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江戸城天守閣と小堀遠州

2022年07月14日 16:50

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/14(木) 15:02:37.22 ID:uooA4Rmw
朝野雑載」から江戸城天守閣と小堀遠州

江戸城天守閣の上塗りの白土が毎年剥がれて見苦しいため、そのたびに念入りに上塗りをしていたが、風雨が強かったためかえって白土が全て剥がれてしまった。
どうしたらよかろうと御老中が議論していたところ、小堀遠州が登城してきたため
御老中は「遠州は数寄の人であるので、天守閣の白土が落ちない工夫はないだろうか?」と相談した。
遠州が答えていうには「上塗り程度であればほどなく落ちるでしょう。
天守の壁を、下地の時点で白く塗り上げて仕舞えば、風雨が強くて上塗りが少々落ちようとも、見苦しいことはないでしょう」
御老中は手を打って「なるほど、もっとも至極です」とてそのようにしたということだ。



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遠州と黒田長政

2022年05月24日 16:47

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/23(月) 21:21:46.50 ID:pFEDWaRQ
槐記享保十二年五月十八日の記事より 遠州と黒田長政

この頃岡崎が話した二、三の話の中に。
「故筑前守(黒田長政)は古遠州の門人でとりわけ茶道に熱心であったが、ある時江戸で筑前守が遠州に、『利休、織部といえども、時にはこれは嫌な物数寄だ、どういう訳でこんなことをされるのだと思うことがありましたが、遠州のなされることは一つとして嫌らしいことはなく、いちいちその訳が合点出来ます。お上手と申し上げるも愚かです』と申し上げた。
遠州、『それは貴殿の茶の湯にまだ至らぬところがあるからそう思われるのです』と答えた。ただ『はい』と答えて筑前守は下がられたが、合点がゆかなかったので、出入りの町人を通してそれとなく真意を問われたけれども、何も答えを得られなかった。
ほどなくお暇下されて遠州は伏見へ帰られることになったが、筑前守が『私もおっつけお暇下されるでしょう。帰る途中伏見によりますからお茶をいただきたいものです』と申し上げると、『いかにも進上いたしましょう』と約束して遠州は京に帰った。
いくばくも無く『明日伏見を通りますので、お茶をいただくことはできますか』と申しよこすと、『何はさておき差し上げましょう』と遠州は約束されたが、その日は東福門院のご用で上京されるところだったので、家来の何某に『明日は筑前守がいらっしゃるから、庭の掃除をはじめ、かくかくしかじかの準備をしておくように』と言いつけて上京された。
夜を徹して帰ってから一度庭を見回って大いに気に入ったが、囲居に入ると大いに不機嫌になって、筑前守に使者を立てて、『明日の茶は囲居で差し上げることが出来なくなりましたので、書院にて差し上げましょう。羽織にてお出で下さい。私もそういたしますから』と言ってよこした。筑前守は意外に思ったが羽織で参ると、遠州も羽織で出迎え、玄関より書院に通し、料理も型のごとく、濃茶も出された。
すべて終わって、筑前守が『本日はどういう訳で囲居ではなかったのでしょうか』と問われると、『そのことです。昨日はご用を仰せつかって上京したために、留守の者に今日の準備を申し付けておいたのですが、囲居の畳替えをはじめとして窓竹まで真新しいものに交換してしまいました。そのために囲居でお茶を進上しなかったのです』
『それはどういうことですか』『いや、そこです。いつぞや私めは利休や織部たちには及ばないと申し上げたことをご合点下さい。貴殿は江戸でほうぼうの結構な囲居での茶会にはご出席し尽されていますから、私のところでは虫喰い竹に古畳でお茶を進ぜようと思っていたのに、案に相違して囲居でお茶を進上できなかった点こそ、利休織部の両名に私が及ばぬところなのです』と申された」と岡崎が語った。(家煕様は)一段ともっともなことだと仰った。



既に常の人とは違っていた

2019年08月16日 17:05

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/16(金) 14:36:03.98 ID:GCliiJDP
小堀遠州殿が若い頃、当地奈良で方々の茶会に出られた中で「興福寺最福院の茶会が飛び抜けていた。」と
言われた。私(久保長闇堂)が「一番の点前上手です。」と申した所

「その事ではありません。あそこでは唐物茶入の小さな尻膨を、袋(仕覆)に入れないで茶を点て、
その後薄茶にもその茶入を持ち出されました。その仕方に、茶入を秘蔵していないのだという心持ちが
出ていて非常に良かった。また薄茶にも良い茶を飲めました。この二つにおもしろさがあった。」

そう仰られた。若い頃であったが、茶湯の見方が既に常の人とは違っていたのである。

(長闇堂記)



遠州好み

2019年08月13日 14:53

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/13(火) 08:56:01.77 ID:rXP4AYo7
ある年に、野雁の羽箒が世間で流行したが、これは小堀遠州殿が領国の備中松山へ下国された時、
野雁を打たれ、その羽根を箒につかわれたのが初めであった。
柄杓の柄を太くしたのも、遠州殿が初められたことである。
また土風炉(土を焼いて作った風炉)の足二つを先に寄せられた事も、脇から見て良いようにという
遠州殿のお好みであった。

現在では水指卓に大小様々なものが有る。これも遠州殿が好み工夫された。昔志野宗信(室町後期の商人、
香道の創始者)が聞香に使った棚などを見られて、一段と優美になされたのである。

(長闇堂記)



それでは侘びの心がない

2019年08月05日 17:45

308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/05(月) 15:42:31.42 ID:p5nsiM0X
ある所に侘びの茶湯者が有り、小堀遠州殿のお供で私もその人の茶会に参った事が有った。
茶会の後、私が遠州殿に「あるべき式法通りの茶湯でした。」と申した所、遠州殿は

「有るべき式法の茶湯でしたが、それでは侘びの心がない。侘びは侘びの心を持たなくては
茶湯は出来ないものです。今日の仕方では引菜(食事の途中で出す料理)の重箱を取り入れず、
席中にそのまま置いておくべきでした。侘びにふさわしく菜の数が少なかったので、全部食べて
しまった後に、また取れるようにするためです。また酒は燗鍋で出し、湯は湯桶で出しましたが、
これも考え直して、燗鍋をよく洗って、湯を継いで出せばよかったでしょう。」と言われた。

侘びには万事その心がなければ出来るものではない。世の常の茶湯をして誇る人には、
こうした心持ちは腑に落ちないものであろう。

(長闇堂記)



悪くなるのは仕方のないこと

2019年07月03日 15:48

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/03(水) 02:38:55.24 ID:Xi9PJ/pM
古田織部殿に取り立てられた服部道巴が、遠州殿(小堀遠州・政一)を茶会に招いた時、
その供として私(久保長闇堂)も同道した。その帰り、私が「さても見事な数寄者でした」
と申した所、遠州殿は「一段と不出来な仕方でした。」と批評した。
「なにかお気に入らぬ事が有ったのでしょうか」とお尋ねすると

「そうです。炭手前をした時、彼は前の大炭へ火がよく廻ってしまっていたのを失敗と思い、
動かして隠し、火気を丁度良く見事な状態にして炭を置きましたが、これは道巴には似合わぬ
事でした。悪くなるのは仕方のないことです。それを良く見せようと思う心は、初心の仕方です。」
そう言われた。

(長闇堂記)



この釜は、このようにしか据えようが無い

2019年07月01日 16:52

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/01(月) 00:57:48.62 ID:UePEq9TT
遠州殿(小堀遠州・政一)が伏見で口切り(茶壺を開封する儀式)をされた時、古田織部殿が翌朝
お出でになるという前日、相伴の桑山伊賀守殿(元晴)、天野屋覚甫、服部道巴の3人が、前礼のため
六地蔵の遠州殿の茶室へ参られた。そこには明日に使う釜が仕掛けて有ったのだが、彼等はその仕掛けようが
気に入らず「釜を据えなおされよ。これでは織部殿が気に入るはずがない。」と言われた。
しかし遠州殿は「先ずこのままお見せした後、悪ければ直しましょう。」と答えた。

翌朝、織部殿はこの3人を相伴として座敷に入られた。この時伊賀守殿が「釜の掛けようは、これで
良いのでしょうか?」とお尋ねになった所、織部殿は「この釜は、このようにしか据えようが無いだろう。」
と答えられた。

先の3人の予想と違ったため、それ以降遠州殿は一目置かれるように成った。
この釜は森右近殿(忠政)が所望されたため、譲られたという。

(長闇堂記)

これにも何気に森忠政が出てた



そうしたわけで、「長闇堂」と名付け

2019年06月30日 13:11

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/30(日) 00:39:14.11 ID:raA9xB2O
私(久保長闇堂)の庭前にある七尺堂は、東大寺大仏再建の聖である俊乗上人の御影堂であった。
中井大和守(正清)がそれを建て替えられた時、その古い堂が古びて趣深かったので、ある人に頼んで
前栽の中に移し、繕って茶処に用いたのである。

堂の内はわずかに七尺(約2.1メートル)四方、その中に炉を入れ、床と押入と水屋がある。
水屋に茶道具を仕舞い、床に花や掛物を飾って、押入床を持仏堂に構えて、阿弥陀の木仏を安置した。
茶会をしても、狭いということはない。

鴨長明は維摩(居士)の方丈に倣って隠居し、人と交じわらない事を楽しみ、ただ一筋に阿弥陀を頼った。
私の堂は方丈より小さいとは言え、多くの人を招いて茶の湯をしているため、浄名居士の獅子の座には
叶っていると思う。そんな私がどうして鴨長明を理想とするだろうか。阿弥陀の木仏は俊乗上人の古堂に
ふさわしいと思って安置しただけであり、私には阿弥陀を頼もうという気持ちはない。俊乗上人は法然の
弟子であるから、上人に礼儀を尽くしただけなのである。

江月和尚が江戸に居られた時に私はこの堂を営んだため、用があって書状を差し上げたついでに、この事を
述べて、この阿弥陀の狂歌として

 狭けれど 相住みするぞ阿弥陀仏 後の世頼みおくと思うな

と書き付けて送った所、やさしくも詩歌をもって答えられた

 観音は 同坐とこそは伝えしに 相住まいする弥陀は珍し

 盡大三千七尺堂 堂中同坐仏無量
 自由一箇自然楽 今作西方古道場

そのようであったが、ある時(小堀)遠州殿が来られたので、この事を語って「額を一つ書いていただきたい」と
頼んだ所、微笑まれて「それでは」と、『長闇』の二文字を書き付けられた。私が「どのような意味ですか」と
尋ねると、遠州殿は

「昔の鴨長明は物知りで、智が明らかなので「明」の字が相応しい。一方あなたは物を知らず、智は暗く、しかも
方丈を好まれている。よって鴨長明から「長」の字をとり、また「闇」はその心である。」と笑われた。

そうしたわけで、この七尺堂を「長闇堂」と名付け、「長闇子」を私の表徳号とした。

(長闇堂記)



220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/30(日) 18:00:42.20 ID:jSCm0gOK
うーん、どう解釈して良いのか謎だ

小堀の三ヶ条の要求

2018年04月25日 15:38

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/25(水) 04:38:31.13 ID:SJVZjKl4
日本の茶道や生花に遠州流という一派を開いた小堀遠江守政一に関する逸話はずいぶんと人口に
膾炙しているが、とりわけその一生一代の傑作と称せられる京都の桂離宮の庭園および茶室は、

とにかく大いに見るべきものがある。これについて例の如くひとつの伝説が語り伝えられている。

桂離宮は豊臣秀吉が小堀政一に命じて考案実施させたものであるが、小堀はこの命を受けた時に
秀吉に3つの条件を出し、この条件が受け入れられるなら引き受けると申し出た。

1つには意匠と考案に関して絶対に他の口出しを許さないこと。2つには竣工期限や工費に制限
を設けないこと。3つには工事中は絶対に見に来ないことであった。

寛大な秀吉はよろこんで承諾し、小堀は丹精を込めて思う存分その技術を振ったので、あの様な
美しい庭園や茶室などが大成したのだという。

しかしこの伝説がまったく虚構であることは甚だ明白である。さて、小堀遠州なる者は天正7年
(1579)の生まれで、初めは秀吉に仕えていたが、のち徳川家康に仕えた。豊臣滅亡後の

元和9年(1624)に伏見奉行となり、在職25年間すこぶる治績を挙げた。茶道は千利休の
門人・古田重能(織部)に付いて学び、ついに一家を成した。彼はいわゆる芸能の人で、

茶道以外にすべての美術工芸に精通し、ことに絵画は狩野探幽と親交があったことから狩野流の
画を得意としたという。正保4年(1647)2月6日、69歳で死去した。

この年譜から算出すると秀吉の亡くなった慶長3年(1598)には、小堀はまだ20歳の若さ
である。また桂離宮は天正15~6年頃(1587~8)、小堀が9~10歳の頃に秀吉が

正親町天皇の皇子・陽光院の第六子・智仁親王を請うて猶子とし、八条宮と称してその別宅を
桂の里に造営したもので、今現存する旧御殿がすなわちこれである。新御殿の茶室や庭園は、

二代・智忠親王の時に徳川氏が小堀に命じて造らせたもので、寛永の初年に完成したというが、
これは真実であると認められる。すなわち元和の終わりか寛永の初めかに、伏見奉行であった

小堀が造ったので秀吉とは全然関係がない。もし小堀が3つの条件を出したとすれば、それは
二代将軍・秀忠か三代将軍・家光に対して試みたものでなければならない。

小堀の三ヶ条の要求なるものは、つまるところは芸術家の理想を事に託して仮作したのである。
これに類似の伝説は古今珍しくない。今日も富豪が趣味のために造営する邸宅庭園の類には、

工費と期限に制限を設けない例もあるが、意匠や考案を技師に任せて干渉しない例は殆ど無い。
ましてや工事中に絶対見に来ないという条件は到底成立しそうもない。官公の造営に至っては

一から十まで干渉ずくめであり、ことに会計法で縛られるから碌なものができようはずもない。
そう考えると桂離宮の庭園建築はあまりに巧みである。むしろ巧みにすぎる。

これが遠州の長所にして同時に短所である。

――『白木黒木』


花を生けない風

2018年04月24日 14:11

790 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/04/23(月) 17:27:26.18 ID:I4bMV9F0
小堀遠州が伏見にいた頃、黒田筑前守長政が国へ帰るというので茶会に招いたものの、
長政は途中で病気になり、大津で養生するというので招きを断った。

遠州は残念に思っていたが、幸いにも上林竹庵と京都の数寄者2人がやって来たので、
丁度催していた茶会に招くべく、「路次の方へ廻られよ」と言った。

3人は喜んで茶亭の方へ行ってみると夕立の後で涼しく、庭の若葉は露が滴るばかり
である。ところが床の間には花は生けてなく、床の壁にはさっと水を打った跡が

あるばかりであった。皆が不審に思っていると遠州がやって来て、「今日の夕立で
路次の木々が涼しそうに濡れているのを見た眼では、花は面白くあるまいと思い、

わざと生けなかったのだ」と答えたので、3人は等しく感じ入ったということである。
ところがこれを聞いた京都辺りの茶人は、雨が降りさえすればわざと床を濡らして、

花を生けない風を流行らせたので、伝え聞いた遠州は大いに笑ったという。この一事
をもってしても、いかに遠州が一代茶道の泰斗として天下に重んじられたか知れよう。

――『茶道の名人』


ひざ割大燈の一軸を

2015年12月08日 15:52

90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/07(月) 18:58:49.88 ID:AkyL+Tr5
 ひざ割大燈の一軸を小堀遠州のある家臣が所持していたところ、遠州公が御所望とのことで三百石の知行で贈呈した。
遠州公はこの一軸を殊の外大切になされていた。
 
 ある年遠州公の館で口切の茶会があり、そのときのお客は加州公であった。
中立の時間が迫ると、加州公は掛物を巻いて懐中に入れて席を立たれ、にじり上って部屋から出ようとなされた。
それを遠州はみつけて取り返そうとすぐさま部屋から出て追いかけなさったところ、加州公は石に躓いて膝頭にお怪我をなされた。
その後すぐに加州公は館に帰られたそうである。

明くる日、加州公は車三両に銀子を積んで、掛物のお礼を差し上げられた。
そこで今はひざ割大燈は加州公のお家の名物となったという。
(本阿弥行状記)

ひざ割大燈とは、いったいどんな掛け軸なのですかね



91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/07(月) 20:41:16.55 ID:f3damUoR
なぜどいつもこいつも茶道具をサラっとパクろうとするのか

小堀遠州の審美眼

2010年09月14日 00:01

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/13(月) 18:00:22 ID:wMrUCSja
小堀遠州がある時弟子に、審美眼の良さについてこう言われた。

「本当に先生のコレクションは見事なものばかりで、私なぞため息をつく以外しようがありません。
こうして見ていると、先生の趣味はかの利休よりもはるかに良いものだと思わざるをえません。
先生は利休の収集品を鑑賞する目を持った、千人に一人なのですから」

これに遠州は悲しそうな顔をして答えた。

「それはかえって私の凡庸さを表しています。
利休は偉大でした。彼には自分の肌に合うものだけを愛でる気概がありました。
それに引換え、私は知らず知らずのうちに万人受けする趣味に迎合しているにすぎません。
実に、利休は茶人として千人に一人の人物です」

遠州の鬱屈した芸術精神と、利休への敬意を感じて俺は好きなエピソード。





永井善左衛門の女中の化粧壷と、小堀遠州

2009年08月25日 00:13

732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/24(月) 08:52:31 ID:WrJb/zsV
真希波・マリ・イラストリアス>>>>>>>>アスカ>綾波

これはもうしょうがない

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/24(月) 08:54:21 ID:WrJb/zsV
ぎゃあ
すまんマジすまん

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/24(月) 10:30:07 ID:pRz5rRbr
さすがにその誤爆に乗じるのは無理

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/24(月) 11:35:33 ID:+7ucnR9H
>>732
これはいい誤爆

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/24(月) 12:08:12 ID:y9dpu7wi
>>732
宇喜多殿の茶でももらってきな

内容については全面同意だが

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/24(月) 13:19:33 ID:yOjBvDSe
>>733
松永殿が・・・。



738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/24(月) 13:31:10 ID:BYHP2Cy6
>>733萌えか まかせろ

三河武士・永井善左衛門は徳川家を出奔した後、上杉に雇われ、慶長出羽合戦の際は
伏兵六人に囲まれながら、たちまち四人を討ち取り、残る二人を追い散らす剛の者だった。
上杉転封の後、善左衛門は越前松平家で槍奉行として働いたのち一線を退き、同僚に
餞別としてもらった瀬戸焼の高価な茶入で、茶の湯三昧を楽しんで暮らした。

ガッシャーン!!! 「はわわわ!ご主人様のお茶入がーーー!」
ある日、なんと永井家の女中が、善左衛門自慢の茶入を落として割ってしまった。
「うわぁぁああ!て、テメェ!何してくれんだゴラァァァ!!」
「ご、ごめんなさーい!私の化粧壷譲るんで、許してくださーーい!」

高価な瀬戸茶入に、女中の使い古しの壷が代えられる筈がない。しかし、
「あ、ああ・・・許しちゃう (*´д`*) 」
時代を先取りするメイド萌えだったのか、善左衛門はこれを許した。

それからしばらくして後、将軍の茶頭である小堀遠州が、茶飲み友達である善左衛門を
訪ねて来た。遠州は、善左衛門がさすがに使う気にはなれず、床の間に置いたままに
していたあの壷を眼にして驚いた。

「な、永井殿!これは唐物の逸品じゃ!これ程の逸品は、上様に献上しなされ!」
善左衛門も大いに驚いて、言われた通り壷を将軍秀忠に献上したところ、のちに褒美として
永井家は直参旗本に返り咲くことが出来たという。

・・・で、そんな名品を何気なく使ってた女中さん、実は旧家の出と思われるが、善左衛門が
その後彼女を褒めたとか褒美をやったとかいう話は、残念ながら伝わっていない。
おそらくメイド萌えではあったが、お嬢様萌えではなかったのだろう。

ちなみに、詳細や後日談は悪い話スレで紹介されてる「武辺咄聞書」に出てるので、
ぜひご覧くだされ。


関連
「永井正宗」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6023.html


739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/24(月) 21:30:02 ID:K2TSGBez
小堀が驚愕するってどんだけ名品なんだ

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/24(月) 22:00:13 ID:HxP4lxxX
メイド萌と女中萌は違うもんだろjk

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/24(月) 22:45:37 ID:YLzFD1mc
>739
そして事の顛末を聞き
「彼奴の人格は気にくわねぇが、数寄の趣味は一流だから始末に悪い、やれやれだ」


などという三斎たまのおてまみが倅殿に届くのですな。

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/24(月) 22:51:49 ID:65hJY9GH
むしろ円満な人格の数寄者っていなそう
師匠の利休からしてかなりとんがってるし

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/24(月) 23:21:21 ID:HZi8Aizg
だって、「業に取り付かれる」ってことでしょ数寄にはまるってのは

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/24(月) 23:23:25 ID:tFpsV3rJ
>>738
これと似たの短編で読んだことあるな…何だっけ?
哀しい話なんだけど
松井康之が出てるやつ