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平田助次郎(清野長範)、美少年寵愛伝説

2009年09月19日 00:14

549 名前:utareyowaidesu[] 投稿日:2009/09/18(金) 18:45:56 ID:wWx90RiN
一応検索したけど 既出でしたら ご容赦を 「戦国Xファイル」より

上杉景勝に仕えた小姓で平田助次郎という者がいた
北信濃の国人だが、もともと蘆名氏の家臣平田氏の出身。

天下統一を目前にし、奥羽仕置を視野に入れた豊臣秀吉は、蘆名領会津に攻め込んだ
伊達政宗を牽制するため上杉景勝に会津救援を命じた。
この時、蘆名側から人質としてひとりの美少年が上杉陣中に送られてきた。
それが 平田助次郎で、たちまち世話係の木戸玄斎はこの美少年のとりこになってしまい、
二人はデキてしまった。
史書にいわく、「年十六、父の證人として御勢の陣中にありしか、人となり容兒甚美麗にして
且つ才智あり。軍監木戸玄斎深く之を愛し共に艶交を結て情好甚渥し」と。

やがて、秀吉の奥羽仕置が済んだが、木戸玄斎は平田助次郎と別れたくない。
景勝に願って上杉家に召抱えてもらおうと思った。
かくして、面接試験にのぞんだ助次郎であったが、景勝も木戸同様、彼の美しさの
とりこになってしまった。
史書にいわく、「公は平田が美兒なるを御覧あって大に悦び玉ひ、即日命あって
御近習仰付られ昼夜御側を放し玉はず。御寵幸、日に渥し」といった具合。
木戸玄斎にとっては、トンビに油あげを攫われてしまった格好だが、相手が
主君では仕方がない。なに、初穂は自分が頂いたのだと自ら慰める。

平田助次郎は、やがて北信濃の名族清野氏の跡が途絶えたのを襲って、
清野周防守長範と名乗った。
景勝の信任は相変わらず篤かった。
仕えづらい景勝の機嫌を一度も損ねることはなかったという。
またしても史書にいわく、「初め景勝公は御性厳烈におわして御近侍の
臣往々と罪譴を蒙り終りを全くするは少なかりしに、長範始終恩寵衰へず。常に出頭第一たり」


実際、長範はかなりの名士だったらしく、のちに江戸幕府に求められて上杉家が
高家吉良氏や畠山氏と共同で作成したと伝えられる『川中島五箇度合戦の次第』は、
「慶長二十年(一六一五)に清野助次郎ほか一名が筆記した覚書を元にした」
ということになっている。
本当に長範がこれを書いたかは定かではない。ついでに言っておくと、
『謙信公御書集』を筆写したのも平田氏で、清野長範の兄の末裔にあたる。
越後・信濃中心の上杉家臣団の中で会津蘆名遺臣としてこれほど政権の
中枢にくいこんだ事例はあるまい。


景勝は臨終の時、導師に法音寺能海法印を指名した。
そして、枕頭に長範を呼んで、おまえも能海法印に導師となってもらうよう遺言した。
同じ引導を渡されれば、来世でまた会えると思ったのであろうか。

現在、米沢市を歩いていると、周防殿堰や周防殿橋といった名前が
残っていることに気づくだろう。
「周防殿」とは長範のことである。現在、米沢の祖型は直江兼続がつくったともてはやされているが、
清野長範の事蹟はあまり顕彰されていないようである。


てことで 美少年寵愛伝説ということで 一部限定されたコアな腐女子に 
やたら知名度が高い平田クン

景勝 ガチホモ説の元となったと思われる話で 景勝のちょっと きまりの悪い話





550 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/09/18(金) 19:16:41 ID:/6pzyHg8
>>549
きまりは悪いがしまりはいい話
アーッ!


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