二本松家相伝の旗

2016年12月19日 17:27

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/19(月) 17:23:39.42 ID:GFAqlQ5c
天正13年、二本松義継による伊達輝宗謀殺事件(粟之巣の変事)を受けて、伊達政宗による
二本松攻めが行われると、わずか11歳であった義継嫡男国王丸(二本松義綱)は、伊達の大軍に対し、
義継の伯父である新庄弾正正、新庄尾張、新庄左衛門、箕輪玄蕃の補佐を受け籠城した。

10月15日、伊達政宗の軍は押し寄せてきた。先鋒の片倉小十郎は栗刀迫より池ノ入、亀ヶ谷を取り巻いた。
田村清顕は西谷口に廻り龍泉寺の前まで攻め入り、伊達成実は城の艮の口に攻めかかった。

ここで不思議な事が起こった。

二本松家には祖先より代々相伝の旗があった。これは天子より賜った錦の旗であった。
二本松家が難儀に遭った時、この旗を開いて再拝すると、いつも祥瑞があった。

新庄尾張はこのことを思い出し、本丸に上り、杉の枝にかけてこれを再拝した。
すると、雪がちらちらと降り始めた。これは卯の刻(午前6時頃)の事であった。

伊達政宗の軍は片倉小十郎を先手に揉み立て攻めてきたが、二本松城は大木を切り倒して
逆茂木とし、普段から気心の知れた朋輩たちばかりで籠城していたため、互いに恥はかけぬと
手を砕いて防いだため、伊達軍の上下士卒は攻めあぐねた。
新庄尾張は卯の刻の初めから伊達の攻勢が終わるまでの間に、敵が逆茂木際まで寄せ来て水の手を
取ろうとするのを17度まで追い払った。

そしてその夜、亥の刻(午後10時頃)より大風大雪起こり、18日まで降り続いた。
このため政宗は21日、小濱へと帰陣した。

(奧相茶話記)

伊達政宗による二本松城攻めについてのお話。



429 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/19(月) 22:33:15.06 ID:vUIXaLyh
南無八幡大菩薩

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血染めの桜の悪い話

2014年12月08日 18:22

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/08(月) 12:49:05.76 ID:0690pWDd
血染めの桜の悪い話

白鳥長久が山形城の最上義光の寝所で斬り殺されると、氏家守棟は法螺貝を鳴らさせ
伏せ隠していた兵300で近間で休んでいた白鳥家の家臣らを討ちに掛かった
白鳥の兵の大半は城外の宿に分散して置かれ、城内に同道した30人程の白鳥家臣たちは
主の長久が殺されたことを知り、山形城から逃れ様と奮戦をしたが既に門は閉ざされ、
銅鑼に太鼓が鳴る度に最上の兵は増え、白鳥家老の熊野三郎友重も本丸北西の角に追い詰められ、
壮烈な斬り死にを遂げた
そこには春になると見事な花を咲かせる江戸彼岸の桜の木があった

明治時代末から大正初期に山形の史跡について纏められた「山形散見」といったものがある

山形城本丸跡の霞城連隊広場脇にある桜は最上義光の謀により討ち取られた白鳥主従の反り血を浴びた事から
「血染めの桜」と呼ばれる様になったとされる

この伝承は古老の伝える口語の昔話によって「谷地の白鳥某(なにがし)が彼の地で討たれた際にあった桜」
白鳥長久が寝所から逃れたが、留めを刺された所にあった桜」「白鳥は寝所で斬られ、
その家臣らが最期を遂げた場所」等という事で幾つかの話がある

山形城跡南東の済生館の入口付近にも「白鳥長久首洗いの石桶」と呼ばれるものがあるが、
こちらも一説には山形城本丸の手洗いの石鉢か、山形城内に当時あった歌掛稲荷の手水鉢(ちょうずばち)では
ないかとも言われている

血染めの桜は戦後まであった
連隊解体後の城地整理で一旦二ノ丸北西に移植されたが、土が合わずに昭和32年頃に枯れてしまい、
その幹の一部が山形城跡の郷土資料館と谷地の資料館に展示保存されている



972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/08(月) 20:24:54.34 ID:bp7jPN4n
この秀吉は、人を斬ることが嫌いなのです。って太閤殿下も言ってたじゃないか

973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/08(月) 21:54:57.27 ID:Paa8DOv0
というか好きな方がおかしい

974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/08(月) 22:07:57.22 ID:o8xywyyW
>>972
脅迫状にさらっとあれを書ける太閤殿下はホンモノさ

975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/09(火) 02:25:33.02 ID:v2MtIaxh
>>973
当時は多分そうでもないぜ

976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/09(火) 02:45:46.21 ID:VHXXMKOc
前田利家「俺は不義な殺しはした事はないぞ」
越前住民「利家は一揆千人あまりを生け捕りにして、みせしめに磔、釜いりで皆殺しにしたぞ。」

白鳥長久討たるるの亊

2014年12月07日 17:23

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/07(日) 12:30:28.15 ID:yNnhc+L4
白鳥長久討たるるの亊

※この話にもパターンがいくつかあります

さる日、志村黒兵衛(以降志村九郎兵衛=光安)は谷地の城取十郎義国(※以降白鳥長久)を訪ね
「山形の主(最上義光)が病に倒れ、明日をも知れぬ命であります
義光は稚姫さま(長久の娘)と嫡男義康君の婚姻の縁で大事を託せるのは白鳥様しかおられない
生きている内に幼少である義康君の後見人引いては最上家の後事を是非にお頼みしたいとの事で、山形城へとお越し願えませぬでしょうか」と深刻そうな面持ちで話をした

長久は席を少し外すと

「山形からの使者が最上義光が死に掛けていて、婚姻関係のよしみで後事を託したいと言って来ている
使者を待たせているがどうしたものだろう?」と谷地城を訪れていた羽柴勘十郎に尋ねた

勘十郎はそれを聞くと
最上義光は最近飛ぶ鳥を落とす勢いであったが、病に倒れ婚姻関係を頼りに後事を託したいと言って来ているのだ
子供の行く末を案じている親の心は大層不安であろう
彼の言を汲んで山形に見舞いに行ってあげなさい」と答えた

その頃山形城下では最上の家宰氏江尾張(※以降氏家守棟)が寺社を廻り
「殿(最上義光)の容態が思わしくない。急ぎ祈祷をしてくれ。今殿に倒れられる訳にはいかんのだ」と僧や山伏らに声を掛けていた

この様子は草の者によってつぶさに谷地の長久の下へと届けられていた

日を置かず今度は氏家守棟が谷地城の白鳥長久を訪ねて来た

守棟「主義光の病は悪化するばかりで、もう我らでは見守る事も辛うございます。是非是非生きている内に一目見舞うてやっては頂けませんでしょうか」

「仮に義光の策だとしても精兵を連れて行き、城の要所を押さえれば何事も問題なかろう」と長久は兵500と抱え大筒数十を供え、輿で山形へと向かった

長久が山形城御殿に着くと義光の病状は相当悪いと見え
一間には医師らが治療の評議の言い争いをし
また別の間では僧や山伏らが護摩を焚いたり経を一心不乱に唱えていた

奥の間にも上座下座に仏僧が並び座り、手に汗を流して法を取り行っていた

長久「ただ今、参りました」
守棟「おお、これはよくぞよくぞ
お供の方はそちらでお休みくだされ。長久様、殿の寝所はこちらになります」

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/07(日) 12:53:50.76 ID:yNnhc+L4
守棟「殿(義光)、長久様が遠路はるばるいらっしゃいましたぞ」

義光は顔を傾け目をそばめると喉から咳を二三し
「おぉ、おぉ、よくぞよくぞいらっしゃいました…
生きている内にお会い出来て本当に良かった…
志村に言伝を頼んだ様に嫡男義康は未だに幼少
私が死んだ後も実の息子の様に可愛がってやってくだされ
そればかりが心残りで…」と呻いた

長久は「義光殿、我等の仲ではございませんか」と感激して涙を流し、袖を濡らした

義光「ごふっ、尾張(守棟)…、系図を持て。長久様に託したい…。九郎(光安)、系図の説明を…」

氏家守棟が巻物を恭しく掲げ持ち、志村光安を連れて閨に入って来た

義光「…拡げてくれ…」

守棟が長久の目前の床に最上氏の系図を拡げた

義光「伝来の羽州探題を証明する、家宝の系図でござる…」

守棟と光安が長久の左右に付いた

義光「長久殿…」
長久「なにか?」

守棟と光安が長久の着物の袖をかすがいで床に抜い付け
はっと顔を上げた長久が最期に見た物は枕元の太刀を抜き、袈裟掛けに切り降ろす最上義光の姿だった

「山形軍談」ほか

油断している相手を拘束して斬殺する
ちょっと変わった謀事のお話




伝白鳥長久の墓

2014年09月10日 18:55

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/10(水) 14:32:55.25 ID:lfTYGnOM
白鳥長久の墓

山形県大石田町の次年子の里には塚群といった土まんじゅうがいくつか固まっている場所がある

この中の一番大きな土まんじゅうには天正年間に最上義光に討たれた白鳥長久の遺骸を、白鳥の重臣の平林玄馬が落ち延びて葬ったとされる言い伝えがある

郷土史家の川崎利夫氏が発掘をしたところ人骨が出土し、
札幌医大の石田肇助教授の調べで
人骨は約400年前の40代ほどの筋骨隆々とした成人男性のもので
大腿部に治癒しないままの刀傷が見つかった

伝承が裏付けられた平成初期の発掘の話

※ただし服装品や墓碑が無いために
伝承の域となっている

名家が滅びゆく時

2013年03月06日 19:50

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/05(火) 23:02:59.95 ID:lp6Siulz
北畠顕忠は浪岡城主北畠顕村の従兄弟であった。
浪岡城が落城した際は油川城におり、落城の報を聞き涙を流して悔しがったという。
その後、土民に変装して行方不明の妻子を探して見つけ出し、顕忠は顕村の一人娘と自分の子顕佐を
老臣沼山勘解由に預けた。
成長した時には二人を結婚させ、北畠氏唯一の正統な血統とし、先祖を祀らせることを頼み、顕忠は
秋田に落ちていった。

やがて沼山勘解由は大浦為信の軍門に降り、大浦城に仕官するようになったので秋田にいる顕忠にも、
降参して一族で同じところに住むことを奨めた。
しかし、顕忠にはどうにもならないことで、その返書に金五十両を添え、重ねて一族の養育を頼んだ。
その返書の内容である。

--------------
去月二十八日の来状、いま拝見候。いよいよ御無異の条、満足致し候。
しかれば、このたびの貴様御官僚(仕官)に有りつきなされ、ごもっともに存じ候。
ついては、拙者も降参いたすまじきやのむね、御親族のよしみと御厚情浅からず、かたじけなく存じ候。
譜代の長者(家臣)、もろもろ歴々の大方、降参のうえは、拙者若輩の身、
さっそく貴様の御深情にしたがい申すべく候えども、亡君の契り、忘れがたく存じ候。
ことに近ごろ、多病に相なり候間、いまさら降参の望み、
これなく、このうえとて四海いまだ定まらず、ただ風波と漂着仕るべき存念に候。
しかれば、御地にて唯御先祖祭りごとも分にいり、御成長の後は、先祖祀らせくだされたく候。
北畠中納言(顕家)の正統末葉とも、ほかにこれなく候間、拙者の心底を御察し、何分頼み入り候。
妹に別紙進ぜず候、よろしく頼み入り候。
一.金五十両、軽少の御座候えども、これを進呈仕り候。
一.おたがい御存じ、もちろんの儀に候えども、御当家の先祖由緒、大方書き記して進じ候。
こども成長ののち、先祖を祀らせ仕り、別家のためにもつかまつり候節、
この遺物相添え、こどもへ御渡しくだされたく、委細の記録は、先だって兵乱の折り、散乱致し候。
この度も急使、ことに粉乱のなか、委細記しかね候。
ただ胸中に覚え候趣きばかり、書き記し候のみ。

八月十六日     北畠左近顕忠

沼山勘解由殿

---------------

名家が滅びゆく様をありありと伝えている書状でした。






乳井氏の戦国

2012年12月29日 19:55

881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/29(土) 11:36:29.08 ID:8e3YYawD
弘前市の石川地区には、かつて石川城があり津軽の中でも南部寄りの地区という話があったが、
石川地区の乳井という大字はまた違った歴史がある。
現在、乳井には乳井神社という神社があり、かつては乳井福王寺毘沙門堂という修験寺であった。
大鰐から平川右岸の山岳地帯に勢力を持ち「津軽の法師三大名」ともいわれたという。

別当は福王寺氏といい、戦国時代には堂衆を率いて勢力を拡大し、
福王寺玄蕃の代には猿賀神社の別当も兼ねる勢力にまで発展、
南部氏にも従わないことから玄蕃は「沙門大名」とも言われた。
もちろん、南部氏は邪魔な福王寺を放っておくはずもなく、
1565年、玄蕃は大光寺城代滝本重行の刺客により路上で暗殺されてしまう。
玄蕃の息子は乳井建清といい、父が暗殺された当時はまだ若年で、仇討ちすることも出来ず、
逆に滝本重行に福王寺に対する抑えの高畑城を築かれるなど、寺領を圧迫され、侵略を受けることとなる。

その後間もなく南部家中は南部晴政の後継問題で統制が効かなくなり、
それに乗じて大浦為信が1571年に謀反、石川城と和徳城を一日で落とすが、
建清の居館と石川城は目と鼻の先であり、騒ぎを聞いた建清はこれに乗じて高畑城を急襲、奪取することに成功する。
建清は高畑城主となり、すぐさま為信に臣従した。
1574年8月と1575年1月に先陣として大光寺城を攻め、1575年に滝本重行を津軽から追い出すことに成功する。

1578年、大浦氏が浪岡北畠氏を滅亡させた結果、大浦為信と安東氏の仲は悪くなり、
1579年には安東愛季が比山六郎・七郎を総大将に津軽へ軍を出した。
この軍に滝本重行と北畠顕則が合流し、建清の元居館である乳井茶臼館や乳井城が落とされた。
この時に建清は大浦城におり、比山軍が乳井茶臼館に立てこもると大浦為信自身が軍を率いて出陣、建清はそれに従軍した。
両軍は六羽川付近で合戦し、大浦軍は次第に追い込まれ、田中太郎五郎が大浦為信の身代わりとなるなどの損害を出すが、
大浦為信を討ち取ったと勘違いした比山軍が油断した隙に比山六郎が討死した。
比山軍は大将を失い総崩れ、滝本重行も敗走する結果となった。

父を暗殺した仇敵を戦で二度破った乳井建清は、その仇敵の居城であった大光寺城主となり、
福王寺玄蕃暗殺以来の滝本氏との因縁に白黒つけたのであった。

>>358あたりで出てきた乳井氏の戦国時代でした。


参考
津軽信義、幕府の尋問に
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7009.html


田村清顕卒去、原田宗時盗人を討つ事

2012年11月21日 19:52

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/21(水) 05:59:52.34 ID:WGnTcA71
まとめには別説がもうあるけど。
奥羽永慶軍記より「田村清顕卒去、原田宗時盗人を討つ事」

天正14年(1586年)、田村清顕はとうとう跡継ぎを得られないまま亡くなる。
「せめて後世の為に祈らん」と大般若経600巻を手づから書き写し、大元帥明王へ
奉納したのちの逝去であったという。

ところが不思議なことに三七日(みなのか=21日法要)も終わらないうちから明王の社に
妖怪変化が住み着いた、との噂が立ちはじめる。
「清顕公が無念に思うあまり化けて出たのだ」と領民はすっかりおびえ、日暮れ時には
全く人通りもなくなってしまった。

また社近くの村に住むある女などは、世にも稀なる嫉妬深さで隣村の女が夫と不義密通をしていると邪推し、
夜な夜な社の神木へ釘を打って丑の刻参りをし始めた。
その奇行はやがて人目に触れ、「かの妖怪はもしやあの女かもしれん、正体は角の生えた蛇じゃぞ」と
領民はさらに恐怖心を募らせていく。

さらにさらに恐ろしいことには、翌天正15年の正月早々にはその女が
化け物に引き裂かれたかのような惨殺体で発見されたのである。
「公の御霊は悪鬼と成り果てたか」
領民はすっかり恐怖のどん底に陥ってしまった。

清顕の寡婦・於北御前はこの噂を恥じれども打つ手がなく、家老一門にいたるまで閉口して
うつむく有様であった。

そのころ伊達家の勇将・原田宗時は政宗の秘命を帯びてひそかに三春へとやってきていた。
※訳者注、先代隆顕未亡人・小宰相と連絡して田村家中を伊達派へ促す目的かと推測。

連れてきた家来が不肖者で早くもへたばったので大元帥明王からほど近いところに宿を取ると、
人々が清顕公の祟りを噂しているのが聞こえてきた。

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/21(水) 06:05:29.08 ID:WGnTcA71
宗時は一考し、「このような噂が政宗公の耳へ入ればさぞ物憂きことだろう。
しかし、女の身体を引き裂くというのは亡霊にあるまじきこと、その昔渡辺綱に
腕を斬られた茨木童子のような鬼の類ではないだろうか」
「わしはさすがに渡辺綱ほどの武勇はないが、斬れるものなら斬ってやれないことはない。
よし、今宵の丑の刻、社へ行って退治してくれよう」
と密かに決意して身体を横たえた。

その夜、へっぽこ家来を起こさぬようこっそり支度を終えた宗時は、意気軒昂社へ乗り込んだ。
辺りを見回しながら屋根に上ると、なるほどたしかに真っ白い何かが5、6人ほど高いびきをかいている。

「ん?」
ここで宗時は気付いた。夜中で見え辛いには見え辛いが、どうみても身の丈5、6尺を超えず人外とは思えない。
「こやつら流れ者の強盗ではないか!妖怪の真似をしくさって人々を脅かすとは許せん!…斬る!!」

怒り心頭、ズドンと屋根を踏み鳴らし
「おのれら化け物を誅すべく原田左馬助が参ったぞ!早々起き上がれ!」と怒声を浴びせかけた。

強盗団の頭と部下たちは、よく寝入っていたところを急襲されたので太刀を抜く暇もなく
立て続けに斬り捨てられてしまう。

宗時の方はなおも油断せず、手足の動く者がいれば入念に刺し殺した。
全てが済むと太刀を納め「このようなこと、誰に自慢できるわけでもなし」とこぼして帰って行った。

夜が明けて6つの死体を見た人々は、誰の仕業かと恐れおののいた。
しかしながら、異変がなくなったのが原田宗時の一宿したのちのことと気付くと
「さてはかの御仁がなせり」と安堵したという。

領主がいないとこんなに風紀が乱れますよ、という悪い話。




439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/21(水) 09:47:08.67 ID:wxl4YkBJ
へっぽこ家来が何かしでかすのかそれとも活躍するのかとwktkしてたら何もしなかったw

遅かった話 小野寺輝道編

2012年08月11日 20:55

923 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/10(金) 23:46:00.21 ID:CU/QAYC2
遅かった話 小野寺輝道編
天正10年、出羽仙北の領主小野寺輝道は、織田信長の家臣千福遠江守に対して返書をした。

『わざわざ書状をいただき、ありがとうございます。
上様(信長)が甲斐・信濃・駿河を始め、関八州までことごとく掌握されたこと、
また西国では中国地方も毛利氏を安芸一国まで追い詰めるのは時間の問題であるとお聞きしました。

上様に対する祝意の御礼を申し上げるべきところ、当方で紛争(小野寺氏は当時安東氏などと対立していた)があり、
承知していながら先延ばしになっておりました。
ぜひとも孫四郎を使者に御礼を申し上げますので、その時は上様に対して諸事よろしくお取り計らいください』

輝道もまたほかの奥羽大名たちと同じように、天下統一を目前に控えた信長と好を通じようとしていた。
信長を『上様』とまで呼び祝意を示している。

が、この手紙が書かれたのは“8月1日”
既に信長は本能寺に倒れていた。輝道は信長の死を知らなかったのだ。

というわけで、本能寺の変が遠く奥羽の地まで影響を及ぼしていたという話。




925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/11(土) 03:20:11.11 ID:QL8qErtR
>>923
ちょw2ヶ月経ってるじゃねーかw
周りはもっと早く情報を入手してるのにどんだけ世間ずれしてんだ

926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/11(土) 05:59:11.37 ID:HF/OB6T/
>>924
とっかかりとして、平山優「天正壬午の乱」がお勧め。

927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/11(土) 07:56:09.23 ID:PVQ/QCRb
東北は日本海側のほうが情報が届くのが早いイメージ

928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/11(土) 08:14:00.48 ID:iu2O5qkN
まあ東北の太平洋側の航路が成立するのが江戸時代だからな、徳川家光の時代。

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/11(土) 08:50:16.87 ID:7w7T/gqH
東北の8月1日が日本の8月1日と同じとは限らないのではないでしょうか

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/11(土) 09:02:13.58 ID:HF/OB6T/
>>929
閏月の挿入時期で混乱したのは、天正10年12月~翌1月の話だから
この話の時点ではいっしょだよ。

稗貫広忠の末期

2012年05月23日 21:01

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/23(水) 13:56:23.48 ID:QjnWTmMl
稗貫広忠の末期
陸奥国稗貫郡の領主稗貫広忠は、奥羽仕置によりその領地を没収され、その後の再興運動も実を結ばず、
没落して稗貫郡矢沢村に潜居していた。
ある時、近所の高松寺の法印と四方山話をするついでに、広忠は法印に語った。

「実はこの頃、良い夢を見るのだ。ひょっとしたら本領に帰参できるかもしれない」
「それはよかったですね、どんな夢をご覧になったので?」
その問いに、広忠は歌を詠んだ。

ただ頼め 真如の道ぞ ありがたき 立ち帰るべき 道ぞ来にける

法印はその時は祝福した。だが広忠が帰った後、
「広忠様は悪い夢を見ておられる。遠からずお亡くなりになるだろう」
その言葉通り、その日からまもなく稗貫広忠は亡くなった。
文禄3年3月2日の事だという。




433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/23(水) 13:58:21.31 ID:j/22FOCs
教えてやれよw

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/23(水) 14:31:06.34 ID:BwbsT0oq
>>433
「お前もう死ぬんだよ」とか言うのか


435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/23(水) 14:32:46.68 ID:iW6HfhIJ
ただでさえ浮かれてるとこに水差すようなことは言いにくいのに、
本領帰参かなわないで死ぬよなんて言えないだろw

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/23(水) 14:54:02.81 ID:qKvhe/8Q
魏延の夢占い思い出した

白鳥十郎小咄

2011年10月29日 22:00

561 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 03:01:51.19 ID:qvYSHBKG
白鳥十郎小咄

出羽谷地(やち)領主・白鳥十郎長久は
「しらとり・じゅうろう・ながひさ」と世間では呼ばれている

しかし江戸後期や明治期の講談では「城取十郎(しろとり・じゅうろう)」と書かれているものも散見される。

白鳥→しらとり・しろとり→城取の当て字かも知れないが
白井(しろい・しらい)といった名字の読み同様、誤解を招くちょっと悪い小咄





白鳥主従の山形行き

2011年10月27日 22:01

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/27(木) 19:12:14.19 ID:lbyHNyB+
白鳥側からの話が無いので



最上義光から白鳥長久さんにお手紙ついた。

「もうダメぽ、系図と後を託したいから、あなたの義息に当たる義康の事をお願い」

長久は最上総領の座を得る好機とばかり重臣を従え籠に乗り行列を作って山形城へと出発した。
田井の最上川の渡し場に来て舟に乗ろうと休んでいると、大きな烏が鳴きながら飛んできて籠の上に糞を垂れ、
湯野沢の方へ飛び去りました。
それを見た白鳥重臣の熊野三郎は
「烏は不吉だ、今日は山形行きは取りやめた方がよい。」と言って長久をとめました。
しかし長久は
「馬鹿なことを言うな、天が出羽の太守を証明した系図を私に預け、後の事を頼むといっている様なものだ。
なにを馬鹿な事を」と叱りつけそのまま川を渡りました。

義光の病床に着いて以降は有名な「血染めの桜」エピソードへと続く話。

隣室で酒を振舞われ控えていた家臣たちは、主人の白鳥長久が切られた事を知って戦ったが、
熊野三郎友重をはじめ全員が壮烈な最期を遂げたと言われている。

白鳥長久の身の危険を知らせるために籠の上に糞をした鳥は、熊野神社の八咫烏だったとも言われています。




549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/27(木) 20:02:08.37 ID:zXGPdauk
>>547
何も二回も「馬鹿な事を」といわなくてもw

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/27(木) 21:27:00.10 ID:2HrhNJXQ
>>549
大事な事だからwww

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/27(木) 21:28:12.84 ID:D5bA/0La
しかし一番大事な事はその馬鹿な事でしたと

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/27(木) 22:28:45.99 ID:MrDgoM/G
>>547
長久「たとえ騙されてると思っても、男には行かなきゃいけない場合もある。ど、動揺してるんぢゃないんだからね!」

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/27(木) 23:17:46.79 ID:pnSFtG0F
何時の世も、欲に目がくらんで安全を軽視すると、ろくな結果を生まないな。

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/28(金) 00:28:14.93 ID:gT1yJC0K
リスクとリターンの関係なんだよなあ
つか戦い続けた最終目的なんだからそう簡単にやめることはできないだろうしねえ
これが最後のチャンスかもしれないと考えたら…

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/28(金) 00:31:40.63 ID:UPW5k/3f
疑わしいが、チャンスを自ら棒に振るのも愚かだし
もう少し偵察していたらとは思うけど
しかし山形で家臣が鮭を振る舞われると、主人が討ち取られるフラグが立ちそうだな

556 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/28(金) 15:16:29.71 ID:Odg1wt48
無粋な事を聞くが、
鮭は本当に振舞われていたの?
書いた人の洒落っ気ではなく?

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/28(金) 16:56:58.56 ID:WjqtvuJT
>>556
酒の変換ミス
「義光記」とかにも「宴席」「酒宴」とある。

遠野阿曽沼氏の滅亡

2011年10月26日 22:00

533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 16:24:19.88 ID:MFVkJyOr
遠野阿曽沼氏の滅亡

陸奥国遠野保の独立領主阿曽沼氏は、鎌倉以来この地を領する大名だった。
だが秀吉の小田原征伐に参陣せず、家こそ潰されはしなかったものの領主としての地位を失い、南部氏の
付庸とされてしまった。

その南部氏との関係はあまり良くなかったらしい。
南部氏は阿曽沼氏の大身鱒沢氏を支援して、阿曽沼氏と対決してきた経緯があった。阿曽沼氏も
旧敵の配下にされ面白いはずがない。
また、当主阿曽沼広長の正妻が、伊達家臣となった気仙の世田米氏の出身であったことも、南部が
阿曽沼氏を警戒する理由であった。

ある時、阿曽沼広長と鱒沢左馬之介広勝の間に隠し田を巡る紛争が起こった際、
裁定を依頼された南部氏は、かねてよりよしみを通じていた鱒沢の肩を持ち、裁定は鱒沢に有利なものとなった。
それに怒った広長は、仲裁役の桜庭安房を闇討ちしようと兵を送る。
桜庭安房は従者を多数討たれながら這々の体でなんとか逃げ延び、闇討ちは失敗してしまう。

いかに裁定が不服とはいえこれはまずい。時の南部当主である南部信直は激怒したが
当時信直は病床に伏せっており、これから間もなくの慶長四年十月に逝去。遠野の処置はそのまま
沙汰やみの形になった。
信直の葬儀は大々的に執り行われ、領内の豪族達が続々参列し向後の忠誠を誓った。
だが、阿曽沼氏は報復を恐れたのか、なんの音沙汰もなく葬儀に参列しなかった。
これによって両者の亀裂は決定的なものとなってしまう。

「遠野孫三郎め、ついにこの方を袖にするつもりか! このまま捨て置いたら示しが付かぬ。速やかに
何らかの仕置の手立てを…」
といきり立つ家臣に、南部利直は、
「まてまて急くな、急いては事をし損じる、手立ては任せておけ」
と宥めたという。

そしてその時はすぐ訪れる。
慶長五年、関ヶ原の前哨となる上杉征伐がはじまり、阿曽沼広長は南部軍の一員として最上口に出兵
することとなった。
しかし家臣の鱒沢は病気を理由に参陣を拒否する。だが鱒沢は領内で釣りやキノコ狩りで遊んでおり、
仮病であるのは明らかだった。
広長は当然怒ったが老臣達に諫められて、仕方なく上野丹後と平清水駿河を留守居として、三〇〇の兵で参陣した。


534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 16:25:07.58 ID:MFVkJyOr
しかし、南部軍が最上口に滞在していた時に、伊達政宗の支援を受けた和賀忠親が挙兵。南部軍は
急ぎ帰国することとなる。
南部利直は
「この騒動は手前の領土で起こったこと、お手前はゆるりと戻られよ」
と広長に言い急ぎ撤退。南部軍はそのまま和賀岩崎城を囲むが、冬の到来により一時囲みを解き、
戦いは翌年に持ち越された。

そしてその頃遠野では、鱒沢広勝が兵を挙げ、主のいない遠野を占領してしまっていた。無論、利直と
鱒沢が示し合わせてのことである。
鱒沢は居留守の上野丹後と平清水駿河など主立った者を招き、謀反の計画を明かした。
「手向かいせずに城を明け渡せば厚禄加増の上子々孫々まで安堵するが、
手向かえば当人は元より妻子眷属にいたるまで討ち果たすべしと、南部殿からも言われている」
と脅迫。上野丹後と平清水駿河は降参するよりほかなく、他の者も謀反に同意した。
唯一火渡玄浄のみがこれに同意せず、上野と平清水の不忠を罵り退席、その後彼は自らの館に籠城し、
壮烈な戦死を遂げた。

関ヶ原の戦いが終わり、広長は伊達領を通り、岩谷堂から人首まで到着したが、
鱒沢は南部の兵と共に遠野境で待ち伏せをしており、それを知らされた広長は当然驚き、遠野へ攻め入ろうとした。
が、士卒達は遠野に妻子を残しており、戦えば人質とされるのは明白で、士気は上がらず脱走者が続出。
広長は仕方なく、「他日必ず兵を起こして遠野に帰参する故、その時は出迎えて合力するように」
と誓わせて、腹心五・六人を連れて、妻の実家世田米へ落ち延びていった。

その後広長は伊達政宗に援助を頼んだ。政宗は「さては南部に先を越されたか」と口惜しがり、
阿曽沼氏に兵を授けた。
広長は奪還戦を挑み、首謀者である鱒沢広勝を討ち取ったりもしたのだが、とうの遠野からは期待していた
内応がまったくなく、
それどころか仙台勢の乱暴を恐れ、必死になってかかってくる。そのうち、郎党の松崎監物や海上喜八が戦死し、
浪人ばかりで戦意の薄い仙台勢は総崩れとなる。
「恩知らずの人でなし、犬にも劣る人非人!」
撤退する兵の中で、広長は助けに来なかった遠野侍達を罵り、男泣きに泣きながら落ちていった。
広長はさらに二度の奪還戦を試みるが、結局遠野奪還はならず、失意のうちに仙台で亡くなったという。




もう一人の「酒井忠勝」

2011年08月17日 23:01

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/17(水) 08:06:01.31 ID:2is70TG2
もう一人の「酒井忠勝」

酒井忠勝と言えば、江戸時代初期に幕府の大老を務めた若狭小浜藩主が有名だが、
同時代にもう一人「酒井忠勝」がいた。
酒井家次の長男、つまり徳川四天王酒井忠勝の孫であり、酒井家の直系であるその人物は、
秀忠から一字を拝領して忠勝と名乗った。
とりあえず、有名な方の「忠勝」はこの話には出てこないので、ここでは忠勝で通す

元和八(1622)年、最上義俊が改易されると、酒井忠勝は庄内への転封を命ぜられた。
幕府は山形城に鳥居忠政を配置し、その周縁を忠政の縁戚で固める方針をとった。忠勝は忠政の娘婿であった。

幕閣に説得されて庄内に移った忠勝は、鶴ヶ岡城(現鶴岡市)を本拠地として、最上氏の事業も引き継いで
様々な政策を実施した。
しかし、大きな失策も犯してしまう。
寛永三(1626)年、領内で凶作が起き、さらに寛永七(1630)年にも不作が起きたのだが、年貢を
減免しなかったのである。
庄内藩では定免法を実施していたため、租率が変わらなかったのだ。

寛永九(1632)年、生活に苦しんだ遊佐郷・荒瀬郷の農民が秋田領の由利・仙北に逃散。
藩はこれをそれぞれの大肝入の責任として、高橋太郎左衛門と池田刑部左衛門を牢に入れた。
幕府の巡検使が来る前年だったこともあり、藩としては大肝入の二人を殺して「問題なんてなかった」に
するつもりだったという。
結局、釈放された二人だったが、殺されそうになったことを知った太郎左衛門は大いに憤った。
寛永十一(1634)年十一月、太郎左衛門は弟とともに江戸に行き、幕府に直訴。
十三条からなるその訴状は、知恵伊豆こと松平伊豆守によって受理された。

その結果、何と太郎左衛門と刑部左衛門は肝入に復職。
さらに太郎左衛門は後に二百石の家中に召しだされるという、異例の待遇であった。
庄内藩もおとがめなしということで、知恵伊豆の配慮により、ひとまず事件は穏便(?)に済んだのであった。

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/17(水) 08:08:42.92 ID:2is70TG2
…が、忠勝のトラブルはまだ続く。
忠勝の弟、長門守忠重が御家乗っ取りを画策したのである。

この忠重、白岩領(現寒河江市など)の領主だったのだが、これまた苛政を布いていた。
で、案の定百姓一揆が起きて、領地没収。没収後は、庄内藩の客分として暮らしていた。
客分とは言え藩主の弟である。忠重は権力を握り、遂には家老をもしのぐほどとなった。
そして忠重は「忠勝の子を廃し、自分の子を忠勝の長女に娶らせて二代目藩主の地位に就ける」という
野望を抱くのである。

忠勝・忠重の弟である了次(玄蕃)は、忠重の讒言により後に幽閉され死亡。
忠重と対立した家老の高力喜兵衛一方は、讒言を受けた忠勝の命により追放。一族縁者も多くが追放・切腹などの処分。
この忠勝に讒言した人物は喜兵衛の同志であったが、忠重に脅迫されたらしい。
同じく家老の水野内蔵助重次は追手を差し向けられたが、寺院に潜伏して命は助かった。

かくして、ライバルたちを消した忠重は野望成就へとあと一歩まで近づいた。
しかし、喜兵衛一族を追い落とした翌年の正保四(1647)年。忠勝が病死したのである。
遺言により、忠勝の子である忠当が継いだため、ここに忠重の野望は頓挫。
忠重は忠当から義絶され、後に息女縁組の不始末により改易。改易の翌年、隠棲先で何者かに
殺害されるのであった。


農民に訴えられたり(忠勝にも原因あるけど)、弟に家督狙われたりと、
そんな波乱の人生を送った、もう一人の「酒井忠勝」の話。

ちなみに、参考にした本によると、忠勝は短期だったらしく、手打ちにした人数三百人余り。
その内、自ら手にかけたのは 一 二 〇 人 から 一 四 〇 人 と伝えられてるそうな。





447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/17(水) 09:00:16.68 ID:p1JMQgO9
忠勝3人目がいるなw

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/17(水) 09:14:28.17 ID:XmSH+2r3
>>446
>その内、自ら手にかけたのは 
>一 二 〇 人 から 一 四 〇 人>と伝えられてるそうな。
今すぐ長可に改名しろwww

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/17(水) 14:50:20.99 ID:8opW1zNp
これまた胸糞悪い話だな。

成沢道忠と龍の兜

2010年10月31日 00:00

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/30(土) 18:40:38 ID:70ZQeu6q
成沢道忠と龍の兜

昔話なんで深く突っ込まないで欲しい。

最上四十八楯の一角に長谷堂と双璧を成す成沢館という岡城があった。
館主は米沢の伊達侵攻の際にも家名を保った最上義定の一門成沢氏。

天文の大乱にも参加した成沢氏には家宝とも伝わる龍の前立ての兜があった。
多くの最上重臣が討たれた対伊達家の長谷堂の戦いでも成沢氏の武名と家名を守った栄光の兜である。

やがて時が流れこの兜の噂を聞きつけ氏家守棟の嫡子が成沢館を訪れた。
氏家某「それがし初陣はまだ叶わないものの、初陣の折には是非高名なる兜をお借りできませんでしょうか?」
成沢道忠「この兜は当家の宝にて、お貸しするワケには参りません」
氏家「そこをなんとか・・・」
成沢「くどいですぞ!実子の光氏にもそれがしが死んだらくれてやると言ってるくらい大切なものです。お引取りくだされ」

連日に渡って陳情しに来る氏家に、道忠も熱意に打たれ(いい加減に折れて)ついに家伝の兜を戦の時に
貸すことと成った。

龍の兜を被った氏家が参加したのは「十五里ヶ原の戦い」
知る人ぞ知る、「最上義光の代で最大の負け戦」である。

氏家は戦死したが、兜だけは後に成沢家に戻ってきたという。
事の詳細は判らない。

龍の兜は二度と被られることは無く、
成沢道忠の息子の光氏は後に氏家守棟の養子となり、名門成沢家は家名を失った。
件の龍の兜の行方は現在判っていない。

「山形の昔話」より




155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/30(土) 19:06:54 ID:fjcYRv8S

>>154
三河武士が聞いたら説教しそうな話だな
縁起のいい兜に浮かれて自ら心に油断を生じさせるとは何事かと

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/30(土) 20:25:47 ID:tgUgFv5D
>>155
三河にも良く似た話があるな。
結末は全然違うけど……
http://iiwarui.blog90.fc2.com/?q=%CB%DC%C2%BF%C3%E9%BE%A1%A1%A1%B5%CB%B9%BC



162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/30(土) 22:08:21 ID:Vr7GhCm5
>>154補足

諸説色々あるが

1570年代に伊達勢に後押しされた上山軍が最上を攻めてる。
この時迎撃したのが資料では「成沢道仲(みちなか・どうちゅう)」

1580年代後半に大崎合戦の傍ら行われた「十五里ヶ原合戦」には
「成沢道忠(みちただ・どうちゅう)」が60-70歳で出撃しているとある。

最上義光が死んだ1614年には成沢道忠入道が「山野辺義忠」を主君に据えようとして失敗し、
伊達領松島に逃げ、この子孫は現在も伝わっていると最上歴史館の人物史に表記がある。

同一人物だったらゆうに100歳越えてるわな。

道仲と道忠は二代だという説もあるけど
史料ではっきりとしないバツの悪い話って事で。

あと、この龍の兜「水魚の立ち物」とも「鯉の兜」とも言われてるみたい。
決して鮭の被り物じゃないよ。




奥州四釜(しかま)氏、諸行無常

2010年05月23日 00:03

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/22(土) 02:06:26 ID:MAf2C9uS
諸行無常

奥州仕置きで主家を失った家臣達は今でいうところの
会社の倒産したサラリーマンに似ている。
大崎・葛西一揆を始め和賀・稗貫の旧臣で
他家での恩恵を受けられたのは
仙台伊達家に仕えた「千葉氏」「及川氏」「氏家氏」など一握りの旧臣だけである。
ただ、石巻大崎氏家臣四釜隆秀系の「四釜(しかま)」氏などのように
他家へ奉公し、現在も山形~宮城に分布する
「志鎌」「色麻」「鹿間」各姓に子孫反映の心意気を感じる。




182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/22(土) 12:40:47 ID:kHM1D51c
色魔はいないかさすがに

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/22(土) 12:56:00 ID:gSOmRZ+5
宮城県北の佐藤・千葉・菅原・小野寺姓の多さは異常。

山賊の棟梁羽川小太郎義稙、人助けをす

2010年03月17日 00:02

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/16(火) 20:00:01 ID:GunvGoRF
出羽国由利郡に羽川小太郎義稙という豪族がいた。
彼の所領は小さく、土地も貧しく、それでいて抱える郎党は多かった。
当然ながら、領民も侍も生活が苦しい。
そこで羽川一党、食い扶持に困ると小野寺領や戸沢領まで出張し、夜討ち強盗するをこととしていた。

天正13年のこと。
この羽川の海岸に船が漂着し、大勢の男女が乗り込んでいることが分かった。
浜の者がどこから来たのかを尋ねると、彼らは答えた。
「我々は加賀国から来ました。
 能登の大将・畠山義則が滅びましたので、その家中が一揆を起こしたのですが、
 前田利家に敗れ、ようやく命を永らえた者がこうして逃げてきたのです。
 もはや食糧どころか水も尽き果てています。どうか情けを」

さて、これを聞いた羽川の郎党は勇み立った。
畠山家の落人ともなれば、さぞかしよいものを携えているに違いない。
「こりゃあもっけの幸いですぜ。一人残らず引っ捕えましょうや。ゲヘヘ」
といった具合に義稙に報告した。
ところが義稙、
「相手は衰弱して当方に頼ってきているのだぞ。どうしてこれを害することができるか」
と一喝すると、漂流民に食を与えたばかりでなく、屋敷まで用意してこれを救ったという。

まあ、この後、落人達も引き連れて奇襲に出かけたりしてるんですけどね。




765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/16(火) 20:33:42 ID:c05ocXRF
山賊って身内には優しいよね

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/16(火) 20:36:19 ID:WhDVcU3M
悪党でも身内にはやさしいからヤクザは血のつながりがなくても親分、兄貴分、弟分といった疑似家族の形態をとる
発生がまったく別のマフィアでも同様

示現寺の怪異

2010年02月27日 00:05

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/26(金) 16:29:03 ID:KS4CzbBl
会津、喜多方の示現寺といえば、天授元年(1375)に、殺生石退治でも有名な源翁心昭和尚によって開山された、
東北の名刹である。
ところがこの寺で殺生石の謡を歌えば、必ず怪異のことが起こるのだと言う。

加藤明成の頃のこと。

江守金太夫と言う謡を良くするものが、喜多方に湯治に赴き、その折、この示現寺に遊んだ。
この時寺の住持に源翁行状記を読み聞かせてもらい、これに、

「その本には、垂示(禅宗の師家が大衆に教えを説くこと)の充実が熱心に説かれています。
それに対して殺生石の謡は、垂示が大きく衰えた時の話です。
ならば、この謡は源翁和尚の意に沿うものではないのでしょう。それ故に和尚の神霊がこれを受け入れず、
怪異のことが起こるのではないでしょうか?」

と、自分の解釈を語った。
住持やこれを聞いた人々、「なるほど、怪異が起こるには必ず理由と言うものがあるのだなあ」と、
大いに納得したそうである。

で、理由が解っても特に怪異の解決はしなかったようである。




834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/26(金) 17:56:07 ID:mI8no7Zx
>>832
不覚にもオチに笑ったw

毒沢義盛とその子達、「毒か薬か」

2009年11月30日 00:22

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/29(日) 03:02:30 ID:dJsY5hSG
ついでに一つ


毒か薬か


近畿では関ヶ原が終結した頃、奥州和賀の地でも一つの戦いが終わった
奥州仕置で没落した和賀氏が、領地拡大を狙った伊達家の支援を受け、
再興を図ったが夢破れたのである
その後、和賀の当主忠親や家臣の主だった者は仙台の国分尼寺で自刃することになる

その中には毒沢義盛の名もあった
毒沢という厳めしい名は、和賀氏没落の時に義盛の居城であった
濁沢城の井戸に自ら毒を投げ入れ
野に下ったことを由来とし、濁沢から毒沢に改名したと伝わる

義盛は前述の通り自刃して果てたが、子の吉広は名を毒沢から多田と改めて伊達家に仕えた

その義広は、後に子供二人を政宗の側に置く事に成功する

只野作十郎勝吉と勝女姫である

只野作十郎に関しては今更説明の必要が無いので省略するが、
三代全員が名を変えたのは興味深い
勝女姫は政宗との間に伊達宗勝と岑姫の二人を授かった

伊達宗勝は伊達騒動の中心人物で、以前は専横を極めた悪人とされていたが
近年においてそれは、旧来の地方知行制を維持したい伊達宗重派と、
中央集権化を図ろうとした伊達宗勝派の争いに
敗れた末の評価であり、宗勝は改革者であったという評価もされている

事件後の仙台藩において、地方知行制はその影響を色濃く残すが
毒沢の血を引く宗勝は伊達家にとり、果たして毒であったか薬であったのかは定かではない



勝女姫の娘・岑姫は伊達宗重の兄宗実に嫁いでいます
伊達騒動の頃には勝女姫も岑姫も亡くなっていますが、勝女姫は1665年まで生きていたので
片や息子、片や娘の嫁入り先が日々軋轢を深めていく様を
複雑な気持ち見ていたのではないかと思います




698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/29(日) 08:53:17 ID:4N/wmRGO
只野はラブレターの相手かw
勝女姫はなんて読むの?

699 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/11/29(日) 11:03:39 ID:I0iZF+dC
盛重は実はかなり有能で出奔後は佐竹に仕えて
対伊達最上の最前線にもなる横手城を任されたほど。
単にDQN政宗にイジメを受けていただけだと言う…

700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/29(日) 11:11:11 ID:wSW6lPkk
実際はそんなとこだろうな

701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/29(日) 11:13:23 ID:RgBp5NEz
経営者一族で関連子会社任されたもののそこでは合わず、他社に移ったら実力発揮ってとこか

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/29(日) 11:31:09 ID:cZ72HBqL
逆に、大内定綱は伊達に反抗していた時は散々だったが、
召し抱えられてからは手腕を遺憾なく発揮しているな。
後に一族の家格も与えられているし。
石川昭光も伊達家に戻ってからは、一門筆頭になっている。
まあ、成実はおもしろくなかったみたいだけど。

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/29(日) 11:45:04 ID:jRrUVGb3
前からいた家老よりも有能な新参を待遇するのはどの家でもあるんだけどな
まぁ織田はそのせいで殺されたけど

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/29(日) 13:13:58 ID:dJsY5hSG

>>698
スイマセン分かりません

武士は相身互い

2009年11月15日 00:14

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/14(土) 16:09:54 ID:D4tsbjvi
武士は相身互い

北方の関ヶ原こと慶長出羽合戦。
この時、直江兼続率いる上杉軍二万の襲撃を最初に受けたのが、最上義光家臣、
江口五兵衛光清が守る畑谷(幡屋)城である。

この時江口が、義光からの、山形城への退却命令を「敵を目の前に城を捨てるのは
武士たるもの末代までの名折れ」と拒否し、兼続からの降伏勧告も無視して見事に戦い、
ついに討死した事、これは有名である。

さて、この戦いにおいて江口光清の首を取ったのは、志賀五郎右衛門と言う男であった。

志賀は元々近江の武士で、はじめ蒲生氏郷に仕え、その後氏郷の息子秀行の代になって
領地が大きく削減されると牢人となり、その後上杉景勝に仕えた。
そしてこの軍に参加、敵城主の首を取るという大手柄を立てたわけだ。

関ヶ原の決戦が終わる。

志賀は会津領主に復帰した蒲生秀行に、五百石で召し返された。
やがて蒲生家が改易されると、志賀の息子、五郎左衛門は、九千石の大旗本、
植村忠朝の与力となり、志賀も息子について、江戸へと出た。
志賀、その江戸である人物を見つける。

志賀は息子に頼み、植村忠朝にその人物を推薦、志賀家と同じく、植村忠朝に
与力として仕えることになった。
その人物とは、志賀が首を取った、江口光清の息子であった。

植村忠朝の下で相番となった志賀家と江口家は、それ以後終始、仲睦まじい付き合いをした、
とのことである。




357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/14(土) 18:23:08 ID:V4eOibPe
これはいい話だなあ、本当に

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/14(土) 22:28:02 ID:BGyKGwbH
ええ話や

男は黙って…、田市郎兵衛

2009年06月11日 00:07

356 名前:男は黙って…(二)[sage] 投稿日:2009/06/10(水) 11:00:22 ID:unU+lH2q
田市郎兵衛は浪人して困窮していた所を、寺沢広高に四百石で拾われた。
黒田長政などはこれを惜しみ、「三千石出そう、ウチに来い!」と市郎兵衛を誘ったが、彼は
「拙者、ほとんど飢え死にせん時、寺沢家に招かれて命を拾いました。
禄の大小で、その恩を忘れられましょうや?」と、これを断った。

業を煮やした長政は、市郎兵衛の主君・広高に直談判に及んだ。
長政の執着を不審に思った広高は、理由を長政に尋ねた。

「おや、当人から聞いておられぬか?かの市郎兵衛、首供養を成し遂げた武辺者ですぞ!

しかも、ある戦で殿軍を引き受けた際、負傷者の助けを求める声に応じ、自分の馬に
これを乗せて、馬の口を取って退こうとした。
当然、敵が数人ばかり追いかけて来たが、市郎兵衛がそのうち一人を、ただ一突きで
突き伏せると、誰も追って来なくなり、彼は見事に自陣へ帰り着いた。

負傷者など放っても苦しからぬものを助けたばかりか、冷静に敵をさばき、殿軍をやって
のけるなど、並の武者では出来ぬ技。三千石出して、何が惜しかろうか?」

驚いた広高は、早速に市郎兵衛を呼びつけた。
「なぜ、己の功を誇らぬ?当家で三千石出しても良いのだぞ?」
市郎兵衛は答えた。
「実は、負傷者を救う気などありませんでした。しかし、拙者より後に退く者がいて、これを
助けて帰れば、拙者の評判が落ちると思い直し、仕方なく助けて帰ったまでにござる。」

「今どき、何と飾らぬ男よ・・・」
長政は市郎兵衛の引き抜きをあきらめたが、後々まで彼を称えた。