十三塚原

2017年02月03日 10:56

571 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/02/02(木) 23:29:57.77 ID:tUuJ8z9c
十三塚原(じゅうさんづかばる)は、鹿児島県霧島市と姶良市に跨る東西6.5キロメートル、南北11キロメートル、
標高210-300メートルのシラス台地です。近くには鹿児島空港があります。
名の由来は13基の塚が数十メートルの間隔をおいて並んでいたことから十三塚原と名付けられました。

十三塚原の由来については次のような伝説がある。かつて国分八幡神社(鹿児島神宮)と宇佐八幡神社(宇佐神宮)の間で
どちらが正統の八幡宮であるか論争があり、大永七年(1527年)十一月、宇佐八幡の神官14名(15名の説もあり)が
鹿児島を訪れ国分八幡の古文書を調査し、正統性は疑わしいとして社に火をかけた。ところが社が猛火に包まれた
その煙が「正八幡宮」の文字を示したことから神官たちは驚きあわてて逃げ帰ろうとした。宇佐逃げる途中、
次々と13名が死亡、残された1名(2名の説もあり)も宇佐八幡に戻って事の顛末を報告し終わると同時に死亡した。
しばらくして死者のために13基の塚が建てられたという。(日当山村史)

この伝説が大永七年(1527年)と書いてあるのは「日当山村史」だけで、その他の史料及び十三塚原にある
十三塚原史跡公園の案内板には長承元年(1132年)となっております。
(「日当山村史」にも「長承元年(1132年)との説もあり」とは書いてある)
実際その頃に国分八幡神社(鹿児島神宮)は火災の為焼失しており、そのため年代がかわったのかもしれないです。
(社は永いことそのままでしたが、島津貴久が再建しております。その時の話がこれです。
島津貴久が国分の八幡宮を訪れたとき、とある夢を見た
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2677.html
貴久は再建の為に訪れており、日秀上人は再建に携わっておりました)

※鹿児島神宮の案内板には「八幡宮の総本社は鹿児島神宮」と書かれていますが、鹿児島神宮がある霧島市
では「八幡宮の総本社は宇佐神宮」と見解を出しております。



572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 16:32:02.51 ID:Gjqm2/hC
>>571
火災に尾ひれがついたのかな
ずいぶん恐い尾ひれだけどw

578 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/02/04(土) 20:48:26.85 ID:nqYD0FKg
>>572
文献が思い出せず書けなかったのですが、
記憶が確かならば、大永年間の国分八幡神社の火災の原因は
島津と敵対する武将による“放火”だったはず。
怖い尾鰭がつくのはある意味当然かもしれない。
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島津貴久は子供の頃

2014年01月25日 18:39

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/25(土) 09:06:46.53 ID:ApPv4Ikg
島津貴久は子供の頃、勉強をほったらかして鷹狩りに出かけることがしばしばであった。

父や近習の眼を盗んで遠くまで出かけた時のことである。
突然の大雨に見舞われた彼は慌てて帰路に着いたが、
川に差し掛かったところで行きに使った橋が流されていた。

立ち往生していたところ、向こう岸に近習の園田某の姿が見えた。抜け出した貴久を慌てて追いかけてきたらしい。
貴久と自分の間に流れる川を見ると事情を察した彼はざんぶと川に身を乗り入れた。
肩まで水につかり水面に見えるのは顔だけという状態である。

「さ、早くお渡りください」自分の頭を足場に川を渡れというのである。
貴久は「いかに君臣と言えどもそのような真似は出来ぬ」とこれを拒むが
園田も「いやいや、一刻も早くお戻りにならねば」と引かない。
そうこうしている間にも水かさはどんどん増していく。

度重なる懇願に貴久はとうとう折れて、
「されば許せよ」と彼の頭上を渡って向こう岸へ渡り、二人してずぶ濡れになって帰った。

貴久はこのことを大いに反省し、以後は学問にも身を入れるようになったと言う。
尤も、父の忠良にも日新柱のエピソードがあることから血は争えない、と言ったところでしょうか。




196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/25(土) 21:28:01.75 ID:lsDq6YDf
意外と川幅は狭かったのか

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/25(土) 22:25:35.19 ID:ApPv4Ikg
おそらく三段跳びの要領で

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/25(土) 22:56:02.23 ID:a37AOTxo
そこで貴久が園田さんの頭で足を滑らせて溺死なんてことになってたら、
九州の歴史も随分変わったんだろうなぁ・・・


島津家久・決死の籠城戦の最中に

2011年07月20日 23:06

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/20(水) 12:53:41.93 ID:HMIh3tJw
耳川決戦の前哨戦の1つである高城籠城戦が行われていた時の事
3万以上と言われる大友軍の前に島津家久3千が決死の籠城戦を行っている最中に
大友の使者が陣中見舞いとして酒と菓子を持ってきた
これに対し家久も返答の使者に酒とスズキを持たしたのだが
その際に両軍の使者同士で交流の宴が行わる事になった
さて、宴の最中に島津側は大友の一団から矢文を貰う
星野長門守からの内応の手紙であり内容は
「最近の大友は侍を蔑ろにして民衆を虐げる暴政である、しかし反抗したいが力が無い、我々は時が来れば
島津側に忠節を尽くすつもりです、何かあったら笛で合図して裏切りますんで」
とあった
この手紙の内容を見て奮起した家久はフランキ砲をお見舞いされても水手が尽きても
義久の主力部隊が到着するまで半年ほど持ちこたえる事となった
絶望的状況下で籠城する側が内応の手紙を貰うという悪い話

67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/20(水) 17:55:54.35 ID:9vQ0IYfm
大友ェ……

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/20(水) 18:29:10.35 ID:jFysH7l7
宗麟さんこのじきもう新興宗教にはまっておかしなことになってたのかな

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/20(水) 18:39:23.19 ID:uS6B31QR
宗麟「わーたーしーはー悪くないー」

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/20(水) 20:59:30.24 ID:js0VFuuf
>>66
スズキを送るって、高城城って海の傍なんだっけ?

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/20(水) 23:10:01.20 ID:HMIh3tJw
高城川で地元の人間が釣った魚を家久に献上したみたい
一応スズキは河川でも釣れる魚らしいし
この頃は大友軍も頻繁に宴とか開いてる状態で包囲網が緩くなってたらしい
いい話の方で鷹狩りで敵陣を探るやり方が紹介されてた様に
案外籠城戦でも地元の人間なら勝手ができたんだろうね

72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/21(木) 01:56:42.42 ID:b9Uno/8+
どうも戦国期の、九州の籠城攻城戦は全体的にユルイ感じがするんだよなー。
長篠や高天神城みたいな、凍るような緊迫感はあまり感じられない。

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/21(木) 07:58:27.82 ID:xIsJGKG9
九州は寡勢の籠城側が大軍退けた例も多いし
そういう傾向はあるのかもね。

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/21(木) 07:59:35.45 ID:qA+5q80Y
国人の寝返り体質のせいでしょ
防御線とかの意識も無いから「ここ抜かれたら終わり」みたいな考えができないし
基本、自分の土地守れればいいやっていう

統治組織が畿内とかに比べて未発達で、中央集権が甘い

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/21(木) 12:01:18.62 ID:6Duz14cx
>>74
真田某「ぬかしおる」

日本のうた三代・島津貴久

2010年04月27日 00:04

562 名前:日本のうた三代(一)[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 23:26:58 ID:k5rcCOPo
永禄11年(1568)12月、愚谷軒日新斎こと島津忠良没す。享年77。
島津宗家を巡る内紛を鎮め、「いろは歌」等による教育を推し進め、優秀な孫や家臣団を育て、
「島津家中興の祖」と言われる男の逝去。
ある者は哭涙し、またある者はその死を悼む歌を詠んだが、島津貴久の詠んだ歌は、少し違った。


つくづくと 思ふに少し 慰むは 乱れぬ人の をはりなりけり


皆が「偉大な日新公」の死を惜しむ中、実子の貴久だけは「人間・島津忠良」の、
畳の上での穏やかな死に安堵していたのだろうか。




565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 23:33:03 ID:jBu0Nxhl
薩摩のイメージとは裏腹に意外に文化人なんだよね

572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 12:08:03 ID:c3DPkbUh
>>565
ぶっちゃけ義久はかなりの和歌を残してるから、百人一首ならぬ一人百首できちゃうよ!
千首はあるんじゃね?ってくらい多いんだよな

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 13:17:28 ID:snjsCdE3
鬼武蔵が一人百首というと別の意味になるな。

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 13:20:27 ID:TdvYlv5L
ほそ
なんでもない

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 13:40:32 ID:hC827Vq+
>>574
お主は37じゃ

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 14:19:21 ID:o68/EvpO
>>565
「鎌倉からの旧家」と考えればあまり意外でもない気が。

日新斎のそういった趣味に
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1459.htmlの
「眉剃り+眉書き+おはぐろ」というファッションも含めると九州の今川義元かな…と思えてくるw

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 15:41:52 ID:Ookh1UvF
「最先端=将軍のいる京都文化」という括りならそうなる。

商業的には九州のほうが圧倒的に実入りがいいはずなのだが。


578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 16:13:16 ID:Cn+MyUs3
近衛信尹が薩摩に流されてきた時も義久から厚遇されて
歌やら書やらの教室作ってたとかいう話もあるよな

島津貴久が国分の八幡宮を訪れたとき、とある夢を見た

2009年08月23日 00:16

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/21(金) 23:26:17 ID:xocVzjDx
戦国末期、キリスト教や鉄砲と供に洋馬(アラビア馬)も日本にもたらされた。

島津貴久は日本で始めて鉄砲を実戦に投入した大名として有名であるが、実は
洋馬の育成にも力を入れていた。
その様は「三国景勝絵図」に「吉野唐牧は異国の種を牧畜す」と書かれるほどであり、
今も鹿児島市内に牧場跡が残っている。

そんな貴久が国分の八幡宮を訪れたとき、とある夢を見た。
その夢には白髪の老人が現れ、このようなことを告げた。
『自分は馬頭観音である。長い間ここにいるが、誰も私のことを顧みてくれない。
 貴久よ、もし私のために寺を建ててくれるなら、長くこの国の守護となりお前達を守って進ぜよう。』

翌日、弥勒院の日秀上人や八幡宮の桑幡神官と囲碁を打っていた貴久は
昨日の夢のことを相談した。
「実は昨日、かくかくしかじかの夢を見た。これは霊夢と思われるが私には俄かに判じがたい。
 お二人はどう思われるか、一つお考えを示してくれぬか」

すると上人と神主は顔を見合わせた後、異口同音に答えた。
「それは紛れも無い吉夢です。実は私達も同じ夢を見たのです。
 是非お寺を建立なさいませ、さすればご当家の繁栄間違いありますまい」

そこで貴久は、今しがたまで使っていた愛用の基盤で、馬頭観音の像を刻み、
八幡宮の近くの獅子尾山に観音堂を建て奉った。
そして正月18日を祭り日とし、馬に鈴を飾り付けて参詣させ、踊りを奉納させることにした。
これが今に伝わる「鈴懸馬」である。
時に天文二十一年、貴久の息子達が初陣を飾る二年前のことであった。

しかしまあ、狐に道案内してもらったり、ネコに助けられたり、馬(の観音様)に守ってもらったりと
戦国時代の薩摩は結構メルヘンチックなところだったのかもしれない。