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田島の屋敷

2019年07月09日 18:29

235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/09(火) 15:32:28.95 ID:xtfu1St6
大神君(徳川家康)は忍の近辺で御鷹野をなされた。その節、岩松万次郎殿(守純)は御先祖である
新田の御末葉で、御尋ねになったところ新田に幽居して郷民どもは尊敬し、助力仕っているとの由が
御聞に達した。

そこで御会い遊ばされる旨を仰せ出された。これにより(岩松が)忍に参られて御目見した時、岩松
は、当家は嫡流で大神君は御末葉(当流之嫡流大神君には御末葉)との由を以前から家自慢申されて
おり、御前でも同様で、「内府は結構な御巡り合わせです。目出度い(内府は結構之御仕合目出度)」
との由を仰せ上げられた。

これにより大神君も驚き思し召し、御物も仰せられず内に御入りになったという。その後「餓死せぬ
ように」と仰せ出されて、御代官所より20石ずつを進め来たるという。

忠秋公(阿部忠秋)が忍を御拝領の折、御代官中より申し継いだので此方様方(忠秋)より20石ず
つを岩松殿に進めなさり、その後、厳有院様(徳川家綱)の御代に忠秋公は仰せ上げられ、岩松は御
先祖様の御筋目なので御知行を下されるように御世話をなされた。

当時は万次郎殿(富純か)の御亡父(秀純か)の御代で、御知行の屋敷まで御拝領を仰せ出された。
御知行の場所も良き所を渡すように御代官所に仰せ渡しなさったので、此方様(岩松)は御家の御厚
恩と思し召したとの由で、御知行の所も百石御拝領したところ、3百俵程を納めたという。

屋敷も3万坪あって林の惣囲いだという。“田島の屋敷”と申す。

(原注:義貞公(新田義貞)の御居城は分かっているけれども、御当家(徳川家)御先祖の有親公・
親氏公の御居住の場所は分からないという。もしかすると、只今の万徳寺比丘尼の所に大木などがあ
り、景色は常ならぬ場所というが、「ひょっとして、ここでもあろうか」と岩松万次郎殿は仰せられ
たという)

――『石道夜話(石岡道是覚書)』



236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/09(火) 21:03:41.02 ID:g5uv+C8i
系図貸してって呼び出した時のお話か
岩松は足利義兼の庶長子の出であり且つ源姓畠山の祖でもあるからプライドは高いんだろうなあ

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/09(火) 23:28:48.29 ID:AaMMFxaz
岩松家を下克上し、守純にとっては親父の仇・由良氏を召抱えてて
そんなのが新田を仮冒して一門面して会いたいって言ってきたわけで……
皮肉の一つもいいたくなるでしょ

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/10(水) 07:56:39.66 ID:EhSynLtZ
なるほど
そうでもなきゃ神君怒るよね
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陣頭武者

2018年10月05日 11:40

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/05(金) 10:16:18.20 ID:7AgjQwu6
古老によると、関東には一備より五騎十騎ずつ選び出し、陣頭武者と号して、それぞれの馬に馬鎧を着せ
獅子頭を着けて、敵の備に乗り込み利を得るものがあったという。
また長柄の衆といって、旗本に大刀、大柄といった、古の野太刀のようなものを持たせて、大将の左右で
供を致す者が五百、三百ばかりあった。
また浪波(らっぱ)者と言って、忍びの者を集め、筒の火付け竹などを持たせ、五十百ばかり一組にして
夜込夜討を事とする者たちもあった。

(士談)

戦国期の東国の軍制に、選抜騎馬突撃隊が有ったらしいとか色々




330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/05(金) 23:27:26.77 ID:RxfikmxL
小弓公方「 (*^○^*)(騎馬突撃で)勝てるんだ!」

古の軍記等には虚説が多い

2018年07月11日 17:36

921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/10(火) 22:55:39.57 ID:4OTrD0VR
古の軍記等には虚説が多いと言うが、それも当然であろう。
信長記、太閤記などを読むと非常に虚説が多い。近頃なら難波戦記、島原記などだが、
私はこれらの戦いを実際に近くで見及んだわけだが、これらの書物は、書くべきことを
書き漏らし、書く必要も無いことを、さも大事な事のように書いている。

こういう近年の事例から、古についても察するべきである。

(渡邊幸庵對書)



922 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/11(水) 10:30:57.46 ID:5Chz2f1H
>>921
そりゃそうだろうけど
お前が言うなよw

923 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/11(水) 11:51:36.35 ID:fTvUYMZ5
130歳まで生きたと称している時点でアレ過ぎる

灰を集めて

2017年08月24日 09:48

163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/24(木) 08:29:06.47 ID:I2+9Smnk
多賀谷氏と宇都宮氏が関東において合戦していた頃、ある時多賀谷は灰を夥しく城下に集め置き、
敵をあしらい引き寄せ、風上に備えを立てて、足軽のせり合いの前に、小者雑人を出して灰を空中に
撒き散らした。

ここで足軽はこの灰を追いかける形で、煙に紛れて敵に突きかかり、大いに戦果を得たという事が
あったそうだ。

(士談)



164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/24(木) 08:40:17.18 ID:cH4DxRBM
>>163
民家に雑兵が押し入らてガクブルの農民が「へ?灰ですか?」ってなってるとこを想像すると笑える

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/24(木) 08:51:15.28 ID:N8EUZHXM
そして周辺の木々は何故か桜が満開になったとめでたしめでたし

その者の腕は

2016年11月15日 21:28

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/15(火) 01:18:02.86 ID:v5hkRdd1
(慶長13年、)この夏、関東の者といって、京都に来た者がいた。

その者の腕は末端にいたる程次第に細く、こぶしの形はなおも細かった。

そのこぶしの先には指がただひとつあって、酒などを飲む時は肘を開き、
盃を肘に挟んで飲んだ。

その者は縄を上手にないた。たとえば、手のある者よりも縄を速くないた。

――『当代記』



十千散起立の事

2016年08月25日 14:56

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/25(木) 03:55:00.79 ID:1PIrfqxH
十千散起立の事

 東都浜町に、小児科の医をして数世代に聞こえる印牧玄順というものがいる。
その先祖は戦国で主家の御敵であった者の子孫で、
その主人が没落後、浪遊して抱える人がおらず、
ある医師のものに立ち寄って生計をたてていた。

 かの医師は家伝に万病散とかいうものを売薬していたが、
その奇効は著しく戦場でも多くの者が求めていた。
この医師に随身して遂にその薬の製法を伝えられた。

 後に印牧は分かれたというが、師家の秘薬であるので、同銘を遠慮して
十に千を合わせれば万になるという心で、十千散と名づけたという。

 今もかの家ではその薬を出している。
予が子孫もこの薬を用いて、奇効があったという。
(耳袋)




喜多院に味噌をすること成らず

2016年08月19日 08:58

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/19(金) 00:45:11.09 ID:oH+VXyuJ
喜多院に味噌をすること成らず

永禄の頃とか、喜多院の住持が天狗となって妙義山中の獄というところに飛び去ったという。
よって住職代々の墓の中に、この住持の墓だけは無いという。

またこの住持に使われていた小僧も天狗となって飛び立ったが、庭前で墜ちて死んだ。
ゆえにその処に今小祠を建ててある。
この小僧が飛び去る前は味噌を摺っていたが、すりこ木を投げ捨てて飛んだとか。
その故か、今はこの院内で味噌を摺ると、必ず何物かがすりこ木を取り去ると。
なので味噌を摺る事ができないので、槌で打って汁にするという。
これもまた何者かがかくなしているのか。

(甲子夜話)



24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/19(金) 10:11:35.12 ID:/CyzfqZL
うんこは持ち帰りの逸話かと思った

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/19(金) 13:04:04.23 ID:46fc0BLd
味噌を擂って使ってたのって昭和何年くらいまで?

下総三山七年祭り由来

2015年11月02日 13:12

924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/02(月) 12:17:34.38 ID:c9uumMhm
この週末に丑年と未年だけに開催される下総三山の7年祭りが催されたので、その起源といわれる話をひとつ

下総は馬加(まくわり)という処に馬加康胤という将がいた。
康胤は千葉一族の重鎮にして、上杉禅秀の乱の頃より宗家と共に関東の争乱を戦い抜いてきた古強者である。
しかしながらそんな康胤にもひとつの悩みがあった。
それは彼の妻のことである。

じつは康胤の妻が身ごもってすでに11ヶ月を過ぎていたが、いっこうに出産する気配がなかったのだ。
これにほとほと困り果てた康胤は、領内にある二宮・子安・子守・三代王の4つの神社に安産祈願の祭礼を依頼した。

さて祭神のご利益によるものか、ほどなくして妻は珠のような男児を出産し康胤は大いに喜んだという。
そして「祝いの祭りをする」と領内に触れを出し、安産御礼の大祭を執り行って家臣や領民と共に嫡子の誕生を神に謝したのだとか。
時に文安2年のことだという。

地元の情報誌やwikiなどから
他にも、普通に安産を祈願したら三代王の祭神が康胤の夢に現れたからというお話もあるようです
ちなみに秋口に二宮神社(船橋市三山)で小祭が、今ぐらいの時期に二宮神社とゆかりのある8つの神社が神輿を二宮神社に参進する大祭が催されます
それぞれの神社には父母や子守・産婆などの役割があるそうです

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/02(月) 12:24:06.53 ID:c9uumMhm
関東が本格的な争乱状態に陥る少し前のお話で、この男児は名を胤持といいます
そして後年の享徳の乱において父康胤に先駆けて幕軍に討たれることになる若武者です
ただ、享年23といわれているのでお話の誕生年だと勘定があわないんですよね
てか、過去帳に記載すらないそうなんですがw
いずれかの記録が間違っているのか、あるいはこの年に産まれたのは女子のほうだったのか、はたまた元服にあわせて祭礼を行ったのか
ちなみにこのときの康胤の年齢は60から70ではないかと推定されます



この事態に神保は

2015年07月12日 17:30

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/11(土) 19:58:51.58 ID:UheazMzI
上杉謙信は天正6年(1578)の3月9日に患いだし、5日後の13日に49歳にて他界した。

他界したその13日から、本国である越後は騒ぎたった。その理由は、謙信は小田原北条氏政の舎弟・三郎を
養子とし景虎と名付け、また甥の喜平次をも養子とした。
謙信は、自身の存生はまだ久しいと思っていた。末々国を沢山に治めれば、跡を二旗に分けて
支配しようと考えていたのだ。しかし人間は不定の世界であり、3月13日に謙信は49歳にて死んだ。
14,15日には喜平次と三郎は謙信の跡を争い、春日山城において、本丸と二の郭で互いに弓鉄砲の
競り合いがあった。

この時、春日山城下には織田信長より謙信の下に、上方への御用のためと詰め置いていた、
佐々権左衛門が在った。彼は謙信との御用によって伊豆守と成っていた。
佐々は「いつまでも我らは越後に罷りあります。」と申していたにも関わらず、それを即座に翻して
暇乞いもなく上方へと脱出し、途中の道より『謙信御他界疑いなし』と飛脚を立てた。

佐々伊豆もやがて安土に着き、越後の模様を詳しく報告すると、信長大いに喜び、柴田右馬之丞という者を
召し寄越し、『越後をその方に取らせる』と書かれた書付を自筆にて出した。

このようであったので、越後における喜平次と三郎の争いは諸国に隠れないものとなり、謙信の他界は
10日の内に聞こえ、信長は加賀、越中、能登へ工作の手を入れた。
そうして加賀は信長の家来の佐久間玄蕃に与えられた。これも柴田修理(勝家)の甥であると聞く。
能登国は前田又左衛門(利家)に、越前は柴田修理に給わった。

越中は謙信他界を聞き、神保(長住)が運を開いた。かねてより信長が密かに謙信に対して盾をついていたのは、
この神保が信長の妹婿に成ったゆえだからである。

然れども、信長はおおかたならぬ表裏の大将であったから、末々神保を滅ぼそうと、佐々内蔵助(成政)という、
信長の家臣で柴田修理に劣らぬ剛の武士を神保の介添えに差し寄越すと、事に寄せて神保の権限を奪い、
越中は佐々内蔵助に給わるということになった。

この事態に神保はどこにも頼る相手がおらず。結局は敵の謙信の他界を悔やんだそうである。

(甲陽軍鑑)

尻高左馬助の自決

2014年07月09日 19:08

647 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/07/08(火) 21:40:26.38 ID:qdGf8z75
上野に尻高左馬助義隆という人物がいた。
当時上野は武田氏の勢力下で、上杉派の左馬助は孤立無援状態だった。

天正8年、とうとう武田軍が大軍で攻め寄せてきた。
しばらく戦った後、武田軍が城内に矢文を射込ませ、城主の自決を条件に降伏をすすめてきた。
左馬助はこれを受け入れ、城兵に「長い間、某のために命を捨てて働いてくれたのに対し、
いささかの報いるところも出来ず無念であるが、今は容赦願いたい」と、それぞれに褒美を与え、
城の内外を掃除させて郷里に帰した。そして最後に左馬助も10人ばかりの部下と城を出た。

道々では猿ヶ京の住民が涙を流して見送り「ご最期を見届け申したい」と言ってきたが、
左馬助は検視の者に遠慮してこれを断った。また途中で神社や寺に寄って後生菩提を祈願しつつ、
恕林寺に使いをやり「武運尽きて切腹するためにここまで参上した。
御寺の庭をお貸しください」と申し入れた。

住職の春朝は左馬助の縁者だったのでこれを受け入れ、左馬助やその部下を厚くもてなし馳走した。
春朝が「(自決することで)みんなの身代わりとなろうとする気持ちがいたわしい」と涙を流したので、
左馬助も竹筒に入った酒を取り出して、別れの盃を取り交わしてあとあとの事を遺言したりして
思わず時を過ごした。

すると左馬助の最期を見届けようと寺を囲んでいた武田軍がこれを見て
「気おくれしたか左馬助、見苦しいぞ!」と嘲笑してきた。
それを聞いた左馬助、「いざ剛の者の最期を見よ!」と武器を取ると寺より踊り出でて
見物していた武田軍に襲い掛かった。さらに供の部下たちもこれを見て同様に襲い掛かった。
だが、所詮は多勢に無勢。左馬助は傷つき疲れ果てて、最後は寺の内に戻ると念仏を唱えて切腹した。
部下もこれに続き、全員が自決したという。

美しい自決劇かと思いきや、余計なひと言でめちゃくちゃになってしまったちょっと悪い話。
ちなみに春朝は、寺内に薪を積み上げて火を放ち、寺が焼け落ちるどさくさに紛れて脱出したという。

『上毛古戦記』より

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/08(火) 22:13:26.56 ID:qdGf8z75
ちなみに『上毛古戦記』(みやま文庫/編 みやま文庫 1966)は国立国会図書館でデジタル化されている
(ただし国立国会図書館/図書館送信参加館内公開)ため、お近くの県立や大規模市立図書館で見ることができます。





そしてついにその時が来た

2013年09月07日 20:03

283 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/09/06(金) 22:27:51.45 ID:3+5POUxL
上州は吾妻の地に羽尾治部入道道雲(幸全)という人物がいた。
海野長門守幸光、海野能登守輝幸兄弟の兄である。
羽尾道雲は同じく海野氏族である鎌原宮内少輔と西吾妻の覇権を争っていた。
武田信玄による仲裁も入ったが、結局鎌原宮内少輔は自領を追われて信濃へ逃れた。

永禄五年六月、羽尾道雲が万座温泉に湯治に出かけた隙をついて、鎌原宮内少輔はこれを奪還する。
逆に今度は羽尾道雲が信濃へ逃れた。
羽尾道雲はまた領土を取り戻すべく、自身の親類で鎌原氏の重臣である樋口某に「勝てば鎌原領はおまえのものだ」と内通を呼びかけた。

樋口某はこれに応じ、「攻めるのであれば雪が深くならないうちが良い。大前方面から攻めれば宮内少輔は自ら出てくるはずだ。
それで出陣の際は宮内少輔は黒い馬に、私は葦毛の馬に乗って出る。黒い馬を目印にこれに乗っている宮内少輔を鉄砲で撃て」と助言した。

そして羽尾道雲は大前方面から兵を進めた。
それを討つべく宮内少輔も樋口某を連れて兵を進めようとした。

すると鳥居川を渡ったところで、宮内少輔の馬が足を前膝を折って伏せてしまった。
「この馬は足立ちが悪い。樋口某、馬を代えてくれないか?」
さすがにこの場で断るわけにもいかないので樋口は力なくそれを受け入れた。

しかしだんだん戦場が近づいてきて鉄砲の音が聞こえると樋口は自分が撃たれると怖くなり、
そこかしこで止まったりしたため、宮内少輔からは1町ほど離れてしまった。
それ(樋口某の旗印が後方にある様子か)を見た羽尾入道は「樋口は内応するつもりだから後方にいるのだろう」
と特に異変には気付かなかった。

そしてついにその時が来た。
羽尾道雲に「黒い馬に乗った将が来たら、それを撃て」と命じられて潜んでいた鉄砲名人の猟師が、
黒い馬に乗った樋口某を見つけ、これを撃ったのだ。
猟師が撃った弾は樋口某の銅丸を打ち抜き、さらにその遠くにいた郎党の頭を打ち抜いた。

その報告を聞いた羽尾入道は「大将は討たれ、残った樋口は味方だからもう大丈夫だ!」と弓鉄砲を袋に収めさせ、
弁当を出させて宴会を始めた。
そこへ無傷な状態の鎌原軍が襲い掛かり、さらに裏切り者も出たため、戦いに敗れ羽尾入道は1騎で落ち延びたのだそうな。




284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/07(土) 02:57:41.47 ID:e7W2zYB8
策士策に溺れる・・・いや狩人罠にかかるのほうが近いか。

岩松家純、嫡子明純を

2011年07月04日 23:40

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/04(月) 10:33:33.11 ID:MukAFihl
鉢形城で蜂起した長尾景春は上杉方諸将の拠る五十子陣に突入した。
上杉方諸将はもはや支えきれずと判断し、各地へ落ちていった。
諸将の一人、新田の岩松家純は上杉顕定と上杉定正に使いを送り、
自分は老齢なので息子の明純を同道させると伝えた。上杉顕定は家純の口上に恐縮し、
明純の出陣に期待した。ところがである。

「!? 何故お前がここにおる!」
なんと金山に向う家純に明純がついて来たのである。
「お前は何をしておるか! 両上杉家になんと申し上げればよいのだ!」
「夜陰が心配でついて来てしまいました。ここからでも顕定様には追いつきましょう」
「心配なことなど何もないではないか!? ああ、申し訳がたたん、なんたることだ!」

家純の激怒は尋常ではなかった。仕方がないので側近の松陰の意見により
家純はとりあえず明純を武士城に待機させた。
そして使いを上杉三家に送り、事の次第を説明して明純は遅れると伝えた。
これに上杉顕定は「経緯はわかった。待っているので早く来てほしい」と答えた。
しかし、やはり明純は出馬せず、金山に戻ってしまった。

家純は松陰を呼んで言った。
「お前は長年使いを務めてきたから言うが、上杉家に対してこたびの失態は一世一代の
恥辱だ。長生きをして無念千万だよ。明純に期待してすべてを失った。
こうなれば私が出陣する。なんという不運だ。今、頼りになるのはお前だけだ」
しかし、高齢の家純には無理だと判断したのか、横瀬国繁がこれを止めたのであった。

これ以降、親子の溝は深まるばかりでついに明純は勘当されてしまった。
しかも家純は遺言で「明純の意見に任せれば滅亡だ」とさえ言い残したという。





866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/04(月) 17:49:38.24 ID:HwhYwtHy
>>865
岩松さんのところは江戸期も含めて苦労が耐えないねえ。

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/04(月) 18:23:00.39 ID:D6IJZJyU
>>865
岩松さんへ
横瀬には気をつけろ・・・

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/04(月) 22:49:45.26 ID:E2DI015g
岩松さんがメチャ苦労した本家新田氏の祟りかもわからんね

藤田信吉、沼田城を

2011年05月09日 00:00

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 01:30:00.26 ID:CWGiIk4L
天正10年(1582)6月2日、本能寺の変、起こる。

この報は6月9日、上野国厩橋城の滝川一益にも届いた。
俗に滝川一益はこの報を関東諸侯にありのままに伝えた、などと言われるが、
実際にはひた隠しに隠し、本能寺の風聞を聞き信長の安否を尋ねた上野の国人に
『京都の情勢に別状はない』との書状まで出している。

が、このように関東にも風聞としては既に広まり、6月11日には一益がこの事を
最も知られたくない人間、北条氏政も知るところとなった。
ちなみに氏政、翌12日には大喜びで国内に動員をかけているw

が、信長の死によって関東情勢も流動化する中、最初に一益への反乱を起こしたのは、
北条ではなくかつて北条も裏切った男、藤田信吉であった。

彼は沼田城に押しかけ、そこの城代をしている滝川一益の甥、滝川義太夫に対して迫った

「俺の城を返せ!」

義太夫「(;゚Д゚)ハァ?」

これには滝川義太夫もさすがにあきれ果てた。何故なら、沼田城が藤田のものだった時期など
一瞬とてなかったのだ。

確かに藤田は北条時代から武田時代まで、この沼田城に詰めていた。
だが北条時代は北条氏邦配下としてであり、武田時代は真田昌幸の配下として、沼田城代
矢沢綱頼の与力として、それぞれ守将の一人として勤務していたに過ぎないからである。

滝川義太夫はこう返答した

「そもそもこの城は、真田昌幸殿が我らに明け渡したのであるから、返せというなら
真田殿に返すのが筋である。少なくとも貴殿に返せと言われる筋合いはない!」

全くもって正論である。が、藤田はそんな正論に聞く耳を持つような、可愛げのある人間ではない。
彼は密かに越後の上杉景勝と連絡を取り、その支援を得て軍勢を集結、沼田城に攻め寄せ
たちまちのうちに水曲輪まで乗っ取った。

が、この時は未だ関東の滝川勢力は健在であった。義太夫からの報告でこれを知った一益は
6月13日、早速軍勢を率いて押し寄せる。藤田は滝川の大軍に沼田城攻めを諦め、越後の
景勝の元まで逃げた。

情勢の変化をいち早く見抜きいち早く行動しいち早く失敗した、ミスター上野国人、
藤田信吉と本能寺の話である。




88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 02:37:11.47 ID:tBaDcalj
関ヶ原の時といい急時になると元気な奴だな

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 08:43:51.60 ID:4jEqj5/V
そして、素早いだけで行動自体は空回りのあたりがなんとも

90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 08:58:54.30 ID:iz42pG+B
藤田さん、いち早く勝ち組についたのに何故か改易されてる。よくわからんな
目端は利くけど保身がヘタクソなというか

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 13:47:30.50 ID:Yxzp1z0j
>>90
大阪の陣の時に軍監権限でかってに軍を止めて藤堂井伊隊を見殺しにしかけて改易。
逸話見るに有能だがかなり身勝手な人物だったのかね

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 20:05:58.27 ID:eAI+U6WX
育ちが複雑だからなんとか一旗上げたくて空回りしてたのかなあ

余談だが藤田信吉のwiki、「歴史小説「戦国大乱」などでも奸物として描かれており~」と書かれててワロタ
それ歴史小説じゃなくてシミュレーション戦記(しかもスットコ超大作)…

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 23:06:31.09 ID:EU92LFgI
信吉は何の後ろ盾もない状況から、よく頑張ったと思うけどなあ

あと信吉に限ったことじゃないけど、wikiの作品の項目にゲームや漫画を載せるのも自重してほしい…

藤田信吉と北条氏邦

2011年04月18日 00:03

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/17(日) 08:21:54.63 ID:tF1cXnKq
関東管領山内上杉家の家臣、藤田康邦は、北条家の勢力の前に、ついにその軍門に下った。
北条家に下るにあたって、二人の息子がいたが、氏康の子・氏邦が姉の夫として婿養子に入った。
康邦は居城から退去し、長男は氏邦に毒殺されたと言われる。二男・信吉は恨みを抱えて武田家に寝返った。

時は流れて天正18年。信吉は再び旧領に姿を現す。
小田原征伐に際して、上杉家の先鋒として藤田(北条)氏邦が守る鉢形城に攻め寄せていた。
氏邦もよく守ったが、最終的には豊臣軍に降伏することになる。

このとき、父を追い、兄を弑した氏邦に対して信吉は何を思っただろうか。
未だに憎しみを持ち続けていたか、あるいは時がその感情を和らげたか。

氏邦は剃髪することで助命され、前田家の預かりとなった。
前田利家の助命嘆願があったといわれるが、信吉もまた助命を願ったとも言われる。




24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/17(日) 08:41:20.82 ID:eGQNx2oN
あの藤田信吉さんかぁ・・・

善光寺式阿弥陀三尊、その数奇な運命

2011年04月11日 00:00

581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/10(日) 18:50:19.15 ID:YcC13Ovi
善光寺の阿弥陀如来(善光寺式阿弥陀三尊)といえば、日本最初の仏像とも言わる。
が、この仏像は戦国時代、実に数奇な運命を巡る。

先ずは弘治3年(1557)2月、善光寺を占拠した甲斐の武田信玄は、その仏具などと共に
この阿弥陀仏も略奪、甲府へと持ち帰り、新たに建設した『甲府善光寺』の本尊とした。

やがて天正10年(1582)3月、織田信長による甲州征伐。信長の嫡男、は阿弥陀如来像を奪い
岐阜へと持ち帰りここに『岐阜善光寺』を建立した。

同年六月、本能寺の変

その後の織田勢力の主導権争いの中、阿弥陀如来は織田信雄の手にわたり今度は清洲の
甚目寺へと移された。

そして秀吉が台頭する中、信雄は徳川家康との同盟を固めるためであろうか、阿弥陀如来は
家康へと贈られ、浜松の鴨江寺に遷座した。

が、ここで家康の枕元に阿弥陀如来が立ち「甲府に帰りたい」と仰られた。

家康はこの夢のお告げに従い、阿弥陀如来を甲斐善光寺へと帰座する。


慶長元年(1596)伏見大地震により京は方広寺の大仏が崩壊した。
豊臣秀吉はこれに激怒する

「我が身をさえ保てぬ仏が、衆生済度など出来るものか!?」

しばらくして秀吉は夢に仏の姿を見た。善光寺阿弥陀如来である

「これだ!」

大仏崩壊の翌年7月18日、秀吉はこの阿弥陀如来を甲斐より遷し、方広寺の本尊とした。

ところが、である。

その翌年から秀吉は体調を崩し始めた。これを人々は「阿弥陀如来様の祟だ」と囁く。
そんな中今度は秀吉の枕元に、阿弥陀如来が立った
『私は信濃に帰りたいのだ』

その頃、徳川家康の援助により信濃善光寺は漸く再建されていた。

体力が衰え気が弱くなり、噂を恐れたのもあったであろう。秀吉はこの事があると直ぐ様如来を
家康に返す。
慶長3年(1598)、徳川家康はこれを、その頃再建なった信濃善光寺へと戻した。
ここに漸く、41年間に渡る、阿弥陀如来の放浪は終わったのだ。

以後、善光寺式阿弥陀三尊は信濃の地をを動くこと無く、今も、善光寺に参拝する多くの
善男善女の信仰を集めている。

善光寺阿弥陀如来の、数奇な変転についてのお話である。




「寿能の蛍」

2011年02月21日 00:00

能姫   
899 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/02/20(日) 00:42:58.78 ID:ojBUX0H1
現在のさいたま市に伝わるお話。武将ではないが投稿。

「寿能の蛍」
昔、池の辺りで笛を吹いている娘がいた。やがて娘の周りには蛍が集まり、その中のとびきり大きい蛍が
娘を池の底へと連れさった。
やがて娘が目を覚ますと目の前に美しい上品な女がいた。

「実は私、昔この地を治めていた潮田家の能と申します。寿能城が落城した際に私は待女と共に
この池に入水したのですが竜神様にこの夏の期間だけ蛍となり一族に祈りを捧げる事ができるのです。
どうか我が一族を供養してください」

この姫の気持ちに心をうたれた娘は供養塔を建てたと言う。




900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/20(日) 00:56:05.58 ID:eG9/zR8H
なんかあっさりした話だから結構古い時代かと思ったら、
寿能城が落城したのって小田原征伐の時なのか

守矢使者 「おい、来週は何があるか言ってみろ。」

2010年12月11日 00:00

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/10(金) 19:53:03 ID:CeVH3IYv
じゃあ御柱関連で

寛正五年(1464)
当時、甲斐国内では武田信昌と跡部景家が国内を二分し覇を争っていた。
武田信昌は跡部氏と蹴りを付ける為に諏訪勢に援軍を要請し、
これを受けた諏訪勢も大軍勢を仕立てて出陣したが、
甲斐国境で待ち受けていたのは跡部勢では無く、神官長守矢満実の使者だった。

守矢使者 「おい、来週は何があるか言ってみろ。」
諏訪光有 「え、そりゃ六年に一度の御柱で・・・。」
守矢使者 「ほう、御柱と戦どっちが大切だ?」
諏訪光有 「そりゃ血沸き肉踊る、漢たちが名と命をかけた・・・・御柱です。」

諏訪光有達は早速に軍勢を取って返し、祭日に間に合うように瞬く間に祭りの準備を済ませ
例年に増して盛大で熱狂的な御柱祭を執り行ったのであった。
その後、諏訪勢は再度援軍に出陣し、
跡部氏は、武田軍とやけにテンションの高い諏訪勢に挟撃され
当主と一族の多くを討ち取られ滅亡となった。

後日談、実は武田と跡部ともに守矢満実の檀家であり
守矢満実は跡部氏の戦勝祈祷も執り行ってたのがばれて謹慎させられてしまったとさ


出典、「守矢満実書留」




971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/10(金) 20:22:14 ID:HloUx1ZN
当時は戦争よりも御柱祭の方がむしろ危険だったりしたのかなw
もちろん現在の御柱祭よりもはるかに過激な祭りだったんだろうが

972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/10(金) 20:59:40 ID:N6BLiUPb
戦は日常茶飯事だし従軍強制もあるからなあ
御柱祭はオリンピックみたいなもんか

973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/10(金) 21:06:09 ID:HloUx1ZN
なるほど、古代ギリシャでオリンピック開催のために戦争を中止したのと同じか

佐久山一族の末路

2010年11月18日 00:00

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/17(水) 06:26:47 ID:cz15z1MF
鬼畜三兄弟の策謀により討たれた佐久山義隆
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-606.html 参考
しかし、これで佐久山氏が滅んだわけではなかった。
一族の佐久山泰秀が福原資孝に佐久山城を落とされる際に落ち延びることに成功し、
入江野に逃れ、その地に城を築きなんとか佐久山氏は存続することが出来た。
不思議なことに、その後も那須氏の配下に留まっていて、那須資晴にこの件での対応を求め続けていた。
ところが、三兄弟を恐れた那須資晴は具体的に対処することは無かった。
このことから、佐久山氏は那須氏と距離を置くこととなった。
結局、泰秀の子泰清の代になった1586年に具体的に敵対行為を取っているわけでもないのに
塩谷氏に接近しているらしいという理由で滅ぼされた。
なんとなくすっきりしない、不幸な一族の末路。




639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/17(水) 19:03:57 ID:2cB7aYbu
どう考えても、大関さんの差し金です。
本当にありがとうございました。

井深茂右衛門の策

2010年05月26日 00:04

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/24(月) 21:55:52 ID:nabULUC5
織田信長の死後、滝川一益は混乱に乗じた小田原北条家からの強襲を受け、神流川の戦いで一敗地に塗れた。
一益は上方へ退去することになったが、その際に傘下の土豪たちから取った人質を返還し、賞賛を浴びた。

「……が、我ら保科家は、嫡男の正光が一益に付き従ったまま、ここ諏訪の十王堂に至る、と。
このまま上方までついて行っても、寄騎をだいぶ失った滝川には期待できん。正光を取り戻し逃げねばなるまい。
だが、正光と我らは切り離され、正光は御堂の中、我らは外じゃ。どうする?」

タメ息をつく保科正直に、
「なーに、わしに考えがあり申す!」声を上げたのは、正直の家臣・井深茂右衛門だった。


夜、一益配下の番兵が見回りをしていると、怪しい火の手が上がるのが見えた。「な、何事じゃ!?」
驚いて番兵が火元に駆けつけると、茂右衛門がバリバリと御堂の板壁を引っぺがして燃やし、天を焦がしていた。
「おおーい!何をしておるんじゃ、お主はー!!」

「あァん?わしら陪臣はなぁ、ロクに兵糧も薪も与えられずに、ここまでお前さん方について来たんじゃ。
ようやくこの辺の百姓から残り物をもらい、こうしてムリヤリ焚き火を作って、湯を沸かし汁など作ろうという所よ。
文句があるなら、マトモな飯と薪を持って来いや!!」

「わ、分かった!今回は見逃す。あまりムチャを仕出かすなよ?」釘だけ刺して、番兵は立ち去った。
「……行ったか?」「ああ、行ったぞ!」「よし、今のうちだ。板を剥がして開けた穴から、若様を連れ出せ!」

まんまと若殿・正光を連れ出した茂右衛門一行は、正直と合流して十王堂を逃げ出した。
その後、徳川に通じた保科家は、正光の養子に秀忠の庶子を向かえ、会津松平家として天下に冠たる雄藩となる。

茂右衛門一族も、会津藩の重臣として栄えた。その子孫・井深基は戊辰戦争を生き延び、さらにその孫は、
戦後に東京で小さな電気店を始めた。彼は、先祖譲りの度胸と機転で生き馬の目を抜く業界を渡り歩き、
吹けば飛ぶような電気店を、世界に冠たる企業に育て上げた。

すなわち、井深大である。




255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/24(月) 22:09:37 ID:LsP68OmG
ご先祖さんもやっぱり・・・って感じしか受けないんだがw

256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/24(月) 22:11:14 ID:jnyX7g3y
SONY!?

257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/24(月) 23:24:03 ID:nJketzMF
>>256
井深でソニーがすぐ出てくるってことは君もおっさんだな、うん。やっほー!

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/25(火) 00:12:19 ID:CPjSgGVP
創業者は立派なひとが多いね。

259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/25(火) 00:40:33 ID:6HEH1ITY
立派な創業者だけが記憶に残るのだ。

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/25(火) 01:01:14 ID:MTGwD+sg
井深って白虎隊のやつしか知らんかったわ

261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/25(火) 01:01:26 ID:u8VJ90rf
そもそも、育て上げたこと自体が立派と言えないレベルの企業なら名前は売れてない。

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/25(火) 12:02:41 ID:HpMINSyX
茂右衛門「救出はまかせろー!」バリバリ!

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/25(火) 12:34:44 ID:G0J4yWyF
森家中「茂右衛門殿!ふとんふとん!」

264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/25(火) 12:45:50 ID:astWM3E6
島津 が わらっています
どうしますか?
・にげる
・なく
・やべ、ちょっとちびっちゃった
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産女(うぶめ)供養

2010年05月09日 00:04

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/08(土) 17:40:45 ID:GkX4OATc
産女(うぶめ)という妖怪をご存知だろうか?
出産の際に死んだ妊婦の霊が妖怪と化したモノだといい、母ではなく赤子の霊をそ
う呼ぶコトもあり、ある時は鳥の姿で描かれるコトもある。
共通するのは「出産に纏わる亡霊」という一点のみで、姿も性質も様々。名前もそ
の時々で色んな漢字が当てられている。

室町から戦国に時代が移ろうか、という頃。
鎌倉の街中にこの産女が現れた。
血で染まった腰巻をまとい、赤子を抱いて川端にたたずむ。典型的な産女のパター
ンの一つである。

夜な夜な現れる亡霊の話を聞き、大巧寺の住職、日棟上人は産女の現れる川まで、
わざわざ会いに行く。

「今、鎌倉中があなたに怯え、不安に思っている。我が子を産み落とせなかった無
念は察するにあまりあるが、何故そのように化けて出てくるのだ」

上人の言葉に、産女は泣きながら答える。

「私は大倉の住人、秋山勘解由の妻です。出産に際して不運にも死んでしまいまし
たが、子供を思うとこの世に未練が残り、我が家へ帰ろうとこの川を渡ろうとして
いる所なのです。しかし、私が川に入ろうとすると水が汚い血と化し、渡る事が出
来ません」

上人が、共に亡くなった子供の為にも成仏すべきであるコトを説き、大巧寺で末永
く供養をしてあげるコトを約束すると、産女は納得したのか姿を消した。

数日後、約束通り産女の供養をしていた日棟上人の前に一人の女が現れ、
「先日のお礼としてお納めください」
と、包みに入った金を渡して立ち去った。

月明かりの下で見た血塗れの恐ろしげな姿からは想像も出来なかったが、まだ若く
美しい容姿のその女は、紛れもなくあの産女であり、秋山勘解由の死んだ妻であっ
た。

大巧寺では産女から寄進された金で仏塔を建て、お産の苦しみから女性を護る「産
女霊神」として彼女を祀ったという。
現在も鎌倉大巧寺は安産祈願の「おんめさま」として多くの参拝客が訪れている。