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乙女月

2022年04月28日 23:38

158 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/04/27(水) 22:36:49.46 ID:2M22ybcL
昔むかし、島津家の当主が十五代貴久の頃の話。
貴久の元に仕える一人の若者がいた。
とある娘がその若者に恋をした。

ある時、若者が戦で大怪我を負ったとの知らせ
が娘のところに届いた。
驚いた娘は、何も持たず大急ぎで若者ところへ
向かった。
しかし、どんどん日が暮れあたりは暗くなり曇り空で月も星も見えず、ついに何も見えなくな
り娘は一歩も進むことが出来なくなった。
その時、娘は祈りを捧げると雲が動き月が見え月明かりを頼りに娘は無事に若者の所に辿り着くことができました。

後日、この話をを聞いた貴久は娘が祈った場所を「乙女月」と名付けました。
鹿児島県日置市の地名「乙女月」の由来の話。
(南日本新聞に載っていた話)

ちなみに「乙女月」バス停まで天文館から1時間ほどかかるそうです。



159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/28(木) 11:10:25.26 ID:ZqnN/qCm
で、その二人は結ばれたのだろうか・・
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島津家大永の内訌

2018年04月22日 21:18

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/22(日) 03:52:33.20 ID:469vx5k8
大永7年(1527)、島津貴久は守護職を継いで鹿児島清水城にあり、養父で前守護職の島津勝久
伊作に移って隠居した。ところが島津実久が勝久と通じ、貴久の実父・忠良と勝久の離間を図った。

実久が伊集院城と谷山城を攻略して鹿児島へ向かうと、忠良は加治木・帖佐の地に勝久を移そうと船で
鹿児島に向かったが、戸柱まで来た時に不穏を見て取り、田布施へと帰った。実久は貴久に守護職の

返還を求めたが、貴久はこれを拒否して清水城を死守しようとした。しかし鹿児島に内応者がいるとの
風聞により、貴久は夜に城を抜け出して園田実明の宅に隠れ、実久の追手を逃れた。

のち勝久は実久に擁されて清水城に帰り、島津氏は勝久・実久派と忠良・貴久派に分かれて内訌に陥る。
享禄2年(1529)、島津忠朝は両派の和解のため、新納忠勝・禰寝清年・肝付兼演・本田董親・

樺山幸久・島津運久・島津秀久・阿多忠雄らと会して勝久に謁見し、事態の解決を図ったものの、勝久
の態度は要領を得ず、皆怒って帰ってしまった。

勝久は忠朝の跡を船で追って大隅に至ったが、むなしく帰ることになったという。

――『鹿児島市史』


皆さん歯を大事にしましょう。

2017年06月24日 18:43

54 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/06/24(土) 18:19:04.41 ID:s9WvoSYg
鹿児島県鹿児島市にある松原神社。松原神社は、天文館という鹿児島で一番の繁華街にあります。
ここは島津家の15代当主
島津貴久(靖國崇勲彦命(クニムケイサタカヒコノミコト))を、主祭神として祀っています。

かつて、このあたり一帯に、名刹・曹洞宗福昌寺の末寺である松原山南林寺がありました。
南林寺は、弘治二年(1556)島津家15代貴久によって建立され、大いに賑わっていたといいます。
貴久の死後天正十年に義久が南林寺を貴久の菩提寺に定めました。
明治二年(1869)の廃仏毀釈によりとりつぶされ、翌年、跡地に松原神社が建立されました。

松原神社には他にも戦国武将が祀られております。その人物について、神社内にある、
鹿児島県歯科医師会によって建てられた説明板には、次のように由来が書かれています。
「祭神は島津貴久公の臣 平田純貞 元亀二年(1571)三州平定途上、急死の主君の無念を思い出家諸国を遍歴、
元亀四年亡君命日六月二十三日殉死の作法に従い、うつろ舟に乗り蓋を釘付けに海に流させた。読経歯ぎしりの音、
三昼夜壮烈な殉死をげた。遺体の歯は抜けていた。当時歯痛に悩む人は自分で歯を抜いていたが、
自然に歯が抜けた純貞は、歯の神様と崇められるようになった。」

また、別の説として、鹿児島県歯科医師会会史(80周年史)では次のように記載されています。
「島津家15代の明主大中公(諱は貴久)の家臣・平田純貞、君主の命を奉じて虚無僧姿となり、
九州一円国情偵察の行脚をやった。その当時は織田、豊臣の時代で島津藩の如きも未だ後年の如く
統一されたものではなかったが、帰途福山において大中公薨去の報に接した。
 純貞落胆措く能わず人生最大の苦痛を味わいて殉死せんとした。即ち人生において歯痛に勝る苦痛は
あるまいとの観念から自ら全歯を抜き放ち、且つ空舟に乗ってこれを海中に投ぜしめた。」

なお、うつろ舟については、次の資料を見つけました。
「空舟とは本来、木を剔り抜きて船の如くし、殉死者はこれに乗りて蓋を釘付けにし且つ海中に投ぜしめる方法であって、
その当時の殉死の一形式として用いたといわれている。これが他の殉死と異なるところは、
万一運が良ければ陸地に漂着して救助されることもあったという。」

純貞の舟は2、3の漁家のみだったという海岸(今の南林寺町)に漂着した。即ち検死の結果、平田純貞ということがわかり、
これを海岸より程遠からぬ元の南林寺墓地(ちょうど現時の南洲寺より55メートル位西北にあたる)に埋葬された。
その時死体を東向に埋葬したところ、不思議に天地晦冥となり、風雨俄に起こったという。蓋し大中公を祀った松原神社が
その西にあり、大夫の霊が東向を欲しないためだろうというの で早速これを西向に改めたところ、
忽ち天地が元のように晴朗になったという。
何時の頃からか世人はこれを「歯の神様」と称え、歯痛に霊験あらたなものとして来拝者が後を絶たなかったという。

鹿児島県歯科医師会では、1960年頃から毎年6月4日に松原神社で”抜去歯”の供養祭とともに
「歯の神様」の祭礼を行っています。
(2017年は60人ほどの参加あり)

数年前の新聞の記事では抜去歯の数は二万本ほどだったそうで、皆さん歯を大事にしましょう。

松原神社
https://www.matsubarajinja.com/




55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/24(土) 18:32:37.43 ID:B5sHcQLP
島津斉彬の照国大明神、ててっきり天照大神に対抗して東照大権現になった徳川を倒した薩摩が
「東」より広い「国」にでもしたのかと思ってたけど
島津貴久が「靖國」だったからてだけ?

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/24(土) 18:44:27.62 ID:D++bK00K
うつろ舟と言ったらこれ?
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2a/Utsuro-bune.jpg
Utsuro-bune.jpg

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/24(土) 20:46:04.57 ID:TUR15A8h
補陀落渡りでもするのかと思った

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/24(土) 21:14:45.36 ID:B5sHcQLP
補陀洛といえば
ポータラカ→補陀落→ふたら→二荒→にこう→日光
となったというのを近頃知った

権現様も補陀落に眠ってるということか

アフォンソ・バズという人物一人を殺してしまった。

2017年03月22日 10:38

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/21(火) 21:56:50.71 ID:3jA4Kuzq
1562年(永禄4年)、鹿児島の王(島津貴久)よりインド総督に贈りし書簡

『コンパニヤのイルマン2人が、昨年私の鹿児島の領国に来たり、私の領内を巡って説教をしたが、
私は一つの戦役のため救援の準備に従事していた故に、私の希望のように彼らが当然受けるべき境遇を
与えることができなかった。

また、私の領国の一港であるマンゴー(Mangoo)にポルトガル人の船一艘が来ていたが、上記の戦役に
巡り合わせた故に、彼らに相当なる礼遇を与えることが出来なかっただけでなく、国内に外国より
略奪のために来た剽盗があったために、ポルトガル人が来ているのを知らず、彼らを剽盗と誤認し戦ってしまい、
アフォンソ・バズ(Affonso Vaz)という人物一人を殺してしまった。
私はこれを遺憾とする。

私は毎年書簡を送るべきである故に、閣下がもし書簡を送ってくれば私はこれを大いなる名誉と思うだろう。
ポルトガル人、又はパードレ等を当地に派遣しようとする時、閣下の書簡、又は口上を持参すれば、私は彼らに
相当する、一切の歓待礼遇を与えるであろう。

(永禄)四年薩摩より』

(異国叢書)

島津貴久による「合戦騒ぎでついうっかりポルトガル人殺しちゃったわテヘペロ」という書簡である



688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/21(火) 21:58:52.95 ID:Kls3i0zw
お詫びに軍旗に大きく十字を書けば許してくれただろうな

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/22(水) 11:18:06.25 ID:XIT09IlA
戦国も後半になると海外と外交したり秀吉のゴマすったり中間管理職めいて大変だな
毛利元就くらいがいいな。領国内で成り上がって国人衆を統一して自国領を広げてハッピーエンドみたいな

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/22(水) 11:29:14.25 ID:nTvcLbOj
守護大名がか?

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/22(水) 12:46:46.90 ID:mQ1Lf/Wi
元就は元就で苦労の連続じゃん

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/22(水) 22:39:46.44 ID:fDcqyXCX
元就は書状で愚痴りまくりの戦国苦労人。しっかり苦労人の血を受け継いじゃった長男。そしてなぜか孫がアレ

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/22(水) 22:52:19.62 ID:tvp724bG
あれ呼ばわりされてるが大友家一条家朝倉家のアレ等よりよっぽどマシだろう

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/22(水) 23:52:54.86 ID:qPwsY8gI
結構アレな息子は多いな、今川とか。黒田もそうか。

十三塚原

2017年02月03日 10:56

571 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/02/02(木) 23:29:57.77 ID:tUuJ8z9c
十三塚原(じゅうさんづかばる)は、鹿児島県霧島市と姶良市に跨る東西6.5キロメートル、南北11キロメートル、
標高210-300メートルのシラス台地です。近くには鹿児島空港があります。
名の由来は13基の塚が数十メートルの間隔をおいて並んでいたことから十三塚原と名付けられました。

十三塚原の由来については次のような伝説がある。かつて国分八幡神社(鹿児島神宮)と宇佐八幡神社(宇佐神宮)の間で
どちらが正統の八幡宮であるか論争があり、大永七年(1527年)十一月、宇佐八幡の神官14名(15名の説もあり)が
鹿児島を訪れ国分八幡の古文書を調査し、正統性は疑わしいとして社に火をかけた。ところが社が猛火に包まれた
その煙が「正八幡宮」の文字を示したことから神官たちは驚きあわてて逃げ帰ろうとした。宇佐逃げる途中、
次々と13名が死亡、残された1名(2名の説もあり)も宇佐八幡に戻って事の顛末を報告し終わると同時に死亡した。
しばらくして死者のために13基の塚が建てられたという。(日当山村史)

この伝説が大永七年(1527年)と書いてあるのは「日当山村史」だけで、その他の史料及び十三塚原にある
十三塚原史跡公園の案内板には長承元年(1132年)となっております。
(「日当山村史」にも「長承元年(1132年)との説もあり」とは書いてある)
実際その頃に国分八幡神社(鹿児島神宮)は火災の為焼失しており、そのため年代がかわったのかもしれないです。
(社は永いことそのままでしたが、島津貴久が再建しております。その時の話がこれです。
島津貴久が国分の八幡宮を訪れたとき、とある夢を見た
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2677.html
貴久は再建の為に訪れており、日秀上人は再建に携わっておりました)

※鹿児島神宮の案内板には「八幡宮の総本社は鹿児島神宮」と書かれていますが、鹿児島神宮がある霧島市
では「八幡宮の総本社は宇佐神宮」と見解を出しております。



572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 16:32:02.51 ID:Gjqm2/hC
>>571
火災に尾ひれがついたのかな
ずいぶん恐い尾ひれだけどw

578 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/02/04(土) 20:48:26.85 ID:nqYD0FKg
>>572
文献が思い出せず書けなかったのですが、
記憶が確かならば、大永年間の国分八幡神社の火災の原因は
島津と敵対する武将による“放火”だったはず。
怖い尾鰭がつくのはある意味当然かもしれない。

島津貴久は子供の頃

2014年01月25日 18:39

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/25(土) 09:06:46.53 ID:ApPv4Ikg
島津貴久は子供の頃、勉強をほったらかして鷹狩りに出かけることがしばしばであった。

父や近習の眼を盗んで遠くまで出かけた時のことである。
突然の大雨に見舞われた彼は慌てて帰路に着いたが、
川に差し掛かったところで行きに使った橋が流されていた。

立ち往生していたところ、向こう岸に近習の園田某の姿が見えた。抜け出した貴久を慌てて追いかけてきたらしい。
貴久と自分の間に流れる川を見ると事情を察した彼はざんぶと川に身を乗り入れた。
肩まで水につかり水面に見えるのは顔だけという状態である。

「さ、早くお渡りください」自分の頭を足場に川を渡れというのである。
貴久は「いかに君臣と言えどもそのような真似は出来ぬ」とこれを拒むが
園田も「いやいや、一刻も早くお戻りにならねば」と引かない。
そうこうしている間にも水かさはどんどん増していく。

度重なる懇願に貴久はとうとう折れて、
「されば許せよ」と彼の頭上を渡って向こう岸へ渡り、二人してずぶ濡れになって帰った。

貴久はこのことを大いに反省し、以後は学問にも身を入れるようになったと言う。
尤も、父の忠良にも日新柱のエピソードがあることから血は争えない、と言ったところでしょうか。




196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/25(土) 21:28:01.75 ID:lsDq6YDf
意外と川幅は狭かったのか

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/25(土) 22:25:35.19 ID:ApPv4Ikg
おそらく三段跳びの要領で

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/25(土) 22:56:02.23 ID:a37AOTxo
そこで貴久が園田さんの頭で足を滑らせて溺死なんてことになってたら、
九州の歴史も随分変わったんだろうなぁ・・・


島津家久・決死の籠城戦の最中に

2011年07月20日 23:06

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/20(水) 12:53:41.93 ID:HMIh3tJw
耳川決戦の前哨戦の1つである高城籠城戦が行われていた時の事
3万以上と言われる大友軍の前に島津家久3千が決死の籠城戦を行っている最中に
大友の使者が陣中見舞いとして酒と菓子を持ってきた
これに対し家久も返答の使者に酒とスズキを持たしたのだが
その際に両軍の使者同士で交流の宴が行わる事になった
さて、宴の最中に島津側は大友の一団から矢文を貰う
星野長門守からの内応の手紙であり内容は
「最近の大友は侍を蔑ろにして民衆を虐げる暴政である、しかし反抗したいが力が無い、我々は時が来れば
島津側に忠節を尽くすつもりです、何かあったら笛で合図して裏切りますんで」
とあった
この手紙の内容を見て奮起した家久はフランキ砲をお見舞いされても水手が尽きても
義久の主力部隊が到着するまで半年ほど持ちこたえる事となった
絶望的状況下で籠城する側が内応の手紙を貰うという悪い話

67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/20(水) 17:55:54.35 ID:9vQ0IYfm
大友ェ……

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/20(水) 18:29:10.35 ID:jFysH7l7
宗麟さんこのじきもう新興宗教にはまっておかしなことになってたのかな

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/20(水) 18:39:23.19 ID:uS6B31QR
宗麟「わーたーしーはー悪くないー」

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/20(水) 20:59:30.24 ID:js0VFuuf
>>66
スズキを送るって、高城城って海の傍なんだっけ?

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/20(水) 23:10:01.20 ID:HMIh3tJw
高城川で地元の人間が釣った魚を家久に献上したみたい
一応スズキは河川でも釣れる魚らしいし
この頃は大友軍も頻繁に宴とか開いてる状態で包囲網が緩くなってたらしい
いい話の方で鷹狩りで敵陣を探るやり方が紹介されてた様に
案外籠城戦でも地元の人間なら勝手ができたんだろうね

72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/21(木) 01:56:42.42 ID:b9Uno/8+
どうも戦国期の、九州の籠城攻城戦は全体的にユルイ感じがするんだよなー。
長篠や高天神城みたいな、凍るような緊迫感はあまり感じられない。

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/21(木) 07:58:27.82 ID:xIsJGKG9
九州は寡勢の籠城側が大軍退けた例も多いし
そういう傾向はあるのかもね。

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/21(木) 07:59:35.45 ID:qA+5q80Y
国人の寝返り体質のせいでしょ
防御線とかの意識も無いから「ここ抜かれたら終わり」みたいな考えができないし
基本、自分の土地守れればいいやっていう

統治組織が畿内とかに比べて未発達で、中央集権が甘い

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/21(木) 12:01:18.62 ID:6Duz14cx
>>74
真田某「ぬかしおる」

日本のうた三代・島津貴久

2010年04月27日 00:04

562 名前:日本のうた三代(一)[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 23:26:58 ID:k5rcCOPo
永禄11年(1568)12月、愚谷軒日新斎こと島津忠良没す。享年77。
島津宗家を巡る内紛を鎮め、「いろは歌」等による教育を推し進め、優秀な孫や家臣団を育て、
「島津家中興の祖」と言われる男の逝去。
ある者は哭涙し、またある者はその死を悼む歌を詠んだが、島津貴久の詠んだ歌は、少し違った。


つくづくと 思ふに少し 慰むは 乱れぬ人の をはりなりけり


皆が「偉大な日新公」の死を惜しむ中、実子の貴久だけは「人間・島津忠良」の、
畳の上での穏やかな死に安堵していたのだろうか。




565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 23:33:03 ID:jBu0Nxhl
薩摩のイメージとは裏腹に意外に文化人なんだよね

572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 12:08:03 ID:c3DPkbUh
>>565
ぶっちゃけ義久はかなりの和歌を残してるから、百人一首ならぬ一人百首できちゃうよ!
千首はあるんじゃね?ってくらい多いんだよな

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 13:17:28 ID:snjsCdE3
鬼武蔵が一人百首というと別の意味になるな。

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 13:20:27 ID:TdvYlv5L
ほそ
なんでもない

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 13:40:32 ID:hC827Vq+
>>574
お主は37じゃ

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 14:19:21 ID:o68/EvpO
>>565
「鎌倉からの旧家」と考えればあまり意外でもない気が。

日新斎のそういった趣味に
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1459.htmlの
「眉剃り+眉書き+おはぐろ」というファッションも含めると九州の今川義元かな…と思えてくるw

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 15:41:52 ID:Ookh1UvF
「最先端=将軍のいる京都文化」という括りならそうなる。

商業的には九州のほうが圧倒的に実入りがいいはずなのだが。


578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 16:13:16 ID:Cn+MyUs3
近衛信尹が薩摩に流されてきた時も義久から厚遇されて
歌やら書やらの教室作ってたとかいう話もあるよな

島津貴久が国分の八幡宮を訪れたとき、とある夢を見た

2009年08月23日 00:16

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/21(金) 23:26:17 ID:xocVzjDx
戦国末期、キリスト教や鉄砲と供に洋馬(アラビア馬)も日本にもたらされた。

島津貴久は日本で始めて鉄砲を実戦に投入した大名として有名であるが、実は
洋馬の育成にも力を入れていた。
その様は「三国景勝絵図」に「吉野唐牧は異国の種を牧畜す」と書かれるほどであり、
今も鹿児島市内に牧場跡が残っている。

そんな貴久が国分の八幡宮を訪れたとき、とある夢を見た。
その夢には白髪の老人が現れ、このようなことを告げた。
『自分は馬頭観音である。長い間ここにいるが、誰も私のことを顧みてくれない。
 貴久よ、もし私のために寺を建ててくれるなら、長くこの国の守護となりお前達を守って進ぜよう。』

翌日、弥勒院の日秀上人や八幡宮の桑幡神官と囲碁を打っていた貴久は
昨日の夢のことを相談した。
「実は昨日、かくかくしかじかの夢を見た。これは霊夢と思われるが私には俄かに判じがたい。
 お二人はどう思われるか、一つお考えを示してくれぬか」

すると上人と神主は顔を見合わせた後、異口同音に答えた。
「それは紛れも無い吉夢です。実は私達も同じ夢を見たのです。
 是非お寺を建立なさいませ、さすればご当家の繁栄間違いありますまい」

そこで貴久は、今しがたまで使っていた愛用の基盤で、馬頭観音の像を刻み、
八幡宮の近くの獅子尾山に観音堂を建て奉った。
そして正月18日を祭り日とし、馬に鈴を飾り付けて参詣させ、踊りを奉納させることにした。
これが今に伝わる「鈴懸馬」である。
時に天文二十一年、貴久の息子達が初陣を飾る二年前のことであった。

しかしまあ、狐に道案内してもらったり、ネコに助けられたり、馬(の観音様)に守ってもらったりと
戦国時代の薩摩は結構メルヘンチックなところだったのかもしれない。