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渡辺幸庵が見た戦国武将

2022年09月26日 16:46

598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/25(日) 21:47:46.27 ID:2kIRZglE
渡辺幸庵対話』より
130まで生きた怪老人、渡辺幸庵が見た戦国武将

・家康の悪口
権現様は無筆同然の悪筆だった
三河の宝蔵寺で手習いをしたそうだが、せいぜい「いろは」くらいのものだ
自筆でないといけないときだけ「ほつほつ」(ぽつぽつ)と書かれた
それゆえ、御判も「きたなき」御判だった

・三斎様の奇抜な料理
細川三斎は中古の茶の湯者である
茶菓子に能登の「鯖刺」(シメサバか)の頭を切り、折敷に椎の葉を敷いて、「著」(箸か)を添えて出していた
塩出しと切り方に口伝がある

・大坂夏の陣秘話と家康の強がり
真田左衛門佐(信繁)は強き大将で士卒も勇壮だった
ただ、徳川の備えが敗軍したのは真田の勇気ばかりではない
寄せ手は太陽に向かって戦ったので働かず、真田は太陽を背にしてこちらをよく見分けて戦ったからだとささやいて神君も生玉まで退いた



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怪翁が打ち明ける驚きの宇治茶由来

2022年09月26日 16:44

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/25(日) 23:28:07.87 ID:2kIRZglE
渡辺幸庵対話』より
怪翁が打ち明ける驚きの宇治茶由来

宇治の茶はもともと栂尾のものであった
丹波に上林峰養という者がおり、宇治の地面を見て赤土に砂が混じって茶の木に適した土地と気づいた
都にも近く販路にも適していると考え、峰養は栂尾の上林家に婿入りし、「茶を時々盗取」り宇治に植えていた
さて、育った茶を味の分かる者に試飲させてみると、味は一段といいという
ただ、苦味が少しあって「園香」は少ないという評価だった
初めてつくった茶に初と銘をつけた
この茶の種は栂尾のもので、榊という銘だった
葉の形が榊に似ていたからだ
峰養は常々「薗」(ガーデニング)を好んでつくらせていたところ、春雨が降ったので「(薗の草花に肥料として?)小便をかけなさい」と命じたが、家来は思い違いをして小便をすべての茶株に引っ掛けた
峰養は驚いたがどうしようもできず、その年の茶を試飲してみると、苦味は消えて園香はよかった
「不浄」を養分にして育てると味がよいことが分かり、すればするほどに茶の誉れが世間に広まった




下妻城主多賀谷政経は

2022年04月12日 17:45

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/12(火) 17:09:59.79 ID:vzpiur7t
東国武将興亡録
ハトの呪いなのか阿弥陀仏のバチが当たったのかよくわからないタマキンの話

※管理人注
https://geolog.mydns.jp/www.geocities.co.jp/tougoku_busyou/koubouroku1570.htm
文章がこちらのサイト『東国武将興亡録』さんの転載でしたので、ここの「 1571年 元亀2年 春」 の記事をご覧ください




439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/12(火) 17:24:56.74 ID:lHR19+a4
https://geolog.mydns.jp/www.geocities.co.jp/tougoku_busyou/koubouroku1570.htm
このサイトから?

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/12(火) 17:27:43.49 ID:lHR19+a4
しかしそのサイトの多賀谷政経の次の記事が塚原卜伝の死か
偶然だったら面白いが

犬坊の墓

2021年08月14日 16:59

関盛国   
922 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/14(土) 11:07:37.19 ID:rWBMkbqp
犬坊の墓

武田信玄が侵攻する前の南信濃辺りでは当地の豪族達が争っていたが、現在の長野県阿南町辺りでは関氏と下條氏が当地の覇を競い争っていた。

関氏は和知野川から南の下郷5ケ村を所領としていたが、高冷地で実入りの少ない土地であったため、戦を重ねて大下条周辺の18ケ村を領土に加えていた。

関氏最後の当主である関新蔵盛国は驕り高ぶり、住民たちを酷使して5年間に3つの城を築き、石材を無理やり運ばせ怠ける者には薔薇の棘を打ったりと過酷な賦役を課し、
年貢を厳しく取り立て婚礼にも重税をかけ、鹿狩りと称して山中の木こりや旅人を鉄砲で撃ち殺すなどやりたい放題を重ねていた。

一族の重臣たちの言葉にも耳を貸さず好き勝手やり放題の関盛国であったが当然目下の者達の心は離れていき、
その状況を知ったライバルの下條氏は天文13年(1544年)に月見の宴を行っていた盛国の最後の居城・権現城(またの名を和知野城)に夜襲をかけた。

先述の事情から城内の者達は寄せ手に寝返る者も多く、盛国に目を掛けられていた犬坊という18歳の若者は盛国の愛刀の目釘を抜き、弓の弦を切って
自身は台所の窯の陰に隠れて盛国が来るのを待ち受け、盛国が現れたところへ槍で突いて殺し部下の坊主に城へ火をつけさせ、こうして
権現城は落ち、関氏は滅んだのである。

この功を賞され、下條氏から大小の刀と米12俵の目録を拝領して意気揚々と帰ってきた犬坊であったが突然狂いだし、どこからともなく白い斑模様の犬が目の前に姿を現したのを見て
うぁぁぁ も・・・盛国どのが練り歩いている!!

と叫んで刀を抜いてその犬に切りかかったところ、足を滑らせて転んだところに犬が飛び掛かり喉笛を嚙み千切って犬坊を殺してしまった。
人々は犬坊は恩を被った主君を裏切った報いを受けたのだと語り継いだという。

死んだ犬坊は人々によって葬られたが、そこには犬の頭を頭上に乗せた人物の像が墓碑と共に安置されている。
ちなみにこの逸話を基にして井上靖は昭和32年に『犬坊狂乱』という短編を書いている。

参考サイト
阿南町ホームページ
http://www.town.anan.nagano.jp/kanko/cat258/000375.html
日本伝承大鑑 犬坊の墓
https://japanmystery.com/nagano/inubou.html

923 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/14(土) 11:15:36.69 ID:rWBMkbqp
余談だが似たようなお話が毛利元就に粛清された吉川興経にもある。

「対モンスター用暗殺計画」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4213.html
吉川興経の墓と犬塚
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10261.html

こちらも暗殺前に裏切り者によって愛刀の刃が潰されていたり、得意とする弓の弦が切られていたり忠誠心の強い近臣が遠ざけられていたり
結末は愛犬が主の首を持ち去って故郷へ戻って息絶えるという悲劇的な話だけど、犬(家臣のことという考察も)が関わっていたりすることとか話が共通しているのはたまたまなのだろうか?

924 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/14(土) 11:37:57.82 ID:rWBMkbqp
さらに余談
吉川興経、化ける。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10263.html

吉川興経はデュラハンの様な化け物になったり、夜な夜な光って飛ぶUFOみたいな物になったりしているが、
関盛国(盛永?)は特にそういうものになって祟ったなどと伝わってはいない。
ただし、その奥方であるお万の方には夕顔という怪異譚が残っている。



927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/14(土) 22:25:37.72 ID:qmMcYyN5
>>924
侍に怨霊なし、と古来謂う。
化けて出るなど覚悟が足りない。

討つ者も 討たるる者も 土器(かはらけ)よ くだけて後は もとの土くれ  -三浦道寸 辞世-

929 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/14(土) 22:54:35.81 ID:rWBMkbqp
>>927
三浦道寸の息子の義道も首だけになって小田原まで飛んでって、道端の木に引っかかって通りすがる人間が義道の首見たらタヒぬって言うメデューサかジオングみたいた逸話の持ち主やんけ

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/15(日) 03:39:29.07 ID:M58v8E3I
>>929
将門公といい関東の人間は首だけで飛び回るのが流行ってるのか?

932 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/15(日) 09:25:00.36 ID:SsJkB02U
>>931
https://japanmystery.com/kanagawa/igami.html

コレを読むと生前から化け物みたいな猛者ぶりなんだけど、死んだ場所の100間(182m)四方は、今なお田畑を作らず、草を刈らない。牛馬もここの草を食べると死ぬのを知っていて、他の獣も入らない

首になっても3年生きた

と言う本当に核融合で動くモビルスーツかなんかだったんじゃないの?って思いたくなる話もある。

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/17(火) 20:43:21.56 ID:vL/XYhmt
>>922
また甲斐の犬だしヤる気を見せたら噛み殺してくるよな・・・(´・ω・`)

赤い夕顔

2021年08月14日 16:58

関盛国   
925 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/14(土) 13:01:03.00 ID:rWBMkbqp
赤い夕顔

>>922の話で落城した関盛国(永)の居城、権現城であったが盛国の奥方であるお万の方は5歳になる息子、長五郎を連れて城から落ち延び
郷里である浪合を目指して逃れようとした。
その途中、天龍村の向方のある家の傍にて長五郎が夕顔が欲しいと言ったため、お万の方は夕顔の花を摘み取り長五郎に与えたところ
その様子を見ていたこの家の家人は腹を立て親子を殴った。
殴られたお万の方は「この家の夕顔は来年赤くなる」と口にしその場を去ったが、次の年の夏から本当にそうなったためこの家では夕顔を育てなくなったという。

お万の方と長五郎はこののち、戸口(天龍村)の伊藤惣十郎を頼ったがそこで騙され殺害されたという。

同村の大河内地区にお万の方と長五郎の墓があり、その傍らには大きな柴藤が植えられておりお万様の富士と呼ばれている。
毎年10月12日には瑞光院の住職を招いて読経が行われ供養祭が開かれている。

『長野県史 民俗編 南信地方 ことばと伝承』『赤い夕顔の花(絵本 伊那谷ものがたり)』などより

参考サイト
お万様の墓と藤
https://www.82bunka.or.jp/bunkazai/detail.php?no=912&seq=0
国際日本文化研究センター
https://www.nichibun.ac.jp/YoukaiCard/C2020377-000.html
らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
https://ranmaru99.blog.fc2.com/blog-entry-768.html
ほか天龍村村長のブログなど

926 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/14(土) 22:18:44.87 ID:rWBMkbqp
関氏を下した下条時氏と信氏親子はこの後、信濃守護・小笠原家の下で信濃へ侵攻してくる武田信玄に反抗するも、後に臣従して武田信玄の妹を信氏の正室に迎え、秋山信友配下の信濃先方衆として三河攻めや川中島の戦いに参加。

下条信氏は秋山信友の麾下で岩村城代を務めたものの、織田家の甲州征伐で一族の下条氏長や家臣らの謀反にあい三河にずらかり潜伏し、同地にて信氏と長子信正は死去。

天正壬午の乱で徳川家康の後援を受けた下条信氏の弟・下条頼安と信正の子・牛千代(康長)が毛利秀頼退去後の飯田城に入ったかつて甲州征伐で謀反した下条氏長を暗殺して下条の家督を継ぎ、そのまま家康に仕えたけど第二次上田合戦で下条康長は逐電し、信正の曽孫である下条氏定はのちに小倉藩の小笠原家に仕えて元鞘に戻ったと言う。



930 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/14(土) 23:22:17.28 ID:rWBMkbqp
>>926
この、下条親子が甲州征伐で領地の南信濃を追われてから下条頼安が当主として復帰するまでの経緯。
そして、頼安が徳川家康配下となってから活躍したのち同じく徳川配下の小笠原信嶺と争った後、小笠原の娘を妻に迎えて和解したのに騙し討ちで殺害されるまでの話、

下条康長が家康の一字をもらって跡を継いだけど、家中内紛で没落していく一連の流れは酷過ぎて笑えないなぁ… 仁義なき戦いもびっくりな地場ヤクザの抗争だぁ…


下条頼安、小笠原信嶺に騙し討ちにされる
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7731.html

先を越されて宿割をされた事

2021年08月04日 19:11

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/04(水) 16:47:42.11 ID:l4zrfRRo
朝鮮出兵により上杉景勝公が肥前名護屋へ向かう途中、芸州宮島にお泊まりという時、
陣場奉行衆に安田上総介(能元)を添えて、その準備のため先に宮島に参った。
総じて備大将衆が一組ごと順番に、陣割衆と両組にて先行し、陣場を準備して待つという
作法である故に、このようにされたのである。

ところが徳川家康公の御人数の宿割衆六、七百が、宮島の能き町を選んで既に
宿札を打っていた。これに対し安田らの衆は徳川の衆に向かい

「宮島に入るのは景勝の次に家康公であったのに、先を越されて宿割をされた事、
思いもよらぬことだ。あまつさえこの町の能き所を既に選び取っておられる。
それらを早々に明け渡して頂きたい。そこに景勝が本陣を打ち申す!」

これが口論となり、双方既に衝突しようという様子になったところで、
藤田能登守(信吉)、彼はいつも先陣であったので早くも追い付き、中人(仲介人)となって
双方の間を取り繕った。

「家康公の衆を残らず追い立てるというのも現実的ではない。だからと言って先陣である上杉勢の
本陣を立てるべき場所に、後陣の衆が先立って取り堅められているのを、そのまま黙認してしまうのは
大法に背くものであり、また景勝の宿割の者達への不調法にもなる。

そこで、景勝本陣と近習の陣所となる場所だけを明けて頂きたい。その場所の徳川勢の衆は、
軍陣に赴いている以上、後に下るのは不吉であり、先に進むのは吉事でありますから、繰り上げて
先に陣所を取るのが尤もであると存ずる。その他の徳川方の衆はそのままここに陣取られよ。」

これに対し、家康公の御内衆である村越茂助などを初め、その場に参っていた者達が相談し、
この提案を受け入れこの場は無事に相済んだ。

この事は後で家康公も聞き召され、藤田を御褒めになり、配下に対し「重ねてこのような事が
無いように。」と堅く仰せ付けられた。そして名護屋に到着すると藤田方へ、永井右近太夫(直勝)、
大久保七郎右衛門(忠世)の両人を使いとして仰せ下さり
「その方の取り持ち故に、我が方の者共は面目を失わずに済んだ。」
との事であった。

この事は、後に永井右近太夫殿が夏目舎人に直に語られた事である。また大久保七郎右衛門殿も
舎人に語られた事であり、相違無い。

管窺武鑑



その方の被官を仕置したため、梟首

2021年08月01日 17:17

889 名前:1/2[sage] 投稿日:2021/08/01(日) 13:13:10.34 ID:rsFX6Ceo
小田原の役の時、上杉景勝の越後勢は碓氷峠を越えると、真田、蘆田ら信州衆の先に在る坂本に入った。

この時、越後勢において藤田信吉の相備えであった甘糟備後守(景継)の小荷駄の牛が放れ、
真田の陣所の馬草を食った故に、その牛を真田方へと奪い取った。
備後守はこれを聞くと、藤田に「この牛を取り返さなければならない」と相談した故に、藤田の方より。
先ずその牛を取った者の方へ使いを遣わし、

『此の方の小荷駄に付けた人夫が牛を取り放し、そちらの陣内に参ったのを捕らえ置いていると
言う事だという。こう言ったことは互いに有ることでもあり、お返しして頂きたい。』

このように藤田能登守が申したことを、夏目舎人方より申し遣わした。
ところがその者の返事に

『牛はこちらには参っていない。例え参ったとしても、そちらの作法が悪くて他陣に参った牛なのだから、
これを取っても苦しからぬ事であるのだから、返さないだろう。況やこちらには参っていない。』

と申し越したため、甘糟は「ならば無理にでも押し入って取り返すべし!」と申すのを、藤田が
これを抑えて、真田方へこれまでの経緯を申し遣わした所、執り成しの者よりの返事に
「安房守(昌幸)は散々の虫気(腹痛)にて臥せておりますので、その事については後ほど申し聞かせます。」
と申し越してきた。

このため藤田も立腹し、「牛一疋の事であるが、天下の大事である!甘糟も牛を奪われては堪忍ならず、
堪忍成らねば押し込んで取り返すべし。その時は真田は返し兼ねるであろうから、我らは真田を
踏み潰すより他無い。その所を分別できないような真田では無いはずだが、我々を浅く見てこのような
態度をとっているのだろう。この上は私が切腹に及んだとしても是非もない。押し入って取り返す!」

そして組中に触れを出したが、その内容は『物頭・物奉行の他は、刀脇差を初め刃物の携帯は無用である。
棒を持つように。』との事であった。

これは景勝公の御耳にも達し、「藤田の申し分尤もである。真田どもを一人も残さず踏み殺すように。」
と、加勢を仰せ付けられたが、「彼程度の者を殺すのに、藤田は加勢を請たのだ、などと言われるのも
如何かと思います。藤田の組中だけでやります。」と仰せられたのであるが、侍大将衆より若者共を
忍んで差し添えたという。

藤田の備え九千余り、何れも素肌(甲冑をつけない状態)になり、刃物を持たず、棒二、三本ほどを
腰に差し、手に持って真田陣へと押し寄せた。

そのような所に丁度、佐野天徳寺が景勝公見廻りとして坂本の町に参っており、真田は彼に景勝への
詫言を頼んだ。佐野天徳寺が藤田に会って申された
「真田は牛を取った本人一人を成敗すると申している。これで堪忍致されるように。」

藤田は同心申さなかったので、天徳寺は先ず真田陣へと向かう人数に、何れにも説得してその場に留めた上で、
景勝公に対面されて、直に真田よりの詫言を伝えた。これに対して景勝公は
「私が少しも関知する事では有りません。きっと藤田の覚悟なのでしょう。その事は藤田に仰せになって下さい。
関知しない事ですから、私が下知するわけにもいきません。」と仰せに成られた。

故に天徳寺はまた藤田の元へ行って申した、「景勝公さえ関知していない事なのだから、堪忍されるように。」
これに藤田は「この事のそもそもは、甘糟備後から起こった事であり、それは備後に仰せ聞かせて下さい。
私はともかくも備後次第です。」と申した。

故に甘糟の元に行って仰せられると、甘糟の返答は「私は切腹するしか無いと思い極めての事であり、
この件を起こした本人一人ばかりにての御詫言では承服出来ません。牛を取った本人の傍輩は申すに及ばず、
その主人と、また藤田方より真田方への使いの時、虫気に返事をした取次の者、これらを我が方へ渡し、
真田昌幸がここまで出て降参を仕れば、これほどに思いつめた事ではありますが、和尚様の御詫言もあり、
又合戦前でもあるのですから、堪忍いたします。」と、天にかけて誓った。

890 名前:2/2[sage] 投稿日:2021/08/01(日) 13:14:26.83 ID:rsFX6Ceo
天徳寺は真田方に戻り、様々に申し繕われた事で、先の三ヶ条の内、虫気の返事は真田昌幸自身が
申したことであったので、実行することは出来ないと、天徳寺よりまたこれについて御詫言があった。
残りの二ヶ条は甘糟の望み次第に任せるとの事であったので、藤田はたって甘糟に申して、彼に
堪忍させた。

天徳寺はこの事を真田に伝え、そうしてあの牛を曳かせ、牛を取った科人、その主従八人、
そのうち本人には縄をかけ、残る七人を放囚人にして、刀脇差を差させ、真田家家臣の丸子が同道して
召し連れて参った。甘糟はこれを請け取り申すべしと望み、自分の家臣の豊野伝左衛門、五十嵐十助などという
覚えの者十人を申し付けた。藤田方よりは検使として増毛田島、夏目舎人が出た。

両人、丸子と挨拶仕る内に、縄をかけた本人を、甘糟の小者である伝吉という者に請け取らせ、
残る七人の放囚人を、甘糟の衆が請け取りに出た時、七人の者共、一度に刀を抜いて斬り掛かってきた。
あの科人の主人は、増毛、夏目、丸子が相談している所に斬り掛かった。増毛は老功であったので、
その方を見向きもしなかった。夏目組の伊藤太佐衛門が立ち会い、この者に刃向かい、脇から
かの者を組み留めた。
その他の六人の放囚人の内、三人は即刻成敗し、三人は豊野、五十嵐、上坂藤兵衛、并びに舎人組の
者共が組み留め、主人共に四人を生け捕った。
藤田旗本の神保五左衛門も、この時甘糟に色々申して請取手に出、放囚人一人を斬り留めた。
神保も含めて味方十一人、真田方放囚人七人を請け取った様子は、このようであった。

さてまた、天徳寺が同道して、真田安房守(昌幸)は半途(両陣の中間)まで降参に出た。
この場に藤田、甘糟も出て、先に生け捕っておいた五人を安房守の眼前に引き出し成敗し、
一礼して帰った。その後科人八人の首を真田陣前に獄門に梟け、札を添えた。ここには
真田方への口上として『その方の被官を仕置したため、梟首した。』と断りが書かれていた。
故にさすがの真田と雖も、これを取り捨てることは出来なかった。

管窺武鑑

最初は甘糟景継が怒ってるのを藤田信吉が間に入って穏便に済ませようとしたのだろうけど、
相手の態度が気に入らず余計こじれているのがまた



891 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/01(日) 16:17:59.07 ID:KEXzl7pS
私のために争うのはモウやめて!

     AA
  /⌒▼⊂・・つ
*~L● ( (_ω)
  UU~UU

このような虎落一重二重にて

2021年07月31日 16:55

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/31(土) 15:20:33.79 ID:/kVgA5gC
小田原の役が始まり、関東へ向かう上杉景勝勢が途中、信州上田を押し通った時、
真田が申し付けたと見え本来、本街道は上田の町を通っているのだが、景勝の憎しみを受けている
真田であるので、定めてその下々が上田の人々に対して狼藉をすると考え、新道を本道の北の方に
造り。本道には虎落(もがり・竹を組違いに組み合わせた柵)を置いて封鎖していた。

この時、藤田信吉が先手としてここに行き当たったため、これを見て怒り言った

「真田の分際で、景勝公をこのような虎落一重二重にて防げようか!
たとえ鉄の柵を並べて籠もったとしても、我々に向かって来るのであれば、どうして踏み殺さないで
済むであろうか。しかり秀吉公が様々に詫言されたために、景勝公は真田の命を助け置かれたのだ。

そもそもこう言った機会を幸いと思い、自身は出陣していても、留守居に申し付けて我らに御馳走を
するという気概も無く、自身の臆病な心に引き合わせ、この機会に仇を討たれるのではないかと
景勝公について推察するとは。

我が方より、弓矢の習いに従って行動するのは格別である。然れば本道を避けて脇道を通るというのは
弱みとなる。」

として、真田方が拵え置いた柵木を引き倒し虎落を蹴散らして、上田城下の本道を押し通り、
一人も新道へ向かった者は無かった。

管窺武鑑



880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/31(土) 15:49:21.44 ID:e48q9Pkk
昌幸の仲介で沼田城明け渡して北条から武田に鞍替えしておいてこの言い草

881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/31(土) 16:35:21.17 ID:hE2IjCkN
あれ藤田って関ヶ原直前の上杉征伐のきっかけ(もちろん家康の仕込みだろうけど)作ってなかったっけ?

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/31(土) 16:59:20.79 ID:e48q9Pkk
>>821のように管窺武鑑では藤田信吉は上杉家の忠臣扱い
なお信吉のもともとの姓である用土氏は藤田氏の分家なのに
管窺武鑑では、
藤田康邦が北条氏邦に藤田氏の家督を譲ったのちに用土氏と改姓し、幼い信吉を残して頓死した
つまり藤田信吉(用土新六郎)は藤田氏の嫡流である、と捏造している疑惑が

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/31(土) 17:43:18.51 ID:77g1fQyy
景勝時代の史料は捏造疑惑が多いな

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/31(土) 18:27:43.62 ID:LiriPFef
この資料の信憑性は置いといて
これらの逸話通りだと藤田は方々に仕えて重用される辺り有能ではあるんだろうけど
人柄的には些か難があるような

885 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/31(土) 19:53:23.48 ID:a1YBs5Gx
景勝への悪評の元ネタである奥羽永慶軍記こそ、その信憑性ってやつが・・

能州の武士道の吟味、諸人の勇気を励ます事、

2021年07月22日 17:08

326 名前:1/2[sage] 投稿日:2021/07/22(木) 09:42:43.72 ID:moX1rXdG
天正13年三月二日、藤田能登守(信吉)の家来で武笠藤兵衛という武士が、春日山下町において
上杉景勝公の御小姓衆と喧嘩を仕出した。武笠は郎党と二人で相手を三人斬り殺し、五、七人を
追い散らして町家の奥へ走り入り、小座席口のある所に取り籠もり、主従にて両口を堅めた。

この事を藤田の衆が聞いて駆けつけ町家を取り囲んでいた所に、奉行衆の者共も来た。
夏目舎人助も駆けつけ、様子を聞くとこれこれと説明された。
これに舎人助は
「他所の者が取り籠もったとしても、行きがかりの上は、状況によるにしても、見物で済ませるなど
出来ないことだ。況や藤田配下の者であり、手遅れして奉行衆の者に身柄を取られては名が廃る。」
と言って、その近隣にて木刀を一本取って差し、表口より押し入った。

籠もっていた者一人が「待ち受けたり!」と言って、飛び懸かって打ってきた太刀を受け止め、
引き組んで押し倒し、「取りたるぞ!」と言葉をかけた。そこにもう一人の取り籠もった者が
助け懸る所に、荒川山三郎という者が裏口の方に居たが、舎人の声を聞いて「先を越され口惜し」
と言うと裏口の板戸を蹴破り飛び入った。先のもう一人の男は、舎人に組まれた男を助けるのを止め
荒川に向かった。荒川も刀を抜かず、二尺余りの木刀を持ち、一つ二つ打ち合うと引き組んだ。
そこに、これも裏口から、彦部勘左衛門という者があったが、彼も荒川の跡に続いて押し入った。
荒川は早くも相手を組み伏せていたため、彦部は舎人の方へ助けようと駆け寄ったが、舎人は最初の者を
踏み伏せ、首に刀を当てて縄をかけた。

この様子を見て、また荒川の方を助け取り堅めたが、荒川は太刀、大脇差で、しかも抜けず、
科人の抜いたものは刀で、腰に挿していたのは、これも二尺ばかりの大脇差であったので、組んだ時の
役に立たなかった故、運の勝負を極めかね、剰え、上になり下になり、雌雄決し難く見えたため、
彦部は荒川を助け、共にこれを捕り固めた。

これらの科人のうち、舎人が絡め捕らえたのは下人で、荒川が捕らえたのが、主の武笠であった。
両人の大小を取り、二人の囚人を先へ遣わし、舎人はその後、春日山三の曲輪の藤田屋敷に帰った。

327 名前:2/2[sage] 投稿日:2021/07/22(木) 09:43:34.85 ID:moX1rXdG
然るに翌日、兼ねてからの約束にて藤田宅に、直江山城守(兼続)御近習の丸田周防、横目付の
山上三郎左衛門、その他五、七人が招待された饗宴があり、その場でかの武笠の喧嘩の事を語り、
最も無道にて重科であるとして、斬罪に決められた後、夏目舎人、荒川山三郎彦部勘左衛門
三人と、藤田の下の隊長・奉行が呼び集められ、これらの前で、藤田能登守が、かの武笠主従二人を
召し捕った事についての批評を述べられた

「今度の三人の働き、舎人助が第一、荒川が第二、彦部がその次である。
大勢押し寄せた中、一番に励んで押し入った性根は勝れている。相手は下人であったが、それは外からは
知り難かった。小座敷の両口を二人で堅めているというだけで、どちらに武笠が居るか知り難かった。
押し入るとそのまま楯突く者を相手にするとなれば、たとえ二人の者共が一所に立ち並び斬り向かったと
しても、少しも臆するような者だとは思われない。生死は運による事なのだから、たとえ討たれ斬死しても、
抜きん出た志は無類の誉れである。

荒川は主の武笠と組んだので、その功は上と言われるだろうが、常の作法とは吟味が違う。
常の法であれな、主従高下は遥かに隔たり、その状況での働きであれば、主を討ったものを上とし、
下人を討ったのを次とする。これは戦場、野合の場合である。それであっても、その場その時の緩急難易の
違いはある。殊更今回、主従の居所が解らなかったため、押し入った志の次第を吟味するに、
荒川は「舎人が組みたるを」という言葉を聞いて飛び入った。尤も荒川も心が臆していたわけではない。
待ち構えている所に、舎人が踏み入り、下人を取り詰めたのを、武笠がこれを助けようとした時に、
荒川に飛び入られて動転した所を、荒川は引き組んだ。舎人の働きほどではないが、普段から
「天晴人に劣るまじ」と心に油断無き故に、舎人に続いて間断なく押し入った故に、武笠も下人も
助け合う事が出来なかった。然れば第二の働きである。

彦部勘左衛門は、荒川が組み漏らさないとする所を助けて、取り堅めた事、勝負の結果の働き、
尤もの事である。であるが、舎人、荒川両人にて二人の者を組み、彦部には逢い手が無かった。
しかし荒川に劣らず急いで押し入った事であり、分別に於いて遅き心根では全く無い。今少し早ければ
必ず武笠と組んでいただろうが、それは荒川に越されたと言うだけである。一方で遅ければ、荒川は
禍に遭っていたかも知れず、それを助けたのは良き心繰りである。

さてまた、舎人は相手を一人で取り堅めたが、荒川は取り堅め難く見えるを以て、彦部はこれを助けて
ようやく両人にて取り堅めた上に、大勢が重なって刀脇差を奪ったという。荒川以外が太刀を打つのは
武士道不穿鑿である。

舎人の相手は舎人より力がなかった故に、抑えて縛ることが出来た。
荒川は武笠と力量が同じくらいであり、そのため取り堅めかねたのであろう。
人の力量は勇臆で異なるわけではない。その場その場の様子を以て、志の浅深を穿鑿して、勇の上中下を
定めることが尤もであると、私は存じている。各々は如何思し召すか。」

と申されると、一座の衆も、尤もと感じ入られた。この事は景勝公のお耳に達し、藤田を召し出され、
「少しの事にも、諸人が勇むように、善悪を能く批評して、勇怯を正しく穿鑿仕ること、偏に忠勤の
志浅からず。」と、呉服十重を下された、そのうち三重を舎人助に、二重は荒川に、一つは彦部に
配分された。能州の武士道の吟味、諸人の勇気を励ます事、このようであった。

管窺武鑑



328 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/22(木) 10:07:29.15 ID:3kVbbLt2
>春日山下町において上杉景勝公の御小姓衆と喧嘩を仕出した。武笠は郎党と二人で相手を三人斬り殺し、五、七人を追い散らして


最低でも景勝の小姓衆は8人は居たわけだけど、年端も行かない前髪だったとかで主従2人の武笠に遅れを取ったのかな?
8対2で遅れを取るって相当だけど小姓衆の顛末はお咎め無しだったのだろうか?また、喧嘩に至った発端も気になる。

花の慶次で景勝の小姓13人が慶次1人に全滅させられて、13対1で遅れを取るとは何たる醜態と兼続から評されてたけど、実際この事件で生き残った小姓衆も面目が立たない希ガス

口伝・佐渡のウマ娘のお話

2021年07月19日 17:56

850 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/18(日) 18:24:56.54 ID:+4HjUa3e
口伝として、個人のホームページに載ってた逸話を一つ。佐渡のウマ娘のお話、

天正年間、佐渡を分割統治する本間一族の中で北佐渡に強い力を持つ河原田本間氏と、島内を二分する争いを続けていた南佐渡の羽茂本間氏の当主である本間高貞には馬姫と言う娘が居たと言う。

佐渡の支配を目指す越後の上杉景勝はある日高貞にこの娘を差し出す様求めて来た。
ところが高貞はこれに対し、馬姫によく似た娘を身代わりに差し出した。

しかし景勝は送られて来た娘を馬姫の偽者と見破り、一通の書状を添えて高貞にこの娘を送り返したと言う。

「せこいマネしてんじゃねぇバカ!ウチの手の者の報告で偽者送って来たってわかってるんだ。男だったら即刻、首斬って送り返す所だけど、まだ若い女の子で可哀想だからこのまま命は取らずに送り返してやる(意訳)。」

景勝はこれを口実に天正17年6月に佐渡へ平定のための軍を発したと言う。
景勝の佐渡平定軍は先ず先遣隊が河原田本間氏の居城である河原田城を落とし、
更に景勝の渡海を機に他の本間氏の居城も次々攻略し、最後には本間高貞の羽茂城を落城させ、本間高貞・高頼は船で本土へ逃れようとするも悪天候に阻まれ、上杉軍に囚われ死罪となった。

恭順したその他の本間氏一族は命は助かったものの佐渡の所領は没収され、越後へ替地を与えられることとなり、ここに本間氏による佐渡支配は終焉を迎えた。

馬姫は実際には本間高貞の所有する名馬のことであったとする話もあるそうな。



851 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/18(日) 23:34:36.53 ID:Mvlbg71K
馬姫想像図
https://i.imgur.com/0UUa5Qn.jpg

852 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/19(月) 12:10:35.02 ID:jEUS3QY/
馬姫と言われるとどうしてもコイツが…
https://i.imgur.com/UPDj0Db.png

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/19(月) 12:13:09.21 ID:btzBP/cx
駒姫がいるなら馬姫がいてもおかしくないのか

854 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/19(月) 12:31:07.81 ID:FHcNAo04
犬姫もとい伏姫や鶴姫、有鹿姫なんてのもいるしね

実在の犬姫は織田信長の妹だったか。

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/19(月) 15:56:09.23 ID:270s4FKg
16文キック出しそうな姫様だな

856 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/19(月) 16:17:29.27 ID:FHcNAo04
ライバルは軒猿所属の対魔忍

857 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/19(月) 22:20:16.89 ID:I4beQOOn
ウッーウッーウマウマ(゚∀゚)

ζ*'ヮ')ζウッーウッーウマウマ


ウッーウッーウマウマ
 / ̄ ̄ヽ  へ―-へ
`/∩""リ∩ ノノ∩LLL∩
/<(゚∀゚)〉ζ<('ヮ')〉
LL((イ   ( 召(イ
  )__)))  )ニニ)))
  しソ    しソ



861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/22(木) 15:51:54.52 ID:MsrzUZAm
>>852
8に馬姫がいるのにわざわざそっちを持ってくるとか…

藤田信吉の死について

2021年07月07日 17:06

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/07(水) 15:42:50.13 ID:t+nBfVAN
藤田能登守(信吉)は病気によって、信州諏訪で湯治をしたいと望み、執権の方々へ暇を請い、
江戸より信州善光寺へ行きそこで越年し、春になって諏訪で入湯した。
ところが三七日(21日)の後、腫気黄疸の症状が出て、煩悶セイ仲(持続的に起こる動悸)の
症状も加わった。それ故に、京へ上り養生を加えるべしとして、中山道を経て上ったが、
同国犀川と屋護原の間、鳥居峠の麓、奈良井にて、病は重篤に至り、医術応ぜず、
元和二年七月十四日に卒した。(五十九歳)

俗名藤田能登守従四位下平信吉、法名休昌院一叟源心居士。
奈良井の禅寺にこれを葬った。

嗣子無き故、今の水戸頼房卿の下に、私(著者)夏目軍八定房の兄に、吉江藤左衛門定景という
者があり、能登守は内々に彼を養子にしたいと考えていたのであるが、その事を未だ執権(幕府重職)に
伝えない内に卒去してしまった故に認められず、能登守の西方の領地は召し上げられ、家は断絶した。

管窺武鑑

藤田信吉の死について。これについては自害説もあるようで。



これは上杉家に対しても、忠と申すべきであろう

2021年06月24日 18:16

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/24(木) 13:47:00.23 ID:7F1zvHgc
関ケ原の御勝利後、家康公は上杉景勝公との和睦を調える事についての内談を行った折、
その上杉家を出奔した藤田能登守信吉は申し上げた

「上杉家は、越後以来代々の風儀正しく、たとえ滅亡に及ぶと雖も、弱みを見せて降参など
仕ることはありえないでしょう。
天下一統の御威光がありますから、終には滅亡するでしょう。ですが、よほど本気で懸らなければ、
すぐには滅ばないでしょう。」

この言葉により、家康公より呼びかけての御和談となった。
尤も景勝公は小身になられたが、家は絶えず、子孫長久となり、これは上杉家に対しても、
忠と申すべきであろう。

(管窺武鑑)



百日参りの犬

2021年03月18日 18:16

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/18(木) 16:40:04.87 ID:kFiGMysd
いつ頃のことであったか。城州鞍馬において、毘沙門天百日の開帳があった。
然るに、鞍馬まで行程三里の所より、百日の間、日参する犬が有り、これを一日も怠ること無かった。

参詣の人もこれを見知り、途中にて哀れみ、弁当、飯、肴等を食わせたが、少しでも生臭い臭いが
あれば、それを食わなかった。
「さては精進をしているのか?」
と試してみると、案の如くであったため、精進物を与えた所、尾を振って食った。
これは嵯峨の在所の犬であった。百日にわたった事故に、あまねく人が見知っている。

渡辺幸庵対話



981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/18(木) 17:23:23.32 ID:dtAkzovh
お伊勢参りする犬を思い出した

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/18(木) 21:09:49.84 ID:gm6RxHuz
>>981
あれは周りの人間が代わる代わる伊勢まで連れていってやったんだろw

ミイラについて

2020年12月12日 16:59

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/12(土) 15:55:30.63 ID:utuFYwSn
ミイラについて、交趾(コウチ)と暹羅(シャム)の間に、三百里ばかりの砂原があり、この場所の往来は
松木丸太船に乗り六尺ばかりの小帆をかけ、身は蓑を着用する。何故ならば風烈しく、砂を吹きかける故である。
そこで目だけを出して、かの砂原を風にて走るのである。

その折、砂原に人の死骸の、幾年か経たものを見つけて、熊手のようなものが兼ねて用意してあり、これを
打ち懸けて引きずって帰る。このような死体は、肌は干し固まっていても、着用している木綿はそのまま朽ちず、
故にこれをミイラ(木乃伊)と云い、これは不慮に求め得たものであって、故に本来ミイラは至って大切なもので、
かの地でも秘蔵している。その上、人の形で死んでも小さくなり、さらに干し固まる故に、多くは無く、
毎年発見されるというようなものではない。かの砂原を往来する時に、たまたま見つけて求め得るのだ。

時として日本に渡ってくるミイラは、過半、拵え物である。これは火屋(火葬場)の柱に年々溜まった
人の油を取って、松脂の古いものを使って煉合するのである。しかし人油故に、これにも功が有る。

渡辺幸庵対話

百三十歳まで生きたという渡辺幸庵の、ミイラについての証言



館林城の築城由来

2020年02月25日 17:48

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/24(月) 19:21:11.37 ID:Gm8naern
享禄元年、上野国青柳城主の赤井照光が、初春の祝として甥である同国舞木城主の俵五郎秀賢の御座に、
供人少々にて向かっていた所、近藤という場所にて五、六人、八、九歳ほどの童子が集まり、狐の子を捕らえて
打擲していた。
赤井照光はこれをはるかに見ると、供の鉢形惣次郎を以て児童共に銭を与え、狐の子を助け離した。

晩頃に帰城した所、助けた狐の親が人と化けて照光の馬の前に畏まり、このように言った

「私は今朝あなたが助け給うた狐の親であります。君の御厚恩、何を以てか報じ奉らん。
今、君の御居城である青柳は勝地であると雖も、敵が寄せやすく、味方の千騎が敵の百騎に等しいと
言えるでしょう。その故は、あなたの御先祖である照重公、去る文治四年に赤岩屋敷より青柳に築城あって、
この享禄まで城主七代、年数三百四十一年、武勇盛んにして子孫繁栄と雖も、現代は国衰え、民苦しんで
城中日々衰微しています。

その証拠は、例えば広沼は敵を防ぐためのものでしたが、現在は田畑と成っており、擁護の神霊も手を
貸せません。その上諸国乱世と成って、去る永正九年に武州鉢形の城主を始め、同十七年に上州高田の城、
大永元年十月二十三日武州杉山の城、同四年正月十三日武州江戸の城が落城しました。戦が弱いわけでなく、
擁護の神霊が威を失い給う故なのです。

このような乱世においては、名城に移らせ給うべきです。館林に築城あらば、当国の名城と成り申す。」
そう語ると消えるように失せた。

赤井照光は不思議の事に思い、その翌日、大袋という所に出て巡検し、屋形構え、町小路を定め、ここに
住むように成った。

その年の七夕の夜、照光が南面に出た所、衣冠正し客が庭前に立っていた。
照光は怪しみ、何者かと聞いた所、客答えて曰く
「我は当国無双の稲荷、新左衛門という者である。過ぎし春、告げる所の築城をあなたは思い立たされた。
我がその城取り(縄張り)を参らせよう。」

そう言うとたちまち白狐となり、そのあくる夜より多くの狐火を立てて城取りし、その内容は本城、二、三の丸、
合図、物見、鐘鼓の場、武者溜、七重の築城、八重の堀、外曲輪、町家に至るまで軍書に違うこと無かった。
照光は奇異のことと思われ、その通りに築城して住まわれた。現在、城中の鎮守八幡宮に、青柳の稲荷宮を
勧請してあるのはこの謂れによるのである。

(館林盛衰記)

館林城の築城由来



687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/24(月) 19:52:37.79 ID:dTPfQRk3
武州杉山の城、って築城時期が「杉山城問題」として問題になっている
城跡だけ見たら難攻不落に見える杉山城?

田島の屋敷

2019年07月09日 18:29

235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/09(火) 15:32:28.95 ID:xtfu1St6
大神君(徳川家康)は忍の近辺で御鷹野をなされた。その節、岩松万次郎殿(守純)は御先祖である
新田の御末葉で、御尋ねになったところ新田に幽居して郷民どもは尊敬し、助力仕っているとの由が
御聞に達した。

そこで御会い遊ばされる旨を仰せ出された。これにより(岩松が)忍に参られて御目見した時、岩松
は、当家は嫡流で大神君は御末葉(当流之嫡流大神君には御末葉)との由を以前から家自慢申されて
おり、御前でも同様で、「内府は結構な御巡り合わせです。目出度い(内府は結構之御仕合目出度)」
との由を仰せ上げられた。

これにより大神君も驚き思し召し、御物も仰せられず内に御入りになったという。その後「餓死せぬ
ように」と仰せ出されて、御代官所より20石ずつを進め来たるという。

忠秋公(阿部忠秋)が忍を御拝領の折、御代官中より申し継いだので此方様方(忠秋)より20石ず
つを岩松殿に進めなさり、その後、厳有院様(徳川家綱)の御代に忠秋公は仰せ上げられ、岩松は御
先祖様の御筋目なので御知行を下されるように御世話をなされた。

当時は万次郎殿(富純か)の御亡父(秀純か)の御代で、御知行の屋敷まで御拝領を仰せ出された。
御知行の場所も良き所を渡すように御代官所に仰せ渡しなさったので、此方様(岩松)は御家の御厚
恩と思し召したとの由で、御知行の所も百石御拝領したところ、3百俵程を納めたという。

屋敷も3万坪あって林の惣囲いだという。“田島の屋敷”と申す。

(原注:義貞公(新田義貞)の御居城は分かっているけれども、御当家(徳川家)御先祖の有親公・
親氏公の御居住の場所は分からないという。もしかすると、只今の万徳寺比丘尼の所に大木などがあ
り、景色は常ならぬ場所というが、「ひょっとして、ここでもあろうか」と岩松万次郎殿は仰せられ
たという)

――『石道夜話(石岡道是覚書)』



236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/09(火) 21:03:41.02 ID:g5uv+C8i
系図貸してって呼び出した時のお話か
岩松は足利義兼の庶長子の出であり且つ源姓畠山の祖でもあるからプライドは高いんだろうなあ

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/09(火) 23:28:48.29 ID:AaMMFxaz
岩松家を下克上し、守純にとっては親父の仇・由良氏を召抱えてて
そんなのが新田を仮冒して一門面して会いたいって言ってきたわけで……
皮肉の一つもいいたくなるでしょ

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/10(水) 07:56:39.66 ID:EhSynLtZ
なるほど
そうでもなきゃ神君怒るよね

陣頭武者

2018年10月05日 11:40

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/05(金) 10:16:18.20 ID:7AgjQwu6
古老によると、関東には一備より五騎十騎ずつ選び出し、陣頭武者と号して、それぞれの馬に馬鎧を着せ
獅子頭を着けて、敵の備に乗り込み利を得るものがあったという。
また長柄の衆といって、旗本に大刀、大柄といった、古の野太刀のようなものを持たせて、大将の左右で
供を致す者が五百、三百ばかりあった。
また浪波(らっぱ)者と言って、忍びの者を集め、筒の火付け竹などを持たせ、五十百ばかり一組にして
夜込夜討を事とする者たちもあった。

(士談)

戦国期の東国の軍制に、選抜騎馬突撃隊が有ったらしいとか色々




330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/05(金) 23:27:26.77 ID:RxfikmxL
小弓公方「 (*^○^*)(騎馬突撃で)勝てるんだ!」

古の軍記等には虚説が多い

2018年07月11日 17:36

921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/10(火) 22:55:39.57 ID:4OTrD0VR
古の軍記等には虚説が多いと言うが、それも当然であろう。
信長記、太閤記などを読むと非常に虚説が多い。近頃なら難波戦記、島原記などだが、
私はこれらの戦いを実際に近くで見及んだわけだが、これらの書物は、書くべきことを
書き漏らし、書く必要も無いことを、さも大事な事のように書いている。

こういう近年の事例から、古についても察するべきである。

(渡邊幸庵對書)



922 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/11(水) 10:30:57.46 ID:5Chz2f1H
>>921
そりゃそうだろうけど
お前が言うなよw

923 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/11(水) 11:51:36.35 ID:fTvUYMZ5
130歳まで生きたと称している時点でアレ過ぎる

灰を集めて

2017年08月24日 09:48

163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/24(木) 08:29:06.47 ID:I2+9Smnk
多賀谷氏と宇都宮氏が関東において合戦していた頃、ある時多賀谷は灰を夥しく城下に集め置き、
敵をあしらい引き寄せ、風上に備えを立てて、足軽のせり合いの前に、小者雑人を出して灰を空中に
撒き散らした。

ここで足軽はこの灰を追いかける形で、煙に紛れて敵に突きかかり、大いに戦果を得たという事が
あったそうだ。

(士談)



164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/24(木) 08:40:17.18 ID:cH4DxRBM
>>163
民家に雑兵が押し入らてガクブルの農民が「へ?灰ですか?」ってなってるとこを想像すると笑える

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/24(木) 08:51:15.28 ID:N8EUZHXM
そして周辺の木々は何故か桜が満開になったとめでたしめでたし

その者の腕は

2016年11月15日 21:28

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/15(火) 01:18:02.86 ID:v5hkRdd1
(慶長13年、)この夏、関東の者といって、京都に来た者がいた。

その者の腕は末端にいたる程次第に細く、こぶしの形はなおも細かった。

そのこぶしの先には指がただひとつあって、酒などを飲む時は肘を開き、
盃を肘に挟んで飲んだ。

その者は縄を上手にないた。たとえば、手のある者よりも縄を速くないた。

――『当代記』