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小野寺義道、1645年書状

2009年12月11日 00:12

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/10(木) 17:57:09 ID:8gDX3tE+
かつて横手を領した小野寺義道は、関ヶ原の戦い後に石州津和野へ流された。
恩人・坂崎直盛の供養が有名だが、その後も彼は生き続けている。
彼はたびたび、佐竹氏に仕官した旧臣に書状を送り、羽後の近況を尋ねていた。

そのうちの一通、1645年の書状はこんな内容だった。
「この短冊を、形見として送る。
 自慢するようだが、私の書いた短冊はあちこちから所望されるのだ。嘘ではない。
 頼まれれば否とも言えないので、流人である恥も構わず書き与えている。
 出雲や長門、安芸などからも地紙を届けてくるから、もう百枚は書いただろう。
 これは余人には言わないでくれ。
 六郷のやつは運がいいな(羽後から常陸へ移封されたが、後に国内に戻れた)。
 由利衆の面々はどうしているか、まるで知らないから、詳しく教えてほしい。
 私に仕えていた者などは、大抵死んでしまっただろうな。
 誰が生きているのか、詳しいことを聞きたい」

この書状の日付から10日余後、
恐らくは最期まで故郷を思いながら、義道は80歳で死去した。




31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/10(木) 18:07:26 ID:l9LCPUt+
>>30
小田氏治「他人事とは思えない」

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/10(木) 19:10:37 ID:izVB9wIP
返事は読めなんだか・・・

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小野寺義道と由利十二党の人質

2009年09月17日 00:18

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/16(水) 05:58:23 ID:jCwKIiZ1
ではベタないい話を書きましょう
丁度まとめにもない出羽小野寺氏の




ヘタレやらお馬鹿やら言われる小野寺義道……がまだ家督を継いでおらず、小野寺景道の時代
景道は国元を嫡子である義道にまかせ、上洛した。
留守を預かった義道、気負う所でもあったのか由利十二党に人質を要求した
ある時は最上に付き、ある時は大宝寺に付き、またある時は小野寺に付き、
またまたある時は安東に付く由利十二党
頭の痛い存在であることには違いはない。
由利十二党も正面から小野寺と戦うことも出来ず、素直に人質を出した。

しかしこんな強引な事をされて気分のいい者はいない。
そうでなくてもあまり人気のない小野寺、由利十二党らは安東氏に親戚を持つ者も多い

と、これをどこからか伝え聞いたのは小野寺の人質になっている由利十二党の一つ、
石沢氏の母である。
このオカン、大した肝っ玉というか烈女だった。
自分が邪魔ならと、とっとと自害してしまったのだ。
だがそれだけではない。
このオカン

 他 の 人 質 も 一 緒 に 自 害 さ せ た の で あ る 

集団自殺のさきがけとでも言うべきか……
とはいえ、一緒に死んだのは皆男子であるのがせめてもの良心だろうか。
幼女だった矢島、下村、玉前の人質はこの集団自殺に巻き込まれずに済んだ。

こうなってはもう由利十二党も戦うしかない。背後の安全と援助を安東氏に頼み、
義道と一戦交えた。

義道は数で勝りながら伏兵に引っ掛かって負けた。

由利勢の勝利である。

がしかし、こうなった以上戦国の習いとして人質は殺されるだろう。
まして負けて気の立っている小野寺勢は殺せ!殺せ!ムードだった。
だが義道

「元々人質を取ったのは彼らに心変わりせず小野寺の味方で居て欲しいからだった
 だがどうだ? 人質をとったところで彼らは私の敵になったではないか
 もはや人質などとは意味のないもの。三人の幼女はちゃんと送り届けてやれ
 その上でもう一度由利に攻め込み堂々と勝とうではないか」

と家臣の日野内匠と奥山八郎に人質の幼女を矢島氏らに送り返したのである。

これに感激した矢島、下村、玉前氏は以降、由利十二党の中で小野寺派となるのだった。





486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/16(水) 07:08:45 ID:yhhR7GrF
>>485
はた迷惑なオカンだなおい…
まぁそれは別として義道カッコイイ!


490 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/09/16(水) 09:09:48 ID:zPLB4x2s
>>485
それより時代は下って慶弔^h^h慶長の頃、集団人質自殺は某DQNのところ以外では
発生しなかったw