875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/31(月) 02:29:39 ID:4AYOzsaY
戦国三大美少年の一人浅香庄次郎 (水野少次郎-大塚左兵衛-松浦左兵衛-浅香庄次郎)
織田信雄の小性・水野少次郎として勤めたが後に一躍名を馳せることとなる
「武家事記」-関白秀次が招いたが織田信雄はこれを断った。
織田信雄の流罪に伴い、木村伊勢守の小性となりこの頃、天下に名高く響く
名古屋山三郎・不破万作と並び国色無双と称される程にまでなる。
木村家が葛西一揆の責任を受けた際に蒲生氏郷のもとで松浦左兵衛と名乗り
この時、名古屋山三郎と出会ったのがのちに伝説を作り上げたと言われている
九戸政実の乱で九番手左の一番の将として出陣し一番槍の名古屋山三郎と共に武功を上げ
一万石を持って須賀川城を与えられるが後に蒲生家が宇都宮に転封されると
石田三成の家臣として仕えた。
「常山紀談」-慶長5年-三成の気を触れてしまったのか勘気をうけていたが威風堂々たる格好で
出陣し敵の首を持って「勘気を許され候へ」と三成へ進言すると「能こそ軍しけれ」勘気を解かれ
軍部へ復帰するが同年、石田三成が関ヶ原で敗れると庄次郎は何とか生き延び
前田利常に招かれ、この時初めて浅香庄次郎と名乗り前田利常に二千石で仕えた。
悲運な人なのか武功をたてるも主君が何らかしらの形で全て果ててしまい
心身共に疲れ果てていたが
この時前田家に仕えた二代目・名古屋山三郎隼人と出会い「何と縁の深き事かな」と
死しても尚、愛されるかつての友の子を見て涙を流した。と言う美談が残る。
戦国三大美少年のうち一人生き残ったが故にかつての美貌も老いてしまい辛い余生を
すごしたと言われる浅香庄次郎の心をほんの少し温めたお話。
戦国三大美少年の一人浅香庄次郎 (水野少次郎-大塚左兵衛-松浦左兵衛-浅香庄次郎)
織田信雄の小性・水野少次郎として勤めたが後に一躍名を馳せることとなる
「武家事記」-関白秀次が招いたが織田信雄はこれを断った。
織田信雄の流罪に伴い、木村伊勢守の小性となりこの頃、天下に名高く響く
名古屋山三郎・不破万作と並び国色無双と称される程にまでなる。
木村家が葛西一揆の責任を受けた際に蒲生氏郷のもとで松浦左兵衛と名乗り
この時、名古屋山三郎と出会ったのがのちに伝説を作り上げたと言われている
九戸政実の乱で九番手左の一番の将として出陣し一番槍の名古屋山三郎と共に武功を上げ
一万石を持って須賀川城を与えられるが後に蒲生家が宇都宮に転封されると
石田三成の家臣として仕えた。
「常山紀談」-慶長5年-三成の気を触れてしまったのか勘気をうけていたが威風堂々たる格好で
出陣し敵の首を持って「勘気を許され候へ」と三成へ進言すると「能こそ軍しけれ」勘気を解かれ
軍部へ復帰するが同年、石田三成が関ヶ原で敗れると庄次郎は何とか生き延び
前田利常に招かれ、この時初めて浅香庄次郎と名乗り前田利常に二千石で仕えた。
悲運な人なのか武功をたてるも主君が何らかしらの形で全て果ててしまい
心身共に疲れ果てていたが
この時前田家に仕えた二代目・名古屋山三郎隼人と出会い「何と縁の深き事かな」と
死しても尚、愛されるかつての友の子を見て涙を流した。と言う美談が残る。
戦国三大美少年のうち一人生き残ったが故にかつての美貌も老いてしまい辛い余生を
すごしたと言われる浅香庄次郎の心をほんの少し温めたお話。
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