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四国の乙姫の話をしよう。

2014年04月24日 18:54

63 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/23(水) 18:30:41.46 ID:Nj2dELrq
四国の乙姫の話をしよう。

伊予の三間に土居清良という戦上手の殿様がいた。
そして清良の娘に、乙御前という名のそれは美しい姫君がいた。

ある時、乙御前に縁談があり野村の豪族、保堂新左衛門に嫁ぐことになった。
いよいよ輿入れの日、どうしたわけか一向に保堂家より迎えが来る様子がなく、とうとう夜になってしまった。
繊細な乙御前は、さては破談になったのかと心を痛め、世をはかなんで髪を下し尼の姿になってしまった。

しかし、明くる日になると、もう来ないものと思っていた保堂家よりのお迎えの行列がやってきた。
なんでも昨日は行列の前に不吉の兆しがあり、日を改めて来たのだという。
これには清良も困ってしまった。
前もって連絡を寄こさない保堂家に腹も立ったが、結婚とは縁起の良さを重くみるものであり、保堂家に強く抗議するわけにもいかない。
たった一晩で姫を尼にした土居家に非がないわけでもない。
思い悩んだ清良は、姫にかつらを被せて嫁がせることにした。

つづく

64 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/23(水) 18:34:22.33 ID:Nj2dELrq
つづき

美しき花嫁の姿に婚儀の宴は大いにもりあがり、清良の作戦はうまくいったかと思われたが、夜になり乙御前が休んでいると、かつらが取れてしまった。
そこへ折悪しく保堂新左衛門がやってきて、髪の毛一本も無い姫を見てしまった。
これに保堂新左衛門は激怒し、
「尼を嫁にもらうつもりはない!」
と乙御前を追い出してしまった。

そして乙御前は来た道を三間へと帰ることになったが、繊細な乙御前は傷心のあまり滝壺へと身を投げてしまった。
そして姫の後を追い、下女や馬も次々と身を投げた。
このことにより、乙御前が身を投げた滝を「乙御前の滝」と呼び、かつらが流れて行った川を「桂川」と呼ぶようになったという。
下女が身を投げた「下女ヶ淵」馬が沈んだ「馬淵」も同様である。

乙御前を憐れんだ村人たちは、「乙姫さま」として祠を作り、乙御前の霊をなぐさめたという。




65 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/23(水) 18:38:21.15 ID:Nj2dELrq
まぁ、現在でも結婚となると大安がどうの・・・とか言いますし
まして当時の婚礼は縁起をかついだんでしょうね。

婿の名前は宇都宮乗綱のバージョンもあります。

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/23(水) 20:48:58.88 ID:XBFGJ3+R
心に決めた思い人がいたのか相手が醜男だったんだろうな
尼になれば破談になると思ってたんだろう

67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/23(水) 21:40:16.82 ID:nF1V7OSh
なる保堂

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/23(水) 22:09:32.03 ID:a7yIlisV
それだったら尼で押し通すんじゃなかろうか

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/23(水) 23:11:37.32 ID:kRVVR4bO
尼でも女、それが戦国の政略結婚です

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/24(木) 00:46:32.40 ID:ZKXY3hr0
秀長「尼を嫁にするとか無いわー」

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/24(木) 20:28:35.45 ID:yw+OwBIs
>>66
なぜ死んだし

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/24(木) 20:53:21.95 ID:505CZroZ
>>70
徳川家光 「尼はいいぞ」

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土居清良「岡本城攻防戦」

2009年09月14日 00:19

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/13(日) 19:54:12 ID:YWwZFBYi
天正二年、四国統一を目指す長宗我部元親は三間大森の国人で
西園寺家の家臣、土居清良の城、岡本城を攻めようとしていた
土居清良は当時の土佐の国人としては珍しいくらいのインテリで、農業書の著者としても
知られているが三間大森は狭い小さな国であり、土佐の一条の侵略からいつもギリギリで
国土を守っている有り様であった

圧倒的に数に勝る長宗我部軍は、まず岡本城に忍びを放ち、城内の様子を探らせた
「どうやら城内はみな前線に集中していて前線以外は手薄な様子」
報告を受け、元親は本隊の進軍を止めると、夜を待って少数の精鋭部隊を岡本城に送った
だてに四国を蹂躙してきたわけではない長宗我部軍の精鋭たちである。
その圧倒的力を前に、岡本城はあっという間に制圧されてしまうのだった

岡本城が落ちたという報告を清良は大森城で受ける
深夜の闇の中、大森城からも岡本城の火が見えた
家臣たちは当然慌てたが、清良は全く動じずに物見のものを呼ぶと
「それで、長宗我部本隊は今はどこにいる?」
と聞いた
「三間川の下流におるようです」


387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/13(日) 19:56:21 ID:YWwZFBYi
「そうか、ならば着くのは明け方あたりか……よし、出陣じゃ!全員出るぞ、
奴らがことだ、おそらく今岡本城内では祝いの宴の最中じゃろう
本隊が到着する前に岡本城を取り戻す
静かにやるぞ、気付かれぬように行け」

元々地の利は土居軍にある。
清良たちは闇に紛れて岡本城に着くと、祝い酒に酔いつぶれた長宗我部の兵たちを
片っ端から討ち取った
そして城を奪還した清良は長宗我部軍の旗を上げたまま、夜が明けて長宗我部本隊が
到着するのを待ち構えた

やがて到着した長宗我部軍は、岡本城に長宗我部の旗が上がっているのを見て、
すっかり油断して近寄ってきた
その時を待っていた清良は、自慢の鉄砲隊に命じる
「撃てええ!」
数百の鉄砲が長宗我部軍を一斉に攻撃し、ほんの一刻も過ぎた頃には、長宗我部軍は
大壊走していた。
その様を大笑しながら眺め、清良は岡本城の旗を土居軍のものへと変えたのだった。
この戦いで家老・久武親信を討ち取られた元親は、怒り心頭で何度も三間を攻めたが、
約30回におよぶ戦いのうち、一度も清良に勝つことが出来なかった

元親を苦しめた土居清良の武名は当時よく知られ、小早川隆景をして
「清良を5カ国の大将にすれば必ず天下を統一する」
といわしめたという。

まあ大半は軍記の記述なんで怪しいかもしれませんが
農業指導に力を入れた清良はその後も土地の人々に慕われ、
現在でも彼を祭った神社が大切にされているそうです




388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/13(日) 20:53:54 ID:x5UdnZOb
判官贔屓じゃないけど小さな勢力が大きな勢力を打ち破る話ってのはやっぱり気分が良いな


390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/13(日) 21:19:03 ID:iirgn29n
>>386-387
清良を「きよら」と呼んで妙に萌える名前だと思ってしまった・・・



391 名前: [] 投稿日:2009/09/13(日) 21:33:30 ID:r0KlIGqm
あれ、もう一人オレがいるぞ

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/13(日) 21:33:38 ID:MfgZ4juo
隆景から高評価とかすげーな
出身と名字からすると宗珊さんの同族かな?

393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/13(日) 21:51:23 ID:YWwZFBYi
>>392
違うみたい
ただ幼少時に大友氏に一族を討ち取られて
一条家の土居家を頼ったことはあるらしい
なんだか複雑なんで土佐に詳しくない駿河人の俺にはよくわからんが

でも土佐の土居さんはすごい人多いよな

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/13(日) 22:41:24 ID:sNUjH/MB
>>386-387
この戦も色んな種類があるよな
長宗我部側の指揮官が久武さんだったり、大きな戦役の一部だったり
また城ではなく隘路に引き寄せて鉄砲で仕留めたという話も

それくらい衝撃的な戦だったのかもね

395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/13(日) 22:48:32 ID:sNUjH/MB
あ、ついでに質問
元の軍記では天正2年と記されてたんですか?

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/13(日) 22:56:48 ID:YWwZFBYi
>>395
うん
ただ明らかに長篠を意識した記述だと
俺は思った
そのまま書いたけど

397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/13(日) 23:07:09 ID:sNUjH/MB
>>396
感謝
伊予侵攻より数年早いのはなんでだろうと思ってたけど、
なるほど、長篠を意識したってのはそれっぽい話だ
天正2年だとまだ安芸氏の残党と戦ってる頃だしね

398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/13(日) 23:26:14 ID:zQQdvakO
吉川弘文館の西国の戦国合戦だと天正7年の出来事になっているな
根拠は知らん

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/13(日) 23:28:51 ID:avWYXPq4
>>387
「土佐の」とあるから、三間大森ってどこだ?と思ったら、一時期一条氏の元にいただけで、
守ったのは伊予だったんだね。(ぎりぎり四万十川流域ではあるが)


401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/13(日) 23:50:18 ID:YWwZFBYi
>>399
ごめん伊予だった
一応国人としては伊予の人だなこれ
西園寺に従ってるし
ただ一時的に一条家にいたりして難しいんだ


414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/14(月) 21:45:26 ID:71Xw8oBh
>>387
この辺に仕事で行ってたことある。
旧 三間町、今は合併して宇和島市の一部

土居中(どいなか)という地名がある。



415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/14(月) 22:07:32 ID:5PB1mHPh
……ド田舎というアクセントで読んでしまう
地元の方すみません

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/14(月) 22:25:04 ID:5PB1mHPh
そういえば今見ていたらこんな話があった
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2371.html
こちらだと天正七年の出来事になっているね
長宗我部にとっては結構痛い敗北だったんだ
「夏草の賦」で読んだ覚えがないのがなんだか残念

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/14(月) 23:26:42 ID:Q8uQsZmS
夏草の賦を読み返してみたら岡本城の記載は5行のみで
久武内蔵助は討死ではなく重傷になっていた

その前後のエピソードにものすごーくあっさり