傘下国人の統制が利かない北伊勢諸家

2017年03月31日 21:39

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/31(金) 17:32:24.73 ID:GXvuqNGc
戦国時代の北伊勢の国人衆、「HKS48」こと、北勢四十八家はご存知でしょうか?
このHKS48、実際には五十三家の国人がいたそうで、そこから選抜された国人だけが四十八家を名乗れたという。

という戯言はさておき、北伊勢のネタ?が少ないようなので、ちょっと発掘してみました。

近江六角勢による北伊勢侵攻「神戸城攻防戦」

弘治三年(1557)、近江の佐々木六角承禎(義賢)は、小倉三河守実隆(蒲生定秀三男)に命じ、伊勢国三重郡にある柿城(現朝日町)を攻略させた。
柿城主・沢木(佐脇)宗喜は神戸(かんべ)氏に救援を求め、当主下総守利盛は自ら一千余騎を率いて出陣した。
ところが、利盛出陣の留守を守る神戸氏六奉行の一人である、岸岡城主・佐藤中務丞父子が近江勢に通じて謀反を起し、本拠、神戸城を略奪、利盛の妻子を追い出すや、近江勢、小倉実隆を城に引き入れたのである。
急を聞いて利盛はただちに兵を返したが、神戸城の奪還はならなかった。
万事窮したところへ、岸岡城を守る佐藤氏の家臣、古市与助が利盛を岸岡城に招きいれたことで、とりあえず利盛は一息つくことができた。
当時、神戸氏は宗家たる関氏と険悪な関係であったため、これを頼ることが出来ず、利盛は母方の長野輝伯(藤定)を頼ることとなった。
長野氏は同心し岸岡城に援軍を出すと、神戸・長野連合軍はただちに神戸城へと押し寄せた。
小倉実隆も防戦するが、地の利を知る神戸勢は勇戦、城を包囲するや諸方より攻め立てる。
やがて小倉勢は破れて千種城に引いた。利盛はこれをことごとく追討し会計の恥を雪いだ。
主君を恨むものは天罰を逃れられない。佐藤親子は城を逃れて十宮村に引潜んだが、利盛はこれを許すといって招いた。
佐藤が登城する際に人を道に潜ませこれを討った。その子又三郎も十宮で討たれた。死体は莚に巻いて三日市に晒した。
昔、佐藤の下人だったものがそれを見て怒っていった。
「お前は無道で主君に背いた。又罪も無い俺を憎んだ。天罰覿面だ」と。
そのあと2,3回これをけった。
するとたちまち脚気になり一生足が立たず居去り乞食になったという。

(勢州軍記)

傘下国人の統制が利かない北伊勢諸家のお話。


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雑談・影の薄い悲惨な赤座さんについて

2012年12月23日 19:11

855 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/12/22(土) 20:48:57.32 ID:EwOjHy7l
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        |: :\ ィ: : \  /\   (X)}     | |彡

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/22(土) 20:49:26.85 ID:EwOjHy7l
ごめん、酷い誤爆をした……

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/22(土) 20:52:38.26 ID:fizCT++q
よくわからんが、
関が原で便乗裏切りしたあげく所領没収された
影の薄い悲惨な赤座さんについて話せということか

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/22(土) 20:59:44.82 ID:FDVrbrAB
氾濫した川を見に行って溺死という流れるようなフラグ回収をした直保さんがなんだって?

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/22(土) 21:07:18.93 ID:kZ8VV+lG
上杉から追放され自裁した舟見さん(字は違うが)
毛利家中から裏切り者呼ばわりされた吉川さん(読みは違うが)
…、一人足りない

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/22(土) 21:11:43.76 ID:8YzjGYxR
赤座さんがいつの間にやら加賀前田家に仕えたものの、息子の代に微妙公に永原と苗字を変えられた件。
ちなみに幕末に子孫が、水戸天狗党鎮圧行ってる。

861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/22(土) 21:18:02.54 ID:fizCT++q
永原甚七郎か
山田風太郎の天狗党をモデルとした小説で
自分が降伏をすすめたために無残に殺されてしまった、と精神を病んで死んだ
って書かれてて本気にしてた

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/22(土) 21:28:17.01 ID:P/u3oaBx
武田耕雲斎は跡部勝資の子孫だけど、甲陽軍鑑のせいでイメージが悪い、てので武田にしたそうだが
直保の息子も裏切りのイメージを嫌ったとか?

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/22(土) 21:43:53.01 ID:MJXUrFOC
>>858
赤座さんが死んだ越中大門は高岡の隣か

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/22(土) 21:47:26.67 ID:1bAaG98a
なにげに朝倉家臣からスタートした赤座さん。

つまりあの越前の狂犬とも同僚だったということだ。

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/24(月) 12:11:31.33 ID:U9TsOr9h
赤座さん小川さん朽木さんは裏切っても相手にされないし
大谷好きからは忌み嫌われて悪名高くなる一方だしで散々だよね

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/24(月) 12:57:50.34 ID:3ga+/rTp
申し訳ございませんお客様、裏切りは完全予約制となっております

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/24(月) 13:50:20.56 ID:Tw8CTV1P
脇坂「予約しといて良かった…」

876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/24(月) 17:59:47.06 ID:FOSIncts
弾正「ゴールドカード会員なら予約も不要ですぞ」

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/24(月) 19:08:05.95 ID:L6D772zb
ノブ「ゴールド会員は入会費として九十九茄子が、年間料として土蜘蛛が必要となっております」

878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/24(月) 19:18:26.44 ID:/NFacn01
>>877
それは「平」蜘蛛だっ
土蜘蛛だと妖怪になっちまうよ

「尻冷やし地蔵」

2012年08月25日 20:52

159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 14:10:53.11 ID:M8PWV1s6
尻といえば小牧の近く、今の春日井市に「尻冷やし地蔵」というお地蔵様がある。

この付近で合戦が起こった時、敵に追われた手負いの武士が清水にたどり着いて、そこで喉の渇きを癒している所を
追いついていた敵に後ろから刺殺された。後にその武士の慰霊のため作られたのが
この尻冷やし地蔵とされる。

尻冷やしの名の由来は、清水の上に置かれたので、こんこんと湧水により、いつも裾が濡れていたためだと伝わる。
ちなみにこの地蔵には正保4年(1647)の銘が有り、市内でも最も古い地蔵の一つとされている。

春日井に伝わる、尻冷やし地蔵のお話。




160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 14:38:34.44 ID:HkrtFv0B
裾濡らしとか裾冷やしとかでいいじゃない…なぜ尻に

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 15:01:41.83 ID:7azbN4jG
実は後ろから刺された箇所が尻だったんじゃないの?

162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 15:09:06.00 ID:WaJ+vnKt
アッー!

江馬輝盛の興亡

2012年08月20日 21:07

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/19(日) 20:37:21.36 ID:FqR7YSwH
お盆に実家近くの神岡に行ってきたので飛騨の話を


飛騨の豪族たちは、時に争いながらも表面的には友好関係を保っていた
しかし越中から上杉謙信、信濃から武田信玄の脅威が迫ってくると、彼らもどちらかに付かざるを得なかった
南飛騨の三木氏が上杉氏と強く結びついたのに対し、北飛騨の江馬氏は主に武田氏寄りの立場を採った

江馬氏は執権北条氏の末裔を自称し、飛騨国高原郷(飛騨市神岡町)を中心に飛騨北部に勢力を持った。
戦国時代後期の当主・時盛は信濃から進出してくる武田氏と結び、三木氏と対抗していたが、息子の輝盛は越中国中地山城にあり、
上杉氏へ近づこうと考えていた
こういった考えの相違から、時盛は輝盛の弟・信盛を当主に据える動きを見せており、親子の対立は避けられないものとなっていた

天正元年、遂に輝盛は時盛を殺害して高原郷の本城を支配した
次いで弟の信盛を甲斐へ追放、他にも後継候補であった従弟の慶盛を攻め殺し、完全に実権を握った。
その後は三木氏と共に上杉氏に属した。
(武田信玄死去の情報を上杉氏へ伝えたのは江馬氏家中の者から河田長親へ宛てた書状である)

しかし、信玄と謙信の死、そして両氏の勢力減退、さらには織田信長の横死という激しく動く情勢は輝盛の野心に火を付けた
当時三木氏は織田氏と通じており、その織田氏という後ろ盾を失った三木氏に輝盛は決戦を挑んだのである
兵力の劣る三木氏は小島氏らと結んで迎撃、「飛騨の関ヶ原」とも言われる八日町の戦いとなった

父を殺し、従弟を討ち、弟を追った男の最期は、三木勢の放った銃弾であった
高原郷へは勢いに乗った小島時光が攻め寄せ、江馬氏は滅亡した

この抗争に打ち勝った三木氏は、これまで協力していた諸氏や自身の一族までも滅ぼし、飛騨国内の大半を手に入れるのであった





72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/19(日) 23:03:49.44 ID:sareDJhY
飛騨の三木氏って聞いたことないと思ったら姉小路氏のことかよ

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/20(月) 00:50:45.88 ID:k6Fhdk0n
三木を隆盛に導いた直頼は美濃にちょっかい出してたりするほどなんだけど、あんまり有名ではないよなあ

ところで、小島って国司家の姉小路傍流なのかな?
それとも無関係の一族?

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/20(月) 01:43:44.42 ID:4RWe1OET
飛騨っていうとなぜか飛騨鷹比等を思い出してしまう

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/20(月) 22:34:44.64 ID:k6Fhdk0n
飛騨といったら甚五郎

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/20(月) 22:45:48.38 ID:MumgZtZW
赤影かもしれん

78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/21(火) 07:29:28.62 ID:A3Ki2MCk
牛だろ牛、飛騨牛
あーでもこの時代は食わんよな

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/21(火) 07:58:52.32 ID:sD34GSnx
>>78
日本の食用のなんとか牛は
近代になって海外の肉牛と掛け合わせた物だから

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/21(火) 08:04:12.99 ID:7GiGOlWx
飛騨といえばブリだろ

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/21(火) 08:32:24.20 ID:VlFlRE4n
乳牛の飼育に失敗したのは8代将軍だったか

82 名前: 忍法帖【Lv=14,xxxPT】 [sage] 投稿日:2012/08/21(火) 15:28:59.27 ID:3RAewFho
飛騨ってよくあれで1国になったね。
国力めちゃくちゃ低いんじゃない?

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/21(火) 15:46:35.16 ID:MQ1+/the
あまりの低さに税金免除されたレベル

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/21(火) 16:33:17.47 ID:F9rxcNHt
飛騨国は農業生産はゼロに近いけど、良質の木材と銅や亜鉛などの鉱物資源で
人口の割に収入はあるイメージだな。まあ、隣国などとの交易も大変そうだけど。

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/21(火) 16:39:45.00 ID:QMn0xiiF
二年くらい前に白川郷に泊まりに行ってみたら、道中のトンネル手掘りが結構な数あったなー。
当然の事、幅は狭いし、短い間隔で道路工事やってたもんだからトラックも結構通るなから、なかなかスリリングで楽しかったw

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/21(火) 17:07:16.77 ID:hUkpucKK
飛騨かぁ。高山とか下呂温泉には旅行で行ったことある
観光で行くにはなかなか素敵なところだけど、住むとなるといろいろ不便ではなかろう
か、と思ったり

俺が戦国武将だとして、もし、
「こたびの働き見事であった!加増してつかわす。○○国××郡に代わり、飛騨一国を与える!」
とか言われたら「ははぁ~有り難き幸せ」とか言いつつ、内心ビミョーなんだろうなw

でも、外敵には強そうだな。勝手知ったる地元の兵を動員してゲリラ戦に持ち込んだら
多少の大軍は撃退できそうなイメージ

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/21(火) 17:13:16.00 ID:YGXQo3yb
飛騨は石高は大国の一郡程度だけど木材収入が結構な物だったから、
小大名クラスならかなり美味しい話かも。
結局木材の安定供給のために木曽共々天領になっちゃたけど

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/21(火) 17:48:21.55 ID:fo8flQkM
長政が前任だったらハゲ山になって引き渡されたりしてな

89 名前:!ninja[sage] 投稿日:2012/08/21(火) 17:58:33.84 ID:3RAewFho
>>88
忠興「このDQNが!」

どっちかいうと、兼続さんの方がそんなん得意そう。
TERUさんでもいいけど。
5人目に返せと言われ、家臣が決死で酒飲んで死んで、許してもらう。

90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/21(火) 22:23:34.59 ID:Kci/xxnv
おにいちゃんなら開発した鉱山のリストとかないないしそうだ

91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/22(水) 00:09:48.07 ID:5xjuHDDU
兼続さんはそのうち越後取り返す気だったから
そんな禿山にしたり統治に必要な資料ないないしたりはしないよ
むしろ景勝にべったりで会津移封から米沢減封まで自領である米沢放置状態だったのが
米沢にとっては悪い話(一応父ちゃんが城代してたけど)

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/22(水) 01:11:38.52 ID:vzhmPES2
お前ら、天嶮に篭り強敵を幾度も撃退してきた内ヶ島さまをなぜ思い出さんのじゃ
連戦連敗のどこぞの猫抱き爺よりも凄いおかたぞ

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/22(水) 01:52:47.69 ID:PcqlKZI+
そういや手掘りトンネルくぐる前に、向牧戸城址を観たなあ、城址公園すらない寂しい所だったけど。
まあ確かに「天嶮」だわw
保木脇に帰雲城を築き、とは向牧戸の看板に書いてあったけど、攻める気が起きなくてもおかしくないレベルだったんだろうなあw
でも越中西部の砺波まで勢力下にあったと書いてあったから天嶮に籠もってばっかりだった訳じゃないんだろうね

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/22(水) 03:40:07.15 ID:oCwprfAj
>>92
おぉ、まさにジシンに溢れておりまするな。

遠州曳馬城合戦

2012年02月27日 21:52

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/27(月) 06:22:48.70 ID:DQcjLsvg
尾張守護・斯波義達は、守護代・織田達定の反逆を平定し、尾張における主導権を再び回復しすると、
永正11年(1512)、今川氏親の遠州侵略に対し再び反抗を起こし、曳馬城(浜松)を奪還し、さらに池田・入野といった
地域まで横領に成功した大河内貞綱に呼応。斯波家の領国である遠江を回復するため自身が出馬して
これを助けんとした。

が、尾張上四郡を支配する岩倉織田家の織田伊勢守信安は、この遠征に利がないと強く諌めた。
しかし義達はこれを聞かず出馬を強行。ここに斯波義達と織田信安の関係は不和となり、上四郡の兵は
この遠征に参加しなかったため、義達の兵は甚だ少ないものとなった。それでも遠江へと進軍し、
曳馬城に入った。
余談だが織田信安は後に、一族である若き日の信長とも激しく対立することになる。

同年6月。今川氏親は3万の兵で城攻めを行った。

この時曳馬城周辺は大水により、城のまわりは海のような状況で、誰が見ても、とても攻められるような
状況ではなかった。が、氏親は大竹縄数百で繋げた船橋をかけ軍勢をやすやすと城の周囲に展開させ取り囲んだ。

しかし曳馬城は非常に堅固な城で、それでも今川の攻撃に耐え続けた。
そこで氏親は城が高台にあることに目をつけ、阿部金山から金堀師を呼び寄せ城内の水脈を全て掘り抜かせた。
このため城には水がなくなり日々に弱り、8月19日、この日の攻撃で大河内貞綱と、その弟、巨海道綱、
高橋正定、中山監物ら千人あまりが討ち死に、斯波義達は捕虜となり、曳馬城は落城した。

付近の普済寺という禅寺に監禁された斯波義達であったが、今川氏親は「同じ足利一門の好である」として
彼の命を助けた。そのかわり剃髪し出家させ(法名は”安心”であったという)、『今後二度と今川家に対して弓を引かぬ』
との誓紙を書かせ、これをもって尾張へと送り返した。

斯波家の権威を決定的に低下させ、尾張において織田氏に主導権をもたらす画期になったと言われる、
斯波義達の曳馬城合戦の逸話である


(今川家譜)
(名古屋合戦記)




198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/27(月) 12:20:37.61 ID:cEZRrfY0
権威失墜という意味では処刑より効果的に思えるな
氏親もその辺りまで計算に入れてたんだろうけど

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/27(月) 18:17:39.34 ID:VVyLpimU
そうしてついには尾張まで手に入れたのに、信秀に取り返されるんだっけか

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/27(月) 19:18:21.47 ID:q9Psp4RX
これは悪い話なのか?

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/27(月) 22:08:09.28 ID:p66CsOBG
>>200
斯波義達のかっこ悪い話だろう

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/27(月) 22:28:26.32 ID:upxUUCsY
>>197
駿河だけで3万の兵力か?

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/27(月) 22:35:27.72 ID:ieRShisD
斯波は三河も領国だったのか
何で遠江に遠征してるんだよ

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/28(火) 05:48:47.21 ID:wDt7qkWR
>>204
兵数なんて数倍どころか桁までお手盛りされちゃうこんな世の中じゃ

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/28(火) 08:11:33.08 ID:Np68cuS+
直家「ポイズン」

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/28(火) 18:02:48.69 ID:lXkFlAqb
あんたの場合、言いたいことも言えなくなるのは相手の方だろ

死人に口無し的な意味で

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/28(火) 21:16:36.48 ID:S0HI7cpc
ちょっと直家が格好いいと思ってしまった

蘭奢待を手に入れた男達

2011年03月31日 00:00

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 23:41:53.07 ID:yknrq99r
大河ドラマでもネタにされていた蘭奢待について。
東大寺の蘭奢待、この切り取りを許される武家とは天下人に限られるという。

さて、ここに実際に蘭奢待を手に入れた男達、すなわち「蘭奢待四天王」を紹介する。

俺は、リーダー・足利義満。通称・日本国王。
北山文化と勘合貿易の達人。
俺のような天才策略家でなければ百戦錬磨のつわものどものリーダーは務まらん。

俺は足利義教。通称・悪御所。
自慢のくじ運に、女はみんなイチコロさ。
ハッタリかまして、永享の乱から嘉吉の乱まで、何でもそろえてみせるぜ。

私は、足利義政、通称・東山殿。
足利幕府一の文化人。
応仁の乱は、細川勝元と山名宗全が、お手のもの!

よおお待ちどう。俺様こそ織田信長。通称・第六天魔王。
比叡山焼き討ちの腕は天下一品!
奇人?変人?だから何。

土岐頼武。通称・土岐次郎。
美濃守護だ。土岐頼芸でもブン殴ってみせらぁ。
でも斉藤道三だけはかんべんな。



義満・義教・義政・信長「なんか居るーっ!?」

土岐頼武の存在はノーカン扱いされていたり、莫大な寄進を行って「金で買った」
扱いもされていたりするのだけど、そもそも天下人の証が金で買えたりするものなのか。
蘭奢待の価値観をぶち殺す、土岐頼武さんの収まりの悪い話。




416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/30(水) 00:27:18.14 ID:ul0yzAJN
後世で色々と意味づけされただけで
わざわざ手続き踏んでまで蘭奢待を嗅いでみたいって権力者が
少なかっただけな気もする。

石川貞清、人質を

2011年03月02日 00:00

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/01(火) 12:46:16.00 ID:0pgIqbSo
関ヶ原の決戦の少し前の出来事である

西軍方である尾張犬山城主・石川備前守貞清は、その元に木曽の国人衆からの人質をとっていた。

が、木曽方面は徳川秀忠からの工作により、人質を出していながら皆東軍に寝返った。
こういう時人質は、みな処断されるのが通常であろう。が、石川は

「このように人質を取っていながら、それにも構わず木曽衆は江戸中納言殿(秀忠)の軍勢に
道を開き寝返った。この上は人質を持っていても詮ない事である。」

と、誰一人害すること無く、すべての人質を解放した。

といってこの時石川も東軍に通じた、というわけではない。彼はこの後関ヶ原の決戦において
宇喜多秀家隊の右翼に陣取り奮戦するからである。

戦後、石川は所領没収されたが、先の木曽衆の人質解放が評価され、東軍と激しく
戦ったにもかかわらずその一命を許された。

石川貞清、人質の命を取らなかったことが、自らの命を助ける。と言うお話。




23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/01(火) 13:33:45.46 ID:0RSHq+2F
情けは人のためならず

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/01(火) 14:31:36.24 ID:XcwNNJ3E
死地に飛び込み生を得る

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/01(火) 15:26:37.27 ID:Tr4M3rW9
木曽谷の猿は信用できねえ
武蔵さん殺っちゃってください

26 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2011/03/01(火) 18:29:02.37 ID:MPNrX/b3
武蔵さん生きてたならならヒャハァーしちゃうなw

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/01(火) 20:31:08.93 ID:psHK5HMN
そうか、石川貞清が許されて三成が処刑されたのはガラシャが死んでしまったから……!

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/02(水) 08:46:50.15 ID:0gb4s27c
戦国時代の人質って鬼武蔵さん以外は全く有効利用出来てないよな
石川さんも解放するんじゃ無くて直接交渉しろよ
覚悟を持って寝返っていようとも実際に処刑寸前で泣き叫ぶ人質を目前にして
平常心を保っていられるとは限らないんだからサ


29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/02(水) 09:25:54.42 ID:XfO8/vgP
>>28
人質の有効活用と聞いて薪を大量に持った三河武士がアップを始めました

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/02(水) 12:54:32.65 ID:NA/DcVa/
貞清さんはこの決断で命を拾い、さらにはこの件で信用を獲得したのか
商人へ転職して成功するのだから人生どうなるかわからんもんだね。

31 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/03/02(水) 18:49:50.56 ID:mtgtRlj6
>>29
後が怖すぎるだろw
さくざなら関係ないが。
今川氏は別の意味で人質を(ry

〇〇落としの谷、由来

2010年10月27日 00:00

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/26(火) 01:26:16 ID:jRdGAN47
遠江に横地城という城がある。別名を金寿城。

文明8年(1476)今川義忠の攻撃により城主横地太郎秀国が討たれ落城。
ところがこの後、今川義忠が駿河に帰還する途中、残党の襲撃に会い討死。
これから駿河は義忠の嫡男龍王丸(今川氏親)を要する一派と、今川一門の
小鹿範満を要する一派との内戦が起り、その調停のため京より、北条早雲こと
伊勢新九郎盛時が派遣され戦国史に華々しいデビューを飾ることに成るのだ…が、

で、ここで語りたいのは、その横地城において行われた、ある特殊な軍事訓練について、なのである。
横地城の城兵は戦闘訓練として、城の近くにある膝つき谷と言う谷の底に連れていかれ、
そこに膝をついて待機。

すると谷の上から、太鼓の合図と共に金の玉が谷底に向かって落とされる。

これと同時に谷底の兵は駆け上がり一斉に玉を探し出す。
玉を見つけた兵は谷の上に駆け上がり、賞を得、大いに讃えられた。
これが横地城の軍事訓練であった。

このような訓練が行われてていたため、この谷は一般に、膝つき谷ではなく
訓練に由来した別の名で呼ばれ、今もその名が残る。曰く

『金玉落としの谷』


金玉落としの谷、由来のおはなし。




八重緑悲話

2010年05月20日 00:00

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/18(火) 23:32:24 ID:5j5bImY6
八重緑悲話

永録8年(1565)、美濃攻略を進める織田信長は中濃の鵜沼城、猿啄城を攻め落とし、岸信周の守る堂洞城攻略にかかった。

その前年、関城主長井隼人正道利を盟主として、堂洞城主の岸信周と加治田城主、佐藤忠能は反信長の盟約を結んでいた。
この時佐藤忠能は娘の八重緑を岸信周の養女とし、人質として差出さえしていた。

ところがこの時佐藤忠能は信長方に寝返り、信長とともに堂洞城を攻め懸けたのだ。
これに怒ったは岸信周は決戦の前日、加治田城から良く見える長尾丸山で、
人質の八重緑を哀れにも竹槍で刺殺した、と言う。

そして加治田方面からの攻撃を想定していなかった堂洞城はたちまち落城。岸信周も自刃して果てた。


さて、現在堂洞城のあった岐阜県富加町にある町営住宅周辺には、謎の怪奇現象がよく起こるのだという。
地元の人はこれを、父に見捨てられ哀れにも死んだ八重緑の怨霊のためである、と言っているそうだ。

信長による美濃攻略の際の、やりきれなく悲しいエピソードの一つ、である。




842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/18(火) 23:40:07 ID:zY9BePBn
こういう人質の娘ってほぼ捨てられるの覚悟してるのかな
それとも「自分を見捨てる事は無い」って気持ちもあるのかな・・・

843 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/05/19(水) 01:24:24 ID:Bv/NykdP
この時代の人質て何か殺される率やっぱ高いな。

ところで猿啄城てなんて読むんだろう?

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/19(水) 01:40:13 ID:3mPlvQ20
>>843
さるばみじょう

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/19(水) 02:22:41 ID:STc5QpPj
>>842
人質って制度が一定のルールのもとで機能してたんだから、信用性はそれなりにあったんだろう
だから人質本人も…と個人的には思ってる

846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/19(水) 02:32:18 ID:RsalYDAj
>>843
人質が殺されたるとニュースになって記録されるんだから
珍しかったんじゃないかなあ
こんなんもあるし
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2373.html
なしの皮だけじゃなくて、
「鬼ごっこの時はいつも長重公が鬼をやってくれた」>利常回顧談

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/19(水) 10:26:19 ID:nFR4B+JK
信長公記だと、加持田の佐藤がまず信長に寝返り、それに対応した長井が
加持田への押さえとして堂洞に付城を築いて岸を城番においた、となっているが、
この逸話は順番が逆になってるんですね。

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/19(水) 15:32:35 ID:5BjndYQT
>>842
「〇〇と考えていた」「〇〇と感じていた」っていう部分は、基本的に歴史には残らないです。
文書に残るのは、「××が△△した」ってことだけ。

そういう歴史学の限界を補完してくれるのが、ここの逸話だと思ってる。
かなり怪しいものもあるがw

862 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/05/20(木) 00:47:53 ID:ubiMqfPG
>>844
おーサンキュ
別にこの時代に限らないけど、読みずらい地名とか城とかてあるよね。
昼寝城とかみたいに、読みやすくて由来も分りやすいのって少ないなー

田丸具安の開城

2010年04月05日 00:01

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/04(日) 20:17:57 ID:3ETL6KiH
田丸具安っちゃあ、阿木の爺さんらが作った歴史教室の資料より。
--------
慶長五年秋九月、関ヶ原で石田方が敗北した後もなお岩村城を明け渡さなかった田丸直昌。
家康は苗木城遠山久兵衛友政に明智遠山民部、小里彦五郎を付け岩村城攻めを命じた。
十月九日、友政は五百の兵を率いて阿木と飯羽間の境の根に陣を敷いた。明智、小里も
それぞれ三百の兵を率いて岩村城の南に陣を構えた。

田丸は三百の手勢で籠城していたが、敵が攻め寄せたと聞いて櫓に上がり城の南北を
見渡してみると大勢の敵兵が旗をたなびかせているのが見えた。急ぎ櫓から降りた
田丸は一族と兵士等に向かい「とても防ぎきれる戦いではない。城を無事に明け渡し
私は髪を切って出家する。」と言い放つと城中の者は静まりかえってしまった。

こうした時に友政の使者の陶山次郎兵衛がやって来た。田丸は「明け渡しは承知した。
大儀ではあるが大手の城戸までお越し頂きたい」と言い渡した。

使者が帰った後、田丸は頭髪を全て切って投げ捨て、織物の袴に一尺八寸の太刀を差し、
家臣の石部外記を連れて大手門に向かった。迎える友政も褐布織物の袴に太刀を差し
家臣の纐纈藤兵衛を連れて出向いた。「これから私は出家しようと思います。何卒
私ともども城内の者らの助命を御願いしたい。また白昼に城から出て行くのは城主として
面目のないこと。暗くなってからの降城をお許し願いたい。」と。友政は快く了承した。

日が落ち、数十日の籠城から解放され我先にと東へ西へ逃げる一族兵士等。これを見た
田丸は大手門の扉に一句貼り城を出た。

  岩村にたまる物とてゆきばかり 消えもやせんと思う我が身も

友政の使いで藤左衛門が出迎え、軽少ではありますが路銀にと田丸に金五十両を渡した。
田丸は涙を流し、薙刀を取り出して「これは田丸家代々の家宝です。友政公にお渡し
ください。」と言った。田丸は友政の付けた足軽二人の共で西美濃まで逃れた。

田丸の降城で乱世から解放された岩村城。友政、明智、小里の三将が城内に入って
みると、大広間にはそれは見事な武具や珍しい器、馬具などが山のように詰んで
あったという事である。




関連
美濃苗木城への帰還
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3948.html

明智遠山家顛末
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3955.html

富永伴五郎忠元の討死

2010年02月02日 00:02

573 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/02/01(月) 19:57:51 ID:XAiVzUR8
三河の名族吉良氏の家中に富永伴五郎忠元という剛の者がいた。

富永家は吉良氏譜代の家臣で、伴五郎も弱冠25歳ながら家老職を務め、
主君である吉良義昭にしたがい数々の合戦で多くの武功があった。

桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にし、今川氏の三河統制が弱まると、
独立を模索し出した家康と今川氏に従う周辺武将の間で緊張が高まる。

主君の吉良義昭は、西三河で今川氏に従う武将たちの旗頭的な存在となり
松平勢に先制攻撃を仕掛け一旦は勝利する。しかし、調略により寝返りが
相次ぎ、遂には本城である東条城を四方から包囲されることになる。

攻城はおよそ半年に渡ったが、伴五郎らの奮戦により容易に城は落ちない。
苛立った家康は、未だ東条城籠城中の伴五郎の所領を攻城陣中の主な武将に
宛がって奮起させた。家康の心を察した武将連は総攻撃の期日を9月13日に定め
それぞれ支度に入った。攻め手の一人、本多広孝は出陣当日、鎧の上帯の結んだ
端を家臣に切らせて解けないようにして決意ののほどを示した。

松平方の総攻撃を見た伴五郎は(もはや敗戦を覚っていたのか)、

「籠るばかりでは御運も開かれまい。某が打って出て殿の御運を開きましょう」

と言って己れの手勢のみを率いて攻め手の中へ斬り込んだ。
富永勢は大いに奮戦したが、多勢に無勢、郎党ことごとく討たれて伴五郎も城の
南西、藤波畷に追い詰められた。押し寄せる敵をなおも斬り倒す伴五郎であったが
本多広孝の槍にかかり遂に斃れた。


伴五郎戦死の報が松平陣中に伝わると、それを聞いた者は皆こう呟いた。

「ああ、伴五郎が逝ったか・・・城も落ちたな・・・」

果たしてその日のうちに吉良義昭から城を明け渡し降伏する旨の使いが来た。


伴五郎は、敵・味方ともに認める勇士であった。彼を斃した本多広孝は伴五郎戦死の地に
供養塚を建てたが、地元民の手によりいつしか地蔵に建てかえられ「伴五郎地蔵」として
崇拝されている。何故か「眼病によく効く」と言われている。




574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/01(月) 20:40:14 ID:/6sqZ4Ss
>>573
なんか激しいけど、余韻を感じるような良い話ですな。
しかしこういう勇者を祀ったお地蔵様は、たしかに下手な神様よりご利益がありそうだ。

駿府両替商殺人事件

2009年11月14日 00:13

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/13(金) 17:20:30 ID:lPC6Z4p/
駿府両替商殺人事件

慶長19年、駿河の国は大雨に襲われ、安倍川が渡れないほどに水量が増えていた
そんな中、ある北国からやってきたばかりの千塚太郎右衛門という若い侍は、
先に府中にやってきていた雲場茂助という侍と自分の下屋敷で暇潰しに色々話等していた
長く話をしているうちに、どうやら雨が少し止んで来たようなので、
太郎右衛門は下男に命じて茂助の傘を縁側の軒先に干すように命じたのだが、
そこで下男がふと縁側の下を見て、奇妙なことに気がついた
なぜか庭の水が縁側の下に流れ込み、縁の下から土が流れだしているのだ
奇妙に思った下男がそこを調べてみると、なんとそこから
まだ腐敗の進んでいない、縞模様の着物を着た男の死体が見つかった
下男の知らせを聞いて驚いた太郎右衛門と茂助は
急ぎご家老にこのことを知らせようと、ご家老の住む上屋敷に向かった

ところが既にこの時日は落ちており、上屋敷の門は閉まっていて
どんなに言っても二人は中へと入れてはもらえなかった
大事な用事なのだから、申し上げねば困ると太郎右衛門が言うと
門番は門を開けない理由を二人に説明した


143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/13(金) 17:22:29 ID:lPC6Z4p/
門番によると、
昨年、府中のある両替商の男が、この門を入ったままなぜか行方不明となり
以来全く消息がわからぬまま今に至っている
男は縞模様の木綿の着物を着ていて、随分金目のものを持っていたから
もしかしたらそれを目当てに誰かに殺されたのかもしれない
だから犯人がわからぬうちは、夜は門を閉めて誰にも出入りを許してはならぬ
と家老からおおせつかっているということだった

太郎右衛門と茂助は大変なことになったと青ざめた
あの死体はこの行方不明の両替商であるかもしれない
もしそうだとすると、犯人は太郎右衛門の親戚にあたる男で、
昨年まで太郎右衛門が今住んでいる下屋敷に住んでいた谷淵長六であろう

困った太郎右衛門は茂助に頼んでこのことを秘密にすることにした
二人は固く約束し、茂助は自分の屋敷に帰っていったのだが、
翌日、太郎右衛門のもとに家老から
「行方不明の両替商について調べたいことがあるので、上屋敷に来るように」
という使いが届いた

太郎右衛門はさては茂助が武士の約束を破ったのかと激怒し
茂助の家に押し掛けると刀を抜いて切りかかった
説得しても無駄だと悟った茂助は応戦し、二人は相討ちとなって死んだ


事件は結局家老に全てが知れることとなったのだが、
家老がどうして両替商と太郎右衛門の屋敷について知ったのかというと
太郎右衛門が邪推したように茂助が約束を破ってチクったからではなかった

太郎右衛門達が帰った後、家老の上屋敷の玄関に、
なんと死んだ両替商の幽霊が現れて、事件の全容を語って聞かせたのである
両替商は谷淵長六の下男に上屋敷で殺され、金品を強奪されて下屋敷に埋められていたが
掘り起こされたことで幽霊となって現れることができたのである

そして最終的に谷淵長六は全ての責任を負うことになり切腹となったということだ




144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/13(金) 17:36:01 ID:UYTLGV5/
>>142-143
おお、これは面白い怪談話。舞台劇とかに出来そう。


145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/13(金) 18:25:17 ID:rHmhfM8y
幽霊が祟った結果じゃなく、人間の疑心が互いを自滅させたんだな・・
げに恐ろしきは人ってことか

那須作蔵と下人、牛太郎

2009年10月14日 00:08

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/12(月) 22:04:54 ID:UTgLdO1o
美濃の小領主、妻木雅楽介の郎党、那須作蔵の下人に、牛太郎と言う若者が居た。

この牛太郎、まるで童子のように物を恐れる性格であった。
齢は18になったにもかかわらず、暗い場所には一人で行くことも出来ないほどの臆病者で、
回りからも散々馬鹿にされていた。
が、作蔵は何故かこの牛太郎をかわいがっていた。

さて、関ヶ原の決戦まで一月あまりとなった慶長五年八月、東軍の攻勢は美濃における
東軍派の諸勢力も活性化させ、同月十二日には作蔵の主君妻木雅楽介も、
西軍方田丸直昌の城、岩村城を攻め立て、大きな衝突となり、この日は一旦引き分けた。

その翌日の事。

那須作蔵の父、忠左衛門は息子を呼んで言った。
「十二日の競り合いで、味方の兵士の多くが手柄を立てたが、作蔵、其の方が
何の働きもないのはどういうことだ?
今日はどうしても良き敵を討ち取り、主恩を奉ずるのだ!」

「わかりました。」

作蔵はそう言われ、この日の合戦、突出して先手を進んだ。

さて、この頃の武士は一人で戦場に出るわけではない。
士であれば最低限、騎馬の士に数人の徒歩の下人がつくユニットで参陣する。
この時の作蔵も、自身は騎乗し、その下に数人の下人が武器を持って付いている。
その中には、あの牛太郎の姿もあった。

『あんな臆病者が戦の役に立とうものか』そう陰口を言うものもあったが、作蔵は気にせず、
牛太郎を従わせたのだ。

さて、先手を駆ける作蔵は敵将を発見、采配を振り回し士卒に下知をしている、
どうやら敵の物頭であるようだ。これは大物である。

作蔵はこれに駆け寄ると馬上で格闘となり、やがて二人は組みつき、二人ともに馬から落ちた。

それでも二人は互いに首を取ろうと組討ちを続けていたが、敵は存外に力強く、ついに作蔵は
押さえつけられ、今や首を掻き切られんとした、その時である

「うわああああああああああああ」

作蔵の下人が一人、物凄い勢いで駆けてきた。牛太郎である。

彼は敵に体当たりをすると、そのまま作蔵から引き剥がした。
これで身の自由を得た作蔵、見事この敵の首を討ち取った。

すると、この男がここ周辺の指揮官だったらしく、敵軍はたちまち崩れ、戦は妻木方の
全面勝利となった。

作蔵がこの日の最高の殊勲となった事は、言うまでもない。


ちなみにこの那須作蔵、この時の働きが見事であるという事で、後に蜂須賀至鎮に特に請われ、
その家臣になったという。
記録には残っていないが、勇士として蜂須賀家へと赴く、晴れがましい那須作蔵一行の中に、
牛太郎の姿もきっとあったことであろう。

臆病者の下人、主人に功を成させる。のお話。





東常縁、領地を奪われ・いい話

2009年06月03日 00:03

東常縁   
146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/01(月) 22:35:34 ID:RLKeOabC
足利義政の奉公衆(将軍直轄軍)に、東常縁と言う人がいた。
彼は美濃国郡上郡、山田庄を領する国人であったが、関東における鎌倉公方足利成氏と
関東管領上杉房顕の戦い、享徳の乱の勃発により、幕府の命により関東管領の支援の為
関東へと派遣された。

さて、この常縁が関東の戦乱に飛び回っている中、都において、応仁の乱が勃発する。
その戦乱は美濃へも飛び火し、東軍方であった常縁の所領は、西軍の美濃守護代
斉藤妙椿の軍勢に、攻め取られてしまった。

派遣先の関東でこの報を聞いた常縁は驚き嘆いた。

「承久の乱の軍功で拝領して以来二百五十年、山田庄は一度も他人の手に渡らなかったのに、
今遠い関東において、我が領地落城を聞くとは!」

常縁はこの嘆きを歌にし、ともに関東に派遣された同僚の浜春利にそれを送った。


 『あるがうちに かかる世をしも見たりけり 人の昔のなおも恋しき』


常縁の東家は、先祖の重胤が鎌倉三代将軍実朝の近臣であり、実朝とともに、歌聖、藤原定家に
歌を学んで以来、歌の上手の家として知られており、常縁もまた、多くの大名を歌の弟子に
するほどの名人であった。

この歌に春利は感心し、京にいる兄の康慶にこれを書いて送った。
するとこの歌、康慶を経て京の文化人の間でたちまち評判となり、関東で13年間も苦労しながら
所領を横領された常縁に、同情が集まった。

さて、その横領した斉藤妙椿、彼もまた文化人として有名であり、また足利義政の奉公衆として、
常縁の同僚ですらあった。
妙椿もこの歌を知り、その内容に心を痛めた。そこで康慶にこう伝えた
「同じ歌道に親しむ身として、非道な事はできない。にす常縁殿が私の為に歌を詠んでくれるのなら、
奪った領地はお返ししよう。」

これを春利を通じて聞いた常縁、早速に歌を詠んだ。しかも十首も。

 『堀川や 清き流れを隔てきて すみがたき世を歎くばかりぞ』
 『いかばかり 歎くとかしる心かな ふみまよふ道の末のやとりを』
 『かたはかり 残さむ事もいさかかる うき身はなにと しきしまの道』
 『思ひやる 心の通ふ道ならで たよりもしらぬ古郷のそら』
 『たよりなき 身をあき風の音ながら さても恋しきふるさとの春』
 『さらにまた たのむに知りぬうかりしは 行末とをき契りなりけり』
 『木の葉ちる 秋の思ひにあら玉の はるに忘るるいろを見せなむ』
 『君をしも 知るべとたのむ道なくば なを古郷や隔てはてまし』
 『みよし野に なく雁がねといざさらば ひたふるに今君によりこむ』
 『吾世経む しるべと今も頼むかな みののお山の松の千とせを 』

これに感動した妙椿は

 『言の葉に 君か心はみづくきの 行すゑとをらば 跡はたがはじ』
(あなたの誠意は良くわかりました。今後もそのお気持ちが変わらないのなら、領地は返還しましょう)

そう、歌を返した。
そうして、領地横領の翌、文明元年、将軍の許しを得て京に戻った常縁は、妙椿と対面し、
無事、領地を返還された。


戦国の始まりの頃、歌で領地を取り戻したお話。





149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/01(月) 23:28:29 ID:r46mTe6N
ひ孫は自身で内ヶ島さんと一緒に埋まってしまうんだよなぁ

153 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/06/02(火) 00:37:51 ID:eO0lTGft
帰雲城の内ヶ島さんは外国人に地震の何たるかを教えるのにぴったりな素材だよな
所在不明&埋蔵金でインパクト大

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/02(火) 01:22:12 ID:ICE+oGJa
>146
本領である下総東庄の紛争を鎮めてるときのことじゃなかったかしらん

155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/02(火) 01:45:56 ID:X2Lj3t70
>>146

( ;∀;) イイハナシダナー
こう言うもののふのあはれが廃れてそのうち
武者は犬とも言え、畜生とも言え勝つことが本にて候
に変遷していくのかと思うと
平家物語で号泣していた天徳寺宝衍とか既に時代遅れな人だったんだな

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/02(火) 04:31:53 ID:GkvZZPbZ
>>155
武者が負ければ女子供が泣くというのも道理だから、
朝倉宗滴が間違っているとも思えない・・・というかこの話にその喩えは合わない気がする。
歌で返して貰える場合なら朝倉宗滴だってわざわざ血を流さないだろう。

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/02(火) 10:14:55 ID:e4cDV2ky
常縁さんにとっては、武力よりも歌力のほうが威力があったわけだ。
自分の得意な力を使って勝ったんだから、見事な武士だよ。

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/02(火) 10:52:57 ID:j6RLhA0S
一方、薩摩には物騒な歌で敵を追い返した人が。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1754.html

159 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/06/02(火) 10:56:36 ID:p1dnaOyE
細川三歳さまの御父君も和歌の才能で関ヶ原を生き抜いたしな
それも常縁さんがいなかったらどうなってたことやら…

常縁さん…古今伝授の家柄のお人です

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/02(火) 11:27:33 ID:xtVNuhza
一方信長の御父君は連歌仲間を(ry


久頭合城主 奥山貞益の室、おかわ「幻の池」

2009年02月19日 01:39

おかわ   
126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/18(水) 00:09:03 ID:II4SXVZ5
幻の池

遠州七不思議のひとつに幻の池という話がある。
浜松の水窪に七年に一度秋になると出現し、満々と水をたたえるが、
数日の間に何処へとなく水が引いて、元のくぼみにもどってしまうのだ。
場所は亀ノ甲山標高(880m)の中腹付近、池の平(いけのだいら)。
時は戦国、長年この地を治めていた奥山家へ、
敵対する遠山家よりおかわ御前が嫁ぎ、
久頭合城主 奥山貞益の室となった。

しかし実家遠山家がおかわの嫁いだ奥山家に攻め込んだ。
夫は久落城寸前に
「子どもたちとともに必ずや逃げ延びてくれ」
とおかわと子供らを城から逃した。


127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/18(水) 00:12:00 ID:II4SXVZ5
しかし一才と三才の子連れのため、逃亡は困難を極めた。
逃げる途中水窪川という大きな川に差し掛かったが、
二人の子連れでは思うように渡れなかった。
おかわ御前はやむをえず一才の子を川に投げ、
三才の子を背に必死で池の平まで逃げた。

子連れではとても逃げ切れず、池の平近くで敵兵に追い付かれた。
身の危険を感じて草の中に隠れるおかわ御前。
ところが子どもが泣き出しため敵兵に見つかってしまった。
草を刀で払いながらせまられ、
とうとう草と一緒に母子ともに斬り殺されてしまった。
以来、この池の平にはおかわの無念の涙がたまるのだという。





131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/18(水) 09:41:29 ID:mPY8AKIR
>>127
おかわ御前が小松殿レベルの女性であれば・・・
かわいそうに

132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/18(水) 09:57:49 ID:YIGv5o14
>>131
>おかわ御前が(ry
>おかわいそうに

とよんで「>>131はハン板の駄洒落研スレ逝き」と早合点してしまった
自分が逝ってくる・・・

133 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/02/18(水) 11:32:15 ID:g4VeEUcC
>>127
劉邦が項羽から逃走中に恵帝と魯元公主を捨てようとしたのを思い出した。
「子供なんてまた産めばいい、今は自分が生き残らなくては」ってことなんかね

899 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/03/16(月) 02:39:46 ID:EThaYELU
>>127
いくつか説があるよね。
桜ヶ池(浜岡だったかな?)に棲んでる龍神が七年に一度移動してくるとか。
地元のテレビ局が予定日の何日も前からカメラを設置して収めた映像もあるはず。
突然噴出するんじゃなくて何日もかけて徐々に水かさが増してく感じだった。
九年くらい前かな?とびっきり静岡とか静岡まるごとワイドとかそれ系統の番組で
やってたのを覚えてる。

花藻と忍・哀しい話

2009年02月15日 00:58

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/14(土) 12:57:16 ID:9dEXyxDV
三河牛久保城に花藻と忍という二人の女房がいた。
二人は美人で品行もよく、優美であった。
特に花藻は城主の牧野貞成が目をかけるほどだったが、なびくことはなかった。
また貞成の家臣に真木定安と岩瀬親氏という、これまた品のある優れた侍がいた。
真木は花藻と、岩瀬は忍と恋仲になるが、どちらもお互いの気持ちを言い出せずにいた。

永正十四年(1517)、貞成は大和長谷寺の観音を牛久保に勧請し、縁日を開いた。
そこで花藻は
「長谷の観音様は願い事を必ず叶えてくれるそうだから、一緒に願をかけましょう。」
と忍を誘って参詣した。
するとどうしたことだろうか、二人は真木と岩瀬にばったり会ったのである。
こうして四人は一緒に店に入り、泣いたり笑ったりして楽しみ、
『行く末かけて変わらじ』と誓い合った。
その後、真木は花藻と、岩瀬は忍と結婚して偕老同穴を契るのだった。

そして数十年の時が過ぎ、牧野氏が従っていた今川義元が討ち死した。
やがて牧野貞成は家康に寝返り、死んだ。真木と岩瀬は各地で戦ったが、
真木が重傷を負い、岩瀬は親友を助けて帰ってきた。

花藻と忍は懸命に真木を看病するが、真木の傷は深かった。
「思えば岩瀬とは子どものころから友達で、
恋愛についても関わりが深く、不思議な縁だったなぁ。」
と過去を振り返りながら、真木は死んだ。
真木の妻・花藻は亡き夫を思い、周囲の諌めを振り切って自殺してしまう。
親友夫婦の不幸を嘆いた岩瀬夫婦は二人の霊を手厚く弔い、仏門に入ったという。




伊賀、武家屋敷の怪異・怖い話

2009年01月30日 00:04

975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/29(木) 18:40:01 ID:6KkbQzdL

埋め代わりにちょっと怖いお話


慶長年間の頃の話である。

伊賀の国の、とある侍の屋敷に、不思議なことが起こった。
暮れ方になるとその屋敷の玄関の前を、練絹の被衣をした美しい女が歩くようになった。

ある時はその女の首が無く、胴だけで歩いた。

またある時は昼時分の食事の用意の最中、台所の煙出しから、その女と大坊主が
覗き込んだ。

また、女の連れてきた、4,5人の白帷子のざんばら髪が踊りだすと言う事もあった。

このような怪事が続いたため、ついにこの屋敷に住む人はいなくなり、
今も直、空屋敷のままであると言う。