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相方猫地蔵の由緒

2021年11月24日 17:18

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/24(水) 10:11:10.33 ID:XTGck5aC
相方猫地蔵の由緒

一五七四年(天正二年春)尾道の浄土寺で妖怪騒動が起きた。
当初相方村に備後一円で名を馳せた弓の名人千葉修理之進
妖怪退治の要請が、殿様の命を受けた使者の命を懸けた懇願に
断りきれず見事退治した。その夜から、家族共々皆狂い廻る
病に犯され、祈祷師に祈祷をして貰った所、妖怪の怨霊の祟りと
告げられ、罪無き子猫と共に成敗され成仏できん、親子の猫地蔵を
造り祀ってくれれば罪滅ぼしに信者の願い事は何でも叶えてやる。
特に咳の病気で難儀している信者は即治してやる。早速紙屋谷に
石造りの小祠を建てねんごろに供養したところ三日後より
家族皆回復した。此の事から祀られてきたお地蔵様です。
紙屋谷では不便なため住還道に親猫を祀っていましたが、
祠崩落の恐れが出て親子共に現在のところに移設しました。

二〇十二年(平成二十四年)十二月吉日 相方歴史研究会




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君臣親子の情、真実の道理を表わされた

2021年02月02日 17:20

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/02(火) 15:34:17.64 ID:0c9HIEwf
伯耆の守護である南條中務殿(南条元忠カ)は、代々武辺の家であると言い伝わっている。
かの家の例にて、毎年正月二十日ぶが、具足の餅の祝いがあり、侍共が残らず城に集まった、

南條は甲冑を帯びて出られ、床几に腰を掛け、大土器にて酒宴があった。
ある時、何条は続けざまに二盃かたむけて、「おもい指しなり。其の方もおもい指しせよ!」とて、
家老に盃を指した、彼は「有り難く存ずる」と押し頂き、たっぷりと酒を受けて飲み、またたっぷりと
受けて、手に持って暫く思案する様子が見えた。

座に在る者共、誰に指すのだろうかと待っていた所、彼は頭を延ばしてかなたこなたと見巡らせ、
我が子を呼び出し、

「この土器にて、おもい指しをせよとの仰せを蒙り、暫く思案したのだが、殿様に献ずるのも
なにやら面映ゆく、汝に勝って思う人も居ない。」

そう言って土器を指した。息子は「傍若無人なり」とは思ったが、親の命であるので「忝なく存じ候」と
引き受け、二盃傾けたが、この様子が南條殿の笑壺に入り

「よく指したり、飲みたり、肴なくてはかなわじ」と、その時具足の上から差していた脇差に、
熨斗鮑を添えて与えた。

君臣親子の情、真実の道理を表わされた。末頼もしき風情であると、これを嫉む人は居なかった。

(備前老人物語)




908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/02(火) 16:39:59.22 ID:asYGmJ2t
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4866.html
伊達政宗「上様、思い差し仕るっ!」


http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4872.html
島津豊久の『思い差し』


この二つの逸話のせいで「思い差し」て聞くと衆道を先に連想してしまう

910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/02(火) 19:48:37.88 ID:J9QJFelH
備前老人ってヘロドトスみたいなタイプなんだろうな
逸話好きすぎて変な事まで大量に書き残す

慶長十七年の透明人間

2020年09月02日 18:40

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/02(水) 12:55:41.74 ID:mp1XH7OT
慶長十七年四月二十三日
昨今雷の音が数回聞こえた。当春のいわゆる初雷である。

周防国に怪異が有った、ある民家において、一人の人物が旅程の道行きであるらしく、ここを客として
宿を借りた。
民家の台所方は膳部を用意したのだが、この人物が下人に言い伝える声は聞こえても、姿は見えなかった。

不審に思い、民家では地頭方に注進し、地頭が来てみたが、確かに言われたとおりであった。
この姿の見えぬ人物に対し地頭は「振る舞いをしてみん」として招いた所やって来た。彼は膳部、酎酒以下
常の人の如くの食事であった。然れども姿は全く見えなかった。

地頭は「これは怪物である」と考え、犬の逸物共を十疋ばかり取り寄せ、中に入れて戸を閉めた。
すると犬たちが戦慄して喚く様子が伺えた。そこで戸を開けて犬を見てみると、犬たちは殊の外
打擲された様子であった。そしてその座敷には、犬を打つ杖などが幾つも有った。
その後、この客はこう言った
「私を狐狸の類と心得るのですか?言わずともわかるでしょう。」

そして元の宿である民家に帰り、その上振る舞いの礼謝として、錫の酒器を贈った。
この酒は甚だ美酒で、さらに人が多く集まって飲んでも、この錫の酒器の中の酒は盡きなかったと云々。

当代記

結局どうなったのか良くわからない慶長十七年の透明人事件



304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/02(水) 15:42:38.50 ID:GXwxnttv
タイムスクープハンターだろ

旗返の姫塚由来

2017年11月28日 15:48

343 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/28(火) 15:16:04.32 ID:+NX5BKfl
旗返の姫塚由来

旗返城主江田隆連は、庄原の山之内氏に誘われて、ひそかに山陰の尼子氏と通じたことが発覚すると、毛利元就は山口の大内氏に救援を求め、1万数千の大軍をもって江田領に攻め込んできました。
天文22(1553)7月には隆連の家臣武田祝氏(たけだほうりし)の居城高杉城を全滅させ、その勢いで旗返城に攻め寄せてきました。
隆連は尼子軍の救援を唯一の頼りに1千1百の軍勢で籠城しました。

毛利軍は、要害堅固な旗返城を攻略するため、旗返城の麓、丸山(陣床山)に臨時の城を構え、食糧や水を断つ作戦にでました。
 隆連は、唯一の頼りだった尼子の援軍が来ないため、落城も覚悟したのであろうか。包囲されて間もなく、妻と娘(姫)に一人の家来をつけて、庄原の山之内まで逃がそうとしました。

 始め廻神(めぐりかみ)を通ろうとしましたが、この道は既に敵軍の手に落ちており、仕方なく加風呂谷(かぶろだに)を下って、掛田(かけだ)に降り、夜陰にまぎれて石原から寄国(寄国)を通り、山之内に逃げようとしました。
そして、掛田川の川端までたどり着きましたが、娘(姫)は身ごもっており、ここまで来て急に産気づきました。

 そして苦しみながらかわいい娘の子を出産しましたが、敵陣の中を潜んでの逃亡で体力も尽き果ててしまいました。
 兼ねてより父隆連から、途中逃げ切れぬ時は自刃せよと諭されていたこともあり、妻と娘(姫)赤子ともども、この地で自刃して果てました。

 後、邑人(むらびと)たちはこのあわれな人たちのために祠を建てて供養しました。この祠を「姫塚」と呼びこの一帯を「姫原」と呼ぶようになりました。
 旗返城は、水と食料を断たれ、終に10月になり城兵は夜陰にまぎれて逃亡し、落城しました。

     川西郷郷土史研究会”
(当地の看板より)



再福岡合戦 薬師寺額田片岡三士討死の事

2017年01月07日 16:45

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/07(土) 07:29:16.21 ID:fjqhmX6S
再福岡合戦薬師寺額田片岡三士討死の事

 文明十六年正月六日に又福岡で戦があった。
城兵が敗北する所に薬師寺四郎左衛門という者が薙刀を取って返し合せ、
「ここで討死する」と防戦した。
同弥四郎らが四郎左衛門を討たせまいと取って返し、
津坂の山の麓から城際まで僅かの兵で多勢を防いで払い退けた。
寄手の中にも福屋九郎右衛門という剛の者がおり、
鍬形を打った兜をかぶり、隙もなく四郎左衛門に切ってかかった。
ここで、四郎左衛門の家の士が返し合わせて福屋を討つことができた。
 しかし寄手がいよいよ追い詰めてきたので、
薬師寺四郎左衛門、額田十郎左衛門、片岡孫左衛門の三人は
引き返し枕を並べて切り死にした。
これは三人が必ず死を約束したためだという。


 これより前に三人が話した時、次郎左衛門が、

「今回の戦は必ず味方は負けるにちがいない。
松田は元々当国の者なので、後巻を味方から申しても播州の加勢もが来ないだろう。
政則は真弓峠の戦に負けて姫路に引き退いたと聞こえるので、味方は力を失っている。
なので討死すべき身である。人の後れて生きながらえるのは本意ではない。
もう一度戦があったら必ず討死しよう。」

と語った。二人は聞いて、

「我々も皆同じ所存ですぞ。互いに同じ所で討死しましょう。」

と約束した。
 その日、四郎左衛門が打ち出る時に、

「ただ今、敵の手に渡るはずの首である。最後の対面しよう。」

と鏡に向かってニコっと笑って出たとか。
 額田は岡本筑後守に向って、

「子であります又三郎は私のたった一人の子なので、とりわけ不憫であります。
私と一緒にいたら必ず死を逃れられないでしょう。よろしく計らってください。」

と言ってきたので岡本は、「心得た。」と親子引き離したのでこの日には討死しなかった。
 片岡は自分の家来に向って、

「わが首は必ず敵に取られるだろう。これをしるしに死骸を探せ。」

とこよりを左の二の腕に二重に結ばせていたので、
案の定、これをしるしに死骸を求め得たとか。


(常山紀談)

生に執着しないのが武士



499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/07(土) 07:41:37.26 ID:9Z8Rx85u
強姦や強盗など悪逆の限りを尽くしてきたのだから当然ですよね

備前国福岡城合戦福井小次郎歌を遺して討死の事

2017年01月06日 17:16

494 名前:1/2[sage] 投稿日:2017/01/06(金) 00:27:05.74 ID:HHUrws03
備前国福岡城合戦福井小次郎歌を遺して討死の事

 備前はもとは赤松氏が代々領していたが、嘉吉元年の赤松満祐滅亡の後は山名相模守教之が賜り、
教之は代官の小鴨大和守を備前に住ませた。
応仁の乱の後、備前津高郡金川村の玉松城主松田左近将監元成と細川勝元が語り合い、元成は兵を集めて小鴨を攻めようとした。
そこで散り散りになっていた赤松の家人が元成と組んで小鴨を攻め落とした。
赤松兵部少輔政則(満佑の孫)は元成を賞して伊福の郷に置いた。

 山名宗全と細川勝元が共に病死の後、京都は少し静かとなったが諸国はいよいよ大いに乱れ、
松田の一族どもも備前西郡のうちの多くを押領していた。
政則は将軍家から功を賞せられ、播磨・備前・美作を返してもらったが、
山名右衛門督政豊(宗全の孫)はこれを怒り、文明十一年九月に京都を出て但馬の国に馳せ下った。
 これから政則も播磨に馳せ着いて、ついでに備前の松田がほしいままに攻め取った所を取り戻そうとした。
元成はこのことを聞き

「兵粮の用意のために押領した所は返せるが、伊福の郷は軍功により賜った所なので返す気はない。
これは事にかこつけて我を打ち亡ぼそうという謀であろう。」

と金川に城を構えた。この城は麓に大川が流れ、峰高く、四方が峻険なので要害としてよい地であった。
しかしながら後巻の手だても図り、備後国の山名俊豊(政豊の次男)へ
「備前を切り取って参りましょう」と報告したら俊豊は喜んだ。
政則は備前に赴き、松田が押領して自分の地にした所を取り返していった。

 文明十五年九月、山名も備後の尾道を出て同国国分寺に着き、三千余を駆り集め、
十一月七日に備前の国に打ち入ったら、松田の一族が集まり邑久郡福岡の城の西北の山に陣を取った。
福岡の城は東西に大川が流れていて、その中の島に山があったのでそこに城を築いた。
そこへ政則の守護代喜三郎則国を始めとして二千余人が立て籠もった。
川上の瀬には長船右京亮等が野伏を従えて陣取っていた。
 十一月二十一日に押し寄せて合戦した。
浦上の家人に楢村與三兵衛、同又四郎という兄弟がいた。前に元成に奉公していたが因縁をもっていた。
彼らは密に語らって十一月二十三日の夜半に激しい風に便りとして陣屋に火をかけた。
寄手は内通に力を得てすぐに攻め寄せたが、城中の者が厳しく支えて追い返した。
その後に事が発覚して、楢村兄弟を搦め捕られて誅された。
寄手はその後に図り合って、十二月十三日にまた富岡という小山に兵を出した。
城からも打って出て散々に戦いあい、寄せ手も城兵も討たれた者が多かったという。

495 名前:1/2[sage] 投稿日:2017/01/06(金) 00:27:38.47 ID:HHUrws03
 この文明十五年十二月十三日備前福岡の戦に、福井小次郎も参加していた。
もとは京都の人であったが、四歳の頃に父の源左衛門が当国の在番の時に連れ下り、
この時には城中にいて二十一歳であった。
 その日の戦では父子の間が敵味方で混雑しおし隔られてしまった。
小次郎は父は城中に入ったと思い、走り帰って探したが見えなかったので、
また城外に打って出て、寄手に向って『福井小次郎!!』と名乗り、縦横に斬って回った。
しかし彼はあまりに戦い疲れていた。結局父を見つけることができず家人が肩にかけて城中へ引き入れた。
浅手深手二十六所も傷を負っていたから、小次郎はとうとう死んでしまった。
 後で父が城に帰って小次郎がの手箱を開いて見ると、多くの書き置きがあった。
その中には母への置き紙もあった。

「幼少から別れていましたので、このまま討死したらお母さまがお嘆きになられるだろう事が心懸かりです。
しばしこの世に残られることになったとしても、終いにはあの世で逢うことができます。
このことをよくお分かりになって、慰めてください。」

と細々と書いてあり、奥に

生れこし親子の契りいかなれば 同じ世にだに隔はつらむ

と書いてあった。「彼は思ひ定めていた討ち死にであったのだな。」と
人は皆、惜しんだという。


(常山紀談)

若干二十一でも、侍は戦場で討ち死にする覚悟を持っている




笄の井戸

2016年12月17日 21:14

437 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/17(土) 18:19:31.85 ID:afG/R5Jc
笄の井戸

岡山の柾木城(正木)は天正年間に宇喜多直家の兵2000に囲まれ落城寸前であった。

城主正木大膳正康の妻、玉尾の方は落城の前日
「私達が居ては満足な戦が出来ないでしょう。先に行って待っております」
と言うと、姫君初瀬を抱いて馬で柾木山を駆け降り、城の東南に位置する井戸へ二人で身を投げ命を絶った。
その後井戸へ身を投げた二人を供養した所、笄が浮かんで来た為この井戸を笄の井戸と呼ぶ様になったと言い、今も当地にて毎年供養が続けられている。

ちなみに正木大膳正康の入城は1589年だったと言う話もあり、城を攻めたのも宇喜多秀家だったり何故か姫路城主の本多忠政だったりする場合もある少し腑に落ちない逸話である。



439 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/17(土) 23:16:22.05 ID:afG/R5Jc
笄の井戸動画
https://youtu.be/xbsub8Klwx8

この世に生まれて嬉しいことが3つ

2016年06月06日 21:21

679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/06(月) 02:45:04.77 ID:NtgvmjWl
ある人の言ったことには、

「私はこの世に生まれて嬉しいことが3つある。1つ目は
男に生まれたことである。2つ目は下戸に生まれたことだ」

とのことで、もう1つは言わなかった。しかし、強いて
問われた後にその人は、

「大名の子に生まれなかったことが嬉しい」

と言った。その理由は何故だと問えども問えども、その人は
秘密にして明かさなかった。どんな意味であったのだろうか。

――『備前老人物語』



680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/06(月) 06:54:13.70 ID:DnmM45Zt
メフメト2世「せやな」

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/06(月) 13:50:10.93 ID:KkNZ28zy
毛利元就?

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/06(月) 21:05:39.99 ID:q6VDGptn
元就は親兄弟が飲酒で短命なのを見て
酒断ちだっけ

魔法神社のキュウモウ狸

2016年04月28日 12:01

637 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/04/27(水) 08:57:43.10 ID:63QNjozb
魔法で思いだしたので書き込みしてみます。
岡山県に魔法神社という神社があります。ここの御祭神は、キュウモウ狸という、キリスト教宣教師と共に南蛮から来日した狸だそうです。
この狸はいたずらを繰り返していましたが、後に改心したらしく、村人たちの前で牛馬の守護神になると誓いをたてたため、神社にまつられたそうです。



638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/27(水) 21:15:16.28 ID:Rv1hm6fo
ググったら「魔法神社」って石碑出てきてワロタ
ご利益ありそうで行ってみたい

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/28(木) 13:48:42.26 ID:8luqifc7
タヌキって日本周辺ぐらいしか生息してないんじゃなかったけ?
南蛮から来たのなら正体はアライグマとか?

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/28(木) 14:04:43.95 ID:25eFKUwQ
あ、それってハクビシン?

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/28(木) 14:05:55.27 ID:6jIygt/Z
田舎なのん?

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/28(木) 14:08:08.61 ID:FW/XmVsB
大都会岡山になんて事を

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/28(木) 14:17:19.14 ID:6jIygt/Z
百姓を手伝ったり祭りでばか騒ぎしたりと、グッドネイバーさんだったという話しもあるみたいだね

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/28(木) 15:20:57.07 ID:rzuLob8x
童貞力がつきそうだな

佐伯七郎二郎謀殺

2014年11月16日 17:28

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/15(土) 19:20:23.83 ID:rdZeeh9k
美作の毛利方の城・高田城は、、尼子再興軍と結んだ同国の蘆田、三浦といった国人に攻め立てられ、
毛利は香川光景を美作守とし、大将として新たに派遣した。

蘆田、三浦らは宇喜多和泉守(直家)にも支援を受け毎日のように城下まで攻めこみ、度々足軽の迫合が
あった。この状況に高田城内も動揺し、城の二の丸に熊野入道という者があったが、彼は元来出雲の者で、
尼子に志を通じて、兵糧蔵に火を掛けて敵陣へと立ち退いた。これにより城兵は、殊の外騒動した。

そんな中、城中に佐伯七郎二郎という、大力で知勇優れた者があった。かつて尼子が月山富田城に
籠城していた折、山中鹿之助が自分の下に付けたいと懇望し、妹を嫁がせたほど評価していた人物であった。

そして今、尼子再興の時節であるため、彼が再興軍に志を通じることもあると香川光景は疑い、
佐伯の下僕で、12,3歳ばかりの者を近づけ、折々酒食などを与えよく懐け、その後、様々なことを
尋ねてみると、この下僕は言った。

「三の曲輪の懸出の雪隠の下より、文を持って通う者が居ます。」

香川はさてこそと思い、宗像三郎左衛門、江戸三郎右衛門などに下知して、
かの雪隠の周りに伏兵を置いて待ち受けていた所に、敵が一人忍びきたのを、たちまち絡め取って
持っていた文を見ると、それは尼子方の蘆田五郎太郎の文であった。

これによって佐伯の逆意紛れ無しとなったがしかし彼は優れた力量の持ち主であったので、
たやすく討ち果たすというわけにはいかず、各々詮議して、先ず矢倉の普請を言いつけ
佐伯に奉行させて、その虚を窺って斬り殺すべしとし、討ち手の者達に言いつけたが、
佐伯は以ての外に用心していて少しも油断の体がなく、討ち手の者達は隙を窺うことも出来なかった。

ここで、香川光景の次男・兵部大輔春継が普請場に出て、佐伯とともに矢倉で工匠の働きを監督していたが、
佐伯の気が緩んだ所を見計らい、抜き打ちに、眉間を二刀打った。

佐伯、とっさに矢倉より飛び降りたが、痛手を負っていたためそのまま倒れた。しかしそれでも
刀を抜こうとしていた所を、兵部大輔が続けて飛び降り、その腕を切り落としたため、佐伯は
刀を抜くことも出来ず討たれた。
品川市右衛門はこの時離れた場所に居たが、この様子を見て走り来て、佐伯が倒れた所を斬りつけた。

(芸侯三家誌)


尼子に通じた佐伯七郎二郎を謀殺した折の逸話である。




駆けつけた隠岐為清に

2014年11月14日 18:43

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/13(木) 20:31:25.13 ID:7Gf/O+oJ
永禄12年(1569)、尼子勝久、山中幸盛、立原久綱らの尼子再興軍が出雲へと侵攻すると、
隠岐隠岐守為清も300余騎にて隠岐国より渡って来て、山中、立原に申し述べた

「それがしは近年毛利家に従って、隠岐一国を領知しました。これは身において本意ではありませんでしたが、
倅に家を相続させるため、力なくこれに妥協しました。

しかしこの度勝久様が当国に帰還され、恐れながら私も一族の端でありますので、大慶これに過ぎたることは
ありません。旧好を思われて、隠岐を相違なく安堵して頂けるのなら、この身命を忠戦のため
投げ打つ覚悟です。」

山中、立原はこれを聞くと、その内容を勝久に申し入れる旨を伝え、忠山に仮屋をかけ、大幔幕を打って、
為清の率いてきた300余人に饗応し、その後山中幸盛は言った

「為清殿の申し述べられた内容を勝久様に伝えた所、隠岐家が昔の好を思い早速入来したこと、
芳志の至である。従って隠州の事も望みに任すべきではあるが、同姓三郎五郎(隠岐清実)は、
近年我らが流浪している間もその志変ぜず付き従い、忠志浅からざるものがあった。
よって本国である以上、隠岐国は彼に宛てがうつもりである。

為清には意向を聞いた上で、出雲・伯耆の内においていずれの地であっても、望みに任せ現在の領地に
倍して安堵いたすであろう。そう仰られた。」

為清はこれを聞くと

「今度の戦いは勝久様の御本意あるものですから、外に所領を増やす望みは有りません。
また味方に参った以上、所を嫌うべきでは有りません。
どこの国であっても、相応の小郷一所を給われば充分です。」

そう言ってさらぬ体にて対応したが、実際にはこれを不本意に思い、この後、終には再び心変わり
したのである。

(芸侯三家誌)

隠岐為清、所領変えを言われ再び変心する、というお話




768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/13(木) 21:43:31.65 ID:Meb5omKS
馳せ参じたのに国替を言い渡されるとはな
そりゃ離反するだろw

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/13(木) 22:19:12.79 ID:AoUknHpQ
てか、この時は隠岐から上陸してるよね?

770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/13(木) 23:19:04.25 ID:CE7rP0aH
まさに、ちょっと悪い話ですな。感服仕った。

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/13(木) 23:28:06.42 ID:nE/4tcwJ
配流地の隠岐よりも出雲伯耆の方がいいだろうと勝手に気を回した結果だったり

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/13(木) 23:46:38.08 ID:Vi1vt8AD
本領奪われた挙げ句に獲ってもない土地宛がう約束なんて光秀もびっくりですよ

774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/14(金) 05:33:09.65 ID:4E/JZRiI
隠岐にこだわる理由ってなんだろ
流刑地だから意外に中央とのコネクションが出来るのかな?

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/14(金) 07:44:57.63 ID:altq7aPR
>>774
日本海航路の汐待ちとしてはそれなりに便利なんだよ

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/14(金) 08:06:42.05 ID:vaY+nm1n
>>771
その配流地を側近にくれてやる勝久ちゃんwって考えるとお前のレスがおかしいことは理解できるよな。

小奴可家の「久代之地」返還運動

2014年10月27日 18:42

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/27(月) 16:55:53.22 ID:9bjUCH30
広島県庄原市は約3万人の都市である。
元々は比婆郡一帯であり、更にこの郡は恵蘇郡・三上郡・奴可郡が1898年に合併したものであった。

さて、この奴可郡の一部を宮家という小豪族が治めていた。
久代宮家とも言われ、その一族の小奴可(おぬか)宮家は小奴可村などを統治していた。
区別させるために土地の名前を苗字にした。(のちに宮家に復姓している。)
備後南部にも宮家がいるが、ここでは割愛させてもらう。

>>639にもある旗返城の戦いで時の当主であった小奴可隆盛が戦死してしまった。
大内家の実質の支配者である陶晴賢は隆盛の嫡男・盛常がまだ若年であるという理由で「久代之地」を大内家預かりにしてしまった。
しかし、盛常は当時18歳。既に元服を終えた立派な武将であった。

ここから小奴可宮家の「久代之地」返還の嘆願が始まった。

1555年、陶晴賢が厳島の合戦で戦死し、その2年後に大内家は滅亡する。
支配者が大内家から毛利家に変わったことにより盛常としても「久代之地」返還は叶うものと思われた。
しかし、毛利方からの返事はNOだった。

盛常はそれ以降も返還の嘆願を繰り返すも毛利方から色よい返事はもらえずに1573年に亡くなった。

遺志は盛常の子・盛慶に託された。
父が亡くなった時は盛慶はまだ16歳の若武者であり、盛慶も返還の嘆願を繰り返していたがなかなか色よい返事はなかった。

しかしここで最後のチャンスが巡ってきた。
太閤検地である。
検地完了により全ての家臣の本拠地にいたるまで実態把握が可能になり、家臣の知行かえを行う条件は整った。
そこで盛慶は「久代之地」返還の嘆願をおこなった。

しかし、毛利方からの返事はNOだった。
結局久代之地は毛利家の蔵入地になってしまった。

ここに小奴可宮家の38年に及ぶ本領返還運動は幕を下ろしたのであった。



644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/27(月) 21:47:18.66 ID:yAIuWiM8
>>642
よくわからないので教えていただきたいですが、久代の分家が小奴可でしょうか。
それならば、小奴可が討ち死にして久代没収に違和感があります。

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/27(月) 23:49:34.59 ID:9bjUCH30
>>644
久代の分家は小奴可です。久代は備南の分家。
当時は久代が奴可郡に勢力を広げ、小奴可が勢力を衰退していたそうです。
久代が小奴可の所領を横領したためとも。

ここからは私の予測ですが、小奴可も負けじと久代にある久代の所領を横領したものだと思います。
或いは最初小奴可が先に久代の所領を横領したら、久代から逆襲を受けて他の所領を奪われながらも本領と久代にある一部の所領を1553年まで死守していたのではないかと思われます。

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/28(火) 02:31:26.13 ID:+AXdfRiH
武功もないのに返してくれだなんて厚かましいよな
武士なら槍働きで取り戻せ

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/28(火) 03:14:10.06 ID:LNkhyFX0
失策して奪われたわけでもないのに厚かましいとかお前が厚かましいわ

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/28(火) 07:42:02.73 ID:hLpTHbfQ
失策だろ。大内内乱があったとは言え、毛利家はまったく無傷なのに、尼子に走るとか。

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/28(火) 11:31:49.54 ID:cBGp6FXX
太閤検地がどうチャンスなのかわからねえ…

安芸武田氏の滅亡と香川光景

2014年10月01日 19:00

921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/01(水) 12:58:48.12 ID:7JEovelS
安芸香川家は鎌倉景政の子孫にあたり、讃岐香川家の一族でもある。
香川方景の代から安芸武田家に仕え始めた。

方景の曾孫にあたる香川光景という者がいた。
彼が安芸香川家の当主として君臨していたころ、安芸武田家の重臣である熊谷家が離反し滅亡へまっしぐら、家中は分裂状態であった。
そんな中、武勇優れていた武田光和(何故か蒼天録では政治20統率12知略9)が病死してしまった。(光和死亡年は1535年とも1540年とも)

ここにきて香川光景は品川家と対立し、完全に安芸武田家は分裂してしまう。
光景は安芸国内を駆けずり回り、奇跡的に光和の庶子(三男)・小三郎(のちの武田宗慶)を見つけだし、毛利元就に助力を乞い、安芸武田家の復興を目論んだ。

光景は結局これ以降子と共に毛利家に仕えることになり、安芸武田家の復興もできなかった。
しかしながら、武田宗慶は元就によく仕え、その子孫は周防武田家となり今日東広島市と呉市に学校を経営している。

滅亡してしまった仕えた家を後世まで命脈を伝えさせた忠臣のいい話。


と、話はこれだけで終わると思っただろうが、ここで俺は1つ驚きの事実を発見した。
香川光景が国司元相・平賀元相の99歳コンビより長く生きた可能性が出てきたからだ。
光景の次男・春継は1545年生まれ。
弟ともされている勝雄は1515年生まれ。
光景自身は1605年に没したとされている。

彼の生年がわかる史料が見つかればもしかすると新たなる100歳超武将と判明するかもしれない。
たとえ80代・90代と判明しようが、十分長寿だけどね。


宗慶は玖珂町誌より一部抜粋。

922 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/01(水) 13:04:37.28 ID:7JEovelS
安芸香川家一族一覧

経景承久の乱勲功1180~1190生?
景光 1210? 弟景則子孫讃岐香川家
安景 なし?
清景(景信?) なし?
行景 なし?
景光 なし?
遠景 1240
景春南北朝 1280 兄行景あり
景信足利尊氏仕 1320
師景今川貞世属1391明徳の乱 1370?
方景応仁の乱時当主 1420?若くても1440生 かの播磨屋では二代欠落と見ている
吉景 1450~1460生?
元景兄行景1517戦死 1480?
光景?-1605 1505?蒼天録1502生 武田元繁・光和・信実、毛利家仕 伝弟勝雄(学雄と同一人物か)1515生
広景弟春継1545生 毛利家仕

安景~景光の4代は略されて無い場合あり




淡河定範主従5人誠に恐るべし

2011年09月12日 22:08

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/11(日) 23:51:11.33 ID:RYc8rAXG
高さ2尺5寸の大手門とか、刃渡り24cmで柄の長さ150cm余りの「大まさかり」とか、変な物が続出の「播州太平記」にあった話ですが・・・。
雌馬を用いた計略で羽柴勢に煮え湯を飲ませた、淡河(おうご)定範の最期。


三木城の合戦の折、城へ兵糧を運び込もうとした毛利の援軍は、平田の付城を攻撃。
この戦いは駆けつけた羽柴勢と、三木城を打って出た別所吉親勢との激突に発展。別所方は壊滅し、多くの士卒を失ってしまう。
この時の別所勢には淡河定範の姿もあったが、すでに主従5騎を残すばかりになっていた。
細道を伝って三木城へ落ち行く定範主従に敵兵二十騎余りが迫り来る!

「我々はこのように手負いの身であるから、新手の騎馬武者と戦ってもいいように駆け倒され、むざむざと犬死することは必定。
そこで、これより一つの計略を行う。」
定範は郎党にそう囁くと、主従5人は手を組んで、互いに刺し違えた風を装って一箇所に倒れ伏した。

これを見つけ、「かの淡河定範の首を切り高名手柄にせん」と、我先に首を取ろうとする追っ手たち。
定範主従は伏しながらその敵兵たちを切り払うと、たちまち5人を倒してしまう。
追っ手がこれに大いに驚き、うろたえ回る所を切り払い、追いかけては切り立てたものだから、追っ手は散り散りに逃げ失せてしまった。

そして主従5人は討ち取った敵兵5人の首を前に並べ、列座して腹を掻っ捌いた。
それぞれ太刀の鎬を大地に付き、柄頭を自分の腹に差し込み、ことごとく生きたようにして息絶えたのであった。

敵勢はこれを見て、「淡河定範主従5人誠に恐るべし。雌馬の計略といい、今度の計略といい、村上天皇の後胤・淡河弾正の最期憐れむべし」
と、惜しまぬものはいなかった。




南条宗勝の左手は

2011年08月01日 23:01

949 名前:南条宗勝の左手は 1/2[sage] 投稿日:2011/08/01(月) 13:47:47.31 ID:ICRj47dP
天文の頃、尼子軍と山名氏の重臣・武田山城守国信が激突した橋津川の戦いで、
尼子に羽衣石城を奪われた南条宗勝は、国信に加勢して戦った。

橋津川にかかる橋の上に立った宗勝は、尼子軍の名だたる将・吉田左京亮を撃退する等活躍を見せたが、
逃げる左京亮を追いかけようと武田軍が橋に殺到すると、橋は重さに耐え切れず、武田軍ごと崩れ落ちた。

形勢は逆転。武田軍の、ある者は溺死し、ある者は川岸からの尼子軍の攻撃により討ち取られたが、
ひとり泳ぎの得意な宗勝のみは、そのまま下流に向かって流れ、逃げ延びた。

夕暮れになり、ついに海に泳ぎ出た宗勝は、運良く漁師が何人か歩いているのを見つけた。
「おーい!南条豊後じゃ、助けてくれい!」
「なに、南条殿じゃと・・・暗くて顔がわからん、証拠はあるか!」
「あるぞ。これを見よ!」
宗勝は、自身の左腕を漁師たちの前に差し出した。
「おおおおお!!間違いない、噂に聞く南条豊後守じゃあ!!」

差し出された左腕には、二の腕から先が無かった。先の橋上での奮戦も、槍の柄を左腕に結びつけ、
右腕のみで槍先を操っての活躍だった。

950 名前:南条宗勝の左手は 2/2[sage] 投稿日:2011/08/01(月) 13:49:15.14 ID:ICRj47dP
実は昔、こんな事があった。伯耆羽衣石城主・南条宗勝のもとに、対立する岩倉城主・小鴨掃部助から
和睦の申し出があり、両者は小鴨の館で酒宴を行なうことになった。しかし宗勝は油断せず、
「数年来争ってきた小鴨が、突然和睦を申し出るのはおかしい。みな用心いたせ。」と家臣に言い含めた。

和議は滞りなく進み、その後の宴もたけなわとなった頃、掃部助が杯を宗勝に差し出した。
「ささ、まずは一献。」
「これはかたじけない。では、ご返杯を・・・」
返杯を受けた掃部助は、その酒を宗勝の顔にブチまけた。宗勝が酒をぬぐった時には、
掃部助は太刀を抜き、宗勝の頭に白刃が迫っていた。

迫る白刃に対し、とっさに宗勝は左の肘で受け、右手で脇差を抜いた。宗勝の左手は斬り飛ばされたが、
その脇差は深々と掃部助の身に突き刺さり、返り討ちに成功した。

陰謀が失敗したばかりか、主君を一刀のもとに倒された小鴨勢はすっかり浮き足立ち、あっという間に
南条家臣によって制圧され、南条氏は小鴨氏を傘下に収めた。(陰徳太平記より)


居城を尼子氏に奪われ、毛利元就の庇護を受けて奪還するまで三十年の長きにわたり放浪することになる
南条一門だったが、浪々の身の彼らを『武辺の家』と称える者はいても、そしる者はいなかったという。





951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/01(月) 15:13:33.74 ID:poJMtQBe
これはかっこいい
一瞬の判断でこれほどの立ち回りができる人間は当時でもそう居ないんじゃないか

952 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/08/01(月) 15:32:13.10 ID:u7Wx0xSf
こんな豪傑がいたとは知らなんだ。
大して人気の無い地方のマイナー武将にも、調べればたくさんすごい武将が出てくるんだろうね。
いろんな意味で感心した。

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/01(月) 19:35:36.36 ID:8ecITFxS
>>949
グッときた。
信長の野望で南条さん見かけたら厚遇してあげよう。

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/02(火) 00:01:28.40 ID:g6nddLkA
>>954
でも天道の南条一族は得意兵科が弓だからちょっと使いにくい。

956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/02(火) 01:12:29.96 ID:l+2/5nWM
逸話読んだ限りじゃ水陸両用の格闘タイプなんだけどな

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/02(火) 17:43:21.80 ID:ellNb42h
南条さんはズゴックだったのか

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/02(火) 18:10:13.31 ID:K57faLED
あっがいたんの可能性も

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/02(火) 19:47:56.52 ID:chf7pRhz
流石南条だ、腕一本斬り飛ばされてもなんとも無いぜ。

こういうことですかw

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/02(火) 19:59:41.87 ID:0xbE4XrX
>>959
そう言われると
シグルイ原作者で武士道残酷小説の大家
が思い浮かぶから困る

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/02(火) 21:13:10.93 ID:r6MOEwOm
南条一族はしぐるひ也

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/02(火) 21:28:23.81 ID:zkUo+7WS
あーいう主君には絶対服従な武士像って昨今流行らんよね

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/02(火) 22:52:24.31 ID:zq5+oLQ7
合法的な常時競争社会ですしおすし

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/02(火) 23:23:42.68 ID:lI1dzL8V
>>962
その事にちょっちつまらんと思うこの頃

戦国のオオカミ少年?

2011年07月19日 23:04

53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/19(火) 13:01:21.81 ID:EFQZY4E4
戦国のオオカミ少年?

天文三年(1534)、毛利勢は現在の福山市にあった国人、宮氏の城を攻めていた。
しかしながら、宮氏の城内に丹下与兵衛という剛の者が居り、出撃の都度毛利勢を苦しめていた。
というのも、この男には得意技があった。
この男は戦場に出ると負傷したフリをして倒れてみたり、刀を杖代わりにして片膝をついてみたりして、
「手負いを見つけるとは儲けモノ。」と敵兵が油断して近づいてきたところで、立ち上がり逆に討ち取る
という手を多用していた。
しかし、ある時本当に重傷を負ってしまった与兵衛。
味方に助けを求めるが、味方はもちろん与兵衛の得意技を知っていたので「与兵衛が例のアレをやっておるぞ。」と
誰も助けに来てくれなかったのだ。
そして、程無く毛利勢に本当に負傷していると悟られて万事休す、与兵衛は大勢の毛利兵に襲撃され
討ち取られてしまった。





55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/19(火) 13:56:52.38 ID:aMo2WNoA
>>53
まさに因果応報

洋の東西を問わず、武士が戦いに道徳みたいなのを持ち込むのは
自分達の身を守る意味もあるかもしれんね

松田左近元堅の滅亡

2011年07月17日 23:03

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/17(日) 21:35:33.13 ID:Hft/qoTe
備前金川城主・松田左近元堅は、領内に日蓮宗を強制して領民に疎まれていたが、家臣に恵まれており、
敵にも薬を配る仁将・横井土佐守や、知謀をもって知られる宇垣市郎兵衛・与右衛門兄弟などが家中を固め
その勢力、磐石であった。

永禄11年(1568)のある日、元堅が長男の舅、宇喜多直家とともに鹿狩りに出た時、事件は起こった。
何者かが鹿と誤って(?)宇垣与右衛門を狙撃してしまい、与右衛門が即日死亡してしまったのだ。
松田家は、大いに揺れた。

「与右衛門の死は、宇喜多の手の者の仕業に相違ない!」
「何を言うか、若殿のお舅どのを疑うのか!」

家中は揺れ続け、納得の行かない与右衛門の兄・市郎兵衛は松田家を出奔してしまい、事態収拾を図って
元堅が領内を説得のため渡り歩く日々が続いた。

そして、7月5日の夜。「…?!城内に火の手が上がっておるではないか!何事だ、出あえーぃ!!」
横井土佐が驚くのも無理は無い。近隣の領主・伊賀久隆の兵が城内からの手引きにより、
堂々と大手門より侵入していたのだ。横井が気づいた時には、すでに先鋒が本丸に迫っていた。

その日も城外にいた元堅は知らせを受けて、あわてて搦手門から城内に入り、伊賀久隆その人の姿を
認めると、櫓の上から身を乗り出して罵った。

「久隆よ、そなたも直家殿の婿。縁戚たるわしに何をする?!卑怯者め、何を考えての狼藉だ!!」
「答える必要は無い。やれ。」

櫓から身を乗り出していた元堅は絶好の的となり、伊賀勢の鉄砲隊によって射殺された。
残された横井土佐以下の家臣は全員討ち死に、何とか城外に逃れた元堅の長男・元賢も伊賀勢の追っ手に
阻まれて斬り死にし、その一報を聞いた妻である直家の娘は、自害したという。(備前軍記より)


まぁスカッとするかはわからんけど、何回も話題になってる話のハズなのに、逸話そのものは
まとめに上がってなかったようなので。

ちなみに直家さんに「キミと同じ、オレのムコ殿を滅ぼしたいんだけど、どう思う?」と聞かれて
「あー、イイんじゃないスか。オレ手伝いましょうか?」と即答して先鋒までやってしまった
伊賀久隆がその後どうなったか、言うまでもない。 >>20





38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/17(日) 23:23:42.06 ID:q41uQ2uQ
悪名がまさに悪い方へ響いた話、かなぁ
穿った見方をすれば直家さん大勝利!だけど

村上水軍の黄昏

2010年07月18日 00:01

916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/16(金) 23:25:13 ID:Gx/9XZvj
では海賊衆の黄昏の頃のおはなし


天正14年(1586)4月、豊臣秀吉は九州攻めに先立ち、瀬戸内海における海の関所を全廃。
翌天正15年6月には、有名な『海賊禁止令』を発令した。

ところが当時、ルイス・フロイスから「日本最大の海賊」と呼ばれた
能島海賊衆の頭領、村上元吉は、そんな事はまるで気にしなかった。

能島海賊はその後も堂々と通行料を徴収し、6月下旬には秀吉に屈服し大阪に向かう
薩摩島津氏の船からも、通行料を取るという事件を起こした。

これには秀吉も激怒し、村上元吉の行為を「言語道断の曲事」と糾弾する。

ところがこれに村上元吉の取った態度は

「我々が通行料を取っている?そんなバカな?証拠はあるんですか?」

と、とぼけ、知らぬ存ぜぬの一点張り。さらに秀吉子飼いの大名である戸田勝隆や福島正則を
味方にし、自らの行為を弁護させた。
どうも元吉、ぐだぐだと言い訳を続けていれば、大陸出兵の構想などから水軍を必要としている
秀吉はそのうち折れざるを得ないだろう、と考えていたようだ。

が、そんな埒のあかない状況に業を煮やした秀吉は、翌天正16年3月、ついに腹を固めた

『能島の村上家は、小早川隆景の領国、筑前の加布里に転封を命ずる!』

こうして「日本最大の海賊」、村上衆は、その本拠地、能島から引きはがされた。
同年7月、豊臣政権は改めて海賊停止令を発令する。

戦国の海に勇名を馳せた村上海賊の、あまりにあっけないその最後についての顛末である。





917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/16(金) 23:36:57 ID:J+p8M2iI
今日的な目から見ると、ラスボス相手にこういう駆け引きするのは
6発詰めたロシアンルーレットみたいなもんだよね・・・

918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/16(金) 23:42:13 ID:kKum33vO
隆景がしっかり手綱握っておかないから…

919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/16(金) 23:43:31 ID:JbFN6O2d
村上水軍に限らず一癖も二癖もある奴等をまとめようってのは大変だっただろうなぁ

後藤勝基の妻

2009年12月29日 00:39

611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 00:52:57 ID:8ml9UIRG

後藤勝基の妻

天正七年4月上旬、宇喜多直家は重臣花房助兵衛・延原弾正に
娘婿で浦上宗景の重臣である後藤勝基が篭る三星城を攻撃させた。
しかし勝基はよく奮戦したため寄せ手は攻めあぐね、一旦兵を引いた。

その後援軍として到着した宇喜多詮家を交え軍議を開き、
城内の様子を知るために長光寺の僧を招き話を聞いた。
その僧は

「城内には安東相馬・難波利介・柳澤太郎兵衛という勇士がございます。
彼らがいる限り城は落ちないでしょう。もし計略をもって彼らを寝返らせることができたら、
落城すること間違いありませぬ。」
と進言した。

そこでその僧に頼み、この三人に内応すれば恩賞望みに任すとの旨を伝えさえたが
安東は納得したが他二名は納得しなかった。

それから四~五日が経ち、人々も安東の変心を察したのか、何となく城中は騒ぎ立ち、
疑心暗鬼となり、結束が弱まってしまった。
勝基は妻を招き

「近頃城内の気風は変わり、士卒の心は和合せず互いに疑心を深めている。
これでは到底篭城を続けることは出来ぬ。余が自害し、城内の者の命を助け城を明け渡そうと思う。」

と語った。
妻はそれを聞き勝基を諌めてこう言った。

「貴方の御覚悟は決死て時宜を得たものとは損じませぬ。
誠に無益の御自害と申せましょう。この期に及び敵に寝返るような武将は尋問して確かめ、
罪状明らかならばこれを殺し、士卒の心を静めたならば篭城を続けること何で困難でありましょう。
ここは私にお任せくださいませ。」

そしてその晩のこと、奥方は頭分の侍に料理を振舞うと称し
安東・難波・柳澤及び長光寺の僧を呼び広間で料理を出し、囲碁等をしているところに
侍女が菓子を持ってきて

「奥方様よりの下されものでございます。」

と安東に渡した。
安東が座を退き、菓子を頂戴しているとき勝基の妻が物陰より
急に現れ、一刀のもとに安東の首を打ち落とした。
しかしこの事を誰にも漏らさず、密かに隠していたので、城内でこの事を知る者は誰一人いなかった。

そして翌朝
大手門外に安東の首が晒されていた。
これを見た敵方に内応をしようとしていた者や変心した者は震え上がり、決心を翻した。
そしてまた心をひとつにした城方は宇喜多の大軍を相手に奮戦したという。

流石宇喜多直家の娘といった感じでしょうか。




613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 01:06:46 ID:pdElsfMA
>>611
でも結局落城して後藤勝基も妻も自害しちゃったんだよな

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 12:02:57 ID:ODcq0ctN
>>611
さすがに富田信高夫人の従姉妹だけあるなw
(富田信高夫人、関ヶ原戦役で富田信高が敵の武者に組み敷かれて討ち取られかけた時、
突如あらわれて、相手武者を討ち取り、富田信高を救出)



奥様リンク(しかも親戚同士)
富田信高と謎の黒武者の正体・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1432.html
雑談・岡山だと…
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2947.html

江戸期の長船

2009年09月21日 00:40

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/19(土) 22:49:58 ID:/9Iu9FQG
刀関連でなまくらな刀を指す言葉に「束刀」という言葉がありますが・・・

信長が長船から招いたのは祐定で、入念作には年記と俗名(この場合は藤四郎か?)が
銘に刻んであるのでこれは貴重。しかし天正18年8月の吉井川の大洪水で長船は
藤四郎祐定を除いて全滅。
息子七兵衛、源左衛門らはまだ子供だったが何とか長船復興のため尽力した。
小早川秀秋が備前に封じられるとお抱え鍛冶として禄二百石を給せられ、領主が
池田輝政に代わっても召抱えられた。

しかし寛永9年、池田家が因州鳥取に国替えとなり父祖の地を離れる事となる。
だが鳥取に移住してまもなく、岡山藩の光政が鳥取藩の光仲に「祐定を岡山に返せ」と
身柄の返還を要求。
岡山の光政は本家であり、鳥取の光仲は分家であることからこの要求は受け入れられ、
祐定は喜んで故郷に帰るのであった。が、しかし・・・光政からの俸禄はわずか五人扶持・・・

藤四郎祐定の子孫達は食うに食われず、鉄砲鍛冶や野良鍛冶に転向する者も出、
刀を作り続ける者も、井上真改、津田助広など人気の大阪鍛冶に圧されて、食うためにとにかく
量産を始める者もいた。作っては質屋に持ち込むのである。

質屋は幾らでも買い取ってくれるのでとにかく作る。それを奈良の商人が買い取り、
縄で数十本単位で束ね、馬に乗せて買っていく。買われた刀は奈良で新たな銘を入れられ、
土産物として門前町などで売られた。

これが束刀の由来である。

ここで何が悪い話かというと、長船鍛冶全滅の原因となった吉井川の洪水は、上流の山の木の
過剰な伐採により、土壌の保水力が失われ、がけ崩れによって川の流れが堰き止められた
あげくにこれが決壊したものだった。
なぜ伐採が行われたかといえば、鍛刀の際に必要な大量の炭を得るためであった。
刀剣王国備前の栄枯盛衰なお話。

ちなみに、長船祐定はとにかく数が多く残っているので、偽物を作るメリットなんてありませんよ。
俗名入りは別ですが。




593 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/19(土) 22:58:38 ID:9YHcOYaZ
>>591
加藤清正が、娘が嫁入りする時に持たせた大御槍もたしか長船祐定でしたな。

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/19(土) 23:36:34 ID:Xubbu+/r
吉井川の上流が津山な件

595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/20(日) 00:05:24 ID:NEbJkyK0
むしろそんな過酷な状況に何度もあっても残るからこそ名刀なのでは

596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/20(日) 00:14:48 ID:dvGV8UAO
>>591
名の無い刀でもたまーにすごいのがあるって言う理由は
生計を立てる為、一昔前の名工がまじってたって訳か