから忠勝が登城すると、小姓たちが忠勝を取り囲んだ。
驚いた忠勝が何なのかと尋ねると「病みあがりゆえ冷えては体に障るとの御上意なれば」と火鉢を持って
忠勝を温め始めた。
家光の御前に出ると、家光自ら自分の後ろの屏風を忠勝の後ろに引きまわし
さらに自身の頭巾を与えたうえで「わしの前で許されたのだから、今後は誰も前でも頭巾をかぶっても良い。」と
言葉を添えた。

『酒井空印言行録』




徳川家光の夜行と酒井忠勝

2010年10月25日 00:02

880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 21:28:33 ID:LGavZRGT
徳川家光が壮年の頃、たびたび寵愛する酒井重澄の屋敷へと夜行したことがあった。

ある寒い夜のことである。
骨身にしみる寒さの中重澄の屋敷から帰ろうとした家光は履物が暖かい事に気が付いた。
不審に主ながらその夜はそのまま城へ戻ったが、その後も履物が暖められる事は続き
さては山城守の殊勝さよ、と尋ねるたところ「履物までは心づき申さず恐れ入る」と返された。
では履物を暖めているのは誰なのか?それ以来家光も気を配るようになり、ついに誰であるかが判明した。

それはなんと家光の守り役酒井忠勝だったのである。
寵愛のあまりの夜行を知った忠勝は、家光の身を案じてひそかに供をしていたのだ。
目立たぬように尾行し、重澄の屋敷に入るのを見届けてからは近所に身を潜め、帰りもまた尾行する。
そして凍えそうな寒さの夜には、家光の履物を懐に入れて暖め、戻しておく。それを繰り返していたのだ。

真実を知った家光は忠勝を召し出し「この頃のことはなんとも申しようがない」と言った。
忠勝は「今大切なる御身としては夜行などなさるのは以ての外、かようなことを近習の者が
 1人でも知れば大事ゆえ、人は多くとも頼みにできる者なく、数は少なくとも警護致しました。
 それにしても軽々しいことです。」と諌めた。

これを聞いた家光は感動のあまり落涙し、その後夜行することはなくなった。




884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 23:09:42 ID:pEYVtP/P
>>880
秀吉かと一瞬思った

由比正雪の乱と酒井忠勝

2010年09月16日 00:00

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/15(水) 01:58:29 ID:foFxp0Dt
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4610.html酒井忠勝バージョン

由比正雪らの幕府転覆の陰謀が露見した。いわゆる<慶安の乱>であるが、
駿府で自殺した由比正雪の遺品のなかから紀井大納言頼宣の判物(はんもつ)が出て大騒ぎとなった。

<判物>はハンモノともいい、将軍とか大名から目下の者に宛てた文書で花押のあるものをいう。
つまり正雪らの陰謀に御三家の紀井頼宣も加担していた、という疑惑がもたれたのである
このとき忠勝は単身紀井家におもむき、頼宣に対面してその判物を見せ、「真偽いかが」と
頼宣の膝元に詰め寄った。

うっかりするて紀井家存亡に関わる問題である。したがって忠勝も命がけである。
するとすかさず豪気な頼宣は「一向に覚えはないぞ」と、平然と答えた。

そこで忠勝は顔を緩め、「それは重畳。このような紛らわしい反古は焼き捨てるにしかず」といって、
即座にその判物を傍らの大火鉢に投じて、証拠の品を消滅せしめた。
そして「これからはお身近の人々にもご油断なきように」と忠勝が言い、

「さよう。近習の者どもにも心を配るようにいたそう」

と頼宣が答えた時、一人の小姓がつと立ち上がって縁側に出、腹に脇差を突き立てて自裁した。
この小姓に罪があるわけではなかった。しかし自分が罪を犯した形にして主君の急場を救おうとしたものであった。

「さてさて大納言様はよきご家来をお持ちでござる」といって、
忠勝はそのまま帰って来た。紀井家は取潰しを免れた。




67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/15(水) 08:14:19 ID:K/2hezId
南龍公、まさか、本当に・・・

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/15(水) 21:03:58 ID:/qn7Wm+k
秘書に責任擦り付けてのうのうとしてるどっかの政治家に通じるものがあるなw

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/15(水) 22:06:58 ID:9kfiKJ0z
  /i (~) iヽ
 《 ヾ⌒ソ /
.  {ヽ,二,,ノ}   >>68
∠(´●ω・´)ゝ 沢山いすぎて「クリリンのことかー!」的コメントが出来ません
  (:::::::::::::::)
   しωJ

 と言ってみるでがんす

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/15(水) 22:46:15 ID:l/cX/MKa
平議員はもちろん大臣クラスでもサクッと切り捨てられてね?

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/16(木) 00:30:20 ID:bHcGGIHT
頼宣「もういいぞ」
小姓「うまくいきましたねぇ」
頼宣「小姓、お主も悪よのう」
小姓「いえいえ、貴方様ほどでは…」
頼宣「しかし正雪め下手をうちおって」
天井裏の影「…すぐにご隠居に知らさねば…」


72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/16(木) 03:11:42 ID:uW1ylClg
>>71
この時期のご隠居って誰だよw

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/16(木) 06:43:28 ID:7U8BD/iF
三歳さ~ん!

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/16(木) 06:47:32 ID:/aE7IRhs
1651年由比正雪の乱
徳川光國(1628~1701)

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/16(木) 08:24:45 ID:sMqiiZhr
二十代でご隠居とはハンパねぇwww

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/16(木) 10:53:01 ID:/aE7IRhs
ちなみに光國さんは結婚したのが25歳で藩主になったのが28歳です



関連
夜叉掃部さんの真骨頂
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4610.html

酒井忠勝と竹千代の病と鹿の角の兜

2010年06月07日 00:01

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/06(日) 19:56:43 ID:ita292Jl
『酒井忠勝と竹千代の病と鹿の角の兜』

 あるとき竹千代(後の家光)が疱瘡を患って危篤に陥り、側近の者たちがひどく心を悩ましていた時、
国千代(後の忠長)派ではこれを聞いて大いに悦びあっていた。
そのうちに国千代が「食事をもて」と命じたので、御台盤の間が竹千代の薬などをほったらかしにして
騒ぎ立っているのを見た酒井忠勝は、呆れてしばらくこれを眺めていたが、
係りの者どもが国千代の御膳部だけにかかりきりになっているのに腹を立て、

「ただいま竹千代君のご疱瘡が重らせられ、ひとりひとりが固唾をのんでご心配申し上げておるというのに、
国千代君がご兄弟の御身で、どうしてそれをお悦びになっているはず
があろうか。食事も咽喉を通らぬはず。それなのにかかる御振る舞いとは心外千万。その御膳を差し上げてはならんぞ。」

と、声荒らかに罵って、御膳部を下げさせた。
 すると間もなく父の秀忠が見舞いにやって来て「讃岐守(忠勝)、前に立つべし」と命じた。
それを国千代に対する無礼のかどでお手討ちに逢うものと考えた忠勝は、「もとより覚悟の上、本望の至り」と畏まって、
秀忠の先に立って竹千代の寝所に案内したが、
さいわい病気が峠を越えて顔色も少しはよくなっていたので、秀忠は大いに悦び、「いよいよ大切に看病せよ」と
忠勝に声をかけ、再び忠勝を先に立たせて帰って行った。

 その後、竹千代は全快し、忠勝の行為は世の人に称賛されたが、忠勝の人物に感じ入った福島正則が、
「いま天下の武将、御旗本の英雄とは貴殿のことです」といって
秘蔵していた鹿の角の兜を進呈したのはこの頃の話だといわれる。




592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/06(日) 20:15:18 ID:/d7vf/1Z
森武蔵「鹿の角の前立と聞いて」
本多平八「鹿の角の忠勝と聞いて」

知恵伊豆と空印

2010年06月03日 00:05

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/02(水) 01:01:04 ID:ZVomUtX/
『知恵伊豆と空印』

 寛文元年、京都の東福門院御所から江戸に連絡があり、松平信綱に御用があるから上洛してほしい、といってきた。
さっそく信綱が上洛してその御用をうかがうと、十ヵ条からなる願いの筋で、後西天皇から出たものだったといわれる。
ところがその願いを聞いた信綱は、江戸の将軍家綱や他の閣老たちに相談せず、その場でそれらが全て叶い難い事を
理路整然と復答して、江戸へ帰っていった。

帰府した信綱は、隠居し空印と号していた酒井忠勝のもとを訪れ、その経緯を報告した。信綱としてはいささか
得意な気持ちもあった。

すると空印はその報告を聞き終えると、やおら口を開いて次のように語った。

「お話はたしかにうけたまわった。ただ女院御所からわざわざ貴殿を名指しで召しのぼされたのは、それが
重い御用だったからと思われる。
そしてその御用が全てお引き受けできないような願いであり、貴殿の才覚をもって申し開かれたことは道理至極で、
非難すべきところは少しもないが、徳川家ゆかりの女院御所の仰せでなのであるから、理非ともに
将軍家に一応お伺いすべきではなかったか?」

「その場で理非が見えるからといって、すぐにご返事はせず、それほど不都合のないものは一、二ヵ条くらいは
仰せ通りにしてやるべきではなかったか。だいいち、こたびの貴殿のなされようは、京都よりも江戸の将軍家を
ないがしろにしたものと言われても致し方あるまい。」

 空印のこの言葉は痛烈であった。空印は〈知恵伊豆〉といわれる信綱の〈理〉に走りすぎる政治を憂えていたのである。
信綱は赤面して辞去したという。

いい話スレで話題になってた信綱さんのバツの悪い話




135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/02(水) 01:16:23 ID:6Bk3EFwR
>>134
酒井忠勝は幕府嫌いの後水尾院からすら絶大な信頼を得ていたくらい、朝廷とのパイプが
太かったらしいからね。変に幕府と朝廷の間をこじれさせかねない態度はとるべきではない、という
注意だったのでしょうな。

逸話や事歴を見ても知恵伊豆は別に悪人というような人ではなく、ものすごく真面目で有能な
幕府官僚なんだけど、それゆえに幕府の外からの視点、と言うものをたまに忘れる感じがするな。

136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/02(水) 09:27:09 ID:HvZpjD4u
「知恵伊豆」と聞いて志村伊豆守光安がそわそわしております。

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/02(水) 09:40:37 ID:S5Z4wpFX
真田伊豆守だって黙ってないんだからね!

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/02(水) 11:33:03 ID:cQH9+cro
これだから伊豆守は

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/02(水) 12:56:51 ID:oaDuooMV
何か絵に描いた様な「才気走る若造」だよねw

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/02(水) 14:01:43 ID:6eMxg8ct
成功した三成ってイメージが有る

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/02(水) 14:15:26 ID:P2utHb5U
反省する心を持っているから大成した、という逸話が多いね。



142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/02(水) 14:34:34 ID:WU/phL+V
>>134には続きがあって、その翌年に信綱は病死するわけだけど
女院御所を軽んじた罰があたったのだと公ではそういうことになっているが
実際は、忠勝の言葉に大いに恥じ入り、それが病根になったのだ!

とまで言われる始末
ぶっちゃけ忠勝も同じ年に後を追うように亡くなってるけどな



143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/02(水) 18:26:21 ID:40nMbbEa
ちょっと言い方きつかったかな~、と思い悩んでいたのかもしれない。

草野文左衛門「戦国の行状」

2009年08月19日 00:07

537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/18(火) 12:11:33 ID:rczTMb9I
草野文左衛門と言う侍がいた。

彼は京極家に仕え、大阪の陣においても相当の働きをした武勇の者であったが、
京極家の改易に伴い牢人し、やがて幕府老中、酒井忠勝に二百五十石にて
召抱えられる事となった。

草野には住居が与えられ、引き移りの日、その家には酒井家より足軽が使わされ、
色々と草野を迎える用意をした。

そうこうして夕刻になった頃、みすぼらしい粗末な綿服で、帯刀した上で槍を提げながら、
空いた片手で馬を曳いている、明らかに下人風の者がその家屋の門前に立ち、
中にいる足軽に聞いた

「草野文左衛門の住居はどこでしょうか?」

「ああ、それならここさ。あんたは文左衛門殿の荷物を持ってきた家来の方だね?
で、文左衛門殿はまだなのかい?ずっと待ってるんだけどねえ。」

「いいえ、私が文左衛門です。お待たせして申し訳ない。」

足軽、大いに驚いて彼を家の中に案内し、足を洗う湯などを渡したが、「私の足より先に」と、
自分の馬の足を洗い、夕食を進めると「いえ、結構です。それよりも、」と、自分の食事より、
馬草を求めこれを馬に与え、それが終わってから座って、腰につけた弁当を出して食べた。

そうしてしばらくしてから、今度は本当の草野の小者が一人、具足と箱とを
肩にかけてやってきた。
箱のほうには衣装を入れていたが、麻の裃だけしか入っていなかったと言う。

人々はこれを聞いて、「まことに戦国の行状である。」と、大いに感心をしたそうである。




538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/18(火) 15:03:51 ID:bxfxOmBu
>>537
単に貧乏していただけにも見えるのだが…。
ボロは着てても心は錦ってところか。

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/18(火) 17:56:50 ID:F+/QyizX
>>538

何はなくとも手柄を立てる道具だけは肌身離さず持っている心
自分よりも先に馬を肥やす
しかも自分が戦で乗るのだから自分で世話をする心
常在戦場の心がけって奴なんだろうね

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/18(火) 22:49:59 ID:W65lEvdD
その馬が主からもらったやつならもっと良い話だな