光秀利三最期

2018年05月07日 18:52

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/06(日) 22:15:38.38 ID:aEBf9EVt
山崎の合戦の後、明智光秀の残党は正林寺城に籠もった。
羽柴秀吉や織田信孝などの兵は、ここに明智光秀がいると見て、柵を付けてこれを攻めた。

その時、城より蟹江才蔵が向かい出て伝えた
明智光秀はここには罷り在らず!我らの命を助けられるのであらば、城より一人ずつ出て
何者か確認されて良い!」

攻め手は答えた
「ならば斉藤内蔵助(利三)を生け捕り我らに出せば、汝らの一命は助けよう!」

すると城方は内蔵助を生け捕って攻め手へと引き渡した。
この時より蟹江才蔵は三七殿(信孝)に付くことになった。

ここでも明智を発見することが出来なかったため、近辺を残らず捜索したが、ついに見つからなかった。
翌日、村井清蔵と申すものが、大江という在所より、金柑(ハゲ頭)なる首一つを持って
代官所に現れた。この清蔵によると

「この者、昨夜大江に参り『我を坂本へ連れて行け、金銀は思うままに取らせん』と言いました。
しかし百姓共は、『どうせ盗人の謀りである、ただ打ち殺せ!』と、これを撲殺したのです。」

丹羽五郎左(長秀)がこれを見て、すぐに光秀の首と解った。彼はこの首に噛みつき、歯を
きしませて
「汝を生かして、なぶり殺しにしようと思っていたのに!」
そう叫んだ。

その後、光秀の死骸を取り寄せ、首を継いで車に載せ、洛中を曳き廻し三条河原にて
逆さ磔にかけた。
斉藤内蔵助も車に乗せて洛中を曳き廻し、三条河原に生きながら逆さ磔にして3日晒し、
その後火炙りにした。

(祖父物語)



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本能寺の変、当日のドキュメント

2018年04月21日 19:18

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/20(金) 22:39:13.18 ID:z47y627O
明智光秀が本能寺を取り囲んだ時、信長の人数は上下百人程度でしかなく、明智勢は
三千余騎にてこれを即時に踏み破った。

そして信長の死骸を捜索したが見つからず、光秀は動揺し「もしや逃げ延びたのではないか?
如何すべきか!?」と案じている所に、明智の臣下である斉藤内蔵助(利三)という者が申し上げた

「御心やすく思し召して下さい。信長公が兵と手を合わせた後、奥に入っていったのを私が
目撃しました。」

これを聞くと明智も安心し、二条の織田信忠への攻撃へ急いだ。
信長公の死骸には、その上に森乱丸(蘭丸)が、死骸が燃えるよう畳5,6畳を重ねたと
言い伝わる。

本能寺門外の小川の端石の上に、首が十三置かれていた。
森乱丸兄弟三人、狩野又九郎、御馬屋の庄助、高橋虎松、小沢六左衛門、これは御鷹師頭であり、
鷹の御羽を継ぐ名人と呼ばれた人物であった。
その他の首は見知らぬものであった。

二条落去して5日過ぎ、明智は参内をして洛中を乗り廻し、町中の地子(固定資産税)の免除を
発表した。

(祖父物語)

本能寺の変、当日のドキュメント



688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/21(土) 17:47:41.68 ID:Onnh1i4N
村井貞勝や毛利新助は晒されてないのか

そして明智光秀は本能寺を取り巻き

2018年04月20日 15:55

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/19(木) 20:26:31.02 ID:A4D8S2I6
織田信長が甲州征伐から帰陣の後、徳川家康の上洛があり、これに対し、明智光秀
その御馳走が命ぜられた。

光秀は「忝なし」と承り、その接待のために珍物を調え、京堺の傘や木履(木靴)まで
買い占め、夥しく用意した。

ところが、俄に役目替えが命ぜられ、家康の馳走は他の者に仰せ付けられ、明智は
羽柴筑前守(秀吉)が安芸の毛利と対陣し難儀に及んでいるとの注進があったため、
「急ぎ加勢にまかり下るべし。横目に堀久太郎(秀政)を差し備える)と仰せ出された。

この時、明智は思った
「諏訪(の打擲事件より)このかた、御目見得も宜しからず。今度の御馳走の事も中途で
他人に仰せ付けられ外聞も然るべからず。」
そう腹立ちに思いつめ、用意した御馳走も調えものも一緒に、安土城下のどどが橋(百々橋)の
下にみな捨てた。ちなみにこの橋は「昼夜人が通うから」と、織田信長が名付けたものだという。

そして明智光秀は、秀吉への加勢に向かう人数にて本能寺を取り巻き火をかけたのである。

(祖父物語)

明智光秀大河決定記念(?)に



684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/19(木) 21:01:04.74 ID:FJu9jTQg
最後はパワハラで終わる大河なんて嫌だ

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/19(木) 21:55:37.04 ID:MP4IvDR6
大河で明智…どうせ信長がスゲー嫌な奴で光秀が聖人のようなキャラクタになるんだろうな
本能寺の変も義挙ってことになるんだろう

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/20(金) 02:15:42.06 ID:bbtGVHM5
オホホ、麻呂が来た意味分かるであろ? は最近使われなくなったな

弓取りほどの者は、彼の行いを煎じて飲むべき

2018年03月20日 18:19

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/20(火) 17:17:15.85 ID:Hwko5hvB
丹波国は惟任日向守(明智光秀)が、織田信長の御朱印を以って一国を下された。
これはこの時の理にかなった申し付けであった。

光秀は前代未聞の大将であり、坂本城主にて滋賀郡の領主であった。
信長に敵対した多喜郡高城の波多野兄弟(波多野秀治、秀尚)が扱いにより安土に送られた時、
光秀は彼らをその路中で絡め取り、安土まで馬上に縛り付け、筒を差し、そこに手足を結び、
波多野兄弟を磔の姿にした。前代未聞である。その姿で天正7年6月10日、京都を通過した。

光秀は美濃国住人で、土岐氏の随分衆であり、明智十兵衛尉と名乗っていたが、その後
上様(信長)の仰せにより、惟任日向守となった名誉の大将である。
弓取りほどの者は、彼の行いを煎じて飲むべきである。

(立入左京亮入道隆佐記)

なんだか光秀の評価が恐ろしく高い立入宗継の記録である


【ニュース】明智光秀が土橋重治に宛てた書状

2017年09月13日 18:26

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/12(火) 22:50:10.86 ID:BmQuoTzP
良い話か悪い話か迷うけど
幕府再興を掲げた良い話?

明智光秀土橋重治に宛てた書状

毎日
https://mainichi.jp/articles/20170912/k00/00m/040/159000c
産経
http://www.sankei.com/life/news/170912/lif1709120003-n1.html
読売
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20170912-OYT1T50009.html
朝日
http://www.asahi.com/articles/ASK9C45WPK9CONFB00F.html
日経
https://www.nikkei.com/article/DGXLZO21007030R10C17A9CR8000/
伊勢新聞
http://www.isenp.co.jp/2017/09/12/7440/



※管理人注
個人的にはこのニュース、光秀が室町幕府再興のために本能寺を起こした、というよりも、
時期的にも内容的にも、追い詰められた光秀が手当たり次第に味方を募っていた事を表すもの、
じゃないかなと判断しています。

近頃、良将と言い慣わしているのは3人である

2017年04月07日 09:09

795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/07(金) 07:40:50.80 ID:QSR6vaY2
近頃、良将と言い慣わしているのは3人である。

明智日向守(光秀)、柴田修理亮(勝家)、石田治部少輔(三成)である。

この3人は天下分け目の合戦をしたからだろうか。

――『武功雑記』


796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/07(金) 11:41:48.62 ID:JGVRCPsM
光秀は統率力はあるが人望がなく
勝家は人望はあるが統率力がなく
三成はどちらも足りなかった

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/07(金) 12:15:53.54 ID:MegIC7/H
三陪臣の知恵、勇気、大志になぞらえると
光秀:知恵と勇気はあるが大志が欠けている堀直政タイプ
勝家:勇気と大志はあるが知恵が欠けている直江兼続タイプ
三成:知恵と大志はあるが勇気が欠けている小早川隆景タイプ

それぞれ一度は敵対したことのある相手のような

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/07(金) 12:35:17.52 ID:5LsjIhpR
天下三陪臣は直政版は言行録だけど、成立した時代の早い葉隠の直茂版の方が正確そう
堀直政って隆景や兼続とならぶくらいの功績を挙げてるの?

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/07(金) 13:07:31.94 ID:D1fqJLWP
名将言行録につっ込み入れるのは野暮

光秀の連歌、今愛宕になき事

2016年08月30日 17:23

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/30(火) 02:43:42.84 ID:6yQcpp99
光秀の連歌、今愛宕になき事

愛宕山で明智光秀連歌のことは、世にあまねく知るところであるが、
そのときの懐紙、伝わってかの山房にあるという。

予は今年阪昌成に〔連歌師〕にこれを問うと、

「寛政の末に、かの山で火事があったとき、このものも消失ました。」

とのことであった。貴むに足りるものではないが、旧物なので惜しいものだ。

そのときの百韻は今に伝写のものがあるという。

(甲子夜話)

燃えちゃったので、里村紹巴の書き換えも分からないままとなってしまいました



と、たびたび上方へ行った人は語る

2016年05月31日 17:02

774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/30(月) 19:01:03.04 ID:cykArEs2
訳ありといいしもその土俗の仕癖となる事

京都では、盆中に家毎に灯籠を三十日の間灯すという。
これは明智光秀が京都の地子を許したので、かの土のものが嬉しい事と思って、明智滅亡の後、
追善の心得で七月中は灯籠を門へ吊るしたことからという。

大坂では五月の幟を市中では節句の四つ時分までには残らず取りしまうという。
これは大坂では秀頼が落城した城攻めは五月の節句に当たるので、小児などの幟をとりやめ、
また追って追善を思う故や、と昔は言った。

今日はこれらのような訳でなく、盆灯籠は京都では七月中に家々にともし
大坂では五月の幟も五日の昼はしまう事となって、自然とその風土の仕癖になった。


と、たびたび上方へ行った人は語る。
「耳袋」

今でもそうなのでしょうか?



もし私が一城の主となれば

2015年11月07日 06:42

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/06(金) 19:17:34.06 ID:wjP2zWPx
明智光秀が渡り奉公をしていた頃、三河牛久保の牧野右近大夫に使えていた事があった。
知行は百石ばかりであった。

この時、光秀は朋輩の中野某に言った
「侍の行く末は互いに解らぬものだ。もし私が一城の主となれば、被官も必要となるだろう。
貴殿は頼もしい人だから、その時は私の方に呼んで城代としよう。逆に貴殿が立身すれば、
わたしが被官となろう。」
そのように約束した。

光秀が後に、丹波を拝領した時、中野を呼んで亀山の城代とした。

(武功雑記)




955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/07(土) 00:04:32.70 ID:ZGJ4YiRY
>>952
北条の御由緒六家みたいな話だな

人の志

2015年10月25日 14:59

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/25(日) 14:38:20.68 ID:kyv3VqXY
明智光秀の家臣に、林亀之助という者があった。

山崎の合戦で明智軍が敗北した時、逃走する者達のうち、本来主君である光秀の前を通るときは
下馬しなければいけないのに、下馬したのはこの林亀之助とあと一人の、二人だけであったという。
「落ち目になれば人の志も変わるものだ。」この時亀之助はそう語ったという。

亀之助は逃走の中深手を負い、退きかねる状態になったが、それを彼の若党二人が助け、
近江八幡まで退いた。そこには亀之助とかねてより親しい出家がいたのだ。

若党二人はこの出家の元に行き、「亀之助は負傷しました。かねてより近しい間柄につき、
どうか助けて下さい。」そう頼み込んだ。ところがこの法師

「明智は天下の逆臣である!これに与する家人たちを誰が助けるものか!
いざ出会え、この者を討ち取れ!!」

そう罵ると若党たちはこの言葉におそれその場から逃げ去ってしまった。亀之助は
深手のため、逃げることも出来ずその場に留まっていると、この法師が近づき、亀之助の
手を引いて立たせ

「よくぞおいでなされました。私が看病し、必ず助けますので、どうかご安心して下さい。
ただ今罵りましたのは、下人を二人も連れていては、隠せることも人数のために難しくなるからです。
いま若党たちを追い出さなければ、後で災いになると考え、あのように追い散らしました。」

そして亀之助を抱えて眠蔵(寝室)に入れて養生し、それを隠し通した。
「この法師は、奇特なる志であった。」後に亀之助は感じ入った様子でそう語った。

林亀之助は後に福島正則に仕え、その後松平下総守(忠明)に二千石で仕えた。
用に立つ人物だったためである。

(武功雑記)



887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/25(日) 15:22:07.30 ID:+4tTQkQh
まあ非常時には馬から降りていないでとっとと逃げた方がいいと思う

888 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/25(日) 16:43:02.02 ID:jaBqglJz
並走すれば問題なかったのでは?

明智日向守と言う人は

2015年08月21日 16:06

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/20(木) 23:14:53.45 ID:D164uGun
明智日向守(光秀)と言う人は、武功において長じたること、その時代に肩を並べる人はいなかった。
光秀から見れば当時の羽柴秀吉の武儀など浅ましい物で、まるで子供の遊びのように思い、
世間からもそのように見えていた。しかしそのような秀吉に、山崎の合戦で打ち砕かれ骸を晒したのは、
慢心ばかりが理由ではないだろう。

この光秀は、元は明智十兵衛と称して細川幽斎の従者であったが、かの家を出て信長に奉公し、
気に入られ少しばかりの知行を下され、痩せ馬一疋の主となり、次第に取り立てられ、
信長が近江を手に入れた時に十万石を下され、近江坂本の城に召し置かれ、その後五畿内が治まり
中国へとその手を伸ばした時には丹波一国を下された。類い少なき御恩である。

その当時、下々、女、童まで、『仮初のこと、寄草にも、明智の者は物が違うぞ』と言っていたほどの
権威を得ていた。
だからこそ、当然信長という人は無理な要求が多く、それに対して恨むことがあるのなら、
混乱を起こさぬよう自ら身を退く事こそ御恩を知った行動であり、第一取立てられた者の役目でもあるのに、
情けなくも押し詰め、信長父子を共に討った。彼が滅んだのも天罰の故だと人々は語ったものだ。

細川や筒井も、光秀の要求によって早速人数を出し、1里ばかり隔てて備えていたが、どう見ても
光秀は不義の者であり、そういった善からざる者に与することは難しいと考え、合戦と関係ない場所で
守り居た。その他の侍衆は「筒井・細川すらあの有り様である。況や我らは他人で、日頃申し合わせたことも
無い。双方の勝負を見よう。」と、山崎の合戦では見物していたのだ。
もし彼らが明智に味方し、秀吉軍の搦手に回っていたら、どう考えても秀吉は負けていたのに、彼は
不義の罰を蒙り運の尽きた明智と出会い、彼が倒れたところで、土を掴んだのである。

後に人々はこのように言い合った
「羽柴殿、彼のこの運命は人の作り出したものではない。天下の主に成られる前兆は、
この時から早くも芽生えていたのだ。」

(古郷物語)




明智光秀の天下取り計画ノートが

2015年07月20日 13:19

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 19:54:51.42 ID:iECawUGB
明智日向守(光秀)の逆心(本能寺の変)は、数年の間心がけてきたことであるとして、
逆心の2年前、天下を取った後の様々な計画を筆記し光秀の朱印を押した書物が、延宝4年(1676)に
幕府の評定所に提出されたことがあるそうだ。

(明良洪範)

明智光秀の天下取り計画ノートが残っていたらしいというお話。どんな内容だったのか気になる。




79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 20:13:12.22 ID:xyAb/G9H
誰が持ってたんだろ?

竹中重門の書く本能寺の変

2015年06月03日 14:35

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/03(水) 00:01:53.21 ID:rHAXdTQh
昨日は本能寺の変の日だったので、関連の逸話を。


備中高松城を攻めている羽柴秀吉より、安土の織田信長に、備中に軍を出すことの要請が来ると、
信長は自身が軍を率いると伝え、5月に嫡男の信忠とともに都に上り、三条の本能寺に宿泊した。

その頃、明智日向守光秀は丹波国の主で亀山という所に居住していたが、織田信長に恨みがあったのか、
彼を討とうという心を日頃から差し挟んでいたが、よき折と思い立って、6月1日の夜半より兵どもを進め、
大江の坂を越えて、2日の夜明け頃、本能寺の四方を囲み攻め立てたが、本能寺には警護の武士すら無く、
塀も一重すら満足に構築されていなかったので、防戦にすら及ばず、信長は自害し、寺に火をかけ共に
煙と上った。

織田信忠は妙覚寺という寺に居たが、信長が自害したと聞くと、
「明智がここにも攻め寄せてくるだろうが、ここでは防ぐことも出来ない。どうすべきか」
と家臣たちに問うと、「親王の二条の御所(二条城)こそ宜しいでしょう」と人々言うので、
であればと、親王を御輿に乗せて内裏に避難させ、信忠は二条御所に移った。
本能寺で信長とともに死ねなかった者達もここに集まった。

明智軍はたちまち攻め寄せて戦ったが、この二条御所も築地一重ばかりの防御しか無く、
一方、明智の兵は具足に身を固め弓鉄砲を先に立て攻撃した。
信忠の侍達は、一重の防塁では戦うに便無く、信忠もここに自害した。

都のうちは、墨をすったかのような状況だった。今朝までは、誰がこんな事が起こると
予想しただろうか。手のひらを返すよりも早いのは世の転変であり、今も昔もそういうものだと
言いながら、驚きあうのも理ではないだろうか。

明智日向守光秀は、美濃国土岐郡明智という里に生まれ、昔は土岐の一門だったそうだが、
光秀の頃には貧しくなりはて、下郎の一人も持たず、越前国などをさすらっていた。
そんな中、思いもかけす信長に宮仕えし、思いにかない、近江の志貨郡を知行し、坂本という所に
城を構えた。天正6年の頃には丹波国を攻め、波田野などという国人たちを討ち滅ぼし国の主となり、
さらに西近江をも知行した。

このように時めき富盛したというのに、なお飽きたらず日本を取ろうと信長を討ったこと、
欲心によって道を損ない名を汚し、浅ましいとしか言いようがない。

明智がやったようなことは、なかなか起こるものではない。信長がこんな事に成るとは知らず、国を与えて
かえって滅ぼされてしまった事は、人を知ることが明らかでなかった科であろう。
与えれば恵みを破るなと、孟子が言っていることも理であろう。
(豊鏡)

竹中重門の書く本能寺の変についての記事である




雑談・明智光秀は信長に会う前に城持ちだった?

2015年03月13日 18:39

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/12(木) 20:13:40.24 ID:h0bjFSds
明智光秀は信長に会う前に城持ちだった?

3月頭頃のツイートにあったもの。

http://pbs.twimg.com/media/B_CD53UVIAEKO0f.jpg
B_CD53UVIAEKO0f[1]
「明智光秀が1566年すでに城持ちだったという資料発見」のニュース
足利将軍家から細川家に移った御殿医の家から見つかった古文書にその記載があるという。

史料面と金銭面とどれくらい価値のあるものなのでしょう?




713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/12(木) 20:29:25.61 ID:6y40Dycp
>>712
この画像だけじゃなんとも言えない

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/12(木) 22:20:12.97 ID:ch358B8+
真偽不明

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/13(金) 09:50:44.77 ID:yJwz8wD4
>>712
天守閣あるような城じゃないんだろうけどな屋敷か

美濃の土岐氏じゃないのか・・・近江?

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/13(金) 10:23:32.16 ID:Id6RYjQ2
高島って小領主がたくさんいるわけじゃん?
それらの取り込みをするために館を作って滞在してただけじゃないの?
て、田中籠城ってテロップあるね
じゃあ、田中氏の居城じゃないの?
時期的に吉政の親父の頃か?

明智光秀とその周辺の、最期

2015年02月03日 18:52

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/03(火) 12:11:00.66 ID:9SXo73QX
山崎の合戦で敗軍したのを見た明智光秀は、青龍寺の城へと馳せた入った。そして硬く包囲されていたにも
かかわらず、親しき従者5,6人を具して城を紛れ出て、坂本城に向かって落ちていった。

通常人の通る道は自ずから警戒されていると、道を変え伏見の北の方、大亀谷にかかり、山中にて
具足を脱いで、勧修寺を過ぎ小栗栖を通っていた所、野伏どもの声が聞こえてきた。
「この夜更けに馬の音がするのは、きっと落ち武者だろう。さあ具足を剥ぎ取ろうではないか!」
「そうしよう!」
そのように語っていた。

その日は水無月(6月)13日、月は高く登っていたが、たいへん曇っていて非常に暗い夜であった。
里の中道の、細くなっているとこをを進んでいた所、垣越しに付いてきた鑓が、光秀の脇に刺さった。
しかし光秀は素知らぬ体でそのまま通り、三町(約300メートル)ばかり進んで、里の外れで馬より転び落ちた。

従っていた者達「これはどうなされました!?」と問うと、
「先に里の中の野伏の声がしたあたりで、突き出された鑓にあたったのだ。
そこに居たままでは、野伏共が一層つきまとうと思ったので、さらぬ体でここまで進んだ。
しかし今はもう、先には進む事ができなくなったようだ。
我が首を切って、顔を深くうずめ隠すように。」

そう言って息絶えた。
従者たちは騒ぎたてたがどうすることも出来ず、言い残した通りに首を切って光秀が乗っていた
馬の鞍覆いに包み、道から一町ほど離れた、藪の茂っている溝に隠し、死骸も人に見られてはならないと、
道から少し脇に取り隠して、それから従っていた者達は、思い思いに落ちていった。

その頃青龍寺城では、光秀が城を出た後、城兵たちは城から逃げ出し、城を取り巻く軍勢に討たれ、
あるいは生け捕りにされるものも多かった。
生け捕った城兵に尋問すると、「光秀はまだ日が暮れぬ内に城を出た。それを知らなかったため
このような事になった。」と、みな同音に語った。
そこではじめて秀吉方は、光秀が青龍寺城を落ちたことを知り、「坂本に向かったに違いない」と、
軍兵を江西はと急がせた。

明智弥平次(秀満)は安土城にあったが、羽柴秀吉が西国より上り、山崎に合戦に向かったとの報を聞いて、
「この城を守ることは意味が無い、光秀様と合流しなければ。」と13日に安土を出て山崎へと向かったが、
丁度その頃、堀久太郎(秀政)の軍が安土へと向かっており、大津の打出浜にて弥平次の軍と行合、
交戦となった。弥平次の兵は多く討たれたものの、80余騎を率いて終に坂本城へと入った。

14日、羽柴秀吉は三井寺に至った。そこでは明智方の落人の首が方々より持ち込まれた。
その中に小栗栖の住人が、明智光秀の首を持ってきた。
「いかにしてこの首を取ったのか?」と問うと、「今朝、里人が外に出て、落人は居ないかと
見廻りをした所、藪の下でこの首を見つけました。立派な布に包まれ、いかにも常の人の物ではないと思われ、
あれこれと見ている内に、光秀を見知ったものがきて、これはその首だと言ったため、急ぎこちらに
持ち寄ったのです。」と答えた。

この首を見た秀吉は大いに喜び
「信長公を討った報いが早くも来たか!」と、杖でその首を打った。

弥平次は坂本の城に入ったが、従っていた者達も皆、自分の思うところへと様々に落ちていき、城を守ることも
出来ぬ有り様であった。そのため、光秀の子である”自然”と言う者を連れて天守に登り、敵が四方より
近づくと、自然を刺し殺し、天守に火をかけ、腹を斬って死んだ。

斉藤内蔵助(利三)は光秀の二無きものであったが。戦場を逃れ江西の堅田の井貝という者を頼り、
身を隠そうとしたものの、その井貝によって捕らわれ秀吉に差し出された。
そのころ、明智光秀はその遺骸も探しだされ、首とともに今日の粟田口に磔となって晒されていたが、
内蔵助もその傍らで同じように晒された。
(豐鑑)

豊鑑より、明智光秀とその周辺の、最期の模様である。




明智光秀は初め、細川幽斎の家臣であった

2014年04月12日 19:09

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/12(土) 01:07:16.24 ID:yawQd5P5
明智光秀は初め、細川幽斎の家臣であった。しかし幽斎の家老である米田助左衛門などが光秀に
辛く当たり、それに耐え切れずに信長に仕え、終には丹波一国(およそ50万石)と近江にて10万石を所領するまでになった。

明智光秀は常にこう言った、「私が今に至ったのは、全く米田のお陰だ。」
これ故に、光秀は幽斎の息子である忠興を婿としたのである。

(老人雑話)




748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/12(土) 01:08:48.06 ID:3JXAJmVk
イイハナシダナー

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/12(土) 02:35:51.67 ID:cbW4eT2l
>丹波一国(およそ50万石)

盛り過ぎwwwwwwwwww

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/12(土) 07:11:11.29 ID:grim2RRR
坂本10万石も多くないか?w

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/12(土) 07:32:15.74 ID:nxOJYaOk
実際丹波一国で20万石くらいか?坂本が5万石くらい?だけど25万石でも織田家外様と考えると相当すごいね。

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/12(土) 09:34:05.30 ID:+r3aujj2
指揮権及ぶ範囲の石高だと240万石超になるとか

コルプス・クリスティ(聖体の祝日)の後の水曜日の夜

2014年04月07日 19:02

888 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/07(月) 06:04:03.15 ID:eiNuieG8
コルプス・クリスティ(聖体の祝日)の後の水曜日の夜(1582年6月20日)、亀山の城に軍勢が集結していた時、
彼(明智光秀)は最も信頼していた腹心の部下の中から4名の指揮官を呼び、彼らに対し短く事情を説明した。
とりわけ彼は、自らを蹶起させるやむをえぬ事情と有力な理由があったので、信長とその長男(信忠)を
誤ること無く殺害し、自らが天下の主になることを言い渡した。

そして、その為に最良の時と、この難渋にして困難な仕事に願ってもない好機が到来していることを
明らかにした。すなわち、

信長は兵力を伴わず都に滞在しており、明智の企画するような謀反に備える事には遠く思いも及ばぬ状況にあり、
兵力を有する主将たちは毛利との戦争に出動し、、更に彼の三男(信孝)は1万3千ないし4千の兵を率いて
シコク(四国)と呼ばれる4ヶ国を征服するため出発している。このような幸運に対しては、考えうる限り、
遅延だけがその心配の種となるであろう。
自分は既に危険を家来たちに託し、この計画を明白に打ち明けたからには、彼らに与えられるべき報酬は、
特に彼らに期待される勲功と協力に全て準じ、対応したものになるであろう。と語った。

これを聞いた一同は茫然自失したようになり、一方でこの企画の重大さと危険の切迫を知ったが、他方、
話が終わると、明智に思いとどまらせることも、また彼に従うのを拒否することももはや不可能であるのを
見て、感じている焦燥の色をありありと浮かべ、返答する前に互いに顔を見合わせるばかりであった。

しかし、そこは勇敢な日本人のことなので、既に明智がこの企てを決行する意志をこれほどまでに固めている
以上は、それに従うほかなく、全員上げて彼への忠誠を示し生命を捧げる覚悟である、と答えた。

ところで明智は極めて注意深く聡明だったので、もし彼らのうち誰かが先手を打って信長に密告
することが有れば、自分の企ては失敗するばかりか、いかなる場合でも死を免れないことを承知して
いたので、彼は直ちに自らの門前で全員を武装せしめ、騎乗するように命じて真夜中に出発し、
暁光が差し込む頃には既に都に到着していた。

更に明智は、自らの諸国と坂本の城塞を固め良く修理するように命じ、自分の不在中に何の騒動も
生じないよう城内を絶えず監視するよう言いつけた。そして都に入る前に兵士たちに対し、
彼はいかに立派な軍勢を率いて毛利との戦争に出陣するかを信長に一目見せたいのだ、と言って、
全員にエスピンガルダ(火縄銃)に銃弾を装填し火縄をセルペ(火挾み)に置いたまま待機しているように
と命じた。

ルイス・フロイス『日本史』)

フロイスによる、明智光秀の謀反決断の場面の描写である




889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/07(月) 06:31:31.87 ID:4noQd+5O
もう見てきた様だな

890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/07(月) 08:10:20.53 ID:8apv95LX
宣教師、見てきたように嘘を言い
だっけ?

明智光秀が渡り奉公をしていた頃

2014年04月04日 18:51

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/03(木) 23:00:45.85 ID:fIycXk3n
明智光秀が渡り奉公をしていた頃のこと。

三河牛久保の牧野右近大夫のところに仕えた時、光秀の知行は百石ほどであった。
光秀は傍輩の中野某に語って、

「侍の行末はお互い分からぬものだ。もし私が一城の主になったならば、
被官も欲しいことであろう。そうなった時には、貴殿は頼もしい人なので私のところへ
呼んで城代にしよう。貴殿が立身したなら、その時は私もまた被官となろう」

と約束した。そして後に丹波を拝領した時、光秀は中野を呼んで亀山の城代とした。

――『武功雑記』






「周山城」

2014年04月04日 18:50

872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/03(木) 19:39:06.79 ID:Col/hL4H
羽柴筑前守秀吉は、その初めより信長の手の物であり、またそもそも磊落な性格であったので、
他人に対して非常に驕っていた。

明智光秀は信長配下の中でも外様であり、その上謹厚な人であったので、その辞は常に
うやうやしいものであった。

ある時、秀吉は光秀にこんなことを聞いた
「おぬしは周山(京都市右京区京北周山)に夜普請をして謀反を企てていると、人はみな言っているが、
どうなんだ!?」

光秀は答えた
「やくたいも無いことを言うものだ」

そこで二人は笑い、この話は終わった。

(老人雑話)

秀吉と光秀の信長配下の時代の、どこか意味ありげな会話である。

873 名前:872[sage] 投稿日:2014/04/04(金) 18:01:05.57 ID:pi+MT3/U
>>872
これだけだとちょっとわかりにくいので補足します
光秀は東丹波の攻略後、周山街道を抑えるためにこの周山城を築城するわけですが、
この「周山城」という命名が、自らを周の武王に、信長を殷の紂王に例えたのではないか、という話が
この老人雑話の成立当時あったらしいのですね






徳川殿をここまでもてなしてしまって

2014年03月26日 19:19

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/26(水) 18:18:44.67 ID:lKdKFrB2
昔見た覚えがあるけどソースが解らなくなってしまった
誰か知りませんか

本能寺前振りの、家康の接待に失敗する光秀のバリエーション

光秀は家康のために豪華な宴会を完璧に宰領して見せた。
そうしたら信長は「徳川殿をここまでもてなしてしまって、
朝廷の使者をどのようにもてなすつもりだ!」
と光秀を叱責した。
優先順位を間違えている光秀の悪いお話




824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/26(水) 21:03:57.59 ID:cV6Jaw64
>>822
山岡荘八「織田信長

825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/26(水) 22:10:07.04 ID:lKdKFrB2
オウフ……小説のネタだったのか。回答ありがとうございます

826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/26(水) 23:55:45.09 ID:HSyQvBZ+
小説がネタ元だった場合でも、マイナーな軍記物出典という可能性が捨てきれないからめんどうくさいという