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ついにそれより女人を禁制なさり

2021年12月09日 17:31

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/08(水) 23:24:21.09 ID:5Z9jxIQx
氏照(北条氏照)と申すは、氏政(北条氏政)の弟の中でも武勇に優れ、特に大名であった。

上杉(山内上杉氏)の老臣に大石源左衛門定久という人がいた。
この人は木曽左馬頭義仲12代の末葉である。代々武蔵の守護代だったが上杉滅んで後に氏康へ降参し、
後に男子なくして氏康二男の氏照を婿にとり名跡を継がせ、氏照は“由井源三”と称した。

(中略)

ところで、氏照は先年の三増合戦(三増峠の戦い)で打ち負けて逃れ難い時があったが、
この時に山上で飯縄神へ祈念し、10ヶ年の間の女人禁制を立願なされた。

帰還した氏照はその時の祈念を果たそうと、ついに御前の方へ御入りにならず数年が経った。
かの女性はこれを夢にも知らず、氏照は自分を疎んで仇があると恨み、ついに思い沈み早世したのだという。

死後に書き置いた文言を見て氏照は後悔されたが叶わず、氏照もこれを本意なく思いなされて
ついにそれより女人を禁制なさり、その一世はただ出家の行儀と同じであった。

さてまた、大石には因もあるからと本姓になり返り、北条陸奥守氏照と申した。
また瀧山の城(大石氏の居城)は名城ながら瀧には“落ちる”という事があるから
城の名には禁忌だとして八王子に移ったのであるが、天正18年、ついに運尽きて落城した。

――『異本小田原記

氏照正室というと八王子落城に因んだ悲劇で知られるが、この記事はまったく違う内容を伝えている
もっともこっちも悲劇なんだが



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氏照の首

2013年03月10日 19:10

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/10(日) 15:43:40.15 ID:c8KReEoQ
天正十八年七月十一日の晩、秀吉より北条氏政と氏照兄弟へ切腹の申し渡しがあった。
助命・本領安堵の和睦の話があった中、二人は騙されたとの無念の内に自害して果てた。

その介錯は弟の氏規が行った。
氏規も兄たちの後を追おうとしたところ、徳川家重臣・井伊直政が走り寄り抱き留めて諭してこれを助けた。

この混乱に紛れて、氏照の首を小姓の山角牛太郎が奪い取って逃げたが、
なだめすかして取り返し供饗に置いた。

家康は「牛太郎は若輩であるが、主人を思う志はあっ晴れである」と誉め、
後に牛太郎に千石以上の知行を与え旗本として召し抱えた。

≪小田原北条記≫






侍童・山角平太郎の忠義

2011年04月04日 00:01

702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 17:16:14.63 ID:LinmCTPt
さっきちょっと悪い話スレに書き込んだ話の続き

小田原開城後、兄の介錯を務めた氏規。
氏政の介錯を終えると、彼も自害しようと太刀を取り直した。

慌てたのは検使役の面々である。
「殿下が死罪を命じたのは両名だけでござる。失態があれば我らの落ち度となります。」
と必死に押し止めた。

この時氏照の侍童であった山角平太郎は、検使が氏規に気を取られている隙に乗じて、
氏照の首を奪い取って走り出した。

結局首は取り返され、京で晒されることになるのだが、平太郎は検使の井伊直政に召し出され、
家康に紹介された。
家康は平太郎の心意気に感じ入り、家臣の列に加えた。
彼は後に、武州多摩郡関戸に領地を与えられることになるのであった。

北条家の最期に現れた忠臣の話。




703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 18:47:38.86 ID:I3FMqcu5
忠臣か?

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 19:36:23.79 ID:DpVduhov
まあ、子供だからな
多感な時期の発想だろう

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 19:40:56.00 ID:RfRE4p6G
なんか最近ひねくれたレスする人増えたよね

斜に構えた俺カコイイ的な

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 19:44:27.87 ID:oF8dVOFV
命を賭けて主君の首を敵に渡さないように努力したんだから、忠臣だろ。

微妙に話は変わるが、このスレだと、やたらに三河の人間だけ「面倒臭い」、理屈っぽいが義理堅いとか、
そういう硬派な感じのイメージが強調されるけど、実は結構全国的にそうだよね。近畿は垢抜けてるかもしれんけど。

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 19:55:23.46 ID:4/NwGBdw
たしかに忠義で名を残す武士は全国的にその傾向があるのは当然だよね。
三河武士団は最終勝者になる実質があったのと、
勝者になったからこそ逸話が多く残ってるみたいなとこはある。

あとはこのスレのノリもあるw

八王子城奇譚

2010年06月07日 00:00

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/06(日) 09:28:35 ID:5PPHC1d6
八王子城奇譚

秀吉の北条征伐時
城主の北条氏照が主力を小田原に引き連れていってしまった為留守部隊のみの八王子城はいとも呆気なく落城してしまう
落城時に☆MI☆NA☆GO☆RO☆SI☆が行われたのはまとめの
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-151.html
等にある通り
お陰様で天下の稲川淳二氏にも認められる立派な心霊スポットとして有名である………


八王子城の側に城山川という川がある
八王子城落城の際は3日3晩、城兵の血で真っ赤に染まったといわれる
さて、戦乱も落ち着くともとより清流であった城山川の水を使って周囲の村人が煮炊きを始めた
が、白米だろうと玄米だろうと粟だろうが炊き上がると‘あかまんま’になるのである
そう、真っ赤なのだ
こんな米を喜んで食う奴は味噌汁に醤油を継ぎ足す鬼か某宇宙世紀の大佐くらいなので当然村人達は気味悪がり、
死んだ城兵の無念の現れと噂した
そして高名な僧が…

出てこなかったりする

村人が供養に本物の‘赤飯’を塚を立てて供えたら普通に煮炊きが可能になったのである
明治頃までは6月23日に八王子城跡近辺の旧村では赤飯を炊く風習があったそうだ


もう一つ

城山川は清流であるが故に蛭(ひる)が居なかった
蛭とは泥のある淀みを好む為流れのある清流には少ない
ところが八王子城落城後から蛭が目立つ様になる
村人は気味悪がったが間近で水を汲もうと子供が遊ぼうと襲われない
村人達は‘血を吸わない蛭’だと安心し気に止めなくなった
ところがある日
越後の行商人が川で水浴びをした
越後の縮緬問屋のご隠居一行ではない本物の越後商人が、だ
周囲の村人は特に気にしないし襲わない蛭の事を警告する訳もない

が、様子がおかしい

瞬く間に複数の蛭が足に群がり行商人に襲いかかった
悲鳴に驚いた周囲の村人が助けに入り行商人を助けたのだが、やはり村人には吸い付かなかった
後に加賀・越後・北信濃の人々のみが襲われている事が分かったという
そう、八王子城を攻めた前田・上杉・真田のゆかりの者を狙い撃ちする蛭であったのだ
村人は八王子城兵の無念が乗り移っているのだと噂したという

供養?
地元民を襲わないのに供養の必要は御座いません
上記地区の方のみご注意下さい


ちなみに…
八王子城攻略部隊にはしっかり真田信之も信州上田勢の主力として参戦しとりますんで親父・弟の冤罪じゃあ御座いません
創作ではほぼ確実にハブられてますがね
だが北信濃という括りは領民にとっては迷惑きわまりない
もっとも、一番可哀想なのは当事者が米沢にとんずらした越後領民であり伝承内の越後商人であろう

以上、八王子に伝わる気味の悪い話




274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/06(日) 11:39:33 ID:7IvbTmK3
>>272
蛭になってゆかりの奴が来たら襲ってくれる!この恨みを思い知れー!
って執念深いんだかささやかなんだか

277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/06(日) 11:54:56 ID:iYL3ZEmU
川だの滝だのが血で赤く染まった、というから
血の関係で吸血で蛭なのかな、と
流された血を取り返す、的な意味で

あと今でも八王子・丹沢の山は蛭多いからねぇ
山関係板やスレで蛭注意は良く言われている

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/06(日) 12:09:30 ID:mc2WPKeI
>>277
丹沢の山蛭は有名で大量にいるが、高尾周辺ではあまり聞いた事ない

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/06(日) 12:57:43 ID:DgnDpK33
>>272
八王子城案内版
http://up3.viploader.net/photo/src/vlphoto004650.jpg
0606八王子城01
http://up3.viploader.net/photo/src/vlphoto004653.jpg
0606八王子城02
http://up3.viploader.net/photo/src/vlphoto004655.jpg
0606八王子城03

御主殿の模擬冠木門
http://up3.viploader.net/photo/src/vlphoto004652.jpg
0606八王子城04

八王子神社下の見晴らしポイントから八王子市街
http://up3.viploader.net/photo/src/vlphoto004656.jpg
0606八王子城05

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/06(日) 22:40:42 ID:naKC9fmX
>>281
http://up3.viploader.net/photo/src/vlphoto004650.jpg
0606八王子城01

ちょwwうじてるくんって何だよwww
中途半端過ぎるだろ

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/06(日) 22:45:32 ID:EuAv+yXw
>>289
そのガラス片って信長が送ったグラスなんだよな確か

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/06(日) 22:55:20 ID:R2621kY9
信長といえば八王子城の築城スタッフは、設計前に安土城を見学しに行ったらしい。

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/06(日) 23:00:22 ID:naKC9fmX
安土城とかまったく参考になら無いだろw
見学って市議会議員が海外視察と称して観光旅行に行くようなもんかw

北条氏照とその嫁

2009年09月13日 00:14

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/12(土) 18:36:36 ID:s7S2ikNq
北条氏の人じゃないが
北条家の嫁といえば氏照の嫁の話まだ出てないんだな

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/12(土) 18:59:40 ID:Dm1+TV1f
>>320
kwsk



322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/12(土) 19:12:56 ID:s7S2ikNq
いくつか違う話があるんだが
北条氏康の三男藤菊丸(後の氏照)が
関東管領上杉憲政の重臣であった大石久定の娘比左と婚約したのは
河越夜戦が終わった六歳の時であると言われている
比左の方が年が少し上であったらしい
色々因縁があったが氏照は美男で武芸も達者で頭も育ちもいいという
ハイスペックな男だったのでそれなりに仲の良い夫婦だったらしく
やがて氏照が成長し正式に結婚すると女の子が一人生まれたが
その子以外には子種が授からなかった
比左は観音を詣でて必死に祈願したりしていたがそれでも子どもが授からず
結局氏照は、男の子が四人もいる氏政から養子を貰って嫡男としたのだった

氏照が30歳を過ぎた頃
彼は武田信玄に三増峠で惨敗し、宿将の多くを失った
それがよほどショックだったらしく上杉謙信に習って
飯縄大権現を信仰し始め、一切の色欲を断つことを比左に宣言した
つまりもう夜の夫婦生活は止めようと言い出したのだ

比左は怒り狂った
さては自分の他に秘密の女が出来たのだと邪推し
氏照の愛人を探したがそんなもの居ないのだから見つからなかった
ところがここで一人怪しい娘がいた
青梅を支配していた三田綱秀の娘が、
父が氏照に攻められ自刃した後保護されていたのだ

 こ の お ん な か

そう思った比左は三田の娘を訪ねると速やかに殺害した
そして自らも自害した

という話が残っているんだが
史実では比左さんは八王子城落城時に自害しているので
多分作り話なんだ
でもインパクトある話だからなんか覚えてた




328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/12(土) 22:31:26 ID:yHgKat2L
>>322
殺した後に自害したってとこが作り話なんだNE!
nice castle.