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見聞談叢より斎藤内蔵之助の最後

2020年08月31日 19:05

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/31(月) 18:11:12.37 ID:Zlebf2X1
見聞談叢より斎藤内蔵之助の最後
長いので二つに分けます

斎藤内蔵之助と那波和泉守は、二人とも稲葉一鉄に仕えていたが、仔細あって両者浪人し
た。両人光秀と内々懇意であったため、光秀を頼んで信長公に訴えた。信長公が一鉄に詫
びて、那波は帰参したが、斎藤は少しわけあって切腹を命じられた。しかし、光秀が信長
公のそば仕えの猪子兵助を頼んで、斎藤を家臣にした。

明智光秀が没落して家臣が四散するなか、斎藤内蔵之助は近江に逃れたが、堅田で捕らえ
られた。太閤は三井寺の客殿の前に座を据えられ、内蔵之助を引き出してこう言った。
「お前は一鉄入道のところで不行跡があって勘気をこうむったが、光秀のおかげで今まで
永らえた。光秀の逆心のおこりもお前が張本人である。罪深すぎて裁判を行う筋もない。
すぐに磔に申し付けるだろう」と言って、「何か言うことはあるか」と二度もおっしゃっ
たが、斎藤、さして臆した様子もなく、後ろを見まわして、「綱を取っておられるのは、
侍か、雑兵か。左の手を少しゆるめて下さい」と言った。太閤が「望みどおりにせよ」と
おっしゃったので、少し縛りをゆるめた。そこで、斎藤、左の手を地面につけ、「私めは
光秀の家来になっておりましたので、光秀の申し付け通りに働きました。私自身は信長公
に恨みはありませんが、光秀が恨み申したため、家来ゆえ逆心の場まで付き従いました。
逆心をしきりに止めたのは、私でございます。こう申し上げるのは死罪を免れんがためで
はありません。罪人とのお言葉を頂戴したので、申し開きを致したのです。早く命をお取
り下さい」と申し上げ、「この一巻をご覧に入れたい」と言って、左手で右手に括り付け
てあった繻子の守り袋を差し出した。関口左門という御小姓がそばへ寄って右手で受け取
ろうとすると、その様子を見て内蔵之助は、「推参ながら、囚人のそばでは右手は出さな
いものです」とにこやかに言った。太閤がその一巻を開いてご覧になると、いつのまにし
たため置いたものか、光秀の逆心を止める諫めの書状と、それに対する光秀の返事だった。
「お前がこのたびこれを戦場まで持ち来ったのは、隙を見て降参して、この書状で恩賞を
得ようという心づもりだったのだろう。沙汰の限りの者だ」と太閤がおっしゃると、内蔵
之助、「それは普通の人の言葉、筑前守どののお言葉とは思えません。私めが心底光秀を
大切に思っていたことを、死後まで世の人々に知らしめたいばかりでございます。早く命
をお取り下さい」と言って、その後色々とお尋ねあったが、「もはや申し上げても詮無い
ことです。お許しあれ」としか答えなかった。

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/31(月) 18:15:08.68 ID:Zlebf2X1
(続き)
光秀の屍が捜索の末探し出されると、首をつなげて粟田口で磔にせよという命令が下さ
れた。内蔵之助も同じ場所で磔にされることになった。光秀の槍取りは澤村権七という
足軽、内蔵之助の槍取りは伊澤十平という足軽だった。両手を釘で固定されるときに、
内蔵之助が「左手より右手が下がっています。これでは顔が真正面を向きづらくなりま
す。釘を打ち直して下さい」と言った。そのため、釘を打ち直すと、にっこりと笑って
「今少しお待ち下さい」と言って両目を閉じると、

屍ハ草野ニ埋ムト雖モ 魂魄遠天ニ帰ル 生死風前ノ燭 悟ルガ故ニ胸中鮮ヤカナリ
柳ハ緑花亦タ紅 三界眼前ニ尽ク

と大声で右の詩を唱え、「死後、この詩を丹波、亀山の永元和尚へ伝えて下さい」と奉
行に頼み、「万が一お忘れになってしまっては本意ではないので、もう一度申し上げま
しょう。書きつけておいて下さい」ともう一度唱えた。奉行が矢立で紙に書きつけると
「これにて人界からお暇しましょう」といって目を閉じた。両脇を槍でつかれた後、
また目を開いて、「因果深いとは、私のことを言うのでしょうか。まだ息が絶えないで
います。もう一度急所を強く突き通して下さい」と言って、また目を閉じて唸り声を上
げて死んでしまった



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斎藤内蔵助利三という光秀股肱の者で候

2018年09月21日 10:01

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/21(金) 05:57:48.32 ID:fX5WZda+
(山崎の戦いの時)

斎藤内蔵助利三は最初から今日は総敗軍と覚悟していたため、味方の敗走を見ても少しも屈せず、なんとしても
神戸三七殿(織田信孝)と一戦して今日の恥辱をそそぐべしと心掛けており、その子・伊豆守(利宗)と手勢を

整えてまったく動揺せず、静かに人数を進め山崎総構の東方の川を隔てて陣を立てた。その川は大河ではないが
近日降り続いた長雨によって水嵩は増え渦を巻いて流れた。ここに三七信孝の陣中より野掛彦之丞という者が

名乗りただ一騎馬を乗り入れ先に進んだ。内蔵助の子・伊豆守16歳、これも斎藤勢よりただ一騎川へ乗り込み、
川中で1,2度打ち合うと見えたが、双方押し並んでむずと組み合い水中へと落ちた。

これを見て斎藤の家士が一同に伊豆守を救おうと川へ乗り込むのを、内蔵助は大声を揚げて「武士の子16歳!
敵1人討てずして生きても甲斐なし! ただ捨て置け!」とこれを制した。その間に伊豆守は野掛の首を取って

下の瀬より岸に上った。これを切っ掛けとして敵味方は鉄砲矢戦となり討ちつ討たれつ喚き叫んで攻め戦った。
中でも内蔵助は大声を揚げて、「私は利仁将軍(藤原利仁)の後胤、斎藤内蔵助利三という光秀股肱の者で候!

恐れながら、三七殿にとって御親の仇随一の者である! 御自身で私を御討ち取り下さるべし!」と言いながら、
信孝の本陣へ父子手勢は必死になって切り入った。その時、中川瀬兵衛清秀の2千5百騎が横合より打って

掛かり、斎藤勢を引き包んで討ち取らんとした。これによって信孝は斎藤勢を散々に討ちなされ、過半が討死
したので内蔵助・伊豆守父子も叶わずして一方を切り抜け跡をくらまし落ち行った。

――『改正三河後風土記(柏崎物語)』


光秀天罰逃れ難く

2018年09月16日 17:28

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/14(金) 17:35:28.33 ID:gJvnQJNT
(山崎の戦いの時)

光秀の先手・斎藤内蔵助(利三)は狐川の向こう岸より使者を立てて、光秀を諫めた。

「今日の合戦は御延期然るべし。筒井の加勢も見えず、只今より坂本へ引き取られて要害に
拠って一戦されれば、安土に左馬助(明智秀満)がおりますので後詰の便りもあります。

そうでなければ、すぐにこれから安土に籠城されて然るべし。以前から申すように山崎の地
は味方にとってよろしからず。大軍を引き受けて防ぐにはもっとも難しい地です。

合戦の雌雄は只今にて候。時刻が移れば、その方策もなおさら難しくなります。」

このように申し送ると光秀はこれを聞いて、

「主君を弑逆するほどの光秀、天命の帰するところ何の恐れかあらん! 汝そこまで恐れる
のならばそこを引き取って当手に来るべし! 先手は他人に申し付けん!」

と罵ったため、使者は大いに恐れて立ち返りその旨を申した。内蔵助はこれを聞いて、

「光秀天罰逃れ難く、敗軍の兆しあらわれたり」

と言って嘆息した。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・続武家閑談)』



147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/14(金) 23:41:16.22 ID:w7XezzrT
>>146
斉藤さんって謀反にノリノリだった説と諌めた説があるけど
これは諌めた説を下敷きにしてるのかな

かのような乱の中で優しい武士であった

2016年02月24日 15:45

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/23(火) 23:46:42.98 ID:6NNrWvJY
 齋藤内蔵助は明智日向守殿が謀反の時に申したことは
「この思し召しを、私は十が九で勝手な御振る舞いと思いません。
そうであるのであえて御諫言を申し上げません。」
と、血判を速やかにしたという。
 そのうえ安土の城を受け取った後に、もはや落城に及ぼうとしましたとき、
敵の方へ信長公が御所持されていた道具を渡した後に城に火をかけた。
道具は世々の宝なので焼失すると残念だと、かのような乱の中で優しい武士であった。

 これにつけても松永弾正が平蜘蛛の釜を落城のときに割りましたことは、
甚だ賤しき志である。
(本阿弥行状記)




371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 01:09:02.03 ID:aWt95gpS
光悦はこのエピソードを秀満じゃなく利三がやったことにしてるのか

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 06:55:25.67 ID:Yzm0g8SB
>>371
筆者は光悦じゃないってば

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 12:13:58.97 ID:Y9/NH5SF
本阿弥シリーズが始まったときは自分も光悦が筆者かと思っていたっけ

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 12:54:48.08 ID:MZQzaca8
じゃあ本物の筆者は誰なんです?

376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 20:04:35.10 ID:Yzm0g8SB
>>374
本阿弥光甫。光悦の孫。

海北友松・斎藤利三の墓

2012年02月04日 21:55

738 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/04(土) 10:52:36.89 ID:itxgZTSB
「雲龍図」「花卉図」等を描いた海北友松は豊臣~徳川時代の絵師として
知られるが、元は近江浅井氏に仕えた武家の出である。親友であった斎藤
利三が主君・明智光秀とともに本能寺の変を起こして敗れ、謀反人として
本能寺跡に晒されたことを知ると、その夜に遺骸を持ち去り手厚く葬った。

梟首台の衛兵を槍を振るって襲ったとも、東陽坊長盛という仲間の僧侶が
読経で気を逸らしたとも言われる(両方かも知れない)。奪われた方には
たまったものではないが、羽柴勢が制圧した洛中でやらかすには襲う方も
命懸けである。更に福(後の春日局)ら利三の遺児を匿ったとも伝わる。

長盛が住職を務めた京都の真正極楽寺には長盛と友松夫婦、利三の墓が
仲良く並んでいる。

教科書では長谷川等伯や狩野永徳と同じ文化人としてしか紹介されないが、
画業に専念する前の恐らく最後の武勇伝である。




739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 11:00:18.62 ID:GDxTLFHm
こういうのってお咎め無しというか逆に褒められることも多いよな、勝者の余裕ってとこだろうか
あとホントかどうか知らんけど親父さんが秀吉に尊敬されてたってのも理由の一つかね?

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 14:00:52.01 ID:Kny0XdF+
まあ絵師と坊主に襲われる方のが失態だしな

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 17:39:46.53 ID:WNZu97OL
絵師と坊主に負けました首さらわれましたじゃカッコ付かないもんな
おそらく天狗のせいにされたんだろう

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 17:56:12.44 ID:HN975UnA
大猿じゃ、怪しげな大猿が攫っていったのじゃ!

(゚Д。)
~~~~~~


753 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/05(日) 00:56:28.89 ID:51k4F3fk
>>739秀吉が海北友松の仕業と知っていたかどうか分からないけど、この後の
賤ヶ岳の戦いでは敵だった佐久間盛政を突き出した農民を処刑した話もある。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1012.html

戦国時代は同じようなことをしても結果オーライもあれば、裏目に出る場合も
あって生き抜くのは本当に大変だったと思う。天下人3人に逆らっても本人や
子孫が生き長らえた人もいれば、忠勤に励んだのに冷遇や取り潰しに遭ってる
家もあるし。


織田信長、富士山を見て、ふと

2009年09月17日 00:21

480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/16(水) 02:41:45 ID:s6bCrSAX
ちょっとした逸話を書き込んでみる。


天正10年の、信長の有名な、甲斐征伐の帰りの富士遊覧。
初めて富士を見た信長は、それはそれは大喜びではしゃいだそうなのだが、
ふと、こんな言葉を漏らした

「富士山は本当に大きいけど、斎藤利三の奴はこれを見ても、『あんなものはまだまだ小そうござる』、
なんて言うだろうなー。」

斎藤利三、信長も呆れさせるほど、スケールの大きな男であった。
(老人雑話)




481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/16(水) 02:46:30 ID:s7ufvGvU
富士すら小さいとなると世界を求めていくしかないなw
日本に収まらぬ器の男、斎藤利三

482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/16(水) 02:51:29 ID:3zqzTm3y
>>480
その勢いで光秀に「織田家の下で落ち着くなんて小さいですぞ」とか煽ったのかなw