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「名古屋山三郎、賭碁の事」

2020年08月07日 17:32

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/07(金) 12:29:34.50 ID:TJ+U+1hZ
囲碁に関する逸話を集めた、「爛柯堂棋話」から
名古屋山三郎、賭碁の事」

浅草寺蔵前の某寺には大きな榧の木があり、そこの和尚はその榧の木と自身の碁の腕前を大いに自慢していた。
その話を聞いた名古屋山三郎・不破伴左衛門・高木、の三勇士は、和尚をからかってやろうと悪だくみ。
まず名古屋が和尚のもとに行き
「私は旅の者です。和尚が碁をなさると聞きました。私も碁を嗜むもので賭け碁をしましょう。
和尚が勝ったら私はここにある五十両を差し上げます。私が勝ったらこの寺の名物の榧の木をいただきます」
と言い、和尚は
「ははは、あの榧の木は50人がかりでやっと引き倒すことができるほどのものですよ。
でもまあどうせ拙僧が負けるわけありませんからいいでしょう」
と対局を開始。
実力は伯仲していたが、しだいに名古屋が優勢になり、名古屋は小用を足すというのでそっと部屋を出、
ひそかに待機していた不破、高木に
「俺の勝ちだ。榧を引き倒してくれ」
と告げ、対局にもどり、和尚を破り、そのまま寺を出た。
翌朝、和尚が「それにしても昨日の旅人、わしを負かした後さっと消えるとは、もしや化け物だったのかな?榧の木を持って行くと言っていたが」
と寺の榧の様子を見に行くとそこには木を引っこ抜いたようた後があるだけ。
「なんということ!あれは天狗の仕業じゃったか!」
こうしてこの話は近隣に知れ渡り
「天狗が榧を引っこ抜いた寺」として、それまで以上に有名になったということである。



436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/08(土) 20:54:37.61 ID:ZbomlZDL
イケメンは囲碁も強いのか

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/09(日) 08:58:32.14 ID:/rmlxIEV
榧(かや)が読めなくて検索してしまったわ
将棋盤や碁盤用として最高級の素材らしいね

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/09(日) 09:12:11.44 ID:OwP9mgom
今は本榧と呼ぶよ
偽榧が出回ってるからね
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那古野山三郎の弟のこと

2019年08月15日 17:13

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/15(木) 17:00:58.55 ID:u77QSgOW
那古野山三郎の弟のこと

「因幡殿若死 宗因殿おと子にてこれ有る故 遺言にて山三郎殿子分に成され候」

那古野蔵人(宗因)は父那古野因幡守(宗慶)の遺言に従い
急死した兄那古野山三郎の子として養育され
森忠政からはじめ千石賜り、那古野氏の家督を継いだ。

--『各務氏覚書』

父、雲甫宗慶大居士(那古野因幡守、)は織田信次家の女婿となり後年織田信包に仕えた
慶長十年十二月四日没
母、養雲院殿は後年大徳寺170世清巌宗渭の育母であった
寛永三年二月五日没

--『名越氏先宗牌名』

家督に関して那古野因幡守の遺言という経緯があったという。



加賀藩士・名越小十郎「史書の人物像はあまり信じるな」

2011年09月07日 22:25

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/07(水) 06:59:35.98 ID:nRx8OIWG
>>763
加賀藩士「名越小十郎」先生の雑記曰く「史書の人物像はあまり信じるな」

「阿国歌舞伎」から丁度百年記
「主人公は名古屋山三郎でなるべく史実に沿って書いて!」

と任されたのは代々加賀国の史料編纂に代々携わった一族名越小十郎(名古屋山三郎の玄孫)


「名越高家流は家祖「北条高家」にハジマリ・・・(略 名越高範の代で今川国氏の次女を娶り代々今川の・・・(略
今川義忠に仕えた中興の祖「那古屋蔵人高信」が一代で那古屋城を起こし・・・(略
駿河の国より養子氏豊を迎え・・・(略 尾張の虎に那古屋城盗られ・・・(略 
蔵人は信秀に娘を差し出し・・・(略 一門織田に組みする事・・・(略 

継いだ蔵人実孫の名越因幡守は・・・(略  松下嘉兵衛の間者(スパイ)と疑われていた
十五歳の「木下藤吉郎」を助け・・・ これが後々山三郎の代で・・・(略

信長公の命を受けた因幡守高久は伊勢上野に移りしは・・・
山三郎母信包女共々、小谷の方子女を預かりて幾年・・・(略

当主因幡守が伊勢上野で臥せば・・・嫡男於千も続け様に病で倒れ・・・
山三郎、一門男子「今川氏秋(今川氏豊の孫)」の世話に成り、槍術の指南を受けるも・・・
氏秋、本能寺で明智勢に敗れ・・・ 十の頃の山三郎いよいよ男子の身寄りなくなりて・・・

かつての藤吉郎こと秀吉公の手厚い庇護もあり・・・(略
一族子女は・・・かねてよりの姉分、茶々姫のご助力ありて・・・」



幕臣「ちょっと誤字脱字が数箇所見受けられたんで修正しておきました!」


「名越因幡守は・・・人質として織田に送られた「松平竹千代」を匿いし・・・(略
身寄りがなくなり・・・(略
かつての竹千代改め「神君家康公」の手厚い援助に命を救われし・・・(略
名越一門、豊臣の縁者なれど石田治部の謀事に気付き・・・家康公に組みす事、森右近殿に・・・

淀殿、淫乱かつ艶美なれば・・・名古屋山三郎に思いを懸け・・・不義なる事・・・
大坂が亡びしは、他でもない淀殿の不正より起りし・・・」

名越小十郎 「おーい最初の趣旨はどこいったー!」と幕臣を叩いて失業しかけた。





778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/07(水) 18:40:10.51 ID:IhPiptoC
>>765
文面を見た時の小十郎の表情が想像できますな。

あの名古屋山三郎って、周囲を驚かすド派手な鎧兜に身を包んで泥田の畷道に突っ込み、
最後は赤松円心配下の弓の達人に眉間を射抜かれたという人の子孫だったのか。
派手なのは先祖譲りなのかも。

文禄4年のスキャンダル

2010年12月23日 00:00

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/22(水) 00:44:16 ID:t113YYki
某事件で降板した歌舞伎役者さんが本来やるはずだった人物のスキャンダル

文禄4年(1595年)頃にあるスキャンダルが大坂中の民に知れ渡った。

ある一行が道中、秀吉側室が疲れたので茶屋にて休憩するに至ったが、無論中にはお付の侍女らしか
居らず、周りには太閤から信頼のおける者が数名警護にあたっており出入り口を通れた者は
門番の厳しいチェックを受けた者で、実際に通る事が許されたのも身分ある女性だけだったが
名古屋山三郎が女装してあっさり入って暫くのち出てきたが為に不義密通疑惑の大騒ぎになる。

この出来事に関わったと言われている者たちは誰も死罪等を言い渡されておらず
大抵の者が処分がない事から、山三郎が行き付けの茶屋で先客として既に居た所を偶然居合わせ
太閤殿下の側室だからと云って"すぐ出て行けとは横暴である"と断り、のんびりして出てきた場を
たまたま野次馬に目撃され民草たちが大げさに話を広げたと云う話であるが山三郎はこの直後、
帝の直轄地として太閤と云えども手出しのし辛い四条に隠れた事や、この時の門番を任されて
いたいう太閤秀吉から信頼の厚い馬廻衆、小沢彦八郎と云う若衆が職を奪われている。

この事件の翌年、慶長元年(1596年)から約三年もの間、舞太夫として太閤に招かれたのは
村山又八ら狂言師が伏見に招かれ太閤の前に狂言尽を為す”と"事始"などに記録されてる通り
山三郎本人ではなく、山三郎の直弟子達が代わりに太閤に贔屓されるに至っている事も
噂話に変に尾ひれがついてしまったと云われる。(村山又八は京芝居の祖と云われる人物)

更に翌年、慶長元年(1597年)には浪人の身で各地放浪をしていた小沢彦八郎が三十人程いた
森忠政側近衆の一員として仕官するに至り、後に山三郎が森家中に加わった際に
山三郎の末妹を娶る事を森忠政から許され、森家中でそれなりの地位となった事や
山三郎が出家した事がこの噂話に変な真実味を加えたのではないかと言われている。

実際には、このスキャンダルが流れた時期に太閤秀吉は山三郎の妹が森家へ輿入れする際
自身の結婚を山三郎と新婦の父に祝ってもらった事を諸将によく自慢しており亡き弟
秀長に代わり豊臣、名古屋の両家を代表して嫁ぎ先の森家へ名刀"鎌倉一文字"と
祝いの書状を送っている事から両者の仲はむしろ親密で山三郎が一時的に大阪から
遠ざかったという事実だけで噂が独り歩きしていって収拾がつかなくなっていった次第である。

この大坂スキャンダルは民草に目撃された雑説として知れ渡っていた事から江戸期に
なっても調べ上げる者が多く、この謎の側室が誰であったかを淀君と主張する
"近世奇跡考""嬉遊笑覧""塩尻"を始め、松の丸殿と主張する"泰平漫録""梅屋日記"など
側室が誰であったのか以外はどの書物からも時期、時間、場所等が一致しており
"異本大阪物語"に至っては、御丁寧にこと細やかに逢引方法が書かれている。

が、こんな下地のあるネタが淀殿バッシングの激しい徳川天下の時代で利用されないはずが無く
戦国期にはこの側室が誰か判らない事が民草の想像を駆り立て噂が広がったが、
江戸期にはこの女性を完全に淀殿と断定し、山三郎は弟子の村山又八の息子らが江戸に
歌舞伎座を起した為に現代でも歌舞伎直系の祖とされているが、恰も"歌舞伎役者"名古屋山三郎
戦国の時代に存在したかのように脚色され、歌舞伎発祥以前に淀殿が若い歌舞伎役者連れ込んで
浮気をしていたと云うあべこべ話が成立してしまい、この偶然が重なっただけかも知れない
大阪での出来事は真偽はともかく、最終的に淀殿の不義密通説の土台として定着し、
時期を変え、相手を変え、秀頼の出生まで疑われることに大いに貢献する事になった・・・。

ただの噂が原型を留めずに変わっていく悪い話




120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/22(水) 01:07:56 ID:w0lRq0It
ab蔵もこの時代のかぶき者と比べれば可愛い方だなw

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/22(水) 01:14:21 ID:kxcv72cu
山三郎はハッタリじゃなくて喧嘩がマジ強いAB蔵ってイメージ

125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/22(水) 23:39:35 ID:7IbjQlmt
歌舞伎役者と~~~ってな話しは、江島生島事件とかそんなネタがあったような気がしたけど板違いかw

伝説の美少年誕生の瞬間

2009年09月13日 00:19

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/12(土) 19:35:57 ID:nLyciz8F
伝説の美少年誕生の瞬間

この子の人生は蒲生氏郷が狂わせたと言っても過言ではない
氏郷が将兵の観閲を行ったおりに見物人の中に
ひと際、見目麗しい光を放つ子がいた。

氏郷はその場で速攻この子を嫁に貰うと決め家臣たちにすぐに探させた。

もちろん一般人との縁談なんてあまり頂けるものではない
が、氏郷かなり本気らしく家臣の一部もその子を見ていて納得し
周囲の人々に特徴を話すとすぐにどこに住む子か判った。

氏郷とうとうその子の居場所を見つけて追い詰めた
そこは京の都の建仁寺・西来院 やっと見つけた
が、そこに住んでた当の子は女の子じゃなく男の子。

でも、氏郷が本当にびっくりしたのはこの子が織田家の子供でかなり気が強い。
信長公が幼いころはこんな感じだったのかな?と氏郷もついつい笑みをこぼす。
これは運命だから連れてくしかないと半分誘拐まがいに連れて行って大変可愛がった。

少し時がたつと、この子ガチで戦場で暴れまわる、今でいうとDQNな子
なんでも一番が良いとはいえ氏郷親衛隊なのに真っ先に特攻しまくる
特攻気質な氏郷様を抑えるのが本来のお仕事なのに。

何もしてなくても目立つのに派手物好きでよく目立つ
ついたあだ名が一番槍、男も女もわらわら寄ってくる。

15になる時には槍でこいつの右に出る奴はいねぇ
と言われる程までの氏郷自慢の美少年に仕上がった。

女踊りに神楽歌、絶世の舞太夫に世間の誰しもがこれを歌う
「槍師 槍師は多けれど 名古屋山三は一の槍」

※都の人々の間では地元の英雄を連れさらった的にうたわれてしまうが
京都建仁寺では母が山三郎は次男なので縁族にあたる
蒲生家で大事にして貰えるよう氏郷に託した とちゃんと残る。




300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/12(土) 19:59:55 ID:7R8dZ+Wi
まーくんが九戸の乱で蒲生を出し抜こうとした時「うはっwこれはチートw」
って言ったくらいだからどんな容姿だったんやら

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/12(土) 20:20:54 ID:c5JkR3I9
>>300
違う形の逸話かも知れんけどそれは九州の時の福島正則で
政宗は九戸政実の時活躍を褒めたんじゃなかったなかったっけ?
天下三美の浅香庄次郎も連隊させてるから十分チートだとは思うけど

302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/12(土) 20:23:07 ID:I+ZWcShl
名古屋山三郎って、その有名さ、容姿、槍働きのわりに、死に際の石高って
5000石だったんだよなぁ。

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/12(土) 20:33:25 ID:G7ny2ckS
昨日パタリロ読んでたせいで美少年と聞くとあんなイメージに

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/12(土) 20:34:09 ID:fp+v2Bsm
5000石って大変なモンなんだけどな。たかがとか思ってんの?

305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/12(土) 20:38:37 ID:G5fEj6RR
名古屋山三郎はその逸話を見ると、演芸はともかく、武士としては、
部隊指揮や行政をするわけでもなくほとんど槍働き一本だったようだから、
個人的武勇だけで5000石は、むしろ破格と言っていいと思う。

306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/12(土) 20:48:46 ID:GdYEGBO5
山三は元々相手をもてなす外交政策担当なのに戦闘に出てくるのがそもそもおかしい

確か蒲生家でも5000石勤め、森家の最後のあたりだと5300石あたり
槍働きでこれは十分だと思うが、殆ど化粧料として使ってたんじゃ?
確か歴代主君より派手な格好や槍刀の許可を主君から石高代わりに貰ってはず

戦国無双にも甲斐姫・清正と一緒に3人並んだモデリングデータあったから次回あたりくるんじゃ

307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/12(土) 20:55:22 ID:W3T8TEcv
井戸「ライバルなのに俺の強さがぜんぜん認知されてない・・・名古屋氏ね」

308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/12(土) 21:03:38 ID:fp+v2Bsm
>>306
化粧料?

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/12(土) 21:10:30 ID:lZiPQMCE
>>308
自分や家来衆の見栄えをよくし、外交を恙無く行うための接待費と思った方がいいかな?
現代でも、ピシッとしたスーツにのりの利いたシャツ、綺麗な革靴を揃えるってなると
結構かかるでしょ。
そういった身分費用と思えばいいよ。

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/12(土) 21:11:31 ID:GdYEGBO5
>>308
化粧料と言うと意味合い変わってくるからちょっと変でしたね
そういう許可を褒美代わりに貰ってたんじゃ?って話です。
井戸宇右衛門が主君より派手な山三の持ち物を投げ捨てて喧嘩してる
>>307
井戸はマジで哀れだと思う。
何言っても忠政から「※ただしイケメンに限る」って返事かえってくるし
山三と天下二分した不破万作に名前乗っ取られて井戸本人空気だし


名古屋山三郎の出自

2009年09月09日 00:07

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/08(火) 02:34:41 ID:EZcN6MgH
名古屋山三郎の出自

>>69に便乗させてもらうが、名古屋山三郎の父名古屋因幡守高久は
信長の主君筋の斯波氏(尾張足利家)と別流の清和源氏の名門嫡流。
足利将軍家、室町将軍家と同族だから例え織田家代表だとしても
そんな高い格式の人が来たら秀吉じゃなくても普通驚くか小便漏らす。

名古屋因幡守高久の先祖は幕府軍の大将として盟友・足利尊氏と共に
北条・細川・今川を率いて戦った事もある。(名越高家は剣術と槍術の達人)

清和源氏の血を取り込む(大義名分の)為に織田家と一族統合されてるが
織田の血を引いてようが足利氏・北条氏・細川氏・今川氏・武田氏・最上氏は
絶対養う程の芸術家一族の家柄(残念ながら戦国後期では殆ど壊滅状態だが...)

能楽・狂言・猿楽の時代から出てくる「名古屋高家(名越高家)」や「名古屋尾張守」は
山三郎の事じゃなくて、その人たちの直系の末裔が名古屋山三郎(現在では混ざっちゃってるが...)
山三郎は将軍家(天皇家)、織田家の血を引いてる自覚がないのか、ほいほい
遊びに行っちゃう奴だが

名古屋高久と近い人物は皆、"傾奇者"と言われてる(信長・利家・山三郎etc.)
尾張の気風がそうさせたのか、高久が伊勢で南蛮貿易してたから珍品が多かったのか
古来からの伝統品を持ってたからなのか全部が混ぜ合わさった形でなったのか不明だが

歌舞伎で名古屋山三郎を主人公にのし上げたのが、
個人的なファンだったのか面識があったのか判らないが出雲阿国

"室町幕府名越高家のご息女、織田信長様の血筋も引かれる"
"室町幕府高家、即ち足利将軍家の縁類で、名越高家の嫡流" (名越 名児耶 
名護屋 名古屋とも書く) 

父高久は名古屋家直流嫡男 妻を織田家から貰う
母養雲院は"織田刑部大輔"(信包の息子)の娘 父方が名越家の者
病弱だった長男の死後、山三郎が名古屋家の家督を継ぐ
"をせん"を除いて最終的に三人も正室に入れた森家は実は何気に凄い一族。

ソース「名越家先祖由来書」「森家家臣各務氏覚書」




101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/08(火) 02:59:27 ID:1A68QoIV
慶次郎もそうだったんだろうか

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/08(火) 03:35:42 ID:dlyLSIKZ
>>100
なんか読みにくいが、名越って北条の庶流じゃないの?ってつっこみは野暮なのか?

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/08(火) 04:03:30 ID:EZcN6MgH
>>102
読み辛い文章になっちゃって申し訳ない。 
そのまま現地に残ったのが名越流北条氏で名越の地から
尾張の那古野の地に移ったのが名越家みたいです。

遠祖が一緒なだけで勿論、北条であってます。(途中で別れた家みたいです)

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/08(火) 04:06:12 ID:ZRgqCN4y
鎌倉末期あたりの北条氏って異常に肥大化してるよね。大族にもほどがある。

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/08(火) 04:10:29 ID:1A68QoIV
ググったら加賀藩名越家の出らしいから名越尾張氏か
孫の代じゃ前田家と主従逆転してるのか?

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/08(火) 04:30:49 ID:1A68QoIV
>>105
自己補足 前田家の書物に名古屋隼人ってのが三千石で仕えてる

北条は東国領地だけでどんだけいるんだ?

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/08(火) 05:56:18 ID:w7CpY8Vz
北条氏がどんだけ分裂したかなんて専用スレか系図がないと無理だぜ
胡散臭い家系じゃなくて正当な家系だけでも多すぎて
むしろ系図があったほうが判り辛いやも知れん

尾張守護斯波氏と関係が深いのと加賀藩主因幡守敦順と
将軍足利義輝と信長の謁見を執り行ったと名古屋家は
正当な資料と出典があるだけまだいい

北条一族のカオスさを語りたければ鎌倉から語らんと無理

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/08(火) 09:33:49 ID:+wXNX27I
>>104
それが南北朝期に消滅して、諸流が細々と残るだけになるのだから、怖い。
しかも、滅ぼした新田氏もそうなっちゃうし。


111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/08(火) 13:55:49 ID:F6jEnbB6
後北条氏と名古屋氏はどっちが北条氏の系譜としては嫡流に近いんだろうか。

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/08(火) 14:10:27 ID:ZRgqCN4y
>>111
後北条氏は伊勢氏だから、執権北条氏とはぜんぜん関係ない。
繋がりがあるとすればどちらも伊勢平氏、ってくらい。

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/08(火) 14:53:33 ID:eIafOAOZ
事の発端であろう畠山義継の不始末がすっぽり抜け落ちてるところが素敵だぜ伯母上
大内・畠山が嫁の実家を攻めたのが原因ですよねー

114 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/09/08(火) 20:12:45 ID:n/HSDy6P
そういえば七本槍の中にも北条の末裔がいた気がするけど


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細川家をたらし込んだ美僧・宗圓

2009年09月06日 00:26

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/04(金) 23:00:40 ID:VFipWdfn
細川家をたらし込んだ美僧・宗圓

ある日の細川家一族会議でのこと
細川幽斎「と言った次第で蒲生家より浪人になった者がおるんだがどうするものか?」
玉甫紹「この者、武芸に秀で母は細川一門の出にある となれば我らの縁者である」
細川忠興「当家と蒲生家とのパイプ役となるべく、僧として当家で囲うのが良かろう」
宗圓は幼少の頃に忠興らと面識があり蒲生家に仕えるまでは細川家と親しかった。

宗圓の美しさは世間に知れており、「宗圓たんハァハァ… まるで美女のようなお姿…」
忠興の命を破り度々仏寺に出入りする下臣らを忠興は叱咤し時には切った。

禁じを破ったのが、他でもない忠興の父・細川幽斎に叔父・玉甫紹らであったからだ。
侍女や下臣ならまだしも親父達が文化人だからと称して宗圓を細川家に度々招くので
老若男女が一目見ようと訪れ細川家の風紀は乱れまくり忠興の悩みの種であった。

忠興「宗圓かつては公卿とも付合い上臈女房とも浮名が絶えず…最悪下手をすれば玉子とて…!」
若き頃から馴染みの宗圓を自ら処罰するべく風紀委員会・会長忠興ついに行動に出る!

忠興「(#゚Д゚)宗圓ちょっと出てこいやコラ!風紀委員会の者だコラ!」
   「(#゚Д゚)てめぇ人の姿に化けた九尾の狐だろ!ケツに九つの尻尾生えてるだろ
   正体あらわせ!」
宗圓「言いがかりにも程がござります…( ゚д゚ )あいにくそれがし女子に化けた者にあらず…」
忠興「(#゚Д゚)仏門に仕える癖に日頃から艶事絶えず、疑いが晴れるまで大徳寺にて謹慎処分とする!」

宗圓「ボソッ…(それがし元々大徳寺にて仏門に仕える者に御座います…それでは意味がまったく…
   それ以前に忠興殿なんでそんな回りくどい言い方を…?!)」

忠興「ボソボソ…(それは俺が一番判ってるよ!むしろお前の方が見世物扱いに
さぞ迷惑してるだろ… 
   それにお前の妹は豊臣秀長の養女 つまり大・和・大・納・言の愛娘なの!
   お前に下手な事したら細川家が豊臣家に睨まれてやばいの!察してくれよ!)」
宗圓「ははぁ!それがし、これより九尾の疑い晴らすため暫く謹慎(休養)させて頂く!(ウヒョー♪)」

この後に宗圓は豊臣秀長の養女・於岩の嫁ぎ先森家に行き森家の内外政を取り仕切る
今度ばかりは宗圓が森家の家柄にやられ森家の家臣に恥じぬヒャッハーな死に様であった。

宗圓死後、大徳寺で葬儀の際細川家から送られた法語「ある時は、太平の曲を唱い、花に座し、
月に酔い、ある時は三尺の剣を引っさげて去往自在、ことの逆と順を商量すべくもない青年」
この葬儀は他でもない忠興が和尚である叔父と共に取り行ってくれたのだ。

細川の美僧・宗圓「名古屋山三郎ノ墓 本名:織田九右衛門」として細川の地で今も眠る。





32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/04(金) 23:36:42 ID:PJsaOrvm
森家は問題のある人たちの隔離所か何かか

33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/04(金) 23:38:56 ID:QUUPx7t8
しかしまぁどんだけイケメンだったのやら

34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/04(金) 23:46:09 ID:ASuz0ptw

>>31
それの一番良い話 極楽の世でくらい静かに眠れるよう
名古屋山三の死後、一般参拝者は墓に滅多に入れず
歴代和尚が400年間もの間安らかに眠らせてやった事

幕末どころか昭和の文化人まで墓があるのは凄いわ

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/05(土) 02:25:44 ID:VTiMjCx1
>>32
蒲生再生工場ならぬ森隔離施設かw

どこの武将にもありがちな話だが嫁於岩が輿入れする時
忠政は結納前に一目見たいと籠を覗きに行ったらしいぞ

ここまでは他の武将の輿入れ話とは何も変わらんが忠政の場合は
はるか格上の豊臣氏からの嫁…最悪縁談を蹴られたら流石にマズい…
と思った主君思いの家臣が死に物狂いで止めに入ったら
忠政はそんな優しい家臣達をぶっ倒して見に行ったと地元じゃ言われてるぜ

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/05(土) 02:38:11 ID:PPPyb2Js
忠政もその時バツイチだったはずなんだが落ち着きが無いなw

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/05(土) 03:03:53 ID:xAk4GIrD
>>33
細川贔屓だから俺は細川家で歌われた歌等でしか知らないけど氏郷時代に
有名になったらしいから蒲生家に詳しい人たちのがその容貌詳しいんじゃなかろうか
(資料が残ってたらの話だが)
>>34
歌舞伎生誕四百周年とかで初めて参拝出来たけどそういう経緯があったのか。

名古屋と同じ敷地に出雲の阿国の墓があるんだが俺にはそれがどうにも納得出来ん
ケチを付ける訳じゃないが、仮にいくら芸能人として細川家から支援を受けてたとしても
「織田一族の歴々の墓」と細川家にとってかなり重要な場所なのに出雲の阿国が
同じ敷地内で供養されてるは当時の風習からしたらあまりに不自然過ぎる。

しかも供養されてる人たちは生前に細川家と約束した織田氏の家族のものたち
でもちゃんと当時の資料から出雲の阿国の法名が残ってるから余計に判らん。
歌舞伎を知らんから判らんのだけど出雲の阿国も織田の血統だったりするんだろうか

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/05(土) 03:22:23 ID:VTiMjCx1
>>37
だがちょっと待ってほしい。

於岩は>>31にも出てる美男山三の実の妹 山三を小柄にして
更に女らしくさせて豊臣家で気品と教養を学んだ娘だ
バツイチ忠政と言え落ち着けと言うのが無理だったのかも知れぬw


戦国三大美少年筆頭 名古屋山三郎の美勇伝

2009年09月01日 00:10

876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/31(月) 03:58:47 ID:4AYOzsaY
戦国三大美少年筆頭 名古屋山三郎の美勇伝 (織田九右衛門)

信包時代-女の子と間違えられ男衆の元にしばらく帰れなかったとの逸話が残る。

「氏郷記」-蒲生氏郷小姓時代に陸奥名生城攻・島津氏討伐・小田原北条攻め・九戸政実の乱で
数々の一番槍一番首を上げ15歳にて「槍師 槍師は多けれど 名古屋山三は 一の槍」
と全国に響き渡る流行り詩にまでなった。それぞれ二千石-五千石を賜った。
蒲生氏郷が没後、京の四条付近で浪人生活を送る とある。

「森家家臣各務氏覚書」-「名古屋山三郎殿、御かたち美男にて之れ有り。
御身上の妨げのも成り成り。 主もうるさく思し召し御法体になされ宗圓と申し候。」
名古屋山三郎のその容姿は美し過ぎて身の上の妨げになるから主も困ってしまい
出家させて宗圓と名乗らせた。
名古屋山三郎は氏郷死後も蒲生家に仕えたかったがあまりにも美男過ぎて
それが仇となったと伝わる。(主が出家させざるを得ない何かを起こしたとも)

大阪の民衆の間で三歳違いの又従姉(はとこ)淀の方と密通したとの浮き名が流れ
淀の方の二人目の子は名古屋山三郎の子だという説が根強く残る。

一流の者には称賛するが二流者には厳しかったと言われる細川幽斎が
詠んだ詩「かしこくも 身をかへてける薄衣 にしきにまさる 墨染めのそで」
剃髪して「宗圓」と名乗る坊主になった名古屋山三郎だが
山三郎が見に付けていると地味で安っぽい薄衣も錦にすら勝る墨染め物にすら見紛うと称賛した。

細川忠興の叔父:玉甫紹「玉甫録」-名古屋山三郎は武勇に優れた美男子なだけではなく
遊芸にも通じ、山三郎の周りでは艶事が常に絶えず- 
(この頃京の四条いた出雲阿国と浮き名が流れたとされる)

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/31(月) 04:08:44 ID:4AYOzsaY
~ つづき ~

出家先の大徳寺でもその美貌が妨げになって只ならぬ事が起きたらしく
実妹・於岩の方が嫁いだ森家へ還俗する事となった その際「宗圓」から
「織田九右衛門」と名乗った。

主君森忠政からの扱いは新参者とは思えぬ厚遇で井戸宇右衛門との対立が絶えなかった。

当時の記録を残した資料「懐橘談」「雍州府志」「貞丈雑記」などは出雲阿国が、
かつて自分の愛人だった、山三が笛を鳴らし阿国が舞って夫婦共演した、
「名古屋山三」の霊の前で阿国が一時を楽しみ別れを悲しんだ、一座の演出者であったとあるが
阿国一座の演目中の「名古屋山三」として演じられた登場人物なのでこれは省く。
(阿国歌舞伎と同じく遊女歌舞伎・若衆歌舞伎・江戸歌舞伎・現代歌舞伎・浄瑠璃も省く)

慶長八年-没後、細川家菩提寺大徳寺・高桐院にて「梅林院殿久嶽宗遠居士」という
法名で丁重に葬られた。
織田家・蒲生家・細川家・森家それぞれの主君に寵愛をうけ何より民衆から愛された人物であった。
(織田信包-蒲生氏郷-細川幽斎-森忠政) 
天下一傾き者-天下一美少年-槍の山三として親しまれる。

産まれついて美貌で寵愛されるもその美しさが身の上の妨げになった事があまりにも多く
自身の容姿に異常に劣等感を抱いてたからこそ武勇や芸に身を窶したと言う説が残る。

度々、資料に出てくる只ならぬ事とは淀の方との密通とも言われているが、
氏郷時代に入城する際秀吉側室には山三郎の親族が多かった為、挨拶を交わした程度の話が
噂に尾びれをつけて広まったと言われる。
信包のもとに茶々姫が預けられている時、幼少の山三も信包のもとにおり
元服を迎えてなかったので元々面識があって再会を親しんだだけの話とも

美少年の代名詞となり 歌舞伎の祖-初代「女形」として現在に至る

この人関してはこのスレの住人のが詳しいと思うので省略




878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/31(月) 06:53:03 ID:MAAkvAR+
>>875
浅香庄次郎すげぇ
ただ美形だっただけの人で特になんもしてない人だと思ってた