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山鹿素行「武家事紀」より平野長泰の話

2022年04月27日 17:20

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/27(水) 09:46:26.24 ID:qPZYMBa9
山鹿素行武家事紀」より平野長泰の話

上記のように駿府で源君(家康)に大坂城入城を許可してくれるよう訴えたが、義心に感悦した家康により細川忠興を介して、
黒田長政・福島正則・加藤嘉明とともに江戸に留められてしまった。
不満に思った長泰は駿府から江戸の加藤嘉明の屋敷に直行し、
意気揚々として大坂方が勝利するだろうと談笑したが、嘉明は激しく叱って黙らせた。

なお長泰の弟で九左衛門尉長重というものがいて、これも賤ヶ岳の合戦で高名を挙げたが、長刀を好んで使っていたため、
槍ではないということで七本槍に入れられなかったという。



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賤ヶ岳七本槍の平野長泰のこと

2022年04月26日 16:03

462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/25(月) 23:35:18.74 ID:olvn0GDs
朝野雑載」より賤ヶ岳七本槍の平野長泰のこと

大坂の陣の時、平野遠江守長泰は江戸に留め置かれることになった。
長泰はそのころ駿府にいたため大御所(徳川家康)へ訴え出て
「公もご存じのように、それがしは太閤の御家で身を立てた、豊臣恩顧のものであります。
お暇を賜れば大阪へ駆け上り、一命を捨てて太閤の御恩に報いたいと思います。
もとよりわたくしは小身ですので、たとえ秀頼の味方をしたとしても徳川のお妨げにはならないでしょう」
と申したところ、大御所は
「さすが賤ヶ岳の七本槍として名を上げた勇士である。
敵になって強いものは、味方になっても強いと聞く。
いまから江戸に下って将軍の留守として、不慮のことがあれば粉骨をつくすように。くれぐれも頼んだぞ」
とおっしゃったため、
長泰は仕方なく「仰せに従います」と言ったということだ。



近頃笑止なる事に御座候

2022年04月25日 17:56

150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/24(日) 19:18:43.37 ID:oi+Wmvg6
慶長二十年(1615)五月七日、大御所(徳川家康)は茶臼山より四、五丁という所まで至った時、
大阪城本丸の辺りから煙が立ち上った。
丁度この頃、小出大隅守三尹が大御所のもとに馳せ来た。
大御所は大隅守に「かの煙を見よ」と仰せになった。
これに三尹答えて曰く

「近頃笑止なる事に御座候(最近になく気の毒なことです)」

と申し上げた。群臣たちは「奇怪の詞かな」とささやきあったが、家康公は仰せられた

「汝は秀頼に筋目があるのだから、尤もの一言である。」
そして、哀れに思し召す御気色にさえ見えた。

この様子に、大阪落城の悦びを申し遅れじと、ここに参り集まった人々の中でも、豊臣家の御恩を被った輩は、
世に恥ずかしきことに思ったという。
この後も大御所は、宿老の者に向かって「大隅守が申した事、神妙の至りである。」と、
御感最も浅からざる様子であった。

或る本に、小出大隅守の父秀政は、尾州中村の人であり、秀吉公と同じ地に生まれたため、
幼い頃より相親しく、その後秀吉公に仕えて奉公の労を積み、ついに泉州岸和田を給わったという。

また或る本に、新井白石先生曰く、小出播磨守(秀政)は大政所の妹(栄松院)を妻にしたという。

新東鑑



151 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/04/24(日) 19:53:20.62 ID:VIZvEaiS
笑止は現代の意味で捉えちゃうと危ういなホントw

勝利した方に付けば良い

2021年11月27日 15:39

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/26(金) 21:22:29.85 ID:nTccaeTD
大阪冬の陣の直前、片桐且元が大阪城より退去すると、大阪方は十月十二日、軍勢を堺に向かさせ
その占拠を目論んだ。

ある説に、この時堺に加賀屋正碩という富豪の町人が在った。豊臣軍が迫っていることを知った彼は、
自身で町中を駆け廻って申した

「女童、足弱は別として、十五歳以上六十歳以下は一人も当地を立ち退く必要はない!
どうするかと言えば、先ず若者と老人が、当面敵味方となる。

そして大阪へは老人共より、焔硝千斤を献じて、軍勢に寄って放火狼藉されることを免れるべし。
また若者二、三百人は政所(堺奉行所)へ行って、
『大阪より討ち手が甚だしく向かって来ていると承りました、僅かのご人数では御勝利出来ません、
岸和田へ御退きあれ』と無理にでも誘い引かせるのだ。
幸いにも堺奉行の芝山(正親)殿は眼病なので、この事に必ず従われるだろう。

そして後で関東より、焔硝を大阪に献じたことを咎められれば、老人たちの致したことであり
是非に及ばぬ旨を陳述するように。
世上が静謐になった後は、勝利した方に付けば良い。」

この言葉にみな同意したとの事である。

新東鑑

大坂冬の陣直前、豊臣軍の堺占拠の折の逸話。



十歳ほどの女児が石を投げたところ

2021年09月09日 18:28

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/09(木) 00:28:08.22 ID:qJf4q0oP
天文二十年十月二日(1551年10月30日)
奈良子守町にて十歳ほどの女児が石を投げたところ思いがけず鹿を打殺してしまったので
捕縛して興福寺の周囲を引き回し首を刎ねたとかなんとか。
女児の家族は即座に逃亡したので、住居を破却して処罰とした。
興福寺略年代記


「三作石子詰」の伝承とは別の、
春日大社神鹿を誤殺しただけで殺されたという戦国時代のお話



27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/09(木) 21:27:24.23 ID:E6UdqiJF
>>25
十歳ほどの女児が投げた石で死んでしまう鹿さんサイドにも問題がある

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/10(金) 00:47:57.59 ID:oXJ+q81C
ぅゎ ょぅι゛ょ っょぃ

有田の夜泣き石

2021年08月09日 16:00

霞姫   
907 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/09(月) 00:05:46.04 ID:0Q6lNaf4
有田の夜泣き石

天正13年(1585年)、羽柴秀吉は紀州征伐を開始。上方勢はあっという間に根来寺・粉河寺・雑賀荘を制圧し、続いて紀南の攻略に乗り出した。

秀吉の弟、羽柴秀長が率いる軍は紀伊の守護格である畠山政尚・貞政父子の本拠地、有田郡に攻め入ると箕島にてその動きを止めた。

秀長は畠山麾下の宮崎定秋(またはその長子定之)とその一族が籠る宮崎城には定秋の末娘で霞姫と言う美しい姫がいる事を聞き及び、その姫を差し出すことで城攻めを止めると使者を送って来た。

しかし霞姫はこの時、宮崎城に身を寄せていた殿本帯刀輝綱と言う若者と相思の仲であり、定秋もその仲を認めていた。姫を差し出し和議を結ぶか否か、一族は揉めた。

そんな中、我が娘の幸せを願う霞姫の母、湊御前は自らの近習を付け、霞姫と輝綱を密かに城から逃したのである。

908 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/09(月) 00:07:04.69 ID:0Q6lNaf4
これを知って激怒した秀長は攻撃を開始し、宮崎一族も明神峯に打って出て迎え撃つも大軍の前になす術なく宮崎一族は敗北。
宮崎定之は大崎港へ逃れ、そこから船で毛利家を頼って落ち延びたものの、城は灰燼と帰した。

城から姿を消した霞姫と殿本帯刀、近習の行方はようとして分からなかったが宮崎城の落城から一年後、かつて城のあった場所の対岸にある大きな石に乳飲み子を抱いた女性が現れると、乳飲み子を岩の上に残して身投げしたと言う。

哀れに思った付近の人々が乳飲み子を拾い、ある人物がその子を育てることにしたが、その子の顔は誰言うともなく霞姫に似ていると口にしたと言う。また、その子が夜泣きするたびにこの岩に連れて来ると不思議と泣き止んだとも言われ、この岩は霞姫の夜泣き石と言われる様になった。

「有田市誌」「宮崎落城記」より

参考サイト
生石高原の麓から
https://oishikogennofumotokara.hatenablog.com/entry/2020/05/30/211858
日本伝承大鑑
https://japanmystery.com/wakayama/aritayonaki.html
紀州 民話の旅
http://www.nnc.or.jp/~makoto-s/minwa/4001.htm

余談
上記参考サイト「生石高原の麓から」によると有田市誌では、羽柴秀長は紀州征伐の数年前から霞姫を狙って石田三成を通じて霞姫を側室に迎えることを所望しており、霞姫が城から出されたのは上方勢が攻め寄せる一年から二年ほど前のことであるとされ、その後に宮崎定秋と湊御前は亡くなり宮崎定之に代替わりし、紀州征伐が起こり宮崎城は秀長に滅ぼされたとされている。
今回は上記参考サイトに習い、羽柴秀長は有田来襲時に霞姫の存在を知った方向に話を寄せています。
また、有田の夜泣き石にはもう一つ由来の話があるけど、そちらは戦国期の話ではないため割愛します。



先ず、茶湯の置合違たり!

2021年02月22日 19:09

谷衛友   
599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/22(月) 16:19:09.58 ID:fuLE/6ii
古田織部殿が茶湯宗匠の頃、彼が気に入っていた大工で、喜右衛門という者があった。
その頃茶湯を心がける人々は、織部を崇敬する余り、喜右衛門とも親密になった。
ある人が谷出羽守(衛友)殿を上客として、相伴衆二、三人の内に、かの大工・喜右衛門を
加えられた。

その朝に臨み、出羽守殿が入来あると、喜右衛門が路地に出迎え、「今朝の御相伴に、早々より
参り候」と申した所、出羽守殿は気色変わり、

「先ず、茶湯の置合違たり!」

と、立ち返ろうとしたのを、相伴の衆が色々に取り持ったため、異事は無かった。
その頃、この事については様々に批評された。

備前老人物語



平塚因幡守の討死の様子

2021年01月11日 17:19

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/11(月) 12:34:05.76 ID:OYdq351k
平塚因幡守(為広)の、関ヶ原での討死の様子を人が語った所によると、関ヶ原の合戦で、味方敗軍に
及んだ時、因幡守は馬を脇に引き退け、自害するような様子に見えた所に敵が来て、

「筑前中納言(小早川秀秋)の小姓、横田小半助!」

と名乗り、歩行にて馬上の因州を一鑓突いた、しかし因幡守は、突かれながら自身の十文字の鑓にて
横田を一打ち二打ち打って、「せがれ(若造)め!」と罵ると、小半助は鑓を引き抜き、又掴みかかろうと
した所に、因州は素早く馬より飛び降り、馬を盾にして小半助と戦い、終に小半助を突き伏せ、
若党に首を取らせ、「この首せがれながら志の者と見えた故に討ち取った。互いにこれが暇乞いである。」と、
大谷刑部少輔(吉継)へ言い遣わした。

その後、因州は殊の外に疲れて、田の畦に腰を掛けて息をつき、自害しようとしていた所に、
山内対馬守(一豊)殿の侍、柏井太郎兵衛(樫井太兵衛)と言う者が馳せ来て鑓にて突いた。

この時、因州は自分の鑓を投げ突きにし、「汝が宝にせよ。」と言って、その場を去らずに討ち死にした。
もし小半助が、一度突いた鑓を抜かなければ、彼が利を得ただろうと言われた。

備前老人物語



高野山についての報告

2020年10月21日 16:33

659 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/21(水) 15:37:58.57 ID:ueT0Ekm0
約十日前、甚だ高貴にして善良なるキリシタンが当地に到着したが、彼は用務のため、他の国に至る途中、
この堺から十三レグワの高野山を通過した。

この高野山は、コンボーダーシ(弘法大師)を生きながら埋葬している。彼は甚だ悪しき人物であるが、
彼等(日本人)の間では、最も高き神の一人とされ、これを葬る時、「何人もその墓所に来ることも、また
触ることもすべからず、彼は死するに非ず、休息するものにして、世界の破壊される時に復活すべき」と
云ったという。

同所には五千人の坊主があり、甚だ憎むべき生活をしている。諸国の身分ある者が死した後、その身体を焼き、
その歯を高野に送り、石に称号を認めて墓に葬る。彼等は弘法大師の側にその歯を埋めた者は、直ぐに聖徒と
なるべしと信じている。

日本において、宗教の事に対する尊敬が非常であることは、この悪魔の前に、五百年以上、昼夜四千の
燈火が燃えていることによって知るべきである。この燈火は王侯が同所に供えたものであり、絶えず火を
點ずるため多大の収入が附せられている。
ここに燈が三、四個あり、百余の燈芯を具え、四個の松明よりもさらに光輝がある。
しかして油は、日本においては甚だ高く、特にこの地方において高く、甚だ悪しき物も、一皿金貨一バルドン
(インドの貨幣にしてポルトガルの三百レアルに当たる)の値である。

『一五六六年九月五日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰』(日本耶蘇会通信

高野山についての報告



660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/21(水) 16:11:10.20 ID:6Gz0OqdU
>>659
コーンポタージュの何が悪いのか一切説明がないな

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/21(水) 16:58:33.56 ID:3D2YfK1D
神田千里「宗教で読む戦国時代」からの孫引きだが
1565年1月20日のフロイス書簡だと
「この人物は、彼以前には全く知られていなかった、自然に反した憎むべき罪(同性愛)で日本を汚染し、
日本でそれを教えた最初の人物である」
と書かれているようだ

662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/21(水) 17:40:55.83 ID:6Gz0OqdU
>>661
へええ
ググったら確かにそういう俗説があるんだな、知らなかった
江戸時代の書物に書かれているとあったが、戦国末期には既に流布していたということか
外国人で一時滞在のフロイスが耳にするということは結構広く話されてたんだな

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/21(水) 17:46:35.06 ID:FirV82We
キリスト教からしたら商売敵なうえに
キリストが神たる理由の復活をするし、その上禁止の同性愛をこちらでは認めてる

ってところが悪魔だの悪しきだの言われてる所以なのかな

奈良について

2020年10月20日 17:48

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/20(火) 14:48:25.10 ID:/SKO6RgJ
当都の国内(畿内)に、奈良と称する人口甚だ多き町がある。数日間当地に滞在したが、広大にして
荘厳なる寺院が多数あり、特に三つの大いに注目すべきものがある。

一つはエボラ(ポルトガルの大司教が駐在する都市)の門の塔と同じ程の高さで、甚だ大きな
金属の偶像(大仏)である。私はエボラの出身であるのでこのように比較するのだが、一羽の鳩(境内には
多数の鳩がある)が、この偶像の頭で羽を休める時、下より見た者には、甚だ小さな雀のように見えるを
以て、このように断定した。手のひらは男子の大股での一歩の広さがあり、顔は幅約四パルモである。
この像の両側に他の二つの像があり、殆ど同じ高さである。他に木の立像が二つある。高さはレシオ
(リスボン市のロシオ、即ちドン・ベルド四世広場)に行く下の門の外壁と同じ程である。
その側に至って、悪魔の巨大なことに驚いたほどである。
この寺院は参拝者が甚だ多い。

第二は多数の鹿の在る事である。市内に在るのは三、四千であろう。この寺院に属し、良く人に馴れ野に出て
草を食って帰る。市街を歩行すること犬のごとくである。
彼らは寺院及び偶像に属するが故に、諸人これを尊崇し、もし鹿一頭を殺す者があれば、その罪によって
殺され、財産は奪われ、一族は滅ぼされる。鹿がもし一街にて死することが有れば、同街はその鹿が死んだ
理由を説明する義務があり、もりこれを成さざれば大いなる罰を受ける。

第三は、町内に広大にして深い湖水(猿沢池)のある事である。湖水には魚が充満し、その大きく、かつ多数
なること実に驚くべし。もし人が湖水の岸にて手を拍てば、そのようにして魚に食物を与える習慣なるが故に、
数えることも出来ないほど多数の、かつ甚だ大きな魚たちが来集するのである。
またこの魚も、寺院及び偶像のものであると称してこれを殺さない。彼らは、湖水の魚を殺す者は癩病に成るのだと
信じ、この恐怖のためこれを行わない。
坊主はこの魚を食することを、重大なる罪悪であるとし、これを重大視するが故に、もし魚を食す者があれば、
直ぐに司祭の地位から退かされ、俗人と成る。
このように彼らは、罪では無いことを大いなる罪とし、本来罪悪とすべきことを甚だ軽視している。

この地には又、牝鶏が無数に在る山がある。これも偶像に属するが故にこれを殺さない。
他にも多くの事があり、数ヶ月を費やしたとしても、観尽くし語り尽くすことは出来ないだろう。

当地においてはしばしば、悪魔が彼らと語ることが有る。狐、蛇、その他類似の獣類の形でしばしば現れる、
また夜間、死者の墓より、青く恐ろしい炎を発することが有り、その死者が地獄に有る証拠だと云う。
また死体を墓地に運ぶに当たり、悪魔が空中に在ってこれを奪うことが有る。またしばしば、人の体内に
入ることも有る。このため諸人は大いにこれを恐れ、壮麗なる寺院を建てて、前記の像を置いてこれを
尊崇する。諸侯は戦争に於いて勝利を得んことをこれに祈り、多額の寄進を成す。諸人大いにこれを尊崇する。
彼らは(傲慢で有ることを以て)その領土を奪われることを甚だ恐れるがゆえに、彼らに服従する者達に
対し、力の限り努力して当地に有るコンパニヤの人を迫害せしめ、その死を希望している。
然れども上よりこれを許されざるが故に、悪望を抱くにとどまり、その罰を受けて大いに苦しむ。

『一五六五年九月十五日附、パードレ・ガスパル・ビレラ書翰』(日本耶蘇会通信

東大寺大仏殿の戦い以前の、奈良の様子。この時代も大仏、鹿、猿沢池が最大の注目点なのですね。



慶長十九年の奇特不思議なること共

2020年09月11日 17:37

331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/11(金) 12:45:22.57 ID:vIsYKwWt
慶長十九年九月
この頃、伊勢太神宮では暮に及ぶと神託があり『むくり(蒙古)と合戦に及ぶことで、神風が烈しく吹く』と、
男女を厭わず、ほぼ毎日神託があった。
伊勢神宮のある山田町中で、火を立てこの旨を申していた所、半時ほど後、海上が燃え上がったように成り、
激しく鳴動し、その後、海面は静まり、神が還宮したかと覚えれば、また前のように神託があったという。

彼の国中では現在躍りが止まず、古老の者たちは「かかる奇特、不審なる儀は前代未聞である」と
云っているという。もはやこの頃では、京、大和、近江、美濃でも躍りをいたすという。
この他にも奇特不思議なることが幾らもあると云々。

当代記



337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/11(金) 20:13:59.38 ID:8ZCL0oK7
>>331
昔から踊ってたのか

「名古屋山三郎、賭碁の事」

2020年08月07日 17:32

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/07(金) 12:29:34.50 ID:TJ+U+1hZ
囲碁に関する逸話を集めた、「爛柯堂棋話」から
名古屋山三郎、賭碁の事」

浅草寺蔵前の某寺には大きな榧の木があり、そこの和尚はその榧の木と自身の碁の腕前を大いに自慢していた。
その話を聞いた名古屋山三郎・不破伴左衛門・高木、の三勇士は、和尚をからかってやろうと悪だくみ。
まず名古屋が和尚のもとに行き
「私は旅の者です。和尚が碁をなさると聞きました。私も碁を嗜むもので賭け碁をしましょう。
和尚が勝ったら私はここにある五十両を差し上げます。私が勝ったらこの寺の名物の榧の木をいただきます」
と言い、和尚は
「ははは、あの榧の木は50人がかりでやっと引き倒すことができるほどのものですよ。
でもまあどうせ拙僧が負けるわけありませんからいいでしょう」
と対局を開始。
実力は伯仲していたが、しだいに名古屋が優勢になり、名古屋は小用を足すというのでそっと部屋を出、
ひそかに待機していた不破、高木に
「俺の勝ちだ。榧を引き倒してくれ」
と告げ、対局にもどり、和尚を破り、そのまま寺を出た。
翌朝、和尚が「それにしても昨日の旅人、わしを負かした後さっと消えるとは、もしや化け物だったのかな?榧の木を持って行くと言っていたが」
と寺の榧の様子を見に行くとそこには木を引っこ抜いたようた後があるだけ。
「なんということ!あれは天狗の仕業じゃったか!」
こうしてこの話は近隣に知れ渡り
「天狗が榧を引っこ抜いた寺」として、それまで以上に有名になったということである。



436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/08(土) 20:54:37.61 ID:ZbomlZDL
イケメンは囲碁も強いのか

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/09(日) 08:58:32.14 ID:/rmlxIEV
榧(かや)が読めなくて検索してしまったわ
将棋盤や碁盤用として最高級の素材らしいね

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/09(日) 09:12:11.44 ID:OwP9mgom
今は本榧と呼ぶよ
偽榧が出回ってるからね

那古野山三郎の弟のこと

2019年08月15日 17:13

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/15(木) 17:00:58.55 ID:u77QSgOW
那古野山三郎の弟のこと

「因幡殿若死 宗因殿おと子にてこれ有る故 遺言にて山三郎殿子分に成され候」

那古野蔵人(宗因)は父那古野因幡守(宗慶)の遺言に従い
急死した兄那古野山三郎の子として養育され
森忠政からはじめ千石賜り、那古野氏の家督を継いだ。

--『各務氏覚書』

父、雲甫宗慶大居士(那古野因幡守、)は織田信次家の女婿となり後年織田信包に仕えた
慶長十年十二月四日没
母、養雲院殿は後年大徳寺170世清巌宗渭の育母であった
寛永三年二月五日没

--『名越氏先宗牌名』

家督に関して那古野因幡守の遺言という経緯があったという。



御心強く御談合候へ

2018年11月20日 17:05

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/20(火) 16:47:24.31 ID:fBT/H7FH
羽柴秀吉が明智日向守(光秀)を誅伐した後、近江長浜にて柴田勝家その他当時の大名衆寄り合い(会議)が
行われる事となったが、この時、何れの宅にてか秀吉を殺すべし、との陰謀があった。

大名たちが会議に参集する時、これを聞きつけた有馬法印(則頼)は現地へ駆けつけ、
「何れもどこにお入りになったか?」
と尋ねた所、「何れも二階座敷に向かわれた」と聞くと、そのまま二階へ駆け上がり、梯子の下の段まで参ると、
法印は「筑前殿(秀吉)!」と呼びかけ
「御相談を承り、ここ迄参りました!御心強く御談合候へ!」と、いかめしく梯子を踏み腰を掛けてそこに留まった。
このような事が有って、その座で秀吉を殺すことはできなくなり、この法印の忠義を秀吉は後々まで御感あった。

(武功雑記)

清須会議のエピソードですが、何故か舞台が長浜城に


奈良の鹿

2018年11月11日 16:25

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 20:19:41.68 ID:mvUm7K2Z
当地(奈良)にある第二のことは、多数の鹿のあることである。市内に在るもの3,4千であろう。
この寺院(東大寺)に属しよく人に馴れ、野に出て草を食べて帰る。市街を歩行すること犬のごとく、彼等は
寺院及び偶像(大仏)に属するがゆえに、諸人これを尊崇し、もし鹿一頭を殺す者が有ればその罪によって殺され、
財産は奪われ一族は滅ぼされる。鹿がもし一つの街にて死ぬことが有れば、同街は死したる理由を説明する義務があり、
若しそれを成さねば大いなる罰を受ける。

(一五六五年九月十五日附、堺發、パードレ・ガスパル・ビレラ書翰)

奈良の鹿は戦国期もあんな感じだったんだな



494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 21:10:22.16 ID:UPmyeuoG
当時も鹿せんべいあったのかな

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 22:17:25.23 ID:pEsQdGJM
春日大社の記録には鹿エピソード載ってないのかな

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 23:20:47.55 ID:UpU8i2qB
中南米でもそうだけど、パードレの原住民ヤバい報告は現地資料と突き詰めると意外と誇張が無いのが怖い

弘治三年の大旱魃と大洪水

2018年04月08日 17:35

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/08(日) 14:05:40.67 ID:v/FCPODe
弘治三年(1557)五月二十六日より、八月九日まで、雨が一日も降らず、大災天にて諸国の田畑はみな
干上がった。

同年八月二十六日、まず東風がしきりに吹き、後には南風が吹き、大洪水となった。
摂津国の尼崎、別所、島尾、今津、西宮、兵庫、難波、明石の浦々には津波が打ち寄せ
高潮上がり、その地域の人民は尽く逃散した。
昔、文明七年(1475)八月六日の大洪水のときも、この浦々へ津波が打ち上がったという。
今、その時から八十年余りに当たり各の如くと、古き人は語った。

同四年二月、改元あり永禄元年となった。

(足利季世記)

弘治三年の大旱魃と大洪水について



659 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/08(日) 18:09:23.31 ID:s/2PksRy
空梅雨からの旱魃そして台風のコンボかあ

天文十四年八月二十三日酉の刻、天下は一斉に黄色と成った

2018年04月03日 18:07

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/03(火) 09:26:32.73 ID:HTQMyVaV
天文十四年八月二十三日酉の刻(午後6時ころ)、天下は一斉に黄色と成った。

草木も黄花に変じ、道に行き合う人の顔も、さながら黄金を見るようであった。
知らぬうちに人々が成仏し、金色の如来となったようであった。
前代未聞の不思議であったが、夜になると次第に闇と成っていった。

(足利季世記)

実際にあったとしたら、一体これはどんな現象なんだろうか



744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/03(火) 10:59:45.56 ID:RHk8oFmq
この記録を残した人物が黄視症にでもかかってたんじゃないの

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/03(火) 11:17:37.97 ID:cDz9uMmI
何か良い事でもあったか、時期的に熱中症か

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/03(火) 12:34:42.55 ID:gBu9PaIR
黄砂かな?

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/03(火) 13:04:48.80 ID:IPl0mpkn
多分黄砂じゃないかな
以前北京にいた時、強烈な日は空も何もかも黄色になったし
日没近くになると太陽光のオレンジも加わって尋常ならざる雰囲気を醸し出してた

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/03(火) 16:16:11.73 ID:QOzmNWtQ
末期色なのじゃよ

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/03(火) 19:33:06.65 ID:b/4iBHhG
8月って書いてるから、時期的に黄砂は違うんじゃないかな。

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/03(火) 20:18:58.69 ID:CASJSLgR
黄砂はどの季節でも発生する
春は他の季節よりも発生しやすいだけ

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/04(水) 02:57:15.49 ID:TNR/k7ZT
国内の砂丘で竜巻発生したんじゃね?黄砂だったら通年で記録に残ってるっしょ

天文法華の乱

2018年04月02日 21:25

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/01(日) 22:08:57.18 ID:aMAwc3Q0
熱心な法華信者であった三好之長、三好元長などの三好勢が権勢を誇った時期、彼らを檀那とした
法華宗の者達はあまりに驕り、大勢を引き連れ他宗の寺を焼き、その他にも度々大軍を催し、
様々に狼藉し、ともあれば天台宗を権実雑乱(混乱した偽りの教え)と誹り、蔑ろにしているという
話も聞こえてきた。

しかし山門(比叡山)は、三好元長が一向一揆軍に滅ぼされると、「三好滅亡なり。良き時分なり」
と、一同に検義会合し、京の法華宗を退治のために、末寺末山に至るまで、三千余人を動員し、
天文五年閏七月二十六日より攻め懸り、京の法華二十ヶ寺へ、残らず火を放った。

法華宗側も檀徒を語らいここを先途と防いだが叶わず、所々にて一千余人討ち死にした。
寺々も同二十七日までに皆焼失した。

この時、洛中は過半が焼けた。

(足利季世記)

応仁の乱よりも甚大な被害を京に与えたと言われる、天文法華の乱について



650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/02(月) 01:53:22.88 ID:MJBbjsIv
三好ばっかりじゃねーかw

近江にての事であると、

2017年08月25日 18:09

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/25(金) 13:22:03.98 ID:EExyBIJe
近江にての事であると、ある人の語った事である。

旱魃の年に惣村の間で水論があり、一方が堤を作って水をせき止めた。
一方はこの堤を切るとし、一方は切らせまじきと、双方の間で合戦騒ぎとなった。

しかし堤を破壊しに来る方が大勢であり、堤を守る方は小勢にて、如何にすべきかと考えていた時、
その在所に浪人がいたためこれに相談すると、この浪人は才の有る人物で、地下の者たちを集め、
老人を集め一組に、そして若者を集めて一組とし、堤の傍につぶてと成るような石を多く集めさせ、
この脇に老人の組を置き、若者たちには竹槍を持たせ、彼らの組を川の下に置いて合図を待たせた。

さて、敵方の百姓たちが堤に集結すると、老人たちが大勢集まって居る所を攻撃目標と定め押し掛った。
浪人は彼らを矢ごろまで引きつけると、一斉に石つぶてを投げさせた。
これに打たれて敵方が辟易した所で合図を出すと、若者の組が竹槍で突撃した。
これによりこの村は大いに勝利したという。

(士談)



167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/25(金) 13:28:47.54 ID:bNHBOouS
いいね

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/25(金) 19:54:02.96 ID:+kmqCcoW
シリアとイスラエルなんて国家ぐるみで近代兵器使って同じようなことやってるしな

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/25(金) 22:35:43.11 ID:XoXk+W8B
>>166
諫早湾かな?

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/25(金) 22:41:15.45 ID:1HZw0XdN
>>171
>近江にての事であると、ある人の語った事である。

石川五右衛門偽上使の伝説

2017年07月19日 22:01

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/19(水) 05:54:26.93 ID:cQO9i7mY
岩村城には石川五右衛門偽上使の伝説がある。豊臣の天下の時、岩村城主
の田村中務大輔(直昌)には嫡庶の二子があった。

やがて中務大輔が病にかかって瀕死の状態となった時、この二子を中心に
御家騒動が起こった。しかし庶子である次男は、実は佞奸な家老の

倉元甚五右衛門の姦通の子で、倉元は庶子に家督を継がせて主家の横領を
企てたのである。これを推知した中務大輔は腹心の小姓・金森林念に、

家督相続の遺言状を託して間もなく世を去った。忠臣の金森は思案の上で
騒動の顛末を関白・豊臣秀次に注進したので、秀次は使者・福原団七郎を
岩村城に乗り込ませて一切を解決させることにした。

これを探り知った石川五右衛門は、「良き機会ぞ」と、すぐに団七郎の家臣を
手に入れ、途中<十三峠辺りであろう。また岩村城下玄吾坂下ともいう>で
待ち伏せて団七郎を殺し、自分はすっかり使者に化け込んで、

行列厳しく岩村へ到着した。偽使者をすぐに訪れたのは奸物・倉元だった。
彼が多分の金子を賄賂にして帰ると、まもなく小姓・金森は密かに訪れて、

倉元の悪計の一部始終を訴えた。さてその翌日、五右衛門はいよいよ城入を
なし、倉元を利用して散々腹を肥やしてから、

彼の悪事数々を満座の中で弁じ立てた。その後、家督は無事に長男へ譲られ、
倉元は死刑にされて騒動は落着したという。これは五右衛門一代を通じての
大義賊伝として講談などにも読み込まれている。

――『恵那郡史』



101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/19(水) 06:48:10.45 ID:pTcGI5g6
>>100
この岩村城ってのは美濃の岩村城でいいのかな?

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/19(水) 07:11:21.70 ID:aF6T985F
福原さんかわいそう

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/19(水) 07:13:57.71 ID:SMPelxR4
義賊()

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/19(水) 09:25:43.91 ID:PTyFtPRC
美濃岩村なら関ヶ原で改易された田丸中務大輔直昌のことなのかな