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那古野山三郎の弟のこと

2019年08月15日 17:13

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/15(木) 17:00:58.55 ID:u77QSgOW
那古野山三郎の弟のこと

「因幡殿若死 宗因殿おと子にてこれ有る故 遺言にて山三郎殿子分に成され候」

那古野蔵人(宗因)は父那古野因幡守(宗慶)の遺言に従い
急死した兄那古野山三郎の子として養育され
森忠政からはじめ千石賜り、那古野氏の家督を継いだ。

--『各務氏覚書』

父、雲甫宗慶大居士(那古野因幡守、)は織田信次家の女婿となり後年織田信包に仕えた
慶長十年十二月四日没
母、養雲院殿は後年大徳寺170世清巌宗渭の育母であった
寛永三年二月五日没

--『名越氏先宗牌名』

家督に関して那古野因幡守の遺言という経緯があったという。



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御心強く御談合候へ

2018年11月20日 17:05

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/20(火) 16:47:24.31 ID:fBT/H7FH
羽柴秀吉が明智日向守(光秀)を誅伐した後、近江長浜にて柴田勝家その他当時の大名衆寄り合い(会議)が
行われる事となったが、この時、何れの宅にてか秀吉を殺すべし、との陰謀があった。

大名たちが会議に参集する時、これを聞きつけた有馬法印(則頼)は現地へ駆けつけ、
「何れもどこにお入りになったか?」
と尋ねた所、「何れも二階座敷に向かわれた」と聞くと、そのまま二階へ駆け上がり、梯子の下の段まで参ると、
法印は「筑前殿(秀吉)!」と呼びかけ
「御相談を承り、ここ迄参りました!御心強く御談合候へ!」と、いかめしく梯子を踏み腰を掛けてそこに留まった。
このような事が有って、その座で秀吉を殺すことはできなくなり、この法印の忠義を秀吉は後々まで御感あった。

(武功雑記)

清須会議のエピソードですが、何故か舞台が長浜城に


奈良の鹿

2018年11月11日 16:25

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 20:19:41.68 ID:mvUm7K2Z
当地(奈良)にある第二のことは、多数の鹿のあることである。市内に在るもの3,4千であろう。
この寺院(東大寺)に属しよく人に馴れ、野に出て草を食べて帰る。市街を歩行すること犬のごとく、彼等は
寺院及び偶像(大仏)に属するがゆえに、諸人これを尊崇し、もし鹿一頭を殺す者が有ればその罪によって殺され、
財産は奪われ一族は滅ぼされる。鹿がもし一つの街にて死ぬことが有れば、同街は死したる理由を説明する義務があり、
若しそれを成さねば大いなる罰を受ける。

(一五六五年九月十五日附、堺發、パードレ・ガスパル・ビレラ書翰)

奈良の鹿は戦国期もあんな感じだったんだな



494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 21:10:22.16 ID:UPmyeuoG
当時も鹿せんべいあったのかな

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 22:17:25.23 ID:pEsQdGJM
春日大社の記録には鹿エピソード載ってないのかな

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 23:20:47.55 ID:UpU8i2qB
中南米でもそうだけど、パードレの原住民ヤバい報告は現地資料と突き詰めると意外と誇張が無いのが怖い

弘治三年の大旱魃と大洪水

2018年04月08日 17:35

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/08(日) 14:05:40.67 ID:v/FCPODe
弘治三年(1557)五月二十六日より、八月九日まで、雨が一日も降らず、大災天にて諸国の田畑はみな
干上がった。

同年八月二十六日、まず東風がしきりに吹き、後には南風が吹き、大洪水となった。
摂津国の尼崎、別所、島尾、今津、西宮、兵庫、難波、明石の浦々には津波が打ち寄せ
高潮上がり、その地域の人民は尽く逃散した。
昔、文明七年(1475)八月六日の大洪水のときも、この浦々へ津波が打ち上がったという。
今、その時から八十年余りに当たり各の如くと、古き人は語った。

同四年二月、改元あり永禄元年となった。

(足利季世記)

弘治三年の大旱魃と大洪水について



659 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/08(日) 18:09:23.31 ID:s/2PksRy
空梅雨からの旱魃そして台風のコンボかあ

天文十四年八月二十三日酉の刻、天下は一斉に黄色と成った

2018年04月03日 18:07

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/03(火) 09:26:32.73 ID:HTQMyVaV
天文十四年八月二十三日酉の刻(午後6時ころ)、天下は一斉に黄色と成った。

草木も黄花に変じ、道に行き合う人の顔も、さながら黄金を見るようであった。
知らぬうちに人々が成仏し、金色の如来となったようであった。
前代未聞の不思議であったが、夜になると次第に闇と成っていった。

(足利季世記)

実際にあったとしたら、一体これはどんな現象なんだろうか



744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/03(火) 10:59:45.56 ID:RHk8oFmq
この記録を残した人物が黄視症にでもかかってたんじゃないの

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/03(火) 11:17:37.97 ID:cDz9uMmI
何か良い事でもあったか、時期的に熱中症か

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/03(火) 12:34:42.55 ID:gBu9PaIR
黄砂かな?

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/03(火) 13:04:48.80 ID:IPl0mpkn
多分黄砂じゃないかな
以前北京にいた時、強烈な日は空も何もかも黄色になったし
日没近くになると太陽光のオレンジも加わって尋常ならざる雰囲気を醸し出してた

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/03(火) 16:16:11.73 ID:QOzmNWtQ
末期色なのじゃよ

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/03(火) 19:33:06.65 ID:b/4iBHhG
8月って書いてるから、時期的に黄砂は違うんじゃないかな。

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/03(火) 20:18:58.69 ID:CASJSLgR
黄砂はどの季節でも発生する
春は他の季節よりも発生しやすいだけ

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/04(水) 02:57:15.49 ID:TNR/k7ZT
国内の砂丘で竜巻発生したんじゃね?黄砂だったら通年で記録に残ってるっしょ

天文法華の乱

2018年04月02日 21:25

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/01(日) 22:08:57.18 ID:aMAwc3Q0
熱心な法華信者であった三好之長、三好元長などの三好勢が権勢を誇った時期、彼らを檀那とした
法華宗の者達はあまりに驕り、大勢を引き連れ他宗の寺を焼き、その他にも度々大軍を催し、
様々に狼藉し、ともあれば天台宗を権実雑乱(混乱した偽りの教え)と誹り、蔑ろにしているという
話も聞こえてきた。

しかし山門(比叡山)は、三好元長が一向一揆軍に滅ぼされると、「三好滅亡なり。良き時分なり」
と、一同に検義会合し、京の法華宗を退治のために、末寺末山に至るまで、三千余人を動員し、
天文五年閏七月二十六日より攻め懸り、京の法華二十ヶ寺へ、残らず火を放った。

法華宗側も檀徒を語らいここを先途と防いだが叶わず、所々にて一千余人討ち死にした。
寺々も同二十七日までに皆焼失した。

この時、洛中は過半が焼けた。

(足利季世記)

応仁の乱よりも甚大な被害を京に与えたと言われる、天文法華の乱について



650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/02(月) 01:53:22.88 ID:MJBbjsIv
三好ばっかりじゃねーかw

近江にての事であると、

2017年08月25日 18:09

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/25(金) 13:22:03.98 ID:EExyBIJe
近江にての事であると、ある人の語った事である。

旱魃の年に惣村の間で水論があり、一方が堤を作って水をせき止めた。
一方はこの堤を切るとし、一方は切らせまじきと、双方の間で合戦騒ぎとなった。

しかし堤を破壊しに来る方が大勢であり、堤を守る方は小勢にて、如何にすべきかと考えていた時、
その在所に浪人がいたためこれに相談すると、この浪人は才の有る人物で、地下の者たちを集め、
老人を集め一組に、そして若者を集めて一組とし、堤の傍につぶてと成るような石を多く集めさせ、
この脇に老人の組を置き、若者たちには竹槍を持たせ、彼らの組を川の下に置いて合図を待たせた。

さて、敵方の百姓たちが堤に集結すると、老人たちが大勢集まって居る所を攻撃目標と定め押し掛った。
浪人は彼らを矢ごろまで引きつけると、一斉に石つぶてを投げさせた。
これに打たれて敵方が辟易した所で合図を出すと、若者の組が竹槍で突撃した。
これによりこの村は大いに勝利したという。

(士談)



167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/25(金) 13:28:47.54 ID:bNHBOouS
いいね

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/25(金) 19:54:02.96 ID:+kmqCcoW
シリアとイスラエルなんて国家ぐるみで近代兵器使って同じようなことやってるしな

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/25(金) 22:35:43.11 ID:XoXk+W8B
>>166
諫早湾かな?

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/25(金) 22:41:15.45 ID:1HZw0XdN
>>171
>近江にての事であると、ある人の語った事である。

石川五右衛門偽上使の伝説

2017年07月19日 22:01

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/19(水) 05:54:26.93 ID:cQO9i7mY
岩村城には石川五右衛門偽上使の伝説がある。豊臣の天下の時、岩村城主
の田村中務大輔(直昌)には嫡庶の二子があった。

やがて中務大輔が病にかかって瀕死の状態となった時、この二子を中心に
御家騒動が起こった。しかし庶子である次男は、実は佞奸な家老の

倉元甚五右衛門の姦通の子で、倉元は庶子に家督を継がせて主家の横領を
企てたのである。これを推知した中務大輔は腹心の小姓・金森林念に、

家督相続の遺言状を託して間もなく世を去った。忠臣の金森は思案の上で
騒動の顛末を関白・豊臣秀次に注進したので、秀次は使者・福原団七郎を
岩村城に乗り込ませて一切を解決させることにした。

これを探り知った石川五右衛門は、「良き機会ぞ」と、すぐに団七郎の家臣を
手に入れ、途中<十三峠辺りであろう。また岩村城下玄吾坂下ともいう>で
待ち伏せて団七郎を殺し、自分はすっかり使者に化け込んで、

行列厳しく岩村へ到着した。偽使者をすぐに訪れたのは奸物・倉元だった。
彼が多分の金子を賄賂にして帰ると、まもなく小姓・金森は密かに訪れて、

倉元の悪計の一部始終を訴えた。さてその翌日、五右衛門はいよいよ城入を
なし、倉元を利用して散々腹を肥やしてから、

彼の悪事数々を満座の中で弁じ立てた。その後、家督は無事に長男へ譲られ、
倉元は死刑にされて騒動は落着したという。これは五右衛門一代を通じての
大義賊伝として講談などにも読み込まれている。

――『恵那郡史』



101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/19(水) 06:48:10.45 ID:pTcGI5g6
>>100
この岩村城ってのは美濃の岩村城でいいのかな?

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/19(水) 07:11:21.70 ID:aF6T985F
福原さんかわいそう

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/19(水) 07:13:57.71 ID:SMPelxR4
義賊()

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/19(水) 09:25:43.91 ID:PTyFtPRC
美濃岩村なら関ヶ原で改易された田丸中務大輔直昌のことなのかな

夫死して妻を取り殺す事

2017年03月28日 12:45

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/27(月) 13:50:11.67 ID:uFMed9Vq
夫死して妻を取り殺す事

 摂州榎並村友淵村の善兵衛の嫁は中村の源兵衛の娘であった。
善兵衛は三十三歳で死にその時に嫁は十六歳であった。
夫が死んだ後、女は親の源兵衛の所へ呼び返された。
 さる程に夫の精魂が火と成って、
蹴鞠の如く地面から一尺程高く上がって毎夜来て村際で消えた。
源兵衛の家は家中騒がしくなり、娘が目に見えて恐ろしいものが来たと髪を抜くこと折々である。
娘は父母に向かって、恐ろしいものが来たと言って恐れ伏した。
遂には髪の毛は皆抜き尽くしてしまい、三十日中に取り殺してしまった。
寛永十年の事である。

(片仮名本・因果物語)


野間左馬之進田螺を以て勝負占物語の事

2016年12月05日 15:41

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/05(月) 00:10:02.12 ID:bdEpZ09W
野間左馬之進田螺を以て勝負占物語の事


 野間左馬之進の物語に、 
「タニシを折敷の片隅に三つ、もう一方の片隅に三つよせて、
両方へ分けて一夜置くと、
合戦の負けの方を追いこみながら、勝ちの方は進み出る。
 大坂陣の城中として秀頼、木村、大野と称して盆の一方に三つ、
もう一方に関東方として家康公、井伊、藤堂と称して三つタニシを置いて、
一夜経つと必ず関東方の三つのタニシが、城内方のタニシを追い込んだという。
勝負の吉凶を占うことでこれより良いものは無い。」
とのことだ。『武備志』にもこの占いが出てきた。
興味深い。


(常山紀談)



383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/05(月) 00:29:22.46 ID:gxNbuBN3
熊野別当湛増「赤と白で闘鶏させたら全部白が勝った。源氏につこう」

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/05(月) 04:07:43.05 ID:qmzefhc1
ゲンジバンザイ

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/05(月) 09:46:20.05 ID:zZZUPRaz
藤堂を伊達にしてみると....。

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/05(月) 14:57:17.41 ID:9qJob2Cy
>>382
面白い占いだな

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/05(月) 23:31:28.84 ID:vbxDSVKJ
ジャンボタニシは
気立ての良い子だよ

この春、小人島の者であるとして

2016年11月22日 09:33

330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/22(火) 02:53:22.29 ID:eiEjYzgS
この春(慶長13年)、小人島の者であるとして、京都にて
鼠戸を結び(見世物小屋)、代金を取って人に見せていた。

たとえば日本人であれば、5,6歳の童ほどの身長だった。

――『当代記』



坂上頼泰の鉢植え

2016年11月07日 09:42

304 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/07(月) 07:21:03.05 ID:jnLT3IFc
天文元年(1532年)に多田院御家人衆筆頭の塩川伯耆守国満が、織田信長の台頭という時世から荒木村重について多田新田城を攻めた。
この時に山本郷(今の宝塚市周辺)も焼いて、多田院御家人だった34代山本荘司家の坂上頼泰は郷士となる。

しかし塩川国満は豊臣秀吉の九州征伐の間に挙兵して、謀反の疑いで誅されたため山本郷は豊臣家の天領となった。
秀吉が有馬温泉に湯治に行く際に山本郷に立ち寄った関係から、頼泰は秀吉の旗本になり朝鮮出兵へも参戦した。
頼泰は齢を重ねて隠居し、山本郷で農園を営みながら穏やかに過ごしていたところ、接木の技術を発明する。

ある時、天下人秀吉の元に見事な鉢植えが献上され大変気に入り、それが坂上頼泰のものと知り昔を懐かしんだ。
京や大阪での贅沢品の売買を禁止していたが、秀吉は頼泰に木接太夫の称号を与えて山本郷の植木に特別な配慮をしたという。

源満仲が摂津守に任官した際に、坂上田村麻呂七代孫の坂上頼次を摂津介にして多田院を警備させたのが山本荘司家の初代で坂上是則は従兄弟。
三代目の坂上季猛は源頼光に使えて卜部季武のモデルともされる。
仁平年間の坂上尚親の頃に平姓を賜り平尚親とし、その分家は今出川家諸大夫山本家として山本敬勝まで続く。



谷衛友は清正の態度に怒り

2015年12月06日 12:22

谷衛友   
83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/05(土) 19:35:55.18 ID:XxQWIDmT
>>80を投稿した者ですが谷大膳は衛友の父の衛好のことでした
この衛好は後に三木合戦で戦死しています

そのついでと言っては何ですが息子の谷出羽守衛友が加藤清正と喧嘩になった時の話を一つ

ある時加藤清正は家臣を追放してしかも奉公構にした。その家臣は谷衛友を頼り衛友はその家臣を許すよう清正と直談判した。
しかし清正は丹波山鹿の小大名にすぎない衛友の意見を聞き入れない。衛友は清正の態度に怒り一喝して清正に詰め寄り
その膝を抑えて身動きできなくしてから脇差に手をかけて互いに睨みあったという。(武功雑記)

何しろラスボス化した後年の秀吉にも媚びることをしなかった全身肝っ玉人間だから清正相手に遠慮するわけもなく…

ちなみにこの件で清正は「喧嘩ハ下手ナリ」(武功雑記)と言われてる
ただし「肥後守(清正)はかような匹夫の勇などのような事はこれなく候」とも弁護されている



桑山修理太夫殿は宋儒の談に迷われたのか

2015年11月18日 06:49

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/18(水) 02:11:23.36 ID:LrBIlTdP
 大和新庄一万五千石を領しなさっていた桑山修理太夫(一晴)殿は宋儒の談に迷われたのか、領地に昔から有った、
産土神が鎮座なされていた各地の森を切り払い、木は取り除きなさった。
 跡は田地に仰せ付けられ、一所へ産土神の宮を引き集めなされ、当分の間は二十数社を財政の足しとなされた。
 そのようなので神罰があったのだろうか、早世が打ち続いて、ついにお家断絶におよんでしまい、
今は前の通りに産土神が御鎮座されております。
 現在もこのような事があり、それにしても神罰と言うようなものは、甚だ恐れ慎むべき事と思われますので、認め置いておきます。
(本阿弥行状記)

一通り調べたのですが、桑山氏が断絶されたこと以外には、このような話は見つからなかったんですよね



658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/18(水) 11:08:34.80 ID:2n2BJH2w
領主が断絶された事から逆算して逸話を作ったのかな

石川五右衛門の手形

2015年04月03日 18:21

634 名前:632[sage] 投稿日:2015/04/03(金) 00:20:24.02 ID:jZ37xriL
 安土桃山時代に石川五右衛門という大泥棒が水無瀬神宮におさめられている宝剣を
盗み出そうと神殿に近づいたが、なぜか不思議な力にさえぎられて足が動かなくなり、
どうしても中に入れなかった。
 仕方なく五右衛門は盗みに入るのをあきらめた。水無瀬神宮の入口の門には
この時に五右衛門がつけた手形が今も残っているそうである。



摂津味舌村の蜂塚

2015年03月30日 18:39

796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/29(日) 22:42:41.14 ID:Vp86fkHZ
 応仁の乱の頃、落ち武者が摂津の味舌村に襲撃してくる事件があった。
その時、村人たちは近くに味舌寺に隠れて、ただひたすらに薬師如来に救いを求めて祈った。
そして、落ち武者たちがいよいよ寺まで押し寄せてきて、村人たちがもうこれまでかと
あきらめかけた時、お堂の中から数万の蜂があふれでて、落ち武者に襲いかかった。
落ち武者たちは蜂に刺され、みなバラバラに逃げ出してしまった。その後、お堂から出た
村人たちはそこでたくさんの蜂の死骸が落ちているのを見つけた。
 村人たちは命をかけて村を救った蜂に感謝して蜂塚をつくって供養したのであった。




797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/30(月) 00:54:21.38 ID:nzbnSr9a
ググったらそれっぽいの出たけど、スズメバチ?

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/30(月) 04:03:57.79 ID:U4hKUjdM
実際に起こりえそうな説話ですね

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/30(月) 06:33:17.26 ID:eQ1KiwQj
村人側に落ちぅどはなかったんですよ

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/30(月) 09:29:16.38 ID:9PSVJgIM
>>797
スズメバチは何度も相手を刺しても平気だが、ミチバチは一回 人を刺しただけでトゲを失い、亡くなってしまう
この説話に出てくる蜂はミツバチの方ではないかと思った

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/30(月) 11:31:02.13 ID:64iE0r3n
ハチ「勝ったのはあの百姓たちじゃ、儂たちではない」

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/30(月) 11:31:34.45 ID:TpF1OTkw
まぁ嘘話でも信じやすいように練られてるわけだしね

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/30(月) 11:34:19.69 ID:MS9LoveX
ハチってのは雇った鉢屋衆の隠語だったりしてな

『運は天に在り 具足は質屋に在り』

2014年12月10日 18:46

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/10(水) 08:25:24.67 ID:VjK+BKx4
山崎甲斐守(家治)は、日頃から家臣が武器を拵える事を大いに喜び、資金不足の者には
それを貸してでも武具を拵えさせたため、家中は皆武道を嗜み武具兵器等を具えていた。

そんな中、大越治左衛門という者、
「武士が武道を嗜み、武具を揃え置くことは士の道であり、武具を拵えたからといって
人に見せるには及ばない。またそれを見たとしても、賞するに及ぶものではない。」
そう考え家中一同が嗜み具える所に、治左衛門一人わざと武道も嗜まず、武具も蓄えのないような顔をして居た。

ある時山崎甲斐守がこの治左衛門を召して言った
「その方の武具を私は未だ一見したことがない。今日、それを出して見せるように。」
すると治左衛門は「畏まり候」とその座を退き、やがて小さな旗を拵え、その旗に

『運は天に在り 具足は質屋に在り』

と書いて甲斐守の前に持って出て
「私の武具はこの旗に候」と言った。

これに甲斐守は呆れて暫く黙っていたが、やがて
「その方は貧者と見えたり。この金を遣わすので早々に武具を拵えるように。」と百金を与えた。

治左衛門は心中「さてさて、律儀なる主人である。」と思い、「畏まり候」と言って帰宅すると、
その百金を親類縁者の内困窮している者へそれぞれ分配し、残った金で酒肴、菓子など沢山求め
家内の者達に食わせ、一両日の間にその百金を皆使い果たした。

その後、山崎甲斐守が家中の士の騎馬を閲兵した時、大越治左衛門は太く逞しい黒馬に打ち乗り、
鞍の輪に網の袋を、前に5つ、後ろに5つ下げていた。甲斐守はこれを見て不審に思い
「治左衛門、その網は何の為のものか?」と問うと、治左衛門
「これは事あらん時、君の御馬前にて討ち取った首を入れるための袋です。」と答えた。
甲斐守は「そんなにいくつも要る物なのか?」と尋ねると、

「10人までは必ず討ち取りますので、10袋用意いたしました。」

と答えた。

(明良洪範)

島原の乱の後、天草を復興させた名君である山崎家治とその家臣についての逸話である。



984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/10(水) 16:25:54.29 ID:LyU+oQmF
こういう役に立つんだか立たないんだか分かんない部下は苦手だなあ
名君たる人は器が違うわ

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/10(水) 23:02:00.40 ID:xg/BxYrK
名君は変質者の扱いに長けてる

玉置直和の変転

2014年05月04日 18:47

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/04(日) 07:58:42.14 ID:lnSzv3gR
紀伊国日高郡に、玉置直和という国人がいた。
玉置氏は太平記に登場する玉置荘司の子孫と言われており、居城・手取城の周りの領地は
3千5百石ほどの石高とされていた。(※徳川時代の検地では1万6千石ほどであった)
羽柴秀吉の紀州征伐が始まると、直和は秀吉への帰順を決意し、
徹底抗戦を叫ぶ舅の湯川直春や相婿の山本主膳と袂を分かった。
その結果直和は湯川氏に攻撃されたが、その後湯川氏も征伐軍に降ったので、
直和の地位も安泰かと思われた。


そして直和は新たに紀伊の領主となった羽柴秀長に挨拶するため、大和郡山城に赴いた。
秀長との対面では所領の石高を尋ねられたので、直和は3千5百石という
自分が知っている石高を返答したのだが・・・

その後、秀長が玉置氏の領地に対して検地を行ったところ、実際の石高は本人の申告よりもかなり多い事が判明、
これを知った秀長は玉置氏の領地を没収し、その上で直和には新たに申告通りの3千5百石を与えることにした。
直和はこの仕打ちに情けなさがこみ上げ、城を家臣の三十木右馬之丞に預けると、
高野山に上って剃髪してしまった。

ところが、ここで直和の境遇をを憐れんでくれた人物がいた。
秀長の兄・羽柴秀吉である。

秀吉は秀長に命じて、出家して千光院と名乗っていた直和を慰撫させ、
直和の方も、一時の感情で城を飛び出してしまったのを少し後悔していたので
高野山を降りて新封を受けることになったのであった。


その後直和は慶長4年に亡くなり、息子の小平太は関ヶ原・大坂と西軍についてしまったが
後に尾張藩に仕えることができたという。

「紀伊続風土記」より


太閤検地がらみで地方の領主が酷い目に遭うお話
秀吉自らフォロー入れて丸く収まってるので、一応いい話ってことで…




878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/04(日) 10:16:56.22 ID:gYXHuHPK
あら珍しい

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/04(日) 10:53:20.87 ID:fX2fjI+L
自領の(実際の)石高を把握してなかっただけで減封は可哀想と思われたのか?
太閤様もこの頃の寛大さを最後まで保っていられたらよかったのに

880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/04(日) 11:44:28.61 ID:rTyi5c7F
柳生「・・・」

881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/04(日) 12:13:56.96 ID:bBTVdTLY
紀州征伐の際に秀吉側に付いた勢力が少なかったから目にかけたんじゃないか

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/04(日) 13:02:21.25 ID:K4fySxTS
>>880
秀吉「流石に陰田するような奴はフォローできねーわ」

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/04(日) 14:24:37.06 ID:LcVWaVfl
所領の把握とかじゃなくて、この当時によくあった大幅な打出しを計上して
在地領主から所領を巻き上げるための検地じゃなかろーか

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/04(日) 14:59:35.46 ID:eHCx+N3j
湯川さんと主膳さんはどうなったのかとぐぐって見たら徹底抗戦して本領安堵を勝ち取ったと思ったら、挨拶に出かけた大和郡山城で二人とも毒殺されてるのね。
地理的にしょうがないとはいえ、やっぱり酷い話では。

平野遠州の物語に曰く

2014年03月09日 18:46

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/09(日) 01:21:32.18 ID:7sBTc9zI
平野遠州(長泰)の物語に曰く「当代、だれも武辺話を聞きなさる姿は、
誰はそこで討死した、誰はそこで首を取った、

あるいは負けるだの勝つだのなどとばかりのことである。これは悪しき聞き様だ。

その戦いはどうして負けた、どうして勝ったというように、
その勝ち負けの理由を尋ね聞くのをこそ、武辺物語と申す」と云々。

――『武功雑記』






応仁の乱の和議と武田国信

2014年02月07日 19:13

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/06(木) 22:21:57.55 ID:qLoFSH4V
室町時代初期、若狭国は一色氏が四代に亘って守護職を務めていた。
しかし、永享12年(1440年)、一色義貫の時、将軍足利義教の忌諱に触れ、
出陣先の大和国で謀殺されてしまう。将軍の命を受け、義貫を殺害した
のは安芸分郡守護の武田信栄である。信栄はこの功により、若狭守護職
を賜ったが、義貫謀殺の際に受けた傷がもとでまもなく死亡した。
弟の信賢がその後を継ぎ、逸見、粟屋、内藤、山県といった家臣団を
引き連れて本格的な若狭統治を開始する。家臣団の中、逸見氏は若狭国
西部に当たる大飯郡の郡司を務め、仇敵一色氏が守護を保持した丹後国
からの侵入に備えることとなった。

武田氏の若狭入部から四半世紀が過ぎた応仁元年(1467年)、応仁の大乱
が勃発する。武田氏は東軍、一色氏は西軍に属し、それぞれその中核と
して戦うこととなった。この頃、逸見氏は逸見真正(入道宗見)が惣領
を務め、武田軍の中心となって活躍している。洛中の戦闘に参加すると
共に、細川氏と協力して一色氏の領国丹後への侵攻作戦を指揮している。
一色・山名連合軍との戦いは、幾度かの敗戦を交えながらも、真正の
指揮下、おおむね順調に推移し、文明元年(1469年)の頃には丹後全土
をほぼ制圧するに至った。この年、一色氏に代わり武田信賢が丹後守護職
に任命されている。この方面では武田軍の大勝利である。

一方、京都の戦線では武田軍の苦戦が続いた。文明2年の勧修寺合戦で
逸見真正の弟(嫡男とも言われる)逸見繁経が討ち死にするなど、多くの
家臣を失い、翌年早々、信賢の弟元綱が独立を図り、西軍へ寝返っている。
心労が祟ったせいか同年6月、信賢は急逝し、急遽その弟国信が後を継ぐ
という有様であった。細川勝元・山名宗全の両軍の大将も没し、両陣営
とも厭戦気分が漂い始めた。(つづく)

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/06(木) 22:24:16.21 ID:qLoFSH4V
文明6年(1474年)4月、細川政元・山名政豊の間で和議が成立する。大内氏
のように和議を認めず、戦闘を継続するものもいたが、多くの大名は和議
に参加した。一説によると、和議の仲介役となったのは、武田国信であった
と言う。実弟が敵陣営に寝返るなど、領国経営が深刻な状況に陥っていた
のを認識して進んで仲介役となったのであろうか。ともかくも和議は成立、
国信は一息つくことができた。

しかし、

和議には次の条件がつけられていた。


「武田国信は丹後守護職を一色義春へ返付する」


多くの家臣の血を流して獲得した丹後の地である。失いたくはなかった。
しかし、家中建て直しのためには和議が必要である。これ以上、戦闘を
継続する力は無かった。加えて仲介役となった以上、言いだしっぺが
ごねる事も許されまい。国信は過酷な条件を呑んだ。


おさまらないのは、現場指揮官である逸見真正である。大乱では大事な
後継者を喪い、命がけで働き勝利して制圧した丹後も、戦に負けても
いないのに敵にくれてやる、そんな馬鹿な話はない。おのれの働きは
何一つ報いられないのか。

真正ら丹後戦線の部将たちは、国信の撤兵命令を拒否し、丹後に留まった。
一方、和議成立により大義名分を得た一色勢は勢力を盛り返し、未だ
国内に留まり続ける若狭勢に攻撃を仕掛けてきた。名分のない真正ら
は次第に追い込まれていく。だが、主君国信はこの状況を見ながら援軍
を出すことは出来なかった。既に和議は成立したのだ―


半年後―文明6年9月、丹後戦線主将逸見真正は丹後において自害した。


国信は出家し「宗勲」と称した。せめてもの償いであったのだろう。




486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/06(木) 23:18:59.35 ID:mKEDwHO3
>>484>>485
意識としてはあれだね、ほら

第一次世界大戦敗北時のドイツ

背後からのあいくち←なぜか変換できない

全く同じというのじゃないけど