その者の腕は

2016年11月15日 21:28

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/15(火) 01:18:02.86 ID:v5hkRdd1
(慶長13年、)この夏、関東の者といって、京都に来た者がいた。

その者の腕は末端にいたる程次第に細く、こぶしの形はなおも細かった。

そのこぶしの先には指がただひとつあって、酒などを飲む時は肘を開き、
盃を肘に挟んで飲んだ。

その者は縄を上手にないた。たとえば、手のある者よりも縄を速くないた。

――『当代記』



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十千散起立の事

2016年08月25日 14:56

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/25(木) 03:55:00.79 ID:1PIrfqxH
十千散起立の事

 東都浜町に、小児科の医をして数世代に聞こえる印牧玄順というものがいる。
その先祖は戦国で主家の御敵であった者の子孫で、
その主人が没落後、浪遊して抱える人がおらず、
ある医師のものに立ち寄って生計をたてていた。

 かの医師は家伝に万病散とかいうものを売薬していたが、
その奇効は著しく戦場でも多くの者が求めていた。
この医師に随身して遂にその薬の製法を伝えられた。

 後に印牧は分かれたというが、師家の秘薬であるので、同銘を遠慮して
十に千を合わせれば万になるという心で、十千散と名づけたという。

 今もかの家ではその薬を出している。
予が子孫もこの薬を用いて、奇効があったという。
(耳袋)




喜多院に味噌をすること成らず

2016年08月19日 08:58

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/19(金) 00:45:11.09 ID:oH+VXyuJ
喜多院に味噌をすること成らず

永禄の頃とか、喜多院の住持が天狗となって妙義山中の獄というところに飛び去ったという。
よって住職代々の墓の中に、この住持の墓だけは無いという。

またこの住持に使われていた小僧も天狗となって飛び立ったが、庭前で墜ちて死んだ。
ゆえにその処に今小祠を建ててある。
この小僧が飛び去る前は味噌を摺っていたが、すりこ木を投げ捨てて飛んだとか。
その故か、今はこの院内で味噌を摺ると、必ず何物かがすりこ木を取り去ると。
なので味噌を摺る事ができないので、槌で打って汁にするという。
これもまた何者かがかくなしているのか。

(甲子夜話)



24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/19(金) 10:11:35.12 ID:/CyzfqZL
うんこは持ち帰りの逸話かと思った

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/19(金) 13:04:04.23 ID:46fc0BLd
味噌を擂って使ってたのって昭和何年くらいまで?

下総三山七年祭り由来

2015年11月02日 13:12

924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/02(月) 12:17:34.38 ID:c9uumMhm
この週末に丑年と未年だけに開催される下総三山の7年祭りが催されたので、その起源といわれる話をひとつ

下総は馬加(まくわり)という処に馬加康胤という将がいた。
康胤は千葉一族の重鎮にして、上杉禅秀の乱の頃より宗家と共に関東の争乱を戦い抜いてきた古強者である。
しかしながらそんな康胤にもひとつの悩みがあった。
それは彼の妻のことである。

じつは康胤の妻が身ごもってすでに11ヶ月を過ぎていたが、いっこうに出産する気配がなかったのだ。
これにほとほと困り果てた康胤は、領内にある二宮・子安・子守・三代王の4つの神社に安産祈願の祭礼を依頼した。

さて祭神のご利益によるものか、ほどなくして妻は珠のような男児を出産し康胤は大いに喜んだという。
そして「祝いの祭りをする」と領内に触れを出し、安産御礼の大祭を執り行って家臣や領民と共に嫡子の誕生を神に謝したのだとか。
時に文安2年のことだという。

地元の情報誌やwikiなどから
他にも、普通に安産を祈願したら三代王の祭神が康胤の夢に現れたからというお話もあるようです
ちなみに秋口に二宮神社(船橋市三山)で小祭が、今ぐらいの時期に二宮神社とゆかりのある8つの神社が神輿を二宮神社に参進する大祭が催されます
それぞれの神社には父母や子守・産婆などの役割があるそうです

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/02(月) 12:24:06.53 ID:c9uumMhm
関東が本格的な争乱状態に陥る少し前のお話で、この男児は名を胤持といいます
そして後年の享徳の乱において父康胤に先駆けて幕軍に討たれることになる若武者です
ただ、享年23といわれているのでお話の誕生年だと勘定があわないんですよね
てか、過去帳に記載すらないそうなんですがw
いずれかの記録が間違っているのか、あるいはこの年に産まれたのは女子のほうだったのか、はたまた元服にあわせて祭礼を行ったのか
ちなみにこのときの康胤の年齢は60から70ではないかと推定されます



この事態に神保は

2015年07月12日 17:30

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/11(土) 19:58:51.58 ID:UheazMzI
上杉謙信は天正6年(1578)の3月9日に患いだし、5日後の13日に49歳にて他界した。

他界したその13日から、本国である越後は騒ぎたった。その理由は、謙信は小田原北条氏政の舎弟・三郎を
養子とし景虎と名付け、また甥の喜平次をも養子とした。
謙信は、自身の存生はまだ久しいと思っていた。末々国を沢山に治めれば、跡を二旗に分けて
支配しようと考えていたのだ。しかし人間は不定の世界であり、3月13日に謙信は49歳にて死んだ。
14,15日には喜平次と三郎は謙信の跡を争い、春日山城において、本丸と二の郭で互いに弓鉄砲の
競り合いがあった。

この時、春日山城下には織田信長より謙信の下に、上方への御用のためと詰め置いていた、
佐々権左衛門が在った。彼は謙信との御用によって伊豆守と成っていた。
佐々は「いつまでも我らは越後に罷りあります。」と申していたにも関わらず、それを即座に翻して
暇乞いもなく上方へと脱出し、途中の道より『謙信御他界疑いなし』と飛脚を立てた。

佐々伊豆もやがて安土に着き、越後の模様を詳しく報告すると、信長大いに喜び、柴田右馬之丞という者を
召し寄越し、『越後をその方に取らせる』と書かれた書付を自筆にて出した。

このようであったので、越後における喜平次と三郎の争いは諸国に隠れないものとなり、謙信の他界は
10日の内に聞こえ、信長は加賀、越中、能登へ工作の手を入れた。
そうして加賀は信長の家来の佐久間玄蕃に与えられた。これも柴田修理(勝家)の甥であると聞く。
能登国は前田又左衛門(利家)に、越前は柴田修理に給わった。

越中は謙信他界を聞き、神保(長住)が運を開いた。かねてより信長が密かに謙信に対して盾をついていたのは、
この神保が信長の妹婿に成ったゆえだからである。

然れども、信長はおおかたならぬ表裏の大将であったから、末々神保を滅ぼそうと、佐々内蔵助(成政)という、
信長の家臣で柴田修理に劣らぬ剛の武士を神保の介添えに差し寄越すと、事に寄せて神保の権限を奪い、
越中は佐々内蔵助に給わるということになった。

この事態に神保はどこにも頼る相手がおらず。結局は敵の謙信の他界を悔やんだそうである。

(甲陽軍鑑)

尻高左馬助の自決

2014年07月09日 19:08

647 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/07/08(火) 21:40:26.38 ID:qdGf8z75
上野に尻高左馬助義隆という人物がいた。
当時上野は武田氏の勢力下で、上杉派の左馬助は孤立無援状態だった。

天正8年、とうとう武田軍が大軍で攻め寄せてきた。
しばらく戦った後、武田軍が城内に矢文を射込ませ、城主の自決を条件に降伏をすすめてきた。
左馬助はこれを受け入れ、城兵に「長い間、某のために命を捨てて働いてくれたのに対し、
いささかの報いるところも出来ず無念であるが、今は容赦願いたい」と、それぞれに褒美を与え、
城の内外を掃除させて郷里に帰した。そして最後に左馬助も10人ばかりの部下と城を出た。

道々では猿ヶ京の住民が涙を流して見送り「ご最期を見届け申したい」と言ってきたが、
左馬助は検視の者に遠慮してこれを断った。また途中で神社や寺に寄って後生菩提を祈願しつつ、
恕林寺に使いをやり「武運尽きて切腹するためにここまで参上した。
御寺の庭をお貸しください」と申し入れた。

住職の春朝は左馬助の縁者だったのでこれを受け入れ、左馬助やその部下を厚くもてなし馳走した。
春朝が「(自決することで)みんなの身代わりとなろうとする気持ちがいたわしい」と涙を流したので、
左馬助も竹筒に入った酒を取り出して、別れの盃を取り交わしてあとあとの事を遺言したりして
思わず時を過ごした。

すると左馬助の最期を見届けようと寺を囲んでいた武田軍がこれを見て
「気おくれしたか左馬助、見苦しいぞ!」と嘲笑してきた。
それを聞いた左馬助、「いざ剛の者の最期を見よ!」と武器を取ると寺より踊り出でて
見物していた武田軍に襲い掛かった。さらに供の部下たちもこれを見て同様に襲い掛かった。
だが、所詮は多勢に無勢。左馬助は傷つき疲れ果てて、最後は寺の内に戻ると念仏を唱えて切腹した。
部下もこれに続き、全員が自決したという。

美しい自決劇かと思いきや、余計なひと言でめちゃくちゃになってしまったちょっと悪い話。
ちなみに春朝は、寺内に薪を積み上げて火を放ち、寺が焼け落ちるどさくさに紛れて脱出したという。

『上毛古戦記』より

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/08(火) 22:13:26.56 ID:qdGf8z75
ちなみに『上毛古戦記』(みやま文庫/編 みやま文庫 1966)は国立国会図書館でデジタル化されている
(ただし国立国会図書館/図書館送信参加館内公開)ため、お近くの県立や大規模市立図書館で見ることができます。





そしてついにその時が来た

2013年09月07日 20:03

283 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/09/06(金) 22:27:51.45 ID:3+5POUxL
上州は吾妻の地に羽尾治部入道道雲(幸全)という人物がいた。
海野長門守幸光、海野能登守輝幸兄弟の兄である。
羽尾道雲は同じく海野氏族である鎌原宮内少輔と西吾妻の覇権を争っていた。
武田信玄による仲裁も入ったが、結局鎌原宮内少輔は自領を追われて信濃へ逃れた。

永禄五年六月、羽尾道雲が万座温泉に湯治に出かけた隙をついて、鎌原宮内少輔はこれを奪還する。
逆に今度は羽尾道雲が信濃へ逃れた。
羽尾道雲はまた領土を取り戻すべく、自身の親類で鎌原氏の重臣である樋口某に「勝てば鎌原領はおまえのものだ」と内通を呼びかけた。

樋口某はこれに応じ、「攻めるのであれば雪が深くならないうちが良い。大前方面から攻めれば宮内少輔は自ら出てくるはずだ。
それで出陣の際は宮内少輔は黒い馬に、私は葦毛の馬に乗って出る。黒い馬を目印にこれに乗っている宮内少輔を鉄砲で撃て」と助言した。

そして羽尾道雲は大前方面から兵を進めた。
それを討つべく宮内少輔も樋口某を連れて兵を進めようとした。

すると鳥居川を渡ったところで、宮内少輔の馬が足を前膝を折って伏せてしまった。
「この馬は足立ちが悪い。樋口某、馬を代えてくれないか?」
さすがにこの場で断るわけにもいかないので樋口は力なくそれを受け入れた。

しかしだんだん戦場が近づいてきて鉄砲の音が聞こえると樋口は自分が撃たれると怖くなり、
そこかしこで止まったりしたため、宮内少輔からは1町ほど離れてしまった。
それ(樋口某の旗印が後方にある様子か)を見た羽尾入道は「樋口は内応するつもりだから後方にいるのだろう」
と特に異変には気付かなかった。

そしてついにその時が来た。
羽尾道雲に「黒い馬に乗った将が来たら、それを撃て」と命じられて潜んでいた鉄砲名人の猟師が、
黒い馬に乗った樋口某を見つけ、これを撃ったのだ。
猟師が撃った弾は樋口某の銅丸を打ち抜き、さらにその遠くにいた郎党の頭を打ち抜いた。

その報告を聞いた羽尾入道は「大将は討たれ、残った樋口は味方だからもう大丈夫だ!」と弓鉄砲を袋に収めさせ、
弁当を出させて宴会を始めた。
そこへ無傷な状態の鎌原軍が襲い掛かり、さらに裏切り者も出たため、戦いに敗れ羽尾入道は1騎で落ち延びたのだそうな。




284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/07(土) 02:57:41.47 ID:e7W2zYB8
策士策に溺れる・・・いや狩人罠にかかるのほうが近いか。

永禄八年上野国撰銭騒動

2012年10月08日 20:26

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 00:02:39.36 ID:ucQTLqwW
永禄八年(1565)のこと、上野国矢場郷(群馬県太田市)に住む、由良成繁の家臣・石橋与三衛門尉が、
平塚郷(群馬県太田市)の百姓から大豆を買い上げた。
ところがこの時石橋と百姓との間で、支払いを精銭(良銭)でするのか鐚銭(悪銭)でするのかで
対立した。そう、これぞ『撰銭問題』である。

この当時、同じ額面の銭であってもその種類や状態によって価値は大きく異なった。
精銭と鐚銭の価値の差は、5~10倍ほどもあったとされる。
少し解りやすく説明すると、日本で日本円の他に、価値としては日本円のほぼ10分の1である
韓国のウォン(漢字表記は円)が額面としては同等の貨幣として流通している、というようなものだろうか。

この時石橋は、代金を強引に鐚銭で支払った。すなわち5~9割引きで無理やり買い取ったということである。
百姓たちは石橋の地所まで出向き当然猛抗議をしたがなかなか会おうとせず、百姓たちは近隣にあった
長楽寺の住持・賢甫義哲に助けを求め、義哲は石橋に書状を送った。

ようやく帰ってきた石橋からの返事にはなんと、『精銭で支払って欲しいのなら計る升を大きいものに変えろ』
というものであった。こんな話に百姓たちも納得するはずもなく、義哲は再び石橋に、
『この地域では鐚銭での支払いは認められていないこと。升も過去から使い続けられてきたものである』
とのことを説明し、精銭での支払いを求めたが、かんばしい反応はなかった。

業を煮やした百姓たちはついに領主である由良氏の居城・新田金山城に押しかけた。これには由良氏の側も
驚き、役人を派遣し裁定を行うとした。しかし3ヶ月たってもこの問題の解決は一向に進まなかった。
そして、それ以後の記録は無く、これが一体どうなったのか、わかっていない。

関東における撰銭問題の実態を端的に表した、貴重な記録である。
(長楽寺永禄日記)





751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 12:29:14.17 ID:zZF9wQuo
あれだな、相撲大会

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 12:58:23.60 ID:dvSpoWsP
そうだな揉め事の解決には相撲大会だな

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 13:57:54.80 ID:PhOw4zrL
相撲大会なら円満解決

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 14:46:52.35 ID:jB/Q2g6o
茶席を整えるようにと宇喜多さまが申しておりました
・・・というか西から信玄が攻めてきたからそれどころじゃなくなったのかもしれん


756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 17:49:19.36 ID:KIOp1hmP
この頃ってまだ貨幣を中国から輸入してたんだっけ?
暦も中国のパクリ。
現代でもいまだ中華暦パクリの悪影響が、まだ寒いのに立春、まだ暑いのに立秋で残ってる。
(大陸性気候の中国は日照時間の変化がすぐに気温に影響する。)

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 17:57:16.41 ID:eiQoRDUO
>>756
日本の独自貨幣は江戸幕府が慶長11年(1606)に公鋳した慶長通宝で待たねばならない。
というかまともな通貨制度が出来たのは全部江戸時代に入ってからだな。

ちなみに慶長通宝は、日本で皇朝十二銭いらいおよそ600年ぶりに政府によって公鋳された通貨

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 18:01:50.34 ID:Jaj5m+dt
この頃の良銭は永楽通宝だな。
暦は宣明暦ベースだが北条は三島暦だろうな。

気候に関しては戦国時分と現代は違うから、
今の感覚でどうこう言うのもおかしい話だ

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 23:23:26.60 ID:78zjey80
>>758
永楽通宝は西では悪銭、東では良銭

761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 23:51:44.53 ID:wzVNTHRI
>750
永禄年間に「鐚銭」なんて用語はまだ無いだろ。
原文でなんて書いてあるか興味が有るんだけど。

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/09(火) 12:43:53.22 ID:cHbghv6Y
>>永禄8年(1565)伊勢大湊の「船々聚銭帳」には、港の税金を納めるお金で、
>>永楽銭1枚は”ひた7枚”に値するとの記述があります(この『ひた』がビタ=鐚の言葉の初出とされています)。

ちょっとググったら出てきたが・・・
俺は研究者じゃないので本当かどうか知らんが。

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/09(火) 23:26:12.71 ID:nHbFVm2X
>762
片仮名や平仮名で「ヒタ」「ひた」などと記述される銭種の呼称が
東海地方で1560年代に登場するのは間違いないけど、
しばらくは東海ローカルな用語なのよ。

その後畿内でもヒタ、比タ、比多といった用語の使用例が出てくるけど、
例えば奈良興福寺の多聞院日記だと初見が天正7年(1579)、
東大寺文書で初見が天正9年(1581)かな。
関東だと、例えば後北条氏領国だと永楽銭と対比される銭種は「並銭」などと
呼ばれていて、ヒタという用語の使用は家康の関東入部以降ではないかと思う。

さらに、ヒタに「鐚」の漢字が当てられるようになるのはおそらく17世紀に入ってからで、
今のところ文書での初見は慶長13年(1608)の江戸幕府の法令らしい。

だから永禄年間の上野に「鐚銭」は無いだろうと。

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 09:21:11.01 ID:Rb3K20Cz
出典出してくれてるんだから調べてみればいい

最も緩やかな下克上

2011年12月30日 22:00

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/30(金) 17:43:25.04 ID:D/Uq39ik
最も緩やかな下克上


戦国時代の初期の頃、上野の国の新田庄の領主は新田氏の後裔である岩松氏であった。
しかし、岩松尚純の代に家宰である横瀬成繁・横瀬景繁親子の専横が目立つようになり、
尚純は明応4年(1495年)に兵を起こしたものの敗れ、子の岩松昌純に強制的に家督を譲らされた。

岩松氏の凋落はここから始まった。
昌純は家督を継いだ当初から横瀬景繁の傀儡の立場に甘んじていたが、横瀬景繁の死後に
子の横瀬泰繁を倒す計画を立てる。
しかしながら横瀬泰繁に計画が漏れ、横瀬泰繁が先手を打って岩松昌純を殺した。これが
享禄2年(1529年)の事である。

横瀬泰繁は岩松昌純の弟である岩松氏純を擁立したが、より専横の色を強め、もはや氏純には何の権限も無かった。
そんな横瀬泰繁も天文14年(1545年)に下野で戦死する。
しかし、泰繁の子である横瀬成繁は相続時既に40歳で政務への参加歴も長く、横瀬氏の支配は盤石であった。

もはや岩松氏の出る幕の無いことを悟った岩松氏純は天文17年(1548年)、失意の末に自害して果てた。
そこで横瀬成繁は従来通りに岩松氏純の子である岩松守純を擁立し、権力を握った。
しかし、横瀬成繁は更なる野心家で、ついには「実質的な権力者」には飽きたらず、「新田庄の正式な支配者」
になることを志向する。

永禄8年(1565年)、ついに横瀬成繁は岩松氏の本拠である新田金山城の城主であると主張し始め、
岩松守純は桐生に幽閉された。
熱心な献金も功を奏して朝廷や時の将軍からも正式な領主として認められた成繁は
やがて由良成繁を名乗り、家系図を改竄して「新田氏の後裔」とまで主張する。

ここに足掛け4代、70年にも及ぶ期間を経て横瀬氏(由良氏)の下克上は完成したのであった。




539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/30(金) 18:44:13.67 ID:3SW+FGis
由良成繁こんな奴だけど善政敷いてたので領民に凄い慕われてたらしい。


540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/30(金) 19:09:51.62 ID:CIc4TCEk
そうして支持者が多かったのも下克上が成功した一因だろうな
上手くやったものだ

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/30(金) 19:20:05.76 ID:SrjtQPKR
善政敷いて支持を受けてるのも自分だし軍事外交切り回してるのも全部自分なのに何でこの座ってるだけの奴に
主人面されにゃならんのよ、こいつ要らなくね?ってのが先だったかもね。

明確にどっち先てのは本人ですらはっきりしてなかった気もするけど

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/30(金) 19:20:46.18 ID:Gi3e2PjE
善政敷いてくれるなら主君でも家老でもどっちでも良いんだろうな
その方が近代的か

由良氏誕生

2011年08月21日 22:59

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/21(日) 19:11:55.41 ID:/tJ71kRE
由良氏誕生


横瀬氏は元々は新田氏の血を引く上野の名族、岩松家に仕える家柄であったが戦国中期の横瀬泰繁の代から
家中を牛耳り、やがて主家を凌ぐ権力を得ていた。
だが、専横を極める泰繁は天文14年(1545年)に下野壬生合戦で戦死し後を息子の由良成繁が継ぐことになる。
そしてこの成繁は父以上に容赦がなかった。

家督相続時、成繁は40歳という年齢で政務への参加歴も長く「家中法度」「百姓仕置法度」などを制定するなど
既に実績充分で家中の信任を得ており、
泰繁の死という絶好の機会が有りながらも既に梯子を外されているどころか当主が幽閉されてしまっている
岩松家は流れを変えることは出来なかった。
そして天文17年(1548年)頃、時の岩松当主である岩松氏純が長年の幽閉に精神が擦り切れたのか自殺し、
跡を岩松守純が継ぐとこれも成繁は幽閉した。

成繁は名実ともに新田荘の支配者となるべく時の将軍、足利義輝との関係を重視し、また関白近衛前嗣が
関東に訪れた際にはこれを持て成して義輝より賞詞を賜った。
やがて幕府との関係強化が身を結び、永禄7年(1565年)に成繁は幕府より刑部大輔に任じられ、
御供衆に加えられるとともに毛氈の鞍覆と白傘袋を免許された。
こうして横瀬氏の新田荘支配の正当性は幕府公認という事になったのである。

成繁はこれを期に姓を横瀬から新田荘は由良の地からとって「由良」と改めた。
また、この時より成繁は横瀬氏の系図を小野氏後裔猪股党から清和源氏新田氏後裔に改竄した。
どこから得たのか成繁は岩松家の系図を把握していたようで由良氏の系図はかなり新田氏の系図とシンクロしており、
あたかも本当に新田氏の子孫であるかもような系図が完成したのである。


こうして源姓由良氏は「作られた」。




514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/21(日) 19:22:04.77 ID:A8v9Gtzt
明治時代に新田嫡流争いで岩松さんの方が嫡流と認められるんだよな、これ。

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/21(日) 19:27:45.51 ID:yBhJ4BtY
岩松守純って後に旗本になるんだけど、なんと
「20石」なんだよなあ
そのへんの足軽レベルじゃんこれ

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/21(日) 19:32:33.37 ID:3mC0MeTQ
そりゃ得川さんからすればねぇw

壬生家の御家存続の為に

2011年07月24日 23:01

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/24(日) 17:43:46.87 ID:VoXGSr6O

壬生家の御家存続の為に

天正十八年、豊臣秀吉が小田原北条氏攻撃の軍を率いて京都から出発した。
常陸の佐竹氏や下野の宇都宮氏らは秀吉に応じて、反北条の意を決した。
それに対して、壬生義雄と皆川広照は後北条氏の元に参陣して小田原城に籠城。
しかし、七月小田原城は開城、壬生義雄はその直後に病死した。享年四十六歳。
義雄は男子に恵まれず、娘の伊勢亀がいるだけで、義雄の死によって壬生家は所領を没収され滅亡してしまった。

しかし話はここで終わらない

壬生氏の旧領は結城領に吸収され、壬生の旧臣は他家への仕官より、帰農の道を選んだ。

江戸幕府が開かれ、京の藤原北家中御門流の「壬生」氏が権現詣で日光東照宮への道中、下野鹿沼の
壬生旧臣が粗末ながらも身形を揃え、京・壬生氏の道中警護を申し出た。
京・壬生氏はこれを断ったものの、道中の共や用事を下野壬生旧臣に許した。

京・壬生氏と下野壬生氏は「縁も所縁もない」、単に苗字が「壬生」であっただけである。

2年3年と下野壬生旧臣からの申し出から、道中の御供も当たり前のようになり、京・壬生氏からは
下野壬生旧臣に金子や酒が用立てされた。

壬生義雄の娘、伊勢亀の婚礼も決まり、所領は無いながらも伊勢亀の嫡男誕生を待ちつつ御家再興を願った
壬生旧臣たちだったが

そこは歴史のやるせなさ

伊勢亀には女子しか生まれず、壬生家の再興の願いは絶たれた




岩松家純、嫡子明純を

2011年07月04日 23:40

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/04(月) 10:33:33.11 ID:MukAFihl
鉢形城で蜂起した長尾景春は上杉方諸将の拠る五十子陣に突入した。
上杉方諸将はもはや支えきれずと判断し、各地へ落ちていった。
諸将の一人、新田の岩松家純は上杉顕定と上杉定正に使いを送り、
自分は老齢なので息子の明純を同道させると伝えた。上杉顕定は家純の口上に恐縮し、
明純の出陣に期待した。ところがである。

「!? 何故お前がここにおる!」
なんと金山に向う家純に明純がついて来たのである。
「お前は何をしておるか! 両上杉家になんと申し上げればよいのだ!」
「夜陰が心配でついて来てしまいました。ここからでも顕定様には追いつきましょう」
「心配なことなど何もないではないか!? ああ、申し訳がたたん、なんたることだ!」

家純の激怒は尋常ではなかった。仕方がないので側近の松陰の意見により
家純はとりあえず明純を武士城に待機させた。
そして使いを上杉三家に送り、事の次第を説明して明純は遅れると伝えた。
これに上杉顕定は「経緯はわかった。待っているので早く来てほしい」と答えた。
しかし、やはり明純は出馬せず、金山に戻ってしまった。

家純は松陰を呼んで言った。
「お前は長年使いを務めてきたから言うが、上杉家に対してこたびの失態は一世一代の
恥辱だ。長生きをして無念千万だよ。明純に期待してすべてを失った。
こうなれば私が出陣する。なんという不運だ。今、頼りになるのはお前だけだ」
しかし、高齢の家純には無理だと判断したのか、横瀬国繁がこれを止めたのであった。

これ以降、親子の溝は深まるばかりでついに明純は勘当されてしまった。
しかも家純は遺言で「明純の意見に任せれば滅亡だ」とさえ言い残したという。





866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/04(月) 17:49:38.24 ID:HwhYwtHy
>>865
岩松さんのところは江戸期も含めて苦労が耐えないねえ。

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/04(月) 18:23:00.39 ID:D6IJZJyU
>>865
岩松さんへ
横瀬には気をつけろ・・・

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/04(月) 22:49:45.26 ID:E2DI015g
岩松さんがメチャ苦労した本家新田氏の祟りかもわからんね

藤田信吉、沼田城を

2011年05月09日 00:00

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 01:30:00.26 ID:CWGiIk4L
天正10年(1582)6月2日、本能寺の変、起こる。

この報は6月9日、上野国厩橋城の滝川一益にも届いた。
俗に滝川一益はこの報を関東諸侯にありのままに伝えた、などと言われるが、
実際にはひた隠しに隠し、本能寺の風聞を聞き信長の安否を尋ねた上野の国人に
『京都の情勢に別状はない』との書状まで出している。

が、このように関東にも風聞としては既に広まり、6月11日には一益がこの事を
最も知られたくない人間、北条氏政も知るところとなった。
ちなみに氏政、翌12日には大喜びで国内に動員をかけているw

が、信長の死によって関東情勢も流動化する中、最初に一益への反乱を起こしたのは、
北条ではなくかつて北条も裏切った男、藤田信吉であった。

彼は沼田城に押しかけ、そこの城代をしている滝川一益の甥、滝川義太夫に対して迫った

「俺の城を返せ!」

義太夫「(;゚Д゚)ハァ?」

これには滝川義太夫もさすがにあきれ果てた。何故なら、沼田城が藤田のものだった時期など
一瞬とてなかったのだ。

確かに藤田は北条時代から武田時代まで、この沼田城に詰めていた。
だが北条時代は北条氏邦配下としてであり、武田時代は真田昌幸の配下として、沼田城代
矢沢綱頼の与力として、それぞれ守将の一人として勤務していたに過ぎないからである。

滝川義太夫はこう返答した

「そもそもこの城は、真田昌幸殿が我らに明け渡したのであるから、返せというなら
真田殿に返すのが筋である。少なくとも貴殿に返せと言われる筋合いはない!」

全くもって正論である。が、藤田はそんな正論に聞く耳を持つような、可愛げのある人間ではない。
彼は密かに越後の上杉景勝と連絡を取り、その支援を得て軍勢を集結、沼田城に攻め寄せ
たちまちのうちに水曲輪まで乗っ取った。

が、この時は未だ関東の滝川勢力は健在であった。義太夫からの報告でこれを知った一益は
6月13日、早速軍勢を率いて押し寄せる。藤田は滝川の大軍に沼田城攻めを諦め、越後の
景勝の元まで逃げた。

情勢の変化をいち早く見抜きいち早く行動しいち早く失敗した、ミスター上野国人、
藤田信吉と本能寺の話である。




88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 02:37:11.47 ID:tBaDcalj
関ヶ原の時といい急時になると元気な奴だな

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 08:43:51.60 ID:4jEqj5/V
そして、素早いだけで行動自体は空回りのあたりがなんとも

90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 08:58:54.30 ID:iz42pG+B
藤田さん、いち早く勝ち組についたのに何故か改易されてる。よくわからんな
目端は利くけど保身がヘタクソなというか

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 13:47:30.50 ID:Yxzp1z0j
>>90
大阪の陣の時に軍監権限でかってに軍を止めて藤堂井伊隊を見殺しにしかけて改易。
逸話見るに有能だがかなり身勝手な人物だったのかね

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 20:05:58.27 ID:eAI+U6WX
育ちが複雑だからなんとか一旗上げたくて空回りしてたのかなあ

余談だが藤田信吉のwiki、「歴史小説「戦国大乱」などでも奸物として描かれており~」と書かれててワロタ
それ歴史小説じゃなくてシミュレーション戦記(しかもスットコ超大作)…

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 23:06:31.09 ID:EU92LFgI
信吉は何の後ろ盾もない状況から、よく頑張ったと思うけどなあ

あと信吉に限ったことじゃないけど、wikiの作品の項目にゲームや漫画を載せるのも自重してほしい…

由良氏顛末

2011年05月02日 00:00

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 12:22:58.80 ID:S23UAFMY
そんなこと言うなら、季節ごとに立場を変える、北関東の領主の皆様はどうなるんだよ・・・




310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 12:54:15.47 ID:zmah96Am
ちょうどこの前年に由良氏がそんな状況になってた。
由良成繁は下克上の後に謙信の小田原攻めにはやくからしたがって謙信から領土を与えられるが
謙信の勢力が衰えると真っ先に北条に帰参し関東諸侯が一斉に北条方へ雪崩を打つきっかけをつくり
謙信から第一の侫人と呼ばれた。
越相同盟を仲介して形式上は上杉の傘下に入るが裏では同盟に不満があった氏政に通じ氏政から
上野一国を進呈すると書状を送られた。
その後越相同盟が破綻すると周辺の上杉方勢力を攻め勢力を拡大した。
しかり成繁は謙信と同時期に世を去り後をついだ国繁には成繁ほどの手腕はなかったらしく
滝川一益退去後一人勝ち状態になった北条は由良氏を攻めた。
昌幸は由良に「上杉と佐竹が援軍に来るから頑張れ」と書状を送ったが
佐竹は援軍に来たものの景勝は上野の瀬下氏に関東に出兵することはないと言って援軍を出さなかった。
結局佐竹も途中で軍をひいてしまい、由良氏は居城を失って北条に屈服することになった。




311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 13:04:33.97 ID:8RyvYDu7
謙信は5回攻めたけど最期まで由良の新田金山城攻略できなかったね。

成繁も腹芸は確かに上手かったが防戦も上手い。

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 13:55:20.55 ID:crvr1eFn
地理的・地形的なものってあるよね。
小勢力は、大勢力に一旦従属したとしても、あくまで自家を保つことが最優先で、
主との間は双務契約的なものだから、攻められたときに後詰めに来てくれない
(来られない)なら、忠義を貫いて滅びなきゃならない義理はない。

関東に何度も入った上杉しかり、三河に何度も入った武田しかりで、山越えして
来る軍勢は、どんなに強くても、季節が過ぎたらお家に帰らなきゃいけないし、
お留守番をたくさん残していくことも出来ないし、一旦帰ってしまったら、せっかく
落とした小城を取り返されそうになっても迅速に後詰めに行けないし、で、結
局、長くキープできないから延々と取ったり取られたりのループになる。
板挟みになった現地の小領主はまたくたまったもんじゃないな。

313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 13:59:56.70 ID:s6SEHbzx
>>309
高増「確かに周りはそんな人ばかりですな」
資孝「義理も無い人々に囲まれて疲れる」
綱清「全く」

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 14:57:19.64 ID:nTaZve+o
おまえらの血は何色だあ

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 15:03:45.71 ID:cXfoASMt
山家三方衆は徳川と武田だけだが
上野は上杉、武田、北条が争奪してるから小領主は悲惨。

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 15:08:56.25 ID:Y/z4Zx80
関東地方唯一の一揆の国、上野は
戦国時代後期になれば隣国の強大な戦国大名権力に蹂躙されるのが宿命

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 15:38:00.35 ID:r+JAXZvE
異常に強い長野爺も居なくなったタイミングだしな

318 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/05/01(日) 17:59:14.60 ID:KGeeRxkF
>>312
前線で落城した城主の一家は、
親類の城にでも家臣を引連れて居候しながら、
再起を計るだけで
どこでも似たようなものでしょう?

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 18:15:59.01 ID:crvr1eFn
>>318
そもそも、敵の大軍が迫ったときに、「落城」云々というところまで戦うのか?というのが問題で。
援軍が来てくれそうなら城門を堅く閉ざして粘ってみようか?という気になるだろうけど、こりゃど
うしようもないな、と思ったら、戦になる前に城ごと降って所領を守ろうとするんじゃないかな。
その場合、たいていは元の主のところに人質を差し出してあったりするので、その人質を見捨て
る覚悟が必要になるんだろうけど。




320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 19:28:24.37 ID:ykCTw3hD
んだねぇ

321 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/05/01(日) 20:22:15.33 ID:731tBxiO
>>299
当時の上州は他国の動きをけん制できる要衝だから
そこを治める真田に対する扱いもおのずとね…

利用価値があればどれだけ恨みや貸しがあっても優遇
逆に言えば利用価値がなくなった途端それまでどれだけ尽くしてもポイ捨て
上杉、北条など使う側の周辺勢力も、使われる側の真田も
最初からそういう関係と割り切ってつきあってたんだろうな。
今でいう北朝鮮とその周辺諸国みたいなもんか

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 21:47:00.06 ID:S23UAFMY
>>321
殿、「幸村様と正男を一緒にするとは」と怒った鬼女たちが押し寄せてござる!!
我らが支えているうちに、早くお逃げくだされ!さあ!さあ、とく落ちられたまえ!!!

323 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/05/01(日) 22:07:14.91 ID:731tBxiO
まさおは嫡男だから信幸のほうじゃないのか?

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 22:24:36.88 ID:Y/z4Zx80
群馬県立歴史博物館(高崎市)の展示は、真田のことほとんどスルーしてたな。
高崎中心に見ると、真田の存在感ってほとんどないのかもね。

室町時代は上州一揆の上層に山内上杉氏がゆる~く君臨する統治形態だったが、
北条氏が上杉憲政を追ったことで上州一揆は切り裂かれる。
その後の謙信・信玄・勝頼・滝川一益らの相次ぐ支配者の交代と戦争で一揆は完全に解体し、
「沼田領」「新田領」「厩橋領」といった18の「領」と呼ばれるブロックに再編されていく。
小田原征伐で北条が滅んだ後、「箕輪領」が井伊直政に、「新田領」「館林領」が榊原康政に与えられる。
すごく大雑把に言うとこれが群馬の戦国史

藤田信吉と北条氏邦

2011年04月18日 00:03

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/17(日) 08:21:54.63 ID:tF1cXnKq
関東管領山内上杉家の家臣、藤田康邦は、北条家の勢力の前に、ついにその軍門に下った。
北条家に下るにあたって、二人の息子がいたが、氏康の子・氏邦が姉の夫として婿養子に入った。
康邦は居城から退去し、長男は氏邦に毒殺されたと言われる。二男・信吉は恨みを抱えて武田家に寝返った。

時は流れて天正18年。信吉は再び旧領に姿を現す。
小田原征伐に際して、上杉家の先鋒として藤田(北条)氏邦が守る鉢形城に攻め寄せていた。
氏邦もよく守ったが、最終的には豊臣軍に降伏することになる。

このとき、父を追い、兄を弑した氏邦に対して信吉は何を思っただろうか。
未だに憎しみを持ち続けていたか、あるいは時がその感情を和らげたか。

氏邦は剃髪することで助命され、前田家の預かりとなった。
前田利家の助命嘆願があったといわれるが、信吉もまた助命を願ったとも言われる。




24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/17(日) 08:41:20.82 ID:eGQNx2oN
あの藤田信吉さんかぁ・・・

善光寺式阿弥陀三尊、その数奇な運命

2011年04月11日 00:00

581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/10(日) 18:50:19.15 ID:YcC13Ovi
善光寺の阿弥陀如来(善光寺式阿弥陀三尊)といえば、日本最初の仏像とも言わる。
が、この仏像は戦国時代、実に数奇な運命を巡る。

先ずは弘治3年(1557)2月、善光寺を占拠した甲斐の武田信玄は、その仏具などと共に
この阿弥陀仏も略奪、甲府へと持ち帰り、新たに建設した『甲府善光寺』の本尊とした。

やがて天正10年(1582)3月、織田信長による甲州征伐。信長の嫡男、は阿弥陀如来像を奪い
岐阜へと持ち帰りここに『岐阜善光寺』を建立した。

同年六月、本能寺の変

その後の織田勢力の主導権争いの中、阿弥陀如来は織田信雄の手にわたり今度は清洲の
甚目寺へと移された。

そして秀吉が台頭する中、信雄は徳川家康との同盟を固めるためであろうか、阿弥陀如来は
家康へと贈られ、浜松の鴨江寺に遷座した。

が、ここで家康の枕元に阿弥陀如来が立ち「甲府に帰りたい」と仰られた。

家康はこの夢のお告げに従い、阿弥陀如来を甲斐善光寺へと帰座する。


慶長元年(1596)伏見大地震により京は方広寺の大仏が崩壊した。
豊臣秀吉はこれに激怒する

「我が身をさえ保てぬ仏が、衆生済度など出来るものか!?」

しばらくして秀吉は夢に仏の姿を見た。善光寺阿弥陀如来である

「これだ!」

大仏崩壊の翌年7月18日、秀吉はこの阿弥陀如来を甲斐より遷し、方広寺の本尊とした。

ところが、である。

その翌年から秀吉は体調を崩し始めた。これを人々は「阿弥陀如来様の祟だ」と囁く。
そんな中今度は秀吉の枕元に、阿弥陀如来が立った
『私は信濃に帰りたいのだ』

その頃、徳川家康の援助により信濃善光寺は漸く再建されていた。

体力が衰え気が弱くなり、噂を恐れたのもあったであろう。秀吉はこの事があると直ぐ様如来を
家康に返す。
慶長3年(1598)、徳川家康はこれを、その頃再建なった信濃善光寺へと戻した。
ここに漸く、41年間に渡る、阿弥陀如来の放浪は終わったのだ。

以後、善光寺式阿弥陀三尊は信濃の地をを動くこと無く、今も、善光寺に参拝する多くの
善男善女の信仰を集めている。

善光寺阿弥陀如来の、数奇な変転についてのお話である。




「寿能の蛍」

2011年02月21日 00:00

能姫   
899 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/02/20(日) 00:42:58.78 ID:ojBUX0H1
現在のさいたま市に伝わるお話。武将ではないが投稿。

「寿能の蛍」
昔、池の辺りで笛を吹いている娘がいた。やがて娘の周りには蛍が集まり、その中のとびきり大きい蛍が
娘を池の底へと連れさった。
やがて娘が目を覚ますと目の前に美しい上品な女がいた。

「実は私、昔この地を治めていた潮田家の能と申します。寿能城が落城した際に私は待女と共に
この池に入水したのですが竜神様にこの夏の期間だけ蛍となり一族に祈りを捧げる事ができるのです。
どうか我が一族を供養してください」

この姫の気持ちに心をうたれた娘は供養塔を建てたと言う。




900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/20(日) 00:56:05.58 ID:eG9/zR8H
なんかあっさりした話だから結構古い時代かと思ったら、
寿能城が落城したのって小田原征伐の時なのか

守矢使者 「おい、来週は何があるか言ってみろ。」

2010年12月11日 00:00

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/10(金) 19:53:03 ID:CeVH3IYv
じゃあ御柱関連で

寛正五年(1464)
当時、甲斐国内では武田信昌と跡部景家が国内を二分し覇を争っていた。
武田信昌は跡部氏と蹴りを付ける為に諏訪勢に援軍を要請し、
これを受けた諏訪勢も大軍勢を仕立てて出陣したが、
甲斐国境で待ち受けていたのは跡部勢では無く、神官長守矢満実の使者だった。

守矢使者 「おい、来週は何があるか言ってみろ。」
諏訪光有 「え、そりゃ六年に一度の御柱で・・・。」
守矢使者 「ほう、御柱と戦どっちが大切だ?」
諏訪光有 「そりゃ血沸き肉踊る、漢たちが名と命をかけた・・・・御柱です。」

諏訪光有達は早速に軍勢を取って返し、祭日に間に合うように瞬く間に祭りの準備を済ませ
例年に増して盛大で熱狂的な御柱祭を執り行ったのであった。
その後、諏訪勢は再度援軍に出陣し、
跡部氏は、武田軍とやけにテンションの高い諏訪勢に挟撃され
当主と一族の多くを討ち取られ滅亡となった。

後日談、実は武田と跡部ともに守矢満実の檀家であり
守矢満実は跡部氏の戦勝祈祷も執り行ってたのがばれて謹慎させられてしまったとさ


出典、「守矢満実書留」




971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/10(金) 20:22:14 ID:HloUx1ZN
当時は戦争よりも御柱祭の方がむしろ危険だったりしたのかなw
もちろん現在の御柱祭よりもはるかに過激な祭りだったんだろうが

972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/10(金) 20:59:40 ID:N6BLiUPb
戦は日常茶飯事だし従軍強制もあるからなあ
御柱祭はオリンピックみたいなもんか

973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/10(金) 21:06:09 ID:HloUx1ZN
なるほど、古代ギリシャでオリンピック開催のために戦争を中止したのと同じか

『水谷蟠龍記』から領民思いの良い君主と恩返しする良い領民

2010年12月10日 00:00

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/09(木) 16:17:08 ID:0QM4xyhT

いい話スレに投下したのに、「確かにコイツ、ヒャッハーだよね」なんて一言を付
け加えてしまった水谷さんのお話。
>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4936.html
お詫びがてらに今度こそ、正真正銘良い話……かな?(^^;


ある年、常陸国では不作となり、水谷蟠龍が治める下館領では、年貢が例年の三分
の一程度しか納められなかった。

「これでは来年までの一年間、財政的にやって行けないぞ」
水谷家の重臣達が頭を抱えて対策を練っていると、
「おい、これを処分して金を作れ」
主君・蟠龍が差し出したのは水谷家に伝来する家宝の刀、六振り。

「な、何を仰いますか!? 家宝の刀を質に入れるなどと……」
「質? 何を言うか。質では安く買い叩かれる。こういう時はパァッと売り払うに限
るのだ。売っちゃえ、売っちゃえ!」
「……そ、そんなっ!」

「名刀など千振り持っていたとしても、千人の侍がいなければ役には立たんではな
いか。無駄に名刀を持っているより、百人、五百人の譜代の衆を助ける金に替えた
方がどれだけ有益な事か。いいから売って来い!」

蟠龍は六振りの名刀全てを売り払い、来年度の予算に充てた。しかも余った金は家
中の侍、百姓達にまで配布し、生活の足しにさせたと言う。


これに感激した領民一同、翌年が豊作となると皆で金を出し合って、一旦は売り払
った家宝の名刀を全て買い戻し、蟠龍の元へ献上した。

「お前達……せっかく今年は豊作だと言うのに、こんな事をしたのでは、今年もお
前達の生活は苦しいままではないか……」

蟠龍は皆の心遣いに感激しつつも、領民の生活を思い、布告を出す。

「今年の年貢は例年の三分の一を納めればそれでよい」

百姓一同、これに驚き、「それで国はやっていけるのか」と、布告の撤回を求めた
のだが、蟠龍はこれを譲らず、結局その年は三分の一しか年貢を受け取らなかった
と言う。


……あれ?三分の一じゃ、やって行けないから刀を売ったんじゃなかったっけ?
水谷蟠龍記』から領民思いの良い君主と恩返しする良い領民のお話。





756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/09(木) 19:10:18 ID:NpoITbE5
>>747
なんという名君。
あと「例年」の1/3と「豊作時」の1/3じゃ後者の
方が多いんで財政的に困んなくても不思議は無い。

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/09(木) 19:19:44 ID:1CrEEs7+
豊作時にも例年の三分の一って言ってるが

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/09(木) 19:50:55 ID:NpoITbE5
あ、本当だ。見落としてたごめん。

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/09(木) 20:18:09 ID:+0VGiwu9
>>747
だからあれだよ。領民が買い戻した名刀をもう一度売り払ってだな。

『水谷蟠龍記』より蟠龍少年の度胸の良い話?

2010年12月07日 00:00

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/06(月) 15:45:26 ID:f0zEpWkg

常陸国下館に水谷蟠龍斎という武将がいた。
母が老僧から貰った玉を飲み込むという夢を見てから、ちょうど一年後に生まれた
子供であり、左眼には瞳が二つあった為、
「観音様の御加護を受けた若君だ」
と評判になった。

赤ん坊の頃に一度も泣き声を上げた事がなく、七歳で弓馬兵法を習い、八歳で師匠
を超えた。九歳からは仏道の修行にも励み、十一歳で家臣の間の争いを自ら決裁す
るという知勇を兼ね備えた少年であった。

十七歳で初陣を飾り、見事な手柄を上げた蟠龍であったが、その翌年、とある事件
を起こしてしまう。
水谷家と共に結城家に仕えていた多賀谷家。
その多賀谷の家老であった成田主馬が蟠龍の前を騎乗のままで通り過ぎようとした。
それを見咎めた蟠龍が、問答無用で成田を斬り殺してしまったのである。

多賀谷家ではこれに怒った。
「成田に無礼があったと言うなら我等に訴えるべきではないか、それが事実である
なら謝罪もしよう。だが、詮議もせずに問答無用で斬り捨てるとは乱暴過ぎる!」

同じ結城家の配下武将同士でもある。力を合わせるべき両家なのだから、過激な行
動は控えるべし、と言った所か。
しかしこの抗議に蟠龍、
「無礼を働かれてその場で処断しないのは臆病者のやる事だ。味方だろうと何だろ
うと、我が水谷家に無礼を働いた者は即刻斬る!これが水谷家のルールだ」
と、返答。

多賀谷の抗議に対して「お前等のやり方は臆病者のやり方だ!」と罵りを返したの
である。
これはもう、全面衝突しか残っていない。
多賀谷軍が下館城を囲み、水谷軍もそれを迎撃する構えを取る。

慌てたのは結城政勝、二人の主君である。
両軍が対峙する下館城に、自ら出馬して双方に説得を試みた。
「多賀谷と水谷は車の両輪、鳥の両翼である。片方が滅亡したら、もう片方も、結
城家までもが滅びてしまう。私の顔に免じて、これ以上の争いは勘弁してくれない
か」
最早説得と言うより懇願である。

主君にそこまでさせてしまった事に、流石に罰の悪さを感じたのだろうか。二人は
共に兵を退かせ、政勝の前で和睦の酒盛りを執り行った。
政勝は両将の仲直りを非常に喜び、感激のあまり家臣のお囃子に合わせて自ら『高
砂』を舞う程であったという。


水谷蟠龍記』より蟠龍少年の度胸の良い話? 私は部下の戦争に自ら割って入った
結城政勝さんの良い話のようにも思えた。
まとめブログの方では「坂東を代表するヒャッハー」などとコメントされてますが、
水谷側の記録ですからかなり良い感じに描かれています。
やってる事自体は敵陣に単騎突入したり、味方の重臣切り殺したりと、確かに制御
不能のヒャッハーという気がしないでもないですね。ww