島津薩州家6代島津義虎とその子供達

2009年09月11日 00:19

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/10(木) 14:43:12 ID:YJG3TQJS
>>202
携帯から書き込んだのか乙。脱字が勿体無い

当主義久に次ぐ一門の序列二位だでありながら目立たない島津義虎の関連について書いてみる
長いので読み飛ばし推奨

薩州家6代の島津義虎だが、「義」は将軍義輝からの偏諱。つまりは義久と同じ。
父・実久と共に上洛の経験あり。近衛家とも親交があり近衛前久が薩摩に下向してきたときは
義久の命を受け出水で歓待し3ヶ月近くも逗留させた。

義久の娘を妻に貰い腹心として仕えたが、守護職をめぐり忠良・貴久に対抗していた
父・実久とは違い早くから貴久・義久らに臣従し、島津家一門の中でも別格で宗家も
色々と扱いに難儀した。
領地が出水ということで菱刈氏や国境を接する肥後相良氏との攻防に明け暮れる。
相良氏討伐、沖田畷の戦いなど主に肥後口で功あり。秀吉の九州侵攻の前に50歳で死去。


244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/10(木) 14:44:09 ID:YJG3TQJS
ここからちょっと悪い話

・義虎死後の息子たちの行方

『諸氏系譜三』 「薩州用久一流」 忠辰譜
「又太郎(=忠辰)事従 公儀断絶ノ事ニ候ヘハ重テ右一筋御取立被成間敷由 
          龍伯公(=義久)御譜ノ内ニ相見ヘ候由ニテ候」

長男 忠辰 → 秀吉の九州侵攻では有馬晴信の裏切りもあり肥後口では戦わず出水に撤退・
          降伏・領地安堵。
          朝鮮の役では秀吉に陣立を義弘と別にして欲しいと直訴。秀吉は却下。
          渡海するも病気と称して1ヶ月余りも下船せず上陸拒否して引き篭もる。
          秀吉怒っ狂って知行地を召し上げ小西行長に幽閉を命じた上で改易処分。
          忠辰は小西陣所で幽閉されたままその後、病死(自刃、または暗殺されたとも)。
          宗家は妻子も追放or処刑?で薩州家を取り潰し断絶。忠辰は島津正史で
          国賊扱いされる。

次男 忠隣 → 後継ぎがいなかった島津歳久へ養子入り。根白坂の戦いで無謀な突撃死。享年19

三男 忠清 → >>202の後、清正の元から鹿児島に脱出。娘が家久側室となり光久を産む。
          にも関わらず、忠清死後、息子は跡を継ぐことが出来ず新納家から養子を迎える。
          息子本人は他家に養子に出されるというかなり強引な圧力を受ける。
          
四男 忠栄 → 関ヶ原後、戦死した豊久の姉と謀り佐土原を掠め獲ろうとするも豊久家臣らに
          一揆を起こされ失敗。
          義弘の元に逃げる。その後、母・御平の領地の一部を継いだり領内を転々とした後、
          義久次女のいた垂水あたりで地頭として細々と余生を過ごす。

五男 忠富 → 名を久秀と改め頴娃氏に養子入りするも、鎌田政近の四男を養子として迎え
          家督を譲り、自身は入来院家に養子入り。重高と名を改める。5000石を領す。
          要は頴娃久虎の後に没落した頴娃家から島津氏有力家臣の入来院家に栄転。
          勝ち組。
          義久長女である母・於平を最期に看取ったのは重高だけだったらしい。

六男     → 人質に出された先で早世


とまぁ、こんな感じで薩州家が断絶させられ散り散りとなった後も、薩摩藩成立→成熟過程において
史料にヒドいこと書かれたり江戸時代以後も残った血統の家人の扱いは悪かったと言う




245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/10(木) 15:15:32 ID:juXKqqh2
>>244
酷いなぁ・・・・と思いつつ、長男と四男だけは自業自得だよね


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