かのような乱の中で優しい武士であった

2016年02月24日 15:45

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/23(火) 23:46:42.98 ID:6NNrWvJY
 齋藤内蔵助は明智日向守殿が謀反の時に申したことは
「この思し召しを、私は十が九で勝手な御振る舞いと思いません。
そうであるのであえて御諫言を申し上げません。」
と、血判を速やかにしたという。
 そのうえ安土の城を受け取った後に、もはや落城に及ぼうとしましたとき、
敵の方へ信長公が御所持されていた道具を渡した後に城に火をかけた。
道具は世々の宝なので焼失すると残念だと、かのような乱の中で優しい武士であった。

 これにつけても松永弾正が平蜘蛛の釜を落城のときに割りましたことは、
甚だ賤しき志である。
(本阿弥行状記)




371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 01:09:02.03 ID:aWt95gpS
光悦はこのエピソードを秀満じゃなく利三がやったことにしてるのか

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 06:55:25.67 ID:Yzm0g8SB
>>371
筆者は光悦じゃないってば

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 12:13:58.97 ID:Y9/NH5SF
本阿弥シリーズが始まったときは自分も光悦が筆者かと思っていたっけ

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 12:54:48.08 ID:MZQzaca8
じゃあ本物の筆者は誰なんです?

376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 20:04:35.10 ID:Yzm0g8SB
>>374
本阿弥光甫。光悦の孫。

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海北友松・斎藤利三の墓

2012年02月04日 21:55

738 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/04(土) 10:52:36.89 ID:itxgZTSB
「雲龍図」「花卉図」等を描いた海北友松は豊臣~徳川時代の絵師として
知られるが、元は近江浅井氏に仕えた武家の出である。親友であった斎藤
利三が主君・明智光秀とともに本能寺の変を起こして敗れ、謀反人として
本能寺跡に晒されたことを知ると、その夜に遺骸を持ち去り手厚く葬った。

梟首台の衛兵を槍を振るって襲ったとも、東陽坊長盛という仲間の僧侶が
読経で気を逸らしたとも言われる(両方かも知れない)。奪われた方には
たまったものではないが、羽柴勢が制圧した洛中でやらかすには襲う方も
命懸けである。更に福(後の春日局)ら利三の遺児を匿ったとも伝わる。

長盛が住職を務めた京都の真正極楽寺には長盛と友松夫婦、利三の墓が
仲良く並んでいる。

教科書では長谷川等伯や狩野永徳と同じ文化人としてしか紹介されないが、
画業に専念する前の恐らく最後の武勇伝である。




739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 11:00:18.62 ID:GDxTLFHm
こういうのってお咎め無しというか逆に褒められることも多いよな、勝者の余裕ってとこだろうか
あとホントかどうか知らんけど親父さんが秀吉に尊敬されてたってのも理由の一つかね?

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 14:00:52.01 ID:Kny0XdF+
まあ絵師と坊主に襲われる方のが失態だしな

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 17:39:46.53 ID:WNZu97OL
絵師と坊主に負けました首さらわれましたじゃカッコ付かないもんな
おそらく天狗のせいにされたんだろう

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/04(土) 17:56:12.44 ID:HN975UnA
大猿じゃ、怪しげな大猿が攫っていったのじゃ!

(゚Д。)
~~~~~~


753 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/05(日) 00:56:28.89 ID:51k4F3fk
>>739秀吉が海北友松の仕業と知っていたかどうか分からないけど、この後の
賤ヶ岳の戦いでは敵だった佐久間盛政を突き出した農民を処刑した話もある。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1012.html

戦国時代は同じようなことをしても結果オーライもあれば、裏目に出る場合も
あって生き抜くのは本当に大変だったと思う。天下人3人に逆らっても本人や
子孫が生き長らえた人もいれば、忠勤に励んだのに冷遇や取り潰しに遭ってる
家もあるし。


織田信長、富士山を見て、ふと

2009年09月17日 00:21

480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/16(水) 02:41:45 ID:s6bCrSAX
ちょっとした逸話を書き込んでみる。


天正10年の、信長の有名な、甲斐征伐の帰りの富士遊覧。
初めて富士を見た信長は、それはそれは大喜びではしゃいだそうなのだが、
ふと、こんな言葉を漏らした

「富士山は本当に大きいけど、斎藤利三の奴はこれを見ても、『あんなものはまだまだ小そうござる』、
なんて言うだろうなー。」

斎藤利三、信長も呆れさせるほど、スケールの大きな男であった。
(老人雑話)




481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/16(水) 02:46:30 ID:s7ufvGvU
富士すら小さいとなると世界を求めていくしかないなw
日本に収まらぬ器の男、斎藤利三

482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/16(水) 02:51:29 ID:3zqzTm3y
>>480
その勢いで光秀に「織田家の下で落ち着くなんて小さいですぞ」とか煽ったのかなw