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菅六之助と毛屋主水、二人の友情を後世に伝えた悪い話

2009年11月06日 00:35

989 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/05(木) 21:46:29 ID:witJ6kT3
ちなみにいい話スレに出た毛屋主水に名前を譲らせた家臣の息子というのが
菅六之助の息子の菅主水ですな。
あれはああいう逸話になっていますが、黒田家でそれなりの立場だった家臣は
筑前に入ってから皆名前を変えてるし、菅六之助と毛屋主水は友人関係だった
というので、単純に友達の前の名前を息子にもらったのかもしれん。

↓二人の友情を後世に伝えた悪い話

毛屋主水は渡奉公人だった。
黒田家に仕える前はあちこち主君を変えながら日本各地を転々としてきた。
よって、元々は黒田家にも終身雇用してもらう気はさらさらなかったらしい。
朝鮮出兵を控えた慌ただしい時期、毛屋主水に蒲生氏郷から使者が来た。
主水に一万石を預けて家臣にしたいという。
かつて主水が山崎賢家に仕えていた頃、播州三木城で敗走する氏郷を助けた
事があった。
「あなたとわが主君は不仲ですが、救難を見捨てがたくお救いしました」
そう言って颯爽と去った姿に氏郷の人材センサーがびびっときていたらしい。
主水はこの申し出にひかれたが、今は渡海を前にして大変な時である。
こんな時に仕え始めたばかりの雇い主を見限るのは仁義に反すると考えた。
そこで、今はお仕えできないが、無事帰国出来たら御意に従いましょうと返事
をした。

さて、文禄三年、帰国した黒田家では朝鮮で武功のあった士に恩賞があることに
なった。毛屋主水にも三百石の加禄が与えられることになったが、主水は既に
黒田家を出て蒲生家に仕えるつもりであったので、暇をもらう人間が加増を受ける
のは不義であると考え、これを辞退した。
その後暇乞いをしたのだが、長政がこれを許さない。
ついには主水の友人の菅六之助や津田長右衛門などを請人にし、主水が他国に
走った時には友人一同切腹すると誓いをたてさせたのだった。
これでは主水も他家に仕えようがなかった。こうして蒲生行きは頓挫する。

毛屋主水こそ歴戦の勇士と呼ばれるにふさわしい武者である。
彼は関ヶ原でも長政に従い数々の武功をたてた。
しかし、その後加増の沙汰はなかった。
長政の父如水が何故主水に加増しないのかと尋ねたところ、長政はこう答えた。
「だってあいつ前に加増してやった時、嫌がって受けなかったじゃないですか!
すっげー恥かいたんですから!もうあいつには加増しません!」
如水が、昔のことを心底に残すのはよくない、武功があったら加増しなければ…
と諭したため、長政は渋々四百石を加増し七百石としたということである。




990 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/05(木) 21:54:03 ID:2PQFruK+
なんとなく家臣に軽く扱われる理由が分かる
だが>>985の又兵衛は自重しろというにw

991 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/05(木) 22:57:30 ID:nJtUrTfR
作左がしかる
市松がどじる
吉兵衛がたしなめられる

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「糞兵衛」

2009年11月05日 00:13

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/03(火) 23:16:55 ID:NyiFZH2K
関ヶ原のとき、東軍各隊の物見が、「敵は十万余り」と報告する中、
一人「敵はせいぜい2,3万。何故なら戦う気があるのはそれだけだからです!」
と答え、家康から直々に『甲州(長政)の物見は巧者である』と言われた、
黒田長政家臣、毛屋主水武久。その関ヶ原後の話である。

黒田長政は筑紫に入国した後、とある大身の家臣の子を主水と名乗らせようと考えた。

「主水は先に毛屋がいるが、前から、あいつにはあんまり似合わない名前だと思ってたんだよなー。
ちょうどいい、毛屋には名前を変えさせよう。なんか好みの名前があったらそれにさせてもいいし。」

そんな事をスナック感覚で思いつき、毛屋の元にさっそく使いを出した。

「何か変えたい名前あります?」

使者の問いに毛屋、答える

「糞兵衛」

「く、糞!?そ、そんな汚らしい名前、殿に報告する事もできませんよ!?」

「フン、いきなり名前を取られて、この上さらに又、名を取られる様なことになっては適わんからな。
そこで、人が絶対に付けぬ名を考えたのだ。『糞兵衛』に改名、お願いいたす。」

ほうほうの体で帰ってきた使者に、長政、「それはお前の切り出し方が悪かったのだ。
よし、わしが毛屋に名を与えてやろう」と、毛屋を呼んだ。

「毛屋、武蔵坊を知っているか?昔源義経に仕えた、高名な者だ。」

「知っております」

「さて今の世、将軍は武蔵国に御在城されておる。これも知っておるな?」

「知っております」

「それといいこれと言い、武蔵とは実に良い名称である。毛屋、これを名乗ってはどうか?」

毛屋、こう言われてなんだかいい名に思えたのか、素直にそれを頂き、その日より
『毛屋武蔵武久』と、名乗ったそうである。




90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/03(火) 23:22:09 ID:YAWA9rjC
おおw
途中まで長政も蹴られる話だと思ってたw
スマン長政公wwww

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/04(水) 00:57:15 ID:VIYQzcSt
糞兵衛にすればネームバリューは戦国随一になったろうに

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/04(水) 16:09:09 ID:HpuQSZmQ
「武蔵守」って幕府を憚って使わないしきたりに
なってたとか何かで見たけど、江戸初期はあったんだね

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/04(水) 21:15:43 ID:kwTPzrJ7
>>89
では甲斐と改めますと言うのかと思った。

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/04(水) 22:03:29 ID:z3zV7Z9K
>>105
だから「武蔵守」ではなくて、ただの「武蔵」なわけで。

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黒田二十四騎の叩き上げ「毛屋主水」

2009年09月03日 00:12

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/02(水) 21:31:04 ID:UVsKXGS/
>>895
んじゃ、同じ黒田二十四騎の叩き上げで「毛屋主水」(一五五四~一六二八)

本姓を田原氏といい、生まれは近江国神崎郡。諱は武久。
父を失った後、書家・建部賢文に教育される。
仕官先→和田正武→六角承禎→山崎方家→柴田勝家
→前田利家→池田信輝→佐々成政→黒田官兵衛(300石にて)
戦歴
・どっかの戦場で、蒲生氏郷の生命を救う。
・長篠の合戦でも武功があったようだ。
・越後平定戦でも毛屋という場所で武功を挙げ、当時の主君鬼柴田から「毛屋姓」を授かる。
・朝鮮の役では平壌攻めで霧が深く、黒田長政が他の勢がすでに渡河しているのかどうかで
悩んでいる際、「川の水が濁っているので上流ではすでに渡河し始めてるだろjk」と答えたという。
・蔚山救援では、「敵は前日から飯を炊く煙が見えず、従って兵糧は絶えているはずなので
今攻めれば必ず勝つだろjk」と断言し、まさしくその通りだったという。
・関ヶ原の役では、皆が敵の数を多く見積もる中、「石田・小西・島津の他は
誰も動かないだろjk」と見、敵は寡勢であると報告。
 これを聞いた家康は喜び、手にしていた饅頭を褒美に取らせたという。

そんな歴戦の強者に与えられた禄は700石・・・・
いや、一桁違ってないか?
ちなみに彼は蒲生氏郷からの1万石での引き抜き話を蹴っている。
黒田家での評価が二十四騎中最低って、なんかかわいそうだ・・・




911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/03(木) 00:53:49 ID:w5+faZfp
>>899
かっこいい…