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その二人のうち一人は、

2021年01月14日 17:52

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/14(木) 16:33:59.89 ID:kqJ4+uC9
いずれの城を攻めた時であったか、寄せ手の大将が兵二人を召し、
「先手の竹束は堀際までどれほど付いたか、これらの他、様子をよく見てくるように。」

そう命ぜられると、一人は竹束の陰を忍び忍びに見ていった。
もう一人は、「剛の者には鉄砲は当たらぬものと言い伝わっている。それのみ成らず、運は転にあるものだ。」
と言って、竹束の外を、臆せずはばからず駆け巡り、二人ながら先手の人々に大将の仰せを伝え、
様子を見届けて帰った。

初め竹束の陰を忍び行った者は、立ち帰る時には竹束の外を帰り、竹束の外を行った者は、竹束の内を
通って帰り、それぞれ先手の有様を詳しく申し上げた。

この事は、後に人々も評し、大将も感じ給わった。
その二人のうち一人は、羽柴左衛門大夫(福島正則)殿の侍、可児才蔵(吉長)と言う者であった。

備前老人物語



843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/14(木) 19:16:41.13 ID:b4jaZeeO
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-890.html
これだと可児才蔵
「本当は自分も、早くたどり着く外を通りたかったが、
途中で撃ち殺されれば使者の役目を果たせなかっただろう。それでは軍律違反になるので控えた。
だが、もはや使者の用は終ったので、今は撃ち殺されても別に差し支えはない」
って言ったことになってた
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可児才蔵、宝蔵院に槍法を学しこと

2017年03月04日 18:25

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/03(金) 23:57:05.68 ID:QfILq++Y
可児才蔵、宝蔵院に槍法を学しこと 付宝蔵院槍を持せ 併十文字を月剣と呼ぶこと


 宗耕の話である。
ある時、可児才蔵が宝蔵院に言った。

「我は元来槍法を知らない。槍はいかにして勝を得るのだろうか」

院は答えた。

「上段、下段、相、かぶり、の外になし。」

しかし才蔵は解らなかった。
主人の福島左衛門大夫(正則)へこの術を習おうと報告した。
福島は許し、可児はすぐに奈良に行き数日院からこの術を習った。
帰って戦場へ赴いたが、かえって怯心が起きて進むのが難しくなった。
よってまた奈良へ行き、このことを嘘偽りなく告げた。
院は言った。

「まだ半分しか知っていないな。」

可児はさらに数ヶ月学んで、術を得て帰った。
これより後では敵の槍道を観ること明らかとなり、まさしく我が勝路を得たとか。

 この宝蔵院は今、代替わりのときには関東に下って拝礼をする。
この時僧の供に槍を持たせるとか。

 宝蔵院は退隠したら観音院と号す。
この院では、十文字と称さず、月剣と呼ぶ。
これは元祖宝蔵院は、もとは直槍であったが、あるとき、
八日の月影が水面に映るのを視て、

「あわれ、直槍にこのように横手を加えたいものだ」

と思ったとか。そこで十文字の形を作って、月剣の名があるという。

(甲子夜話三篇)

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2528.html
これの別varかな?


可児才蔵の味噌合戦

2014年05月07日 18:45

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/07(水) 00:01:51.97 ID:3uBS/IGE
可児才蔵の味噌合戦 笹の才蔵異聞 広島県大辞典より

いまからおよそ400年前安芸国城主・福島正則の家来に可児才蔵という槍の名人がいました。
ある夏洪水で堤が切れ、川水が城の濠に溢れ、城の石垣をだいぶ壊しました。ほってはおけないので正則は、
すぐさま石垣の修理にかかりました。
ところが幕府の許しを得ていなかったので正則は幕府に咎められ、安芸国から追われることになりました。
しかし、幕府の処置を恨みに思った可児才蔵ほか六十人の侍は、矢賀の小さな城に立て篭もったまま動こうとはしませんでした。
それを知った新しい城主・浅野長晟は家来に命じ矢賀の城を攻めさせました。
その兵が城の石垣を登りはじめると才蔵たちは石垣の上からグラグラと煮えたぎったみそ汁をぶっかけました。
そのため兵たちをヤケドさせられました。
そこで、浅野の殿様は今度は兵糧攻めにしようと、幾日も城をとりまきました。段々と貯えを失ってきた時、
才蔵はひとつの思案を立てました。
それは、城山のお地蔵さまに笹の葉を供えそれに味噌と米をのせておけば、どんな願い事も叶えられるという噂を
近郷近在に流すことだったのです。
城の者はかわるがわる忍び出て、その噂をふりまいて歩きました。その噂は噂をよび、城山のお地蔵さまには次々と
味噌や米が供えられました。●ヽ(゚∀゚)ノ● ウヒョー ! ミソイタダキマース
こうして、才蔵たちは長い間、城を支えることができ、篭城の侍たちは、何処へともなく落ちのびることができました。

地元の人たちは、やがて可児才蔵を真言寺に祀りそのお寺を才蔵寺と名付け、お地蔵さまはそのお寺の境内に移し「みそ地蔵」、
可児才蔵を「笹才蔵」と呼ぶようになったそうです。
このみそ地蔵には、いまは多くの受験生がお参りし、みそ玉をお地蔵さまの肩に供えています。「ミソをつける」肩代わりをしてもらったり、
お地蔵さまの脳みそを借りたりするためなのだそうです。

福島正則改易は一応可児才蔵死後の話ではございますが・・・彼も修羅道に堕ちた武田光和同様、主君の災難に迷って出たのでしょうか?w




899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/07(水) 10:02:36.34 ID:genzl/yF
>>896
味噌合戦というから相手は権現様かと思ったら

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/07(水) 10:58:13.63 ID:OSlMwJ06
権現様は八丁専用だから

901 名前:人間七七四年[hage] 投稿日:2014/05/07(水) 11:39:18.33 ID:ACb3rfpI
家康「お前ら味噌って言うと俺出しやがって… どんだけ味噌好きなんだよ…」

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/07(水) 23:29:14.39 ID:F6Zsr9SH
>>901
味噌=権現様でしょ?

福島正則が知行割を申し付けた時

2013年05月27日 19:51

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/27(月) 05:37:39.95 ID:PqjcO/n8
福島正則が家中の侍たちに知行割を申し付けた時、可児才蔵に対して、このように言った

「才蔵は普請役をするのなら、2千石取らせるのだが、しかし役無しを望むのなら、千石を遣わす。」

家に才蔵はこれを聞くと

「私には今まで、鋤鍬で取った知行などありません。ですので千石、無役で頂きたく思います。」

と、千石の方を取ったという。

また、彼が本丸の番をしていた時、才蔵の有名な十文字槍が番所に置いてあったのを、
福島正則が見つけこれを抜いてみると、

「なんだこれは、才蔵にも似合わぬサビ鑓ではないか。」

と、錆びついた彼の鑓について指摘した。これを聞いた才蔵は

「槍の先を、よくご覧ください。」

と申し上げた。先を見た正則は笑い出し

「なるほど、先に錆はないな」

と言った。可児才蔵は槍の先の部分は、戸に当てて置いていたそうである。
(福島太夫殿御事)




711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/27(月) 13:25:39.64 ID:MBNkYTlj
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1084.html
槍の話は既出だが、こっちでは市松がかっこわるいことに

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/27(月) 22:59:34.57 ID:Huq/jFiY
>>710
屁理屈にしか聞こえんな

可児吉長の家臣に竹内久右衛門という者がいた

2012年12月21日 19:50

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/20(木) 23:55:28.55 ID:C4w1xGjF
可児吉長の家臣に竹内久右衛門という者がいた。覚の士であり、吉長は
いつでも知行の半分を分かち与えていた。

長久手の役で羽柴秀次が敗軍したところ、秀吉は怒って吉長を咎めた。
このために吉長は日蔭者になっていたのだが、福島正則が七百石で召抱えた。

そこで吉長はすぐに三百五十石を分けて久右衛門に与えた。

――『名将言行録』




832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/21(金) 10:50:29.26 ID:191HpPKJ
>>830
なんかズレてる

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/21(金) 10:57:55.58 ID:jBjRZkrw
>>830
なんかアンパンマン思い出した

834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/21(金) 11:08:05.07 ID:5JGushqd
三成に 過ぎたるものの…

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/21(金) 11:08:05.28 ID:1dAM2XsE
三成・左近の縮小版だな。

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/21(金) 13:23:23.79 ID:3v211z+y
>>833
可児パンマンの誕生だw

才蔵、戻れ!

2012年10月21日 19:30

939 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/21(日) 14:12:00.29 ID:RRdnsyyH

長久手の戦いの折、羽柴秀次は味方が敗れたと聞いて急いで旗本を進めた。
この時、可児吉長は秀次の近習であったが、秀次よりも遥かに先にいた。

ところが吉長が馬を乗り返して来るので、その様子を見た秀次は、
「才蔵、いつもの口振りと違うぞ、戻れ!」と命じた。

これに吉長は「この敵は槍のできる連中です。御馬を返してください」
と言ったが、秀次は構わずに三度まで戻れと言うので吉長は続けて、

「勝てば勝つほど備えは固まり、段々と後ろの勢が続いて来ます。
これでは槍を合わせるような状況ではない」と忠告した。

しかし、それでも秀次は言うことを聞かないので吉長は腹を立てて、
「糞でも喰いなされ!」と罵って引き退いた。

果たしてその言葉の通りに秀次の勢は一溜りもなく敗軍し、
池田恒興を始めとした戦死者を出した。

――『名将言行録』

こっから「馬貸して!」に続くのかな?




940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/21(日) 14:47:23.13 ID:ceSPNQsX
殺生関白の芽生えである

941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/21(日) 15:06:27.40 ID:HCXGIXET
うっきー「一人で切れる人などたかが知れているぞ。サルじゃなくて太閤殿下のほうかのほうが殺しておるでしょうに」

『笹の才蔵』

2012年09月05日 20:41

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/04(火) 22:37:04.87 ID:ABcqqwS2

有名な話だけどまとめにはなかったので。

可児才蔵吉長が森長一(長可)に仕えていた時のこと。

長一は諏訪山の城及び大森上恵らの城塞を攻め、梶田に駐屯して
首実検を行ったところ、長一の軍は460程の首級を得ていた。

この時、才蔵は首3つをひっさげて来て「16級獲りました」と言った。
しかし申告と首の数が合っていないので長一がその理由を問うと、
才蔵は「多く獲りすぎたので捨てました」と言った。

そこで長一が「460余りすべて獲り主がおるぞ。お前が獲ったという
証拠はあるのか」と尋ねると、才蔵は「それがしが獲った首には笹の葉を
含ませてあります」と答えたので、

長一が命じて確認させると確かに笹の葉を含んだ首が13級あった。
こうした出来事により吉長は世に『笹の才蔵』と称されるようになった。

――『名将言行録』

自分が首を獲ったと嘘の申告をした人たちはどうなったんでしょうね。
鬼武蔵的に考えて(´・ω・`)




357 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/09/04(火) 23:17:09.50 ID:vCHaTzWD
名将言行緑は教科書だす
葉隠の生々しさがない
江戸初期と明治初期の違いと言えばそれまでだが

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/05(水) 00:04:47.76 ID:LHDOh62O
可児才蔵って笹の葉を持ち歩いていたんだろうか・・・

359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/05(水) 00:26:34.06 ID:P+M1M5Q6
>>358
笹を指物にしてたんじゃなかったっけ?
そんでそれをぎって・・・

361 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/09/05(水) 12:35:43.82 ID:8NRM+OPl
>>358
戦場でとった首を自分が討った証拠として口の中に笹を詰めてたから笹の才蔵と呼ばれた。

「何か芸はあるのか」

2012年09月03日 20:51

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 19:40:12.60 ID:97xvV+IQ

笹の才蔵こと可児吉長が福島家に呼び出された時のこと。
福島正則が才蔵に「何か芸はあるのか」と尋ねると、

これに才蔵は慎んで「自分の髪を結ったり髭を剃ることに関しては
年月をかけて手練致しましたので、それが上手になりました」と答えた。

近臣の者はこれを聞いて「まったく才蔵はうつけ者か捻くれ者だ」と
囁いたが、正則は「いやいや、後ろに眼がなければそのようなことは
中々修練できぬものだぞ。

それが上手ということは目に見えないことさえできるということ
なのだから、すなわち目の前のことは何でも簡単にこなせるという
ことだ」と言った。

果たして才蔵は武功比類なき者だったので「正則の目利きは流石に
たくみだ」と言われたということだ。

――『名将言行録』




328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 19:47:07.71 ID:4j6t0bwt
市松の酒はもはや芸の領域

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 20:05:53.90 ID:y7y5CLrr
シラフの時は知恵が回ってるのに・・・

330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 20:21:21.43 ID:5SQsn3k0
市松さんは、酒が抜けてるときの方が珍しいんかね~

広辞苑に「笹の才蔵」が載ってて感動してたら

2011年11月30日 22:11

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/29(火) 23:50:23.17 ID:728iAUFI
広辞苑に「笹の才蔵」が載ってて感動してたら全然別物だったでござる

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/29(火) 23:56:09.43 ID:mlI8h7Vp
笹の才蔵
福岡県博多・宮崎県佐土原で作る土偶、猿が上下に袴をはいた姿。
壱岐には同じ姿を描いた札があり、いずれも疱瘡除(ほうそうよけ)という。

カニさんが猿になっちゃった




才蔵が正しい。

2011年09月17日 22:08

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/17(土) 18:08:43.11 ID:n9D4MUWj
関が原の戦いの後、芸・備四十九万八千石の大大名となった福島正則は、家中随一の武辺者・可児才蔵吉長に
二千石の知行を与えて普請役を命じた。が、才蔵は
「オレは槍で禄を取ってるんで、スキやクワで禄を取る気はありません。普請役が無ければ、少禄でも結構。」
と言い放った。

仕方なく正則は、才蔵の知行を元のまま千石に留め置き、代わりに広島城本丸御門の番を命じた。
しかし、齢五十を超える才蔵は体力的にキツいのか、不寝番の際の明け方には、例の先だけはキラリと光る槍を
石垣に立てかけると袴を脱ぎ捨て、横になっていたという。


そんなある日、正則の側小姓が、今日も今日とて寝転がる才蔵のもとに、ウズラを持って来た。
「可児どの、これは殿が鷹狩りで獲ったものです。『才蔵に与えよ』との御意により、お持ちしました。
どうぞ、お受けくだされ。」

小姓の口上を聞いた才蔵は、すぐに跳ね起き、あわてて袴を履き直すと、天守に向かって正座して、
「殿。御礼の儀は、直ちに伺って申し上げまする。」と言って、ウズラを押し頂いた。

立ち上がった才蔵は、憤怒の形相を小姓に向けた。
「おのれ、若輩なればとて、何たるうつけ者か!殿の御意ならば、なぜ最初にそれをオレに言わぬ?!
よくもこの才蔵に、殿の御意を寝ながら聞かせおったな!ガキで無ければ、タダでは置かぬところじゃ!!」

肝を潰して逃げ帰った小姓は、この件を同輩に話したが、やがて一件は正則の耳にも達し、呼び出された小姓は
才蔵に怒られた顛末を正則に打ち明けた。

「才蔵が正しい。それはお前の不調法というものだ。芸・備両州の侍ども、残らず才蔵のごとくありたいものよ。
さすれば、わしに怖いものなどあるまいに。」(武道初心集より)




644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/17(土) 18:29:04.06 ID:fHFsc2Z4
うーん、あの下とか書いた封筒用意すればいいの?

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/17(土) 18:45:47.16 ID:MIwLEsn9
>>644
御意ゆえ畏まって聞くようにと最初に言って
聞く側に身だしなみを整える余裕をもたせろってことだろ。

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/17(土) 19:01:29.17 ID:+4T7mbGT
才蔵は市松のところでやりたい放題でイキイキしてんなw
過去の主替えが無駄にならなかったようで、何より

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/17(土) 19:32:04.76 ID:HClEs3c3
団右衛門も市松の元では肌が合ったのか楽しそうだったのに
旧主の口出しで長く居られなくなったのが悔やまれる

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/17(土) 20:08:58.93 ID:+kj6IoRw
>>647
市松のとこなら又兵衛も気持ちよく働けたかもしれないなw


651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/17(土) 20:24:39.57 ID:nhliwxMN
>650
又兵衛は正則に禄ふっかけて断られた逸話あるだろ
だから多分無理

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/17(土) 20:30:34.03 ID:bEV2lLZR
これで酒さえ飲まなけりゃなぁ

653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/17(土) 20:34:09.31 ID:+5LVXMQx
結構好き勝手してはいても
こういう時はちゃんとするんだなあ

654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/17(土) 22:34:29.59 ID:g0AErNOf
>>652
でも酒で失敗しない市松とかただの名君じゃねーか

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/17(土) 22:50:31.83 ID:3HNZaz0Z
一度でいいから見てみたい
飲めぬ市松、よき殿よ
歌丸です

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/17(土) 23:26:33.17 ID:yk14zRps
タイムトラベル出来るなら正則に抗酒剤を暫く飲ませたいw

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/17(土) 23:37:14.76 ID:+5LVXMQx
>>656
その前に、どんだけヤバくなるのか一度見てみたい

可児才蔵の長太刀

2010年07月24日 00:00

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/22(木) 18:57:21 ID:y/NJHtmo
カニ才三は無事だったのっ?

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/22(木) 19:28:40 ID:m0Ah+c5O
>>77
可児「こんな名前だけど俺の墓、広島県にあるんだよw」


でも広島もやばかったよね

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/22(木) 19:32:02 ID:A+x2LT3N
可児才蔵の墓でググったらこんなのあった

http://yutaka901.fc2web.com/page9zz22f.html





92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/22(木) 22:21:55 ID:liXG69OE
>>79
そんな可児さんの逸話を

可児才蔵と言えば、福島家を代表する勇士であった。
彼は長太刀を好んで使っていたが、齢を取るとさすがに体力的に厳しくなったのか、億劫がって腰にさすこともせず、
他行するときも従者に持たせる、といった有様であった。

ある時才蔵が、福島家の一族である嘉兵衛なにがしという者と物語をした。
この時嘉兵衛

「才蔵殿のお若い頃は、かの長太刀を持って駆け回っておられたが、齢を取られてからは腰に帯びることもかなわず、
お供に持たせて外出するようになられるとは。
しかしお手並みのほど、一度拝見したいものです。」

と言った。
『腰にも差せないほどだから、腕前もさぞ落ちただろう。恥ずかしくて断るか、無理をして衰えた腕前を見せるか、
どちらにせよ笑いものにできそうだ。』

そんな風に思ったのではないだろうか。これに才蔵

「いやはや、お恥ずかしい次第です。若い頃はこの刀で随分と勝負をしたものである故に、
今でも昔の名残が惜しくて、つい外出の時なども従者に持たせてまいるような次第なのですよ。

ただし、武芸というものはなかなか、余所目では評価の出来ないものです。
なのでこの刀をお目に入れて、ご挨拶と参りましょう。」

と、立つと、側にあった長太刀を取り、「長太刀の技、斯くの通り」と言って抜き、嘉兵衛に向かって構えた

嘉兵衛は驚き、ふと立ち上がろうとした。その瞬間、


才蔵の刀は嘉兵衛の首を、斬り落としていた。

年老いたと言えども、笹の才蔵を試すとこうなるのだ。という話である。




93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/22(木) 22:45:01 ID:1K9wji9a
この人はあまりに生き方がガチ過ぎる

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/22(木) 23:13:56 ID:lQPbsJ5e
文字通りの抜き身の刀だな、この人は

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/23(金) 08:21:03 ID:MPuJkaGq
蟹才三ってゲームだと笹をくわえてるグラになってるけど、
あれってあげた首持ち歩くのが重いけどそのままにしたら
手柄誰かに取られちゃうってことで、あげた首級に印として
くわえさせてたんだよね?

なんか、お前も手柄首になっちゃったのかよ!?って感じで
個人的に後味が悪い。

可児才蔵、長久手での敗走に際し

2009年11月15日 00:03

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/14(土) 15:16:16 ID:V4eOibPe
可児才蔵が関白・豊臣秀次に使えていた時の話

長久手の戦にて、秀次軍は徳川軍にこてんぱんにされ、敗走しつつあった。
そんな中、岡本嘉介と村善右衛門らの部隊は懸命に踏み止まって戦っていた。
しかし、もはや多勢に無勢、とても支えきれない。
そこへ駆けつけたのが、可児才蔵だった。
「おお、才蔵殿がきてくれた!」
当時から彼の武勇は知れ渡っている。岡本らは百万の援軍を得た思いだった。
才蔵が問う。
「殿はどこだ?」
「あちらへ退却されました!我らはここd」
「ああそう」
なんと、才蔵はあっさりと岡本らを見捨て、秀次が逃れた方角へ行ってしまった。

当然ながら、踏み止まった者達は腹の虫がおさまらない。
「目前に迫った敵を無視して逃げるとは、才蔵なんざ看板倒れだ!」
そう言いあっていた。
後日、聚楽第に参集した機会を捉え、一体どういうつもりだったのか問い詰めた。
才蔵はこともなげに答えた。
「どうもこうも、総大将の後に続いたまでのことだ。
が、今あなた方の話を聞けば、これももっともだ。
よくわかった、では俺は暇乞いするとしよう」
有言実行、才蔵は自分の宿にも帰らず、その足でとっとと他国へ去ってしまった。

この後、福島正則が彼を七百五十石にて召抱えることになるのだった。




172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/14(土) 15:45:03 ID:LkDscmUJ
>>170
こんなこと言ってるけど、この人肝心の秀次に会った時には馬に逃げられた秀次が
「おまえの馬貸して!」って言ったのに
「雨の日に蓑笠を貸す者はおりませんわい」とか言ってシカトして逃げた
って逸話もあるよなw

可児才蔵、困惑する

2009年07月27日 00:05

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/26(日) 00:25:57 ID:NaTLcWd2
可児才蔵、困惑する

「槍の才蔵」こと可児才蔵が、「槍の宝蔵院」こと宝蔵院胤栄の元で槍を学んだときのこと。

才蔵が宝蔵院に弟子入りしたのは福島正則に仕えた後ということなので、
それが正しければ天正十三年ごろになる。だがそれより前から才蔵の
槍働きは知られていたので、それまでは我流で槍を使っていたということ
だろうか。

宝蔵院で修行した才蔵はみるみる上達した。ところが主の命で一旦主家へ
戻って戦場に出ると、何故か上手く働けず困惑する羽目になった。
才蔵は再び宝蔵院を訪れ、胤栄にこのことを相談した。胤栄答えていわく、
今までは無心で戦っていたが、なまじ技術が身についたからあれこれ考えてしまい、
素直に突撃できなくなっているのだ、と。
「要するに修行が足りん。考えなくても身体が動くまで修行せい」
そう言って、再び才蔵に修行を課した。

そして数ヵ月後、そこにはもはや戸惑うこともなく突撃する才蔵の姿が!

技術が本当に身に付くには、練習と時間が必要だというお話。




840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/26(日) 00:37:58 ID:hCsz20E6
……別に修行しなくても良かったんじゃね?

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/26(日) 00:45:52 ID:tamp62jW
定石を憶えて2目弱くなりというやつだな

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/26(日) 06:06:19 ID:gqhoTd8o
>>839
我流でヒャッハー!してても十分強かったのが、技を覚えて却って惑うようになった、か。
もう一段覚醒して自在を得たんだからホンマモンの達人よね、才蔵さんよかったね。

843 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/07/26(日) 06:55:04 ID:BwOGLHXK
異名だけ見るとやたら弱そうだ>笹の才蔵
でも強いんだよな

俺も名刺を紙から笹に替えて笹の〇〇と呼ばれるように頑張る

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/26(日) 07:13:31 ID:UToXQLMW
それ異名いっていうか単なるあだ名w

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/26(日) 07:17:51 ID:cREjXz9l
今大河で秀吉やっている人が、才蔵と同じ異名を持っているな。

846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/26(日) 07:59:03 ID:LcAhmk2o
本多忠勝も稽古での槍さばきはあれだけ戦場で勇名を馳せてる人が何故?ってくらい
下手くそだったそうだし
我流で暴れまわってた人も多かったんだろうな

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/26(日) 08:26:20 ID:1TXg1cw2
>>846
本多忠勝の場合は、個人の武勇よりも現場指揮官としての能力が優れて(それも無双レベルで)
いたんじゃないかと。
小牧・長久手の少数による足止めとか、関が原の時の直属兵の人数とかを見ると、
重要な場面での一撃(もしくはいざというときの火消し)として使われていたのでは、
と思う。
この辺は「鎮西無双」立花宗茂も似ているよな。

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/26(日) 14:35:20 ID:sOT6EnkL
>>847
宗茂の場合、弓も剣も免許もらってるらしいな
でも将ってそんなもの振るわずに済ませられるのが一番だよ

小野和泉も主(宗茂)にそんなことさせずに済ませたのが誇りみたいなこといって気がする

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/27(月) 13:05:56 ID:4IARr95L
>>839
スレ違いだが、ブルースリー語録を思い出した。

「最初、パンチはただのパンチ、キックはただのキックだった。
修練をつむことにより、パンチはただのパンチでなくなり、キックはただのキックでなくなった。
しかし、今はパンチはただのパンチであり、キックはただのキックである。」

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/27(月) 13:22:10 ID:uBISxMQu
なにその神語録

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/27(月) 13:42:33 ID:oJrTuQ39
禅の教えで似たようなのなかったか?

初め、山はただの山であり川はただの川であった
禅を学ぶと山はただの山でなくなり川はただの川でなくなった
しかし、悟りを得た今、やはり山はただの山であり川はただの川である

みたいな感じで

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/27(月) 15:08:16 ID:4IARr95L
>>870
ブルースリーは禅にハマっていたんだが元ネタあったんだ。
興味わいたんで禅について勉強してみます。


汁かけ飯、可児才蔵編・悪い話

2009年02月10日 00:13

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/09(月) 05:41:20 ID:FJI+tSWe
まだまだあるぜ汁かけ飯


福島正則の有名な家臣、可児才蔵。通称、笹の才蔵。
武勇はあるが一徹者で、あまり出世はしなかったが、それをうらむ事もなく、
言いたい事は隠さず言ったが、それにも理のあることが多かった。

ある時のこと、故実に通じた軍法者という触れ込みの男が、正則への仕官を求めてきた。
この軍法者の面接が行われ、才蔵も出席し、軍法の事について質問した。
面接後食事が出され、才蔵もそれに相伴した。

その後面接の面々は正則に報告をした。皆、わが家にて召抱えるに足る良い軍法者だと
褒め称えたが、才蔵だけが「彼を召抱えることは無用でござる」と言った。
正則がその理由を尋ねると

「それがし、彼と相伴して飯を食い申した。人というものは幼い頃より箸を手に取ってこの方、
毎日二度か三度は飯を食うものでござる。
しかるにあの軍法者なるものは、一杯の飯に、汁を二度かけ申した。
こんなものの見計らいも出来てない男が、両軍数万の人数を見計り、戦の駆け引きを
出来るわけがありませぬ。

軍法とは結局、敵味方の人数を正確に把握し、軍勢の勇気と臆病、運不運の差異を
計る事でござろう。」

と、語ったと言う事である。


汁かけ飯の話は氏政の話ばっかり有名だけど、実はどれがオリジナルなのか、
良く分かってないんだよなー。




700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/09(月) 05:45:41 ID:JxvKgRZF
この話のたびに汁かけってそんなに重要か?wって思うな。

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/09(月) 06:20:49 ID:SBLRI1/8
つーか汁かけご飯て行儀の悪い貧乏臭いイメージあるんだが、
昔の人間て毎日食ってたのか?
あとお茶漬けでご飯が多くてお茶が入りきらず、後で継ぎ足すことはよくあるんだが。

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/09(月) 06:38:39 ID:FJI+tSWe
>>703
むしろ汁をかけることはマナー。
食事の最後にご飯に汁をかけて食べて、椀の中をきれいにしておくと言う行為。

前にも書かれていたけど、これが転じて、京のお茶漬けの話になる。
すなわち、お茶漬けを出した時点で、あなたへのおもてなしはこれでストップですよ、って
意味になるから。

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/09(月) 06:44:30 ID:Ftjcg0Ne
汁かけは一回で済ますのがいいとは限らないのにな……

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/09(月) 09:06:14 ID:Bo1MKikI
なんだこのループw

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/09(月) 09:24:28 ID:zqlytV8T
氏政「親父が二度汁を見て家が滅びると言い出した時は、この父はもう駄目だと思いました。」

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/09(月) 10:15:48 ID:dNOW77rz
まあ、戦国の武将の食事の作法はかなり事細かい
からね。作法の出来不出来が、そのまま武将個人
の評価だったんだよ。

作法の一例
・普通のご飯は中央から食べる。周りに先に箸を
 つけてはいけない。
・おこわ飯(赤飯等)は箸で直接口にせず、箸で
 左手に飯を乗せ、そのまま手で食べる。
・湯づけが出されたら、まず香の物から食べる。
 汁(湯)は飲まず、米だけ食べる。
・他家で酒を頂いたら、必ず一献飲む。もう一献
 頂いたら必ずもう一献、都合三献頂く事。
・蒲鉾は切れ目がついていたら、一切れずつ箸で頂く。
 切れ目が無ければ、そのまま一口で頂く。
・客が飯に汁をかけたら、食事の終わりの合図なので、
 それ以降に飯を勧めるのは失礼にあたる。

…等々、いろんな作法、しきたりがあるんだよね。
一般人には、胃が悪くなるような食事の話。

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/09(月) 10:35:38 ID:HrV+9fR6
まるで切れ目のない蒲鉾丸ごと出されたら…ああ、刃傷沙汰か

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/09(月) 10:51:11 ID:Bo1MKikI
かまぼこってラスボスの好物だよな

湯づけの米だけ食べるって結構難しいと思う

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/09(月) 10:57:49 ID:dBEQqXzb
>>711
阪神大震災の時は喜んで食べたなぁ>味なし粥
不味かったけど旨かった

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/09(月) 11:02:45 ID:a8f9zLse
>>707
確かに氏康の晩年はもうろくしてたよな
氏康の遺言で甲斐と再同盟したなんて嘘だよ
氏政の判断であろう

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/09(月) 12:25:35 ID:HqPIHuDu
昔の米は高タンパク高アミロースだったから
一度冷えたら湯でもかけて温め直さないとパサパサしてまずかっただろうね
汁かけご飯が一般的なのもその辺に理由があるのかも
現代みたいに冷めても美味しいご飯は先人のたゆまぬ品種改良のおかげ

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/09(月) 13:28:03 ID:YsSeRCdz
レンジもないしな

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/09(月) 22:23:23 ID:loL22xSw
>>711
秀頼の好物じゃなかった?
そして当時の蒲鉾は今で言うちくわ



参考
戦国食事マナー、汁かけ編
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1210.html

毛利元就、孫の二度汁・悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1259.html

可児才蔵と若武者、使者に出る・いい話

2009年01月05日 00:15

786 名前:既出なら御免[sage] 投稿日:2009/01/04(日) 08:11:03 ID:DkMfgPLi
関が原合戦のとき、
福島正則の配下であった可児才蔵ともう一人の若武者は主君正則に他部隊への使者を頼まれた。

竹束(鉄砲や矢を防ぐ置き盾のようなもの)の外を通ると危険だが早くつく。
反面、内を通ると安全だが遅い。血気にはやる若武者は外を通ったが、
一方、武勇で知られる可児才蔵は意外にも安全を期し内を通った。
もちろん若武者は早く現場に到着し、才蔵はそれに遅れた。
二人が合流したとき、反省したのは若武者だった。
若武者「才蔵殿は正しかった。外は敵の矢、鉄砲がすさまじく、己は運良く命拾いをしたに過ぎない」
これを受けて才蔵
「本当は自分も、早くたどり着く外を通りたかったが、
途中で撃ち殺されれば使者の役目を果たせなかっただろう。それでは軍律違反になるので控えた。
だが、もはや使者の用は終ったので、今は撃ち殺されても別に差し支えはない」
と言い、若武者が帰りは竹束の内を通ったのに対し、才蔵は悠々と竹束の外を通って帰った。
(武者物語より)

関連
その二人のうち一人は、


788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/04(日) 10:09:23 ID:hFKkG3KQ
才蔵らしくないと思ったら落ちに笑った

笹の才蔵、その晩年・いい話

2009年01月05日 00:10

790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/04(日) 11:37:19 ID:Nzuh8kUR
笹の才蔵、その晩年

ある日、才蔵のもとに若者たちが集まって語った。

若者「若いころ腕に覚えがあった人も、年とったらたいしたことないッスよね。
   気持ちは若くても、身体がついていかないッスよ。」
才蔵「まあ、人によりけりだな。」

若者「えー?!腕自慢だって年とれば足腰が弱くなって、若いのについて行けないじゃん!」
才蔵「・・・それも人によるわい。」

若者たちは年寄りの冷や水と笑ったが、はたして関ヶ原で混戦になると、福島隊は馬を下りて
徒歩で戦ったが、馬での移動に慣れた若者たちは、むしろ才蔵に後れをとった。日ごろから
どこへ行くにも槍を持ち、歩いて移動した才蔵は平気な顔で走り回り、17の首を挙げた。

才蔵は常々、愛宕権現を信仰し、「オレは権現の縁日に死ぬ。」と言っていたが、実際に
縁日の日に甲冑をまとい、床机に腰掛けて死んだ。遺言により、広島の矢賀という所の
坂道の脇へ「尾州羽栗郡可児才蔵吉長」とだけ刻んだ石塔を立てて葬られた。

心ある武士がこの矢賀を通る時は、馬を下りて才蔵の墓の前で手を合わせ、才蔵に習い
馬を引いたまま徒歩で往来するようになった。 (武辺咄聞書より)



791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/04(日) 17:34:35 ID:96V3CWkE
こっちは普通に才蔵らしい話だw

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/04(日) 17:51:59 ID:xxLqoi8m
臆病野州とかもだが馬鹿にした連中を見返す爺様の話は大好きだ

可児才蔵の試合・いい話

2008年10月16日 00:41

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/07/05(土) 12:09:12 ID:MSxhTdI6
関が原の合戦の後しばらく戦の無い年月が過ぎたころ、
ある若者が可児才蔵の武勇を知り、試合を申し込んだ。
当日現れた才蔵は、甲冑に旗指物という姿、さらに銃を構えた配下を一人連れていた。
驚いた若者が「1対1のはずだが?」と言うと、
「わしの試合とは全てこのような実戦である」と答えた。




423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/07/05(土) 12:17:22 ID:2oIztn+T
>>422
家康の、「橋の前で馬を降りる」と、本質的には同じ話だな。

424 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/07/08(火) 14:17:52 ID:iF2xuY9a
可児って猪突猛進の典型な気がしてたんだが違ったのか

425 名前:☆中山鹿之助☆ ◆.Ooo.qq.q. [] 投稿日:2008/07/08(火) 17:18:57 ID:jFqDvhLU
>>422
カッコイイハナシダナー・゚・(ノ∀')・゚・。

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/07/08(火) 17:28:45 ID:pnB6AJ3l
>>424
俺はむしろ、司馬遼の「おれは権現」での臆病な才蔵のイメージがあったから、この逸話
はしっくりくるなw