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黒瀬山 峰の嵐に 散りにしと

2022年04月21日 17:55

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/21(木) 15:01:14.99 ID:P7oGifBM
「黒瀬山 峰の嵐に 散りにしと 他人には告げよ 宇和の里人」

 戸田勝隆に旧領安堵と音物を携えた使者が訪れ、大津(大洲)まで出頭する事になった西園寺公広が出立前に残した辞世の句です。

 この時、扈従する護衛十名は若輩の小姓も含めて全てが主君に殉じる覚悟の者ばかりで、公広自身が伯耆安綱の太刀を二尺六寸余りの無銘に大磨上げした刀を差し料として、斬り死を覚悟していたと。

 時世には、伊予西園寺家の滅亡は季節が移ろうように逆らい難いものであり、騙し討ちに遭うのも騙されて殺されるのではなく、避けがたい天命なのだと覚悟している心境を詠ったと。

 ……覚悟の上でも、呼び出しを無視して自害するのではなく、刺客を道連れに全力で斬り死する公家出身で僧侶上がりでも戦国大名だった西園寺公広の、戦国時代らしいお話。



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西園寺公広の最期

2022年04月21日 17:55

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/21(木) 14:48:17.33 ID:P7oGifBM
西園寺公広の最期

公家の西園寺家から分かれた伊予西園寺氏、その最後の当主である西園寺公広は元は伊予来住寺の僧侶だったが、従兄の戦死により伯父の婿養子として還俗。

長宗我部氏に降伏後は、豊臣家の四国征伐でも戦わずして小早川隆景に降伏。九州征伐には小早川勢として従軍し、降伏後も居城である黒瀬城に留まる事を許されていたのだが。

小早川隆景が九州に移封され、戸田勝隆が南予を領するようになると、情勢は一変する。

天正十五年(1587年)八月には、西園寺旧臣の過半である三十八名が城から下城が命じられ、十二月には西園寺家も土居・勸修寺・法華津の有力家臣と同様に城から去るように命じられる。

その後の南伊予の統治は、東・中予を任された福島正則と異なり東北の葛西・大崎一揆と同様の事態に。よそ者である戸田家と急遽として取り立てられた軽輩上がりの家臣により、リアル北斗の拳状態と化す南予。
土地は農家も寺社も構わず好き放題に横領され、女と見れば他者の妻でも娘でも容赦なく攫い、飽きれば捨てられたり売られたり吊るし斬りにされ、少しでも抗議すると「御公儀への謀反」と見做されて一族が磔に。

この状況下で南予の地侍達は「天下を相手に敵わないのは承知」で「座して嬲り殺されるよりは」と蜂起。

これに対して戸田勝隆、独力では鎮圧できなかったが板嶋沖の九島・願成寺で蟄居している西園寺公広の身柄と小早川隆景の傘下で九州に従軍した時の軍功で所領安堵の朱印状が出る事を仄めかして、西園寺家中で最有力な家臣であった土居清良に同朋の国人一揆を鎮圧させた。

「これでもう、西園寺公広を生かしておく理由は無くなった」

戸田勝隆はそう判断した。

十二月八日、「毛利家と小早川家を介して、九州従軍の軍功により黒瀬城と旧領を安堵する朱印状が出た」と音物を携えた使者を使わす。
翌日、旧臣十名を従えて大津城(後の大洲城)に訪れた西園寺公広。元僧侶で公家大名の五十一歳など、容易く自ら仕物にかけれると侮っていた戸田勝隆は、護衛も公広も一分の油断も隙もない事に絶句。
九日は宇和島から大洲まで移動してきた所労を労うと宴を催し、十一日に大洲城の御殿ではなく重臣・戸田駿河守の屋敷で朱印状を渡すのと偽って護衛を屋敷の玄関と次の間に控えさせ、公広単身を戸田駿河守以下で押し包んだ。

公広、二尺六寸余りに大磨上げされ無銘の安綱の佩刀を抜刀するや、即座に戸田駿河守を最初に斬り、満身創痍となりながらも同室の刺客九名を全て討ち果たすや、戸田家中の包囲する客殿で自害。次の間と玄関に控えていた小姓を含む護衛十名も五十数名を道連れにして全滅。

翌年、戸田勝隆は領内の大百姓や寺社の全てから人質を取り、武芸に秀でたと評判の者は罪状の有無に関わらず悉く殺害。
ごく一部の有力者のみ家臣に取り込み、南予支配を進めていく事になる。

以上、謀反など企んでいなくても、その実力があるだけで罪だという豊臣政権下での地元民に対する扱いが悪い話。

尚、公広の安綱は豊臣秀吉に献上された後で西園寺宗家に贈られ、今は愛知県名古屋で東建コーポレーションの刀剣ワールド財団に現存しております。



いぬる いぬる

2022年02月13日 16:06

339 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/12(土) 23:28:09.16 ID:nZ1BKNY5
いぬる いぬる

愛媛県今治市阿方にある延命寺は行基菩薩が開いて後、嵯峨天皇の勅願によって弘法大師が再会されたと言われているがその昔は今の延命寺より四キロほど北の近見山の山頂にあり、
現在の場所に移ったのは享年十二年(1727)のことで、都合六度目の移転になるという。

さて、そんな延命寺には寺の梵鐘と御本尊である二尊の明王像についての逸話がある。

戦国の時代、豊後国臼杵の大友の軍勢が乱入して延命寺の梵鐘と不動明王、四大明王の二童子が持ち去られたことがあった。

梵鐘は戦争の際に大友軍が相図に使っていたが、夜がくると決まって自然に「いぬる。いぬる」と鳴り出し、また一説には梵鐘を叩いた際に、
「いぬる」(帰る)「いぬる」(帰る)と言う音色で鐘が鳴ったとも言われ、いずれにせよ後難を恐れた大友方は、舟に積んでもとの所へもどしにやってきた。
ている。
ところがどうしたはずみか大友方が延命寺へ向かう途中に舟が自然に傾いて、梵鐘は海中深く没してしまった。

このため長きに渡って延命寺には梵鐘が無かったのだが、宝永年間(1704-1710年)に新たな梵鐘が作られて今日に至っている。
この鐘も松山藩が徴発して大砲の材料にしようとしたことがあったのだが、城に運ばれて片隅に置かれた梵鐘が自然と「いぬる」「いぬる」と
鳴ったため、元に戻されたのだという。

一方で大友方が梵鐘とともに持ち去った二尊の明王像であるが、こちらは城内に安置して護持を行ったところ夜が来ると奇光を放つので
恐れた大友方によって密かに延命寺のある近見山の麓にある谷へ返されたという。

すると不思議なことに、自然と近見山の山谷がひどく鳴動したり怪しげな光が天を衝くと言った奇妙な現象が重なることとなり、
怪しんだ僧侶がこの二大明王像を見つけて本堂に還座したところ、奇異な現象はぴたりと止んだのだそうだ。

そして、それから寺が火災に罹った時にもこの二大明王を祭っている本堂は火災から免れたそうである。
二大明王はその後いたみがひどく大部分は修理された様子であるが、現在も御本尊として祭られている。

34.不思議な梵鐘と二大明王
https://www.imabaricci.or.jp/%e4%bb%8a%e6%b2%bb%e5%9c%b0%e6%96%b9%e3%81%ae%e4%bc%9d%e8%aa%ac%e9%9b%86/#husigina

340 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/12(土) 23:35:40.26 ID:nZ1BKNY5
さて、この話は実はこれで3度目?の投稿となる。
かつて投稿された2つの話

「いや~ん、いや~ん」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8422.html

「いぬ~いぬ~」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8397.html


この2つの話のうち、「いや~ん、いや~ん」の方は同じ延命寺(四国霊場五十四番札所)の話で梵鐘を盗んだのは長宗我部元親の軍である。
また、「いぬ~いぬ~」の方は讃岐国分寺(四国霊場八十番札所)の話で鐘を取ろうとしたのは生駒一正とされている。

この話では大友氏が盗ろうとした話になっているのだが、一体どれが正しいのやら・・・。

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/12(土) 23:46:40.10 ID:hTHzdgBs
八十八箇所・五十四番札所の延命寺(えんめいじ、今治市)の
ひとつ前の、五十三番札所が圓明寺(えんみょうじ、松山市)でややこしい
なおその延命寺、元は圓明寺だったらしい

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/12(土) 23:48:14.32 ID:hTHzdgBs
「いや〜ん、いや〜ん」の方を読んだら書いてあった、失敬




343 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/13(日) 09:48:53.33 ID:8Njgkb2G
    __,-─-、__
   (〆-─-ヽ)
    ( ´・ω・` ) 狸じゃ、狸のしわざじゃ!四国だけに
   /  ,r‐‐‐、ヽ
    し l  x )J
   _.'、 ヽ  ノ.人
 (_((__,ノUωU. (酒)

「女郎が淵」

2021年08月24日 17:23

瑠璃姫   
958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/24(火) 15:54:45.59 ID:G7GDo+f3
伊予国大洲の米津に、津々喜氏の居城である米津城(滝之城)という城があった。切り立った崖の上に有り、
難攻の城であったという。近辺に白滝という場所があり、そこは城主らの遊園の地であった。

しかし元亀元年(1571)秋、ここに土佐長宗我部氏の軍勢が襲来した。これに城方は懸命に抗戦した。
城主の奥方であった瑠璃姫は清流長刀の指南であり、さらに吹き矢については神業と言われるほどの
腕前であった。また彼女の娘である八重姫、九重姫は八双手裏剣の名手であり、彼女らも大いに奮戦した。

そして瑠璃姫の吹き矢に苛まれた長宗我部軍はジリジリと後退を始めた。
これを見た瑠璃姫は侍女に「もう一息です、残った吹き矢をすべてここに持ってきなさい!」
と命じた。ところがこの時、吹き矢を運んできた侍女の一人がこのように叫んでしまった
「瑠璃姫様、残りの吹き矢はこれだけ、十数本しかございません!」

この叫びは長宗我部軍の耳にも入った。彼らは吹き矢が残り少ないことを知るとたちまち勢いを
盛り返し、城は遂に落ちた。瑠璃姫らは城主の嫡男である尊雄丸を連れ、どうにか白滝の雌滝の上まで
逃げたものの、追手は迫り、瑠璃姫は「もはやこれまで」と、八重姫、九重姫を呼んで言った

「尊雄丸が敵に捕らえられる辱めを受けるのは不憫です。私はこの子とともにこの滝に身を投げます。
あなたたち姉妹は後に生き残り、我が一族の霊を慰め、冥福を祈るように。」

そして追いすがる二人の姫を振り払い、尊雄丸とともに身を投げ滝壺へと消えた。
残された二人の姉妹は母の言いつけに従って逃げ延び、後にこの地に、瑠璃姫と尊雄丸を祀る
観音堂を建立した。
これ以来、この白滝に住む者達は毎年十一月二十三日に「瑠璃姫祭り」をして、二人の霊を慰めるのだという。

伊予国大洲の伝説「女郎が淵」より



959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/24(火) 16:48:43.03 ID:yM+0MafG
読み方は米津(よなづ)なのか
徳島の作詞作曲家の影響で「よねづ」と呼びそうだった

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/24(火) 20:25:10.88 ID:IXgKP0fT
>>958
長刀はまだ判らんでもないけど姫が吹き矢の名手って設定はどうなの?
娘に至っては手裏剣の名手だし忍びの者か何かなの?
素性が気になってしかたないんだけど
さらに吹き矢で後退する長曾我部軍ってのもなんだかな…
シチュエーションが判らないけど…竹束とか板盾とか無いんです?

961 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/24(火) 21:04:22.20 ID:vkouVMX0
吹き矢とか手裏剣なんて戦ではさほど使えないだろうしそこら辺は後世の創作でしょうね
お話としては面白いけど

962 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/24(火) 21:08:51.24 ID:02N8vyrY
>>960
>>958の
>切り立った崖の上に有り、 難攻の城であったという。
ここだけ読めば竹束や板盾持って攻めるのは不向きだと思うけど?
実際に調べてみたけど標高は低いが攻めるには難儀しそうな山城跡に思うよ。

津々喜谷氏 るり姫(ソース?)
http://pipinohoshi.blog51.fc2.com/blog-entry-134.html

白滝で祈る:るり姫伝説第2話
https://makild.exblog.jp/13068713/

伊予 米津城の写真集
https://www.hb.pei.jp/shiro/iyo/yonazu-jyo/thumb/

970 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/24(火) 22:55:34.81 ID:kYsNSRET
リアルな話をすると逸話に書かれてる1571年は長宗我部元親もまだ伊予に攻め込むどころではないし、一条氏を倒してから1578年くらいに大洲市の南の宇和郡に攻め入ってるからちょっと話に疑問符付くんだけどね。
でも、女性だって投擲術なら会得しやすそうだし中国地方や九州、同じ伊予でも戦国期に武装して戦った姫と女中達の話は有るんだから寄手が何処まで苦戦したとか誇張の有無は置いてもそう言う話が有っても良いとは思うし、その方が一々非現実的だと断じるよりも浪漫がある。

伊予のマイナーな女武者

2021年07月10日 16:59

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/10(土) 10:15:35.92 ID:BZ3fWSNL
伊予のマイナーな女武者

慶長5年、伊予の国。惣津化粧城とも呼ばれる羽賀屋敷に暮らしていた羽賀台女が、男装して軍役に従事する。

彼女の父は天正14年の四国征伐で小早川隆景と戦い落城した木戸直周の娘で、武勇に優れて周囲に恐れられていた。

関ケ原の合戦に従軍した彼女は、帰還に際して市一之壺に神体を納め、牛の角・鏡・平貝石などと祀り、應神天皇を氏神とする正八幡神社と称した。

後に慶長18年、宮中より仲哀天皇・景行天皇・日本武尊・神功皇后・成務天皇を祭神として勧請し、帝王五社大明神と称した。

羽賀女も後世、羽賀大明神として末社に祀られ、今でも愛媛県砥部町に正八幡帝王神社として、戦国から江戸初期を生きた女武者は祀られている。



伊予のマイナーな女武者の最期

2021年07月10日 16:58

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/10(土) 10:28:05.01 ID:BZ3fWSNL
伊予のマイナーな女武者の最期

木戸直周の娘である羽賀女は、父の城が落城後は羽賀屋敷で暮らし、周囲からは惣津化粧城と呼ばれた。

関ケ原の合戦では男装して従軍し、軍役を果たした彼女は應神天皇を祀って正八幡神社と称し、慶長18年には宮中より他の祭神を勧請して帝王五社大明神と称し、両社を奉祀していた。

そんな彼女の武勇を恐れた住民の中の悪者が、夜間に竹槍を繰り出して羽賀女の片目を貫いて殺害してしまう。

末期に羽賀女は、残された隻眼で仇敵を睨みつけ

「この恨みは片目の蛇となって、七生まで忘れまじ!」

と言い残して息絶えたという。

悪者は恐れて竹槍を井戸で洗い、その井戸は「飲まずの井戸」と呼ばれるようになった。

後に羽賀女は羽賀大明神として祀られ、明治42年に正八幡神社と帝王五社大明神が両社合併した時には、末社に合祀された。



841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/11(日) 16:36:50.41 ID:sJEq2hA8
>>836
大野芳我台(はがたい)と同一伝承?

名前、父親の諱(大野直周と木戸直周)、総津の城、
関が原に参戦、正八幡帝王神社、片目を負傷して死亡と大筋で共通点が多いし

842 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/11(日) 19:04:35.80 ID:0/jdLDzM
鉄は「くろがね」と読みます、後に黒金とも

戦後の政治家、黒金泰美はその子孫
池田隼人の側近衆で大平、宮沢の先をいっていましたが
汚職事件で失脚、映画にもなるほど
それで例の漫画では無視されてますね

843 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/11(日) 21:33:01.07 ID:0/jdLDzM
>>841
なるほど、まとめサイト過去記事の「四国の戦乙女の話をしよう。」ですね

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/12(月) 20:42:03.85 ID:o6BPcFLa
>>841様。

 ご教授忝く。四国の神社の逸話に乗っている分では、父の苗字が木戸になっていて、羽賀台についても「武勇を恐れられた」程度で狂暴だったみたいな記述は無かったので。

 逸話集では芳賀屋敷の脇には化粧水之井と呼ばれる泉があるとか、今も付近に片目の蛇が現存すると。

今はいかがしているのだろうか。

2016年07月02日 18:02

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/02(土) 03:49:42.28 ID:JcIZKTr9
 徳島侯の中に、阿波の公方と号する者が久しくいた。
近頃この公方の子を又太郎と称すると聞く。
この公方のことを高家の方々に話として出すと、

「これも初めは私達の同族である。この又太郎は今も存命で、年は八十余りと聞く。」


 と答えられた。それにつき、この公方のことをこれまでかれこれ人から聞いた。
初めは尊氏正統の種であり、蜂須賀氏がまだ家を興す前、
遂には世の隙を窺って一旗挙げようと思っていたが、
家柄が低いのでは人心が服従できないだろうと慮り、将軍の種を擁立して、自分の家を耀かせようとするため匿っていた。
しかし、神君の御輝きが盛んなので将軍の種の光は消え、
蜂須賀もその御恵みを受けているので、言い出せる状況でもなくなっていた。
歳月が移るにしたがって初めの尊崇のようではなくなり、おのずから公方も意のようにならず、
後にはしばしば不足を言い出した。
蜂須賀も家に不自由がないので、ろくに阿波公方の望みに取り合わなかった。
阿波公方はきっと蜂須賀氏は自分を留めるだろうとして居場所を去ったが、
思いは外れ、今は厄介となった公方を留めもしなかった。
〔宮原の話では、このとき蜂須賀氏から出奔届を官に出したという。
この前までは、蜂須賀氏は参勤や帰国とかのときは、定例として金四百両とかを
土産として贈っていという〕
 
 こんなことなので阿波公方も心当て違いとなり、ついに阿波に帰らず、京
か大阪かの政所に出訴した。
政所は関東へ伺ったが、喜連川をはじめとした足利氏も多くは御養われてるので、
もはや御用にもなく、取り上げるものはなかった。
阿波公方は仕方がないので、いよいよ流浪の身となり所々漂流することとなった。
食べる道もなかったので、縁のところと相国寺を頼んで身を寄せてみたけれど、
阿波公方には、子又太郎、娘等数人おられるので、
相国寺も困り十三の塔頭の院に順番に食住させることとした。

 あるとき等持院の番の時に、阿波公方一行がこの院に集まっていると家内から失火し、
持ち伝えていた尊氏の甲冑、後醍醐帝の綸旨、大塔宮の令旨等、古文書、旧来の武具等が、
ことごとく焼亡したという。
正しい尊氏の後胤として場所があっただろうに、等持院にいて自ら火を出し、
これらの物を焚亡させたのは、鬼の怒りか、あるいはまた南帝の御祟か。

 この又太郎というのは、身長六尺を超え、勇力がありよく強弓をひく。
女は容色優れていて和歌に達し、かつ伎舞ができる。
ある人が言うに、流浪の日々で、華洛の間を徘徊してこの技を為せることができたと。
あるいは歌学の師となって児女に教えたこともあったという。

今はいかがしているのだろうか。
(甲子夜話続編)

う~ん、もったいないですねえ




796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/03(日) 18:48:52.16 ID:h0JGpIkg
義栄って子供か弟がいたんだっけ?

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/03(日) 20:45:01.19 ID:YWWS8QRs
実際には蜂須賀さんが…

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/03(日) 21:19:49.86 ID:vqIfI3Im
喜連川なんて鎌倉公方の末裔で男系だとさらに傍流の小弓御所の子孫
だから足利とか名乗るのは恥ずかしいレベルだけど
だからこそ担がれてる感じがする

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/04(月) 02:16:52.39 ID:q/sXRUjK
鎌倉公方は関東では威勢を振るったし、衰えてからも神輿としての役割は非常に大きかったよ。

伝・「鶴姫所用・紺糸裾素懸威胴丸」

2015年12月21日 07:52

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/20(日) 18:34:17.21 ID:0xWi4/0S
愛媛県大三島の大山祇神社が所蔵する鎧に「紺糸裾素懸威胴丸」(重文)があり、
神社はこれを、戦国時代に大祝家の鶴姫が大内水軍との戦いに際して使用したもので、
「女性用の鎧」だとして宣伝しており、世間もこれを広く受け入れている。
その鎧の胴体は胸回りが張り出して腰が細くすぼまり、いかにも女性の体つきを思わせる。
しかし、古くからそう伝えられてきたわけではなく、この話が登場したのは昭和41年、
大祝家末裔で大山祇神社の関係者だった三島安精の素朴な思い込みに始まる。
三島はその胴丸の「いかにも」な見た目から「これは女性用の鎧に違いない!女じゃなきゃ着られない!」
と推測し、その使用者が誰だったかを探求した結果、『大祝家記』なる古記録に出てくる鶴姫という女性が、
その鎧を着たのだという筋書きで『海と女と鎧』という小説を書いて出版し、これが後で流布していったわけだ。
この話が有名になるのに一役買ったのが『図解 日本甲冑事典』などの著者である笹間良彦で、
彼が件の胴丸を着けた鶴姫の絵を描いて神社に奉納したらそれが大受けして土産物の包装紙やラベルに多用された。
けれども、『海と女と鎧』のベースであるはずの『大祝家記』は「門外不出」の書として公開されず、
しかも現在は所在がわからないという検証のしようがない代物で、偽書、創作、虚構を勘ぐりたくなる。
肝心の胴丸のほうも、一見すると確かに「いかにも」女性用だが、戦国期に作られた胴丸・腹巻は、
息をしやすくするために胸を大きく張ってスペースを確保し、重量を腰にも配分するためにウエストを絞り、
結果逆三角形の強い形状に変化していったのが当時の傾向であり、女性用として作られたという説は正しくない。
現在話題になっている徳川美術館の「しかみ像」の逸話のように、軽い思い付きや思い込み程度の話が人気を獲得し、
どんどん話が肉付けされていき、あたかも本当であるかのようにまでなってしまったというのが、
「鶴姫所用・紺糸裾素懸威胴丸」の実際のところである。



親実派の怨霊

2014年04月26日 18:49

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 04:25:13.55 ID:iOXbuZnl
親実派の怨霊

天正16年10月、長宗我部元親の怒りを受けて吉良親実が小高坂で切腹をした

この夜親実は小高坂の下村某という侍の家で碁を打っていた
すると元親の使いという者が現われ「殿(元親)の命である。今宵腹を召されよ。我等が検分と報告を承った」
と親実に主命である事を告げた

親実は打ちかけの碁石を置くと
「私は殿(元親)が過っている時には諫め正すのが務めであった。だが心無き者らが殿を誤らせ、
この私を殺そうとしている。長宗我部家もこれまでか」と腹を切り、腸を掴み出した処で首を落とされた

しかし元親の怒りは親実の切腹だけでは収まらなかった

数日の間に親実と親交深かった者や親実の旧臣ら七人が主命の下に続けて弑された



それからしばらくの事
小高坂や親実の墓の辺りに夜毎に人霊が現われるようになった

また小高坂では首のない侍が白馬に乗る様や、僧形の巨人が闇夜を歩き回る姿が目撃された

物の怪を見た者は日を置かずに高熱に犯され、いたるところで大病人や変死者が続出した

親実の処刑を元親に讒言したとされる久武親信の家にも変事が続き
八人の子が次つぎに発狂して七人までが死に、親信の妻も悲嘆のあまりに自害をして果てた

人々はこれを罪なく命を奪われた親実派の怨霊の業だと囁きあった

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 04:45:48.00 ID:iOXbuZnl
まとめの

吉良親実と「七人ミサキ」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2288.html

久武親直の讒言と吉良左京進親実の祟り
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2370.html

とは微妙に異なる話

他に怨霊を恐れた元親が親実の葬儀を行ったところ
親実と家臣らの位牌が踊り出したり宙を舞ったり、
空から親実らの笑い声が聞こえてきたりする逸話などが複数ある模様




96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 07:13:02.49 ID:pYbjAHw+
久武が悪く書かれ過ぎだな
実際は元親の更年期障害が原因だというのに
悪者は主君ではなくいつもお側にいる忠臣

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 10:06:08.32 ID:AFZuOKes
えっ、親直じゃ無くって親信なのか?

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 11:12:52.59 ID:iOXbuZnl
>>97
うん。大高坂←→小高坂とか、讒言の内容も甥・姪の婚姻は不吉だとか盛親への家督相続は
長幼の序に逆らうだとか、久武と吉良の善悪の扱いが異なったり、吉良が掃討されなきゃいけない程
家中で強い権力をもってたとか、
吉良の墓は土まんじゅうに塔婆を立てた粗末なもので柵で隔離されてたとか、位牌が7~8並んで行進したとか、
関連人物名が違うとか

派生型がそこそこ出てくる

四国の乙姫の話をしよう。

2014年04月24日 18:54

63 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/23(水) 18:30:41.46 ID:Nj2dELrq
四国の乙姫の話をしよう。

伊予の三間に土居清良という戦上手の殿様がいた。
そして清良の娘に、乙御前という名のそれは美しい姫君がいた。

ある時、乙御前に縁談があり野村の豪族、保堂新左衛門に嫁ぐことになった。
いよいよ輿入れの日、どうしたわけか一向に保堂家より迎えが来る様子がなく、とうとう夜になってしまった。
繊細な乙御前は、さては破談になったのかと心を痛め、世をはかなんで髪を下し尼の姿になってしまった。

しかし、明くる日になると、もう来ないものと思っていた保堂家よりのお迎えの行列がやってきた。
なんでも昨日は行列の前に不吉の兆しがあり、日を改めて来たのだという。
これには清良も困ってしまった。
前もって連絡を寄こさない保堂家に腹も立ったが、結婚とは縁起の良さを重くみるものであり、保堂家に強く抗議するわけにもいかない。
たった一晩で姫を尼にした土居家に非がないわけでもない。
思い悩んだ清良は、姫にかつらを被せて嫁がせることにした。

つづく

64 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/23(水) 18:34:22.33 ID:Nj2dELrq
つづき

美しき花嫁の姿に婚儀の宴は大いにもりあがり、清良の作戦はうまくいったかと思われたが、夜になり乙御前が休んでいると、かつらが取れてしまった。
そこへ折悪しく保堂新左衛門がやってきて、髪の毛一本も無い姫を見てしまった。
これに保堂新左衛門は激怒し、
「尼を嫁にもらうつもりはない!」
と乙御前を追い出してしまった。

そして乙御前は来た道を三間へと帰ることになったが、繊細な乙御前は傷心のあまり滝壺へと身を投げてしまった。
そして姫の後を追い、下女や馬も次々と身を投げた。
このことにより、乙御前が身を投げた滝を「乙御前の滝」と呼び、かつらが流れて行った川を「桂川」と呼ぶようになったという。
下女が身を投げた「下女ヶ淵」馬が沈んだ「馬淵」も同様である。

乙御前を憐れんだ村人たちは、「乙姫さま」として祠を作り、乙御前の霊をなぐさめたという。




65 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/23(水) 18:38:21.15 ID:Nj2dELrq
まぁ、現在でも結婚となると大安がどうの・・・とか言いますし
まして当時の婚礼は縁起をかついだんでしょうね。

婿の名前は宇都宮乗綱のバージョンもあります。

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/23(水) 20:48:58.88 ID:XBFGJ3+R
心に決めた思い人がいたのか相手が醜男だったんだろうな
尼になれば破談になると思ってたんだろう

67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/23(水) 21:40:16.82 ID:nF1V7OSh
なる保堂

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/23(水) 22:09:32.03 ID:a7yIlisV
それだったら尼で押し通すんじゃなかろうか

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/23(水) 23:11:37.32 ID:kRVVR4bO
尼でも女、それが戦国の政略結婚です

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/24(木) 00:46:32.40 ID:ZKXY3hr0
秀長「尼を嫁にするとか無いわー」

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/24(木) 20:28:35.45 ID:yw+OwBIs
>>66
なぜ死んだし

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/24(木) 20:53:21.95 ID:505CZroZ
>>70
徳川家光 「尼はいいぞ」

四国の戦乙女の話をしよう。

2014年04月18日 18:23

9 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/18(金) 12:54:24.30 ID:HRysnx+z
四国の戦乙女の話をしよう。

伊予の国、総津の地に立花城という城があった。
最後の城主は大野直周(直昌)と伝わり、長曽我部に攻め滅ぼされたとも、
秀吉の四国攻めで滅んだとも言われている。
一族は猿谷(仙波渓谷)に落ち延び庄屋になった。

落ち延びた一人に大野直周の娘がいた。名を芳我台(はがたい)という。
芳我台は成長すると、容貌醜く、素晴らしい怪力と暴力性を併せ持つようになった。
そして男装して関ヶ原に出陣し、大活躍して沢山の褒美を手に村に帰った。

しかし、芳我台の武威と暴力性を恐れた村人たちは
「次は俺が襲われるのではないか、酷い目に遭わされるのではないか」
と疑心暗鬼になり、とうとう芳我台の寝こみを襲って殺してしまった。
その死に様は、片目が潰れた凄まじい形相で、最期に
「片目の蛇に生まれ変わり、七代お前たちに祟りをなす」
という恐ろしいものだった。

それから暫く後、村には片目の蛇が出るようになった。
その蛇を見た者は、病に臥したり、不意の事故に遭ったりした。
これは芳我台の祟りに違いなしと村人は芳我台を芳我大明神として祀った。
すると祟りは治まったという。

芳我台が持ち帰った宝物は、今も仙波正八幡神社に納められているという。


戦う姫が美しいなんて誰が言った?

10 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/18(金) 13:08:33.27 ID:HRysnx+z
9の立花城に由来するものに千人塚がある。
余談ではあるが、合わせて紹介したい。
以下は案内板の文章。

千人塚
天正13年7月、豊臣秀吉の四国征伐が行われ、長曽我部軍に敗れた総津立花城の将兵は、野地越えの
「千人成」に退いた。
だが衆寡は敵せず多くの戦死者を出し、その遺骨を集めて葬ったのがこの「千人塚」である。
そして将兵の休んだ場所を「桜の休場」とも言う。
また、一説によればこの地に仙人が住んだとも伝えられ、「仙人塚」と称することもある。

老杉の浮根が抱ける霧の墓
            不可止

関連
伊予のマイナーな女武者
伊予のマイナーな女武者の最期



11 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/18(金) 18:46:25.14 ID:sc68QPd1
>>9
井伊直虎、甲斐姫、誾千代もそんなんだったんじゃないかなと
ジャイアンの母ちゃんみたいな…

13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/18(金) 19:53:38.39 ID:Hh03wPku
顔の不自由な姫はごまんといただろうが、さすがに凶暴と表現されるようなのは見たことがない
ゴリラに鎧着せたような感じだったんだろうか

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/21(月) 22:50:31.31 ID:tFt7Us4E
>>11
大して名門でもない成田の娘がラスボスコレクションになってる時点で美人

45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/22(火) 03:32:04.91 ID:c9ZjV2mH
>>13
お前はゴリラさんを誤解している
ゴリラが凶暴だなんてとんでもない!寧ろ臆病で繊細なんだぞ
動物園で飼われていたとあるメスゴリラは尻尾のない子猫を可愛がっていたが
元々病弱だったその猫が死んだ時、涙を流して悲しみに暮れ、食事も摂らななり餓死寸前にまでなった

野生のゴリラも胸板を叩いて(ドラミング)縄張りへの侵入者を威嚇するのは戦いたくないから
傍でクラッカーを鳴らしただけで音でびっくりしてショック死するくらい繊細なんだぞ

武田信治は伊予国に住み

2013年07月25日 19:55

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/23(火) 23:15:46.76 ID:MDDnDXwB
武田信治は伊予国に住み、河野四郎通直に属した。
通直の死後、信治は仙石越前守秀久に付いて豊臣秀吉に仕えようとした。

秀久は先に秀吉の命により、大友氏の加勢となって豊後国に至り、
島津の兵と戦って利を失った。この時、秀久は信治に救われて逃げることができたので、
この事が露見するのを恥じて、信治のことを秀吉に讒言した。

そのために信治は高野山に逃れ、その妻子を安芸国竹原に隠した。
その後、織田信雄が伊予国に下向の時、信治はおもむいてこれに属した。
信雄は土方雄久と天野雄光をもって秀吉に請い求め、信治を剃髪させてその死を償はせた。

信雄が京都に帰る時、信治はこれに従い、終身扶助を被って死去した。

――『寛政重修諸家譜』




759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/24(水) 01:17:16.66 ID:igpQpala
ググってみれば、この人若狭武田の流れなんだな
系図の書き換えがどうのと子孫の人のHPにあったが、それが正しければ武田元明の従兄か従弟なのか

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/24(水) 02:18:18.51 ID:TmkU2EJ9
仙石はやっぱりクソだなって話?

761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/24(水) 02:32:07.35 ID:0WfaAUvp
武田信治でググると武田真治と穴山勝千代ばっかり出てくるな

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/24(水) 20:49:20.26 ID:aUKSJxzL
安芸武田家、若狭武田家でググったら

安国寺恵瓊:安芸武田家
蠣崎信広:安芸武田家5代目(若狭武田家2代目)武田信賢の息子とされる
木下勝俊(長嘯子):武田元明の息子という奇説あり

どこまで本当だろ

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/24(水) 20:57:50.13 ID:igpQpala
いくら奇説とはいえ、1569年生まれの人間が1562年生まれの人間の息子ってことはあんまり無いだろうww

土佐本山城の奇異

2013年01月19日 19:56

203 名前:1/2[sage] 投稿日:2013/01/18(金) 22:06:04.11 ID:9r6Gn5yu
本山梅慶入道(茂宗)といえば、その当時「土佐七雄」の中でも最も勢力が大きく、
「其器傑出して、偏に興立の志ありければ、近辺の金銀衣食を与へて是を懐け、諸士に賄を厚くして
親みをなし、遂に人数を催して、土佐・吾川両郡に発向して、随はざるをば攻亡し、降を乞ふをば、
免して幕下になし、両郡く打摩け、猛威を振ふ事甚し」
と言われた傑物であり、長宗我部国親の成長を押さえつけた最大の障害でもあった。

永禄元年(原文ママ)六月十一日の早朝のこと、本山梅慶入道が庭の木々の梢を見ると、そこに
年の頃17・8程の美しい少女が、鮮やかな衣装を着て、松の梢に立ち、梅慶を見て
ニッコリと笑った。

梅慶はこれを見るや「誰か有る!弓を持って来い!」と声を上げ、若侍が何事かと急いで弓矢を揃えて
渡すと、梅慶弓を構えてその少女を狙う。が、少女の姿はかき消すように消え、虚空にただ笑う声が響き、
それは城に程近い、朝倉の宮の方へと消えていった。

4.5日ばかり後、城の大手に植えてあった杉の大木の根から火が燃え出た。
見る内に数百本に燃え付いて、黒煙が天を覆った。
人々は驚き、「水だ!熊手だ!」と騒いで近づいてみると、それは火ではなかった。なんと、
杉の枝々から、血が流れ出ていたのだ。
集まった人々は皆、真っ赤に染まって帰っていった。

このような不思議なこともあるのかと、上下の者共、囁いていた所、ある夜女の声で、
数百人ほども踊る音がした。

『これを聞けば、本山はまた本山になる』

と歌っていた。その夜は月明かりがあったのに、踊っている者達の姿は全く見えなかった。

その次の夜、2・3千人の声にて鬨の声が上がり、大石大木を崩す音がした。すわ!敵が寄せてきたか!
城内の上下の者たち、大いに騒いで城の外に出てみてみたが、人影すらなかった。

途方に暮れた本山の人々は、これはきっと天狗の仕業である、遠行寺において大般若経を真読あるべし、
ということになった。

やがて準備が整い、住持が真読を行うため、仏前に向かって勤行していると、どこからともなく、
大きな鼠が一匹、燈明の油注ぎの中に飛び込み油に浸り、そうして本堂の棟木に駆け上がり、身体を
擦りつけてまた走り下りて油に浸かり、再び棟木に擦りつけた。このような行為を行うこと、
百度あまりに及んだ。

204 名前:2/2[sage] 投稿日:2013/01/18(金) 22:06:40.53 ID:9r6Gn5yu
住持は不思議に思い、鼠の行動を目も離さず見守っていたが、鼠はまた来て、尻尾に火をつけ棟木に上がると、
たちまち火が付き猛火となった。

同宿の下部らは驚き騒いだが、住持は「これは、自滅の時が到来したのだ!経台を始め、寺の物一つも
持ちだしてはならない!このまま焼き捨てよ!」と言い、本尊の薬師如来だけは同宿に背負わせ、
寺の方を振り返ることもなく朝倉まで走った。
歴史と格式ある遠行寺はこれにて焼きつくされ、灰燼となった。

朝倉の宮の神主は、逃げてきた遠行寺の住持よりこれを聞いて驚き、

「これは只事ではない、当社の祟りなのだ!
それは何故かといえば、かつて、何のためだったかも解らないが、梅慶の下知によって、
この宮林の木を伐らせたことが会ったのだ。

この時私が出て、『神木を伐られるとは、一体どういうことでしょうか!?』と申し上げると、
梅慶殿は『これほど茂った林から、僅かばかりの木を伐ったからといって、どれ程の事があるものか。
それも神が惜しんでいるのではない、神人たちが私の心で惜しんでいるにすぎないのだ。

しかし、もし神が本当に惜しく思われたとしても、この梅慶はここの領主である、少しは
許してもらえるだろうよ。』と、大笑いされた。

なんと恐ろしいことであろうか。この宮林は大昔、斉明天皇の時代、当時の皇太子であった天智天皇、
そしてその弟君の清見原王子(後の天武天皇)が天皇の命により伐採したため、祟を受け、斉明帝は
間もなく崩御されたのである。

天子ですら宮林を伐採したために祟があったというのに、いわんや凡下の身である梅慶が、
奢侈のあまりに神木を伐るなど、どうして神意に背かないで済むだろうか。
なんと恐ろしいことだろう。」

と、語ったそうであるが、はたしてそれから間もなく、本山梅慶も死去したのだという。
(土佐物語)

本山城の奇異、という逸話である。




205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/18(金) 22:51:05.09 ID:vqvnAQxv
>>204
土佐は迷信深い地域なんだなぁ…

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/18(金) 23:19:40.48 ID:EugR66oG
美少女は大切にしましょうというお話

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/19(土) 02:21:42.76 ID:xrxrjIIm
美少女を射るなんてとんでもない

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/19(土) 09:51:10.91 ID:o45zFqcb
祟りが回りくどい上にお城じゃ無くてお寺焼いちゃうとかちょっと

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/19(土) 10:25:23.61 ID:dPgtRPnc
あの辺って、いまも民間に潜った陰陽の末裔がいなかったっけ?

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/19(土) 10:47:46.18 ID:kWAbT5Np
阿波には忌部氏がいるが土佐はどうだろ

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/19(土) 14:38:14.20 ID:8RQmEhTO
女装した元親さんとか

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/20(日) 12:18:30.11 ID:1ig2Tq6e
>>210
戦国時代の長宗我部家には芦田主馬太夫という陰陽師がいて、
現在もその流派が「いざなぎ流」と呼ばれてる。

讃岐三谷氏通名由来

2010年10月30日 00:00

6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/29(金) 18:00:47 ID:4QJyzayn
後花園天皇の時代、永享(1429~40)の頃の事だそうだ。

その頃、京では夜、西洞院通より怪鳥が飛び来たり、禁裏の殿上にとどまり光を放つ、という
怪異があった。主上はじめ禁裏の人々これに大いに驚き賜い、数夜にわたってこれが続いたため
ついに公卿達によって詮議が行われた。

「上古、源三位頼政が鵺を射たためしがある。この度も武家に命じて射さしむべし。」

すぐに将軍家へと勅使が立った。

その頃京に参勤し将軍家に将軍家に仕えていた者の中に、讃岐の住人、三谷弥七景春があった。
彼は当時、射手として類なき精兵と知られており、将軍家は彼を派遣することとした。

彼は参内し殿上の床に上って、怪鳥の来る時刻を待った。
しばらくすると怪鳥飛び来たり、禁裏の上まで来るとまばゆい光を発する。

三谷弥七景春心中に神明の擁護を祈り、これに、射る。

射応えあり。

矢は誤たず当たり、怪鳥は地面へと落ちた。

三谷景春はこれを確認しようと階を下らんとしたところ、段を踏み外し下まで落下してしまった。
それを見た公卿が

「そなたは怪鳥を射落とす程の者、心遅れるようなことはないだろうに、
今階段から落ちたのはどういう事か?」

と尋ねると景春

「不詳の身の私が参内をいたしただけでなく、階上にまで登りました。
その事を恐れたゆえに計らずも落下してしまったのです。」

そう答えた。
この事は帝の叡聞に達し帝感美ましまし、昔の頼政が官位であると、三谷弥七景春を
兵庫頭になし賜い、これより兵庫頭と弥七が、三谷家の通名となったそうである。

三谷氏に伝わる、通名についての伝承である。




8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/29(金) 20:50:06 ID:auyGLiEU
ものすごくいい加減に官位やるんだな

9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/29(金) 20:53:49 ID:8ZNC1BDz
猫&犬「陛下のペットなんで官位持ちですwwフヒヒwwwwサーセンwwwww」



10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/29(金) 21:22:32 ID:9aBb5P9U
官位というとこんな話が。江戸後期なのでおもいっきりスレ違いなのだが参考までにw


天明元年(1781)、姫路城主の酒井雅楽頭(忠以)は将軍の命により上京することとなった。

ところでその頃、忠以は狆を大変に愛玩して数匹を飼い、その中でも特に気に入った一匹に
いたっては、どこに行くにも連れて回っていた。であったが今回の上京は将軍の命による
公の重き御用であるため連れては行けぬと、江戸の屋敷に置いていくこととした。

ところが出立の日、この狆が駕籠の廻りを離れず、隙あらば主人の居る中に入ろうとする。
近習の者達駕籠に入れてはならぬとこれを防いだが、あるいは吠えあるいは噛み付き、
なかなか手に余る抵抗を示した。

困った忠以は
「とにかく品川の駅まで連れていこう。品川から返してしまおう。」として、
品川に着くとそこから返そうと色々と手を尽くしたが、先と同じく狆は頑強な抵抗を示し、
如何ともしがたく返すのを諦め、ついに上方まで連れていった。

さてさて忠以が京に着くと既に彼の狆のことは話題になっており、帝の叡聞にまで達した。
そして

「畜類ながらその主人の跡を追う心の哀れなり」

とて、六位を賜ったのだとか。

これを聞いて、いたずら事を好む殿上人の口ずさみだろうか、あるいは京童が言ったことだろうか、
こんな狂歌が出回ったそうだ

『くらいつく 犬ぞとかねてしるならば みな世の人の うやまわんわん』

右は根拠のない話ではあるが、当時所々で取りざたされていたので、ここに記す。

『耳袋』より



12 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/29(金) 22:32:03 ID:XD/8lSBN
カリグラ帝「我が愛馬インキタトゥスよ、将来執政官にしてやぞ」

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/29(金) 22:37:05 ID:zL7vx2/c
>>12
僕のインキンタムシも執政官になれますか?

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/29(金) 22:48:01 ID:XD/8lSBN
>>14
つ横光利一「ナポレオンと田虫」
頑張って皇帝になってくれ

讃岐京極家とニッカリ青江

2009年10月08日 00:18

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/07(水) 11:04:11 ID:hjC9vi2O
ファンタジー方面から不思議な名刀のお話

讃岐京極家にはこんな狂歌が残る。

京極に過ぎたるものが三つある ニッカリ茶壺と多賀越中

多賀越中とは佐々木京極氏が近江にある頃から仕えた重臣で、
代々多賀越中某と名乗り、江戸時代は家老職を務めた。

茶壺とは京極家と関係の深かった野々村仁成作の茶壺で、
京極家所蔵だった茶壺の中には重文、国宝指定されているものもある。

最後の一つであるニッカリ青江は備中青江貞次作。現在は丸亀市立美術館所蔵。
このニッカリという名前には逸話がある。

近江蒲生郡のとある領主・中島修理大夫は、
領内に物の怪が出ると聞き退治することにした。
た。
その夜分、子を抱いた女が現れた。
女は子を下ろし、ニッカリと笑いながら「殿様に抱いてもらえ」と言うと、
その子が修理太夫に向かってきた。気味の悪さを感じた
修理太夫は、にわかに首を刎ねた。
すると女も「私も抱いて」と迫ってきたので、これも首を刎ねた。
翌朝、その場所に行くと、石塔が斬られて落ちていた。

このことで、斬った化物の顔から
ニッカリ青江と呼ばれるようになった。
また、慶長7年(1602)、完成した讃岐丸亀城において、
築城を担当した大工が些細なことで死罪となった。
その後、大工の祟りで、この地を領する大名・生駒家は
減封の上、僻地に飛ばされ、代わりに入ってきた
山崎家も断絶した。
そしてやって来た京極家は家宝「ニッカリ青江」のお陰で
祟りに遭わず、明治維新まで大名として存続した。

そんな魔除けの名刀のお話。


参考
浅野長政の家臣と「ニッカリ青江」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7063.html


176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/07(水) 11:12:18 ID:uj6riz2x
ちょっと宇土に行ってくる。

百段で。

177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/07(水) 11:14:54 ID:uj6riz2x
って書いてる間に新ネタが!>>175ゴメン。
ついでに丸亀にも行ってくるわ。蜻蛉斬り持って。

徳島市、応神の武者の幽霊

2009年10月06日 00:14

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/05(月) 10:38:00 ID:NYduEGeO
>>53のジャンジャンで思い出したので書き込んでみる


徳島は応神には、田畑の中に多くの土饅頭があった。
これらはすべて、戦国時代の合戦において討死した武者の墓なのだそうだ。

この地では夜になると、あちらこちらの土饅頭の下から、鎧兜に身を固めた侍が出てきて
走り回る事があった。こう言う夜は

 「ジャン、ジャン、ジャン、ジャン」

と、鎧のこすれる音が聞こえてくるので、この音が聞こえてくると村人達は家の中に逃げ込み、
恐ろしさに震えていたそうだ。

ある晩のこと、隣村に行っていた村の者が、用事が遅くなったため、すっかり日の暮れた道を
急いで戻っていた、すると

 「ジャン、ジャン、ジャン、ジャン」

向こうから火の玉が群れてやってきた。

この者、あまりの恐ろしさに、土下座して「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と唱えていると、
足音が止まって、侍が

「何をしている?早く行け!」

と、声をかけた。
しかし村人が恐怖のあまり動けずにいるのを見ると、「御免こうむる」と言い、
村人の頭の上を、次々と火の玉が飛んでいった、と言う事である。

そんな、徳島に伝わる昔話。




180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/05(月) 12:42:54 ID:o4un95lw
>>172
なんか親切な感じだなその霊w

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/05(月) 12:57:43 ID:371efoB6
>>172
むしろいい話だ

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/05(月) 13:17:05 ID:MbXPHpph
>>172
  ジ   ジ /
ジ ャ  ャ Z 幽 げ
ャ |  /  / 霊 え
| ン ン   フ  っ
ン_____  ̄ ̄)/
∠∥∥ニ∥三ヾィろ__
∥∥∥/∥二二||、三/
∥∥‡_‡__||」∥∥
∥‡iヽ (ノ⌒<|||∥∥
‡ ハo/ ヾoフ ||ハ∥∥
  iヽ  ̄ ||ノ‡‡
  ∧ハ ̄ヾ、U||ヽ
  |∧  ̄~リ/|| ∧
  ||∧川///||/ \
`/||| ツ // ||  /
/ ||| | // ||ヽ/
ヽ/||| |// /|| L/

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/05(月) 14:49:14 ID:Cmn1c8GH
久秀「落ち着け。幽霊など居ない」

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/05(月) 15:12:38 ID:rMr+bwtk
>>183
久秀の妻「あらあなた。お茶にします、お風呂にします、それとも…」

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/05(月) 17:38:17 ID:vT9xCZsc
>>172
> 「御免こうむる」
普通に良い人じゃないかw


土居清良「岡本城攻防戦」

2009年09月14日 00:19

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/13(日) 19:54:12 ID:YWwZFBYi
天正二年、四国統一を目指す長宗我部元親は三間大森の国人で
西園寺家の家臣、土居清良の城、岡本城を攻めようとしていた
土居清良は当時の土佐の国人としては珍しいくらいのインテリで、農業書の著者としても
知られているが三間大森は狭い小さな国であり、土佐の一条の侵略からいつもギリギリで
国土を守っている有り様であった

圧倒的に数に勝る長宗我部軍は、まず岡本城に忍びを放ち、城内の様子を探らせた
「どうやら城内はみな前線に集中していて前線以外は手薄な様子」
報告を受け、元親は本隊の進軍を止めると、夜を待って少数の精鋭部隊を岡本城に送った
だてに四国を蹂躙してきたわけではない長宗我部軍の精鋭たちである。
その圧倒的力を前に、岡本城はあっという間に制圧されてしまうのだった

岡本城が落ちたという報告を清良は大森城で受ける
深夜の闇の中、大森城からも岡本城の火が見えた
家臣たちは当然慌てたが、清良は全く動じずに物見のものを呼ぶと
「それで、長宗我部本隊は今はどこにいる?」
と聞いた
「三間川の下流におるようです」


387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/13(日) 19:56:21 ID:YWwZFBYi
「そうか、ならば着くのは明け方あたりか……よし、出陣じゃ!全員出るぞ、
奴らがことだ、おそらく今岡本城内では祝いの宴の最中じゃろう
本隊が到着する前に岡本城を取り戻す
静かにやるぞ、気付かれぬように行け」

元々地の利は土居軍にある。
清良たちは闇に紛れて岡本城に着くと、祝い酒に酔いつぶれた長宗我部の兵たちを
片っ端から討ち取った
そして城を奪還した清良は長宗我部軍の旗を上げたまま、夜が明けて長宗我部本隊が
到着するのを待ち構えた

やがて到着した長宗我部軍は、岡本城に長宗我部の旗が上がっているのを見て、
すっかり油断して近寄ってきた
その時を待っていた清良は、自慢の鉄砲隊に命じる
「撃てええ!」
数百の鉄砲が長宗我部軍を一斉に攻撃し、ほんの一刻も過ぎた頃には、長宗我部軍は
大壊走していた。
その様を大笑しながら眺め、清良は岡本城の旗を土居軍のものへと変えたのだった。
この戦いで家老・久武親信を討ち取られた元親は、怒り心頭で何度も三間を攻めたが、
約30回におよぶ戦いのうち、一度も清良に勝つことが出来なかった

元親を苦しめた土居清良の武名は当時よく知られ、小早川隆景をして
「清良を5カ国の大将にすれば必ず天下を統一する」
といわしめたという。

まあ大半は軍記の記述なんで怪しいかもしれませんが
農業指導に力を入れた清良はその後も土地の人々に慕われ、
現在でも彼を祭った神社が大切にされているそうです




388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/13(日) 20:53:54 ID:x5UdnZOb
判官贔屓じゃないけど小さな勢力が大きな勢力を打ち破る話ってのはやっぱり気分が良いな


390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/13(日) 21:19:03 ID:iirgn29n
>>386-387
清良を「きよら」と呼んで妙に萌える名前だと思ってしまった・・・



391 名前: [] 投稿日:2009/09/13(日) 21:33:30 ID:r0KlIGqm
あれ、もう一人オレがいるぞ

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/13(日) 21:33:38 ID:MfgZ4juo
隆景から高評価とかすげーな
出身と名字からすると宗珊さんの同族かな?

393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/13(日) 21:51:23 ID:YWwZFBYi
>>392
違うみたい
ただ幼少時に大友氏に一族を討ち取られて
一条家の土居家を頼ったことはあるらしい
なんだか複雑なんで土佐に詳しくない駿河人の俺にはよくわからんが

でも土佐の土居さんはすごい人多いよな

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/13(日) 22:41:24 ID:sNUjH/MB
>>386-387
この戦も色んな種類があるよな
長宗我部側の指揮官が久武さんだったり、大きな戦役の一部だったり
また城ではなく隘路に引き寄せて鉄砲で仕留めたという話も

それくらい衝撃的な戦だったのかもね

395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/13(日) 22:48:32 ID:sNUjH/MB
あ、ついでに質問
元の軍記では天正2年と記されてたんですか?

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/13(日) 22:56:48 ID:YWwZFBYi
>>395
うん
ただ明らかに長篠を意識した記述だと
俺は思った
そのまま書いたけど

397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/13(日) 23:07:09 ID:sNUjH/MB
>>396
感謝
伊予侵攻より数年早いのはなんでだろうと思ってたけど、
なるほど、長篠を意識したってのはそれっぽい話だ
天正2年だとまだ安芸氏の残党と戦ってる頃だしね

398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/13(日) 23:26:14 ID:zQQdvakO
吉川弘文館の西国の戦国合戦だと天正7年の出来事になっているな
根拠は知らん

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/13(日) 23:28:51 ID:avWYXPq4
>>387
「土佐の」とあるから、三間大森ってどこだ?と思ったら、一時期一条氏の元にいただけで、
守ったのは伊予だったんだね。(ぎりぎり四万十川流域ではあるが)


401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/13(日) 23:50:18 ID:YWwZFBYi
>>399
ごめん伊予だった
一応国人としては伊予の人だなこれ
西園寺に従ってるし
ただ一時的に一条家にいたりして難しいんだ


414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/14(月) 21:45:26 ID:71Xw8oBh
>>387
この辺に仕事で行ってたことある。
旧 三間町、今は合併して宇和島市の一部

土居中(どいなか)という地名がある。



415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/14(月) 22:07:32 ID:5PB1mHPh
……ド田舎というアクセントで読んでしまう
地元の方すみません

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/14(月) 22:25:04 ID:5PB1mHPh
そういえば今見ていたらこんな話があった
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2371.html
こちらだと天正七年の出来事になっているね
長宗我部にとっては結構痛い敗北だったんだ
「夏草の賦」で読んだ覚えがないのがなんだか残念

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/14(月) 23:26:42 ID:Q8uQsZmS
夏草の賦を読み返してみたら岡本城の記載は5行のみで
久武内蔵助は討死ではなく重傷になっていた

その前後のエピソードにものすごーくあっさり


本山梅慶と怪異

2009年09月06日 00:28

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/05(土) 21:26:29 ID:AN2pSaBI
まだ残暑のうちに

永禄元年、土佐国朝倉でのこと
当時、国の中央部を制していた本山梅慶が、ここに居城を構えていた
初夏のある日、梅慶は庭に出て景色を眺め、楽しんでいた
ふと松の梢を見上げると、なんとそこに女が立っている
うら若く美しい女房で、梅慶を見下ろしてにっこりと微笑んでいるのだった
「誰ぞ、弓を持て!」
梅慶は叫び、何事かと駆けつけた若侍が弓矢を差し出した
それを引っ掴み、梅慶は弓を構えて梢へと向けた
が、そこには誰もいなかった
次の瞬間、女の笑い声が辺りに響き、朝倉神社のほうへと遠のいていった

数日後、城の大手に生えていた杉の大木から火の手が上がった
炎は見る見る周囲の木々に燃え移り、大火災となった
城の者達は驚き騒ぎ、消火道具を携えて駆けつけた
しかし、彼らがそこで見たのは火などではなかった
一面の杉の枝から血が吹き出し、滴り落ち、火のように見えていたのだ
集まった者達は全身に血を浴び、呆然と城に戻った

怪異は収まらない
やがて、夜になると城中で、百もの女が踊り唄う声が聞こえるようになった
「「本山は また 本山になる」」
次には、軍勢の鬨、木石を転がす音へと変わった
いずれも、城中は慌てたが音の源は見つからない

「これは天狗の仕業としか思われぬ」
本山家は恐れをなし、遠行寺という寺で大般若経を真読してもらうことにした
寺の住持は承諾し、ただちに勤行を開始した
さて、住持が経を読んでいると、どこからともなく大きな鼠が現れた
鼠は灯明の油に身を浸すと、柱を駆け上って棟に体をすりつける
これを幾度も幾度も、同じように繰り返す
住持が不思議に思っていると、やがて鼠は尾に火を移し、油を塗りたくった棟木へと放火した
火は猛然と勢いを増し、あっという間に寺を包んだ
「自滅の時が来たということか…もはや人力の及ぶところではない」
住持は寺の者達に、本尊だけを背負い、他の寺物はすべて焼けるに任せよと命じ、
振り返りもせず朝倉へと逃げ延びた
逃亡してきた僧らが事の次第を話したため、城中は一層のこと震え上がった

この後も怪異は絶えず、本山家は城外に噂が漏れぬよう気を使ったという
これより二年ほどして梅慶は死去、本山家は長宗我部家の攻勢を受け、衰退していく




41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/05(土) 21:39:19 ID:utQGHAQw
>>40
不気味な話だな。
前後の事情(本山氏が祟りを受けるような真似をしたとか)が不明なだけになおのこと。

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/05(土) 21:53:08 ID:rKj0wmbY
本山は また 本山になる
って何のことかね?

43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/05(土) 22:08:24 ID:/WmmrlGi
燃えてるように見えた血しぶき上げる杉の木とかスゲーな
映像として見てみたいわ
なんか新しい

それにしても理不尽過ぎるな…
原因不明なのがまた…

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/05(土) 22:11:44 ID:Z/C69uyL
42 本山氏の本拠地は嶺北って高知県の山間部。
   なので、高知の平野部まで進出した、本山氏も元(の)山(の領地だけに)に
なるって意味じゃないかな?

45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/06(日) 00:15:58 ID:Cvy2FF5Z
>>40
ふと松の梢を見上げると、なんとそこに女が立っている
> うら若く美しい女房で、梅慶を見下ろしてにっこりと微笑んでいるのだった

のちの姫若子である

46 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/09/06(日) 00:35:11 ID:4zAu3J9y
怪談映画が取れそうなネタだな

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/06(日) 00:43:47 ID:vvz3GU4Y
怪獣映画かと空目


59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/06(日) 10:22:03 ID:dgQSgRZm
木に斧入れると血がドヴァーというのは
ある種の菌が寄生していることで、赤い液がつくられておきると
白土三平の漫画にあった

60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/06(日) 10:29:55 ID:uH0nR18E
どうもフザリウムやロドトルラというカビの一種のせいで赤く血が出たように見えるらしいな
この記事の一番下の画像なんかそれっぽいわ
ttp://kinoko-nikki.hariko-manekiya.com/?eid=151566

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/06(日) 11:17:30 ID:Rfh7NLIz
おおっこれはよい血の呪い


お寺の住職さんから法事で聞いた話。

2009年08月09日 00:15

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/08(土) 11:15:16 ID:taS03IFu
もと十河城(香川県)に建てられたお寺の住職さんから法事で聞いた話。

このあたりには植田党という武士団(後の十河氏などをだす)が跋扈していたが、

応仁の乱では東軍の援軍として多くの武士たちが京に上った。

このときに援軍としてはせ参じた下級武士の一人がさる大納言の姫様に恋をした。

しかし大納言の娘とあっては身分違いの恋もいいところ。彼は姫様を遠くから眺めるだけで
ある意味ストーカー。

そしてその下級武士は自分の恋心を断ち切るためにとある決心をした。

姫様の大きい方の排泄物を見れば百年の恋も冷めるだろうということで、

事後のおまるを盗んだのである。

そこでその下級武士が見たものは・・・・


なんとそこには香木がはいっていたのである。

その下級武士は貴人は排泄物まで貴いのかと嘆いて、入水自殺した。





四国の逸話が少なすぎるので、書いてみた。

ただ、これ明らかに和尚さんの創作っぽいんだよね。

地域が讃岐になっている以外は、どっかの説話集の話だったと思うし。





207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/08(土) 11:27:31 ID:Xvfv1PGF
今昔物語の三十巻の第一話かな
芥川の「好色」の元ネタとして有名

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/08(土) 11:32:11 ID:taS03IFu
やっぱそうか。まあ一番悪いのはこの話を法事の席で喜々として親族一同の前で語った
和尚さんということで…

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/08(土) 11:42:50 ID:LdoTzN3H

>>206
平安貴族の話だった気がする
排泄するときは香を焚いて水面に毬藻を浮かべたとかなんとか

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/08(土) 11:47:30 ID:Xvfv1PGF

>>208
和尚様には悪いけど、有名なエピソードだから皆知ってただろうねw
でも平安時代の色狂い貴族を冷めた目で見つめる逸話が、
戦国時代の下級武士の悲恋物語に変容したのは面白いね
穿った見方をすれば、四国の人々の京への羨望ひいては劣等感をあらわしてるとも解釈できる
かも、和尚様の即興じゃなければ

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/08(土) 12:04:35 ID:taS03IFu
書き忘れたけど、おまるのなかに香木が入っていたのは、姫様がストーキングに気づいていたからとか。
これは元ネタの方も同じかな。ただ209を読むと普段から出す時にはにおいを消すために
使っていたんだね。現代でいう消臭剤か。

213 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/08(土) 13:00:52 ID:+Ipd/xt6
>>206
十河城趾近所のうどん屋にいって来た。
うどんよりサヨリの天ぷらが美味かったのはココだけのヒ・ミ・ソ(ハァト)


216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/08(土) 14:25:29 ID:yRmBW8P/
排泄物が香木でもある意味萎える気がするなw
汚い話ですまんが、香木置いたぐらいじゃにおい消えないよな。
厠の中で焚いて充満させれば何とか・・


218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/08(土) 14:34:00 ID:LdoTzN3H
211で言っているが武者に気がついたから排泄物を見せるのが恥ずかしくて
元々厠内で焚くための香木を代わりに浮かべて偽装したんだろう

しかしあれだな
アイドルはウンコしないとメンタリティ変わらんなw
日本人は何も変わっていないようでw

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/08(土) 14:44:21 ID:yRmBW8P/
>>218
ウンコだったら萎えるし、香木だったら絶望して死ぬしで、
恋する武者心は面倒臭いなw

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/08(土) 16:12:59 ID:SYt9sGP4
>>206
女神板のうんこスレを見ている俺に好きは無かった

221 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/08/08(土) 16:46:33 ID:IUCMLHkd
>>206
神君「糞が香木を喜ぶかっ!」


久武親直の讒言と吉良左京進親実の祟り

2009年07月05日 00:12

973 名前:八人みさきと久武親直 1/3[sage] 投稿日:2009/07/04(土) 13:01:32 ID:0RBfpCEO
久武親信の話が出たので、奸臣と名高い弟・久武親直の話を。
あ、それにかこつけて怪談話するから苦手な人は逃げるようにw

1588年(天正十六年)、長宗我部元親は長年本拠としていた岡豊城から
新たな拠点として大高坂城(現・高知城)を築き、そちらに映ろうと考えていた。
これを機会に後継者問題も決着しようと、その普請が続く最中に評定を開き
後継ぎに千熊丸(後の長宗我部盛親)を据え、その正室に先年戸次川で討死した
長男信親の未亡人を娶らせるという方針を発表する。

これに反論したのが元親の婿であり甥にあたる吉良左京進親実である。
併せて、彼の同族にあたる比江山親興も反論に転じた。

親実>>『三男の孫次郎様(津野親忠)が健在なのに四男の千熊丸様を据えるのは
    長幼の序に反し御家の乱れとなりまする!!(#゚Д゚)』
親興>>『それに、兄の未亡人を正室に迎えるなどと…人倫の道に外れますぞ!!(;゚Д゚)』

その二人を制したのが、久武内蔵助親直である。実は親直、以前に仁淀川の畔で木材監督を
して居た際、その場に現れた親実を無視したことがあり、それに怒った親実から
頭に被った笠めがけて矢を打たれるという暴挙を受け、ずっと根に持っていた。

親直>>『御家の事は御家の頭領が決めるのが一番良いに決まってる、常識的に考えて。
    差し出口を挟んじゃねーよ鬱陶しい。(*>ヮ<)』
親実>>『あァ!?言うじゃねえか内蔵助!!御家の頭領が人道外れた真似をしてるのに、
    それを諫めないでどうするんだ。お追従いうとか言語道断だぞ!!』

元親は二人の口論を不興に思い、そのまま評定の席を立った。内蔵助はこれが
恨みを晴らす好機と見て、元親に親実の悪口雑言、あること無いことを讒言し続けた。
吉良親実が出仕停止、そして死を賜ったのはそれから間もなくの事だった。

親実>>『そうか、そうか。人の命運が尽きると、左前になって坂道が多くなるという。
    坂道で家が真っ直ぐに立つ道理がどこにあろう。長宗我部の家もあと五・六年じゃのう…。』

吉良左京進親実はそう言い残し、静かに自害して果てた。
親実の他に死を命じられたのは比江山親興・永吉飛騨守・宗安寺真西堂・吉良彦太夫
城内大守坊・日和田与三衛門・小島甚四郎・勝賀野次郎兵衛実信の八人。

比江山親興は家族六人を逃がしたのちに自害、家族達は長福寺の住職を頼って
逐電し、住職もまたこれを匿ったが…植田という村の者が報奨金に目が眩み
これを長宗我部家に訴え、まもなく六人の家族は皆殺しにされてしまった。

長福寺の住職は、親興の遺族が処刑される場で気違いの様に叫び狂った。

住職>>『この見物人の中に植田の村の者は居るか。あぁ、なんという人非人であろう!!
    殺されていく罪も無い者達が可哀想とは思わぬのか!!
    この恨み、末代まで忘れぬぞ!!m9っ;・`ω・´)』

住職はその場で切腹して果て、次いで親興の家族六人の首が飛んだ。
今でも、親興他七人が眠る地に植田の者が近づくと祟りがなすという。


974 名前:八人みさきと久武親直 2/3[sage] 投稿日:2009/07/04(土) 13:12:01 ID:0RBfpCEO
さて、親実他八人が死んでしばらくしたある夜の事、仁淀川で渡守をしていた
常七は、川の向こう岸から大きな声で呼ばれ目を醒ました。

常七>>『ンっだよ面倒臭いな、こんな真夜中に…。』

愚痴を言いつつ向こう岸まで舟を漕ぎ、さぁどうぞと客人に言うと…。
確かに舟が軋み、何人かの者が乗り込む気配がしたのだが…姿が見えない。

勝賀野実信>>『はよう向こう岸にやってくれ。』

声がした。常七は顔面蒼白になり、魂も失せた様子で急いで岸を渡らせた。
そして、向こう岸に着くと…今度は確かに、舟から誰かが降りる気配がした。

勝賀野実信>>『此方は、吉良左京進様じゃ。大高坂に居る不義奸侫の輩に
       目に物を見せてやるとお越しになるところじゃ。帰りにも
       この舟を使うので宜しく頼むぞ。なお、不思議な話が大高坂から
       聞こえてくるであろうが、その方には何もお咎めは無い。安心して良いぞ…。』

姿の見えない八人の気配が去ると、常七は全力疾走で渡守小屋へ逃げ込んでいった。

…―それから間もなくの事…大高坂では奇妙な噂が続出するようになった。
比江山親興の屋敷に鬼火が出た、吉良親実の屋敷近くでは鉄炮のような
火の玉が飛び、当った者が頓死した、ets、ets…。
そんな最中、久武親直の屋敷でも奇妙な事が起こった。

親直の末子…まだ五・六歳だった少年が屋敷内で犬と遊んでいたところ、
邸内に植えられていた松の木の傍から五十路ほどの老女が現れ、その頭を撫でた。

老女>>『綺麗な若様じゃの…。』

次の瞬間、少年は大声で泣き喚き…そのままひっくり返って動かなくなった。
屋敷内は蜂の巣をつついたような大騒ぎになり、間もなく加治祈祷の為に
僧侶が呼ばれ、お経が唱えられたが…その最中、今まで微塵と動かなかった
少年が不意に起き上がって、狂った様に叫んだ。

少年>>『悪臣を生かして置いてたまるか!!奸臣は生かして還さんぞ!! (;゚Д゚)』
僧侶>>『 ! ? ( ・ ( , , ェ ) ・) 』

少年>>『悪臣を生かして置いてたまるか!!奸臣は生かして還さんぞ!! (;゚Д゚)』

僧侶は脂汗を流して一生懸命読経を続けたが、少年は狂った様に座敷をのたうち
廻って一向に正気へ戻らない。

少年>>『悪臣を生かして置いてたまるか!!奸臣は生かして還さんぞ!! (;゚Д゚)』

少年>>『悪臣を生かして置いてたまるか!!奸臣は生かして還さんぞ!! (;゚Д゚)』

とうとう、親直の末子…少年は這いずり回った挙句に死んでしまった。

975 名前:八人みさきと久武親直 3/3[sage] 投稿日:2009/07/04(土) 13:22:39 ID:0RBfpCEO
流石の久武親直も、これには色を喪って恐れた。少年の葬儀と禍祓いを兼ね、
それから七日七晩祈祷を行わせて…七日目の夜が来た。

仏壇の前では、徳の高い僧侶が読経を続けていて…内蔵助は妻と共に
亡くなった末子の事を話し合っていた。妻の瞳からは涙がこぼれている。

そんなとき、隣の部屋から声がした。久武親直の嫡男、十二・三歳になる
男児の声に間違いなかった。

嫡男>>『南無阿弥陀仏』

いそいで親直夫婦が隣の部屋に行くと、嫡男は腹に短刀を突き刺して苦しんでいた。
慌てた親直、短刀を握ったほうの手を掴んで喚いた。

久武親直>>『なぜじゃ、どうしてこんなことをしてくれたッ!!(´;ω;`)』

すると、嫡男は一言…こう囁いた。

嫡男/吉良親実>>『元 親 公 の 御 諚 で 検 使 が 二 人 来 て 、
           詰 腹 を 切 ら さ れ た か ら で す 。 (il゚Д゚)』

その晩のうちに、嫡男は死に…二人の息子を失った久武親直の妻も発狂して死んでしまった。

久武親直の子は全部で八人あったそうだが、無事に育ったのは一人だけ。その子もまた、
長宗我部家滅亡後に親直と一緒に日向に逃げ、土佐に残ることはなかった。

長宗我部元親が大高坂城から浦戸へ逃げるように拠点を移したのは、三年後のことだったという。

そんな久武親直の、(背筋がゾっとするような気味とばつが)悪い話。
長尺ログ失礼しました。あと、怪談嫌いの人ゴメン。





976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/04(土) 13:35:06 ID:XPjETLdV
こええええええええええorz
でも面白かった!

978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/04(土) 13:36:28 ID:0RBfpCEO
973-974
補記・吉良親実らの亡霊八人はこの後も元親を怯えさせ、元親はとうとう
親実を木塚明神という神様として祀りなおした。
以後、この八人のことを『八人みさき』と呼び、恐れ敬うようになったとさ。

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/04(土) 13:36:37 ID:u6iyPImS
戦国怖い話ですな
人の怨念という物は計り知れん

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/04(土) 14:34:54 ID:xXhQWNVc
俺には、どうみても吉良親実たちの方が悪臣の様な気がするのだが…

987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/04(土) 15:12:23 ID:nk5gA0yM
讒言して八人を殺すように仕向けたという意味では、久武親直も悪臣だけどね。
でも、怨霊らもそこまでしなくてもとは思う。

↓:これくらい爽やかになれなかったものかと・・・
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988 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/04(土) 15:20:06 ID:5o60DOOQ
本質としては、吉良ら門閥派と久武ら側近派の対立だろうから
どちらが善悪だといえることじゃないとオモ



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まだまだ祟るよ!!吉良左京進親実の怨霊
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