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石川五右衛門偽上使の伝説

2017年07月19日 22:01

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/19(水) 05:54:26.93 ID:cQO9i7mY
岩村城には石川五右衛門偽上使の伝説がある。豊臣の天下の時、岩村城主
の田村中務大輔(直昌)には嫡庶の二子があった。

やがて中務大輔が病にかかって瀕死の状態となった時、この二子を中心に
御家騒動が起こった。しかし庶子である次男は、実は佞奸な家老の

倉元甚五右衛門の姦通の子で、倉元は庶子に家督を継がせて主家の横領を
企てたのである。これを推知した中務大輔は腹心の小姓・金森林念に、

家督相続の遺言状を託して間もなく世を去った。忠臣の金森は思案の上で
騒動の顛末を関白・豊臣秀次に注進したので、秀次は使者・福原団七郎を
岩村城に乗り込ませて一切を解決させることにした。

これを探り知った石川五右衛門は、「良き機会ぞ」と、すぐに団七郎の家臣を
手に入れ、途中<十三峠辺りであろう。また岩村城下玄吾坂下ともいう>で
待ち伏せて団七郎を殺し、自分はすっかり使者に化け込んで、

行列厳しく岩村へ到着した。偽使者をすぐに訪れたのは奸物・倉元だった。
彼が多分の金子を賄賂にして帰ると、まもなく小姓・金森は密かに訪れて、

倉元の悪計の一部始終を訴えた。さてその翌日、五右衛門はいよいよ城入を
なし、倉元を利用して散々腹を肥やしてから、

彼の悪事数々を満座の中で弁じ立てた。その後、家督は無事に長男へ譲られ、
倉元は死刑にされて騒動は落着したという。これは五右衛門一代を通じての
大義賊伝として講談などにも読み込まれている。

――『恵那郡史』



101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/19(水) 06:48:10.45 ID:pTcGI5g6
>>100
この岩村城ってのは美濃の岩村城でいいのかな?

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/19(水) 07:11:21.70 ID:aF6T985F
福原さんかわいそう

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/19(水) 07:13:57.71 ID:SMPelxR4
義賊()

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/19(水) 09:25:43.91 ID:PTyFtPRC
美濃岩村なら関ヶ原で改易された田丸中務大輔直昌のことなのかな

夫死して妻を取り殺す事

2017年03月28日 12:45

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/27(月) 13:50:11.67 ID:uFMed9Vq
夫死して妻を取り殺す事

 摂州榎並村友淵村の善兵衛の嫁は中村の源兵衛の娘であった。
善兵衛は三十三歳で死にその時に嫁は十六歳であった。
夫が死んだ後、女は親の源兵衛の所へ呼び返された。
 さる程に夫の精魂が火と成って、
蹴鞠の如く地面から一尺程高く上がって毎夜来て村際で消えた。
源兵衛の家は家中騒がしくなり、娘が目に見えて恐ろしいものが来たと髪を抜くこと折々である。
娘は父母に向かって、恐ろしいものが来たと言って恐れ伏した。
遂には髪の毛は皆抜き尽くしてしまい、三十日中に取り殺してしまった。
寛永十年の事である。

(片仮名本・因果物語)


野間左馬之進田螺を以て勝負占物語の事

2016年12月05日 15:41

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/05(月) 00:10:02.12 ID:bdEpZ09W
野間左馬之進田螺を以て勝負占物語の事


 野間左馬之進の物語に、 
「タニシを折敷の片隅に三つ、もう一方の片隅に三つよせて、
両方へ分けて一夜置くと、
合戦の負けの方を追いこみながら、勝ちの方は進み出る。
 大坂陣の城中として秀頼、木村、大野と称して盆の一方に三つ、
もう一方に関東方として家康公、井伊、藤堂と称して三つタニシを置いて、
一夜経つと必ず関東方の三つのタニシが、城内方のタニシを追い込んだという。
勝負の吉凶を占うことでこれより良いものは無い。」
とのことだ。『武備志』にもこの占いが出てきた。
興味深い。


(常山紀談)



383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/05(月) 00:29:22.46 ID:gxNbuBN3
熊野別当湛増「赤と白で闘鶏させたら全部白が勝った。源氏につこう」

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/05(月) 04:07:43.05 ID:qmzefhc1
ゲンジバンザイ

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/05(月) 09:46:20.05 ID:zZZUPRaz
藤堂を伊達にしてみると....。

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/05(月) 14:57:17.41 ID:9qJob2Cy
>>382
面白い占いだな

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/05(月) 23:31:28.84 ID:vbxDSVKJ
ジャンボタニシは
気立ての良い子だよ

この春、小人島の者であるとして

2016年11月22日 09:33

330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/22(火) 02:53:22.29 ID:eiEjYzgS
この春(慶長13年)、小人島の者であるとして、京都にて
鼠戸を結び(見世物小屋)、代金を取って人に見せていた。

たとえば日本人であれば、5,6歳の童ほどの身長だった。

――『当代記』



坂上頼泰の鉢植え

2016年11月07日 09:42

304 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/07(月) 07:21:03.05 ID:jnLT3IFc
天文元年(1532年)に多田院御家人衆筆頭の塩川伯耆守国満が、織田信長の台頭という時世から荒木村重について多田新田城を攻めた。
この時に山本郷(今の宝塚市周辺)も焼いて、多田院御家人だった34代山本荘司家の坂上頼泰は郷士となる。

しかし塩川国満は豊臣秀吉の九州征伐の間に挙兵して、謀反の疑いで誅されたため山本郷は豊臣家の天領となった。
秀吉が有馬温泉に湯治に行く際に山本郷に立ち寄った関係から、頼泰は秀吉の旗本になり朝鮮出兵へも参戦した。
頼泰は齢を重ねて隠居し、山本郷で農園を営みながら穏やかに過ごしていたところ、接木の技術を発明する。

ある時、天下人秀吉の元に見事な鉢植えが献上され大変気に入り、それが坂上頼泰のものと知り昔を懐かしんだ。
京や大阪での贅沢品の売買を禁止していたが、秀吉は頼泰に木接太夫の称号を与えて山本郷の植木に特別な配慮をしたという。

源満仲が摂津守に任官した際に、坂上田村麻呂七代孫の坂上頼次を摂津介にして多田院を警備させたのが山本荘司家の初代で坂上是則は従兄弟。
三代目の坂上季猛は源頼光に使えて卜部季武のモデルともされる。
仁平年間の坂上尚親の頃に平姓を賜り平尚親とし、その分家は今出川家諸大夫山本家として山本敬勝まで続く。



谷衛友は清正の態度に怒り

2015年12月06日 12:22

谷衛友   
83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/05(土) 19:35:55.18 ID:XxQWIDmT
>>80を投稿した者ですが谷大膳は衛友の父の衛好のことでした
この衛好は後に三木合戦で戦死しています

そのついでと言っては何ですが息子の谷出羽守衛友が加藤清正と喧嘩になった時の話を一つ

ある時加藤清正は家臣を追放してしかも奉公構にした。その家臣は谷衛友を頼り衛友はその家臣を許すよう清正と直談判した。
しかし清正は丹波山鹿の小大名にすぎない衛友の意見を聞き入れない。衛友は清正の態度に怒り一喝して清正に詰め寄り
その膝を抑えて身動きできなくしてから脇差に手をかけて互いに睨みあったという。(武功雑記)

何しろラスボス化した後年の秀吉にも媚びることをしなかった全身肝っ玉人間だから清正相手に遠慮するわけもなく…

ちなみにこの件で清正は「喧嘩ハ下手ナリ」(武功雑記)と言われてる
ただし「肥後守(清正)はかような匹夫の勇などのような事はこれなく候」とも弁護されている



桑山修理太夫殿は宋儒の談に迷われたのか

2015年11月18日 06:49

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/18(水) 02:11:23.36 ID:LrBIlTdP
 大和新庄一万五千石を領しなさっていた桑山修理太夫(一晴)殿は宋儒の談に迷われたのか、領地に昔から有った、
産土神が鎮座なされていた各地の森を切り払い、木は取り除きなさった。
 跡は田地に仰せ付けられ、一所へ産土神の宮を引き集めなされ、当分の間は二十数社を財政の足しとなされた。
 そのようなので神罰があったのだろうか、早世が打ち続いて、ついにお家断絶におよんでしまい、
今は前の通りに産土神が御鎮座されております。
 現在もこのような事があり、それにしても神罰と言うようなものは、甚だ恐れ慎むべき事と思われますので、認め置いておきます。
(本阿弥行状記)

一通り調べたのですが、桑山氏が断絶されたこと以外には、このような話は見つからなかったんですよね



658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/18(水) 11:08:34.80 ID:2n2BJH2w
領主が断絶された事から逆算して逸話を作ったのかな

石川五右衛門の手形

2015年04月03日 18:21

634 名前:632[sage] 投稿日:2015/04/03(金) 00:20:24.02 ID:jZ37xriL
 安土桃山時代に石川五右衛門という大泥棒が水無瀬神宮におさめられている宝剣を
盗み出そうと神殿に近づいたが、なぜか不思議な力にさえぎられて足が動かなくなり、
どうしても中に入れなかった。
 仕方なく五右衛門は盗みに入るのをあきらめた。水無瀬神宮の入口の門には
この時に五右衛門がつけた手形が今も残っているそうである。



摂津味舌村の蜂塚

2015年03月30日 18:39

796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/29(日) 22:42:41.14 ID:Vp86fkHZ
 応仁の乱の頃、落ち武者が摂津の味舌村に襲撃してくる事件があった。
その時、村人たちは近くに味舌寺に隠れて、ただひたすらに薬師如来に救いを求めて祈った。
そして、落ち武者たちがいよいよ寺まで押し寄せてきて、村人たちがもうこれまでかと
あきらめかけた時、お堂の中から数万の蜂があふれでて、落ち武者に襲いかかった。
落ち武者たちは蜂に刺され、みなバラバラに逃げ出してしまった。その後、お堂から出た
村人たちはそこでたくさんの蜂の死骸が落ちているのを見つけた。
 村人たちは命をかけて村を救った蜂に感謝して蜂塚をつくって供養したのであった。




797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/30(月) 00:54:21.38 ID:nzbnSr9a
ググったらそれっぽいの出たけど、スズメバチ?

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/30(月) 04:03:57.79 ID:U4hKUjdM
実際に起こりえそうな説話ですね

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/30(月) 06:33:17.26 ID:eQ1KiwQj
村人側に落ちぅどはなかったんですよ

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/30(月) 09:29:16.38 ID:9PSVJgIM
>>797
スズメバチは何度も相手を刺しても平気だが、ミチバチは一回 人を刺しただけでトゲを失い、亡くなってしまう
この説話に出てくる蜂はミツバチの方ではないかと思った

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/30(月) 11:31:02.13 ID:64iE0r3n
ハチ「勝ったのはあの百姓たちじゃ、儂たちではない」

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/30(月) 11:31:34.45 ID:TpF1OTkw
まぁ嘘話でも信じやすいように練られてるわけだしね

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/30(月) 11:34:19.69 ID:MS9LoveX
ハチってのは雇った鉢屋衆の隠語だったりしてな

『運は天に在り 具足は質屋に在り』

2014年12月10日 18:46

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/10(水) 08:25:24.67 ID:VjK+BKx4
山崎甲斐守(家治)は、日頃から家臣が武器を拵える事を大いに喜び、資金不足の者には
それを貸してでも武具を拵えさせたため、家中は皆武道を嗜み武具兵器等を具えていた。

そんな中、大越治左衛門という者、
「武士が武道を嗜み、武具を揃え置くことは士の道であり、武具を拵えたからといって
人に見せるには及ばない。またそれを見たとしても、賞するに及ぶものではない。」
そう考え家中一同が嗜み具える所に、治左衛門一人わざと武道も嗜まず、武具も蓄えのないような顔をして居た。

ある時山崎甲斐守がこの治左衛門を召して言った
「その方の武具を私は未だ一見したことがない。今日、それを出して見せるように。」
すると治左衛門は「畏まり候」とその座を退き、やがて小さな旗を拵え、その旗に

『運は天に在り 具足は質屋に在り』

と書いて甲斐守の前に持って出て
「私の武具はこの旗に候」と言った。

これに甲斐守は呆れて暫く黙っていたが、やがて
「その方は貧者と見えたり。この金を遣わすので早々に武具を拵えるように。」と百金を与えた。

治左衛門は心中「さてさて、律儀なる主人である。」と思い、「畏まり候」と言って帰宅すると、
その百金を親類縁者の内困窮している者へそれぞれ分配し、残った金で酒肴、菓子など沢山求め
家内の者達に食わせ、一両日の間にその百金を皆使い果たした。

その後、山崎甲斐守が家中の士の騎馬を閲兵した時、大越治左衛門は太く逞しい黒馬に打ち乗り、
鞍の輪に網の袋を、前に5つ、後ろに5つ下げていた。甲斐守はこれを見て不審に思い
「治左衛門、その網は何の為のものか?」と問うと、治左衛門
「これは事あらん時、君の御馬前にて討ち取った首を入れるための袋です。」と答えた。
甲斐守は「そんなにいくつも要る物なのか?」と尋ねると、

「10人までは必ず討ち取りますので、10袋用意いたしました。」

と答えた。

(明良洪範)

島原の乱の後、天草を復興させた名君である山崎家治とその家臣についての逸話である。



984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/10(水) 16:25:54.29 ID:LyU+oQmF
こういう役に立つんだか立たないんだか分かんない部下は苦手だなあ
名君たる人は器が違うわ

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/10(水) 23:02:00.40 ID:xg/BxYrK
名君は変質者の扱いに長けてる

玉置直和の変転

2014年05月04日 18:47

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/04(日) 07:58:42.14 ID:lnSzv3gR
紀伊国日高郡に、玉置直和という国人がいた。
玉置氏は太平記に登場する玉置荘司の子孫と言われており、居城・手取城の周りの領地は
3千5百石ほどの石高とされていた。(※徳川時代の検地では1万6千石ほどであった)
羽柴秀吉の紀州征伐が始まると、直和は秀吉への帰順を決意し、
徹底抗戦を叫ぶ舅の湯川直春や相婿の山本主膳と袂を分かった。
その結果直和は湯川氏に攻撃されたが、その後湯川氏も征伐軍に降ったので、
直和の地位も安泰かと思われた。


そして直和は新たに紀伊の領主となった羽柴秀長に挨拶するため、大和郡山城に赴いた。
秀長との対面では所領の石高を尋ねられたので、直和は3千5百石という
自分が知っている石高を返答したのだが・・・

その後、秀長が玉置氏の領地に対して検地を行ったところ、実際の石高は本人の申告よりもかなり多い事が判明、
これを知った秀長は玉置氏の領地を没収し、その上で直和には新たに申告通りの3千5百石を与えることにした。
直和はこの仕打ちに情けなさがこみ上げ、城を家臣の三十木右馬之丞に預けると、
高野山に上って剃髪してしまった。

ところが、ここで直和の境遇をを憐れんでくれた人物がいた。
秀長の兄・羽柴秀吉である。

秀吉は秀長に命じて、出家して千光院と名乗っていた直和を慰撫させ、
直和の方も、一時の感情で城を飛び出してしまったのを少し後悔していたので
高野山を降りて新封を受けることになったのであった。


その後直和は慶長4年に亡くなり、息子の小平太は関ヶ原・大坂と西軍についてしまったが
後に尾張藩に仕えることができたという。

「紀伊続風土記」より


太閤検地がらみで地方の領主が酷い目に遭うお話
秀吉自らフォロー入れて丸く収まってるので、一応いい話ってことで…




878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/04(日) 10:16:56.22 ID:gYXHuHPK
あら珍しい

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/04(日) 10:53:20.87 ID:fX2fjI+L
自領の(実際の)石高を把握してなかっただけで減封は可哀想と思われたのか?
太閤様もこの頃の寛大さを最後まで保っていられたらよかったのに

880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/04(日) 11:44:28.61 ID:rTyi5c7F
柳生「・・・」

881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/04(日) 12:13:56.96 ID:bBTVdTLY
紀州征伐の際に秀吉側に付いた勢力が少なかったから目にかけたんじゃないか

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/04(日) 13:02:21.25 ID:K4fySxTS
>>880
秀吉「流石に陰田するような奴はフォローできねーわ」

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/04(日) 14:24:37.06 ID:LcVWaVfl
所領の把握とかじゃなくて、この当時によくあった大幅な打出しを計上して
在地領主から所領を巻き上げるための検地じゃなかろーか

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/04(日) 14:59:35.46 ID:eHCx+N3j
湯川さんと主膳さんはどうなったのかとぐぐって見たら徹底抗戦して本領安堵を勝ち取ったと思ったら、挨拶に出かけた大和郡山城で二人とも毒殺されてるのね。
地理的にしょうがないとはいえ、やっぱり酷い話では。

平野遠州の物語に曰く

2014年03月09日 18:46

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/09(日) 01:21:32.18 ID:7sBTc9zI
平野遠州(長泰)の物語に曰く「当代、だれも武辺話を聞きなさる姿は、
誰はそこで討死した、誰はそこで首を取った、

あるいは負けるだの勝つだのなどとばかりのことである。これは悪しき聞き様だ。

その戦いはどうして負けた、どうして勝ったというように、
その勝ち負けの理由を尋ね聞くのをこそ、武辺物語と申す」と云々。

――『武功雑記』






応仁の乱の和議と武田国信

2014年02月07日 19:13

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/06(木) 22:21:57.55 ID:qLoFSH4V
室町時代初期、若狭国は一色氏が四代に亘って守護職を務めていた。
しかし、永享12年(1440年)、一色義貫の時、将軍足利義教の忌諱に触れ、
出陣先の大和国で謀殺されてしまう。将軍の命を受け、義貫を殺害した
のは安芸分郡守護の武田信栄である。信栄はこの功により、若狭守護職
を賜ったが、義貫謀殺の際に受けた傷がもとでまもなく死亡した。
弟の信賢がその後を継ぎ、逸見、粟屋、内藤、山県といった家臣団を
引き連れて本格的な若狭統治を開始する。家臣団の中、逸見氏は若狭国
西部に当たる大飯郡の郡司を務め、仇敵一色氏が守護を保持した丹後国
からの侵入に備えることとなった。

武田氏の若狭入部から四半世紀が過ぎた応仁元年(1467年)、応仁の大乱
が勃発する。武田氏は東軍、一色氏は西軍に属し、それぞれその中核と
して戦うこととなった。この頃、逸見氏は逸見真正(入道宗見)が惣領
を務め、武田軍の中心となって活躍している。洛中の戦闘に参加すると
共に、細川氏と協力して一色氏の領国丹後への侵攻作戦を指揮している。
一色・山名連合軍との戦いは、幾度かの敗戦を交えながらも、真正の
指揮下、おおむね順調に推移し、文明元年(1469年)の頃には丹後全土
をほぼ制圧するに至った。この年、一色氏に代わり武田信賢が丹後守護職
に任命されている。この方面では武田軍の大勝利である。

一方、京都の戦線では武田軍の苦戦が続いた。文明2年の勧修寺合戦で
逸見真正の弟(嫡男とも言われる)逸見繁経が討ち死にするなど、多くの
家臣を失い、翌年早々、信賢の弟元綱が独立を図り、西軍へ寝返っている。
心労が祟ったせいか同年6月、信賢は急逝し、急遽その弟国信が後を継ぐ
という有様であった。細川勝元・山名宗全の両軍の大将も没し、両陣営
とも厭戦気分が漂い始めた。(つづく)

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/06(木) 22:24:16.21 ID:qLoFSH4V
文明6年(1474年)4月、細川政元・山名政豊の間で和議が成立する。大内氏
のように和議を認めず、戦闘を継続するものもいたが、多くの大名は和議
に参加した。一説によると、和議の仲介役となったのは、武田国信であった
と言う。実弟が敵陣営に寝返るなど、領国経営が深刻な状況に陥っていた
のを認識して進んで仲介役となったのであろうか。ともかくも和議は成立、
国信は一息つくことができた。

しかし、

和議には次の条件がつけられていた。


「武田国信は丹後守護職を一色義春へ返付する」


多くの家臣の血を流して獲得した丹後の地である。失いたくはなかった。
しかし、家中建て直しのためには和議が必要である。これ以上、戦闘を
継続する力は無かった。加えて仲介役となった以上、言いだしっぺが
ごねる事も許されまい。国信は過酷な条件を呑んだ。


おさまらないのは、現場指揮官である逸見真正である。大乱では大事な
後継者を喪い、命がけで働き勝利して制圧した丹後も、戦に負けても
いないのに敵にくれてやる、そんな馬鹿な話はない。おのれの働きは
何一つ報いられないのか。

真正ら丹後戦線の部将たちは、国信の撤兵命令を拒否し、丹後に留まった。
一方、和議成立により大義名分を得た一色勢は勢力を盛り返し、未だ
国内に留まり続ける若狭勢に攻撃を仕掛けてきた。名分のない真正ら
は次第に追い込まれていく。だが、主君国信はこの状況を見ながら援軍
を出すことは出来なかった。既に和議は成立したのだ―


半年後―文明6年9月、丹後戦線主将逸見真正は丹後において自害した。


国信は出家し「宗勲」と称した。せめてもの償いであったのだろう。




486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/06(木) 23:18:59.35 ID:mKEDwHO3
>>484>>485
意識としてはあれだね、ほら

第一次世界大戦敗北時のドイツ

背後からのあいくち←なぜか変換できない

全く同じというのじゃないけど

慶長10年の、日本の商船団

2014年01月27日 19:04

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/26(日) 19:37:15.28 ID:y3JC8Arz
慶長10年(1605)の春、日本国の船がルスン、トキン、シャムロへ売買のため渡海したが、
どうしたわけか一艘も帰ってこなかった。

これらの船については、岩礁にあたって破損した、あるいは喧嘩によって殺害された、などと言われた。
また船に積んであった財貨を取るため、かの島々の輩が船員たちを打ち殺したのだ、とも言われた。

また、去年エゲレン(イギリス)と言う所の者達が黒船(スペイン・ポルトガルの船)を押取り(略奪)
した所に、日本の商船が行って商売を行い、過分の利益を得て帰国したことがあった。これはルスンの、
西シンチウという所での事であった。利益を得たのは、たちうりの桔梗屋の道圓、という者であった。

京の町人たちはこの話を聞いて羨ましく思い、そのためこの春になって彼の地に、船多数を派遣したと
いうことである。

(当代記)

慶長10年の、日本の商船団についての記事である。





慶長9年の怪異

2013年11月21日 18:50

849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/21(木) 13:50:08.69 ID:5SYle3Mt
この年、ある女が頭が二つある子供を産んだ。
先年もこのような子が生まれたが洛中を通らせた。その年はどうした事か凶事が
続いたので、今回は通らせずにすぐに殺害した。

この頃に怪異あり。内裏の庭中にどこからともなく長持ちが2つ置いてあった。
これを開けてみると一つには生首が多数入っており、もう一つは開けようと
しても蓋が明かず、その上には菜をサクサクと切られたものが置かれており、
不思議な事であった。

また近江国横関にも怪異があり、巳刻までは水さえ無かった所に午刻になると
毎日血の池が出来ていたと言う

(当代記)

慶長9年に起こった怪異の話




851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/21(木) 18:27:05.78 ID:3Y5MZAi5
昔の人にとってはシャム双生児は怪異に映っただろうな


「日本王国記」の石川五右衛門

2013年10月10日 20:33

460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/09(水) 23:41:08.60 ID:hYVW3Gf8
都に一団の盗賊が集まり、これが目に余る害を与えた。
それというのも、誰かの財布を切るために人を殺害したからである。
そんな風で、伏見、大坂、それに堺の街路には、毎日毎日夜が明けると死体がごろごろしている有様であった。
苦心惨憺したあげく、日中は真面目な商人の服装で歩き回り、夜になると昼間偵察しておいたところを襲う日本人だということがわかった。
その中の幾人かは捕らえられ、拷問にかけられて、これらが15人の頭目だということを白状したが、
頭目1人ごとに30人から40人の一団を率いているので、彼らはいわば1つの陣営だった。
15人の頭目は生きたまま油で煮られ、彼らの妻子、父母、兄弟、身内は五親等まで磔に処され、
盗賊にも、子供も大人も一族全部もろとも同じ刑に処された。

以前ちょろっと出てた「日本王国記」の石川五右衛門についての記述の本文の方




461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/10(木) 00:28:51.89 ID:vYM3XWPL
これだけの集団になったら巾着切りなんて割りに合わんだろうに
てか殺してるから巾着切りとはいわんか
まあ、よほどの獲物でないと非効率なのは変わらんだろうが

芥川橋の下の物騒な追い剥ぎ

2013年10月09日 19:55

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/08(火) 22:55:41.05 ID:kMmu4Moz
 昔、京の南西にある芥川宿の西にかかっている芥川橋の下に物騒な追い剥ぎが住んでいた。その追い剥ぎは
一人で京から下ってくる金を持っていそうな旅人を見つけると、あとを尾けて芥川橋の西にある人通りの少ない
ところで襲いかかって金品を強奪していた。
 ある日、日暮れのあわただしい時間に追い剥ぎが宿場をうろついていると、京の方から金をどっさり持って
いそうなお女中風の若い女がやってきた。追い剥ぎは彼女がどこの宿に泊まるのか見届けると、橋の下に姿を
くらました。次の日、夜明け前からその宿のまわりをうろちょろしてその若い女が出てくるのを待っていると、
まだ暗いうちにその女中風の若い女が出てきた。
 追い剥ぎは尾行して女が芥川橋を渡って人気のない場所まで来たところで、後ろから切りつけて一太刀で
命を奪ってしまった。この女中は京で名の通った屋敷に奉公していた女で、主人のお手つきとなって妊娠した
ため、たくさんのお金を渡されて実家に帰る途中だった。追い剥ぎが女中からお金を取り上げると、女中の
おなかから赤ん坊が生まれてしまった。赤ん坊の男の子を取り上げる羽目になった追い剥ぎはその子を育てる
ことにした。その子が無事に育って大きくなると天下の大泥棒 石川五右衛門になった。

 石川五右衛門は血筋は良かったのに追い剥ぎに育てられたせいで大泥棒になってしまったのだ。




454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/09(水) 08:25:37.11 ID:uk5GuWBm
追い剥ぎイクメンかよw

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/09(水) 10:19:00.93 ID:VDKPa5DF
赤ん坊を背負って追い剥ぎしてる光景を想像すると
なんかシュールだな

456 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/09(水) 10:53:13.72 ID:ljiwRtmA
今日は夜泣きが酷いから仕事(追剥)に出るのは止めとくか・・・

457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/09(水) 11:49:49.92 ID:LuUxl7qY
昔の強盗のほうが人情があったみたいだな
いまなら放置していくだろう

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/09(水) 17:34:17.78 ID:AO9RhX2D
強盗を基準に人情うんぬん言われても、と思ったが小泉八雲も「停車場にて」で
http://www.geocities.jp/kaijyonouta/hearn/at_a_railway_station.html
>日本では最もよく知られた盗賊の石川五右衛門に、つぎの話がある。
>ある夜、殺して、盗みを働こうと人家に忍び込んだときに、自分に両手を差し伸べている赤ん坊の微笑みに、
>五右衛門はすっかり気を奪われた。
>そして、この無邪気な幼子と遊んでいるうちに、自分の所期の目的を達成する機会を失ったというのである。
> これは信じられない話ではない。
>警察の記録には、毎年、プロの犯罪人たちが子どもらに示した同情の報告がある。
>地方新聞に載った、数ヶ月前の凄惨な大量殺人事件は、強盗が睡眠中の一家七人を文字通りに切り刻んだものであった。
>警察は、一面の血の海の中でひとり泣いている小さな男の子を発見したが、まったくの無傷であった。警察によれば、
>犯人らが子どもを傷つけまいとしてかなり用心した確かな証拠があるという。

こんなこと書いてたから日本の強盗の気質なのか・・・?

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/09(水) 18:56:24.98 ID:k3V+xHOj
DQNがたまに常識的な行動とると何故か良い人扱いされる、みたいな?

関家を相続する者は、代々乳首を四つ持っており

2013年08月30日 19:57

関盛信   
245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/29(木) 22:57:08.43 ID:U6F1NnDr
伊勢国鈴鹿郡に、関氏という国人がいた。
伊勢平氏の一族であり、一説には平清盛の孫・資盛を祖とするともいわれ、
関・神戸・峰・鹿伏兎・国府の五家に分かれて、関家を総領として五千人を動員できる勢力を有していた。
そんな由緒を持つ関家であったが、この関家の当主には代々ある身体的特徴があった・・・


天正10年、伊勢亀山城主・関盛信は、後継ぎを決めるために家老達を集め、
意見を求めた。(盛信の長男盛忠は既に長島一向一揆討伐の際に戦死していた。)
家老達の内、葉若藤左衛門は次男の一政を推した。
一政は足が悪かったので、僧になるべく当時は比叡山の稚児になっていた。
これに対し、岩間八左衛門は三男の勝蔵を推した。

なぜなら、一政は足が悪い以外は常人と変わらなかったが、勝蔵は違っていた。
勝蔵の体には乳首が『四つ』あったからだ。
関家を相続する者は、代々乳首を四つ持っており、勝蔵はこの条件に適っていたのだ。
勝蔵はこの頃、柴田家に仕えていた。

盛信は結局、葉若藤左衛門の意見を容れて一政を後継ぎにすることにし、
一政には蒲生賢秀の娘(氏郷の姉妹)を娶らせることにした。
(盛信自身も蒲生賢秀の姉妹を娶っていたから、蒲生家とはこれで二重に婚姻を結ぶことになった。)
この結果一政を推した葉若藤左衛門が権勢を握り、逆に岩間八左衛門の勢力は衰えてしまった。

その頃、羽柴秀吉は関家に対し、当時関家が従っていた織田信孝からの離反を勧めた。
盛信は、
「蒲生家と一致して行動することにしているので、蒲生の去就に任せる」と答えた。
蒲生家は既に秀吉の一味だったので、関家もまた秀吉に付いたわけである。

翌年(天正11年)の正月、関盛信・一政父子は秀吉に挨拶するため、
葉若藤左衛門を連れて亀山城を出発した。
ところが、この留守を窺っていた岩間八左衛門は、一類四十三人と共謀して反乱を起こし、
亀山城を奪い、隣領の滝川一益の軍勢を引き入れてしまった。
関父子は仕方なく蒲生家に逃げ込み、秀吉にこの事を報告した。

これを聞いた秀吉は大軍を率いて北伊勢に出陣し、一益との間で賤ヶ岳の戦いの前哨戦となる
戦いを繰り広げることになったのである。
秀吉軍の攻撃の結果、亀山城は開城し、関父子も領国に復帰したが、
そもそもの原因となった岩間一族は降伏して許され、元通り仕えることになったという。
(特に咎めがあったとは書かれていない。)


(勢州軍記)より


>>237の千葉氏の話と似たような話があったので投稿。
あちらは総領の証?がある方に継がせたら酷いことになったという話だが、
こちらはない方に継がせたら謀反を起こされたというお話。




246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/30(金) 06:06:09.94 ID:AcGrhOjk
何が蒲生に従うだよ、本能寺の変を聞いて大坂から逃げ出した爺のくせに
信孝軍を瓦解させた張本人

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/30(金) 06:50:06.88 ID:1v1N2ah2
乳首4つとか…今なら萌えキャラで人気者になるけど
当時はどういう見られ方をしたんだろうか

248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/30(金) 08:30:06.15 ID:RE6nHA/V
はしゃいでて取れちゃった乳首をまたくっつけたんだな

いつだったか、ラジオでパーソナリティー(♀)が自分の婆ちゃんがそんなことしてたって驚いてたわ

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/30(金) 08:37:39.41 ID:A6Rtcu9B
「五雑俎」人部一より
堯八眉,舜四瞳子,禹目跳,湯偏,文王四乳,仲尼面如蒙?,周公身如斷,?陶色如削爪,?夭面無見膚,
傳?身如植鰭,伊尹面無須麋,故知大聖、大賢不可以形貌相也。

周の文王も4つ乳があったとか
副乳のwikiみたら、女性の5%、男性の2%が副乳を持つとあったから
大きいものでなければそこまで珍しくはないな

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/30(金) 08:45:37.39 ID:A6Rtcu9B
ついでにググったらグラビアアイドルの熊田曜子も副乳とあった
出身が岐阜市で高校が岐阜県関市とあるが
平姓関氏でなく、美濃関氏ならぴったりだったのに

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/30(金) 12:29:39.21 ID:1AYzvXOQ
熊田は全身整形と小阪由佳が言っていたが
乳首はいじくってないのかな

『領地も名前も失った武士』

2012年12月16日 18:51

776 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/12/15(土) 23:46:43.55 ID:w3hZYWjJ
法事の時にお坊さんが教えてくれた我が家の先祖の話です。
我が家の先祖がお寺に家系図とその由来を納めていたようで・・

『領地も名前も失った武士』

池田九右衛門は摂津池田氏の一族であった。
しかし知っての通り摂津池田氏は戦国の荒波に飲まれ没落してしまう。
一族であった九右衛門も先祖代々の土地を失い、流浪の日々を送ることになる。

流れに流れ九右衛門がたどり着いたのは備前岡山の地。
ここで九右衛門は帰農することを選び平穏な日々を送ることとなるのだが、
何年か経ったのちに重大な案件が起こる。
それは新たに岡山の地を領すことになった大名家が原因であった。

やって来たのは九右衛門と同じ苗字をもつ池田氏だったからである。

さすがに殿様と同じ名は恐れ多いと思ったのか、
それとも池田氏サイドから命令が出たのかは定かではないが
九右衛門は改姓を余儀なくされる。
先祖代々守り抜いた土地に加え名前まで失ってしまったのだ。

しかし九右衛門の精一杯の意地か新たな領主に対するささやかな抵抗か、
久右衛門は新たに「池本」と名乗ったのである。
まるで池田の本流は我らであるとでも言わんばかりに。




777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/15(土) 23:53:12.10 ID:Z7yXSjk/
>>776
摂津池田氏!凄いな。なんか感動するわ。
一時期は三好長慶の一門扱いで、畿内で相当の威勢を張っていたんだよなあ。
信長の例の金ヶ崎の退き口も、殿軍を主導したのは秀吉ではなく池田勝正だったらしいのに。

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/16(日) 00:31:11.40 ID:l5GMZZkq
元池田って感じではまずかっただろうか。

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/16(日) 01:05:37.85 ID:EQyYH/KO
北条「これからお前は喜多条な」

駒形さんは愛犬家なんだなぁ

2012年11月30日 19:50

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/30(金) 18:13:57.18 ID:wGHN8sOI
摂津の住人駒形甚九郎光親はある時、若侍十人ばかりと多くの勢子を連れて
鷹狩りに出かけ、一日中遊んで暮らした。同じ時、十河一存の子・孫六郎修理大夫の
次男・七郎兵衛が五十人ばかりで勝尾寺より帰るところだった。

一行が草の深い所の傍を通ると駒形の鷹犬が草原を嗅ぎ回っているところだった。
犬は人々をきっと見て見知らぬ奴だと大いに吠え掛かり、飛びついて噛み付こうとしたので、
小姓が素早い手利きで打刀を引き抜き、犬の細首をずんと切り伏せた。

その後、犬引きが犬の死骸を見つけて仰天し駒形に報せると駒形は「なんたる狼藉だ!
畜生をかように切って棄てるとは、あの野郎め逃がさんぞ!!」と、只一人三町ばかりを
走って一行を追いかけた。追いついた駒形は一行五、六十人の中へ押し入り、

「只今鷹犬を殺しなさったのはどなたですか」と言ったが、侍たちは「いやぁ知らないな」
とばかり言うので駒形は機転を利かせて「犬は畜生ですから別に死んでもよいのです。
ただ、もし噛まれた方がいて痛がっておられるのではと思いここへ参ったのです」と言った。

例の小姓は「ああ、そういうことか」と思って「それがしと主人へ噛みつこうとしたので、
ただ一打ちに致した。あんな癖の悪い犬を飼うなんておかしいですよ」と厳しく言った。

「さてはコイツか…」と感づいた駒形は「おのれも共に畜生道へ行きやがれ!」と言うままに
小姓の細首を宙に落とした。一行は大騒ぎになって傍にいた若侍が刀を抜いて向かったところを
駒形はその右腕を切り落とし、そのまま多勢を切って廻ると近寄る者もいなくなった。

そこへ駆けつけた駒形の侍や勢子三十人ばかりが切り掛かったので、勢子どもも多く切られた。
しかし、かなわないと思ったのだろう、五十余りの侍たちは主を捨てて逃げ出し、遅れた
七、八人が切られてしまった。後に隣郷にも聞こえて「駒形が手柄、修理の孫六郎後を取りける」
と噂になったので暫く世間へ出てこなかった。

――『室町殿物語』

駒形さんは愛犬家なんだなぁ(棒読み)