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391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/08(日) 23:38:00.53 ID:2KcbEuWw
さてさて、当流の他力信心の趣をよく聴聞して決定した人は、これがあるならば
その信心の通りをもって心底に収め置き、他宗他人に対して沙汰してはならない。
また路次大道や我々の在所などでも、あらわに人をも憚らずにこれを賛嘆しては
ならない。
次に守護地頭方に向かっても「自分は信心を得た」と言って疎略な事なく、ます
ます公事を全うすべし。また諸神諸菩薩をもおろそかにしてはならない。これは
(諸神諸菩薩が)みな南無阿弥陀仏の6字の内にこもっているが故である。
殊に、外には王法をもって表とし、内心には他力の信心を深く蓄え、世間の仁義
をもって本とせよ。これがすなわち当流に定めるところの掟の趣である。心得る
べきものである。あなかしこあなかしこ。
文明6年2月17日 これを書く。
――『蓮如上人御文章』
さてさて、当流の他力信心の趣をよく聴聞して決定した人は、これがあるならば
その信心の通りをもって心底に収め置き、他宗他人に対して沙汰してはならない。
また路次大道や我々の在所などでも、あらわに人をも憚らずにこれを賛嘆しては
ならない。
次に守護地頭方に向かっても「自分は信心を得た」と言って疎略な事なく、ます
ます公事を全うすべし。また諸神諸菩薩をもおろそかにしてはならない。これは
(諸神諸菩薩が)みな南無阿弥陀仏の6字の内にこもっているが故である。
殊に、外には王法をもって表とし、内心には他力の信心を深く蓄え、世間の仁義
をもって本とせよ。これがすなわち当流に定めるところの掟の趣である。心得る
べきものである。あなかしこあなかしこ。
文明6年2月17日 これを書く。
――『蓮如上人御文章』
873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/26(水) 00:30:33.54 ID:P1EoTL2m
淀川沿いの溝杭の目垣という地に佛照寺という立派な寺があった。本願寺蓮如が淀川を渡って
河内の光善寺に向かう途中、その佛照寺の近くを通るとそこの住職の教光の評判を耳にした。
佛照寺は蓮如の派閥とは異なる佛光寺派の大きな寺として当時有名であったが、佛照寺の
教光住職は和歌に好むあまり、肝心の念仏がおろそかになっていた。
ある日、蓮如は目垣の近くまでやってきて自作の三首の和歌を書いた紙をわざと落とした。
その紙を拾ったのは佛照寺の教光住職である。紙には以下の和歌が書かれていた。
ひとたびも 佛をたのむ心こそ まことの法(のり)に かなう道なれ
罪深く 如来をたのむ身になれば法(のり)の力に 西へこそ行く
法(のり)を聞く 道に心の定まれば 南無阿弥陀仏と唱えこそすれ
和歌に詳しいはずの教光住職であったが、この三首の和歌の意味が全然理解できなかった。
そこで教光住職は落とし主の本願寺蓮如に歌の意味を聞きに行った。蓮如はわざわざ聞きに
来てくれたことを喜び、丁寧に歌の意味を説明し、ついでに親鸞聖人の教えも説いた。
これがきっかけとなり、教光住職は本願寺蓮如の弟子となった。そして、佛照寺はこれ以後、
佛光寺派を離れて本願寺派へ鞍替えしてたのであった。
淀川沿いの溝杭の目垣という地に佛照寺という立派な寺があった。本願寺蓮如が淀川を渡って
河内の光善寺に向かう途中、その佛照寺の近くを通るとそこの住職の教光の評判を耳にした。
佛照寺は蓮如の派閥とは異なる佛光寺派の大きな寺として当時有名であったが、佛照寺の
教光住職は和歌に好むあまり、肝心の念仏がおろそかになっていた。
ある日、蓮如は目垣の近くまでやってきて自作の三首の和歌を書いた紙をわざと落とした。
その紙を拾ったのは佛照寺の教光住職である。紙には以下の和歌が書かれていた。
ひとたびも 佛をたのむ心こそ まことの法(のり)に かなう道なれ
罪深く 如来をたのむ身になれば法(のり)の力に 西へこそ行く
法(のり)を聞く 道に心の定まれば 南無阿弥陀仏と唱えこそすれ
和歌に詳しいはずの教光住職であったが、この三首の和歌の意味が全然理解できなかった。
そこで教光住職は落とし主の本願寺蓮如に歌の意味を聞きに行った。蓮如はわざわざ聞きに
来てくれたことを喜び、丁寧に歌の意味を説明し、ついでに親鸞聖人の教えも説いた。
これがきっかけとなり、教光住職は本願寺蓮如の弟子となった。そして、佛照寺はこれ以後、
佛光寺派を離れて本願寺派へ鞍替えしてたのであった。
411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/11(火) 21:12:46.19 ID:z6dKr0bm
蓮如の北陸への浄土真宗の布教は、講による組織化が成功し瞬く間に広まった。
しかし門徒の勢力が拡大するに連れ、念仏の寄り合いでも平気で酒を飲み魚鳥を食すなど
他宗の物忌を一切無視する門徒たちと、既存宗派との摩擦は大きくなり、これは既存の宗教勢力と
つながりの深い諸語など支配勢力との摩擦も生んだ。
双方の相克が強まる中、北陸の本願寺派の中心、越前吉崎御坊の多屋衆は、文明5年(1473)ついに
守護などへの明確な対決姿勢を決議した。
以下、その有名な決議文である。
『右、我々がここ両三年のあいだ、この当山(吉崎)において今まで忍耐してきたのは、
名誉や利益を目的としたものではなく、栄耀栄華を事ともせず、ただ願うことは極楽往生の為ばかりであった。
その様な中、当国(越前)、加賀、越中の内の土民、百姓以下等において、その人々の一生は、徒に罪業を作って
一善を修養する機会もなく、空しく三途(亡者の行く地獄道、畜生道、餓鬼道)に堕ちており、これは非常に
不幸なことであった。
幸いにも弥陀如来の本願は、誠にもって現在、今の状況に相応しい要法である上
その布教は、偏に念仏往生の安心を勧める以外の目的はないのに、最近の牢人衆による遠征の事について、
様々な(一向宗yがこれに関わっているという)雑説を申され、言語道断、迷惑の次第であり、不運の至、
悲しみもなお余りあるほどである。
このような状況により、心静かに念仏修行をしようとするその在所においてすら、もし要害を構築しなければ
一切の諸魔、鬼神(敵対勢力)に(吉崎御坊を滅ぼす)機会を与えてしまうので、我々は深く要害を
構築したのである。且つこれは盗賊への用心のためでもある。
その他の理由は全くないのだ!
だが、万一、そういう事であっても、現在の状況で我々に無理な要求をしてくるというのなら、
我々同篇(同士)の間では、念仏を唱えて順次往生を遂げて死去することも、また道理に外れた苦難に逢って死去するのも、
共に以前世の業の結果であると理解している。
そうである以上、仏法のために命を惜しんではならない!
合戦すべきだということを、先日諸人一同で評定し、衆議により議決したのだ!
文明五年十月(欠)日 多屋衆』
しかし蓮如はこの多屋衆の決議を批判し、翌文明六年五月十三日の御文でこのように諭した
『そもそも国においては守護方、所にあれば地頭方に対して、いかに我々が仏法を崇め信心を得た者であると言っても、
(彼ら支配層を)粗略にするようなことは、ゆめゆめあってはならないのだ。
むしろ、いよいよ租税や賦役にも熱心に従うべきなのだ。
その様に心得ている人をさして、信心発得して後生を願う念仏行者の手本というべきである。
これらはすなわち、仏法、王法を旨として守れる人と名付けるものである。』
このような中、更に翌年、文明7年(1475)8月21日、吉崎御坊は戦乱に巻き込まれて消失する。
永正3年(1506)には加賀一向一揆の軍勢を破った朝倉氏により、吉崎御坊は完全に破却され、廃坊となった。
戦乱に積極的に参加した、これがその結果であった。
北陸一向一揆をその中心として主導した吉崎御坊の「多屋衆決議文」と、その後についての事である。
412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/11(火) 22:50:00.15 ID:P3KyvVlI
止め刺された相手が宗滴のじいさんじゃ運が悪いとしかいいようがない
413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 11:02:15.10 ID:cwtpUCSt
そりゃあ長年苦しめられた加賀一向一揆の本拠地なんだから
朝倉の方も出し惜しみはしないだろ。
414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 18:52:12.28 ID:f6RK1jDg
蓮如のためにやり過ぎてしまった結果、蓮如に破門された坊官がおったような
423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/14(金) 15:57:02.06 ID:9nk2jk00
>>414
下間蓮崇さんだな
蓮如の北陸への浄土真宗の布教は、講による組織化が成功し瞬く間に広まった。
しかし門徒の勢力が拡大するに連れ、念仏の寄り合いでも平気で酒を飲み魚鳥を食すなど
他宗の物忌を一切無視する門徒たちと、既存宗派との摩擦は大きくなり、これは既存の宗教勢力と
つながりの深い諸語など支配勢力との摩擦も生んだ。
双方の相克が強まる中、北陸の本願寺派の中心、越前吉崎御坊の多屋衆は、文明5年(1473)ついに
守護などへの明確な対決姿勢を決議した。
以下、その有名な決議文である。
『右、我々がここ両三年のあいだ、この当山(吉崎)において今まで忍耐してきたのは、
名誉や利益を目的としたものではなく、栄耀栄華を事ともせず、ただ願うことは極楽往生の為ばかりであった。
その様な中、当国(越前)、加賀、越中の内の土民、百姓以下等において、その人々の一生は、徒に罪業を作って
一善を修養する機会もなく、空しく三途(亡者の行く地獄道、畜生道、餓鬼道)に堕ちており、これは非常に
不幸なことであった。
幸いにも弥陀如来の本願は、誠にもって現在、今の状況に相応しい要法である上
その布教は、偏に念仏往生の安心を勧める以外の目的はないのに、最近の牢人衆による遠征の事について、
様々な(一向宗yがこれに関わっているという)雑説を申され、言語道断、迷惑の次第であり、不運の至、
悲しみもなお余りあるほどである。
このような状況により、心静かに念仏修行をしようとするその在所においてすら、もし要害を構築しなければ
一切の諸魔、鬼神(敵対勢力)に(吉崎御坊を滅ぼす)機会を与えてしまうので、我々は深く要害を
構築したのである。且つこれは盗賊への用心のためでもある。
その他の理由は全くないのだ!
だが、万一、そういう事であっても、現在の状況で我々に無理な要求をしてくるというのなら、
我々同篇(同士)の間では、念仏を唱えて順次往生を遂げて死去することも、また道理に外れた苦難に逢って死去するのも、
共に以前世の業の結果であると理解している。
そうである以上、仏法のために命を惜しんではならない!
合戦すべきだということを、先日諸人一同で評定し、衆議により議決したのだ!
文明五年十月(欠)日 多屋衆』
しかし蓮如はこの多屋衆の決議を批判し、翌文明六年五月十三日の御文でこのように諭した
『そもそも国においては守護方、所にあれば地頭方に対して、いかに我々が仏法を崇め信心を得た者であると言っても、
(彼ら支配層を)粗略にするようなことは、ゆめゆめあってはならないのだ。
むしろ、いよいよ租税や賦役にも熱心に従うべきなのだ。
その様に心得ている人をさして、信心発得して後生を願う念仏行者の手本というべきである。
これらはすなわち、仏法、王法を旨として守れる人と名付けるものである。』
このような中、更に翌年、文明7年(1475)8月21日、吉崎御坊は戦乱に巻き込まれて消失する。
永正3年(1506)には加賀一向一揆の軍勢を破った朝倉氏により、吉崎御坊は完全に破却され、廃坊となった。
戦乱に積極的に参加した、これがその結果であった。
北陸一向一揆をその中心として主導した吉崎御坊の「多屋衆決議文」と、その後についての事である。
412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/11(火) 22:50:00.15 ID:P3KyvVlI
止め刺された相手が宗滴のじいさんじゃ運が悪いとしかいいようがない
413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 11:02:15.10 ID:cwtpUCSt
そりゃあ長年苦しめられた加賀一向一揆の本拠地なんだから
朝倉の方も出し惜しみはしないだろ。
414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/12(水) 18:52:12.28 ID:f6RK1jDg
蓮如のためにやり過ぎてしまった結果、蓮如に破門された坊官がおったような
423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/14(金) 15:57:02.06 ID:9nk2jk00
>>414
下間蓮崇さんだな
913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/01(火) 18:19:45 ID:Rb3Rt2Kn
蓮如と、籠の鶯
本願寺八世、蓮如上人が八十五歳の時、大阪で病を得た上人は、その本拠地山科で、
病床に臥せっていた。
ある時上人は、病床近くにいた弟子の法敬、空善、了陳らと法話をしていたが、
その時、病室にあった籠に入った鶯を見て、このように言った
「あの鶯は空善が先日私にくれたものだが、『法聞け、法聞け』と鳴くのだよ。
宗祖親鸞聖人の御門徒でありながら法を聞かぬものは、人間でありながらこの鳥にも
劣ると言うものだな。
わたしはこの鳥の『法聞け』という声で心を慰めていたのだが、、もう籠に入れておくのは
可愛そうなので、竹林に放してやってくれないか?」
そこで空善が藪の中に放してくると、蓮如は、
「籠の中でさぞや窮屈であっただろうと思うが、『法聞け法聞け』と鳴く有難さに、心ならずも
今日まで閉じ込めてしまったよ。今、藪の中に放たれて、さぞ喜んでいるだろう。
それにつけても思うのは、人間と言うものも、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の
六種の迷界における、胎、卵、湿、化の、四種の生の現世を出て、西方浄土の
広大な竹林に放たれれば、どれほど喜ばしい事であろう。」
そのように、しみじみと語ったそうである。
浄土真宗を大教団へと育て上げた、真宗中興の祖、蓮如上人の晩年の心境である。
蓮如と、籠の鶯
本願寺八世、蓮如上人が八十五歳の時、大阪で病を得た上人は、その本拠地山科で、
病床に臥せっていた。
ある時上人は、病床近くにいた弟子の法敬、空善、了陳らと法話をしていたが、
その時、病室にあった籠に入った鶯を見て、このように言った
「あの鶯は空善が先日私にくれたものだが、『法聞け、法聞け』と鳴くのだよ。
宗祖親鸞聖人の御門徒でありながら法を聞かぬものは、人間でありながらこの鳥にも
劣ると言うものだな。
わたしはこの鳥の『法聞け』という声で心を慰めていたのだが、、もう籠に入れておくのは
可愛そうなので、竹林に放してやってくれないか?」
そこで空善が藪の中に放してくると、蓮如は、
「籠の中でさぞや窮屈であっただろうと思うが、『法聞け法聞け』と鳴く有難さに、心ならずも
今日まで閉じ込めてしまったよ。今、藪の中に放たれて、さぞ喜んでいるだろう。
それにつけても思うのは、人間と言うものも、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の
六種の迷界における、胎、卵、湿、化の、四種の生の現世を出て、西方浄土の
広大な竹林に放たれれば、どれほど喜ばしい事であろう。」
そのように、しみじみと語ったそうである。
浄土真宗を大教団へと育て上げた、真宗中興の祖、蓮如上人の晩年の心境である。
64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/20(金) 07:42:23 ID:40krjqho
堅田源兵衛の首
応仁の乱の頃、蓮如上人法難に遭う。
急速に信徒を増やす真宗に対し、
天台宗、比叡山延暦寺は僧兵三千人で本願寺を焼き打ちした。
蓮如は親鸞の木像を背負い、京都から大津へと逃げたが、
やがて追い詰められてしまった。
大津には延暦寺と同じ天台宗の三井寺がある。
しかし教義解釈の違いから比叡山とはあまり仲がよくなかった。
蓮如が避難場所に選んだのはその三井寺であった。
比叡山と仲が悪いとは言え天台宗である。
蓮如はあえてその敵の懐に飛び込むことにしたのだ。
三井寺は蓮如を保護した。比叡山の鼻を明かすことにしたのだ。
蓮如は三年留まり、やがて福井へ赴いた。
親鸞の木像は三井寺が預かり置くこととなった。
65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/20(金) 07:43:12 ID:40krjqho
やがて蓮如は京都に戻り山科本願寺を建立した。
後は件の木像を迎えるばかりとなった。
しかし勢力を拡大した蓮如に対し、三井寺は木像を返そうとはしなかった。
そればかりか無理難題をふっかけてきた。
「どうしても人の首が二つ要る。本願寺が首を二つ差しだせば、喜んで木像はお返しする」
しかし信仰心篤い信者達でも、己が首を進んで差し出そうとする者はいなかった。
66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/20(金) 07:44:37 ID:40krjqho
近江国の堅田に大変熱心な門徒衆がいた。
源右衛門と源兵衛という漁師の親子である。
首の話を聞くと、
「私達は魚の殺生を生業とする漁師です。その私達がお役に立てるなら」
自らの首を差し出す決心をしたのである。
源右衛門は息子の首を切ると三井寺へと向かった。
源右衛門「これは私の息子の首です」
三井寺「もう一つ首が足らない」
源右衛門「もうひとつは私の首です。どうか打ち落として受け取って下さい。
そして木像を返してください」
三井寺は親子の篤い信仰心に胸を打たれた。
そのため源右衛門が首を落とすことなく、無事親鸞の木像は返された。
源平衛の首も手厚く葬られたという。
その後父源右衛門は、諸国巡礼の旅の末、備後国で没したと伝えられている。
67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/20(金) 08:12:14 ID:V0GYMip0
現代人の感覚ではとても良い話とは思えんな
72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/20(金) 10:51:31 ID:PfMJ6j7d
>>64-66
悲しい話だね(´・ω・`)
堅田源兵衛の首
応仁の乱の頃、蓮如上人法難に遭う。
急速に信徒を増やす真宗に対し、
天台宗、比叡山延暦寺は僧兵三千人で本願寺を焼き打ちした。
蓮如は親鸞の木像を背負い、京都から大津へと逃げたが、
やがて追い詰められてしまった。
大津には延暦寺と同じ天台宗の三井寺がある。
しかし教義解釈の違いから比叡山とはあまり仲がよくなかった。
蓮如が避難場所に選んだのはその三井寺であった。
比叡山と仲が悪いとは言え天台宗である。
蓮如はあえてその敵の懐に飛び込むことにしたのだ。
三井寺は蓮如を保護した。比叡山の鼻を明かすことにしたのだ。
蓮如は三年留まり、やがて福井へ赴いた。
親鸞の木像は三井寺が預かり置くこととなった。
65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/20(金) 07:43:12 ID:40krjqho
やがて蓮如は京都に戻り山科本願寺を建立した。
後は件の木像を迎えるばかりとなった。
しかし勢力を拡大した蓮如に対し、三井寺は木像を返そうとはしなかった。
そればかりか無理難題をふっかけてきた。
「どうしても人の首が二つ要る。本願寺が首を二つ差しだせば、喜んで木像はお返しする」
しかし信仰心篤い信者達でも、己が首を進んで差し出そうとする者はいなかった。
66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/20(金) 07:44:37 ID:40krjqho
近江国の堅田に大変熱心な門徒衆がいた。
源右衛門と源兵衛という漁師の親子である。
首の話を聞くと、
「私達は魚の殺生を生業とする漁師です。その私達がお役に立てるなら」
自らの首を差し出す決心をしたのである。
源右衛門は息子の首を切ると三井寺へと向かった。
源右衛門「これは私の息子の首です」
三井寺「もう一つ首が足らない」
源右衛門「もうひとつは私の首です。どうか打ち落として受け取って下さい。
そして木像を返してください」
三井寺は親子の篤い信仰心に胸を打たれた。
そのため源右衛門が首を落とすことなく、無事親鸞の木像は返された。
源平衛の首も手厚く葬られたという。
その後父源右衛門は、諸国巡礼の旅の末、備後国で没したと伝えられている。
67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/20(金) 08:12:14 ID:V0GYMip0
現代人の感覚ではとても良い話とは思えんな
72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/20(金) 10:51:31 ID:PfMJ6j7d
>>64-66
悲しい話だね(´・ω・`)
930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/08(木) 14:57:50 ID:v8AWFiJj
何やら子種の件で太閤殿下がムッとされている様なので
戦国一の絶倫法主様こと本願寺第八代門跡・蓮如のお話を
1457年(長禄元年)7月、実父である七代法主・存如の逝去を受け
浄土真宗の法主となった蓮如、実は凄まじい絶倫で知られる人物でもあった。
二十八歳で最初の結婚して八十五歳で亡くなる迄に五度の結婚をし、儲けた子女は
実に十三男十四女。計にして二十七人もの子宝を得られた。最後の子供が生まれた時、
蓮如実に 八 十 四 歳 。゚+.(゚∀゚#)。+.゚ ←太閤殿下
本願寺蓮如>>いや、親鸞上人も妻持ち子持ちだし、そういう教義だしー?(・ω・,,)~゜
さらに、これらの子供達は皆、その時に蓮如が正妻としていた夫人だけから
生まれて来たというから恐ろしい。そう、彼には側室や愛人が居なかったのだ。
願いましては。
最初の妻・如了が四男三女、次の妻はその如了の妹・蓮祐は三男七女、
三番目の妻・如勝は一女、四人目の妻は一男一女、最後の妻・蓮能は五男ニ女。
姉妹丼が一個あり、三番目の妻・如勝は蓮祐の子供達を養育していた召女だったが
情が移って恋愛結婚。凄まじい艶福家振りである。
というのも、蓮如の母親というのが身分の卑賤ゆえに存如の正妻になれず、
存如が正妻を迎えるに当たり、蓮如が六歳の時に蓮如の肖像画を書かせて
それを形見に寺から去ってしまった為。
蓮如は正妻でない側女の悲哀を良く知っている。だから、みんな正妻にして子供を儲けたのだった。
こんな戦乱の世に恋愛結婚、如勝は倖せだった様だが三十一歳で死去。
蓮如は長文の手紙を信徒に送り、悲嘆の思いを綴っている。
愛深き故に妻を愛し続けた結果、妻を失い続けた生涯。
そんな本願寺蓮如上人の、いい(角度に屈折した愛の)話。
931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/08(木) 16:06:17 ID:8tSD5XNz
はじめ二人の妻は政所執事伊勢氏の一族出身だったから、
蓮如って幕府方面にパイプを持ってたんだよね、たしか
何やら子種の件で太閤殿下がムッとされている様なので
戦国一の絶倫法主様こと本願寺第八代門跡・蓮如のお話を
1457年(長禄元年)7月、実父である七代法主・存如の逝去を受け
浄土真宗の法主となった蓮如、実は凄まじい絶倫で知られる人物でもあった。
二十八歳で最初の結婚して八十五歳で亡くなる迄に五度の結婚をし、儲けた子女は
実に十三男十四女。計にして二十七人もの子宝を得られた。最後の子供が生まれた時、
蓮如実に 八 十 四 歳 。゚+.(゚∀゚#)。+.゚ ←太閤殿下
本願寺蓮如>>いや、親鸞上人も妻持ち子持ちだし、そういう教義だしー?(・ω・,,)~゜
さらに、これらの子供達は皆、その時に蓮如が正妻としていた夫人だけから
生まれて来たというから恐ろしい。そう、彼には側室や愛人が居なかったのだ。
願いましては。
最初の妻・如了が四男三女、次の妻はその如了の妹・蓮祐は三男七女、
三番目の妻・如勝は一女、四人目の妻は一男一女、最後の妻・蓮能は五男ニ女。
姉妹丼が一個あり、三番目の妻・如勝は蓮祐の子供達を養育していた召女だったが
情が移って恋愛結婚。凄まじい艶福家振りである。
というのも、蓮如の母親というのが身分の卑賤ゆえに存如の正妻になれず、
存如が正妻を迎えるに当たり、蓮如が六歳の時に蓮如の肖像画を書かせて
それを形見に寺から去ってしまった為。
蓮如は正妻でない側女の悲哀を良く知っている。だから、みんな正妻にして子供を儲けたのだった。
こんな戦乱の世に恋愛結婚、如勝は倖せだった様だが三十一歳で死去。
蓮如は長文の手紙を信徒に送り、悲嘆の思いを綴っている。
愛深き故に妻を愛し続けた結果、妻を失い続けた生涯。
そんな本願寺蓮如上人の、いい(角度に屈折した愛の)話。
931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/08(木) 16:06:17 ID:8tSD5XNz
はじめ二人の妻は政所執事伊勢氏の一族出身だったから、
蓮如って幕府方面にパイプを持ってたんだよね、たしか
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