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それがしは家康公へ庭先のハシゴを差し上げたが

2016年10月14日 21:12

森可政   
212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/14(金) 14:54:41.43 ID:UGi9nDJa
徳川家には……


春も末のある時、森可政(森可成の弟で忠政の叔父)が忠政へ生の鱸を差し上げようとしたところ
近習衆は「忠政公は奥にいらっしゃるので今お披露目するのは難しい」
と断りそのまま持っていこうとした。

可政は大いに腹を立てて
「この時分は落ち目のナマモノがあるので、忠政殿はお出でになるべきだ。
ナマモノを直接ご覧にならないのは以ての外である!先年それがしは家康公へ庭先のハシゴを差し上げたが
御列座の衆は
『あの可政は秀吉公の代には黄母衣の御大役として口を聞くような者だったが、庭先のハシゴをくれたのか』
と機嫌よく家康公の御前へ持っていってくださった。何を差し上げようとも
『公儀の場よりも奥の間にいるので披露できません』と返すような御列座の衆は徳川家にはいなかったぞ!
早く取り返してきてくだされ!」
と言ったので近習衆は驚き早々に生の鱸を忠政に披露したということだ。


――『武家聞伝記』




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森可政の脱出

2010年08月22日 00:00

森可政   
589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/21(土) 18:34:31 ID:Hx/b469U
鬼武蔵を恨み続けた森さん(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2668.html)のこぼれ話みたいなものを一つ


怒りに任せて突入した岐阜城から、なんとか単独で無事に娘を助けだした森可政は、金山を目指すうちに
木曽川に道を阻まれた。
可政「船に乗らねば渡れぬ・・・太田の渡しから船に乗るか」

そんな訳で太田の渡しから船に乗って、向こう岸に渡ることにした可政。しかしながらこの船頭も顔見知りである。
仮に岐阜城からの追手が来て、聴取があったらすぐに犯人が露見してしまう事だろう。ならば・・・

船頭「あいよ、着きましたz・・・」
可政「御苦労。では死ね!」(ザクッ!ブシャー・・・)

着くやいなや船頭を切り殺した。しかしながら可政はまだこの場を去らなかった。

可政「船を残しておくのも如何なものか・・・念のために壊しておこう」(ガン!ゴン!!ドカ!!!バキ!!!!・・・ブクブクブク・・・)


船頭の死体と船そのものまで急いでぶち壊して川に沈めると、可政親娘は夜の闇へと消えていった。
そうして金山に逃げ帰り、支度を済ますとすぐに可政親娘は蒸発。しばらく行方知れずとなる。




596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/21(土) 20:38:09 ID:8iPvexAB
>>589
結局DQNの血族なんだなぁ

鬼武蔵を恨み続けた森さん

2009年08月21日 00:08

森可政   
580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/20(木) 02:07:08 ID:wmHE739K
森家の一族に、森可政という人がいます。この人、鬼武蔵の父、森可成の弟なのですが、
なんと兄弟の年の差37歳!鬼武蔵よりも年下でした。
長可のおじいちゃん、元気な人だったのですね~。

さて、皆さんよくご存知のように、鬼武蔵さんは、友達作りは下手だけど、敵を作ることにかけては
天才的な才能があります。
この可政さんもそうでした。見事に不倶戴天の敵になります。それには、こんなお話がありました。

秀吉と織田信孝、柴田勝家の関係が悪化し、賤ヶ岳が始まろうとした頃、
長可は甲賀忍者を引き連れ岐阜城に潜入、人質になっていた弟忠政を救出した、
ということがありました
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-369.html

実はその時、森家の人間でもう一人、岐阜城内に人質にとられていた人がいたのです。
それは可政の娘、於鍋。

先の救出劇のとき長可、この於鍋の事は、ものの見事にスルーしてしまいました。
どうしてスルーしたのかはよくわかりません。救出がムリだったのか、一門はいえ家臣の娘など
どうでもいいと思っていたのか、それともうっかり忘れただけなのか。

しかしこの事は、可政を激怒させます。そりゃそうです。
「森家の人質のうち一人だけ残されて、娘はどれほど心細い目にあっているか!」

森可政は怒りのあまり森家を出奔、娘の於鍋を自力でどうにか救出をすると、秀吉の元へと行き
彼の旗本部隊である、黄母衣衆の一人にまでなりましたが、長可のことは許さず、
森宗家とは一切関係を持とうとしませんでした。

やがて小牧長久手で長可が死んでからもこの態度は変わらず、池田輝政の仲介で
ようやく和解したのは、関ヶ原の終わった後。
10年以上に渡って、長可の所業に怒り続けていたんですね。

さて、逆に森宗家のほうでは、何故勝手に出奔した可政と和解する気になったのか?
これにも当然理由があります。
可政は、秀吉の黄母衣衆に成った事からもわかるように、森家の人間らしく大変な武勇の士でした。
彼は徳川家康にも気に入られ、関ヶ原の後にはなんと、家康の直臣となっていました。

「森家の一族の中に家康公のお気に入りがいる!」
兄長可と違い、政界遊泳の達人である忠政が、これに目をつけないはずがありません。
家康の覇権が確立する中、その家康のお気に入りを取り込めば、森家の安泰はさらに強化
されるからです。

そんな打算もあってか、慶長17年(1612)、忠政は可政を藩の執政として、その所領、
美作18万6500石の内、7000石を与えると言う、破格の条件で招きました。
ここにようやく、森可政の出奔は終わったのです。

そんな、鬼武蔵を恨み続けた、森さんのお話。





583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/20(木) 09:28:36 ID:9XWkFdEQ
>>580
身内は早死にした人が多いから
他のDQN四天王と比べると身内への被害は少ないと思っていたが
ヤパーリそうじゃなかったのかw

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/20(木) 12:21:35 ID:M7vnMLe2
>>580
一門宗を離れて自力で娘を助け出すって凄い気概のあるパパだな格好いいな

585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/20(木) 12:47:47 ID:pedWssPb
どんな手を使って自力で助けたのか知りたくなるな
やっぱり一族の掟にしたがって崖から投げ落としたのかな

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/20(木) 13:03:40 ID:5QjP4hiR
三歳さまは息子への仕打ち
北のDQNは弟を自ら斬殺
南のDQNは妻と義父への憎悪と妹への(ry


基本、森さん家は家族仲だけは良いと思ってたのに…

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/20(木) 14:13:36 ID:VWpPOZHV
>>586
弟に跡を継がせるなというのは、弟の為を思ってのことだったのかな。

588 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/08/20(木) 15:45:05 ID:3aMTqWl+
>>587
いや、単純に能力が…
おや、こんな時間に宅配便ry

589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/20(木) 17:24:24 ID:fCMXDX/t
15時45分なら宅配便が来ても普通だろう。